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「欠番覇王の異世界スレイブサーガ」

作者  園島義船



□ 第六章 「収監砦」 編


355話 ー 364話




355話 「ラングラス一派の集い 中編」


「それでその後、ディングラスとはどうなったんだい? これ以上他の派閥と揉めて、嫌がらせが増えるのは勘弁願いたいね」


 ずっと気になっていたのだろう。ストレアが頃合を見計らって話を振る。

 ソイドファミリーがホワイトとつながっている、という話が出た際、他派閥から嫌がらせを受けたのは当人たちだけではない。

 同じラングラス一派の組織にも被害が出ているのだ。

 ストレアのリレア商会は女性用品を扱う手前、さほど大きな嫌がらせはなかったようだが、店先にゴミ(動物の臓物など)を撒き散らす程度のことはされている。

 ここで衛士隊まで敵になったら、この都市で商売をすること自体が難しくなるだろう。商売をする身としては迷惑この上ない話だ。


「ディングラスにはマングラス側が話をつけているはずだ」

「結局、マングラスに貸しを作ったってわけだね。タダより高いものはない。そのうち倍以上の損失になるよ」

「しょうがねえ。オヤジが動けるならともかく、今の状況じゃ俺らに交渉材料がねえ。せめて領主の嫁の病気が好転すればいいんだが…」

「申し訳ありません。そちらは今のところ進展はありません」


 イニジャーンがスラウキンを見るが、彼は静かに首を横に振るだけだ。

 もしキャロアニーセの病気をラングラスが治せていれば、今回の一件は起こらなかったに違いない。

 いくら領主とて、愛する妻を助けてくれた相手を攻撃などしないだろう。少なくとも武力行使はしなかったはずだ。

 そういったところも含めて、ラングラスの評価が下がっていた面は否めないだろう。アニルからすれば役立たずに見えるのかもしれない。


「兄貴、オヤジの調子はどうなんですかい?」

「父さんは…まだ動ける状態じゃない」

「…そうですかい。というわけだ。これが俺らの現状だ。貸しを作っても今は騒動を収めるほうが先ってことだ」

「騒動騒動って、全部ソイドのところから始まっているじゃないのさ。うちらはいい迷惑だよ」

「ソイドを庇うつもりはないが、その言い草はねえだろう。お前のところだって組織の一部には違いないんだぜ。ちったぁ真面目に考えろや」

「切った張ったは、そっちの領分だろう? うちはあくまで経済組さ」

「経済組って言うほどの売り上げもねえだろうによ」

「っ! てめぇ、言ってくれるじゃねえか、このやろう! ぶっ刺されてぇのか!! 顔の傷を増やしてやるよ!!」


 しゃきんっ

 イニジャーンの何気ない言葉にストレアがドスを取り出し―――机にぶっ刺す。

 非常に切れ味の良いドスは、およそ十センチ程度、机に突き刺さった。

 いくら刃物だろうが、それなりに硬い木製の机に刺すのは、一般人にはなかなかにして難しいものだ。

 彼女がドスを使い慣れていることがわかる。

 その勇ましい様子をイニジャーンが笑う。


「なにが経済組だ。お前のほうが、よほど斬った張ったが似合っているぜ。そういや前に、お前のところの女に手を出したうちの組の若いやつが刺されたな」

「ガキが色気づくからさ。半殺しで勘弁してやっただろう。感謝しな」


 そのドスの利いた声は、さながら『極道の女』である。

 女性が裏社会で生きることは思った以上に大変だ。その中で生き残ってきたのだから、ストレアがただの女であるわけがない。

 前にイイシ商会の若い衆がリレア商会の女性構成員手を出そうとした時にも、しっかりとケジメをつけさせている。(リレア商会の構成員は、リンダのようにストレアが助けた女性がそのまま組員になるので大半が女性である)

 脅しではなく実際に刺す覚悟がないと渡り合っていけない世界だ。迫力があるのも当然だろう。

 ちなみにドスを持ちながらドスを利いた声を出したわけだが、特段駄洒落でも何でもないので注意が必要だ。

 今ここでそんなツッコミをしたら絶対に刺されるに違いない。


「うちらは女を守るために身体張ってんだ! あんたら男がだらしないから女が生きづらくなってんだろうが! 言葉には気をつけな!」

「まあまあ、姐さん。オジキも悪気があったわけじゃない。許してやってくれよ」


 モゴナオンガが手慣れた様子で仲裁に入る。

 序列第三位という真ん中のポジションは、こういうときに効果を発揮するものだ。

 彼自身もツーバの血の流れにないので言葉に中立性が宿るわけだ。それによって調和を図ることができる。

 彼がそれなりに組織で慕われているのは、こういった役回りをするからだ。


「ふんっ、悪気がないから問題なんだろうさ。で、どうするんだい? 今言ったように、うちは混乱は避けたいんだ。やるならさっさとやっておくれよ。それで終わりにすればいいさ」


