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「欠番覇王の異世界スレイブサーガ」

作者  園島義船



□ 第六章 「収監砦」 編


385話 ー 394話




385話 「奥へ 前編」


 食事が終わり、ニーニアと子供たちが片づけを行う。

 食事を作ってもらう代わりに食器洗いは彼女たちの仕事らしく、危なっかしくもそれなりに慣れた手付きで作業に勤しんでいた。


(こういう場所で育つほうが甘やかされないから立派に育つんだよな。ルアンとは大違いだ。そういえばあいつ、今どうなっているんだろうな? まあいいか、きっとがんばっていることだろう)


 久々にルアンのことを思い出すが、一秒で考えるのをやめた。

 彼は彼なりにがんばっていることだろう。大量の薬を置いてきたので問題はないはずだ。

 あとは自主性に任せる。これもアンシュラオン流の優しさである(嘘)。


 この間にアンシュラオンはミャンメイに礼を述べる。


「美味しかったよ。とても素晴らしかった」

「ありがとうございます。嬉しいです」

「はっきり言うけど、君には料理の才能がある。いや、そんな言葉で片付けてしまうわけにはいかない。料理の天才だ」

「そ、そこまでではないと思いますけど…」

「いやいや、謙遜する必要はないって。事実は事実だからね。ホテルの最高級料理も食べたことがあるオレからしても、この料理は卓越していると思うよ。超越している。並じゃない。スペシャルだ! 本当にすごいと思う!」

「あ、ありがとうございます」


 その言葉は心からのものだったので彼女も嬉しそうだ。

 褒められて嬉しくない女性はいないし、事実なのだからもっと褒めたいくらいだ。


「オレの妹には君が必要だと確信した。ますます欲しくなったよ。専属の料理人になってくれないか?」

「私が…ですか?」

「うん、そうだよ。これは冗談じゃない。遊び半分でもない。絶対に君を手に入れるとオレは決めたんだ」

「そ、そんなに近寄られると…あっ」

「ミャンメイ、君が欲しい」


 ドンッ

 アンシュラオンがミャンメイを押しやり、壁に手をついて追い詰める。


 巷で有名な―――【壁ドン】である。


 これをやられたらイチコロという話なので、自分もやってみた次第だ。


 しかし、身長が足りないので―――


 ぽよん ぽよん

 前のめりに手をつくと身長が下がり、ちょうど顔がミャンメイの胸に当たる形になる。


「むっ! いい乳だ!! ふんふんっ!」

「あっ、あっ!!」


 これではただの痴漢か変態である。まったくさまにならない。

 やはり身長が自分よりも高い女性に壁ドンは無理なのだ。


(壁ドンというよりは『胸ドン』だな。流行らないかな?)


 それが流行ったら、その社会はもう終わりだろう。実に破廉恥な世界が生まれる。



 気を取り直して、再度説得を開始。


「オレは本気なんだけど、スレイブになってくれないかな? 君が望むなら奥様でもいいけど」

「スレイブ…ですか?」

「抵抗がある?」

「それは大丈夫です」

「大丈夫なんだ。よかった。けっこう嫌がる人もいるからさ」

「結婚でも旦那様に仕えることは、自分のすべてを捧げることと同じですから。ふふ、自分で言うとちょっと恥ずかしいですね」


 少し古風な考え方をするタイプらしいので、どうやらスレイブ自体に抵抗感はないらしい。

 しかしながら、彼女には簡単に頷けない事情がある。


「ただ、その気持ちはとても嬉しいのですが…今はちょっと…」

「駄目なの? 好きで地下に暮らしているわけじゃないでしょう? オレの力があればすぐに出られるよ」

「え? そうなのですか?」

「うん、こう見えても頼りになるんだ。君が仕える価値があると思うけどね。料理だって好きなように作っていいし、一応同年代の女の子もいるから友達だってできるだろう。こんな場所にいるより、よほど楽しいよ」

「それは楽しそうですね! でも…兄さんが…」

「マザーから少し事情を聞いたよ。おばあさんも助けるさ。それならレイオンだって地下にいる理由はないでしょう? ラングラスには多少縁があるし、マフィアの問題も解決させるからさ」

「す、すごいですね。そんなことができるのですか?」

「もちろんだよ。任せて!」


(面倒なことはソブカに任せよう。最悪は豚君もいるしね)


 ソブカがラングラスを掌握すれば、そちらの件も簡単に処理できるだろう。

 もし駄目なら豚君を脅せばいいだろうし、恨みを買った組を潰してもいい。対処は簡単だ。

 だが、ここまで言ってもミャンメイの表情は優れない。


「たぶん、兄さんはそれでも…駄目だと思います」

「ふむ、その言い方からすると別の事情がありそうだね」

「…はい」

「本当のところは何があったの? 上で揉めたから地下に逃げてきたんでしょう? それ以外に何かあるの?」

「それは…私もよくわからないのです。『あの時』から兄さんの目つきが怖くなって…自分を痛めつけるように鍛え始めたんです」

「あの時って?」

「追われている時に、私を逃がして自分だけ残ったのですが、その後しばらく連絡が取れなくて…。ようやく再会できた時には酷い怪我をしていました」

「普通に考えれば、追っ手にやられたってことだろうけど…それが原因?」

「それも原因の一つだと思います。ほかにも何かあったのは間違いないんですけど…全然話してくれなくて。たぶん危険なことなんだと思います。私を巻き込まないようにしているんです」


(すでに地下生活に巻き込んでいる気もするが…逆に言えば、地下にいるほうが安全、という考えかもしれないな。しょうがない。レイオンの問題を片付けないとミャンメイは手に入りそうもないな。面倒だけどがんばるか。サナのためだしな)


 レイオンが地下にいるのは、マザーの話を重ねても安全を考慮してと思われる。

 他に事情があるにせよ、この点だけは間違いがないようだ。

 となれば、その原因を取り除かない限り、ミャンメイも納得はしてくれないだろう。

 どうせならば気持ちよくスレイブになってもらいたいものである。ここはしっかりと対応したほうがよいと判断した。


「わかった。それは当人に直接確かめてみるとしよう。原因がはっきりしないと君だってすっきりしないだろうしね」

「はい。お願いします。兄さんもホワイトさんには多少気を許しているようですから」


(力の差を思い知らせたからね。武人ってのは扱いが楽でいい)


 レイオンはアンシュラオンの強さを知った。

 ちょっとした差ならば「悔しい」という感情も浮かぶが、あまりに離れているので恐怖と崇敬の念しか浮かばないのだ。

 これも戦罪者たちと同じ状況である。


「ただ、君を危険に晒すわけにはいかない。何かしら手を打たないとね。レイオンが負けても最悪は力づくで取り戻すことが可能だけど、この場所を壊しに来たわけじゃないからね。ハングラスのおじさんとも仲良くなっちゃったし、普通の方法で解決したいとは思っているよ」

「あ、あの、どうして私にそこまで…」

「言っただろう。君が欲しいからだよ」

「…あっ。…ぽっ」


 ミャンメイの顔が真っ赤になる。

 仮面がないアンシュラオンの魅力は、普通の女性には耐えきれないものだ。

 彼女も自分のことは気に入ってくれているはずなので、これだけならば相思相愛なのだが、レイオンという問題が残っている。


「レイオンのことは任せておいてよ。当人次第だけど、刺激を与えることはできると思うからね。それじゃ、オレはちょっと出かけてくるよ」

「こんな時間にどちらまで?」

「野暮用を片付けようと思ってね。そうそう、妹をよろしくね。どうやら君が気に入ったようだ」

「…じー、ぎゅっ」


 サナは食事が終わってから、ずっとミャンメイの傍にいる。

 彼女の隣に立ち、服を握って離さないのだ。


(これは間違いない。サナも【気に入った】な)


 この現象は見覚えがある。

 シャイナやサリータ等、自分が気に入った相手がいると連れ回そうとするのだ。

 今回の場合は特に移動する場所もないので、こうしてぎゅっと握って「これは自分のもの」というアピールをする。

 何を基準にして選んでいるのか不明だが、サナは本能的に自分にとって必要な人材を選んでいるのかもしれない。

 サリータは護衛(囮)として、ミャンメイは食事係として、シャイナはペットとして。

 まだ幼い自分に必要なものをしっかりと見極めているのだ。たいしたものである。


(サナが気に入った以上、絶対に手に入れよう。この子の性格ならば他の女の子たちとも衝突はしないはずだしね。独立した際にはホロロさんの助けにもなるはずだ)


「黒姫、ミャンメイを守れるか?」

「…こくり」

「よし、自分が欲しいものは自分で守るんだぞ。お兄ちゃんは『奥』に行ってくるからな。戻ってくるまでここを任せるぞ」

「…こくり、ぐいっ」


 サナは拳を握って誓いを立てる。やる気満々だ。


「じゃあ、お兄ちゃんは行ってくる。あとは任せたよ」

「…こくり」




 アンシュラオンは、サナからそっと離れる。

 本当は離れたくないが、これには目的があるのだ。


(前回の戦いではサナと離れることになった。状況によっては同じことが起きる可能性がある。オレもサナも、それを想定した鍛練が必要だな。少しずつ慣れていけばいいさ。ふむ、サナは一人になっても命気足があるから大丈夫だろうが…念のためにモグマウスも数体は忍ばせておくか。戦気が遮断されるから自律行動になるのが不安だけどな)


 前回はアーブスラットの戦術によって、サナはかなり危ない状況に陥っていた。

 それはやはり状況に慣れていないことも大きいだろう。常日頃から防災訓練をしていないと、いざ本番になっても上手く動けないのと同じだ。

 そこでせっかくなので、今回はあえて別行動をすることで慣れさせよう、ということだ。

 地下にはアーブスラット級の達人はいないため問題はないはずである。命気足があれば十分身を守れる。

 ただ、多少の不安があるのも事実だ。


(あの時の視線が気になるな。あのレベルになると命気足のサナでも対応できないかもしれない)


 気になるのは謎のロボットだけではない。試合会場で自分を見ていた視線も忘れられない。

 あれが誰だか不明だし、どんな目的があるのかもわからない。それだけが不安ではある。

 されど、その人物の悪意がサナに向けられるとは思っていない。


(あの視線の雰囲気に陰湿なものはなかった。むしろ少しカラッとしたような熱量を感じるものだったな。アーブスラットとは性質が違う感じがする。どちらかといえばゼブ兄に少し近いかな)


 アーブスラットは裏の仕事をする始末屋でもあり、水の性質を持っていることからも慎重で実利主義者であるといえるだろう。

 だからサナを狙うという選択をしたのだ。勝つためならば何でもする覚悟がある。

 一方、今回の視線の持ち主は、それとは正反対のものだ。

 堂々とこちらに向かってくるような気構えを感じた。

 たとえるのならば『王者の風格』とでも呼ぶべきか。どんな相手でも退かないといったような強い気迫が感じられた。

 だからアンシュラオンも刺激されてしまったというわけだ。


(その件を考えても仕方ない。そのうち出会うことになるだろう。それよりサナがオレと離れても寂しがらなかったことがショックだ…。もっと泣き叫んでもいいんだよ、サナちゃん!)


 兄の願望としては「やだー! お兄ちゃんと離れたくないー! やだやだ!」というシーンを求めている。

 だが、少なくとも現状のサナがそんなことを言うわけがないので、本当に単なる願望でしかない。



 そんな哀しみを―――八つ当たり。



「ちくしょう!!」


 ぶーーんっ ゴンッ


「いってぇえええええええええええええ!!」


 アンシュラオンが投げた石が、ちょうどお腹が一杯になってだらけていたトットの額に当たる。

 完全に油断していたので直撃だ。これは痛い。


「うおおお、うおおおお! いてぇええええ!」

「おい、何をぐーたらしている。お前も働け! 女だけ働かせるつもりか? このゲイが!!」

「ゲイは関係ないだろう! って、おいらは昼間すごいがんばったんだ。休む権利くらいはあるぞ!」

「アーー!にそんな権利があるものか。それにお前がやっていたのは、尻の穴に棒を突っ込んで喘ぐことだろうが。この変態が!」

「突っ込んだのはお前だろう!!」

「それを言うなら喘いだのはお前だろうが。…っと、そうだ。お前、ラングラスエリア内部には詳しいんだよな?」

「…? まあ、ここに住んでいるからね」

「よし、一緒に来い」

「え? どこに?」

「『奥』だ」

「奥? え? 奥って…ぽっ」

「しねえええええええええええええええ!!」


 ぶーーんっ ごんっ!


「いってぇええええええええ!」


 再び投げた石が額に激突。

 なぜか『奥』という言葉に卑猥な妄想を浮かべたようだ。どんなふうに思ったのかはわからないが、きっと最低なことを考えたのだろう。

 ミャンメイの照れ顔を見て高まった気持ちが台無しになった。本当にドン引きだ。


「マジでキモイな。鳥肌が立ったぞ。寒気がする。本当はお前と一緒に行きたくはないが、妹の傍に置いておくのも気持ち悪い。連れていってやるから感謝しろ」

「ええええええー? 奥ってまさか…エリアの奥のことか?」

「それ以外にないだろうが。どうやったら変な考えが浮かぶんだ」

「い、嫌だよ! どうしておいらが奥に行かないといけないんだ!!」

「オレが用事があるからだ」

「おいらにはないよ!」

「お前には人権もないだろうが。ほら、さっさと来い。マザー、トットを借りていくよ」

「はい、どうぞ。遠慮なく使ってね」

「もしかしたら怪我をするかもしれないけど、いい?」

「はーい、大丈夫よ」

「ひでええええええええ!」


 あっさりとマザーに売られるトット。

 彼が普段から信頼関係を築けていない様子がうかがえる。自業自得だ。


(さて、臭そうだからあまり行きたくはないが、仕方ない。飼い犬のために行くか)


 こうして不浄なお供を連れて、さらに臭そうな場所に赴くのであった。




386話 「奥へ 後編」


 アンシュラオンとトットは、サナたちをグループに残し、奥へと向かう。

 まずは資材置き場に戻り、南側の扉を開ける。


 ウィーーンッ ゴロゴロゴロ


 ここの扉も腕輪で簡単に開いた。

 扉を潜ると、また長い通路が続いている。


「エリアの入り口に資材を置いておくのは危険じゃないのか? 奪われるだろう?」


 ずっと疑問だったことをトットに訊いてみる。

 アンシュラオンが最初に「おや?」っと思ったのは、入り口を抜けた先が倉庫だったからだ。

 そこに食糧庫もあるので、仮に他の派閥が入り込んだ時には、簡単に資源を奪われてしまう危険性がある。

 特に食糧は地下では重要なので、普通はもっと奥に隠すように配置するものだ。そうした事態を憂慮すると管理が甘いように思える。

 それにはトットも同感だったのか、頷きながらも事情を説明してくれる。


「たしかにそうだね。おいらが来た五年前は、あそこは倉庫じゃなかったんだ。それまでは奥の連中が牛耳っていたからさ。食糧とかもあいつらが独占していたんだよ。でも、レイオンが来てからそれが終わったんだ」

「レイオンが倉庫の場所を指示したのか?」

「最初はマザーが言い出したのかな? 不満が溜まると危険が高まるから、あいつらにも分けてやれるようにしたほうがいいって。うちらがいる側に置いておくと印象が悪いし、こっちにやってくるようにもなるだろう? 子供も多いから危険だってさ。レイオンもいつも見ているわけじゃないし、思いがけない事故だってあるしね」

「ふむ、合理的だな。相手を殺さないのならば、それも仕方のない措置だ。しかし、単なる博愛主義でないところがいいな」


 これが宗教上の都合による博愛が目的ならば足元をすくわれる可能性もあるが、マザーはしっかりと現実が見えているようだ。

 奥の連中も生きている。生きているからには食糧などの物資が必要となる。

 今まで独占されていたのだから今度はこっちがする番だ、と思う気持ちもわかるが、この閉鎖的な空間で相手を追い詰めるのは危険である。

 もちろん、アンシュラオンならばさっさと殺してしまうので心配する必要もないが、あくまで生かしておくのならば、その手段は悪くないという意味だ。

 自分たちが合理的に生きているからといって、相手がそうとは限らない。

 自分が赤信号で止まっても相手が止まらなければ、交通事故は起きてしまうものだ。それを危惧してのことだろう。


「奥の連中の物資はどうやって供給しているんだ?」

「基本的にはレイオンが届けるね。できない場合は、さっき通った扉の前に置いておくようにしているよ」

「十分な量は与えているのか?」

「そのはずだけど、たまに倉庫で盗みを働くやつもいるんだ。おいらたちは会いたくないから、見つけたら隠れるか逃げるけどね。そのあとにレイオンに言いつければ殴ってくれるし」


(トットは十分な量とは言っているが、もともとラングラスは豊かではない派閥だ。最低限だと思ったほうがいいな。奥にいる連中の大半は大人の男たちだ。消費も激しいだろう)


 それでも奥の者たちが不満を言わないのは『抑止力』があるからだ。

 すべてはレイオンが来てから変わった。

 このラングラスエリアの秩序は、レイオンただ独りによって維持されているといえるだろう。

 キング・レイオンとは無手試合のチャンプという意味合いもあるが、ラングラス地下派閥における『王』を意味するのかもしれない。


(お山の大将になりたいやつもいるが、好き好んで薄汚れた地下の王になりたいと思うやつは少ない。それがレイオンが地下に留まる理由ではなさそうだな。…と、この臭いは…)



