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「欠番覇王の異世界スレイブサーガ」

作者  園島義船



□ 第七章 「収監砦」 編 第二幕


424話 ー 433話




424話 「サナの無手試合 キング・レイオン戦 前編」


 アンシュラオンが小百合やシーバンたちと接触した翌晩、待ちに待ったサナの『キング戦』がやってきた。

 対戦情報はすでに客側にも告知されているので、朝から会場入りする者もいたくらいだ。

 通路には屋台も増設されて、まるでお祭りのような騒ぎになっている。


「もうキング戦か。すごいな。スピード出世だ」

「また運営の仕込みか?」

「そうとも言いきれないぞ。黒姫ちゃんは強かったからな。レイオンの相手をしてもおかしくはないだろう」

「それよりレイオンだぜ。あいつ、いつもならもう少し休むだろう? こんな短期間で試合をやるなんて珍しいな」

「それだけ金が必要なんじゃないのか? 対戦相手がいるなら儲けるチャンスだしな」

「また俺らから巻き上げるつもりかよ! ふてぇ野郎だ!」

「だが、ミャンメイちゃんをゲットできるチャンスだ! 可能性はゼロじゃないからな! 今回こそ嫁さんを手に入れるぞ!」

「そうだと嬉しいが…今回は条件が違うみたいだぞ? ほれ、ここ。パンフレットに書いてある」

「えーー! マジかよ! せっかく期待してきたのにやる気が削がれるぜ!」

「まあ、待てよ。どうやらまた違う趣向があるみたいだぞ」

「そうなのか?」

「おっ、出てきたぞ。まずは話を聞いてみようぜ」


 ちょうどリングの上にアナウンサーが出てきたところであった。

 客は期待の眼差しで見つめる。




「皆様、大変お待たせいたしました。本日のメインマッチ、キング・レイオンと黒姫選手の戦いがもうすぐ始まります。その前に今回のスペシャルマッチのご説明をさせていただきます。多少ルールが変わっておりますので、どうぞお気をつけください」




 リングアナウンサーが手招きをすると、四角い大きな白い箱が運ばれてきた。

 遠目で見ると小さく感じられるが、三メートル半程度の立方体なので、実際はかなりの大きさだろう。

 誰もがその箱を不思議そうに、あるいは興味深そうに見つめていた。


 なぜならば―――リボンが付いていたからだ。


 誕生日プレゼントのように箱の縦横をリボンテープで巻いてある。

 中身はまったく想像できないが、こんな演出があればどうしても期待してしまうというものだ。

 客全員の視線が集まったのを確認して、説明は続けられる。




「まずは残念なお知らせをさせていただきます。従来のキング戦ではミャンメイ嬢が賞品として出されておりましたが、今回はありません!」




「ええええええええええええええ!!」

「ひーーーーーっ! 嘘だと言ってくれーーーー!」

「俺の夢がーーーー!!」

「帰る! 帰るぞ! やっていられるか!!」

「一緒に風呂に入って背中を流してもらう夢が潰えた!」

「この世界は絶望だ!!」



 客から嘆きの声が聴こえてくる。

 それも当然だろう。レイオン戦に彼らが注目していたのはミャンメイがいたからだ。

 その目玉商品がなくなったのでは、はっきり言って魅力は半減。いや、二割以下に激減だ。

 女が目的の客にとっては見る価値もなくなるはずだ。

 だが、話がそれで終わらないことも知っているので、客がぞろぞろと帰ることはなかった。

 運営が自身に対して不利なことをするわけもない。最初にこれを述べたのは、次にそれ以上のメリットを提示するからだろう。

 何よりもリボン付きの箱の中身が気になってしょうがない。

 なぜかはわからないが、あそこには夢と希望が詰まっている気がしてならないのだ。




「皆様の残念なお気持ちはわかります。とても魅力的な女性を失うことはつらいことです。ですが、このたび新たな希望がここに舞い降ります!!」




 リングアナウンサーが、リボンに手を伸ばす。

 シュルシュルシュルッ

 ゆっくりゆっくり、もったいぶるように解いていく。




「さあ、ごらんください! これが今回の賞品だぁあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」




 カパッ バフンッ

 最初から切れ筋を入れておいたのだろう。

 軽く押し込んだだけで大きな白い箱が割れていく。


 パーーーーーーンッ!!


 まず聴こえたのは、破裂音。

 大きめの乾いた音が会場に鳴り響いた。


「うわっ!!」

「伏せろ!!」


 地下にいる人間の大半は元筋者ばかりなので、銃かと思って反射的に身を屈めてしまう。

 冷静に考えると客も選手も全員が前科者だ。なんとも物騒な会場である。

 ただし、この乾いた音は当然ながら銃声ではない。


 ハラハラハラハラッ


 伏せた彼らに舞い降りてきたのは、大量の『紙吹雪』であった。

 いわゆるお祝いの時に使うクラッカーだが、この世界、特にグラス・ギースでは馴染みがないので勘違いをしてしまっただけである。


 これはクラッカー。


 となれば、おめでたいことが起きる前触れだ。

 ピカピカピカッ ドンドンドンッ

 直後、色とりどりの光が箱の中から放出され、同時に太鼓のような音が軽快なリズムで鳴り響く。

 これも単なる複数の発光ジュエルを並べ、クロスライルのクルマにも積まれていた音を再生するジュエルを使っているだけだ。特別なことはしていない。


「あれ…? 銃弾じゃ…ないのか?」

「なんか音が聴こえるぞ?」

「リングのほうか?」

「この音は…打楽器かな? 何か妙に踊りたくなるリズムだが…」


 ここで客も、この音が危ないものではないことに気付く。


 そして恐る恐るゆっくりとリングを見ると―――


 フリフリフリッ フリフリフリッ


 そこには派手な恰好をした【女性】が、扇を振りながら楽しそうに踊っていた。

 女性の数は、六名。

 赤、青、黄、緑、紫、白のそれぞれ六色のチャイナドレスに似た衣装を着て、軽快なリズムに合わせて踊っている。

 ドレスのスリットは大きく開かれており、踊るたびに艶かしい素足がチラチラと見える。

 踊りも腰を振りながら胸や股を強調させるものであるため、相当扇情的なものに感じられた。


 視線が―――集まる。


 単に見るというレベルではない。

 多くの男性陣が、リングの上にいる女性たちに釘付けになっている。

 あまり語りたくはないが、彼女たちの魅惑的な姿に下腹部を膨らませている者もいたくらいだ。

 この地下では治安の悪化を懸念してか、ホステスや売春婦のような者は存在しない。

 それゆえに久々に見るエロティックな雰囲気の女性に対し、無意識のうちに興奮してしまったのだ。

 こればかりは責められない。哀しい男の性《さが》であろう。




「おお、なんと魅惑的な姿でしょうか! まさか地下にこのような素晴らしい天女たちが舞い降りるとは! こんな幸運な日が来たことを女神に感謝せずにはいられません!! さて、この女性たちですが―――」




 目に引き続き、全員の耳が説明に集中する。

 全神経をフル稼働しているためか誰もが声を発しない。聴くことだけに熱中しているのだ。

 学校の先生や講師だったら、これほど気持ちのよい瞬間はないだろう。

 誰もが自分の声を待ち望んでいる。心の底から続きを聞きたがっている。まさに快感である。

 そんな充実感に満たされながら―――






「なんと今回の賞品は―――彼女たちだぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」






―――「っ―――――――――――!!!」





 この瞬間、会場全体に静寂が訪れた。

 ドンドンドンという太鼓の音と、彼女たちが踊る音以外は何も聴こえない。

 それだけ多くの者たちが度肝を抜かれて硬直していたのだ。




「えー、改めて申し上げます。今回のスペシャルマッチの賞品は、彼女たちとなります。計六名、抽選にて公平に分配いたします。派閥は関係ありません。公正に抽選を行います」




「―――っ!! あ…あ? え? ほ、本当…か?」

「こ、こりゃ…なんと言えばいいのか……」

「えと…女が六人…だよな? わ、若い女だよな!?」


 ようやく正気に戻った彼らが、じっと六人の女性を見つめる。

 十八歳くらいのピチピチの肌をした女性もいれば、二十代の成熟した女性もおり、三十代前後の妙齢の女性もいる。

 年齢層としてはまったく問題がないどころか、嫁にすることを思えばほぼ完璧である。


 その誰もに言えることが―――クオリティが高いこと。


 明らかに可愛い。明らかに美人だ。明らかに身体付きが良い。

 顔も身体もかなりのレベルにあるのは間違いない。

 一人ひとりはミャンメイに見劣りするかもしれないが、それに近いレベルの女性が六人もいるのはすごいことだ。

 なにせここは地下。若いだけでも貴重なのに可愛いともなれば、もはや『超高級品』である。



 では、誰がこの女性たちを用意したかといえば―――



(うむ、ディスコとは懐かしいな。子供の頃を思い出すよ)


 アンシュラオンは、その光景を見つめながら何度も頷いていた。

 今回の演出の参考にしたのは、地球の子供の頃に世間で流行していた『バブリーな踊り』である。

 ボディコン姿で扇を持って踊りまくるという狂気の時代が、かつての日本ではあった。

 今ではなかなか信じられないが、まだバブルが弾けていない(と思っていた)頃には、こういう破廉恥なものが流行ったものである。

 もちろんグラス・ギースにこんなものは存在しないので、誰もが面食らっているようだが、効果は絶大。

 その扇情的な踊りに飢えた男たちは釘付けだ。


(わざわざ持ってきた甲斐があったな。事前に話を通しておいたからスムーズに輸送もできた。やはり地下はガバガバだな。利益をもたらす者には甘い)


 よく見ると女性たちの首には、ジュエル付きの首輪がはめられている。

 モヒカンには常時使えるように【ラブスレイブ】を用意させているので、そのストックを持ち出したのだ。

 アンシュラオンはサナが初勝利をあげた日に、すでにこの話を打診していた。

 本日運営側の快諾を得られたので、遠慮なく地下に女性を持ち込んだというわけだ。


(地下では女性に最大の価値があることはわかっていた。最初にスレイブ商を押さえていたオレの勝利だな)


 そのアンシュラオンの目論見通り―――



「か、金はある! 金はあるぞおおおおお!! 嫁をくれ!!」

「ば、馬鹿! 俺だって貯め込んだ金があるんだ!! 俺にくれぇえええ!」

「うるせえ! こっちが先だ! 何年『女ひでり』が続いていると思ってんだ!! 急を要するんだ!!」

「頼む! こっちを優先してくれ!!! このままじゃゲイに襲われちまうよ!」


 客たちが一気に食いつく。

 大勢押しかけたため、一部の客がリングに上がりそうになるほど盛況である。

 物の価値は需要と供給によって決められる。需要過多になれば当然価値も上がってくるだろう。

 今、地下で一番値が張るのは、やはり女性なのだ。




「み、皆様、どうぞ落ち着いてください! ああ、触ってはいけません! 大事な賞品です!! どうか触らないでください!! では、詳しいルールのご説明をいたします! 今回のスペシャルマッチも前と同じく、この女性たちは『黒姫選手に賭けた』お客様だけに抽選権が得られるようになっております! どうかご注意くださいませ! もちろん金額によって確率は変動いたしますので、奮ってご参加ください!!」




「おおおお! 黒姫ちゃんに全財産を投入だーーーーー!」

「なにっ!! 負けるか!!! 俺が先だああああああ!!」

「全部持ってけ!!! 遠慮するな!!」



「えー、押さないでください。どうか押さないでください。制限時間はたっぷり設けておりますので、ご自宅からお金を持ってくる暇は十分にございます」



 ある者は全財産を投入し、またある者は大切な道具を質に入れ、それでも足りない者は借金をする。

 こうして圧倒的大多数の人間がサナに賭けることになるのであった。



 ルールを一度まとめておこう。


1、六人の女性は、黒姫に賭けた客から抽選で分配される

2、女性は黒姫が勝った場合のみ分配される

3、黒姫への賭け金は戻ってこないが、賭けた金額によって当選確率は高まる

4、賭け金の総額から運営側に四割が渡され、残りの六割は試合の勝者に与えられる


 基本的なルールはミャンメイが賞品から外れただけで、レイオンが今までやっていたものと大差ない。

 仮にサナが勝てば、彼女に賭けた客の中で女性が分配される。

 負ければ何も得られないので、ある意味において抽選権を金で買うようなものであろうか。

 逆のレイオン側の視点に立てば、勝てばそのまま金が手に入り、負けてもペナルティは存在しない。

 ように見えるが、実際は負けたらミャンメイの所有権がアンシュラオンに渡るので、彼も負けられない戦いに身を投じることになる。

 また、運営側にしても無条件で四割の金額が手に入るので損はしない。

 アンシュラオンはこのマッチメイクのために、レイオン側に多額の金を支払っている。

 勝っても多少の損失が出ることになるが、サナの経験値とミャンメイの権利が手に入るのならば安いものである。




425話 「サナの無手試合 キング・レイオン戦 中編」


「わー、なんかすっげえな。舞台の上で踊ってら。あんなの初めて見るよ」

「ええ、そうね。賑やかでいいわね」

「なぁ、ニーニア、お前もそう思うだろう? …って、なんで顔を隠しているんだ?」

「えっ!? だ、だって恥ずかしくて」

「恥ずかしい? 何が?」

「トットは何も感じないの?」

「何も…って? 楽しそうだなーとは思うけど…何か恥ずかしいのか?」

「…そっか。トットはそっち系だもんね。何も思わないんだね」

「なんだよそっち系って! また誤解されるだろう!」


 無手の試合会場にはトットとニーニア、それと付き添いでマザーもやってきていた。

 トットはたまに来ることもあるが、マザーやニーニアがここに来ることは珍しいことだ。

 同じ派閥同士かつ同じグループの関係者が出るので、せっかくなので観戦にやってきたのだ。


 そして、踊り狂うラブスレイブたちを目撃する。


 ニーニアは思春期なので同性とはいえ顔を赤らめている一方、トットは何も感じていないようだ。

 あんなに扇情的な踊りなのにまったく反応しない。彼からすればリオのカーニバルを見ているような気分なのだろう。

 変わった服装や踊りには興味を示しても性的な反応はない。

 歳相応の男子、たとえばルアンならば少しはドキッとするものだろうが、トットに関してはまったくの皆無だ。

 枯れ果てて痩せ細った老人のようにピクリともしない。まさに不動で鉄壁だ。実に清々しい。

 ゲイだから仕方がないことである。責めてはかわいそうだろう。


「でも、同じ派閥で戦うのか。なんだかもったいないな。どうせなら他派閥と戦ったほうがいいんだよな。そのほうが相手から力を奪えるのに」

「彼はあまりそういうことを考えていないようね。彼女を強くすること以外はどうでもいいような印象を受けるもの」

「うーん、そこもよくわからないんだよな。いきなりやってきてこんな好き勝手にやれるんだし、金はありそうだけど…何者なんだ?」

「ただ者ではないわね。やり方はともかく、これだけの人を夢中にさせるなんて簡単なことではないわ。彼には天性の資質があるのね」

「資質って?」

「人を惹きつけるもの。違った言い方をすれば、騒動を起こす能力かしら。どこにいても何か問題を起こす子っているでしょう?」

「ただの迷惑なやつじゃないか!」

「そうね。でも、規模が違う。彼が来て、たった数日で地下が変わっていく。私たちが五年いても何も変わらなかったのに、どんどん空気が変わる。これは一つの才能ね。英雄、奸雄《かんゆう》、梟雄《きょうゆう》、いろいろな言い方はあるでしょうけど、そういう人が歴史に名を残すのよ」

「…まあ、破天荒なやつだってのは認めるよ。ただ、巻き込まれるあの子がかわいそうだな」


 個人的には、ゲイに心配されるサナがかわいそうな気がしないでもない。

 ということで、代わりにニーニアが心配してくれる。


「サナちゃん、大丈夫かな? レイオンさんと戦うなんて…怪我でもしたら…」

「大丈夫よ」

「どうしてそう言いきれるの?」

「普通の女の子が、彼のような『大きな人』と一緒にいられるわけがないもの。私はね、あの子の中に強い力を感じるの。とてもとても強い力よ。その『器』はね、あまりに大きすぎて他の人じゃ一杯にすることはできないの。だから彼という巨大なエネルギーの塊を欲したのね。羨ましいわ。まさに【相思相愛】だもの。これこそ女神様の御業と呼ぶに相応しいわ」

「マザーって、時々すごいこと言うよね」

「あら、そう?」

「ずっと思っていたけど、昔はすごい人だったの? そのカーリスって場所で偉い人だったとか?」

「ふふふ、そんなわけないわよ。だったら、ここにいるはずもないでしょう?」

「それもそうだけど…」

「『マザー』という役職にいると、いろいろなものが見えるようになるだけよ。その子の内面を見るようになるの。でも、あの子の深い深い【黒】は…さすがに見通せないわね。ともかく大丈夫よ。ああいう子は何があっても死なないの。女神様がそういう【宿命】を与えているのよ」

「宿命か…。私にもあるのかな?」

「ええ、あるわよ。一人ひとりが一本の糸になって、一つの大きな織物を編んでいるの。派閥ごとにリーダーがいて、派閥全体でグラス・ギースを支えているように、その上にまとめる人が必要になる。あの子たちはそういう人たちね。それだけの違いよ」

「じゃあ、レイオンさんもそういう宿命を持っているの? 強くて守ってくれるもの」

「そう…ね。彼の場合は大変かもしれないわね。ニーニアは、どっちを応援するのかしら?」

「私は両方かな。二人とも無事であってほしいもの」

「とても良い願いね。では、そうなることを一緒に祈りましょう」


 マザーたちは試合会場の二階席で静かに試合を見つめる。

 会場にいる他派閥の男たちにとっては女性を巡る戦いでも、彼女たちにすればラングラスの未来を決める戦いである。

 仮にレイオンが負けることがあれば、派閥内での勢力図が大きく変化することになるからだ。

 今まで彼が力によってまとめてきたものが崩れれば、内部で何が起こるかわからない危険性をはらんでいる。






「それでは、黒姫選手の入場です!!」






 トコトコトコッ

 サナが西側の通路から歩いてきた。

 その恰好は、アカガシと戦った初戦から何も変わっていない。

 赤い武術服を着て、布で顔を覆っている。

 すでに武器の試合で素顔の半分は見られているが、一応は隠すことを徹底しているようだ。





―――ワァアアアアアアアアア!!!





 パチパチパチパチパチパチッ!!!!

 ドンドンドンドンドンドンッ!!!!



「黒姫ちゃーーーんっ!! がんばってーーー!!」

「レイオンなんてぶっ殺せ!!!」

「頼むよ! 本当に頼むよぉおおおおおおお!」



 彼女は何もしていない。ただリングに上がっただけだ。

 そうにもかかわらず、今までに聴いたことがないほどの猛烈な声援がサナに飛ぶ。

 中には本気で涙を流して懇願したり、土下座する男もいるくらいだ。


 この段階で、会場全体がサナの味方であることがわかる。


 もともとスペシャルマッチの内容が、「キングを倒して賞品を奪い取れ!」という内容だったので、客は常に対戦者を応援してきた。

 ただ、今までは一人しか幸せを得られない仕組みだったし、対戦者当人にも権利があったので半ば諦めムードもあり、惰性的に賭けをやっていた人間も多い。

 どうせ当たらないけど買わないと当たらないから買うか、という宝くじによくありそうな買い方である。

 が、今回は客に六人もの配当がある。

 しかも客だけで分配される仕組みなので、誰もがより確率の高い淡い期待を胸に抱いているというわけだ。


(浅ましいやつらだが、こんな連中でも応援はあったほうがいい。サナも嬉しそうだ)


 アンシュラオンは、声援を送られてやる気になっているサナを見て満足する。

 やはり観客は多いほうがいいし、応援してくれる人がいればモチベーションも上がるだろう。






「続きまして、キング・レイオンの登場です!!!」






―――ブゥウウウウウウウウウウウッ!!!




 サナとは正反対に、レイオンのコールには盛大なブーイングが発せられる。

 キングに勝たなければ女性は手に入らないため、罵声にもいつも以上の力が入っていた。

 レイオンが通路から姿を見せ、少し歩く。


 その瞬間―――



―――ピタ



 突如としてブーイングが止まった。

 誰もがリングに歩いていくレイオンに釘付けになる。

 客の男どもがレイオンをここまで凝視するとは、実に珍しいことでもある。

 彼らは男になど、さして興味はないはずだ。


 ではなぜ、彼らが注目したかといえば―――



「れ、レイオン、大丈夫なのか?」

「何か問題か?」

「い、いや…そうではないが…いいのか?」

「質問の意味がわからないな。問題ないと言っている」

「そ、そうか…わ、わかった」


 思わずリングアナウンサーが確認してしまうほど、彼の様子はいつもと違った。

 まず、身体全体が小さくなっている。これは比喩ではなく、表現通りの意味だ。

 より詳細に述べるのならば、筋肉がしぼんで縮小し、全体的に一回り小さくなった。

 昨日までの弾力のある大きな筋肉は見る影もなく、胸骨が浮き出ている様子がはっきりとわかる。

 肌の艶も悪い。まるで死人のように土気色をしており、生気というものがまったく感じられない。

 それに伴って頬がこけ、目も少しだけぎょろっと飛び出ているようにも見える。

 髪の毛も死んだ犬のようにへなっと垂れ、病人かと疑うような見た目だ。

 ボクサーの過度の減量中のように、おおよそ戦えるといった状態ではない。歩みもふらふらしており、軽く押したら簡単に倒れそうだ。



 レイオンが―――弱っている



 これだけ見た目が変わってしまえば客だってすぐに気がつく。気付かないはずがない。


 そして―――




―――ワァアアアアアアアアアアアア!!!




 パチパチパチパチパチパチッ!!!!

 ドンドンドンドンドンドンッ!!!!


 サナに勝るとも劣らない声援がレイオンにも注がれる。

 ただし、その意味は真逆だ。



「なんて酷いコンディションだ! よくやった!」

「まったくだ!! 初めてお前に感謝したぞ!!!」

「ナイス自殺点!!」

「これもう勝ってんじゃね!? 始まる前から黒姫ちゃんの勝ちじゃね!? 早く抽選してくれよ!!」

「いやっほーーーーー!! 今日は最高だ!!!」



 観客の誰もがキングの最悪のコンディションを称賛している。

 そのままの状態だったならば勝ち目が薄いと思っていたが、ここでぐっと勝率が高まったのだから当然だろう。

 こうして思いもよらぬ拍手に包まれながら、レイオンがリングたどり着く。

 その隣には、ミャンメイもいた。


「兄さん、やめたほうが…あまりに調子が悪いわ」

「馬鹿を言うな。俺はキングだ。戦うことが仕事だ」

「で、でも…これじゃ…」

「心配はいらない。お前はセコンド席で見ていろ。今日は賞品じゃないから気楽だろうしな」

「昨日、何があったの? いきなりこんなことになるなんて…」

「心配するなと言っただろう。まだ【馴染んでいない】だけだ。…大丈夫だ。すぐに戻る」

「無理はしないで…」

「そんな泣きそうな顔をするな。俺は死なない。死ぬまで死なない。ここで負けるわけにはいかないんだ」


 レイオンは気合を入れて歩を進める。

 それを見守りながら、そっと離れるミャンメイ。

 今にも倒れそうな状態ながら、彼の目に宿る強い意思の力に気付いたのだろう。

 たしかに身体は最悪だが、試合を諦めたわけではないのだ。




 サナとレイオンは、掃除が終わったリングの上に降り立つ。


 リングの上はざっとホウキで払っただけなので、まだ紙吹雪が何枚か残っていた。

 それを見つけたレイオンは、苦々しい表情を浮かべる。


(あの男、俺が寝ている間に勝手に話を進めたのか)


 スペシャルマッチの内容は、自分に打診があったときとは大幅に変更されている。

 他のことはどうでもいいが、地下に女性を連れ込むとは聞いていない。

 問題は、それによって人々に悪い刺激を与えている点だ。

 現代社会に生きていると、酒やタバコ、筋肉増強剤などが当たり前に存在するが、本来の人間の生活には不要なものが多い。

 過労死にしても、従来人間が持つ回復力を何倍も上回る労働によって引き起こされる『人災』である。

 勤勉は美徳だが、もっと穏やかに暮らし刺激物が少ない生活を尊べば、肉体は浄化され、神経的刺激も減り、不安も減って必然的に病気が減っていくものだ。


 それと同じように従来の地下は、それなりに平穏だったのだ。


 刺激物が少ないからこそ、人々はむしろ穏やかに暮らそうと考えていた。

 余計な騒動を嫌い、規律ある行動を取ろうと努力していた。


 そう、アンシュラオンが来るまでは。


 こうして女性が連れ込まれれば、今まで溜まっていた欲求が爆発しかねない。

 特にラブスレイブは奴隷的要素が強いというか、まさにそのものである。

 そんなものに慣れてしまえば、女性に対する扱いにも変化が生まれるかもしれないのだ。

 それに伴って性犯罪が起きやすい土壌が生まれるかもしれない。

 客は誰もが浮かれているが、レイオンはそうした点まで憂いていた。


(やつはそういうことを考えていないのか? …いや、わかっていてやっているんだ。だから、たちが悪い。これ以上の横暴は止めねばならない。調子が悪いからといって、ここで負けるわけにはいかない。俺は勝たねばならないんだ)




「それでは本日のメインマッチ、キング・レイオン選手と黒姫選手の試合を開始しま―――」




 と、リングアナウンサーが言いかけた時である。


 すっとサナが前に動いた。


 同じ派閥である。もしかしたら握手でもするのかと思って、誰もがそれに対して何も感じなかった。


 そして、それはレイオンも同じ。


 体調が悪いことに加え、アンシュラオンの勝手な振る舞いに頭を痛めていた彼は完全に油断していた。

 いつもならば鬼気迫るような表情で相手を睨みつけているのに、今回ばかりはぼけっと下を向いて考え事をしていた。


 サナが腕を引いて、足を踏み出す。


 ドンッ


 力強く床を踏みしめ、拳を突き出す。


 その一連の動作は、極めて自然に行われた。

 まるで朝の挨拶のように、まるで目覚まし時計を止める仕草のように、ご飯を食べる時の箸の扱いのように、すべてに違和感がなかった。

 だが、一人だけ強い違和感を感じた者がいる。


 ゴスッ! ボキンッ


「ぐふっ…」


 肋骨が折れる音が体内で響く。

 見ると、サナの拳がレイオンの脇腹にヒットしていた。


「なっ―――」

「…しゅっ」


 そして、反射で身体が折り曲がり、下がってきた顔面に―――渾身の一撃。

 戦気を乗せた虎破をぶっ放す。


 メキメキッ ドーーーーンッ!!!


「っ―――!!!」


 振り抜いた。思いきりぶん殴った。

 そこに手加減や容赦などありはしない。教えられた通り、相手を殺すつもりで殴ったのだ。

 これで顔面が吹き飛ばないレイオンもさすがだが、完全に無防備で受けてしまったので目の前が真っ白になる。

 ぐらぐらと世界が回り、意識が飛んでいく。


 ふらふらふら ばたん



 そのまま―――ダウン。





426話 「サナの無手試合 キング・レイオン戦 後編」


 目の前には、白い光。

 広いドーム状の天井に付けられた灯りが、うっすらと目に入り込んでいる。

 レイオンは、それをぼんやりと見つめる。


(何が…起きた?)


 頭の中も真っ白で思考が上手くまとまらない。

 さきほどまで何か考え事をしていたはずだが、それを思い出すことすらできない。


(俺は…倒れている……のか? なぜだ?)


 もう三年以上も地下にいるので試合場の天井は見慣れている。

 だからこそ自分が倒れていることがわかる。

 だが、なぜ倒れているのかがわからない。どうしてここにいるのかもわからない。


(身体に力が入らない…なんだこの重い身体は。…ああ、そうか。俺は死んでいるんだったな。まったく、我ながら最低の状態だ。死ぬよりつらいとは、まさにこのことだな)


 身体が重い。まるで鉛のようだ。

 よく寝ている時、意識はあるのに身体が動かない時があるだろう。

 まだ肉体に霊体が戻りきれておらず、身体が潜在意識の占有下であるスリープ状態にあるとこれが発生する。

 そう、まさにあれと同じ最低の気分である。

 動きたいのに動けない。指一本動かせない。意識があるからこそ非常にうっとうしくて苛立たしくなる。

 武人にとっては、目を覆いたくなる悲惨な姿であるといえるだろう。あまりに屈辱的だ。

 健康だった頃が懐かしくてたまらない。


(ああ、このまま眠っていられたら、どんなに楽か…)


 誰だって痛みから逃れたいと考える。眠いのならば寝たいと考える。

 それは武人だって同じだ。同じ人間なのだ。がんばったからこそ誰にも責める権利はない。

 自分は今まで無理を続けてきた。もう死んでいると言われても納得せずにあがいてきた。

 そんな自分だからこそ、眠る権利があるように思えるのだ。


 だが―――



「兄さん!!」



 声が聴こえた。

 切羽詰った鋭い女性の叫び声だ。

 誰かなんて考えずともすぐにわかる。この声はよく知っている。


(…ミャンメイ? 何を叫んで…あいつがこんな声を出すなんて珍し―――)


 その時、視界が急に暗くなった。

 白かった世界が、突然【黒】に染まった。

 一瞬自分の目がおかしくなったのかと思ったが、違う。


 目の前には―――【足裏】


 倒れている自分の顔に目掛けて、誰かが思いきり足を踏み下ろそうとしていた。


「っ―――!!」


 ぐるり バンッ!

 かろうじて首をひねり、下ろされた足をかわす。

 耳にかすかな違和感がある。今踏まれた時に掠めたのだろう。

 しかし、ほっとしたのも束の間。それは一撃では終わらない。


 ドンドンドンッ!!


 続けて足が何度も踏み下ろされる。


「ちっ…! なんだ!」


 レイオンはごろごろと転がって攻撃をかわす。

 そして武人の本能だろうか。なんとか力を振り絞って、ぎゅっと拳を握る。

 危険に晒された身体が無意識のうちに反撃しようとしたのだ。


「………」


 それを感じ取った相手は、すぐさま飛び退いて距離を取った。


(…少女? 誰だ?)


 目の前には、まだ幼女と呼んでも差し支えない少女がいた。

 小学生ならば間違いなく列の前に並ぶほど背丈が小さい。


 それで―――思い出す。



(そうだ! 試合中だ!! 俺は今、ホワイトの妹と戦っていたんだ!!)


 目の前にいる少女は、黒姫。

 幼いがれっきとした【挑戦者】であり、武器試合を含めてすでに三人も打ち倒しているので実力も証明済みだ。


「…じー」


 彼女の目はひどく静かだった。

 まるで観察するかのように、こちらの弱り具合を日誌にでも書き留めるかのように、じっくりと淡々と見ている。

 今も軽く拳を握っただけで後退した。

 奇襲が終わった以上、無理に追撃しても反撃を受けるだけだと判断したのだろう。

 極めて慎重で冷静な判断である。とても子供とは思えない落ち着きだ。


(なんて目をしている。これが子供の視線か! いや、それよりまさか不意打ちをくらうとは! こんな子供がゴング前に…!)






「さぁ、試合開始だぁああああああああああああああ!!!」






 カアアーーーーーーーーンッ!!





 レイオンがようやくパニックから復帰した頃、のうのうとゴングが鳴らされる。

 いつの間にかレフェリー(兼リングアナウンサー)はリング上から降りていて、何事もなかったかのように試合開始を告げる。

 やはりサナが攻撃した時はゴング前、試合開始前だったのだ。

 レフェリーはレイオンの抗議の視線を受けても涼しい顔だ。

 それですべてを悟る。


(レフェリーも―――【グル】か)


 前の試合で自分が対戦者に奇襲を仕掛けた際には、レフェリーは止めていた。

 反則とまでは言わないが、そこで勝負が終わらないように制止が入ったのだ。

 それに比べて今回は、制止どころか「何もなかった」という扱いになっている。

 明らかにサナに対して贔屓をしている。


 これはつまり【アンシュラオンが運営とグル】になっていることを示している。


 だから勝手にラブスレイブを連れ込めたし、明らかな不意打ちに対してもお咎めなしなのだ。




 そんな渋い顔をしているレイオンを見て、アンシュラオンは笑う。


(ははは、レイオンのやつ、ようやく気付いたようだな。だが、不意打ちをくらうお前が悪い。自分がやったことが返ってきただけだから文句はないだろう?)


 アンシュラオンは、試合前にサナに不意打ちをするように指示していた。

 運営側からも許諾を受けているので、知らないのはレイオンたちだけだ。

 試合にシナリオがあることは地下闘技場では常識である。

 では、今回のシナリオは何かというと―――



―――「黒姫がキングを追い詰めて盛り上げる(できれば勝ってほしい)」



 というものだ。

 今まではミャンメイが賞品だったので替えが利かなかったが、地上から新しく連れてくるスレイブならば客に配っても問題はない。

 そもそもこのスレイブの提供者はアンシュラオンである。費用はすべて彼が負担しているため運営側に痛手はない。

 これは運営側にとって最高の条件だったのだ。


(たしかにお前がやっていたスペシャルマッチは面白い趣向だったよ。しかし、まったく客側に配当がないとしらけちまうものだ。パチンコだって少しは釘を緩めるんだぞ。お前は露骨にやりすぎたんだ)


 正直、運営側もレイオンのやり方にうんざりしていた面がある。

 彼はシナリオがあっても無視することが多く、非常に扱いづらい『役者』だったのだ。

 ミャンメイがかかっているので、万一にも負けられないのも一つの要因だ。

 それはわかる。よく理解できる。


 が、あくまでレイオン側の都合だ。


 ミャンメイに多大な価値があったからこそ認められていたが、もし代用品が相当数仕入れられるのならば、わざわざレイオンにこだわる必要はない。


 運営側が―――アンシュラオンに乗り換えた。


 より利益をもたらす者になびいたのだ。

 地下は地上よりも現実主義者が多い場所である。厳しい環境だからこそ、より強い者を歓迎するのだ。


(オレが何の手も打たないと思ったか? それもお前の油断だな。くくく、地下はいいなぁ。みんな喜んで賄賂を受け取ってくれる。まったくもって上より過ごしやすいよ)


 ミャンメイの権利がかかっているのだ。

 自分が戦うのならばともかく、サナが戦う以上は保険をかけておくべきだろう。

 レフェリーにもしっかりと賄賂を送ってあり、サナに有利になるように仕向けてあった。

 これは彼女の身の安全にも関わることなので手は抜かない。


(だが、さすがにここまでコンディションが悪いとは思わなかったよ。まあ、それも仕方ない。人生は思い通りにはならないものだ。実力差を考えればイーブンだろう。それでも十分だ)


 弱ってもレイオンだ。相手に不足はない。

 これはこれで楽しめる内容になると期待して、ゆっくり観戦することにする。




 アンシュラオンの落ち着いた様子を見て、レイオンも現状を把握する。


(そうだ。地下とはそういう場所だ。いや、ここだけじゃなく外も同じだ。いつだって俺は力ある者たちと戦ってきた。キングになる以前に戻っただけにすぎない。それよりダメージ確認だ。…肋骨は折れているが致命傷じゃない。あの子の身体が小さくて助かったか)


 最初に殴られた箇所は完全に無防備だったので骨が折れている。

 これは仕方がない。自分のミスだ。

 次に顔に受けた虎破だが、これはサナがまだ子供であったおかげで助かった。

 長身のレイオンがいくら屈んだとしても、小さなサナにはまだまだ相当な距離がある。

 拳を斜め上に打ち上げるように放ったので、力が完全に乗りきらなかったのだ。その分、踏み込みも浅い。

 また、レイオンに無駄に力が入らなかったことも幸いした。衝撃が逃げ、本来のダメージの半分程度になっている。

 だが、正常な状態だったならば不意打ちであっても防御できた攻撃だ。身体が重いことには変わりない。



 サナとレイオンが睨み合う。



 不意打ちはあったが、ここからが本当の試合開始だ。


(このままペースを握らせるわけにはいかない。打って出る)


 時間経過とともにキノコが多少馴染んでくるはずだが、それを待っている暇はない。

 流れを取り戻すためにレイオンは自ら攻撃に出る。

 身長差がかなりあるので、彼が殴るとなれば上から叩きつけるように殴らねばならない。

 この場合、やはり上から攻撃するほうが有利である。

 人は構造上、上からの攻撃に対応しづらいものだ。上から覆い被されるように圧力をかけられると下がってしまうものだ。

 大男に襲われたら、少女は誰だって後退して逃げようとしてしまう。そこを追い詰めることでペースを握ろうと考える。


 しかしながら、サナは普通の女の子ではない。


 前に―――出た。


 レイオンが前に出た瞬間、彼女も走っていた。


(っ! 俺と打ち合うつもりか! 甘く見られたものだ!)