「臭うな」


 突如、アンシュラオンが立ち止まる。

 そして、何度か匂いを嗅ぐ仕草をする。


「な、なんだよ! おいらはしていないぞ!」

「そっちのことじゃないが…お前が言うと【不潔】だな」

「不潔はやめろよおおおおお!」


 不潔はやめてあげてほしい。

 汚い、不潔、臭いは、年頃の男子には禁句である。事実なのが哀しいが。

 だが、アンシュラオンが止まった理由はトットが原因ではない。


「少し黙っていろ。くんくん…うむ、やはりな。これは【麻薬の匂い】だ」

「麻薬?」

「ああ、そうだ。あっちに続いているな」


 アンシュラオンは匂いを追いながら通路を早足で歩いていく。


「地下では麻薬も売っているんだよな?」

「おいらはそっちには詳しくないけど…そういう話も聞いたことはあるよ。マザーからも駄目だって言われているから、どこで売っているかは知らないけどね」

「教育もしっかりしているようだな。悪を知らないでいるよりは知ったほうがいい。知識は力だ。身を守る力になる。もし誘惑に負けて溺れるようならば、所詮そいつはその程度だったというだけの話だ。…一応警告しておいてやるが尻に麻薬は突っ込むなよ。ヤバイらしいぞ」

「絶対にやらないよおおおお!」

「誰でも最初はそう言うんだ。次は見捨てるからな。覚悟しておけ」

「だからやらないって!」



 しばらく歩くと、道は二手に分かれていた。

 真っ直ぐに行くルートと右に曲がるルートがある。

 それに合わせるかのように、匂いもくっきりと分かれていた。


(真っ直ぐ進んだ先に甘い匂いが続いている。間違いない。コシノシンだ。そして、右側の道に続いてるのは…非常に微量だが、こちらも麻薬だ。匂いが薄いということはコシノシンではない麻薬、おそらくはコッコシ粉かコーシン粉だな)


 ラングラスエリア内部に入った時に感じたように、コシノシンには独特の甘い匂いがある。

 それ以外の下等麻薬だと基本は無味無臭だが、優れた嗅覚を持つアンシュラオンには感知が可能である。

 この場所に来るまで両方の匂いが混じりあっていたが、ここにきて二つに分かれた。

 これが意味することは―――


「右側が奥の連中がいる場所だな?」

「え? なんでわかったの?」

「簡単だ。クズどもがコシノシンを買えるわけがない。買えるとしても、せいぜいが劣等麻薬程度だろうさ。だから右だ」


 すでに実権を失っている奥の連中は、当然ながら金もないはずだ。

 コシノシンの値段は、最低でも三等麻薬であるコーシン粉の三倍以上はする。

 地上でも高くて売れにくいのに、この地下ならばなおさら高級品だ。駄目人間どもが気軽に買えるものではない。


(右が奥なのはいいだろう。では、真ん中は何だ? なぜコシノシンの匂いがする? そして、もう一つの特徴的な匂いがする。これは…『キノコ』か?)


 真ん中の道にはコシノシンに加え、やや強めの菌類の匂いもする。

 口で表現するのが非常に難しいが、まさに「キノコくさい」といった濃厚なものだ。

 この匂いが付いたパスタソースを「キノコ祭り」と称して売り出せば、味はともかく売り文句に偽りなしだと話題になるだろう。

 それだけのキノコ臭が漂っている。


(キノコは入り口の通路で見たものだろう。匂いがさらに強くなっているから、日数が経ったものなのか? しかし、なぜキノコだ? まったくわからん)


「あのキノコは何に使う? 食べるのか?」

「キノコ?」

「毒々しい色のキノコだ。入り口の通路にあっただろう?」

「ああ、あれか。食べてはいないよ。何に使うのかもわからないな…」

「わからないのに置いてあるのか? 完全に栽培しているように見えたぞ」

「うーん、いきなりレイオンが作り始めたんだよな。たまに来ては育ったキノコを採っていく感じかな。何に使うかはわからない。訊いても教えてくれないしね」

「レイオンが? なぜだ?」

「それもわからないな。地下に来てからすぐに栽培を始めたよ」

「ふむ…謎だな。キノコ栽培が趣味なのか? そういうやつもいるが…似合わないな」


 あのいかにも戦士タイプのレイオンがキノコ栽培に勤しんでいる。

 趣味はそれぞれなので問題はないのだが、なんとも奇妙な光景である。違和感しかない。


(気になるのは、コシノシンと一緒に匂いが続いている点だ。となると、コシノシンを仕入れているのはレイオンということになる。…なるほど、どうりで金が必要なわけだ。子供の服や玩具程度であれだけの金を使うわけがない。麻薬に注ぎ込んでいるんだな)


 レイオンが催したスペシャルマッチでは、かなりの額の金が動いていたはずだ。

 あれだけの金が生活物資だけで消えるとは思えない。



 その答えが―――【麻薬】であった。



(あの男が麻薬に手を染めるとは意外だが…まだ目的がわからないし、推測の域を出ないな。ひとまずこの一件はオレの中にとどめておこう。今はそれより奥を優先しないとな)


「では、行くぞ」

「な、なぁ、ここまで来たんだから、おいらはもういいだろう?」

「なんだ、怖いのか?」

「べ、べつに怖いってわけじゃないけど…必要性がないというか…いてもいなくてもかまわないというか…」

「いや、お前は必要だ」

「…えっ!?」

「オレは無意味なことは嫌いでな。必要があるから連れてきている。そうでなければお前のようなゲイとは一緒に来ないさ」

「ほ、本当なのか? おいらにも価値があるのか!?」


 後半のゲイの部分が気にならないほど、ゲイという言葉に慣れてしまったようである。慣れとは怖いものだ。


「ああ、お前だけが頼りだ。その時が来たら頼むぞ。お前にしかできない仕事だからな。すべてはお前の働きにかかっていると言っても過言ではない。オレはお前の可能性を信じているぞ」

「お、おいら、こんなに他人に必要とされたことは初めてだ! わ、わかった! おいらも男だ! やるときはやるさ! 任せておけ!」


 かわいそうに。普段よほど他人から疎まれて生きているのだろう。

 ちょっと言葉巧みに誘導しただけで、すっかりとやる気だ。ちょろいものである。


(まあ、囮くらいには使えるだろう。こいつはオレと違って顔を知られている。それが逆に道具になるかもしれないしな)




 アンシュラオンは右側の道を進む。


 途中で分かれ道もあったが、トットの案内と麻薬の匂いを頼りに進んでいく。

 人間とは出会わなかったものの、目に見えて通路が汚くなっていった。

 その最大の原因が、そこらに転がる廃棄物、破壊された木の板や瓦礫のようなものである。


「なんだこりゃ? ゴミ捨て場にしても乱雑すぎるだろう」

「これは奥の連中が立て篭もった時の残骸だね」

「立て篭もった?」

「レイオンが来た時の話はしただろう。その時に抵抗した跡さ」

「それはいいが…片付けくらいできないのか。まったく、クズどもめ」

「片づけができるようなやつが地下には来ないよ」


 トットにしては、なかなかごもっともな発言である。


 そして、進むにつれて徐々にゴミは増えていき、次第に通路の下半分が廃材で埋まるようになってきた。

 邪魔なのはもちろんゴキブリに似た虫もおり、衛生的にも非常に悪質な場所だ。

 アンシュラオンは微弱の戦気を保護膜として展開しているので、触れるゴミは消えていくのだが、ゴミの中を歩くのは気分が悪いものだ。


「ちっ、面倒だな。まとめて消すか」

「ちょっと待ってよ。これはあったほうがいいんだって」

「なぜだ? 汚いだけだろう」

「こうして歩きにくくするだけで、あいつらもこっちにあまり来なくなるんだ」

「それで問題の解決になっているのか? ゴミってのはな、しっかりと処分しないと周囲に悪影響を与えるだけだぞ。ここが閉鎖されている以上、燃やすしかないだろうな」

「そうかもしれないけど…気付かれるって」

「気付かれてもまったくかまわないが…うむ、そういえば『標的』は隠れている可能性があるんだったな。強硬策は危険か」


 門番のピアスの男が知らなかったところをみると、シャイナの父親は偽名を使っている可能性が高い。

 一網打尽にするのはたやすいが、それだけでは誰が誰だかわからなくなる。

 木を隠すならば森の中とはいうが、クズの中にクズを隠すとは、なかなか上手いやり方だ。


 ここはトットの案を採用して、ひとまず道なりに進むとする。


 すると、通路の先に一人の男が立っていた。


 道は微妙に傾斜したカーブになっており、お互いにまだ姿は見えないが、アンシュラオンは波動円でしっかりと相手を確認していた。

 そして、立っている男の情報を取得する。


(おっ、あいつは…また出会ったな)


 なんと、そこには今しがた話題に出た門番の男、ピアスがいるではないか。

 身体はボロボロかつ、顎のピアスが取れているので、当人で間違いないだろう。

 入り口で気絶させたはずだが、あれからしばらく時間が経っているので、ここにいても何ら不思議ではない。

 問題があるとすれば向こうのほうだろう。また最悪の訪問者がやってきたのだ。


(せっかく出会ったんだ。もう一度確認しておくか)


 すると何を思ったのか、アンシュラオンがポケットから銀色に光るピアスを取り出す。

 これはピアスから取ったピアスだ。

 文章にするとわかりにくいが、あの男の顎にあったピアスがたまたま服に引っかかっていたので、そのまま持っていたというだけのものだ。

 こんなものは要らないので、相手に返すことにする。


 アンシュラオンが微弱の戦気でピアスを覆うと、遠隔操作でひとりでに動き出す。


 ゴミに埋もれた床を這うように、ごとりごとりと移動を開始。



 コンコンコンッ コンコンコンッ



「ん? 何の音だ?」


 廃材にピアスが当たる音が響き、ピアス男が不審そうに周囲を見回す。


 コンコンコンッ コンコンコンッ


「んっ…んんっ! え? ピアス! ピアス…なのか!? …ピアスが…動いている?」


 それは実に奇妙な光景である。

 事情を知らなければ完全なる怪奇現象だ。

 しかも奇怪なことはそれだけにとどまらない。


「オトウサン、タダイマ」

「っ!! だ、誰だ!?」

「ボク、ピアスダヨ」

「なっ…まさかピアスがしゃべっているのかよ!!」

「ソウダヨ。ボク、ピアス。オトウサンノ、アゴノピアスダヨ」

「嘘だろ、おい! 俺のピアスがしゃべってるぞ! す、すげー! これがピアスの帰巣本能ってやつなのか!」


 そんな怪奇現象に対して、なぜかピアス男は感動しているようだ。

 当たり前だがピアスがしゃべるわけがないので、これはアンシュラオンの声である。




387話 「キング・オブ・クズ選手権 前編」


 なぜかピアス男は状況を受け入れる。

 ピアスばかり付けていたので、頭がおかしくなってしまったのかもしれない。


(うん、あいつが馬鹿でよかった。心配になるレベルに馬鹿だな。馬鹿はどうやっても馬鹿だということか。だが、これは好都合だ。このまま情報を引き出すとするかな。入り口ではあまり絡めなかったし)


「お父さん、訊きたいことがあるんだ」

「おっ、いきなり普通の言葉遣いになったな! 成長しているってことか!」

「そうだよ。けっして面倒くさくなったからじゃないよ。お父さんの皮膚の栄養を喰らって進化したんだ」

「こわっ! かなり危ない発言だけど、それもまた可愛いな。それで何が訊きたいんだ?」

「この先にいる元麻薬の売人のクズを捜しているんだけど、心当たりないかな?」

「ん? 元麻薬の売人? なんでお前がそんなやつを捜しているんだ?」

「うん、ずっと黙っていたけど、僕はピアス星人の刑事なんだ。それで麻薬の売人を捜しているんだよ」


 かなりの変化球で勝負したものである。正直、訳がわからない。

 そもそもこの星の人間は、ここが『惑星』であることすらも知らない者がいる。

 そんな状況で「〜星人」を選択するのは、なかなかに勇気がいるものだ。

 だが、あえてこれで勝負する。男は黙ってナックルカーブである。


 で、肝心のピアス男の反応だが―――



「なるほど、そうだったのか。お前も大変なんだな」



 見事に見逃しストライクであった。

 男が馬鹿で助かった。


「どんなやつを捜しているんだ?」

「麻薬を持ち逃げしてフルボッコにされて、ここに入れられたやつかな」

「ふむ…クズの中のクズか。麻薬関係ならば、ここから入って右伝いに行くとグループがあるぞ。さすがにどいつかまではわからないけどな」

「グループはいくつかあるの?」

「大小含めて六つくらいはある。麻薬のグループは人も多いから見極めるのが大変そうだ」

「へー、そうなんだ。いろいろとありがとう」

「なんの、俺のピアスのためだからな。気にするな」


 ピアスには優しい男のようだ。

 一通りの情報は集めたのでお礼をしてあげよう。


「じゃあ、お父さんの顎に戻るね」

「おう、戻ってこい!」

「いくよっ!!」


 ビュンッ!!!

 突如急加速したピアスが男の顎に直進。


 おそらく時速五百キロは出ていたはずなので―――


 ボスンッ ボギャンッ!!



「―――ぎゃっ!?!!?」



 顎に当たったピアスが骨に食い込み、破壊。

 爆発的な衝撃が骨だけで支えられるわけもないので、そのまま首がガゴンと変な方向に曲がって吹っ飛んだ。

 ゴンッ

 さらに不幸なことに、廃材に頭を打ち付けるというオマケ付きだ。


「おぐぐぐぐ―――がくっ」


 そして、本日二度目の気絶を味わうことになるのであった。



「ありがとう、お父さん。助かったよ」


 アンシュラオンが倒れたピアス男の前にゆっくりと姿を現す。

 彼も大好きなピアスに突撃されて幸せだったことだろう。人助けはいつやっても気持ちいいものである。


「あわわわ、ひでぇ!! そこまでしなくてもいいのに…」


 トットもその場に姿を見せる。

 が、彼が気にしたのはピアス男の容態であって、アンシュラオンがやった妙技ではない。

 食事前の一件で、アンシュラオンがレイオンより強いのかもしれないとは察しているようなので、この現象自体に疑問を抱いてはいないようだ。

 無知とは幸せなものである。


「こいつのことを知っているのか?」

「う、うん。よく門番でいるからね。でも、そんなに悪いやつじゃないよ。こいつは奥の連中の中でもまともなほうだから、レイオンも門番をやらせているんだ。少なくとも、おいらたちに危害を与えるようなやつじゃないんだ」

「そのわりにはカツアゲをしていたぞ?」

「ここには駄目な大人が多いからね。上下関係をはっきりさせるための方法さ。あれはちゃんとレイオンのところに運ばれてから再分配されるんだ」

「クズの中でも少しはましなクズ、ということか。悪いことをしたな」


 と言うわりには治療もせずに放置する。

 多少ましでもクズには変わりない。ピアス男に優しくする理由はないのだ。



 こうしてピアス男を排除し、少し進むと扉がいくつか見えてきた。

 ただ、今まで見てきた扉と違って、このあたりの扉は【半壊】しているものが多かった。


(この壊れ方…崩落とかではないな。何か強い力が横からぶつかって壊れたんだ。これだけの破壊痕が残っているということは相当な衝撃だったようだな。やはり昔に何かあったのかもしれない)


 扉の開閉等を除いて、このあたりの遺跡は大半の機能を失っている。

 稼動しているロボットなどもいるにはいるが、音声機能もかなりオンボロだったし、主体的に動いているわけでもないので、基本的にはすでに朽ちた遺跡だと思ってよいだろう。

 そうなると遺跡が終焉を迎えた何かしらの理由があるはずだ。

 この破壊痕は、それを探るための重要なヒントになるだろう。

 ただ、これも遺跡調査に興味がある人間にしか意味がないので、アンシュラオンにとっては扉を開ける手間が省けるという利点があれば十分である。

 今重要なことは朽ちた遺跡ではなくて、現在ここに住んでいる人間の状況なのだ。


(扉が素通りなのは防犯上あまりよくないな。レイオンがこの場所を奥の連中に割り当てたのか、あるいは自分たちが住みやすいから選んだのかは不明だが…腕輪がなくても移動可能であることは重要な要素だ。紛れ込むには悪くない環境だな)


 扉の開き方を見て感じていたことだが、腕輪は誰か一人でもかざせば開くので、他の人間が持っている必要性はないようだ。

 そうなれば無関係な人間が入り込む可能性も否定できない。

 扉まで半壊しているような場所では、さらに混沌とした状況が生まれているだろう。

 アンシュラオンがこれから対峙する連中は、そうしたカオスな者たちなのだ。普通に父親を見つけようとしても難しいかもしれない。


(ピアスの情報では右側に沿っていけばいいはずだが、人の気配も増えてきたようだ。さて、どういう方法でいくかな。隠形と全速移動を使えば見つからずに行動は可能だが…臭い場所にはあまり近寄りたくないし、できれば自分の手を汚す必要なくスマートに調べたいな。…となれば、やはりこいつを使うか)


 ちらり、とトットを見る。

 気持ち悪いのを我慢して連れてきたのだ。ぜひここで役立ってもらうとしよう。


「おい、トット。いいものをやろう」

「え? 何かくれるのか?」

「うむ、いいものだ。ほれ、両手でしっかりと受け止めろよ」

「いいものって…どうせガムとかそんなん―――」


 ドババババッ ジャリジャリジャリジャリッ!


 トットの手に革袋から【コイン】が投入される。

 それは一枚や二枚ではなく、溢れんばかりに大量であった。


「ええええええ!? なんだこりゃーー!」


 いきなりのコインと、その重さにトットが叫ぶ。


「大陸硬貨だ。見たことはあるだろう?」

「そ、そりゃあるけど! こ、これは【金貨】じゃないか!!」

「まあ、そうだが…一枚五千円くらいだぞ? 一番安い金貨だしな」

「た、大金じゃないか!!! す、すげー!! 初めて触った!!」


 この世界には、全世界共通通貨である『大陸通貨』があることはすでに述べた。

 そして、これは地球と同じく基本的には紙幣のほうが価値がある。

 紙幣自体の目的が、大金を簡単に持ち運べるようにするためだからだ。

 ただ、中には普通の紙幣よりも価値のある硬貨があるものだ。記念品だったりプレミア物だったり、単純に収集家がコインを好むといった事情もあるだろう。

 それと同じように、大陸通貨にも価値のある硬貨がある。


 それが―――【金貨】だ。


 金貨には、いくつか種類がある。

 一番高い金貨は大陸王の顔がデザインされた、通称『王様金貨』と呼ばれる一枚百万円の価値がある大型のものだ。

 これは大陸暦の誕生を祝って数量限定で生産されたものなので、現在はプレミアが付いており、実際には十倍から百倍以上の値段が付くという話だ。

 一枚一億円の金貨というのも面白いものである。落とした時は涙が止まらないが。


 その次に女神への感謝をかたどった『女神金貨』が、一枚五十万の価値があるものとして知られている。

 こちらも女神崇拝を好む組織や個人が買い占めているようなので、かなり値段が高騰しているらしい。

 ちなみにマザーがいたカーリス教も大量に買い込んでおり、各地に赴く司祭たちにお守りとして渡されることもあるそうだ。

 彼女もまだ持っているので、ぜひ盗難には気をつけてもらいたいものである。


 それに加え、一枚二十万円の『水竜金貨』、一枚十万円の『火狼金貨』、一枚五万円の『雷鳥金貨』、一枚一万円の『風松金貨』と続く。

 これらも記念品として出されたものであるため、滅多に見かけないものである。


 そして、今アンシュラオンが出したのが、その最後に位置する一枚五千円の価値がある『豊穣金貨』と呼ばれるものだ。


 三種類の稲のようなものが絡み合ったデザインで、五穀豊穣を願ったものだと思われる。

 これは通常時に使用することも想定して作られているので、相当数が全世界に流通しているらしく、普段の生活でもそこそこ見かけるものだ。

 アンシュラオンは硬貨を集める趣味はなく、支払いはだいたい紙幣を使う。金持ちならではの「札束ドン」である。

 この金貨は、その際のお釣りを適当に貯めていたものにすぎない。アンシュラオンにとっては、さしたる価値があるものではない。

 が、トットにとっては大金だ。


「す、すげぇ…これだけでいくらあるんだ…!? はぁはぁ、とんでもない!」

「そんなに興奮するな。はした金だぞ?」

「か、金持ちなんだな!! と、友達になろうぜ!」

「お前が死んだら考えてやる」

「死んだら金も意味がないだろおおお!」

「金を目的に友達になろうとするほうが悪い。浅ましいやつめ。…さて、その金はお前にやろう」

「えっ!? 本当か!?」

「やると言っただろう? それは今からお前のものだ。男に二言はない。完璧に絶対的に究極的にお前の所有物だ。返せなんて言わない」

「や、やった…! これだけあればいろいろと買える…!」

「ただし、一つだけオレの言うことを聞いてもらうぞ」

「任せてくれよ! 何でもするよ!」

「そうか。助かるよ。じゃあ、頼む」

「うん! で、何をすれば―――」


 ドンッ


 その質問が終わる前に、アンシュラオンがトットを蹴り飛ばす。



「どわああああ!!」



 ドザザザザッ

 軽く小突いただけだが、ちょうど廃材などが溜まった瓦礫の頂上部分にいたため、一気に転がり落ちていく。

 そして、ここが一番重要だが、今トットは両手に大量のコインを持っている。

 特に革袋に入れているわけでもない状態で、両手にこんもりと乗せているだけである。



 となれば―――ぶちまける。



 ジャリンッ ジャラララランッ

 キンキンッ コンコンコンッ


 駅の改札で小銭をぶちまけた人ならば、どんな音がしたかがわかるだろう。

 大量の硬貨が遺跡の硬い床にぶつかって、甲高い音が響く。

 こうした高域の音は警戒音でもあるので、動物の耳には非常によく聴こえるものだ。

 人混みや電車の音がしても聴こえるくらいなので、この静かな遺跡の中ではかなり反響して遠くまで届くことだろう。


「ぐうう…うう。いててて…何するんだよ!」

「何でもすると言っただろう」

「えええ? 蹴られるのが仕事なのか!? どんだけサドだよ!」

「文句を言っている暇はないぞ。いいか、それはもうお前のものだ。自分のものならば自分で守らないといけない」

「何を言っているんだ?」

「オレがいることは黙っていろよ。もし口を滑らしそうになったら強引に塞ぐからな。じゃあな」

「えっ! おいらはどうすればいいんだ!?」

「とりあえずがんばれ」

「がんばれって…え!?」


 そう言ってアンシュラオンは、トットを無視して瓦礫の隅に隠れて気配を消す。

 隠形も使って完全に周囲と同化しているので、一般人にはまず見破ることはできないだろう。


 では、なぜアンシュラオンがこんなことをしたかといえば―――



「うん? なんだ? 今の音は…」

「これは…まさか!」

「金の音だ!! 間違いない!」


 そろぞろ ぞろぞろ

 半壊した扉から、硬貨の音を聴きつけた男たちが姿を見せる。

 普通の人間でも甲高い音には敏感である。誰だって気付くだろう。

 そのうえ彼らは常に金に飢えている者たちだ。

 そのあざとい耳と目が、散らばった金貨をすぐさま発見する。


「っ!! あの輝きはまさか!!! か、金だ!! 金貨だ!」

「なにぃいいいい! 金貨だとおおお! そんなもん、滅多に見ないぞ!! お宝じゃねえか!」

「馬鹿、声を出すな! 他のグループにバレるだろう!」

「金だ! 金だぞ!! 拾えええええ!」


 ドドドドドッ

 彼らの目には金しか映っていない。我先にと走り出し、金貨を拾い出す。


「うっ、臭い…!」


 男たちの悪臭に、トットが思わず呻く。

 こんな場所にたむろしている連中だ。まともな生活をしているわけがない。

 着ているものもくたびれているし、風呂にも満足に入っていないのだろう。刺激臭も相当なものだ。


(おお、思ったよりいい感じの連中が来たな。そうだよ、この腐敗した感じこそ地下だな。好感が持てるぞ)


 それをうかがっていたアンシュラオンが、思わず笑う。

 これこそ自分が想像していた地下の人間の正しき姿である。やはり駄目人間はこうでなくてはならない。



「ん…? なんだあいつは?」


 一人の男がトットを発見する。

 ここに子供がいること自体が非常に珍しいのだろうが、金の亡者と化した彼らにとっては金だけが重要だ。

 その手にある金貨だけが目に入る。


「金貨だ!! あいつ、金貨を持っているぞ!!」

「なにぃいいい! よこせえええええええ!」

「あれは俺のもんだああああ!」

「えっ!? えええええええ!! く、来るな!! これはおいらのもんだぞ!!」

「うるせえ! よこせ!!」

「どわあ!」


 ドンッ

 男が体当たりをしてトットを吹き飛ばす。


 ジャリーーンッ チャリンチャリンッ


 その手から多くの金貨がこぼれ落ち、床にぶちまけられた。


「んー? なんだぁ、うるせえな」

「どうした? 何があった?」

「っ!! お前ら、なにやってやがる!!」

「ちっ、面倒なやつらが来やがったぜ!!」


 その音を聞きつけた別のグループがやってきた。




388話 「キング・オブ・クズ選手権 中編」


「てめぇら、ここで何をやっている! うちらのシマだぞ! 落ちているもんは全部俺らのもんだろうが!」

「うるせぇな! 誰が決めたんだよ! 何年前の何時何分何秒前だ!」

「俺らが生まれた時から決まってんだよ! さっさとよこせ!」

「ふざけんなよ! やるか!!」

「ったりめぇだああああ!」


 クズとクズが出会えば、憎しみと混沌しか生まれないものである。

 どう考えても彼らのものではないにもかかわらず、落ちている金貨の所有権を巡って二つのグループが猛烈な奪い合いを始める。

 元構成員たちが大半なので殴り合いや蹴り合いはもちろんのこと、相手のズボンごと引き抜いてポケットに入っている金貨を奪おうとする者すらいる。

 なんて浅ましく愚かで醜い姿だろうか。


 そして―――なんと楽しい瞬間だろうか。



(くくく、愚民どもが争う姿は最高だな。もっと醜く奪い合うがいい)


 アンシュラオンは醜い争いを見て、ニタリと笑う。

 ロリコンと出会った頃の会話でもあったが(12話参照)、こうして相手の興味がある者をばら撒いて争わせるのが大好きなのだ。

 欲望丸出しの人間の姿は、ある意味で美しいものだ。これこそノンフィクションの極みであろう。

 ただし、クズどもにわざわざ金貨を恵む理由はないので、この行動にはしっかりとした目的がある。


(さて、クズの中のクズは誰かな?)


 アンシュラオンの目的は―――よりクズな人間を見極めることにある。


 シャイナの父親はかなりのクズと聞いている。そんな人間を捜し歩くなんて面倒極まりないし、クズの中に入りたいとも思わない。

 ならば、向こうから出てきてもらえばいいのだ。

 これは獲物をおびき寄せるための『撒き餌』である。


(クズには一つだけ特殊能力がある。それは自分の利益には敏感な点だ。こんなイベントがあれば見過ごすわけがない)


 クズと呼ばれる人種にもいろいろとタイプがあるが、すべてに共通するのが『利己主義者』という点だ。

 人間は誰しも利己的ではあろうが、その中でもとりわけ利己主義者だからクズなのだ。

 違う見方をすれば「協調性がなく、相手のことを考えない」、あるいは「相手を同じ人間だと思っていない」「相手を労わらない」と言い換えることもできる。

 この方法は父親が拘束されていなければ、という条件付きだが、レイオンの統治方法を見ている限り、その可能性はかなり低いと思われる。

 数を集めて様子を見るうえでも最適だし、やってみる価値は十分あるだろう。



 では、こうして始まった【キング・オブ・クズ選手権】において、どんなクズがいるのか具体的に見てみよう。




―――――――――――――――――――――――
1、子供でも容赦しない


「邪魔だ! どけっ!!」

「ぎゃーー!」


 どんっ ガス ぐしゃっ

 トットが吹っ飛ばされ、踏まれて、もみくちゃにされる。

 クズは相手が子供だからといって加減はしない。金がかかる場面では特に顕著だ。

 当然、子供からも奪う。


「よこせ!」

「アーー! おいらの金貨がーー!」


 トットの抵抗虚しく、簡単に金貨が奪われる。力なき普通の少年なので仕方がないことである。

 こうしてトットはすべての金貨を失った。自分の物すら守れない人間の末路は悲惨だ。

 あとは尻を差し出すしか挽回のチャンスはないだろう。


―――――――――――――――――――――――
2、大きいものに価値があると思っている


「おっ、こっちのほうが大きいんじゃないのか? そうだ。絶対にそうだよ!」

「なにぃいいい! よこせ! 大きいのをよこせ!!」

「馬鹿野郎! やるわけねえだろうが! …って、そっちのほうが大きくないか?」

「な、なにぃ!? …本当だ! ちょっと大きいかもしれねぇな…」

「…よこせ」

「…あ?」

「でかいほうが価値があるに決まっている! それをよこせえええええええ!」

「ぐあっ!! てめっ、このやろう! 同じグループだろうが!」

「同じグループでも別の人間だ!! その金貨は俺のもんだぁああああ!」


 クズは、大きいものを選びたがる習性がある。

 何に対しても大きいものに価値があると思っているのだろう。不良(死語)がだぶだぶのズボンをはくのも、それが要因かもしれない。

 しかし、どこぞの昔話ではないが、大きいからといって良いものが入っているわけではないし、そもそも硬貨なので製造過程による誤差の範囲内である。

 そんなことにも本気で気付けない頭の悪い連中でもあるわけだ。


―――――――――――――――――――――――
3、嘘をつく


「お前、何枚取った?」

「やべー、俺一枚しか取れてねぇよ」

「なんだよ、せっかくのチャンスなんだから気張れよな!」

「いやぁ、俺ってノロマだし…みんなのおこぼれを狙う感じでいくよ」

「ったく、そんなんじゃいつまで経っても底辺の生活だぞ」

「ああ、そうだな。でも、俺はこれで満足したから先に戻っているよ」


(けけけ、大量大量。どこに隠そうかな…)


 わざと弱者のふりをして、隠れて利益を得ようとする。


(馬鹿なやつらだ。頭の悪いやつらは扱いやすいぜ)


 しかも他人を自分よりも馬鹿だと思っている。

 そう思うのは当人の自由だが、案外そういう態度は見透かされているものであり、こうした人間はそのうち誰かに騙されるものである。

 それがクズの末路だ。


―――――――――――――――――――――――
4、目先の快楽しか考えない


「はぁはぁ! おい、この金貨を全部やるから、隠してある酒と取り換えてくれ!!」

「おいおい、いいのか? お前、借金があるんだろう? 上にも仕送りを送らないといけないって言っていたじゃないか。嫁さんはどうするんだ?」

「そんな先のことなんて知るかよ! 俺は今、無性に酒が飲みたいんだ! 頼むよ! レートを考えれば、そっちは得するだろう!?」

「そりゃそうだが…まあ、お前がいいなら問題ないけどよ。あとで文句言うなよ」

「ありがてぇ! 今日は宴会だぜ!!」


 これは酔いが醒めた翌日に後悔するパターンである。

 上の家族からの信頼もなくなり、すべてを失ったことにショックを受けて、また堕落する。

 後日何かの幸運で金を手に入れても、すぐに目先の欲求に耐えられずに使い果たすを繰り返す。

 依存症の典型的なパターンだ。ギャンブルでもよく見られるので注意が必要だろう。


―――――――――――――――――――――――
5、裏切る


「やったぜ! 三枚ゲットした!」

「おう! よくやったな! 同じグループとして鼻が高いぜ! ほら、この袋でまとめて管理しているから、ここに入れてもう一度行ってこいよ!」

「おうよ! 任せておけ! また三枚取ってきてやるさ!!」

「ああ、頼むぞ」


 そう言いながら男は、少しずつ距離を取っていく。

 その腰にはグループで集めたはずの金貨が入った袋がある。

 そして騒動のさなか、すっと消えていく。


「はぁはぁ! 駄目だ! 競争が激しくて一枚も手に入らない! でも、三枚取ったからいいよな……って、あれ?」


 そうして仲間が戻った頃には、どこにもいない。

 利益のためならば簡単に人を裏切るタイプだ。あるいは詐欺師にも見られるパターンかもしれない。

 仲間だと思わせておいて安心させ、ある日突然いなくなるのだ。

 日々信用を積み重ねるという努力が必要な分、ある意味では努力家かもしれないが、その努力の使い方を間違えているわけだ。

 クズだから仕方がない。元の性根に問題があるのだ。


―――――――――――――――――――――――



(さすがクズの巣窟だな。典型的なクズが多くて楽しいよ)


 キング・オブ・クズに輝くのは誰か。

 実にそそられるテーマである。テレビ番組でやれば、けっこうな視聴率が得られそうだが、どうだろう。

 ここで重要なのはリアリティだ。

 ただの遊びではなく、確実に禍根を残す方法でやるとよいと思われる。憎しみ、恨みという感情は見ている側には面白いものであろう。


(もっと争いを見ていたいが…目的を忘れるわけにはいかない。さて、この中でシャイナの父親が該当しそうなグループは…3と5あたりかな?)


 シャイナの父親は、麻薬の持ち逃げを図ろうとして捕まった男だ。

 クズのタイプはまだまだあるので一概には断定できないが、「嘘をつく」「裏切る」あたりが怪しいだろう。

 アンシュラオンは騒動を起こしながら、その二つのタイプを重点的に見ていたわけだ。



 そして、しばらく様子をうかがっていると、後ろのほうで何やら怪しい動きをしている者がいることに気付く。



 その人物は最初の時間帯からこの場にいたが、特に何もせずにじっと見ていただけだ。

 おそらく腕力に自信がないのだろう。自分が直接行っても返り討ちだろうし、仮に拾っても奪われるのが関の山だと判断したと思われる。

 だが、けっして諦めたわけではない。

 他の者たちのために飲み物などを用意して、ご機嫌をうかがいつつ、徐々に気配を消していくのがわかる。

 何かを狙っているようなそぶりだ。


(怪しいやつがいるな。ちょっとクローズアップしてみるか)


 アンシュラオンが波動円で男をサーチする。

 身長は百六十センチという小柄で、体型は小太り。

 髪は短く、あまり手入れもされていないボサボサの状態だ。

 顔は丸型。目と口は小さいが、鼻はだんご鼻で妙に大きく目立つ。はっきり言えばブサイクと呼んでも差し支えない容姿だろう。

 肌のシワから判断するに、年齢は五十前後といったところだ。


(年齢は近いな。髪の色は…どうだ?)