 いくらこのコンディションでも、こんな小さな少女相手に打ち負けることはない。

 身体つきも違うのならばパワーだって段違いだし、今まで磨いてきたテクニックにも自信がある。

 サナ相手に打ち負ける要素がないのだ。


「ふん!!」


 レイオンが向かってきたサナに拳を打ち下ろす。

 手加減はしない。本気の一撃だ。


「…しゅ」


 それに対してサナが選択したのは、自らも拳を発するという愚行。

 アンシュラオンがルアンに教えたように、自分より大きな相手と戦う場合は、逃げ回って足元を狙うのが正解だ。

 体格差は重要だ。まともに組み合ったら負けてしまうので、より慎重な立ち回りが必要になる。

 だが、ここでも一つの要素が勝負を大きく変化させる。


 レイオンの拳に合わせるように、サナの拳が激突。


 バゴンッ


 肉と肉、骨と骨がぶつかる音が響く。

 間違いなく両者の拳が激突した音である。


 まさに熊に襲われた子供のような光景であるが―――



(うご…かん!)



 レイオンの拳がそれ以上前には進まなかった。

 どんなに力を入れても途中で止まっている。


「…じー」

「っ!」


 少女と目が合った。

 相変わらず静かで相手を観察する視線を送っている。


(まずい!!)


 その視線を誤魔化すように、レイオンがラッシュ。

 どどどどどどっ!!

 殴る殴る殴る殴る殴る殴る!!

 両手を使って、上半身の筋肉と腰をフル稼働させて殴りつける。


 バゴッ バゴッ バゴッ バゴッ バゴッ

 バゴンッ!!


 そのすべての攻撃にサナは対応。再び拳を合わせてきた。

 結果はさきほどと同じ。互いの拳が衝突して拮抗している。


「まさか…! ここまで!!」


 その結果にショックを受けて、レイオンが下がる。

 否。

 下がってしまったというべきか。

 流れを取り戻すために仕掛けた攻撃であるにもかかわらず、下がってしまった。

 これは主導権争いにおいて自ら負けを認めたと同じだ。


 それと同時に、サナが前に出る。


 そこから虎破の姿勢。


(今は駄目だ! ガードを!!)


 レイオンは両手をガードに回す。

 現状ではこれが最善の方法だと認識したからだ。


 がしかし―――こない。


 虎破がくると思ってガードの姿勢になったものの、肝心の攻撃がこない。

 それもそのはず。

 レイオンがガードを固めたことを視認したサナは、さらにもう一歩踏み込んでいた。


(しまった…! こんなフェイントに引っかかるとは!)


 極めて単純なフェイントだ。しかし、効果的なフェイントでもある。

 なぜ、サナは最初に虎破を放ったのだろうか。

 もちろん一気に勝負を決められたら、それが一番である。

 だが、仮に失敗しても「恐怖」を与えることはできる。この攻撃でダウンを奪ったのだから相手は警戒してしかるべきだ。

 これにコンディションは関係ない。より強い攻撃を受けたならば身体が勝手に反応してしまうのだ。


 そして、急接近したサナが完全に自分の間合いに入ると―――拳撃を叩き込む。


 ドゴッ メキメキィッ


「ぐっ…はっ!」


 サナが狙ったのは、またもやボディー。

 肋骨が折れている脇腹に二度目の攻撃を叩き込む。

 今回はレイオンも準備態勢に入っていたおかげで、不意打ちのように身体が折れ曲がりはしなかったが、ナックルをしっかりと当てた実戦の拳だ。

 突き抜ける衝撃に呼吸が止まる。




427話 「武人の身体 前編」


 サナのボディブロー、というよりは、身長的に自分が一番打ちやすい場所が腹だったわけだが、だからこそ体重が乗った一撃が炸裂する。


 バーーーンッ!!


「っ―――!」


 身体の中で雷が落ちたかのような衝撃が走り、レイオンが硬直。

 虎破を打てるほどの時間こそなかったが、アカガシの胃を破壊した拳打だ。

 その拳をまともに受ければ、今のコンディションでは相当なダメージとなるのは必定である。


「ぐうっ…!! こんなもの…で!」


 レイオンは耐える。耐え忍ぶ。

 意地もあるのだろう。この程度の拳で倒れるわけにはいかない。

 しかし、必死に身体を動かそうとするものの、まったく動こうとしない。


(このポンコツが!!)


 自分の身体がこんなに憎らしく思えたことはない。

 自身に悪態をつくが、だからといって何かが変わるわけではない。


「…しゅっ」


 そこにサナの追撃。

 再び腹に拳を叩き込もうとする。


「させる…か!」


 レイオンは必死に肘を下げてガード。

 かなり体勢が崩れたが直撃するよりはましだ。強引に守りに入る。

 が、サナの拳は腹にはこなかった。


 軽く下がったと思ったら―――膝に蹴り。


 メキィイイイッ

 膝の横、関節の部分を狙って鋭い一撃が入る。


(ぐっ!! フェイント…か!)


 これもフェイント。腹を殴ると見せかけてのローキックだ。

 ミシミシと骨が軋むが、折れてはいない。肉体制御が不安定でも痛み自体はコシノシンの影響でまったく感じていないので、そこは問題ない。


 問題は、ここでサナが小柄の利点を最大限活用してきたことだ。


 バシバシッ

 再びサナがローキックを放つ。

 今度は予期していたのでレイオンも足を上げてガード。

 やはり体重が軽いので威力はたいしたことがない。予測できれば普通に対応できる程度のものだ。

 それでも彼女はさらにローキックを放ち続ける。

 バシバシッ


「…しゅ」


 しかも時折、拳打を放とうとするフェイントも交える。

 だがやはりローキックに終始するだけだ。


 バシバシッ バシバシッ

 バシバシッ バシバシッ

 バシバシッ バシバシッ


(煩わしい!)


 体調が悪いことに加えて何度もフェイントに引っかかったので、レイオンとしては腹が立っても仕方がないだろう。

 サナが小さいがゆえに、足元への攻撃はさらに見えづらいのも苛立つ要因となる。


(そんな蹴りが通じるか! 足元にいるのならばちょうどいい! こちらが蹴り上げる!!)


 ブンッ!


 今度はレイオンが、逆にサナを蹴り上げようと足を振り上げるが―――


 すすっ くるり

 サナは回り込むようにして回避。

 その姿は、レスリングでタックルをしながら相手の足を軸にくるりと回って、背中を取る光景に似ていた。

 コンディションが悪くてモーションが大きくなったこともあるが、彼女は最初からしっかりと準備をしていた。

 執拗にローキックを放ったのも、この大振りの一撃を引き出すためなのだろう。

 だから簡単にかわせる。この攻撃を事前に予測していたのだ。


 そして回りこんだサナが、膝の裏に蹴り。


 バシッ がくんっ


「っ…!」


 レイオンの膝が、崩れた。

 いわゆる膝裏を狙った『膝かっくん』である。

 攻撃のために体勢が崩れていたことに加え、ここは構造上曲がりやすいように造られている。

 体重が軸足一本に集中している時だからこそ、サナの一撃でも簡単に相手の膝を曲げられたのだ。


「…しゅっ」


 続けてサナの攻撃。

 膝が曲がって、身体が屈んだ状態のレイオンの背中に―――拳打。


 ゴシャッ!


 鈍く、それでいて嫌な音がレイオンの身体の中で響く。


「ぬぐっ!!」


 その瞬間、レイオンは全身に強い痺れを感じた。

 サナが狙ったのは背骨。それも腰のあたりの骨だ。

 裸の写真を見るとわかるが、人間の背骨は厚い筋肉に守られておらず浮き出ている。

 そのわりに背骨には多くの血管や神経が集まっているので、人間にとっては急所の一つといえる場所だ。

 その腰の部分に、岩よりも硬い武人の拳が叩きつけられたのだ。

 もし腰痛で苦しむ人だったならば、それを聞いただけで悶絶してしまうかもしれない。


 人間にとって一番大切なことは『立つ』ことだ。


 立つことができなければ寝たきりになり、身体はすぐに弱ってしまう。

 床擦れに苦しみ、運動不足になって筋肉は痩せ細り、気持ちも落ち込んで地獄のような日々を送ることになるだろう。

 当然、格闘技においても立つことは重要だ。殴るにしても蹴るにしても、腰を経由しないものは存在しない。


 がくっ ずんっ


 レイオンの身体が、さらに沈み込む。

 腰に受けたダメージで下半身が一時的に麻痺してしまったのだ。片膝をつくように座り込む。

 すると、ちょうど後頭部がサナの目の前に下りてきた。

 その後頭部に向けて―――

 ボオオオッ

 サナが戦気を燃やしながら狙いをつける。


「っ!!」


 攻撃の気配を察したレイオンが、必死に前のめりになって飛び退く。

 もはや体裁を気にしている様子はない。緊急避難のように前に身を投げ出す。

 それと同時に、サナの虎破が発動。


 バーーーーンッ!!


 大きな音がした。

 拳の速度と威力が空気の壁を破壊した音だ。

 強い武人の戦闘中に大きな音がするのは、こうした大気との激突が大きな原因であるとは前にも述べた。

 つまりサナの攻撃もまた、武人としてそれなりのものになりつつあることを示している。

 だからこそレイオンは飛び退いたのだ。それだけ危ない攻撃であったことを証明している。


 じゅううっ


 残念ながら、あるいはレイオン側からすれば幸いにも攻撃は直撃しなかった。

 が、掠っていた。

 レイオンの髪の毛がごっそり飛び散り、焼け焦げ、耳の裏側が少しハゲてしまっている。

 もしまともに当たれば致命傷だったに違いない。



 痺れから回復したレイオンは後頭部を押さえながら間合いを取る。

 それから驚愕の眼差しでサナを見つめた。


(この少女…!! なんという戦い方をする! まるで戦闘マシーンだ!)


 キングと称されたレイオンでさえ、サナの戦い方には畏怖すら覚える。

 的確に人間の弱点を狙い、力を削いでいく。そして隙あらば急所を容赦なく狙う。


 一番怖いことが、【殺気が無い】ことだ。


 当たり前のように人を殺そうとする。呼吸をするかのように自然にだ。

 希薄で無機質な感情を含めて、それが戦闘マシーンのように映る。

 少なくとも闘技場での戦いとは違う。実戦のみを想定した戦い方だ。



 その後もサナの猛攻は続く。


 まずは腹から下を執拗に狙っていき、相手が体勢を崩したところで強い攻撃を当てていく。

 時にはフェイントを交えることも忘れないし、当てる自信がある時は実際に放ってもいく。

 これを見る限り、サナにはしっかりとした攻撃パターンが確立されつつあるようだ。

 彼女はルアンに教えたことも聞いていたし、実戦でマフィアの大男たちとも何度も戦っている。

 大人の男性相手にも対等に戦える術を編み出したことは、大きな成長といえるだろう。


 しかしながら、相手はレイオンだ。他の武人とはレベルが違う。


 であれば、サナがこうして攻勢に出られていることには大きな理由がある。

 それはもちろんレイオンのコンディションが悪いことに尽きるだろう。

 もう少し詳しく述べるのならば、【戦気の放出が異様に弱い】ことが挙げられる。

 通常の放出が炎だとすれば、今は焚き火が消える前のわずかな『燻《くすぶ》り』に近い。

 かろうじて中心部が熱を帯びて煙が出ている程度のものだ。実に弱々しい。


(戦気が弱すぎる。あれでは本来の二割にも満ちていないだろう。肉体が異様に弱っているんだ。あの顔を見ればすぐにわかる)


 アンシュラオンがレイオンの表情を見れば、どんな状況なのか手に取るようにわかる。

 目は大きく見開かれて強張っており、余裕がまったくない。情報を収集しようと必死だ。

 身体があまりに衰弱していて、意識とまったく噛み合っていない状態なのだ。

 当人の意識は避けたつもりでも、身体が0.3秒以上も遅く反応するのでくらってしまう。

 攻撃にも戦気が乗りきらず、あの体格差があってもサナと互角という体たらくである。


(サナはそれをよく見ている。だからああいう戦い方を選んだんだ)


 彼女が前に出て打ち合ったのは、最初の奇襲でレイオンが万全でないと確信したからだ。

 戦気を扱えるようになって彼女の『観察眼』も精度を上げている。

 今までは漠然とした感覚にすぎなかった戦気の質や量が、実際に目で見てわかるようになったのだ。

 相手との実力差を測るうえで、これはとても大切なことである。




 そのまま戦局はまったく変わらず、サナが押し込んでいくことになる。



 となればもちろん―――




―――ワァアアアアアアアア!!




「うおおおお! いけえええ! やっちまえ!」

「そのまま決めていいんだぞ!! 遠慮しないでぶっ殺せ!!」

「これはいける! いけるぞ!!」

「俺の夢が叶う日がキタァアアアアアアアーーーーーー!!」

「子供は三人作るからな!!」

「俺は六人作るぞ!!」

「馬鹿言うんじゃねえ! 手に入れるのは俺だ!!」



 観客は大盛り上がり、大賑わいだ。

 運営側の明らかなサナ贔屓とレイオンの不調を受けて、まさかの勝利の可能性に沸いている。



「ちょっとちょっと! これはまずいって! レイオンが負けちゃうよ!」


 一方、二階席で戦いを見ていたトットたちは、予想外の出来事に驚愕していた。

 今まで無敗のチャンプとして君臨していた彼が、あんな小さな少女に打ち負けているのだから無理もない。


「レイオンさん…すごい苦しそう」

「そうね。かなり無理をしているみたいね。いつもの彼とはまるで別人だわ」

「みんなレイオンさんを敵視して、あれじゃかわいそうだよ。ずっとがんばってきてくれたのに…」

「ええ、そうね。ぶっきらぼうで無愛想だけど、彼は常にがんばってきたわ。いつも何かに悩んで、何かに苦しんで、自分を痛めつけるようにして生きてきたわね。でも、そういう人生だからこそ得るものは多いのよ」

「負けても得られるものがあるってこと?」

「それも大切ね。もし人生が勝ち負けだけの世界だったら、こんなに哀しい世の中はないわ。だから勝っても負けても教訓を学べるように、この世界はしっかりと創られているのよ。ただ、私が言っているのは少し違うわね。まだ彼が負けるとは限らないわよ」

「あそこから勝てるの? どう見ても難しそうだけど…」

「私は武人のことには詳しくはないから、体験談でしか言えないけれど…前に聖騎士の人が酷い怪我で衰弱したことがあったの。それはもう死ぬ瀬戸際だったわ。神官の癒しでもどうにもならないほどだったのよ。それがね…」

「それが? どうなったの?」

「ふふふ、それは秘密」

「あー、ずるい!」

「ええ、ずるいのよ。でも、それはすべて必然によって起こるもの。奇跡という呼び方は失礼よ。だって、彼らはいつだって決死の覚悟で生きているのですもの」

「何の話?」

「ニーニア、しっかりと自分の目で見ていなさい。今私たちが見ているものは、もしかしたら歴史に語られる一つの小さなエピソードになるのかもしれないのだから。これはとても貴重な体験よ」

「…え?」

「ああ、レイオン!! くらっちまったああああああああああああ!!」

「っ! レイオンさん!!」




 彼女たちが話をしている間に―――サナの拳がレイオンの【心臓】にヒット。



「っ―――ぐふっ!!」



 たまたまバランスを崩した際に、胸ががら空きになってしまった。

 そこにサナの渾身の右ストレートがヒットしたのだ。

 ハートブレイクショットと呼ばれるように、心臓への一撃を受けると身体が完全に止まってしまうものだ。

 しかもレイオンの心臓は手術をしたばかり。


 どくんっ どくんっ ピタッ―――


(しまった…! 心臓が…! キノコが!!)