 アンシュラオンはこちらに視線が向いていない瞬間を狙って、少しだけ顔を出して男を視認する。


 髪の色は―――錆色だった。


(ふむ、金髪とは言いがたいが、親子が同じ髪色とは限らない。この世界では判断が難しいところだな。ただ、あれから金色が生まれる場合もあるか。もうちょっと様子を見よう)


 きょろきょろ

 またしばらく波動円で様子をうかがっていると、突然小太りの男が挙動不審になった。

 どうやら誰かに声をかけられたようだ。

 話しかけた男はがっしりした体格で、小太りの男に何やら話しかけている。

 その都度、小太りの男がペコペコ頭を下げていた。同時に揉み手をしながら愛想笑いも欠かさない。


(話しかけた男のほうが立場が上の人間のようだな。小太りの男は…完全に小物臭が漂っている。が、注意して見るのは小太りの男のほうだ)


 ここのトップを探しに来たわけではない。

 あくまでシャイナの父親を捜しにきたのだ。着目するべきは、より駄目な人間であり、より小物の相手である。

 小太りの男はへこへこしながら、また気配を消して様子をうかがう。


(やれやれ、これでは時間の無駄だな。こちらできっかけを作ってやるとしよう)


 アンシュラオンが戦気を遠隔操作すると、瓦礫の下から革袋が出現した。

 トットを小突いた時に、二つの革袋を忍ばせておいたのだ。中身は当然ながら金貨である。



 それを―――舞い上げる。



 ブワッ!


 ジャリリリリリリリンッ!!


 空中で袋が開き、派手に金貨がぶちまけられた。

 その音に周囲の男たちが、びくんと跳ね上がる。


「なんだぁ!? 今の音はなんだ!!」

「き、金貨だ! まだあるぞ!!」

「し、信じられねぇ! 今、革袋が勝手に飛んだぞ!! 嘘じゃねえ! 本当だ!」

「そんなことはどうでもいい!! あれは俺のもんだあああああ!」


 ドドドドドドッ

 金貨に男たちが殺到して奪い合いを始めた。


 そのタイミングを見計らって―――さらに二つ目の革袋を放り上げる。


 それによって男たちの視線が、すべて宙に浮いた革袋に集中した。

 なぜ革袋が勝手に浮くのかなど考えている暇はない。大事なことは、その中身が金貨であることだ。

 それを知っている者たちは誘惑にはあらがえない。

 さきほどのがっしりとした体格の男も、視線は完全に革袋に向いている。


 その時である。



 小太りの男が―――動いた。



 小さな淀んだ目をぎょろりと動かし、小太りながらも機敏な動きで、近くにまとめて置かれていた金貨を数枚だけくすねたのだ。

 そのグループが集めていた金貨は二十枚はあったので、実に微々たる量である。

 たとえるのならば、数万円ある財布の中から数千円盗むようなものだ。

 実にセコイ。どうせならば八枚くらいは盗ってほしいとさえ思う。


 が、これで確信した。


(盗みに慣れているな。あれは空き巣やスリ、横領でよくある手口だ)


 前に元空き巣の防犯アドバイザーが言っていたが、上手い空き巣やスリは全部を取らない。

 仮に一万円札と千円札が一枚ずつあったら、千円札のほうだけを盗る。

 その程度ならば「あれ? たしかにあったと思ったけど…まあいいか。たかが千円だ。勘違いだったかな?」という心境になりやすいからだ。

 あるいは盗られたとわかっても、小額ならば妥協してしまう心境もある。

 大事にして面倒な手続きをするくらいなら、それくらいはいいかと思ってしまうのだ。

 実際に地球時代、アンシュラオンの母親が職場で盗難に遭った時も、三万五千円あった財布から五千円札だけが盗まれていた。

 もちろん全部盗むのが基本だが、あくまで【内部犯】に限定した場合は、こちらのタイプのほうが多いのだ。


(…あいつだ。この中で一番可能性がある)


 アンシュラオンは、その男に照準を合わせた。

 自分の中にある「クズセンサー」が激しく反応しているのだ。




389話 「キング・オブ・クズ選手権 後編」


 新たな金貨の登場により、キング・オブ・クズ選手権は佳境に入る。

 男の肌と肌がぶつかる音。流れ飛び散る汗。むせ返るような熱気と臭い。

 どれも絶対に味わいたくないものであるが、そんな中にトットが取り残されていた。


「アーー! くさいー! 助けてぇえーーー!」


 さすがのトットも、あまりの男臭さに転げ回る。

 金を積まれても嫌なのに、強制参加のうえに金まで奪われるという災難が襲う。

 今日彼は、自分が男に生まれたことをもっとも後悔しただろう。

 だが、嫌よ嫌よも好きのうち、とも言う。これがゲイなりの照れ隠しなのかもしれない。


(あの叫びは喜びの声だと思っておこう。さらばトット。ここがお前の墓標だ。役立ってくれてありがとう)


 トットを放置して監視を続けると、小太りの男がすっといなくなった。

 目的のものを手に入れたので、早いところ隠そうと逃げ出したのだろう。

 また、普段から慕われていないのか、こんな会話も聴こえてきた。


「あれ? あいつはどこに行った? さっきいたよな?」

「ああ? 誰だ?」

「あのデブのやつだよ。錆色の髪の毛の」

「そんなやついたか? まあ、どうでもいいんじゃね? いないほうが金貨を分け与えなくていいしな」

「それもそうか。あいつ、いつもヘラヘラして気持ち悪いんだよなぁ」

「シロをやっているやつなんて、そんなもんだろう。放っておけよ」

「ああ、そうだな。いないなら、そのほうがみんなのためになるしな」


 完全に仲間外れ的な発言だ。仲間内でも浮いていることがわかる。

 が、これは「わざと」であろう。


(普段から馴染めていないか、あるいは意図的に馴染んでいないか。どちらにせよ【裏切る準備】は常に整えているようだな)


 裏切る人間に総じて言えることだが、彼らは他人に対して心を完全に開かない。

 開いたふりはしても裏切ることが前提なので「へっ、そのうち裏切られるとも知らずに馬鹿なやつらだ」と、コケにしていることが多い。

 あるいは気の弱い人間ならば、裏切った時に自分が傷つかないように仲良くしないということもあるだろう。

 小太りの男は最初から絆を築かないタイプのようだ。その分だけ裏切るのも早いはずだ。

 シャイナの父親が持ち逃げしたあとに捕まっているということは、相手側もそれなりに予見していたことになる。

 つまりは、普段からこうして浮いていた可能性が高いのだ。だから「あいつはいつかやりそうだ」と目をつけられる。

 このことから、さらにあの男が怪しくなった。


(追うか。独りになったところを問い詰めよう)


 ズルルルッ キンッ

 アンシュラオンは身体の周囲に命気を放出し、屈折率を操作して鏡のように『全反射』状態にする。

 普通の移動でも自分の動きを見切れる人間はいないだろうが、念には念を入れて視覚面でも隠密活動がしやすいようにしたのだ。

 仮に誰かに見つかっても問題はないが、あの男を追い詰めるタイミングを失うのは困る。

 今こそが相手の弱みを握る最大のチャンスであろう。



 アンシュラオンは物陰から出ると、素早い動きで男たちの間をすり抜ける。


 高速移動なので誰も気付かない。一瞬何か通ったかもしれないと思っても、金貨に夢中なのですぐに忘れる。


 ガスッ


「いてっ! 踏まれたーーー!」


 途中、うっかりトットを踏んでしまったが、それもまた彼の試練だと思うことにした。

 ゲイには厳しく接しないといけないのだ。それが神の御心である。




 アンシュラオンは小太りの男を追跡。

 波動円でも把握しているので完全に捕捉して後を追う。


(これだけ雑な追跡でもまったく気付かない。完全に素人だな)


 隠れる場所が限られた通路なので、正直なところ相当雑な追い方をしている。

 もし相手がアーブスラットならば、こちらの追跡に簡単に気付いたことだろう。

 だが、小太りの男はまったく気付かない。その動きのトロさから武人でないことは確定である。


 男は通路を通り、いくつかの壊れた扉を抜けていき、一つの部屋に入る。


 チョロチョロチョロッ ザザァ


 部屋はかなり薄汚れていて汚く、時折水が流れる音がしていた。


(ここは…トイレか?)


 アンシュラオンも男に気付かれないように部屋に入る。

 そこで周囲を見回すのだが、どう見ても『トイレ』であった。

 ただし、地上にあるようなものとは違い、やや近代的な洋式便器に近いものが見受けられる。

 さらに定期的に水が流れているようなので、それによって水洗式が実現されているようだ。


 これによって二つのことがわかる。


(かつてここには人間が暮らしていた。そして、その形状は今のオレたちと変わらないということだ。やはり人間の形はすでに完成されているか)


 宇宙に人間は山ほどいるが、星によって人間の姿かたちはだいぶ異なる。

 場合によってはアメーバ状の身体をした人間もいるだろう。その星の環境と生態系に合わせているからだ。

 だが、この星は基本的に地球とよく似た性質を持っているので、人間の形もほとんど同じといえる。

 そもそもアンシュラオンが転生時にこの星を選んだのは、人間の形が地球と同じだからだ。そうでないと具合が悪いものである。

 姉がアメーバだったら、さすがのアンシュラオンも対応に困る。

 人界出身の神機も頭部と四肢を持つものが多いことからも、これは想定していたことだ。

 精神的、霊的側面を除き、人間の肉体面はすでに完成されているのだ。


(二つ目は、水の存在だ。こうした地下水があるからこそ、最低限の衛生環境が保たれているということだな。飲み水にするのは怖いが、生活用水として活用できるのは大きい)


 閉鎖的な空間では、伝染病や感染症などの病気が一番怖い。

 人数が少なく細かな配慮ができるマザーのグループならばともかく、どう考えても掃除などはしなさそうな奥の連中の間では、コレラやペスト等の危ない病気が流行りそうだ。

 汚物の処理もなかなか大変なので、排泄物から感染する赤痢も同様に危険である。

 そうした危険性を常に考えているアンシュラオンからすれば、地下がどうやって衛生力を維持しているのか疑問であった。


 その答えは、単純に遺跡の遺された機能を使っているから、である。


 かつては高度な文化がこの大地にもあったことは間違いない。同様に、それが廃れた原因があるはずだ。


(しかし、いまだに遺跡の機能が残っている点も気になる。これだけの技術がありながら、それを放置しているという点もな。さすがにこれだけのものを見てしまうと無意識に利用しているとは思えないな。誰かが管理維持している可能性は極めて高い。…そろそろ根幹に近づいてきたかもしれないな)


 漠然と感じてきたグラス・ギースの【根幹】のヒントが、ここにあるような気がする。

 マシュホーのように実際に長く住んでいると慣れてしまうが、外から来たアンシュラオンには強い違和感として映し出されるのだ。


 すでに自分の中では、ある程度信憑性の高い推測が固まっている。


 ソブカやプライリーラと出会い、さまざまな情報を得てきたからこそたどり着いた答えがある。

 が、それを大見得切って突きつけたところで何の意味もないだろう。

 重要なことは実際に持っている力であり、これから確実に得るであろう実利だけだ。

 自分は探偵でも救世主でもないのである。



 ゴトンッ がさがさ



 アンシュラオンが実に深い考察をしている間、小太りの男は淡々と浅ましい作業をこなしていた。

 トイレの床の一部を外すと穴が現れ、干し草が敷き詰められている様子が見て取れる。


 その中に―――【隠し金庫】があった。


 石で出来た単純な箱だが、こうして隠しているところを見ると金庫と呼んで差し支えないだろう。

 中には男が貯めたであろう硬貨がじゃりじゃりと入っていた。

 そこに今回くすねた金貨が追加される。


「へへへ…貯まってきたな。そろそろ頃合だな」


 小太りの男は、おちょぼ口で笑うという気持ち悪い特技を見せる。

 なかなか苛立つ笑い方をするものだ。


「何が頃合なんだ?」

「へへへ、そりゃもう、こんな場所からおさらばする時期ってことさ」

「それが軍資金か?」

「まあ、そうだな。ほんと、長かったぜ。あんなクズ連中におべっかを使って油断させて、少しずつくすねて集めた金だからな…。だが、それももう終わりだ。へへへ」


 どうやら「へへへ」が口癖のようである。

 これもまた聞いている人間をイラつかせる嫌な韻だ。


「どうやって抜け出す?」

「へへへ、やり方はいくらでもあるさ。それはもう考えているんだ。おれは頭がいいからなぁ」

「床に金を隠すなんて娘と一緒だな」

「娘?」

「シャイナのことは気にならないのか? お前の代わりに売人をやっているそうだぞ」

「ああ、あいつか。へへ…どれくらい稼いだかな。少しは足しになればいいが…」

「娘の身は心配しないのか?」

「あぁ? うっかり出来ちまったやつだからな…まあ、いい身体に育っていたようだし、今だったら高く売れるのかぁ? なんにしても出て行った嫁の代わりに、もっと働いてもらわないとな…へへへ」

「なるほど。お前が【優勝】だ」

「へへへ、優勝? 何が―――ぎゃふんっ!」


 ドガスッ!

 アンシュラオンが、小太りの男の尻を蹴っぱぐる。



「うおおおおおっ! オオオオオオオ!」



 男はあまりの痛みに這いつくばって身悶えている。

 尾てい骨を狙ったので相当痛いはずだが、痛いようにしたので予定通りだ。

 それからさらにもう一度蹴り、男を仰向けにひっくり返す。


「ぐぎゃっ…ひーー! いてーー! ひいいいー!」

「おい」

「ひーー! 許してー! 違うんです! これは違うんですよーー! けっして盗んだものじゃなくて! そ、そうだ! さっき見つけたんです! 誰かが盗みをやっていた証拠ですよ!!」


 ようやく他人がいることに気付いたのか、小太りの男はパニックに陥る。

 人間、秘密を見られるというのはショッキングなものだ。慌てふためくのは当然だろう。


 そんな愚かしい小太りの男を冷ややかに見つめ―――再度宣言する。



「おめでとう。キング・オブ・クズ選手権の優勝者はお前だ」

「へへ? キング? クズ? はぁ?」

「聞いていた以上のクズっぷりだ。遠慮なくチャンプの称号を受け取るといい。誰も文句は言わないだろうしな」

「…だ、誰だ、お前は! 子供…!?」

「質問に答えろ。お前がシャイナの父親だな?」

「へ、へへへ! びっくりさせやがって! なんだ、ガキじゃねえか! 大人の秘密を見ちまったらどうなるか、思い知らせてやるぜ!」


 小太りの男は、アンシュラオンが少年だと知ると態度を豹変させる。

 相手が子供ならば勝てると思ったのだろうか。これまたなんとも愚かである。


「誰にもしゃべられないようにしてやるぜ! へへへ!」


 小太りの男が殴りかかってきた。

 アンシュラオンより少し身長が高い程度なので、たいした迫力もない。

 むしろ歳をくっているせいか、一般成人男性よりも動きは鈍かった。


 もちろん、すっと回避し―――


「へへへ!!!」


 男の口癖を真似ながらカウンターをかます。

 ドンッ

 アンシュラオンの拳が、軽く小太りの男の腹に叩きつけられた。

 とてもとても優しく、猫を撫でるくらい穏やかに触れた。


 たったそれだけで―――真っ青。



「うぐっ!!! おぼぼぼぼおおおおおおっ!!! おおえええええええ!」



 急激に込み上げてきた吐き気に耐えられず、嘔吐。

 ふらふらっ ばたん

 ドバドバと胃液を吐き出してよろめき、倒れる。

 まるで深夜の路上で倒れているゲロ塗れの駄目サラリーマンの姿を思い出す。実になさけないものだ。


「げぼおおっ! おおええ! ひーーー! ひーーーー! いてーーよ!」

「弱すぎるだろうが。よくそれで勝てると思ったな。せめてナイフくらいは持ってこいよ」

「こ、このガキが…大人を甘く見るなよ…!」


 ギラリ

 金庫があった穴に隠してあったのだろう。男が果物ナイフを取り出した。

 そして武器を持った途端、勝ち誇った笑みを浮かべる。


「へへへ、謝るなら今のうちだぞ…! こう見えても、おれは元マフィアの構成員だったんだぞ!」

「ふーん、どれどれ、ちょっと拝見」

「おい! この妖刀を甘く見るなよ! 触れただけで指なんて簡単に落ちるぞ! へへへ!」

「へー、そうなんだ」


 そう言いながら、アンシュラオンが人差し指と中指で刃先を掴み―――


「はい、ポッキン」



―――へし折る



 いとも簡単にナイフが半分になった。

 アンシュラオンからすれば竹細工より柔らかい。


「うおおおええええええ!? ナイフが折れたーーー!」

「妖刀じゃなかったのか? ずいぶんと脆いな。というかナイフだから刀じゃないだろうが。この馬鹿が」


 手品で初めてスプーンが曲がった瞬間を目撃した幼児のような反応で、折れたナイフを凝視する。

 まったくもって弱い。そこらのチンピラより弱いだろう。

 だが、そのまま何もしないのでは、キング・オブ・クズに失礼である。


 折れたナイフの刃先を持って―――肩に押し付ける。


 ザクッ


「ひぎゃっ!! ひーーー! さ、刺しやがった! こいつ、刺しやがったよおおおお!」

「先にナイフを出したのはお前だろう。陳腐な台詞だが、刺される覚悟もなしに刃物をちらつかせるなって」

「ひーー! なんだお前は…! そ、そうだ、金を分けてやろう! それで見なかったことにして―――」

「うるさいやつだな。人の話を聞け!」


 ドンッ バキィイイッ ビシビシッ

 アンシュラオンが軽く拳を壁に叩きつけると、大きな亀裂が入った。

 壁から始まった亀裂が天井まで走って広がり、パラパラと小さな破片が落ちてくる。

 すでに半壊している遺跡の壁であるが、やれと言われても簡単にはできないことだ。


「ひっ…ふひぃいいいいい」


 ドスンッ

 男が驚き、尻餅をつく。

 視覚的にも迫力があったのだろう。さきほどまでの威勢は完全に失われていた。




390話 「シャイナの父親 前編」


(やれやれ、ようやくおとなしくなったか。面倒くさいやつだ)