 その衝撃で心臓が本当に止まった。

 まだ縫い付けたばかりで完全に定着していないため、本来ならば最低でも二日以上の安静は必要であった。

 ゴロツキと戦うくらいは軽くこなせても、武人と本気で殴り合うことはあまりに危険だ。

 正直、サナの実力は無手においても、そこらの中鳴級の武人に匹敵する。

 身体が小さくパワーに欠けるため威力そのものは弱いのだが、アンシュラオンに叩き込まれている攻撃の質はかなりの脅威だ。

 身体の外ではなく、中に響くパンチが打てる。これがすごく効くのだ。


 重要なパーツである心臓が止まる。


 武人は血液を力の源にしているため、血流が止まるということは急激なパワーダウンを意味する。

 これは本格的な緊急事態だ。

 身体が動かない。

 ぴくりとも動かない。


 そこに―――


「…ふうう」


 ぼおおおおおおっ

 サナが腰を下ろし、拳に力を溜める。

 彼女は溜める作業が苦手なので速度は遅い。今のレイオンが見てもスローに感じられる。

 しかし、動かない身体で視覚だけ正常というのも地獄である。

 どんどん自分を打ち負かす力が集まっていくのだ。それをただ見つめるしかないことは恐怖でしかない。


(動け! 動け…!! 動けええええええ!!!)


 レイオンが必死に身体に命令を送る。

 だが、現実は残酷だ。すでに死んでいる身体が命令に応じることはなかった。

 ぼおおおおっ ピカーーッ

 サナの練気が終了。右手に最大限の戦気が集まる。

 こちらが動けないことに勘付いているのだろう。ゆっくりと確実に仕留めるために、腕をじっくり引き絞る。




「うごけええええええええええええええええ!!!」




「…しゅ」



 サナが足を踏み出す。

 腰が回る。

 引き絞った腕が放たれる。


 ごんっ


 石同士がぶつかったような音がした。

 そこからさらに、押し込む。


 ぎゅるうううう


 力が拳に集中する。

 再び心臓に当たったサナの拳が―――炸裂。





 ドオオオオオオーーーーーーーーーンッ!!!




 メキメィイイイイイイイッ! ボンッ!!


 凄まじい衝撃がレイオンの身体の中で吹き荒れる。

 これは破壊するためだけに放たれた一撃。

 数多くの武人たちが敵を滅するために日夜修行に励み、考え、練り出し、ようやくにして一つの形にした究極の【型】。


 全身が一つの力の流れになった素晴らしい虎破が―――砕く。



「ぶ―――はっ!!」



 どばっ ごぼぼっ


 レイオンが吐血。大量の血液が口からこぼれている。

 しかも、その色は赤ではない。

 なにやら紫色をした濁ったものである。おおよそ人間のものとは言いがたい色合いだ。

 中のキノコが衝撃で破損したのだろう。

 潰れて浸されていた水が噴き出し、混ざり、それが巡り巡って穴があいた肺を経由して口から出されたのだ。


 ぐらぐら どすんっ


 そして、レイオンは本日二度目のダウンを喫することになった。

 しかし、最初よりも重傷。明らかに致命傷である。




428話 「武人の身体 中編」


 景色が回る。ぐるぐると回る。

 自分が倒れたことだけはかろうじてわかる。

 同様に、これがかなり危険な状態であることも即座にわかった。


(これは…まずい……な。ごふっ…)


 倒れたレイオンの口から紫色の血が溢れる。

 血を吐き出すこと自体もそうだが、健康に悪そうな色をしているので心配になるだろう。

 だが、もうすぐその必要もなくなる。

 心臓が止まった以上は血流も止まり、徐々に身体が固まっていく。血が噴き出ることもなくなる。


(この少女を甘く見ていた。とんでもない…子だ。末恐ろしい…ものだ)


 間違いなくサナは、戦うごとに強くなっている。

 一昨日よりも昨日のほうが強く、昨日より今日のほうが強い。

 昨日の試合を経て、またさらに実力が上がった。

 グランド・リズリーン〈偉大因子共鳴〉の影響もあるのかもしれない。戦気の質もやや向上している。

 悔しいが、今の自分では少々手ごわい相手と認めるしかない。


(やはり無理があった…のか? 所詮、人間の浅知恵だった…ということか。自然の摂理である死は…避けられない…よな)


 そもそも半分死んでいる身体を強引に動かしているのだ。その段階で摂理に反している。

 生命と同じく死は平等に訪れる。

 これは絶対の法則だ。なぜならば人間の霊は、この地上だけで完成するようには出来ていないからだ。

 今なお広がり続けている物的宇宙の中には霊的宇宙が存在し、途方もない数の生命が成長を続けているのだ。

 レイオンという人生も、その中の一つでしかない。この美しく輝く生命の賛美歌のいちフレーズでしかない。

 だが、それでもなお人生は美しい。

 すべての生命が女神に抱かれ、星とともに成長していく。人類の進化に寄与し、宇宙の完成に貢献している。


(どうせ石のストックも終わる。ここまで…か。ここで終わり…か。それもいい…か。あの男ならば…少なくともミャンメイは…守れる)


 気に入らない男だがアンシュラオンは強く、自分の女性には優しい。

 少なくとも危険な目に遭うことは少ないだろう。それだけでも目的の一つは果たされる。


(がんばった…俺はがんばったよな)


 レイオンは抵抗を半ば諦める。

 今回ばかりは、どうあがいても無駄だと悟ったのだ。

 血流こそが武人の力の源なのだ。心臓が動かないのにどうやって戦うというのか。

 身体はぴくりとも動かない。何度もやっても反応しない。

 もう無理だ。おしまいだ。




(兄さん…!!)


 ミャンメイは、倒れている兄を涙を流して見つめていた。

 兄妹だからだろうか。なんとなく兄の気持ちがわかったのだ。

 兄の顔の、なんと安らかなことだろう。全部を出しきった充足感に満ちている。


 彼はずっと自分を支えてがんばってきてくれた、もっとも身近な存在である。

 本当は死んでほしくないし、静かに身内だけで暮らせれば十分満足であった。

 だが、世の中は自分たちに優しくなかった。

 グラス・ギースに戻ってこなければよかったのかと問われれば、それは結果論にすぎず、結局は同じだろう。

 この荒野に絶対の安息は存在しない。弱い者は強い者の食い物にされるのが日常だ。

 ゴウマ・ヴィーレとてけっして安全ではない。周囲に敵も多いし、いつ狙われてもおかしくはない。

 これは受け入れるしかない現実なのだ。

 それを受け止めきれない人間は、どうせ長生きなどできない。



 だからこそ、【その行動】があまりに異質に映った。



 誰が見てもレイオンに立ち上がる様子はない。

 勝負が決まったものだと誰もが思っていた。


 しかし―――



 トコトコトコッ



 サナがレイオンに近寄ると―――踏みつける。



 ゴシャッ!!

 倒れているレイオンの首を体重を乗せて思いきり踏みつけた。

 しかも一度ではない。


 ゴスゴスッ!! バキッ! メキイイイッ!!


 何度も何度も蹴る。

 顔を蹴り、胸を蹴り、腕を折ろうと執拗に蹴りを入れていく。


「っ!!? え? …な!?」


 その光景を見ていたミャンメイが、信じられないといった顔で目を見開く。

 なぜ倒れている兄に対して攻撃を続けているのか、まったく理解できないのだ。

 抗議の声よりも先に驚きのほうが強くて、ただただそれを黙って見つめるしかなかった。


「す、ストップ、ストップだ!」


 その代わり、レフェリーがリングに上がろうとする。

 サナ贔屓ではあるものの、すでに勝負はついている。彼が試合を止めるのは正しい判断だろう。


 が―――


「止めるな」

「…へ?」


 アンシュラオンが制止する。


「いや…だが、これはもう明らかに勝負が…」

「まだ試合は続いている」

「た、倒れているだろう! 血も吐き出している!」

「だからどうした。まだ戦闘不能にはなっていない」

「あ、あれでか!? このままでは死んでしまうぞ!!」

「あいつはまだ死んでいない。そして、まだ負けたと言っていない。勝者はすべてを得る。しかし唯一、敗者に負けを強要することはできない。負けるかどうかを決めるのは、あいつだけの権利だ。それを奪うことは誰にも許されない」

「そ、それは…だが…しかし……ううむ」


 アンシュラオンの言葉に嘘偽りは一つもない。

 おちゃらけたり騙そうとするつもりもない。相手を苦しめて楽しもうと思っているわけでもない。

 ただただ事実を述べているだけだ。


 たしかにまだレイオンは負けを認めていない。


 しゃべられないだけという可能性もあるが、武人にとって唯一自由にできることは、自分の死にざまを決めることだけである。

 その権利は彼だけのものなのだ。


 今回、レフェリーはアンシュラオンとグルなので、どうしていいのかと判断に迷っている。


 その間にもサナは攻撃を続ける。

 馬乗りになって、レイオンの頭部を殴り続ける。


 ゴスッ ガスッ ばきっ! ミシミシッ!!



「…はぁはぁ」


 サナの息が少し上がっていた。

 身体を覆う戦気もだいぶ少なくなっている。

 彼女は戦気量に優れるわけではない。溜める動作にもロスが多く、練習の何倍も消耗する実戦で一回虎破を打つだけでも多くのエネルギーを使ってしまう。

 相手がレイオンともなれば油断はできないので、今持てる力をすべて出しきっての攻防だったのだ。

 今ではもう虎破を打つ力すら残っていないかもしれない。

 それでも相手は無抵抗だ。防御の戦気も、ほぼ出ていない。

 ひたすら殴っていくことで、レイオンの頭蓋骨にも亀裂が入っていく。




―――ガヤガヤガヤッ




「お、おい、もういいんじゃないのか? マジで死んじまうぞ」

「そ、そうだよな。もう勝負は決まっただろうに」

「黒姫ちゃんの勝ちでいいじゃねえか。どうしてセコンドが止めたんだ?」

「普通は逆だよな? 訳がわからねぇ。これも演出か?」



 その光景に客もざわつき始める。

 レフェリーが止めれば、そこでサナの勝利は確定だ。

 ミャンメイの権利も手に入るし、晴れて新チャンプの誕生である。何の問題もないように思える。

 だが、なぜかアンシュラオンは試合を続行させた。

 まったくもって理解不能。意味がわからない。


「と、止めて!! もうやめてください!! これ以上、兄さんを苦しめないで!!」


 ようやく状況を理解したミャンメイが叫ぶ。

 兄はもう安らかに眠りたいと願っている。そこに鞭打つような行為に泣き叫ぶ。

 なんと美しい兄妹愛だろう。

 妹は兄の気持ちを受け入れている。受け入れてあげようとしている。

 これが日本ならば哀しい美談として『お涙頂戴』になるかもしれない。


 がしかし、ここは―――【荒野】だ。


「ミャンメイ、君の兄はまだ負けていない」

「そんなこと! もういいじゃないですか!! これ以上やって、どうするんですか! 私はただ静かに暮らしたいだけだったのに! どうしてこんな!! こんなことに…!!」

「ミャンメイ、あいつをよく見ろ」

「こんな! 勝敗なんてどうだって…! もう兄さんは戦えな―――」






「―――ミャンメイぃいいいいいいいいいいっ!!!!!」






「っ―――!!」




 ビイイイイイイイイインッ!!


 アンシュラオンの大きな声が会場全体に響き渡る。

 こんな小さな身体のどこにこんな力が眠っていたのかと思うほど、相変わらずの大声である。

 その声に、思わず客も耳を塞いでいる。

 だが、この男の声は手ぐらいで防げるようなやわなものではない。

 声が、その声が、身体を突き抜け、体内に響き、魂に轟く性質を持っている。


「オレは君に言った。本当の武人の戦いを見せると。そして、君を納得させると。それがまだ果たされていない」

「で、でも、兄さんはもう…!!」

「君は何を見ている? 何を見てきた。オレなんかより何倍もあいつのことを見てきた君が、どうしてこんなにすぐ諦める?」

「兄さんはがんばってきた! だからもう…いいんです!」

「それを決める権利は、君には無い!」

「っ!?」

「心には力がある。相手を強く想う気持ちには、人間が思っている以上の効果がある。君の気持ちは素晴らしいし、素敵だ。だが、ここは地上だ。本当に相手を想うのならば、物的な方法で相手を支援しなければ気持ちは伝わらない。君はなぜ【応援】をしない?」

「おう…えん?」

「そうだ。君は戦いには無力だ。何の力もない。しかし、兄を応援することはできる。地下に来てからずっと見ていたが、君は兄を応援したことが一度もない。なぜだ?」

「な、なぜって…兄さんにはもう楽になってほしいから…今まで迷惑をかけてきたから…」

「甘ったれるなぁああああああああ!!」

「っ!!!」

「何が迷惑だ!! 妹がいることで兄が迷惑することなど、何一つありはしない!! むしろそれは君の甘えだ!! 君がそう思っているからレイオンの足を引っ張っている!」

「わ、わたし…私は…! でも、そんな…」

「言っただろう。これはただの戦いじゃない。君が納得するためのものだ。君はこれでいいのか? 満足しているのか? このまま終わって【楽しい】のか?」

「っ…た、たのしい…?」

「そうだ。この世のすべては楽しいものなんだ。君から見たら血みどろの戦いは無意味で愚かなものだろう。無価値なものだろう。だが、武人からすればそうではない。武人は命をかけることを楽しんでいるんだ。狂人だと思うかい? 普通の人間ならば、そう思うだろうね。だが、事実だ」


 アスリートが必死になってがんばっている最中は、とても苦しいだろう。

 歯を食いしばって汗を流して、表情だけを見れば苦行にしか映らないに違いない。

 では、なぜ彼らは続けるのか。


―――楽しいから


 である。

 楽しくなければ続けることなどできないだろう。

 苦しみもまた楽しみなのだ。苦しいからこそ楽しいのだ。


「人の魂は、苦痛によって成長する。極限まで追い詰められた時だけに、次の領域に足を踏み入れることが許される。だからオレたちは、わざわざこんな世界で生を享ける。成長するためだ。進化するためだ」

「こんな苦しいこと…もう無理です…もうこんなの……」

「君は嘘をついている」

「…え?」

「君は本心を隠している。一度たりとも表に出したことはない。君が奥ゆかしい女性だから、それも仕方がないことだろう。それでも今この瞬間、君はどうしたいんだ? どうあってほしいんだ? なぜ叫ばない? なぜ隠す? 怖いのか? こんな状況になっても、まだ怖いのか? 今よりも怖いことがあるのか? 今を逃したら、もう本当の手遅れなんだぞ。それでもまだ心を隠すのか?」

「あっ…ぁ…」


 今、目の前では最愛の兄が死にそうになっている。

 それを見て、自分は何を思っているのか。

 彼に楽になってもらいたい。それは事実だろう。嘘偽りのない気持ちだ。

 だが同時に、いやそれ以上に、失いたくない気持ちのほうが強い。

 当たり前だ。家族だ。兄妹だ。一緒に暮らしてきた存在だ。


 ずっと何かに追われてきた。


 生きることに疲れてきた。飽き飽きしてきた。何も変えられないと思ってきた。

 だから慣れてしまった。受け入れることに、諦めることに。



 そんな自分を―――貫く声がする。



 目の前の少年が白く輝いている。

 見間違いではない。実際に溢れ出ている力だ。

 戦気ではない。相手を滅するための気質ではない。

 強くて大きくて、あまりに深くて広くて、世界がそこから始まるような輝きである。

 愛と同じくらい偉大で、愛の前に存在した無限の力。

 絶対神が宇宙創世にもちいた最強の力、その光、その無窮の叡智。




「オレが許す。オレが認める。この世界のすべてが君を否定しても、オレが力づくで認めさせる!!!」



「だから―――!!!」






「叫べえぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」







「は、はぃいいいいいいいいいいいいいい!!」



 その声に触発されて、ミャンメイが叫ぶ。

 久々に大声を出したせいだろうか、声は微妙に震えてかすれていた。

 なぜ叫んだのかもわからない。彼の声に引っ張られて自然と身体が動いてしまった、といったほうが正しいだろう。



 だが―――じんわり



(あっ…気持ちいい)


 ミャンメイの中に、じんわりとした熱が宿った。

 大きな白い光から溢れた光の一部が、自分の中に入り込み、新しい熱源として残っていることがわかる。


 それは―――【白い太陽】。


 灼熱の白光を放射して、周りのものを突き動かすエネルギー。


 まるでまるでまるでまるでまるでまるで―――



 それは―――心臓のように!!!!



 熱く脈動して、熱い、暑い、厚い、篤い、


 あつーーーーーーーーーーーーーーーいい!!



「あああ!! あああああああああああああ! にい…さ……! にいさ……んっ!! ああああ!! にいい……さああ!!!」


 胸を押さえ、目一杯の空気を吐き出すように声を振り絞る。


 どくんどくんどくんっ どくんどくんどくんっ


 身体に宿るすべての熱量を集めて、喉から口へ、口から外へと向かって押し込んでいく感覚。

 この瞬間、すべてがなくなってもかまわないと思えるほど、全身全霊の力が集まっていく。


 消えろ、消えろ、消え去れ、消し飛んでしまえ!!!

 私の中にあるすべての暗いものが、白い光で消えてしまえ!!

 溜まっていた汚いものも綺麗なものも、すべて出してしまえ!!!



 出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ

 出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ
 出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ


 出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ
 出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ
 出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ
 出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ
 出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ
 出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ
 出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ
 出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ
 出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ
 出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ出せ



 だせぇえええええええええええええええええええええええええ!!