 こういう騒がしいクズは、見ているだけでイライラするものだ。

 もし聴取が目的でなければ即座に排除しているのだから、それだけでも相当我慢しているといえる。


「おい、質問に答えろ。嘘をついたり答えなかったりしたら、今度は足にナイフを突き刺すぞ。その次は尻の穴にぶっ刺す。わかったな?」

「ひーー! お、お許しを!! 知らぬこととはいえ、あまりに無礼でございました! さぞやご高名な御方に違いありません! どうかご慈悲を賜りたく存じます! うへぇー!」

「…なにか急に態度が変わったな」


 ここがトイレであるにもかかわらず、男は平然と土下座をする。

 その変わりようも見事だが、あまりの小物ぶりにアンシュラオンも辟易してしまう。

 これもクズの特徴である、強い者には媚び、弱い者には威張る症状であろう。

 ともかく会話ができる状況になったことはありがたい。質問を続けることにする。


「単刀直入に訊くが、お前はシャイナの父親か?」

「えー、シャイナと申しますと…」

「金髪の乳がでかい女だ。今は麻薬の売人をやっている。名前はシャイナ・リンカーネンだ」

「ほー、それはそれは、なるほど」

「なるほど、じゃない。ガスッ」

「ぎゃーー!! いたっ! いたっ! 足がーー!」

「さっさと答えないからだ」


 男の足先を踏む。

 巻き爪だったら最悪だろうが、ぜひそうあってもらいたいものだ。


「質問に答えろよ。あまり気が長くはないぞ」

「ひーー、ひーー! 申し訳ございません! 本当にちょっと考え事をしていたのです!」

「そんなことは訊いていない。質問にだけ答えろ。ぐりぐり」

「あぐううううう!!! 肩がぁあああ!」


 今度は肩に刺さったナイフの刃先をさらに押し込んでやった。

 こういうタイプは、すぐに嘘をついたり論点をずらして煙に巻こうとするものだ。

 あるいは答えないことで誤魔化そうとするので、はっきりと身体に教えたほうがよいのである。


「で、答えは? 次は目にするか?」

「は、はい! それならば間違いなく、わたくしの娘でございますぅうう!!!」


 アンシュラオンの圧力に屈し、男はついに白状する。

 だが、できればそうあってほしくないという気持ちも大きかったので、若干のショックを受ける。


(この男がシャイナの父親…か。正直嘘であってほしいと思うが、事実ならば仕方ないな。本当に仕方ないことだ。これからこいつと話すと思うだけで気が滅入る)


 この段階でファーストインプレッションは最悪だ。ついつい横文字になってしまうほど最悪だ。


 まず何よりも、クズである。

 どこからどう見ても、クズである。

 そしてまさかの、キング・オブ・クズである。


 自分が認定してしまったので受け入れるしかない。この男は間違いなくクズだ。

 こうしてアンシュラオンは、見事シャイナの父親を発見するに至るのであった。



(いつまでもここにいるわけにはいかない。事実を受け入れて質問を進めよう)


「もう一度確認するぞ。お前がシャイナ・リンカーネンの父親だな?」

「へへへ、そうでございます」

「名前は何だ?」

「えー、ちんけな『カスオ』でございます。へへ…」

「偽名だな。嘘を言ったらどうなるか、まだ理解していないようだな」


 アンシュラオンが自前のナイフを取り出す。

 ここではポケット倉庫も使えるので、武器類ならばいくらでもある。


「あまり拷問は好きじゃないんだが…まあ、仕方ない」

「ひっ!! う、嘘ではございません! ここではカスオで通っているのでございます!」

「クズなのにカスとは…どんなネーミングセンスだよ。なぜ偽名を使っている?」

「地下では上の経歴を詮索しないのがルールではありますが、明るみに出ることも多く…安全のための配慮でございます」

「嘘は言っていないようだな。まあ、お前の本名などに興味はない。カスオでいいさ。…で、今のお前はどんな状況だ?」

「へへ、どんな状況と申されますと?」

「麻薬を持ち逃げした罪でラングラスに幽閉されている状態なのか?」

「幽閉と言われれば…あっ、そうです! その通りです! わたくしは無実の罪でここに入れられ、いわれなき理不尽な理由でこき使われているのです! そのお力で、どうか哀れなわたくしをお助けくださいませぇええ!」

「麻薬を持ち逃げした罪で囚われたと聞いているぞ」

「それは向こうの勝手な言い分です! けっしてそのような悪事は犯しておりません! へへへ」

「おい、こっちを向け」

「ははぁ―――ぎゃっ!」


 ザクッ

 アンシュラオンがナイフで、カスオの耳を半分切り裂く。


「ぎゃーー! 耳がーー! あつあつっ! あつううう!」

「耳ぐらいで騒ぐな。死にはしない」


 ボタボタと血が流れ落ちる光景を見て、慌てふためくカスオ。

 それを極めて冷静に見つめるアンシュラオンとの対比がすごいものだ。


「お前な、何度も言わせるなよ。嘘をつくなと言っただろうが。ったく、面倒くさいにも程があるぞ」

「ひー! ひーー! ほ、本当なのです! わたくしは無実で…」

「そうか。片耳生活も悪くないか」

「ひーー! 麻薬は持ち逃げしました!!」


(やれやれ、根っからの嘘つきのようだな。嘘だとすぐにわかるが、本当ならばもっと痛めつけてやりたい気分だ)


 アンシュラオンも嘘をつくが、カスオの場合はつき方に嫌悪感が伴う。

 それはこの男から『利己主義』の臭いがぷんぷんとするからだろう。

 他人を騙して自分だけ儲けようと思っているから、すべての言葉が薄っぺらくなるのだ。

 こういうところでも人間性が出るから、人間とは面白いのである。



「自業自得で地下送りになったわけだな」

「そ、それは…そうとも言えますが、わたくしにも理由があったのです」

「どんな理由だ?」

「それはその…お金が欲しかったからです」

「誰だってそうだろうが。その金を何に使うつもりだったんだ? たしかお前の奥さんは逃げ出したんだよな。その金を元手に真面目に働いて、よりでも戻すとかなら…」

「へへへ、実はおいしい儲け話がありまして。木材が高騰するという情報があったので、それを買い占めて一儲けしてやろうかと思っておりました。へへ…」

「………」


 完全に駄目なパターンだ。さすがのアンシュラオンも言葉が出ない。

 カスオには、第四グループの「目先のことしか考えない」クズ要素もあったらしい。

 さらにクズのレベルが上がったといえるだろう。


「お前がクズなことは、もうわかった。だが、一つ気になることがある。お前が地下に入れられた理由だ。上の牢屋でない理由があるのか?」


 事前の情報では、人質扱いにされる者は地下送りにされることがあると聞いている。

 だが、麻薬の持ち逃げ程度で地下送りになるのは過剰反応であるし、人質だけならば上の牢獄でもまったく問題ないはずだ。

 いくら地下が人不足とはいえ、これ以上クズが増えると治安の悪化も心配だろう。

 そのあたりが気になっているところである。


「へへへ、それはその…利用価値があると思ったからではないでしょうか。こう見えてもわたくしは有能な男ですからね」

「有能な男は、ここに入らないと思うがな」

「能ある鷹は爪を隠すのですよ。へへへ…」

「隠す…か。ところでお前、【盗んだ麻薬】はどうした?」

「はへ?」

「盗んだ麻薬は全部没収されたのか? それとも一部だけか? まさか隠してないだろうな?」

「そ、そんなことはありません! へへ、全部差し出しましたよ。当然ではありませんか!」


 明らかに動揺している。

 誰でもそうだが、いきなり予想していないことを訊かれると戸惑うものだ。

 特に嘘つきは事前に答えを用意していることも多いので、想定外のことに対して激しく動揺することがある。

 同じ嘘つきでも、ソブカのように肝が据わっている人間は少ないものだ。


(どうやら捕まる前に隠したようだな。さすがに全部ではないだろうが、それなりの量をどこかに埋めた可能性はある。ラングラスもそれを疑っているのか。シャイナを売人にした理由もそのあたりにありそうだ)


 シャイナのような豊満な身体の女性ならば、ホステスや娼婦にしたほうがいいだろう。

 教養はないのでトークは無理でも、身体で客を楽しませることはできるはずだ。

 そうにもかかわらず売人として使っているのは、父親が隠した麻薬に近づくためなのかもしれない。

 これも嘘なので制裁してもいいのだが、また時間がかかるのでやめておいた。



「ところで、あのガタイのいいやつが監視役か? さっきお前に話しかけていたやつだ」

「へへ、そうです。グリモフスキーっていうチンケな元売人の男でして、ここに来る前は少し上の立場だったからって、ここでも上だと勘違いしてやがるやつなんですよ。あなた様のお力で、ちょちょいと捻ってやってくれませんかね? へへへ」


 シャイナに命令をしていた斜視の男がいたが、グリモフスキーは彼と同じような立場だったと思われる。

 地下送りになった元売人たちのまとめ役と同時に、地上との連絡係を務めているのだろう。

 上で組織を裏切るようなやつが出てくれば、地下側の人質を始末する役割も負っているはずだ。


「不満があるならレイオンに言えばいいだろう。あいつがここの支配者のはずだ」

「レイオン!! あんな偽善者など信用できません! あいつが来てから、ほんとつらい日々が続いているんですよ。こっちにはろくに物資も提供せずに、自分だけ贅沢な暮らしをしています。最低のクズですな!」

「あいつもお前にはクズ呼ばわりされたくないとは思うがな」


 キング・オブ・クズにクズ呼ばわりされるというのは、いったいどんな気持ちだろうか。なかなかレアである。

 そして、ここから本題に入る。


「お前、ここから出たいか?」

「へへへ、そりゃもう」

「さっきは自分だけでも出られるようなことを言っていたが、あれはどういう意味だ?」

「へ? そ、それは…その……そんなこと言いましたかね?」

「ああ、言ったな」

「き、聞き間違いですよ。そんなことはできやしませんからね。へへへ…」

「それはオレの耳がおかしいと言いたいのか?」

「ひーー! そういう意味ではありません!! 誰にでも間違いはあるものです!」

「間違いだらけのお前に言われる筋合いはない! バシッ!」

「いたーーーー!!」


 頭を引っぱたく。

 どうにもこの男は見ているだけで苛立ってくる。さすがキング・オブ・クズだ。


(どうしても言いたくないようだが、何かしら出る方法があるんだな。たしかにマシュホーの説明を聞く限り、ここも完全に閉じ込められた空間ではない。上との交流だってあるだろう。…が、こいつの場合は少し話が違う。簡単に出られるとは思えないな)


 上に行くことができるのは、あくまで「忠義を尽くした使える人材」だけである。

 組織のために汚名を背負ってでも、自らを犠牲にして地下に入る「お勤め」をしている人間が対象となる。

 そういう人間の場合は、地下に入っても上との絆は切れていない。むしろ強まる可能性すらある。だから助けられるのだ。

 が、カスオの場合は組織に仇為した者であり、存在そのものが害悪でしかない。

 そんな人間をリスクを負ってまで上に戻す理由がないのだ。


(おおかた危険な方法を選ぶつもりだったのだろう。見つかったら死ぬ可能性だってあるはずだ。このタイミングで見つけられたのは幸か不幸か…)


「はぁ、本当は捨てていきたいところだが、シャイナがお前のことを心配している。あいつは真面目で不器用だからな。父親の件が解決しない限りは先に進めないんだ。仕方ないから助けてやる」

「へへへ! そりゃありがたい! その…娘とはどういうご関係で?」

「たまたま拾ったのさ。今はオレの飼い犬になっている」

「ほほーー! それはまた! 海老で鯛を釣るとはこのことですな! へへへ! あんなやつでも使い道はあったもんです! あなた様を一目見たときから、さぞや立派な御方だとは思っておりました! そんな御方に拾われるなんて、これはもう最高でございますな! 父親のわたくしも、どうぞご贔屓に!」

「シャイナのことは心配していなかったのか?」

「そりゃ心配していましたよ! いやー、こうして身になったようでなによりです! へへへ」


 カスオからは、シャイナに対する心配の念はまったく感じられない。

 自分の役に立つかどうか、それだけで物事を判断していることがうかがえた。


「あいつのことなら煮るなり焼くなり好きにしちゃってくださいよ! こういう日のために大切に育てたんですからね。その代わり…へへ、こっちのことはよろしくお願いしますよ」

「………」

「へへへ…」

「思えばさ、オレってけっこう苦労しているんだよな」

「…は? へへ、それはその…お疲れ様です」

「冷静に考えれば、あいつから全部が始まっているんだ。そのせいで本当に苦労したな。自分のスレイブでもないのに一生懸命やってきたよ。いやほんと、オレなりにいろいろと配慮してたんだぞ。だからこんな場所までわざわざやってきたんだ」

「へへへ…それはなんとも…懐が深い御方で安心いたしました。ぜひわたくしめにもご温情を…」

「ほんと、わざわざやってきて出会ったのが、こんなクズとはな」


 トコトコ

 アンシュラオンがカスオに近寄る。

 カスオは相変わらず揉み手をしながら、ヘラヘラと笑っている。

 まったくもって自分の状況を理解していないようだ。



 そのカスオに手を伸ばし―――首を絞める。





391話 「シャイナの父親 後編」


 がしっ!


 アンシュラオンがカスオの首を掴む。


「…へへ?」


 カスオはその行動の意味がわからず、状況を黙って見ている。

 アンシュラオンもアンシュラオンで、ごくごく自然にそれを行っていることも原因だろう。

 だが、それはけっしてスキンシップでもなければ優しさを伴ったものでもない。


 ぐぐぐぐっ


 その証拠に、首を掴んだ手に少しずつ力が加えられていく。


「えと…その……これは…? ぐべっ…! あまり強く握られると…い、息がその……」

「………」


 相手の意見などは無視して、アンシュラオンはさらに力を入れていく。

 ぐっ ぐっ ぐっ ぐっ

 リズミカルにゆっくりと、一ミリずつ狭まっていく。


「うっ…おっ……うおお…えっ!」


 最初は穏やかだったカスオの表情も、徐々に首に強い圧迫感を感じるようになって強張っていく。

 それが自分に危害を与えるものだと気付いたのだ。

 リズミカルに機械的に絞まっていくからこそ恐怖もまた強くなる。


「ぐぇっ!! な、何を…ぉぉ……ごぼぼお……! 息が…ごおお!」


 いきなりのことに驚き、カスオは必死に抵抗する。

 が、どんなに力を入れてもびくともしない。それどころか少年の白い手は、依然として締め付けを強めてくる。

 そんな脆弱で矮小な男を、ひどく冷たい赤い目が射抜く。


「どうした? 苦しいのか?」

「ぐべええ…ぐ、ぐるぢいい!」

「そうか。苦しいか。だが、オレが味わった不快感に比べたら微々たるものだな」

「ひーーひーーー! な、何か粗相を…! あいつが何か…ごぼぼ! や、やらかしたのならば……ぶへへへ! も、申し訳……ぐえええ」

「そうだな。たしかにシャイナの世話は大変だったよ。ワガママだし自分勝手だし、すぐにキレるしな。そのくせ危険なことを平然とするし、見守るほうの気持ちも考えてほしいと何度も思ったさ」

「そ、育て方を…まちがえ……て……父親として……謝罪を……」

「なぁ、カス。そこのところから勘違いしているんじゃないのか?」

「か、かんちがい…!?」

「そうだ。お前を捜しにわざわざやってきたのは、オレが預かっているどうしようもないくらい馬鹿な飼い犬のためだ。妹が気に入っているせいもあるな。間接的にはその子のためでもある。だからこんな臭い場所にまでやってきたんだ。好きでこんな場所に来ると思うか? なぁ?」

「そ、それは…ご、ごくろう…さまです…ぐががが」

「べつにな、お前がどんなクズだろうがカスだろうがかまわん。どうしようもないやつってのは、どこにでもいるものだからな。だが、自分の飼い犬が利用されているのを知って、黙っていられるほど温厚じゃないぞ。あいつは馬鹿だとは思う。間違いなく馬鹿だろう。が、そんな馬鹿だから可愛いんだよ」


 シャイナは馬鹿である。頭が悪いし、要領も悪い。

 だが、真面目に生きてはいる。馬鹿は馬鹿なりに懸命に生きている。

 だからこそアンシュラオンも「どうしようもないな」と思いつつ、手助けしてやろうという気持ちになるのだ。


 そして何より―――それが自分の【所有物】だからだ。



「お前は血縁上は父親かもしれないが、所詮はそれだけの存在にすぎない。いいか、すべての立場には【資格】ってのが必要なんだ。父親には父親たる資格ってやつがな。その条件を満たしていないやつが、偉そうにオレの飼い犬の父親面か? ふざけるなよ」


 ぐぐぐぐっ

 アンシュラオンが握る手を強める。


「ぶほおおっ…!!」


 さすがに圧迫が強くなってきたのだろう。顔が真っ赤になってきている。

 汗も噴き出し、口からよだれが溢れ出るが、それでもアンシュラオンは手を離さない。


「飼い主には飼い主の義務がある。そいつの生活、つまりは生命と自由と財産を守ってやる義務だ。だからこそ支配する権利を得るんだ。お前が犬を飼うときだってそうだろう? そいつに餌を与えて、住む家を与えてやる。散歩だってしてやる。そして、愛してやる。これらの義務が伴って初めて飼い主になれるんだ。少なくともオレはそうしているつもりだし、まだ足りないと思うから今も努力している」


 アンシュラオンは支配欲の塊のような男だが、そこには明確な強い信念と矜持が存在する。

 自分の所有物であるスレイブ、あるいはそれに準ずる者に対して、できるだけの幸福を与える、というものだ。

 普通の一般家庭で育ったならば、動物を飼ったら最期まで面倒を見てあげなさい、と習うはずだ。

 ペットショップで買おうが道端で拾おうが保護しようが、一度手にしたならば捨てることは許されない。

 死ぬその瞬間まで面倒を見て、最悪は自分が飢えてでもその犬には食べ物を与えてやる責務がある。

 サナに対してすべてを捧げるように、アンシュラオンにもそれなりの覚悟があるわけである。


「だが、お前はどうだ? ろくに面倒も見ず、ただ利用しているだけだ。放っておいたものがたまたま芽吹いたから、あとになって甘い蜜だけを吸おうと現れる。オレはそういうやつらが死ぬほど嫌いなんだよ」


 親が子供の才能を信じず、応援もしないで罵倒ばかりしておきながら、大人になってから有名になると、いきなり手の平を返して褒め称えることがある。

 親としては「自分が育てたんだ」という気持ちが強いのだろうが、子供からすれば「なんだこいつ? 最低のクズだな」としか思わないだろう。

 シャイナが魔人であるアンシュラオンに拾われたのは、この世のすべての富に勝る幸運ではあるのだが、それはシャイナ自らが掴んだものだ。

 けっして何もしなかった父親のおかげではない。


「お前がやっていることはオレへの侮辱に等しい。相応の痛みを味わえ」

「ごぼぼぼ…おおおっ…っっ!!」


 すでにカスオの顔は酸欠で真っ青になっている。

 このままあと数十秒絞め続ければ簡単に死ぬだろう。


「ごぼぼっ…ぢ、ぢぬうう! お、おだずけええええ…ごぼぼぼっ……」

「…ふん」


 ブンッ ドガッ


「ぎゃふっ…げほげほっ…コーーホーーーー!! ホーーーー!」


 アンシュラオンが壁にカスオを投げつけると、倒れたまま貪るように空気を吸う。

 その首には、くっきりと『青紫色の手の跡』がついていた。

 まるで痣のように首にまとわりついている。


「その首の手の跡は二度と消えないと思え。それがお前に与えた【罰】だ」

「ひーーーひーーーーー!!!」

「本当はここで殺すのが最善策だとは思うが、仕方なく助けてやる。だが、勘違いするなよ。お前のためじゃない。オレの所有物のためであり、オレ自身のためだ。もう一度勘違いしてみろ。生きたまま魔獣に食わせるからな。毎日少しずつ削るように食わせてやる」

「ふひーーーふひーーー!」

「おい、わかったのか! ゲシッ」

「ひーーー! わ、わがびばじだだあああああ!」

「ふん、クズが」


 尻を蹴っぱぐると、芋虫のようにウネウネと身悶える。

 まったくもって不快な生き物だが、一応は父親だ。資格がなくても父親である。そこがまた厄介なのだ。


(シャイナは事実を知らない。知らないほうがいいと思うし、感情では殺したいが…ここで殺してしまうと利益が半減しそうだ。より最大限の結果を得るために我慢しよう。そう、ここまで来るのに相当な労力を使ったんだ。シャイナは完全にオレの支配下に置かねば割りに合わないよな。あいつがばっさりと売人を辞めるためにも、この男が必要になるだろう)


 自分の個人的意見としては「父親は死んでいた」で片付けたいところだが、それでは逆に父親への想いが強くなってしまうかもしれない。

 ならば、あえて父親の本性を教えることで、きっぱりと未練を断ち切らせたほうがいいだろうと考えたわけだ。

 これだけのクズならば、さすがのシャイナも見限ることできるはずだ。


(飼い犬一匹引き入れるためにこれだけやるとは…ペットを飼うのは思った以上に大変なんだよな。改めて思い知るよ。さて、こいつを助けるのは最終日でいいだろう。…ふむ、そうだな。それまでの間はそこそこ痛い目に遭ってもらうか。すべて自業自得だしな)



「お前のようなクズにオレが手を下すのはもったいない。どうせなら同じクズ同士で揉めていろ」




 息を大きく吸い―――




「おーーーーい! ここに金貨を盗んだやつがいるぞーーーーーーーーー!! 誰か来てくれーーー! カスオがやりやがったぞおおおおおお! また裏切りやがったーーーーー!!」




 大声で叫ぶ。


 かなりの声量なので、金貨を拾っている者たち全員に聴こえたはずだ。



「じゃあな。またそのうち迎えに来る。それまでがんばって生きろよ」

「ひぃいいいい! な、なんてことを!! どうしてこんな…!!!」

「それがわからないから、お前は真性のクズなんだよ。さすがは優勝者だ。脱帽だな」


 シュッ

 そう言ってアンシュラオンは消える。



「はっ! か、隠さないと…! 金を隠さないと…!!」


 状況を理解したカスオは、慌てて金を隠そうとする。


 が―――もう遅い。


 ドドドドドド


 アンシュラオンと入れ替わるように、さきほどカスオに話しかけていたガタイのいい男、グリモフスキーがお供を連れてやってきた。

 その顔は怒りに満ちている。


「てめぇ! カスオ!! なにしとんじゃーーーー!!」

「ひーーー! こ、これはグリモフスキー様。そんなに慌てて、いったい何事でしょう!」

「おいカスオ、このやろう! 今の話は本当か!!」

「は? へ? な、何のことやら…何かあったのでしょうか? へへへ…」


 いつもの愛想笑いと手揉みで出迎えるカスオ。

 嘘をつき慣れていることもあって、なかなか迫真の演技である。何も知らなければ騙されてしまいそうだ。

 そして、その裏では足を使って瓦礫を動かし、金庫を隠そうとする狡猾さも持ち合わせている。

 だが、グリモフスキーは最初からカスオを疑ってかかっているので、その怪しい挙動にすぐに気がついた。


「なんだそこは? 穴があいているのか?」

「ああっ、いえいえ! これはたいしたことではないのです! ちょっと壊れていたので修理しようと思いまして…すぐに終わらせますので、どうぞ外に出てお待ちください」

「怪しいな。見せろ」

「いえいえいえいえいえいえいえ!!! トイレ掃除はわたくしめの仕事でございます。このような汚い場所でグリモフスキー様のお手をわずらわせるわけにはまいりません! なにとぞご理解のほどを…へへへ」

「うるせえ! 見せろって言ってるだろうが! おいっ、調べろ!」

「はい!」

「アーー! 駄目です! そこはまだ掃除がぁぁああああ!」

「うるさい。どけ!!」

「ぎゃっ」


 お供の二人の男がカスオを強引に突き飛ばし、穴を調べる。


 そこにはもちろん金庫があったわけだが―――



「っ! 兄貴! 金貨がたっぷり入った革袋がありますぜ!!」

「なにぃいいい! 何枚ある!?」

「三十…四十…すげぇ、もっとあります!」


 その隣には金貨が大量に詰まった革袋が置かれていた。

 アンシュラオンが消える寸前に、お土産として置いてきたものだ。

 そしてこれがさらなる災難をカスオにもたらす。


「てめぇ、カスオ…この金貨、どうした?」

「へ? え!? そんなに多くの金貨は持っておりませんが…え?」

「この嘘つきが。ここに証拠があるだろうが。こんな山盛りの金貨をどこから持ってきた? …さては、さっき盗んだな? そうでなければ説明がつかない」

「ちちちち、違います!! わたくしがそのようなことをするはずがありません!」

「では、この金貨はどうした?」

「そ、それはその…わたくしが集めたとしか言いようが…」

「製造番号を調べろ」

「へ? 製造番号?」

「大陸通貨には製造番号があるだろうが。硬貨にだってばっちりと彫られている。…どうだ?」

「はい、兄貴。さっき拾ったものと番続きのものがありました」


 この大陸通貨の製造番号は、各大陸、各地域にまとまって大量に流通させたために、同じ地域の通貨では宝くじの番号のように数字が続いている場合が多い。

 特に東大陸では物流が西側ほど盛んではないので、より顕著に表れる。

 お釣りをもらえば、その硬貨全部が番続きということもあるくらいだ。さらにそれを使えば、また番続きで固まることになる。

 もちろん流通の過程でバラバラになることも珍しくはないが、金貨の希少性を考えれば偶然とは考えにくい状況だ。

 アンシュラオンは硬貨に興味はなくても番号には興味があったので、なんとなく数字を並べて管理していたことも大きな影響を与えたようだ。


 これによってグリモフスキーの顔つきが、さらに険しくなる。


「おい、どういうことだ?」

「こ、これは何かの間違い……偶然としか言いようが……いや、これはまさか! わたくしを貶めるために誰かが陰謀を―――」



「ふざけるなあああぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ―――!!!」



「ひっ!」

「てめぇに誰が陰謀かますってんだぁ? お前みたいなカスを貶めて楽しいやつなんているのか? あ? そんなに価値がある人間か、てめぇは!!」

「うぐうっ」


 グリモフスキーがカスオの胸倉を掴む。

 さほど大きくないとはいえ、大人一人を片腕で持ち上げるのだから、たいした腕力である。


「自分の立場がわかってんのか? ああ? クソレイオンが来たから仕方なくこうして穏便に接してやっているのに、その恩も忘れやがって…! この盗人が!! てめぇが組織を裏切ったことを忘れたわけじゃないだろうな!!!」

「そ、そそそそ、そのようなことは!! 日々反省しておりますうううう!」

「口と行動が伴っていないようだな。おい、この男に裏切りの代償がどれだけ高くつくか思い出させてやれ。盗みが発生したなら、クソレイオンだって文句は言わないだろう」

「へい」

「ま、待って…! どうかお待ちを―――ぶべっ!! ぶごおおおっ!!!」

「遠慮するんじゃねえぞ。とことんやってやれ」



 ドゴッ ボゴッ!! ガス!!

 ドゴドコッ ボコボコッ! ドガッ! ガスガスッ!

 ドゴッ ボゴッ!! ガス!!

 ドゴドコッ ボコボコッ! ドガッ! ガスガスッ!



 カスオがフルボッコにされていく。

 組織における最大の罪は、やはり裏切りである。

 上でも裏切って下でも裏切れば、もうその人間を信用する者は誰もいない。

 グリモフスキーは、レイオンが来るまではラングラスエリアのトップに君臨していた男である。

 その不満もあってか、暴行は三十分近く続いた。


「うべべ…べぇ……」

「ふん、肥溜め野郎が。さっさと捨ててこい。目障りだ」

「はい」


 ボロクソになったカスオがゴミ捨て場に投げ捨てられる。

 当然ながら治療などもされず、そのまま放置である。

 瀕死の状況ではあるが、レイオンの統治下ということもあってか殺すまでには至っていない。

 それが幸せかどうかはわからないが。



 そして、その一部始終を陰から見ていた者がいる。



(この程度で済ましてやるんだ。感謝するんだな。しかし、思った以上にクズだったな。あれが本当のクズなんだな。勉強になったよ)



 カスオのリンチを見届け、アンシュラオンはサナが待つグループへと戻っていった。




392話 「サナの無手試合 前編」


 アンシュラオンはシャイナの父親を発見。

 真性のクズではあったが、これで収監砦にやってきた目的の半分は達成したことになる。


(やれることはやった。十分な結果だろう。あとはサナの強化だな。むしろこちらのほうが重要だ)


 シャイナのことが終われば、次はサナのことである。

 彼女の武人人生は始まったばかりだ。あらゆる経験が貴重な糧になることだろう。

 この収監砦での戦いで、ぜひとも成長してもらいたいものである。


「…うう…もうお婿に行けない……」


 帰り道の途中、ズボンを奪われて尻が丸出しになったトットを発見。

 すでに周囲には誰もおらず、金貨もなくなっている。残されたのは、この哀れな残骸だけだ。


「すっかり忘れていたな。元気だったか?」

「穢されちゃった…穢されちゃったよぉ……」

「お前はもともと汚れているだろうが」

「うう…ひでぇや……ぐすん」


 ゲイはこれ以上汚れることはない。今がマックス汚れなので、ぜひ安心してほしい。


「ほら、帰るぞ。それともここに残るか? オレは一向にかまわないが…」

「帰る」


 ただ一言だけ呟く姿が、どことなく哀愁を感じさせる。

 このままだと視覚的に最悪なので、ポケット倉庫から出した麻袋に突っ込んで持ち帰ることにした。

 ちなみにこの麻袋はルアンを簀《す》巻きにしたときに使ったものである。

 基本的に少年のような汚いものを包む際に使うので、いらない雑巾のようなものだと思ってくれていいだろう。それ専用の袋だ。




 帰りは特に異変もなく、普通に元の場所にまでたどり着いた。

 ロボットに襲われることもなかったし、他の男たちと遭遇することもなかった。

 ラングラスエリアの住民の大半は奥のエリアに集中しているので、それ以外はガラガラなのである。

 逆に言えば、それだけこの遺跡が広いともいえるわけだ。


「ただいま」

「お帰りなさい」


 戻るとマザーが出迎えてくれた。

 ズルズルッ ボトッ

 そして、麻袋から下半身が露出したトットを放り出す。


「はい、トットを返すね」

「役立ったかしら?」

「かなりね。こいつは使えるやつだよ」

「あらあら、よかったわね。ズボンも脱いで涼しそうだわ。開放的ね」


 こんな雑な出し方をしても、マザーはまったく気にした様子がない。

 普段からこんな扱いなのだろう。誰もがゲイに対して距離を取っていることがよくわかる。


「妹は? ミャンメイもいないけど…」

「他の子供たちが寝てしまったので、一緒に寝ているみたいよ。随分と疲れていたみたいね」

「そっか。いろいろと修行もしたから、しょうがないかな」


 アンシュラオンが命気の波動を辿って、サナのいる方向に目を向ける。

 二つほど離れた大きな部屋は寝室になっており、大小さまざまなベッドが用意されていた。

 老人は老人たち、子供は子供たちで寝ているようで、子供部屋ではサナとミャンメイが一緒になって寝ている。

 アンシュラオンが言いつけた「ミャンメイを守る」を忠実に実行しているようで、ほぼ抱きついた形で寝ているのが微笑ましい。


(本当にサナはミャンメイが気に入ったようだな。ミャンメイもサナのことを受け入れてくれているようだ。よかったな)


 サナもミャンメイを守っているという満足感から、その日はゆっくりと眠りに入ることができたようだ。

 昼間からずっと鍛練だったので精神的にも疲れたのだろう。そのままゆっくりと寝かせておくことにした。

 二人の愛らしい顔を見ていると、キング・オブ・クズ(シャイナの父親)と出会った不快感が癒される。

 やはり自分が気に入った女性は素晴らしいものである。


 寝顔を見て安心したので、マザーのところに戻る。


「あれ?トットは?」

「あの袋の中に入ったわよ」

「…気に入ったのかな? まあいいけど」


 トットは傷心を癒すためか、再び自ら麻袋の中に入ったらしい。

 あれはそのまま彼にあげることにした。ゲイが入った袋はもう使えないし、使いたくもない。


「レイオンは?」

「戻っていないわ。というよりは、彼はここで暮らしているわけではないの」

「どこがねぐらなの?」

「さぁ、わからないわ。彼が寝ている姿を見たことがないし…」

「いつもふらふらしているって感じかな? でも、ミャンメイはここにいるね」

「彼女は子供たちの面倒を見るのが好きみたいね。ほかよりは良い環境だからレイオンも何も言わないわ」

「そうだね。あんな奥の連中と近い場所よりはましかな。…ねえ、あの真っ直ぐ行った奥には何があるの?」

「分かれ道の? あそこには『先生』がいるわ」

「先生? 医者の?」

「ええ、何か異変がなければ出てこない人なのよ。心配になるから一緒に暮らそうとも言ったのだけれど、無視されちゃったわ」

「無視…か。偏屈な感じなのかな?」

「お医者様にはそういう人も多いと聞くわね。…と、医者であることも当人は否定しているけれどね」

「ふーん、レイオンもそこにいるのかな?」

「どうかしら? 私たちもエリア全部のことを知っているわけではないし…普段の彼の行動もよく知らないのよ」

「試合のことでいろいろと話したいこともあったんだよね。でも、いないなら今日はいいかな。駄目元で待ってはみるけど」

「無理はしないでね。私も寝させてもらうわ」

「うん、夜番は任せておいてよ。こう見えても丈夫だからね」

「ありがとう。おやすみなさい」

「うん、おやすみ」






 しかしその夜、レイオンが戻ってくることはなかった。

 朝になっても戻ってくる様子はない。


(そういえば、あいつは奥にもいなかったな。あれだけの騒ぎがあれば出てこないとは思えないから、違う場所にいたんだろう。やっぱりあの真ん中の通路の先かな)