「にい―――さぁあああああああああああああああああ!!」





「負けないでぇええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!」







429話 「武人の身体 後編」


 ミャンメイが叫ぶ。

 アンシュラオンの【王気】に触れた彼女の心が、激しい情動に襲われ、叫ばずにはいられない!!


 溜まっていたもの! 感じていたもの!

 不安だったこと! 哀しいこと! 納得できないこと!

 怒っていること! 嬉しいこと! 楽しいこと!

 そうあってほしいと思っていること! こうありたいと願うこと!!

 わたしが望むこと!! こうしたいこと!!


 そのすべてを吐き出さずにはいられない!!!



 いられないぃいいいいいいいいい!!!!




「兄さん!! 立って!! 立ってよ! 兄さんはいつだって強かったじゃない!! だからずっと強くいてよ!! 強くて大きい兄さんが大好きなの!! 私の憧れなの!! だから強くなきゃいけないの!! こんなところで負けないでよ!!」



 兄。

 子供の頃から妹は強くて大きな兄について回っていた。

 彼女にとって兄とは男の象徴であり、この世界で一番頼りになるものなのだ。

 だからずっと強くなくてはいけない。何があっても負けてはいけない。



「いつだって思い通りにならなくて! それが当たり前だと思っていて! でも、そんなことはもう嫌なの!! 私は私の思い通りにしたいの!! だって、そうでしょう!! 私だって人間だもの! 思っていることや考えていることだってあるわよ!! そう、そうよ!! 私は道具じゃない!!」



 すべてを受け入れて生きてきたわけではない。

 嫌なことを我慢してきただけだ。耐えてきただけだ。

 世の中は不平等だ。荒野は人間に優しくない。女はいつも男に利用される。

 それを受け入れるのは、そうしないと暮らせなかったからだ。

 本当は嫌だ。

 そんなことは望んでいない。

 誰だって平等に扱われたいし、生き甲斐を見つけたい。

 私は私だ。一人の女であり人間だ。



「悔しくないの!!? 兄さんは悔しくないの!! いつも誰かの思惑に翻弄されて、望まないことをしていて!! 今はニーニアより小さな女の子に倒されて! 兄さんは悔しくないの!!! 私は悔しいよ!! 兄さんが倒されて悔しい!! 絶対に認めたくない!! 立って!!! 立って!!! やるなら最後まで意地を通してよ!! そんな兄さんなんて見たくないからね!!! こんなの、こんなの―――!!」






「私は嫌だよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」






 はぁはぁはぁはぁ

 息を切らす


 どくんどくんどくんどくん

 心臓が高鳴る


 ぼぉぼぉぼぉぼぉ

 魂が燃える


 彼女の中にある『白い太陽の残滓』が燃え盛って、後押ししてくれている。

 もっと叫べ。自分が言いたいことを言え。

 誰に遠慮しているんだ。何を怖れているんだ。

 顔も知らないクズどもに批判されることを怖がっているのか。

 くだらない。くだらない。くだらない。

 そんなことで自分の輝きを見失うなんて、愚かなことだ。


 たたきつけろ。叩きつけろ。叩き付けろ!!


 想いを、想いをおおお! その想いをおおおおおお!!!


 ぶちまけろおおおおおおおおおおおおお!!






「にいさああああ呼嗚呼嗚呼嗚呼アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああんっ!!」





 ミャンメイから白い光がこぼれる。


 白い太陽から溢れる力が彼女の魂を経由して、倒れているレイオンに注がれる。





(…あつ……い。あつい……)


 レイオンが熱を感じる。

 すでに血流が止まって体温が急激に下がり、寒気すら感じていた彼に、突如として強烈な熱気が浴びせかけられた。

 それはまるで水風呂に入っていた人間に熱湯をぶっかけるようなもの。

 いくら寒いからといって、いきなり熱湯をかけるなんて酷すぎる。もう少し順序や程度というものがあってしかるべきだ。

 そんな抗議の声すら無視して、熱量は注ぎ続けられる。


(この熱は…ミャンメイなのか? 俺は…俺は……ぐうっ…からだが……くそっ、やはり……うごかん)


 ミャンメイの声は聴こえていた。

 殴られて骨に亀裂が入る音すらぼやけているのに、彼女の声だけははっきりと聴こえる。

 これは言葉だが、厳密な意味で言葉ではない。

 【振動】だ。

 ミャンメイの魂が振動し、想いを発している。それをレイオンの魂が同じ振動数で感知している。

 だから聴覚は必要ない。ただ感じればいい。


 しかし、現実は残酷だ。


 身体は動かない。キノコが破損したせいで機能を停止している。

 妹の声援に応えようと動きたいのは山々だが、どうしても動かないのだ。

 仕方ない。これが法則というものだ。死人が蘇らないように、いくら想いが強くても地上では物的法則が優先される。


 レイオンは一度死んだ。


 肉体機能が停止したところを医者に助けられ、博打要素の強い手術によってかろうじて生き延びたにすぎない。

 いや、逆だろうか。

 追われていた医者を助けようとした結果が、このざまである。

 自分の甘っちょろい正義感などまったく通じなかった。ただただ強い力の前にゴミクズのように殺されてしまった。

 後悔しているのか?

 そのことを悔やんでいるのか?


(ミャンメイを巻き込んだことは…俺のミスだ。もう一度やり直せたら…)


 そうか。悔やんでいるのか。


 そうか。そうか。そうか。そうか。


 なるほど。なるほど。なるほど。






「レイッ―――ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!」






「っ―――!!!」




 ビリビリビリビリィーーーーーーーーーーーーッ!!


 グラグラグラグラグラッ


 アンシュラオンから発せられた凄まじい大声に会場全体が揺れる。

 ミャンメイの叫びも心に響いたが、比べるのもおこがましいほどに規模が違う。

 大地が揺れている。遺跡全体が揺れている。

 たった一人の男の声に揺れている。

 しかもその言葉は、声援とはまったく違う。




「お前も甘えるなぁあああああああああああああああ!!」




 
 ビシビシビシッ バリーーーーーーンッ!


 言葉に力があるとは、まさにこのこと。



 声が―――【結界をぶち破った】



 大気の振動そのものが違いすぎて物理的な力になったのだ。

 プライリーラでさえ殴っても破壊できるか怪しい術式である。

 それを拳でも足でもなく、ただの声でぶち破る!!

 破天荒、ここに極まれリ!! 極まれり!!



 ドーーーーーンッ!! ごろごろごろっ どすん



 そして、そのままサナごとレイオンを吹き飛ばす。

 サナは自力でリングにとどまったが、レイオンは転がってリングから落ちてしまった。


「兄さん!」

「触るな!!」

「っ!!」


 助けようとしたミャンメイをアンシュラオンが止める。

 結界が破壊されるなど想定されていないため、レフェリー以外が触ったら負け、というルールはないが、そもそもこの男がそんなことを考えているわけもない。

 ただただ激しい怒りをぶつける!!



「レイオン、貴様!! それでも兄か!! 妹の声援を受けたにもかかわらず、まだ眠っているのか!! なんとふがいない! なんと弱い!! それでも武人かぁああああああああああああああああああああああああああ!!!」



「ひぅっ!!」



 ビリビリビリビリィーーーーーーーーーーーーッ!!


 ドーーーーーーーーーーンッ!!


 アンシュラオンが叫ぶたびに会場が揺れる。

 これはもう天変地異に等しい威力だ。音波兵器に匹敵する。



「お前は何のために戦っている!! 守るためか!! 勝つためか!! 復讐のためか!! そんなことはどうでもいい!! いいか!! 武人に必要なのは、強くあることだ!!! ただただ強くあることだ!! それができなくて、なにが武人かああああああああああ!!」



「肉体が弱っている? 動かない? 甘ったれるんじゃない!!! 気合で動かせ!! 気迫で叩き起こせ!! それができないのならば、そもそもお前に戦う資格などはない!!!」



「武人に肉体の強さなど必要ない!! 必要なのは気迫だ! 気合だ! 気合だ!! 気合だぁああああああああああああああああああああ!」




 昭和の匂いが漂う『精神論』である。あるいは軍国時代を彷彿させる。

 正直、これは嘘だ。

 武人にとって肉体は重要だ。因子の覚醒も肉体に作用するので重要視されている。

 弱い心であってもゼブラエスのような肉体を持っていれば、そこらの魔獣に負けることはない。

 四大悪獣が襲ってきても返り討ちにできるだろう。


 しかし、である。


 この世界は意思が具現化しやすい環境にある。

 思ったことが実現しやすい条件が整っている。

 意思は、その意思は、猛々しい意思は、燃えるような意思は、輝きをもって世界を構成する!!!

 燃えろ、燃えろ! 燃やせ、燃やせ!!!





「お前の魂を燃やせええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!」





 ボオオオオオオオオッ


 アンシュラオンから凄まじい【王気】が発せられる。

 太陽そのものが目の前にあるほどの熱量。

 それでいながら火傷をすることもない圧倒的な炎。

 それも当然だ。これは魂を【再構築】させる強烈な力なのだから!!


「…っ!」


 まずそれに反応したのは、サナだ。

 両手で自分の肩を抱きしめ、うずくまる。

 彼女の漆黒の世界に白い光が集まっていく。


 なんという―――快感。


 頬が赤くなる。身体が震える。

 彼女が初めて感じる『エクスタシー』に打ち震える。

 ベルロアナとの勝負の時も同じような王気を受けたが、あれから成長して感情が芽生え始めたサナにとって、これは強烈な力であった。


 次にレイオンである。

 彼が王気を受けるのは初めてのことだ。

 その彼には、劇的な変化が生まれていた。


「がはっ!!」


 どくんっ どくんっ!!


「ぶはっ!!」


 どくんどくんどくんっ!!


「がはっ! げほっげほっ!!」


 レイオンが激しく痙攣している。

 電気ショックで止まった心臓を動かそうとするように、身体が大きく跳ね上がる。

 そのたびに彼の口からは紫色の液体が大量に吐き出されていた。


 どくんどくんどくんっ どくんどくんどくんっ!!

 ぎゅるっ ぎゅるるるっ ぎゅるるるるうるるるっ!!


 強制的に血流が生まれ、回り、全身を駆け巡る。

 それと同時に吐き出す血液も多くなる。


 バンッ ぶしゃーーーーーーーーっ!

 ドバドバドバドバッ ドバドバドバドバッ


 仕舞いには、ついに血管が破裂し、皮膚を突き破り、全身から出血するという異常事態に襲われる。

 身体中から血を噴き出す。

 この段階で、誰もが死を連想するだろう。

 明らかにおかしい。絶対に死ぬ。生きているわけがない。

 そう、それが『常識』だ。



 だが、この男は―――【非常識】!!!



 だからどうした!! それがどうした!!!


 そんなものがどうしたぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!



 どくんどくんどくんっ!

 どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ!

 どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ!

 どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ!


 どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ! どくんどくんどくんっ!


 ブシャーーーーーーーーーー!!


 その出血量は数リットルというレベルではない。

 浴槽一杯に溜まってもおかしくないほどの血液がレイオンから湧き出す。

 彼の体重からすれば、血液量は8リットルくらいはありそうだが、軽く十倍に匹敵する量である。



「に、兄さん! な、何が…! ああ、兄さん!」

「ミャンメイ! 弱気になるな! 君は兄を信じていればいい!」

「ほ、ホワイトさん、これは何が起きているんですか!!」

「武人という存在を普通の人間と同じに考えてはいけない。まったく別の生物なんだ。因子が覚醒するとそうなるんだ。いや、そもそもこれが本当の人間の姿なんだよ。こいつは今、本当の武人として蘇ろうとしている」

「こんなに血が出ているのに!?」

「そうだ! 心配する必要はない! 立て、レイオン!!! このまま負けてミャンメイを手放すつもりか!! オレの妹に負けたままでいるつもりか!! 全力も出せずに満足か! お前はそれでいいのか!!」





「この―――馬鹿者がぁあああああぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁああ!」





―――白い爆発




 レイオンの中で、何かが起こった気がした。

 すでに彼の意識は休眠状態に入ろうとしていて真っ暗だったが、そこに白い核弾頭がぶち込まれる。


 最初に光があった。


 宇宙を創造した絶対神と呼ばれる存在は、究極の力そのものだった。

 その根源は光。

 無限のエネルギーであり、叡智であり、愛もまたそこから生まれたものだ。

 生命のすべてが宿っており、その根幹があり、すべてを創造する力。


 これは―――女神すら超える力




「ううっ…おぉおお……ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」




 ぶしゃっ ぶしゃっーー ごぼごぼっ

 全身から血を噴き出しながら、レイオンが腕に力を入れていく。

 ぎゅるっ ぎゅるるんっ

 それに伴って血液が巡り、彼に力を与えていく。


 動く、動く、動くっ!!


 手を動かし、足を動かし、最初は赤子のようにたどたどしかったが、次第に全身に力が入るようになっていく。


 そして―――







「俺はぁああああ!! 俺はぁあああああああああああああ! うごくぞおおおおおおおおおおおおお!!」







―――立つ




 立つ立つ立つ!!


 立つぅうううううううううううううう!!





430話 「目覚めしキング・レイオン 前編」


「うううっ…ううううううう!! うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 立ち上がったレイオンが叫ぶ。

 ブシャーーッ ドバドバドバッ

 身体からは、いまだに血液が噴き出し続けている。出血量は減るどころか増え続ける。

 だが、彼は生きている。生きようとしている。

 その心が身体に強烈に作用する。


「ぐうっ…! げぼっ!」


 ドバドバ ドバドバッ

 紫色の血液を口からも吐き出す。


「ぐうううっ!! あああぁあああ!!! ぐううっ! ちくしょう!! いてぇええええ!! いてぇええええんだよおおおお!!」


 そして、突然暴れ出す。

 がくんっ どんどん どんどんっ!

 立ったのも束の間、再び膝をついて床を叩いている。

 ただでさえ出血している最中にそんなことをしたものだから、さらに血液は流れ出る。

 やはりこの光景は異常だ。



「兄さん! どうしたの!?」


 ミャンメイは言われた通り、兄に触れることはなかった。

 いや、触れられない。

 あんな状態のレイオンにどうやって触れればいいのだろうか。

 あまりの痛みに我を失っているので、妹のミャンメイであっても近寄れば危険だ。


「心配はいらないよ。身体の中の異物を吐き出しているんだ。あの血液は、あいつにとって不要なものなのさ。今は肉体操作ができないから強烈な痛みが神経に走っているだけだ。あの程度で死ぬことはない」


 近くまで歩いてきたアンシュラオンが冷静にレイオンを観察する。

 一般人にとっては異常な光景でも、武人にとってはそこまで珍しいものではない。


「オレだって昔は何度もああなったもんだよ。姉ちゃんにボコられたら、あんなのは日常茶飯事さ」

「あ、あれで…ですか?」

「ああそうだよ。風邪になれば熱が出るだろう? それと同じさ」


 身体には病原菌が入ると、熱を出して除去しようとする【免疫機能】がある。

 あるいはウィルス性のものならば、下痢になって体外に出そうとする。

 人間にとってはつらい症状だが、身体は必要だからそうしている。むしろそうしないと治りが悪くなるのだ。

 それを大騒ぎして薬を無闇やたらに投与するから、人間という種は弱くなっていった。

 発展途上国の人間が自国の汚い水を飲んでも大丈夫だが、今の日本人が飲めばすぐに病気になってしまうだろう。

 惰弱、脆弱、軟弱だということだ。


 それは今の武人にも当てはまる。


 かつての武人は誰もがアンシュラオンのように強かった。

 因子レベルが高かったので、肉体能力も極めて高かったのだ。

 だが今の武人は弱くなり、簡単に死ぬようになった。甘やかすようになったからだ。

 だからキノコなどというものに頼らねばならない。胡散臭い水や石に頼らねばならない。


 そんなものは―――不要!


 不要と言ったら不要!!

 武人には、不要である!!



「がぼっ…ぶはっ!!」


 ぼちゃぼちゃっ どぼん

 レイオンが最後にひときわ大きな紫色の塊を吐き出す。

 それは心臓に付着していたキノコだ。潰れて使い物にならなくなったキノコだ。

 そうにもかかわらず血は止まらない。


 ドバドバドバッ ごぷぷっ


「人間の血液量を考えれば、あいつが出している量はおかしい。ならば答えは簡単だ。今この瞬間、身体が血を生み出しているんだ。燃えるように爆発的にな。これこそが生命の誕生だ」


 血液は武人にとって非常に重要だ。

 それ自体が力の源であるといっていい。

 ならば武人の因子が活性化すればするほど、製造される血液量が増えることになる。

 今レイオンの因子は、いまだかつてないほどに燃え盛っている。

 アンシュラオンの王気、人類の霊を導く最強の力によって【創造力】を与えられ、極限にまで高まっている。


 王気とは、創造の力だ。


 絶対神そのものでもある自然法則の中において、王気もまた法則だ。

 その中でもっとも力強い法則が、王気なのだ。

 意思がある限り、武人として戦う本能がある限り、肉体はそれに応え続ける。


 じゅうううううっ ぴたぴた


 破れた血管が、血の熱量と、大量に生産された血小板によって急速に付着修復されていく。

 『自己修復』スキルと原理は同じだ。遺伝子情報を参照して、元通りにしようとする力が発生しているのだ。

 アンシュラオンは『スキル』と称しているが、これもまた武人本来の力なのである。

 武人因子の覚醒によって技が使えるようになるのと同じく、肉体の中には完全なる情報が眠っている。

 突然スキルを覚えるのも、最初から持っているものを引き出しているにすぎない。


 つまり究極の武人とは、『すべてのスキルを持っている』と述べることもできるのだ。


 現在のレイオンは一時的にブースト状態になっていて、自分が持っている実力以上の力を引き出している。

 言い換えれば、これも『グランド・リズリーン〈偉大因子共鳴〉』に近しい現象だろうか。

 べつに強くなるわけではない。ただの修復なので血の沸騰のように危険ではない。

 眠っていた血が覚醒し、本来の武人としてあるべき姿に戻ろうとしているだけだ。


「本来の武人とは何か。それは戦闘力があるというだけの話じゃない。存在そのものが強いんだ。人間の無限の可能性を体現する存在なんだ。あいつがどんな病気かは知らないが、そんなもの―――なんてことはない!!!」


 そんなものが、なんだというのだ!!

 たかが心臓が止まっているだけで死ぬような弱い存在が、本物の武人であるはずがない!!


 心臓がないだと? ならば生み出せばいい!

 血がないだと? ならば作ればいい!

 もともとこの世界は塵から作られたのだ。

 それくらいできなくて、なんとするか!!


 蘇れ!! よみがえれ!! よみがえれ!!!


 よみがえれぇえええええええええええ!!

 心を燃やして、すべて蘇ってしまぇえええええええええええええええ!!





「ぐうううっ―――おおおおおおおおおおおお!!」





 ボオオオオオオオオッ

 レイオンから激しい戦気が噴出する。


 ごぼごぼごぼっ ごぼぼっ

 壊れた臓器が復元していく。


 ガゴッ ゴギッ ギチチチッ

 折れて亀裂が入った骨がくっついていく。


 ぐぐっ ぐぐぐぐっ!!

 痩せ細った筋肉が盛り上がる。


 普段は無愛想で無口な男。

 ぶっきらぼうだが妹には優しい兄。

 くだらない正義感で身体が死ぬような馬鹿な男。


 だが、その本質は―――武人!!


 武人ならば、立て!!

 自らの力で、自らの意思で、立て!!!



 立ち上がって―――




 戦えぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!





「はぁはぁはぁ!! はぁはぁはぁ!!」



 じゅううううううっ むわむわ

 まるでサウナにいるように、レイオンの身体から大量の蒸気が沸き上がる。


(なんだか…心地よい)


 全身の垢をすべてこすり落としたような感覚。

 適度な睡眠を取り、頭がすっきりとしているような感覚。

 軽いジョギングを終えて、身体が温まってきたような感覚。

 ただ立っているだけで心地よい。満たされる。充実する。


(そうだ…心臓は! 心臓はどうなった!!)


 無意識のうちに恐る恐る心臓に手を当てる。

 いつからだろう。これが癖になってしまった。

 そしていつも、かろうじて動いていることに安堵する。


 それが―――どっくんっ!!


「っ!!」


 どっくんっ! どっくんっ! どっくんっ!!

 弱々しかった心臓が、凄まじい自己主張を繰り返してきた。

 押し当てた手を、さらに押しのけるくらい激しくだ。


「こ、これは…どうなっている!? 俺はどうなった!! どうしてこんなことが…!」

「ようやく目覚めたようだな」

「っ! お、お前は…!! 俺に、俺に何をした!!? 説明しろ!」

「さぁ、知らないな。それをやったのはお前自身だ。オレに訊かれても知るわけがない」

「俺…が? こんなことを? 馬鹿な! そんなことができるわけが―――」

「できる!!!」

「っ!!」


 アンシュラオンがレイオンに近づくと、心臓に手を当て―――発気。

 どんっ!!!


「ぐうううっ!!」


 強い力にレイオンが吹き飛ばされ、壁に激突する。


「いきなり何をする!!」

「油断しているお前が悪い。試合前に奇襲を受けたことをもう忘れているようだな」

「くっ…!」

「心臓を見てみろ」

「心臓…?」

「今放った力は、さきほどあの子が殴ったときより強いものだ。お前の心臓はどうなっている? 止まっているか?」

「っ…!」


 慌てて心臓に手を当てるが―――


 どっくんっ! どっくんっ! どっくんっ!!


 むしろさきほどよりも強い力で押し返してきた。

 「当たったけど、それが何か?」くらいの感じだ。まったくもって平然としている。


「なっ…!! なぜ!!」

「それが通常の状態ということだろう。武人のお前に言うのもなさけないが、武人を侮るなよ。オレたち武人は戦うための存在だ。存在自体をかけてすべてと戦うんだ。それそのものが『生きざま』なんだよ。それを信じていないから肉体が弱る。うつ病で自分が弱っていると思い込むのと一緒だ」


 自慢げに説明しているところ申し訳ないが、ちょっとたとえがおかしい。

 レイオンの場合は本当に心臓がやられていたので、精神病で身体が弱ることとは別問題だ。

 ただ、言いたいことはわかるし、間違ってはいない。

 武人が人類の可能性であることは事実である。

 一見すれば「こんなの卑怯だ! 酷い設定だ!」と言いたくなるようなことも、彼らはやりのけてしまう『可能性』を持っている。


 そう、可能性だ。


 いつだってこんな凄いことが起こせるわけではない。世の中には必ず法則があり、絶対の自然法則に違反することは不可能だ。

 だからこれも法則の一部といえる。


 いえるのだが―――驚異的


(たしかに噂では聞くが…本当にこのようなことが起こせるのか!? いったい何が起こったんだ! …そう、そうだ! こいつだ! こいつがやったんだ! そうとしか考えられない!!)


 レイオンの精神が肉体を凌駕したのはたしかだろう。

 ずっと歯を食いしばって生きてきたのだ。ミャンメイと同じく悔しい想いを抱いてきたのだ。

 こんなところで負けてたまるか、という気持ちはあった。

 あったが、それでも身体は動かなかったのだ。


 すべてはアンシュラオンが―――【霊的法則を動かした】せいだ。


 『王気』という巨大な力を無意識のうちに発動させたのだ。


 それはまさしく偉大なる【王】の輝きである。


 まったくもって理不尽。究極のご都合主義である。

 しかし、地球を生み出したのが神の力であるように、世界は驚くべきほどの叡智と驚異に満ちているのだ。

 たかが人間一人程度、しかもこんな矮小な存在を蘇らせるなど、たいしたことではない。



(なんという男だ…! 俺が思っているよりこいつは…!)


「おい、ぼけっとするな。まだ試合中だぞ」

「っ!」


 レイオンが反射的にリングのほうを向くと、サナがこちらに向かって跳んでいたところだった。

 サナはレイオンの顔面に向かって、蹴りを放つ。

 レイオンは咄嗟に片腕でガード。

 バシッ

 サナの鋭い蹴りを軽く受け止める。


「身体が…動く!」

「当然だ。何を驚いている。うちの妹のほうがよほど冷静だぞ」


 レイオンが自らの身体の変化に驚いている間に、サナはさっさとリングに戻っていた。

 彼女にとっては、レイオンの変化などどうでもいいのかもしれない。

 このあたりはさすがのクールさだ。


「審判、試合続行だ。いいな?」

「あ、ああ…だが…あの……いいんですか?」

「何か問題か?」

「い、いえ。は、はい。大丈夫です」


 その事態に周囲の人間は完全に置いてけぼりだ。

 審判も思わず敬語になるほど驚いている。驚愕している。

 なにせ床には、大雨で住宅が浸水したかのように、いまだレイオンが流した血に塗れているのだ。

 それと比べてレイオンの身体のなんと綺麗なことか。

 この男が流した血とは到底思えない。


「ホワイト、礼は言わんぞ」

「お前に礼など言われるのは気持ち悪い。絶対にやめろ。お前がやることは一つ。あの子と全力で戦うことだ。そのためにわざわざこんな手間をかけている。少しは役立ってもらうぞ」

「…いいだろう。だが、あの子が負けても後悔するなよ。俺のように心臓が止まっても責任は取れないぞ」

「やれるものならばな。甘く見れば食われるのはお前だ」

「それはすでに思い知っているさ」



 ドンッ


 レイオンはリングの上に跳躍。サナと向かい合う。

 その動きも実に軽々としたものだ。


(まったくもっておかしな話だ。何一つ理解しきれん。しかし、俺は戦える。戦えるんだ。もしそうならば、そんな夢くらい見たっていいはずだ)


 なぜこうなったのか正直わからない。

 わからないが、身体が動くという事実を受け入れるほうが現実的だろう。

 いつもままならない現実に苦しめられてきたのだ。たまには良いことがあってもかまわないはずだ。

 それに自分は、頭であれこれ考えるのは苦手である。


「いくぞっ…!!」


 レイオンがサナに向けてダッシュ。

 足に力を入れる。

 この時、わざわざ「俺はこれから足をこう動かして、こうして動かして、こうやって前に進むんだ」と考える者はいない。

 精神を担当する潜在意識が、身体に刻まれたデータを参照して「走る」という行動を自動的にやってくれる。

 だから何も考えないで力を入れる。


 ぐうううっ バンッ


 身体が躍動する。前に進む。

 床を抉らんばかりに強く蹴り上げ、身体が浮遊する感覚に包まれる。


「…っ」


 一瞬でサナのもとに到達。

 彼女も注視していたが、「見る」という動作が追いつかないほどの速さだった。


 そして拳を―――叩きつける!


 ドガスッ!!


 思いのままに振り抜いた拳が、ガードしたサナの腕を叩く。

 ミシミシミシッ ぶわっ

 骨が軋む音と同時にサナの身体が浮き、弾ける。


 ドンッ ごろごろごろっ


 吹っ飛んだサナがリングを転がっていく。

 ただ、追撃はなかった。

 レイオンは、ただただリングの上に立っていた。

 立って、立ち尽くして、感触を噛み締めていた。



「き、気持ち…いいい!!!」





431話 「目覚めしキング・レイオン 後編」


「うううっ…うううっ!! き、気持ちいい!!! 気持ちいいぃいいいいいいいいいいいいいいいい!!」


 レイオンが追撃すら忘れて、自分の身体の感触に打ち震える。

 拳を思いきり握ること、走ること、殴ること。

 臓器が動いている、血が巡っている、筋肉が躍動している。

 運動不足の人間がいきなり全力運動をするとつらいだろうが、それに慣れてくれば筋肉の躍動はむしろ快感になっていく。

 動けることが気持ちいい。何も気にせず戦えることが最高に心地よい。


 だから、叫ぶ。



「うおおおおおお!!! 気持ちいぃいいいいぞおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」



 ブオオオオオオオッ

 全身から強烈で鮮烈な戦気が放たれる。

 まさに生まれ変わったフレッシュな勢いを感じさせる波動だ。

 男が気持ちいいを連発するのだけはやめてほしいものであるが、それだけ彼にとっては大きな出来事だということだ。

 今までのことを思えば仕方ないだろう。



「…むくり」


 サナが起き上がる。

 両手にはまだ強い痺れが残っているのか、腕の動きが鈍い。

 これが本当のレイオンの拳。本来の威力なのだ。


「やつは認めがたい男だが、恩人であることには違いない。だから俺も約束を果たす! 手加減はしないぞ!!」


 レイオンが立ち上がったばかりのサナに走る。

 それを見たサナは横に飛び退く。

 直進してくる相手をかわすには、こうして角度を変えてしまうのが一番だ。


 が―――


 ぎゅるっ ドンッ!!


 床を強く踏みしめたレイオンが直角に曲がって、一瞬でサナに追いつく。

 この大きな身体で機敏な動きをすることは驚きであるものの、実際のところパワーでなんとかなってしまうのが戦いの世界だ。

 水泳にしてもハイレベルの世界では、より抵抗の少ないスムーズな動きが求められるが、実力差がある場合は雑なバタ足でも力があるほうが速く泳げる。

 生粋の戦士であるレイオンの身体能力は高い。

 魔獣が跋扈する荒野を生身一つで生き抜く連中なのだ。強くて当たり前だ。


「…っ!」


 サナは再びガードの構え。

 両手をクロスさせて最大限の防御態勢に入る。


「関係ない!!」


 そのサナを―――蹴り飛ばす!!


 ドンッ! ミシミシッ!!


 ガードなど関係ない。その上からかまわず蹴りを入れる。

 サナはかろうじて防ぐも、すぐに後ろに下がる。

 すでに打ち合うという選択肢はない。今は逃げるのが先決だ。


 レイオンはさらに追撃。

 再び一瞬で追いつくと、蹴り。


 ドンッ! メキメキィイイッ!!


 ガード越しにもう一度蹴りを入れる。

 その光景は、まさに子供を思いきり蹴る大人の構図である。



 そして―――ぶらん



 サナの左腕が垂れ下がった。

 よく見ると不自然に角度が少し変わっている。折れたのだろう。

 復活したレイオンのパワーは凄まじく、ガード越しでもダメージを吸収しきれない。

 当然スピードも上がっているので、くるとわかっていてもよけられないのだ。


 それでもサナは、戦う姿勢を曲げない。


 なんとか踏ん張ると、残った右手でレイオンの脇腹に拳を叩き込む。


 ゴンッ


 なかなかいい音がした。腰が入った良い一撃だ。

 防御の直後にこれが打てるのは、彼女が左腕を【わざと犠牲にした】からだ。

 最初の一撃で何度も受けると危険と判断した彼女は、即座に左腕を捨てる決断をした。

 このあたりも今までの経験が生きているのだ。戦罪者を見捨てたことが見事に活用されている。


 しかし、その決断をしたとて―――


 ぐんっ!


 今のレイオンの身体には通じない。

 死ぬ前の全盛期の力を取り戻した彼の肉体は、鋼のように硬く、タイヤのように弾力がある。

 サナの拳、それも弱った一撃など簡単に受け止めてしまう。


 攻撃に失敗したのならば、次は反撃を受ける番だ。


 サナは攻撃直後で動きが止まっている。

 そこにレイオンの強烈なアッパーカット。

 身体をねじり捻り、地面すれすれを這ってきた拳が急上昇。

 全力でサナのアゴを捉える。


 ごっ


 拳が当たる。

 レイオンの身体は大きい。拳だけでもサナの頭の半分以上はある。


 それが―――振り抜かれる。



 ゴオーーーーーンッ!!!



 サナの頭が跳ね上がった。

 それだけにとどまらず、宙を吹っ飛び、すでに透明の壁はなくなっているのでリングの外にまで飛んでいく。


 ドンッ どさ


 会場の床に激突。そのまま動かなくなる。



 強烈。あまりに熾烈。



 約束通り、レイオンは手加減をしていない。

 今の攻撃もサナを殺しても仕方がないと思って放った一撃だ。

 大人が本気で繰り出す暴力がいかに怖ろしいかを痛感する。

 ただし、レイオンはそんなことを気にも留めていない。

 感じるのは、ただただ快感である。


(こんなに…こんなにも!! 健康とは素晴らしいものだったのか!!)


 人間の欲望は大きく深く、お金が欲しいやら彼氏彼女が欲しいやら、俗的な欲求ばかりを抱くものである。

 しかし、寝たきりになってはそれもすべて無意味。

 全世界を動かす金を手に入れても、自身が寝たきりの植物状態だったら意味がない。価値がない。使う暇がない。



 健康こそが―――最高の贈り物



 なぜ神たる自然法則は病気を与えるのだろう。老いや苦痛を与えるのだろう。


 それは、今ある幸せを教えるためである。


 病気にならねば健康のありがたみはわからない。

 同時に病気の人の気持ちもわからない。彼らの痛みや苦しみがわからない。

 だから【叡智】を求め、人は底辺を自ら望んで生きるのである。


 肉体が一度死んだことで、彼は知った。


 全力で戦う喜び、すなわち【武人の悦び】を!!


 知った、知った、知ったのだ!!!