 ほかにもグループはあるのだろうが、人がいそうな場所はあの通路の先くらいしか思いつかない。

 そうなるとレイオンが医者と接触している可能性はかなり高い。

 何よりもレイオンが育てているというキノコ臭がそれを証明している。あんなものを好き好んで持ち運ぶ者は、ほかにいないだろう。


(医者…か。元医者ならば医師連合に所属していた可能性もある。スラウキンに確認してもいいが…さすがに状況的に無理だな。それ以前に、そこまでする理由がない。そいつがレイオンとどう付き合おうが自由だしな。ふむ、もしレイオンと会えなくても、試合の調整はマシュホーに任せればいいか。とりあえず今日はサナの試合が組まれているはずだ。そちらを優先しよう)






「みんな、朝ですよ! 起きなさい!」

「ううーん」

「まだ眠い…」


 マザーが子供たちを起こしている声が聴こえる。

 地上の朝日を表現してか、明かりをたくさんつけて叩き起こしていた。


「…むくり、ごしごし」


 その声でサナも起きる。


「…ぐいぐい」

「ううん…あれ? いつ寝たのかしら…? おはよう、黒姫ちゃん」

「…こくり」


 それからミャンメイを起こし、他の子供たちも起こしていく。


「…ぐいぐい」

「うー、まだ寝るー」

「…ぐいっ!」

「あー、布団がーーー! 黒姫ちゃん、ひどいー!」


 抵抗する子供は布団ごと引っぺがす等、なかなか荒療治だ。


(へー、サナも面倒見がいいじゃないか。歳が離れた子がいるとお姉さんぶるのかな? ラノアも妹的ポジションだが…もっと離れた子も情操教育にはいいかもしれないな。しかし、子供が地下で暮らすのは違和感しかないな。地下世界をなくす…か。できなくはないが、さて、どうするかな。この子たちくらいは助けてあげてもいいが…)


 人間の身体は太陽の下で生きるように設計されている。いつまでも地下で暮らすことはできないだろう。

 アンシュラオンの力が地上でも強まれば、この子たちを助けることも可能ではあるが、それは同時に重荷を背負うことにもなる。


(安易な気持ちの人助けは無責任かもしれないな。それが言い訳でも、な。まだ時期ではない。ならば考える必要はないだろう)


 自身が考えるスレイブ帝国に思いを馳せながらも、今はぐっと耐えるのみである。



 その後、ミャンメイが料理を作り、サナと一緒に堪能する。

 再度確認してみたが、やはり彼女の料理には特別な力があるようだ。

 今朝食べたパンは、肉や野菜を挟んだだけの簡単なものだったが、それでもHP上昇効果があった。

 これは情報公開で確認したので間違いない。一時的に上限をオーバーしてHPが表示されていたものだ。

 何も知らないで見たらバグかと思うくらいの表示である。

 改めてミャンメイは手に入れようと誓うのであった。





 午後二時過ぎ。

 無手の試合会場の前でマシュホーと出会った。

 律儀にも待ってくれていたようで、アンシュラオンが来たのを見かけると声をかけてくれた。


「来たか。地下の生活はどうだ? 帰りたくなったか?」

「普通に慣れたよ」

「順応性が高いな!!」

「こっちにはミャンメイがいるからね。快適だよ」

「くっ、そうだったな…。若い子はいいよな。あんな嫁さんが欲しいぜ」


 どうやらミャンメイは他派閥からも人気のようである。

 そうでなければ、あれほどの客は寄り付かないだろうから納得である。


「それより試合のほうは組んでくれた?」

「ああ、ちゃんと組んでおいたぞ。だが、本当に大丈夫なのか?」

「そのあたりは大丈夫だよ。試合を見ればわかるさ」

「ううむ…心配だぜ。女の子は貴重だしな…怪我がないといいが…」

「妹をそういう目で見ないでほしいな。まあ、アイドルになれば嫌でも他人の目に留まるから、それも宿命みたいなものだけどね。ところで明日も試合って組んでいいの? 代表戦も含めて毎日やりたいんだけど」

「ここはそんな細かいルールがあるわけじゃない。相手が用意できて、双方が納得すれば即興で試合を組むこともできる。…というか、本気か? すでに勝つことが前提みたいだが…普通は毎日はやらないぞ?」

「平気平気。そんな生温い鍛え方はしていないさ。ちゃんと剣士のほうも組んでね。最低二試合はやるからね」

「そっちがいいならかまわんが…」

「今日はレイオンの試合はあるの?」

「いや、試合の翌日は必ず休みだな」

「へー、キングでもそうなんだ」

「そういうわけじゃないが、スペシャルマッチの調整もあるし、キングともなると対戦相手にも苦労するのさ。昨日はブローザーが潰れたからな。簡単に対戦相手は見つからないさ」

「そうなんだ。なら、妹が対戦するのも簡単そうだね」

「キングが受ければな」

「金を積めばいいんでしょう? どうやらレイオンは金が定期的に必要みたいだから、乗ってくると思うけどね」

「そりゃその通りなんだが…気軽に言うもんだな」

「金ならあるからね。金で解決できるなら安いもんさ。ジュンユウとセクトアンクのほうはどうなんだろう?」

「あいつらは金銭的に困っているわけじゃないな。ジュンユウは強さという意味で相手がいないし、セクトアンクのほうはよくわからないが…面白そうな相手としかやらないって話だぜ」

「ほほぉ、そいつは興味深い。なら、この子が実力を証明すればいいわけだ。試合は三時からだっけ?」

「ああ、今日はメインがないからな。特に制限もなく流動的に試合が流れていくはずだ。そうそう、お嬢ちゃんの相手はスキンヘッドのアカガシってやつだ。そんなに強くはないが、それでも武人であることには変わらない。気をつけてな」

「…こくり」


 サナもマシュホーの言葉に頷く。

 それからマシュホーは、サナが被っている仮面を指差す。


「無手の試合では仮面は被れないから注意してくれよ。防具だと判定されるからな」

「覆面とかはいいの? セクトアンクみたいなやつ」

「術具でないのならば問題はないな。あとはせいぜい拳を保護するテーピングくらいかな。女の子だから裸はまずいから、子供用の武術服を用意しておいたぜ。控え室に置いてあるから着るといい」

「いろいろとありがとう。助かったよ。お礼をしないといけないね」

「べつに礼なんていらないぜ」

「そうはいかないよ。お金がいい?」

「おおっぴらにもらうとまずい。物資の管理もやっている立場だからな」

「そっか。じゃあ、キング戦はともかく普通の試合は全部妹に賭けてみてよ。できるだけ大きな金額をね。そうすればけっこうなリターンになると思うよ。それじゃ、また試合が終わったらね」



 そう言うと、アンシュラオンはサナを連れて控え室に行ってしまった。

 その口ぶりからは、妹の勝利をまったく疑っていない様子がうかがえる。


「お嬢ちゃんに賭けろ…か。ううむ、まさにギャンブルだなぁ。だがまあ、たしかに何かやらかしそうな気はするぜ」


 数多くの人間を見てきたマシュホーには、『特別な存在』というものが見分けられる。

 世には百人に一人、千人に一人、万人に一人、他とは絶対的に違うオーラを発している人間がいる。

 武だけに限らずどの分野においても、明らかに他者とは異なる波動を持っている者がいるのだ。

 アンシュラオンからは、ビンビンとその波動を感じる。


「あのボウズは間違いなく異質だ。隠しても隠しきれないオーラがある。…ただ、あのお嬢ちゃんはよくわからねぇな。言うなれば、底知れない…ってところか。まったく読めないぜ。それが逆に怖いけどな。だが、せっかくだ。今日は俺も楽しませてもらおうか」



 こうしてサナの無手試合が始まるのであった。




393話 「サナの無手試合 後編」


 アンシュラオンたちは、試合会場の隣にある入り口から控え室に向かう。

 控え室への通路の途中には、選手への干渉を防ぐためか見張りが立っていた。

 アンシュラオンのことは伝わっているのか、そのまま一瞥されただけで素通りすることができた。


 見張りの誘導に従いしばらく進むと、大きな扉が見えた。

 事前にもらった選手用の腕輪を使って開く。


 ウィーン ゴロゴロゴロッ


 中に入り、周囲を見回す。


(思ったより広いな。サンドバッグやソファーもあるし、それなりに快適に過ごせる空間が作られているようだ)


 控え室には術具を使った生活道具も数多く設置されており、ラングラスエリアの居住区よりも立派に見えた。

 地下における選手の高い身分を実感する。

 死ぬ危険性もゼロではないので、それなりの配慮がなされているのだろう。


(部屋の色も薄いピンクや赤っぽい色合いだから、女子の控え室ってことかもしれないな)


 控え室には他の選手は誰もいない。

 この遺跡は部屋がかなり余っているし、男女別に控え室が分かれていてもおかしくはない。

 現在は女性の選手がいないので貸切に近い状態になっているのだろう。

 マシュホーが渋ったように地下では女性は貴重なのだ。よほどの武人でなければ、普通は試合に出ることは許されないと思われる。

 そのうえで参加を認めたということは、それなりの理由があるはずだ。


(物資を管理しているくらいだ。マシュホーは上とのつながりもあるだろうから、オレのことも少しは聞いている可能性がある。ただ、地下は地下。上とは違う。もし地上だったら絶対に拒否されているだろうが、ここでは問題ないという判断だろう)


 ハングラスにあれだけ損害を与えたのだ。ゼイシルにはさぞや恨まれているに違いない。

 が、地下には地下のルールがある。

 地下のハングラスは上とは正反対に、アンシュラオンに対して好意的というのは、なかなか面白い現象であろうか。

 それだけ刺激に飢えてもいるわけだ。

 これだけ期待されたならば、応えないわけにはいかないだろう。


「サナ、お兄ちゃんからは特に言うことはない。短い鍛練ではあったが、勝てるだけの力は与えたはずだ。実戦で自分の思うままに戦ってみるといい」

「…こくり」

「負けてもいい、なんてことは言わないぞ。全部勝つんだ。負けて得るものがあるのは事実だが、勝って得るものはもっと多いからな。少なくとも雑魚相手に負けるようじゃいけない。わかったね?」

「…こくり」

「よし、着替えよう」


 サナが仮面を脱ぎ、用意されていた赤い武術服に着替える。

 この色にしたのは目立つからだろう。相手側は、これを【ショー】だと思っていることがうかがえる。


(それが普通の反応だよな。かよわい女の子が屈強な男たちと戦う。少しでも健闘すれば『がんばったな。また応援しよう』となる筋書きだ。客寄せパンダにするつもりだろうが…くくく、オレの【愛弟子】を甘く見た代償ってやつを支払ってもらうか)


 サリータも一応弟子ではあるが、自分にとってはサナこそ唯一無二の【後継者】だと考えている。

 自分が持てるすべてを注いで、少し言い方は悪いが『最高傑作』に仕上げようという夢を抱いている。

 短期間とはいえ自分が教えたのだ。サナが普通の女の子であるはずがない。

 試合会場で起こるであろうハプニングを思い浮かべ、にんまりと笑うのであった。


「次は覆面だ。この布で…グルグルグル…と。よし、これでいいだろう。苦しくないか?」

「…こくり」

「うーん、目元だけでも可愛いのがわかるから困るなぁ。これ以上は隠せないや」


 サナの顔を布で覆うが、素が可愛すぎるので、どうしても愛らしさが出てしまう。

 こればかりは仕方ない。サナが可愛いことは厳然たる事実なのだ。受け入れるしかない。




 その後は軽いウォーミングアップをして過ごす。

 本当はいつでも臨戦態勢が信条ではあるが、まだサナにそれを求めるのは酷だろう。

 普通のスポーツマンと同じように身体を温める。


「黒姫選手、試合の時間です」


 三時前になると、試合運営をするハングラスの係員が呼びに来てくれた。


「オレはセコンドでいいんだよね?」

「はい。問題ありません。専用の席があります」


 試合を観ていた時に気付いていたが、リングの横にはセコンド用の席がある。

 このあたりも普通の格闘技の試合に似ているだろうか。

 ひとまず近くで試合を観戦できるのはありがたいものである。


「じゃあ、行くか」

「…こくり」



 狭い通路(それでも幅五メートルはあるが)を通って、試合が行われるリングに進む。

 途中で男性側の控え室の通路と合流し、リングの『西側』に出る。

 どうやら西側が挑戦者で、東側が格上あるいはチャンピオンの方角になっているようだ。


 リングが見えてきた。


 実際に選手側からの視点で見ると、また違った趣がある。

 いつも広大な自然が戦場だった自分には物珍しくもあり、新鮮にも映る。


(リングか…ちょっと戦ってみたいが、今回の主役はサナだ。おとなしく黒子に徹しよう)


 自分がついていけるのは、ここまで。

 ここからはサナ一人だ。


「サナ、がんばれよ」

「…こくり」


 サナが頷き、一人で進んでいく。



 そして、出口を通り抜ける時―――



 バシュンンッ


 サナの身体から何かが【抜けた】。

 他の人間には何も見えなかっただろうが、アンシュラオンにははっきりとわかった。


(命気が消されたな。外部からの干渉を防ぐ術式がかけられているんだ。思った以上にかなり強力な結界だ。遠隔操作で誤魔化すのは難しそうだな)


 サナには意図的に命気を忍ばせたままにしておいた。その際、どういった反応があるのか見たかったからだ。

 予想はしていたが、アンシュラオンの命気は完全に消失してしまった。

 自分の命気を吹き飛ばすことは驚きではあるが、現在の命気は待機状態であったので、これが命気足の稼動状態だったならばどうなったのかはわからない。


(やろうと思えば突破できるレベルだから問題はない。サナが危険になったらいつでも助けられる。…だが、武人として強くなるためには厳しい戦いが必要だ。できる限りは助けないようにしないとな)


 一番の問題は、サナが殴られた時に自分がキレることである。

 それをやっていたら彼女がいつまでも成長しないので、できるだけ我慢することを誓う。

 あくまでできるだけ、であるが。





「さぁ、今日は珍しくこの時間から数多くのお客様に集まってもらっております。すでに告知していた通り、初戦は特別な試合を行いたいと思います!!」




 セコンド用の席にアンシュラオンが着くと、ちょうどリングアナウンサーが試合について説明するところであった。

 プロレスでも相撲でも、あるいは漫才でも何でもそうだが、この早い時間帯は『前座』が行われることが多い。

 まずは弱い者たちの試合を行い、場を温めて少しずつ気分を盛り上げていき、メインの試合で雰囲気が最高潮になるように調整されているものだ。

 いくら賭け試合が最大の娯楽とはいえ、競馬の平場のレースをやるようなものなので、最初の試合からずっと居座る者は多くはない。

 いるとすれば、ギャンブルに染まりきった駄目人間だけであろう。



 が、今日はいつもの三倍の人数がいた。



 それでも会場全体の半分程度だが、いつもより客の入りが多かった。


 その理由はもちろん―――




「可愛らしい挑戦者の登場だぁああああああああああああああ!! 西側より現れるはラングラス所属、異国からやってきた姫という噂の―――黒姫ぇええええええええええええええええ!!」




 スタスタスタ


 選手コールが行われると、サナがトコトコ歩いてきた。

 その姿に緊張した様子はまったくない。




―――ォオオオオオオオオ!!




 それと同時に客席から野太い声が響く。

 事前に告知されていたようだが、こうやって生で見る小さな挑戦者に誰もが興奮しているようだ。

 しかも説明が刺激的である。


「おいおい、姫だってよ」

「本当か? またガセじゃないだろうな? 前もそんな触れ込みのやつがいたよな」

「昼前にさ、派閥内で特別パンフレットが配られたんだよな。ほら、ここだ。東の国からやってきた亡国の姫って書いてあるぞ。顔も隠しているし、本当かもしれないぞ」

「へー、本当ならすごい話だな。生きるために武術一つでがんばっているのか。…なんだかかわいそうだな」

「俺は面白いと思ったね。ただ、肩書きで戦うわけじゃない。姫だろうがなんだろうが強くないと駄目だね。まずはお手並み拝見だな」


 という声が客席から聴こえてくる。

 この肩書きをどう捉えるかはそれぞれだが、客はしっかりとサナに興味を抱いたようである。

 興行という意味では大成功だろう。


(そういえば、そういう設定だったな)


 この設定を作ったのは、もちろんアンシュラオンである。

 マシュホーと話していた時に話題性のある設定を作ろうということになり、マキに話した内容をそのまま転用したのである。

 悪気はない。頭の中ではそういう設定なのだ。噂は噂でしかないという、よい一例だろう。





「続きまして、東側からはハングラス所属、アカガシィイイイイイイイ!!」




 次のコールで現れたアカガシという男は、いかにも筋トレをやっていますよ的な身体をしたスキンヘッドの男だった。


「しゅっしゅっ! しゅっ!」


 スパンッ スパンッ!