「俺は!! 俺はぁああああああ!! うおおおおおおおおおおお!! 幸せ者だぞおおおおおおおおおおおおお!!」



 ボオオオオオッ

 猛る、猛る、猛る。

 レイオンの戦気が燃え滾る。





「す、すげぇ!! レイオンが…咆えてる! あんなの初めて見た! うほっ!」


 出ました。トットの「うほっ」。

 彼にとってこれは最上級の褒め言葉だ。(男限定)

 同時に彼の出番は、一発ゲイを披露したところで終了だ。

 気持ち悪いので続きは割愛させていただきたい。異論はないと思う。あったらぜひご退場願いたいものだ。


 その代わり、マザーとニーニアに再び出番がやってくる。


「ど、どうなったの!? どうしてあんなに血を出しても死なないの!? あっ、死んでほしいってわけじゃなくて、すごくよかったんだけど…」

「怖かった?」

「ちょ、ちょっとだけ」

「そうよね。あんなに血を噴き出して生きているほうが不思議ね。でも、人間の身体って思った以上に強く出来ているのよ。だって、これは『生命のかたち』なんですもの」

「生命の…かたち? 人の身体が?」

「その一つの形態ね。手や足や頭というものだけではなくて、人って本当はもっと大きいの。なにせ女神様から魂を分けられた子供なのですもの。その力と可能性は、食べて寝るだけじゃないのよ」

「でも、血が出たら多くの人は死んじゃうよ」

「ええ、それもまた事実ね。ああいうのは本当に強い人にしかできないことなの。武人と呼ばれる人たちは、肉体と精神面で私たちより何十倍も上にいるわ。とびきり生命力が強いってことね。怪我を負った聖騎士の人もね、本当に死にそうになったのだけれど突然快復したの。次の日にピンピンしてたから、シスターたちはみんな驚いたものよ」


 人間の身体には驚異的な生命力が宿っている。

 物的な側面だけを見ても、細胞単位、遺伝子単位で怖ろしいまでの情報量と作業量によって形成維持されていることがわかるだろう。

 そして、それを支えるのが精神であり【霊】だ。


「今、この会場には多くの人たちがいるわ」

「…? うん、会場の人がいるね」

「それだけじゃないのよ。【彼の光】に多くの人が集まってきているの。人間だけじゃないわね。ああ、すごいわ。光の精霊もいるわね。こんな場所には滅多に寄り付かないのに。それに白狼様の眷属までいらっしゃるなんて…身震いするわ。生命の復元を見守ってくださっているのね」


 マザーは手を合わせると祈り始めた。

 そのいきなりの行動に、ニーニアが怪訝な表情を浮かべる。


「な、何を言ってるの? 誰もいないよ? お客さんしかいないわ。も、もしかしてまた冗談? 今度は騙されないからね!」

「ふふふ、そうかしら? 世の中にはまだまだニーニアの知らないことがたくさんあるのよ。世界の成り立ちを知っている人間のほうが、ずっとずっと少ないのですから」

「え…? じゃ、じゃあ、本当にいるの? 目に見えない人たちがいるの!?」

「こればかりは元神官職ですもの。嘘はつけないわね。ええ、いるわよ」

「本当に見えるの? 本当?」

「ええ、私には【そういう能力】があるのよ。術士ならば見える人も多いけど、一定以上の霊格になると簡単には見えないらしいわね。彼もまだ見えていないみたい」


 マザー・エンジャミナには、いくつか特殊なスキルがある。

 その中の一つ『上級霊視』は、文字通り物的な世界だけではなく霊的な世界を『視《み》る』能力だ。

 霊視というと、世俗的なテレビのスピリチュアル番組で「見える! 見える! そこに霊がぁ!」というパフォーマンスがあるが、あれは基本的には嘘と思ったほうがいい。

 一般的に霊視には七段階の能力があるとされ、地上の人間のレベルでは下級レベルが限界で、せいぜい見えるとしても「殻」程度にすぎない。

 殻はいかようにも変化させられるので騙すのは簡単だし、それを見て大騒ぎする連中を、さらに見て楽しむのが低級霊の娯楽である。

 そもそも人間そのものが霊であり、肉体はその表現媒体にすぎないのだから、霊が見えるからといって驚く必要はない。

 鏡を見れば、そこに自分という霊がいるのだ。珍しくもないだろう。


 それを踏まえていえば、マザーの霊視は『上級』の名が入っている通り、普通の人間には見えない上位精霊すら見ることができるスキルだ。

 今この会場には、数多くの精霊やかつて地上で生きていた人間の霊が集まっている。

 そのすべては地上で、自然や各種生物のために働いている存在である。

 たとえば花が一つ咲くのにも、自然界を構成している精霊の力が必要だし、花それぞれに妖精と呼ばれる担当者がついている。

 よく「お花の妖精が〜」と言われるのは、霊視能力がある人間が彼らに気付いていたからだ。

 日本でも平安時代くらいまでは霊視能力は普通にあったものなので、当時の人間にはしょっちゅう見えていたのだろう。

 それが自然を切り開き、文明が発達するに従って便利な環境に順応したがゆえに、そういった能力が落ちていった。これも武人が弱った過程と一緒である。


 彼女には『視える』。


 ここにいる白狼《はくろう》の眷属が。


「白狼様って…女神様の旦那様? 昔話で聞いたことがあるかも」

「そうね。かの御方《おんかた》は、生死を司るといわれているの。私たちが何度も地上に生まれ変われるのは、白狼様のお力があってのことよ。あまり有名ではないけれど、そういう意味で一部では強い信仰があるわね。カーリスも白狼様に対して女神様と同等の敬愛の念を捧げているわ」

「眷属って、部下とかそういう意味だっけ? どんな形をしているの?」

「下位の眷属は白い狼の姿をしているわ。上位の方々も大きな白光《びゃっこう》の狼の形をとることもあるけれど、本来の姿は光そのものね。地上にいるときは私たちに近い恰好をしないといけないルールがあるから、狼の姿になるのよ」

「へー、不思議。なんで狼なんだろうね」

「ええ、不思議ね。本当に不思議。下位はともかく上位の方々は簡単に見られるものではないもの。その方々が彼に魅入っているわ。期待しているのね」


 アンシュラオンは、周囲にそんな者たちがいるとはまったく気付いていない。

 術士レベルは高いが本来の意味で視えてはいないし、おそらく因子レベルだけの問題ではないのだろう。

 マザーのように特殊なスキルがないと、ここまでの上位精霊を視ることはできない。


 そして、白狼の眷属は【生死を担当】する。


 アンシュラオンがこの世界に再生した際も、彼らは力を貸している。それが彼らの役割だからだ。

 レイオンの急回復も彼らの働きあってのことだ。

 王気によって【呼び寄せられた】彼らが、アンシュラオンの願いを叶えるために力を貸し与えたのである。


 眷属が力を貸すこと自体は珍しいことではない。

 病弱な母の長生きを願う少女の祈りに応えるため、眷属が派遣されて寿命を延ばすこともよくある。

 これは贔屓をしたのではなく、少女が「援助に必要な霊的条件を整えた」のである。

 願いという心のエネルギーを使い、祈りという手段で通信を行い、助けを求めた。

 自らの努力によって道を切り開いた者に平等に力は与えられるものだ。

 何もしないで「あれが欲しい」「これが欲しい」と思う怠惰な者より、他者のために努力をして条件を整えた側を優先することこそが平等と呼ぶに相応しいはずだ。


 ただし、それは下位の存在たちであり、上位の眷属がやってくることは普通はありえない。


 わかりやすく言えば、下位の眷属がヒラ社員だとすれば、彼らは課長や部長といった存在といえる。

 アンシュラオンの王気の光は、最低でも課長クラスが自ら赴く必要がある「案件」だということだ。

 また、精霊たちも同じだ。

 自然がほぼ完全に荒廃した北部の大地で、これほど多くの精霊たちを見ることはまず不可能といえる。

 彼らもアンシュラオンの「白い太陽」の輝きに惹かれてやってきたのだ。


 なればこそ、期待。


 アンシュラオンという存在、彼が成すことに期待しているのだ。

 それが人類の進化に大きく寄与すると彼らは知っている。



(すべては彼の存在によるもの。彼によって大きく歴史が動こうとしている。そんな場に居合わせたことはまさに光栄…と言いたいけれど、それが幸せかどうかは人それぞれかしら。ただ、私にとっては本当に重要なことだわ。【神託】にあった王とは、彼のことなのね)



 『神託の聖女』からマザー・エンジャミナは、一つの言葉を預かっていた。




「あなたの歩む先に、いずれ【白き王】がやってくるでしょう。それはあなたが忘れた頃に、ひっそりと何気なくやってくるでしょう。おそらく最初は気付かないはずです。我らの守護者である白騎士を見て知っているあなたには、彼が少しだけすごい人にしか見えないからです」



「しかし彼は、白騎士よりも遙かに大きな力を持っています。とてもとても大きな力です。【太陽の王】に匹敵する人類史に名を遺す王となるでしょう。ただし、残念なことに【眼】が開いていません。あなたのような【世界を視る眼】がないのです」



「それは危険なことです。力の使い方を誤り彼が【黒き魔人】になれば、文字通り世界は滅ぶでしょう。それではいけません。彼は【蛇】ではないのです。再生の役割がない世界は循環が止まり、進化の終わりを意味します」



「なればこそ、あなたの役目は彼を支えることであると知るでしょう。王の眼となり盾となり、彼の役に立ちなさい。視えない世界から忍び寄る魔の手を事前に察知し、助言する存在となりなさい。珍しい力を持ち、年老いても美しいあなたをきっと彼は気に入るでしょう。しかし聡明なあなたは、強要ではなく自ら望んでそれをやろうとするでしょう。それがあなたの幸せにもなります」



「授かった【神託】は以上です。私にも詳細はわかりません。矮小なる我々地上の人間に、いったい何がわかるでしょう。【輝ける意思】に【宿命の螺旋】の一部を視せていただいたにすぎません。そのすべては複雑に絡み合い、最後は一つの巨大な織物になりますが、その全体像を見ることは人間には不可能です」



「さあ、もう一人の私よ、お行きなさい。あなたが自分の使命に出会う日まで、あなたがやりたいことをしなさい。すべては良きに計らわれます。信仰を忘れず、待つことです。光の女神の守護と、闇の女神の祝福があらんことを」




432話 「ジュエリスト〈石の声を聴く者〉 前編」


(彼こそが王。白い輝きをまとった王。たしかに強い力と危うさを併せ持っているわね。ほんと、人生とはわからないものね。このままこの子たちと一緒に死んでもかまわないと思っていたのに…ここで巡りあうなんてね)


 エンジャミナの前にいる者こそ、自身が仕えるべき王である。

 そして、神託にもあったように善と悪の力を内包した存在でもある。

 今出している光は善寄りのものなので、集まっている精霊たちも美しさや楽しさが強調された者たちばかりである。

 だが、破壊の光を発した際、集まる者たちはまったくの正反対となるだろう。


 白狼の反対ならば、当然【黒狼《こくろう》】となるのがお約束だ。


 というのは半分冗談ではあるものの、偉大なる者の中に黒狼は実在する。


 黒狼の役割は―――破壊。


 かつて神話の旧時代において、黒狼は【魔獣王】と呼ばれていた。

 すべての魔獣の頂点に君臨する神であり、破壊することが役割として母神から生み出された存在である。

 黒狼となった現在も役割の大半は破壊だ。すべての魔獣は彼から生まれた分霊であるといわれている。

 破壊とは、悪の力ではない。循環に必須の要素として存在している。

 新しい建物を生み出すには、老朽化したものを壊さねばならない。

 破壊と再生は常に同一であり、同時に発生する。破壊なくして再生はなく、再生なくして破壊は存在しえない。

 多くの者がビルの解体を見学しては爽快感を得るように、破壊は美しい力なのだ。

 ただし、アンシュラオンは【蛇】ではない。


(カーリスの聖典にも書かれている【白と黒の蛇】は、文明の破壊と再生を担うといわれているわ。響きとしては彼に似ているわね。でも、神託の内容から考えるに彼は蛇ではない。魔人と蛇、何が違うのかしら? どちらにしても彼が過ちを犯さないように導かないといけない。なんとも重責ね。私に務まるかどうか…)


 自分程度がアンシュラオンを導けるとは思えない。

 彼の輝きはあまりに強く、すでに一般人が干渉できる領域を超えているように思える。

 今もこうして見続けることしかできないでいるように。


「黒姫ちゃん、大丈夫かな!? まだ動かないよ!」

「…そうね。さっきの攻撃はまともに入ったから…気絶しているのかもしれないわね」

「レイオンさんも、あんなに強く叩かなくてもいいのに!」

「それも難しいわね。あの子も武人ですもの。少しでも油断すれば最初の時のように彼もやられてしまうわ。倒すか倒されるか。これも彼らの世界においては普通のことなのでしょうね」

「…そっか、厳しいんだね…。し、死んでないよね?」

「大丈夫だと思うけれど…あっ」

「え? なに? また何か見えたの!?」

「…いえ……そうではなくて……あの子、黒いわね」

「へ?」

「黒姫ちゃんよ」

「うん。髪の毛も黒いし、お肌も少し黒いね。それがどうしたの?」

「…少し、思い出したことがあっただけよ。黒い…子供……黒い…狼? たしかにあの時…」


 エンジャミナの記憶に、うっすらと残っている言葉があった。

 なぜか靄《もや》がかかっていてうまく思い出せないが、神託の一件と連動してかすかに引っかかったものがあった。

 それは彼女が神託を受けて、神託の間から出ようとした時である。

 神託の聖女が、ふとこんなことを呟いた。



「…黒き子供……不確定要素。白き王の力を受けて…彼女もまた……。なぜ闇の女神はこのようなことを……これもまた可能性だけれど……破壊は黒狼様のご意思? でも、これでは災厄の魔人が再び…そうなればまた……ああ、視えない……これ以上は…あまりに大きすぎて。ふふふ…楽しい。まるでサーガ〈叙事譚〉だわ。こんな素敵なものが視られるなんて…幸せ」



 神託の聖女は、盲目である。

 それゆえに肉眼に惑わされず、未来予知である『神託』というスキルを最大限に活用できるのかもしれない。

 だが一方、視覚という情報がないので、エンジャミナがまだ部屋に残っていることに気付いていなかった。

 まさか彼女も神話レベルの内容を受けるとは思っておらず、神託の内容に夢中になっていたと思われる。

 最後の笑いにそれが如実に反映されているのがわかるだろう。

 普段の神託は、「行く手に困難が〜」とか「〜にお気をつけなさい」「地震が起きるので事前に対応を」といったものが大半だ。

 「世界の破滅が〜」というレベルの話に出会えることは滅多にない。彼女もついつい興奮してしかるべきだ。

 だからこそ、ついつい余計なことまで口走ってしまった。


 それはただの独り言。誰もいないと思って言った呟きだ。


 その中に「黒き子供」という単語が出てきている。

 まさに目の前に黒き子供がいる。偶然にしては出来すぎだ。


(ニーニアに大丈夫と言った時は、聖女様の言葉は頭になかった。単純に彼女自身を見た印象を述べただけ。でも、こうして改めて見ると…彼女もとても気になる。どうしてかしら、ものすごく【不安】になるのよ。きっと彼が彼女を愛しすぎているからだろうけれど…あの子がこのまま育っていけば、それそのものが脅威になってしまうかもしれない。そんな気がしてならないわ)


 アンシュラオンの妹としてサナはやってきた。

 もちろん二人は血の繋がった兄妹ではない。しかし、二人が一緒にいても違和感はない。

 まるで最初からそうなることが自然だったように一緒にいる。

 それそのものが、すでに予定されていたように。

 エンジャミナが自らの意思でグラス・ギースにやってきて、好きに生きてきたにもかかわらず最後はこうして神託の通りになったように。

 アンシュラオンのことは神託のおかげで多少ながら理解できているが、では、あの子供はどうだろうか。


 あの子は、いったい何者なのだろうか?


 世界を大きく動かせる王に溺愛されている彼女は、実はとても重要な存在なのではないか。

 女によって王が狂うことはよくあることだ。男が女性に執着することは珍しいことではない。

 すべてはサナ次第。彼女こそが歴史のキーパーソンではないだろうか。

 今は言葉を話せないようだが、もし言葉を発するようになればどうなるか。

 彼女の言葉一つで、あるいは感情一つで国や民族が簡単に滅びることも大いにありえることだ。


 かの大陸王がそうだったように。


 そんな不安がエンジャミナの中に渦巻いていた。

 だが、今はすべてを見続けることしかできない。それもまた責務であると感じる。

 今この場に自分がいることには何かしらの意味があるに違いないのだ。





「こ、これは…し、試合終了……」

「止めるな」

「えっ!?」


 審判が倒れたサナを見て試合を終わらせようとするが、またもやアンシュラオンが止める。


「まだ終わっていない。いや、始まっていない」

「だ、だが…その……これはもう…」

「お前はもう下がっていろ。巻き添えになるだけだ。勝敗はオレが決める」

「…は、はい」


 ついにレフェリーまで除外されるという超異例の事態が発生。

 それに対して誰からも異論は出なかった。

 審判も観客も、ただただ見ていることしかできない。

 結界が消失した段階で、またはレイオンが復活した段階で、勝負はイレギュラーなものとなっている。

 もはや常人が関われる領域を逸脱しているのだ。これも仕方がないだろう。


「サナ、立てるな?」

「………」

「あの一撃は致命傷ではないはずだ。まだ戦えるぞ。さぁ、立つんだ」

「…ぴくっ」


 アンシュラオンの声にサナが反応する。

 指がわずかに動き―――


 ぴくぴくっ ぐぐぐっ


 手が動き、腕が動く。

 身体を引きずるようにして、サナが上半身を持ち上げる。


「首は大丈夫か?」

「…こくり」


 サナが頷いた。


 見たところ頭は―――無事。


 アンシュラオンの予想通り、致命的な状況にはなっていないようだ。

 もし首の骨が折れていたら頷くこともできないだろう。

 人間の首は脆そうに見えるものの、衝撃に対してそれなりに強く出来ている。

 交通事故の車内映像を見るとわかるが、思った以上に首は伸び縮みをする。

 初めて見たらびっくりするくらいにだ。それによって衝撃を吸収する仕組みになっている。

 また、サナが派手に吹っ飛んだことからも、衝撃を逃がそうと努力したことがうかがえる。

 ただし、無傷というわけではない。


「…ぺっ」


 こんっ ころころ

 サナが口から折れた歯を吐き出す。

 前歯だ。

 覆面から少しだけ覗いた彼女の愛らしい顔から、パーツが一つ欠けていた。

 口の中も切れており、かなりの出血が見られる。見た目ではわからない脳へのダメージもあるかもしれない。

 それでも、こう述べる。


「あとでくっつける。歯の一つくらいは問題ない。やれるな?」

「…こくり」

「よし、いい子だ」


 サナは立つ。

 立って、戦おうとする。

 彼女はアンシュラオンの言葉には逆らわない。言われた通りに動く。

 以前、ホロロが一番スレイブらしいと述べたが、サナという究極の存在を除けば、という注釈が常に付きまとうだろう。

 サナこそがアンシュラオンの願望をすべて叶える存在。

 彼女だけが唯一無二の存在。

 この黒き少女だけが白き魔人を満足させることができる、ただ一人の存在だ。



 トコトコ


 サナが歩き、リングに向かっていく。

 何一つ文句も言わず、愚痴も吐かず、彼女は淡々と歩いてくる。

 身体にはまだダメージが残っている。ふらついている。

 あれだけ強烈な一撃を受ければ当然だ。普通ならばドクターストップである。


 そうでありながら、その目には闘争への意欲があった。


 まだ彼女は、レイオンを殺そうと思っている。

 こんな状況になりながらも、その目的だけは何も変わっていないのだ。

 その光景もまた異常だ。一般人から見れば常軌を逸している。

 否、武人から見ても怖ろしいことであった。

 リングにいたレイオンも、思わず背筋が寒くなる。


(この二人は…なんなんだ! なぜホワイトは、妹をここまで追い込む!? 妹が傷つくことが平気なのか!?)