 アカガシの拳が空を切り裂く。

 軽くシャドーをした動きを見ても、身体のキレは悪くない。その筋肉が飾りでないことがよくわかるだろう。

 当然ながら成人男性なので、サナとは身長差が四十センチ以上もある。


「おいおい、大人と子供じゃないかよ!」

「こんなんで勝負になるのか? 賭けが成立するのかよ!」

「子供が怪我するだけだろうが! やめさせろ!」


 その様子に観客席から野次が飛ぶ。

 ルアンの戦いを見ていればわかるが、体格差というものは戦いにおいて重要な要素となる。

 体重も倍近い差があれば、パンチ一発の重さもまったく違う。観客が野次るのは当然のことだろう。

 これが単なる余興ならばいいが、実際に金を賭ける立場からすれば重要な問題なのだ。


 だが、次のアナウンサーの発言で状況がひっくり返る。




「えー、どうかお静かに願います。多少異例の事態ではありますが、賭けは通常通り行われることになります。それと、もう一つ連絡がございます。本日の試合ですが、黒姫選手のオッズは【1.2倍】とさせていただきます。繰り返します。黒姫選手のオッズは1.2倍とさせていただきます。どうかご了承ください」





―――ザワザワザワザワッ




 その言葉に会場がざわついた。

 こうした倍率、オッズは、普通は「強い者が低く」設定されるものだ。

 競馬新聞では、大本命に1.2倍という数字が並ぶことも珍しくはない。(だいたいは当日までにもう少し上がるが)

 だが、この試合の場合は、完全なる逆となっていたのだ。

 あまりに意外だったのか客は野次を飛ばすことなく、会場は静まり返ってしまった。

 その状況を察したのか、さらに追加で説明が入る。




「黒姫選手には高額の賭け金がございましたので、このオッズとさせていただきます。その代わり、アカガシ選手のオッズは【8.8倍】となっております!! どうぞ、ふるってご参加くださいませ! では、賭けのスタートです!」




―――ザワザワザワザワッ



 再び場内がざわめきに包まれる。



「お、おい、どうなっているんだ? 逆じゃないのか?」

「だ、だが、本当にこのオッズなら…相当な儲けになるぞ」

「誰だよ! 高額の賭け金なんて出したやつは! 最高にいいやつじゃないか!」

「でもよ、万が一ってこともあるぜ…」

「それこそ逆に考えろよ。1.2倍だったら、当たってもたいした儲けじゃねえ。男なら、ずばっと高額配当狙いだろう!」

「おお、それもそうだな!! こんなチャンスは二度とねえぞ!! 賭けろ賭けろ!!」


 こうして客の大半はアカガシに賭けていく。

 1.2倍ならば、100円賭けても120円にしかならない。リスクのわりには儲けが少ないのだ。

 これは賭け事をする人間に多く見られる思考回路である。


(ギャンブルを長くやっていると本命を嫌う傾向になる。高配当を当てて充実感を得たいと思うからだ。…うん、病気だな)


 アンシュラオンはその光景を冷ややかに見つめていた。

 ギャンブルで成功する秘訣は高額配当を狙うのではなく、本命を中心に買ってリスクを減らすことで、かすかに生まれた「上澄み」だけで満足することだ。

 よりわかりやすくいえば、高額の貯金をして利子だけで暮らすようなものだろうか。それで満足するのが成功者というものだ。

 だが、ギャンブルをする人間が求めるのは、高額配当を当てた時の激しい感情の爆発なので、多くの人間は本命を嫌う。

 これが3倍くらいならば大丈夫だったが、1.2倍という数字が嫌われたのだろう。



 これは―――予想通りだ。



(このオッズになったのは、オレが賭けた一千万のせいだな。さて、お膳立てはしたぞ。あとはサナ、お前次第だ)




394話 「実戦の拳 前編」


 こうして外野での注目を集めることに成功。

 試合前としては十分盛り上がったといえるだろう。




「この試合の受付は、ここで終了させていただきます。たくさんのご参加、誠にありがとうございます!」




 8.8倍という高配当が効いたのだろう。

 賭けは盛況で、客の八割以上は確実にアカガシに賭けたようだ。

 客の数も三倍ならば総額もいつもの三倍に跳ね上がっているので、運営としては笑いが止まらないはずだ。

 ただし、実際に賭けられる側としては複雑だ。




「両者、前へ!」




 二人がリング中央にまで進み、睨み合う。



(俺もなめられたもんだ。こんな子供相手に8.8倍とはな。運営は何がやりたいんだか。おおかたメイン以外でも注目カードを作りたいんだろうが、こんなお嬢ちゃんが相手じゃな…どうにもやりにくいぜ)


 アカガシが、サナを見下す。

 たしかに自分は上のレベルでは勝ち上がれないような二流選手だが、こんな子供と比べられるのは心外だ。

 このオッズもそうだし、それに賭ける観客にも不満が募る。

 真面目に鍛練を積んできた自分に対する侮辱にすら感じられるのだ。


「お嬢ちゃん、怪我する前に帰ったほうがいいぜ。金がかかっている以上、そこまで手加減はできないからな」

「…じー」

「聞いているのか?」

「…じー」

「やれやれ、どうなっても知らないぞ」

「…じー」


 相変わらずサナは、ただただ見つめるだけで問いかけには答えない。

 だが、そこにこそ二人の決定的な違いが存在した。


 その違いがアンシュラオンにはよくわかる。


(孫子いわく、『戦いが始まる前から勝敗は決まっている』。もちろん戦いはそんなに簡単なものじゃないが、準備を怠る者に勝者はいない。相手を侮っているのならば、なおさらのことだ)


 サナはすでに戦闘態勢に入っている。

 実際に動いてはいないが、それ以外のところで戦いを始めている。

 対戦者の表情、体格、筋肉の付き方、足の動き、体重移動等々、必要な情報を必死に集めている。

 もともと観察眼に優れた彼女であるが、こうした姿勢は戦いに挑む者ならば誰にとっても重要なことだ。

 足の動きがわかれば、どれくらいの速度でどれくらいの動きをするかがわかるし、胸や腕の筋肉の付き方を見れば可動域がわかり、得意なパンチが推測できる。

 そのたった一瞬の予知で命が助かることがあるのだ。絶対に疎かにしてはならない。

 サナは勝つための準備を整えている。その姿勢は武人として極めて正しい。


 だが、一方のアカガシはそれを怠っている。


 彼にはサナが単なる無愛想な子供にしか映っていない。見た目に騙されて情報を集めることをやめている。

 これでは最初から勝負を投げているようなものだ。だからスポーツだと蔑まれるのだ。

 といっても、最初からサナを侮らない相手のほうが圧倒的に少ないのも事実である。

 実力的に遥かに上位だったアーブスラットでさえ、サナには戸惑いを見せていたのだ。

 アカガシ程度の武人に万全の準備を求めるのは酷な話だろうか。


(サナ、お前が変えるんだ。この緩んだ空気を吹っ飛ばす力を与えたはずだ。お兄ちゃんにそれを見せてくれ)






「それでは、試合開始だぁあああああああああああ!!」





 二人の準備が整ったのを見計らい、リングアナが叫ぶ!!



 カァアアアアーーーーーンッ!!



 試合開始のゴングが鳴った。



 ブオオオッ

 互いに戦気を発動させて身体にまとわせる。

 当然サナも展開したのだが、それにアカガシが少し驚く。


(おっ、この子も戦気が使えるのか? まだ遅いが、けっこう滑らかだな。試合に出るだけのことはあるってか。少なくとも死ぬことはなさそうで安心したよ)


 試合に出る以上、戦気が出せることは必須項目である。そうでないと大怪我を負ってしまうだろう。

 ただ、アカガシから見てもまだまだ粗いものなので、あくまで最低限の力を有しているにすぎない。

 この上から目線の態度を見てもわかるように、まだ彼の中でサナは自分よりも格下の存在でしかないようだ。


「………」

「…じー」


 最初はどちらも動かない。

 相手の様子をうかがっているだけだ。

 サナは相変わらず観察しているうえ、体格では相手が上なので動かないことは悪い選択ではない。

 迂闊に近寄って捕まったら危険なので、間合いを測りながら様子を見たほうがいいだろう。

 ただし、アカガシに関しては根本の事情が違っていた。


(こんな『余興』に選ばれたことにはイラつくが、簡単に終わらせたらもったいない。子供相手にガチでいったら大人げないしな。ここは打たせて試合を盛り上げてやるか)


 ハングラスのプロモーターからは、試合で見せ場を作れと言われている。

 レイオンの試合でもそうだが、賭け試合には『シナリオ』がある。

 同派閥以外では、どちらが勝つかまで決まっているものは少ないが、それでもある程度の試合内容が決まっているのだ。

 たとえばレイオンとブローザーならば、互いに肉体派なのでノーガードの打ち合いが好まれる。

 観客もシナリオがあると知りつつも、期待通りの肉弾戦を楽しむことができるのだ。

 そこはアンシュラオンが言った『プロレス』と同じである。

 そして今回は相手が子供ということもあり、その指示の大半がアカガシに与えられていた。


 内容は、わざと相手の攻撃を受けて苦戦したふりをしろ、というものだ。


 女の子が大の大人を一時的にとはいえ圧倒する。

 たしかに見ているほうは面白いだろう。娯楽としては定石ともいえる手段だ。

 アカガシ自身には非常に不愉快なシナリオであっても、これを受ければ次に割りのよい試合が組まれる予定になっている。


(仕方がない。これは仕事だ。家族を養うためだ。我慢しないとな)


 自分には家族がいる。息子もいる。まだ遊び盛りだ。玩具も買ってやりたい。

 何よりも地下にまでついてきてくれた妻には、少しでも豊かな生活をさせてあげたい。

 武人として一流ではない以上、こうやって賭け試合の噛ませ犬として使われることも受け入れている。

 多少の屈辱を甘んじて受け入れれば、家族を養っていくには十分な金が手に入るのだ。


(さあ、こい)


 アカガシは防御の構えを固める。自分からは攻撃しようとはしない。

 残念ながら、これが賭け試合の実情である。

 本気で戦い、本気で自分を高め、本気で相手を打ち倒そうとする者は多くはない。

 彼らにも生活があるのだから責めることはできないだろう。



「…すっ」


 相手が動かないのを見たサナが、ついに前に出る。

 反撃の意思も感じなかったので、自分から出ることを決めたのだろう。

 そして間合いに踏み込むと、拳を繰り出した。


(おっ、それなりに速い動きだな。腹への攻撃か。これくらいならば、まともに受けてやるか)


 身長差によってサナの拳は、アカガシの腹に向かっていた。

 綺麗な動きだったため見切るのはそう難しくなかったが、予定通りにあえて受ける。


 ドスンッ


 小さい拳ながら良い音をさせて、腹に突き刺さった。

 アカガシは防御を固めていたので問題なく対処。完全に受けきる。

 そのまま素早くダメージを分析。


(威力はそこまでじゃない。子供にしては強いが、それでも子供でしかないな。無防備で受けなければ致命傷にはならないだろう)


 このあたりはさすが拳闘士であろうか。殴られ慣れている。

 あらかじめ攻撃のポイントがわかっていれば、防御するのは難しくない。

 アカガシも武人なので、戦気を覆えば肉体能力は何倍にもなる。

 子供、しかも少女程度の拳でどうなるものではないのだ。


「…しゅっ」


 その状況をどう判断したかは不明だが、サナは攻撃を続ける。

 ステップを踏み、拳を放つ。


 ドスンッ ドスンッ ドスンッ


 リズミカルに三発の攻撃がヒット。

 腰を回転させて放った良い拳だ。が、これもアカガシはすべて受けきる。




(マシュホーのおっさん、なかなか良い相手を選ぶじゃないか。人を見る目は武人を見る目にも通じるのかな。練習相手にはちょうどいい実力だな)


 アンシュラオンもアカガシの能力をセコンド席で分析していた。

 まだ攻撃をしていないので完全な評価はできないが、防御面だけならばそこまで悪いとは思わない。

 腹で受けたのもわざとだとわかるし、しっかり防御していたのでダメージもあまりないだろう。

 受け慣れていることと筋肉の付き方を見るに、おそらくはバランス防御型の戦士だと思われる。

 的確に防御しながら反撃を行うタイプだと感じた。

 その証拠にサナが攻撃を仕掛けた際、反射的に反撃しようとして止めていた。癖が出ているのだ。

 こうした癖を見抜くのも武人の嗜みである。だから強い武人ほど身体を服で隠すのだ。(姉は強すぎるので薄着が許されるが、アンシュラオンも基本は少しゆったりめの道着を好む)


(あの男、レッドハンターより少し劣るくらいかな。無手という条件下ならば匹敵するかもしれない)


 自分の見立てでは、アカガシはレッドハンターより少し下程度、ソイドファミリーの下級構成員程度といったところだろうか。

 アンシュラオンからすれば雑魚でしかないが、それでも一般人からすれば手に負えない存在である。

 サリータでも苦戦するだろうから、サナから見ても強敵の部類に入る。楽に勝てる相手ではない。

 彼女もそれはわかっているのだろう。まったく油断することなく自分が放てる最大の一撃を打ち込んでいる。


 ドスン ドスンッ

 ドスン ドスンッ

 ドスン ドスンッ


 サナの拳が何度も腹に当たる。

 アカガシはひたすら防御の姿勢だ。


(あの男、まったく攻撃する気配がない。それが今回のシナリオというわけか。それでもかまわないが…あまりお勧めはしないな)





―――ドガスッ!



 十五発目だろうか、その一発が入った時、少しだけアカガシが下がった。

 軽く手で腹をさすり、『ちょっと痛かった』アピールをする。

 実際に痛かったので、逆に大げさにやってみた感じだ。


(いい打ち方するじゃねえか! 同じ場所にくらい続けると、さすがに痛いな)


 体重差、体格差、戦気の量、どれも自分が上である。

 女性かつ子供の彼女の拳は、まだまだ軽い。大人が相手では厳しいのも仕方がない。

 ただ、目の前の少女の拳の打ち方は、なかなか本格的だ。抉るように打ち込んでくるので油断はできない。


(しかし、フェイントも使わないから動きは単調だ。このまましばらく受け続けるか。油断はするなよ。こんな茶番で痛い目に遭いたくはないしな)


 改めて家族のことを想って気合を入れ直し、防御を固める。

 もう少し打たせたほうが盛り上がるだろう。



 ドスン ドスンッ

 ドスン ドスンッ

 ドスン ドスンッ



 それからもサナの猛攻は続く。

 ひたすらに腹に拳を打ち込んでいく。



 ドスン ドスンッ

 ドスン ドスンッ

 ドスン ドスンッ





―――ワァアアアアア!





 予想通り、その展開に観客が沸く。



「おっ、なかなかやるじゃないか! いいパンチだ」

「アカガシ、くらいすぎだぞー! 遊んでるんじゃねえぞ!!」

「ははは、あれくらいでいいのさ。それが今日の演出なんだろうぜ。あんな女の子にアカガシが負けるわけがないからな」

「そりゃそうだな。あいつは強くはないが弱くもない。運が向けば、もっと上に行ける才能がある。こんなところでつまずくやつじゃないさ」

「なんだよ。やっぱりそうか。あーあ、これから反撃して終わりかなー。でもまあ、これで大儲けならば問題ないな。ちょっとした話題にはなったしよ」

「まったくだな。若い子が入るってのはいいもんだよ」



 観客の大半はシナリオのことを知っているので、これも『ショー』の一部だと思っている。


 もちろんその通りだ。


 アカガシがわざと攻撃を受けていることなんて、少し見る目があれば誰にだってわかることだ。

 悪くない余興だった。あの子は健闘した。もう十分だろう。

 観客の興味が徐々に試合の終わりへと向かっていく。

 その空気はアカガシも感じていた。


(こんなものでいいか? 客は満足したか? …大丈夫そうだな。これ以上は不自然だし、まずは軽く一発、反撃でもしてみるかな。どれくらい手加減が必要かわからないし、様子見で―――)


 自分がまったく動かないのでは、試合的にも面白くないだろう。

 ここで反撃を一発かましてみて、相手の反応を見ようと考える。

 それで驚いて下がるようならば、イヤらしい展開ではあるが、少しずつ追い詰めるのもいいかもしれない。

 仮にさらに向かってくるようならば、軽く打ち合いをしながら順当勝ちで倒せばいいだろう。




―――そんなことを考えていた時が、自分にもあった。




 今思えば恥ずかしい話であるが、それはどうか許してほしい。

 誰にだって初めての体験はある。何歳になっても初めて味わうものがある。

 ただ、それが今この瞬間であり、たまたまこんな小さな少女だったにすぎないのだ。



 しかしながら、これは―――【誇り】である。



 まだ弱く、何も知らなかった自分は、あの日を境に変わったのだと堂々と言えるようになったのだ。

 それこそが本当の誇りであると知ったのだ。

 だから許してほしい。これから起こることで自分への評価が下がったとしても、甘んじて受け入れる覚悟があるのだから。



 なぜならば―――自分も武人だからだ。





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