 ミャンメイを大切に思い、危険なことから遠ざけようとしているレイオンからすれば、アンシュラオンの行動は理解できないものだろう。

 もちろん、平気なわけがない。

 あの仮面の下では、歯を噛み砕きそうなほど歯軋りをしている鬼の形相があった。


(サナ…!! ちくしょう!!! あの野郎、サナの可愛い顔を狙いやがって!! 最終的には絶対に治すし、仮に顔が潰れたくらいでサナへの愛情が変わることはないが、オレの可愛いサナを…!! くそっ!!)


 心の中でアンシュラオンは激怒している。

 相手に対してもそうだが、珍しく自分自身に対しても怒っている。

 腕組みをしている手にも力が入り、ギリギリと指が皮膚に食い込んで服が破れているほどだ。

 少し前のアンシュラオンを思い出せばわかるが、自分もまたレイオンと同じ、いや、それ以上の過度な溺愛をしていたものである。

 だが、今は武人。

 サナが武人としての資質を開花させたことで状況は大きく変わった。


 愛とは、何だろう?


 いきなり哲学的なことを述べて引かれたかもしれないが、これはとても重要な話題である。

 愛とは、ただ溺愛することではない。ただ守ることだけではない。

 それだけでは人は弱ってしまう。衰退してしまう。

 子供を甘やかすだけでは、弱い人間になってしまう。だから母親は決死の思いで叱咤し、子供を一人で行かせる。

 転ぶかもしれない。痛いかもしれない。泣くかもしれない。

 しかし、そのすべてが糧となる。力となる。経験となる。


 それが、愛となる。


 よく地上の凄惨なる光景を見て、「神は我らを見捨てた!」と叫ぶ者がいるが、それは大きな間違いだ。

 過ちの中で苦しむのは自分たちの選択のせいであり、また同様にその中にあってこそ人は叡智を学ぶ。

 すべては愛を知るための道標なのだ。それこそが、より深い愛情であるといえるだろう。

 それと同様に、アンシュラオンのサナへの愛情は日に日に高まる一方である。


(サナが死んだら、オレも死のう)


 すでにそのレベルにまで至っている。

 「この男のことだから、どうせ口だけだろう?」と思ってはいけない。

 サナは完全にアンシュラオンのものとなっている。それは逆にアンシュラオンもサナと同一になりつつある、ということを示していた。

 サナが絶対的に従うのならば、アンシュラオンも絶対的にすべてを捧げるべきだ。

 そうした自己犠牲の愛が、しっかりと根付いている。そこまで愛が高まってしまったのだ。

 だからサナが痛みを味わえば、それを彼女が上手く認識していなくても、アンシュラオンは痛いのだ。


 アンシュラオンは心で血の涙を流し、サナに武人の道を示す。


 白き王が溺愛する黒き少女の成長は、世界にいかなる影響を与えるのか。

 この段階ではまだ未知数。誰もわからない。




「…ぐっ」


 再びレイオンと対峙したサナは、右手を上げて構える。

 左手は折れてしまっているので、右手だけで戦うしかない不利な状況だ。


(殺したくないのならば戦闘不能にするしかない。完全に意識を断ち切る!)


 ここでレイオンは、サナに対して手加減をするのではなく、一気に勝負を決めることを誓った。

 中途半端に叩いても彼女に後遺症を残すだけになってしまう。

 ならば一気呵成に攻めて意識を刈り取るしかない。


「すうううぅうう……ふぅううううう!!」


 深呼吸をして―――変化

 レイオンから発せられる波動が大きく変化した。

 今までは自分の身体が蘇って半ば興奮した状態だった。相手より自分のことばかりを考えていた。

 だがこの瞬間、相手を倒すことだけに集中する。




433話 「ジュエリスト〈石の声を聴く者〉 中編」


 レイオンの気配が変わった。

 それに伴って目が鋭くなり、獰猛な殺気が周囲に満ちる。


(久々だ。この感覚。そうだ。本来の俺はもっともっと攻撃的で、激しい闘争本能を秘めていたんだ。あれこれ考えるなど性には合わない。随分と長く我慢してきたものだな)


 自身の中には、強い闘争本能がある。

 今までもそれは発揮されていたが、主に肉体が死んでいる余裕のなさから生まれた苛立ちのようなものだ。

 そこに解放感はなかった。

 暴れてもすぐに身体が動かなくなるので、余計に苛立ちが溜まっていく。

 まるで檻に入れられた犬が、たまにしか散歩できなくて咆えまくるように。

 だが、今は違う。


「うううっ…うおおおおおおお!!」


 レイオンが野獣のように叫び、頭の中を真っ白にする。

 今は何も考える必要はない。ただ目の前の敵を倒せばいい。

 レイオンがサナに接近し、拳撃。


 ぶんっ!!


 自分の好きなように、振りやすい角度で放った拳が迫る。

 サナは回避。

 前方に走ると、レイオンの脇に自らダイブし、受身を取りながら背後に回る。

 弱った彼女にできることは、こうして弱者の戦いに徹することだけだ。

 アンシュラオンがルアンに教えたように、小回りを生かして相手の足を狙う戦い方を徹底するしかない。

 今度も回りこんで膝裏を狙おうとする。

 が、試合の前半でサナが上手く立ち回れたのは、レイオンのコンディションが最悪だったからだ。

 それと比べて今は万全。あらゆるところに余力がある。


「ぬんっ!!」


 レイオンは殴ったままの勢いで身体を捻り、左足で回し蹴りを放つ。

 軸足に過度の負担がかかる攻撃だが、復活した肉体は耐えきる。

 ぎちぎちと筋肉が絞られ、腱が引っ張られるも、頑強な肉体はそれに応えた。

 そして、サナの身長に合わせて低く放たれた蹴りが、ちょうど攻撃しようとしていた腹に直撃。

 防ごうにも左腕は折れている。防御も間に合わず、思いきり攻撃を受けてしまう。


「…こふっ!」


 その衝撃を受けてサナの呼吸が止まる。

 溜めていた空気のすべてを吐き出してしまった。

 練気が止まり、防御の戦気が弱まった。

 そこに振り返ったレイオンがラッシュ。


 どんっ!!

 浮き上がったサナの腹を再び攻撃。

 どこっ!!

 落下しようとするサナを蹴り上げて、さらに上昇させる。

 そこに両手を合わせて、渾身の一撃を振り下ろす。



「うおおおおおおお!!」



―――爆発



 覇王技、撃鉄亡火《げきてつぼうか》。

 両手を組んで思いきり叩きつけると同時に、火気を爆発させる因子レベル2の技である。

 基本的な技の構造としては裂火掌と同じものだが、手を組むことで爆発に指向性を与え、打撃方向に強い貫通力を発揮させる技だ。

 爆発が集約されるので、力を溜める打撃方法と合わさって強烈な一撃を生み出すことができる。

 使いどころが限られるのが欠点だが、こうしたコンボの締めとして使うのに適している技である。

 名前の由来は、文字通り銃の撃鉄から付けられている。火薬を打ち付けて爆発する光景に似ているからだ。


 レイオンが、ついに覇王技を解禁してきた。


 ただでさえ体格が違う大男に殴られれば大変なのに、こうして技を使われると、ますます差は広がっていくというものだ。

 今まで彼が技を使わなかったのは、肉体が弱っていて技の発動に支障をきたしていたからだ。

 生体磁気の大半を心臓の保護と補強にあてていたので、使いたくても使えなかったのだ。

 しかし、復活した今の状態ならば気兼ねなく使うことができる。



 激しい衝撃がサナを襲う。


 レイオンが狙ったのは、再び腹だった。

 同じく妹を持つ身である。最初のアッパーカットが顔に入ったことを気にしたのか、無意識のうちに腹を狙ったようだ。

 ただ、意識を刈り取るにも腹は悪い場所ではない。呼吸を止めてしまえば嫌でも人間は意識を失う。

 一時期「失神ゲーム」とやらが子供たちの間で流行って問題になったが、腹への圧迫だけでも十分死に至ることがあるので注意が必要だ。


 すぅっ


 サナの目から光が消えかける。

 この技の威力は相当なものだ。背中を強く打ちつけただけでなく、火気の爆発で腹一帯の服が粉微塵に弾け飛んで、可愛いお腹に重度の火傷を負っている。

 実は、これでも加減されたほうである。

 連撃の段階でサナの防御の戦気は弱っていたので、もし全力で叩かれていたら腹ごと弾け飛んでいた可能性があったのだ。

 これが試合で助かった。相手が本当の敵だったら死んでいた場面だ。


 サナが意識を失いかける。


 だが、ここで終わらない。


「ふんっ!!」


 どごっ!!


「…―――っ!」


 倒れたサナにレイオンがとどめの一撃。

 みぞおちに拳を打ち込む。

 しかも人差し指の第二関節を親指で固定し、貫手のような形にしてピンポイントで狙い打つ。


 ごぼっ ごぼぼっ


 サナが血と胃液を吐き出した。


―――がくん


 首や手から力が抜け、ぶらんと崩れ落ちる。

 目は半分開いたままだが、そこに意識という光はなかった。

 子供相手にやりすぎのようにさえ思える行動だが、こうして最後の最後まで気を抜かないのは優れた武人の証拠である。

 一部手加減はしたが、約束通りに遠慮はしていない。


(終わったな)


 ここでレイオンが戦闘モードを解除。

 真っ白だった頭に思考が戻ってきた。

 そして、サナの様子を確かめる。


(眼球が動いている。まだ死んではいない。吐瀉物《としゃぶつ》が喉に引っかからなければ窒息はしないだろう。腹に火傷は作ってしまったが、あの男ならば治せるはずだ)


 アンシュラオンが医者であることは知っているし、アカガシやニットローを治した実績がある。

 自分の大切な妹を治さないわけがない。だからこその覇王技の使用であった。


 こうしてレイオンは、サナを容赦なく叩きのめした。


 その実力は、初めて地下で見た試合よりも数段上と言わざるをえない。

 やはり肉体が正常であれば、レイオンは強い。

 マキやアル先生といった達人クラスには及ばないが、戦士として及第点を与えられるレベルに達している。

 階級としてはラブヘイアやラーバンサーと同等、上堵《じょうど》級の評価を与えてもいいだろう。


 しかしである。


 レイオンがいくら待っても何も起こらない。

 試合終了の合図が出ない。

 すでに審判は退場してしまったので、この勝負を決めるのは―――


「ホワイト、俺の勝ちだ」


 レイオンがアンシュラオンを見る。

 この試合の勝敗は、すべて彼に任されている。

 それに異存はない。アンシュラオンの実力を考えれば妥当だろう。


 だが―――


「………」


 アンシュラオンは何も言わない。

 黙ってサナをじっと見続けてる。


(なぜだ! なぜ動かない!? 俺の勝ちは明白はなずだぞ! それとも妹を負けさせたくないのか?)


 一瞬、アンシュラオンがサナを贔屓しているのかと疑った。

 運営と組んでいたくらいだ。自分が審判をやると言い出したことも、その一環の可能性もある。

 ただ同時に、その可能性は低いとも感じていた。


 その理由は、アンシュラオンの目だ。


 仮面に覆われてわかりにくいが、彼の目はとても真っ直ぐで、いつにもなく真剣であった。

 サナに対して向ける目は、けっして贔屓や過保護といったものではない。


 彼は―――待っている。


 何かを待っている。

 確証も根拠も論拠もないが、そんな気がした。


(ここまでやったのだ! 何も起きはしない! だが、だが…! 俺は…なぜ動けない! なぜ…【期待】している!!!)


 レイオンは、その場から動けなかった。

 アンシュラオンに抗議の声を上げるでもなく、自分もまたサナを見ていた。


 ふと思い出したからだ。


 あの光。自分を復活させた強烈な光。

 その白い光は、自分だけではなく彼女にも注がれていた。

 それがどのような効果を及ぼすのか、どんな形として表現されるのか、思わず期待してしまう自分がいる。


 ドキドキする ワクワクする


 心が 何かを 期待している


 この男が 何をするのか



 期待せざるをえない!!!






(サナ、これが今の実力差だ。剣があっても結果は同じだっただろう。レイオンは強いな。一対一、武器も道具もなしでは、お前がどんなにがんばっても勝てない相手だ)


 こうなることはわかっていた。

 アンシュラオンほどの武人ならば、彼我の実力差など簡単に分析が可能だ。

 なにせサナは武人として活動を始めたばかり。一方のレイオンは、幼い頃から鍛え続けてきた生粋の戦士。

 土台が違う。培ったバックボーンが違う。流した汗水が違う。

 レイオンは苦労してきた。努力してきた。才能も少しはあった。それが大きな差と壁になって立ち塞がっている。

 この結果は妥当、当然、道理。

 だがしかし、サナにはここで終われない事情がある。



 白き王、白き魔人に―――愛されてしまった。



 彼のすべてを注がれてしまった。

 身も心も魂も、霊すらも捧げられてしまった。

 ならば、乗り越えねばならない。

 彼女が行き着く先が【人間を超えた領域】なのだとしたら、この程度のことは跳び越えていかねばならない。

 なんと残酷で哀しい宿命だろう。こんな子供に重荷を背負わせるのか。

 誰もがそう思うだろう。


 が―――それは勝手な思い込み


 両者の間にしかわからない絆があるのだ。

 それを外野がとやかく言う権利はない。


(サナ、オレにはなぜか確信がある。予感があるんだ。お前の中にすごく親しいものを感じる。オレ自身がそこにいるような…そう、姉ちゃんには及ばないが、それに近しいものを強く感じる。お前の中にはオレがいる。それが何かはわからない。わからないが…何かが隠れている気がするんだ)


 アンシュラオンには、漠然とした予感があった。

 地下闘技場にやってきて厳しい試合のカードを組んだのも、その引っかかりが強く影響している。

 何か、何か、何か。

 サナに何かの変化が起こった気がしてならないのだ。


 あの日、アンシュラオンがプライリーラと戦った日から、サナに変化があった。


 怒りの感情が芽生え、戦気が使えるようになったことも大きな変化だ。

 出し方の練習はさせていたが、サリータよりも早く出すことができた。自分が知らない間に覚えていた。

 何か、何か、何か。

 何かあの日に起こったのだ。

 何かが起こった。間違いない。起こったのだ。起こったはずだ。

 そうした漠然な予感がアンシュラオンに働きかけ、試合を終わらせることを許さなかった。



 誰もがサナに視線を向けている。


 この場にいるすべての人間が、サナに注目している。


 誰がどう見ても終わったはずの戦い。


 だが、だが、だが。


 まだ何か起きる気がしてならない。


 この破天荒な男の妹が、こんなことで終わるとは思えない。



「出ろ…」


「出ろ…出ろ……」



 アンシュラオンが、倒れているサナに声をかける。

 それは彼女だけに対してではない。

 彼女の中に【眠っている何か】に対して呼びかけている。


「出ろ…出ろ……出ろ……!!」


 声が少しずつ大きくなっていく。

 声には多くの期待と確信が融合し、まっすぐに【それ】を見据えていた。

 知っていたわけではない。

 しかし、自然と目がそこに合ってしまう。


 それは―――ペンダント


 自分が愛する妹に贈った、世界で一つだけの愛の証。

 自分が守ると誓った証。すべてを与えると決めた証。



 そこに視線を合わせ、心を合わせ―――叫ぶ






「でろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」





 アンシュラオンの身体から、白い輝きが放たれる。

 王気だ。白いエネルギーだ。

 だが、ミャンメイやレイオンに向けたものとは少し違う。

 そこにはアンシュラオンの愛が宿っていた。


 唯一無二の愛とは何だろう。


 他者に対する愛ほど素晴らしいものはない。利他主義、利他の心、自分より相手を想う心は素晴らしい。

 しかし、やはり愛とは【同じ存在】に対して向けられるものだ。

 パミエルキがアンシュラオンを愛するのは、同じ存在だからだ。

 世界に二人しかいない魔人因子を覚醒させた存在だからだ。

 同種、同族、同属だからこそ愛が強くなるのは仕方がない。誰もが同じ存在を求めるのは霊の本能なのだ。


 その愛が、サナにも向けられる。


 彼は気付いている。無意識に察している。



 サナの中に―――自分と同じ何かがあることを



 サナの中に―――力があることを



 ピカッ



 サナの胸元が光った。

 ペンダントだ。

 青いジュエルが、一瞬明滅した。

 ぴかぴかっ

 また光った。見間違いではない。


 徐々に光は明滅を始め―――


 どくんっ!!


 サナが弾けた。

 まるで何かの力が内部で爆発したかのように、どくんと跳ね上がった。


 どくんっ!!

 どくんっ!!

 どくんっ!! どくんっ!!

 どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!!

 どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!!

 どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!! どくんっ!!


 その鼓動はペンダントと呼応していた。

 光が激しくなればなるほど、サナの身体も大きく動く。


 ぞわりっ

 ぞわぞわぞわっ


 バチンッ バチンッ!!!


 そして、サナのペンダントから【黒い雷】が這い出てきた。




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