 おそらくストレアの意見こそが、直接被害を受けていない組の本音だろう。

 多少のいざこざはあれど穏やかな生活を続けられてきたのだ。

 ソブカのように急激な進化を求めない人間にとっては、できるだけ長く静かに暮らすことが幸せである。

 それが『緩慢な死』だとしても、彼らが求めるのは平穏なのだ。

 マフィアがそう思うのも不思議に感じられるが、マフィアかどうかは商売上の役割の違いにすぎず、構成員の多くは普通の人間なのである。



「オジキ、マングラスの件、どう考える?」

「やつらが外に出る時は文字通り血の雨が降る時だ。またこんな時勢になっちまったってことだよ。ホワイトはやりすぎた。俺たちには止められない」

「受けるのか?」

「最初から選択肢なんてないのさ。マングラスとは力の差がありすぎる。歯止めだったはずのジングラスが機能しない以上、ハングラスもマングラスに組するしかなくなるはずだ。この段階でアウトだが、さらに領主のディングラスもマングラス側に立つだろう」

「…三対一、か。考えるまでもない。うちらも乗るしかないな」

「そういうことだ。…が、しかしだ!」


 ドンッ

 イニジャーンが机を叩く。


「このままホイホイとマングラスの手を借りたら、それこそラングラスの意味がなくなっちまう。役割が果たせねえ」

「役割? 何のだ?」

「モゴナオンガよ、うちらラングラスはな、マングラスを止めるために存在しているんだよ。やつらが暴走しないように見張る使命がある」

「そいつは初耳だが…そんなことは不可能だろう? あいつらの数は相当なもんだ。うちらじゃ、どうあがいても無理だ」

「だから今は異常な状況なんだよ。このままじゃ溢れかえった水で都市内が押し潰されちまう。こんな城塞都市で洪水が起きたら全員が溺死だぜ」


 マングラスは水を司る。他方、ラングラスは火を司る。

 属性理論でいえば両者は反発する存在であり、互いに監視するという役割を背負っていると考えることができる。

 現在では到底考えられないが、昔の力あるラングラスはマングラスと均衡を保っていたのかもしれない。

 人と医療は密接に関係している。互いが互いを支えあいながら、医者としての信頼を勝ち取ることで人々の暴走を防いでいたと思われる。

 逆にマングラスも薬師が暴走しないように圧力をかける役割があるのだろう。そうして両者は対等に並び立ってきたのだ。

 また、この理論ならば、風のジングラスと雷のハングラスも同じような関係にあるといえるだろう。

 ジングラスが食糧という人間にとって一番重要な物資を担当し、ハングラスがそれ以外の物資を担当しているのも、こうしたことが理由となっている。


 だが今、ジングラスという風がやんだ。


 その代わりに吹き荒れたホワイトという乱気流にグラス・マンサーが翻弄されている。

 バランスが大きく崩れ、すべてが濁った水に飲み込まれようとしている。

 本来ならば水の氾濫を阻止する役割を持つ火は細り、あまりに弱くなってしまった。このままでは簡単に消されてしまうに違いない。

 しかし、それを黙って見ているわけにはいかない。


「ソイドよ、セイリュウのやつは、兵はマングラスが出すって言ったんだな?」

「ああ、好きな人材を要望しろって話だ。やたらと強気だぜ。セイリュウ自身もそれに含まれているらしい」

「あからさまな罠を仕掛けるじゃねえか。その手に乗るわけにはいかねえ。あくまでうちが前を張るってんなら、やつらの手を借りるのは最小限にしないとまずい。少なくともセイリュウの手は借りたくねえ」

「それはわかっている。だが、今の俺は…悪いが戦力にはならない。こんなときに出られないなんて最低だ。自分自身に苛立つぜ!」

「お前だけの責任じゃねえ。うちらが武力に関してテコ入れを怠ったことも要因だ。いつの間にか負け犬根性が染み付いちまったようだな。なさけねぇのは俺らも同じだ。しかし、だからといって簡単にマングラスに従うわけにはいかねえんだ」

「だがオジキ、うちらにこれ以上の戦力強化は不可能だ。できたらやっているさ」


 モゴナオンガの言葉も、もっともである。

 都市に入ってくる人材はすべてマングラスが管理している。どこかに務めようとすればハローワークの労働許可証があってもマングラスの調査が入るのだ。

 もちろん当人の意思があればどこに雇われようが自由であるも、実質的にはマングラスがある程度操作している現実がある。

 特定の組織が一定以上強くなりすぎないように、自分たちより強くならないようにしているわけだ。

 それを考えると、ソイドダディーやアーブスラットのような流れ者は稀有な例ともいえるだろう。

 これだけ強くて他派閥に入れるとなると、そこには運命的な出会いが必要となるからだ。

 いや、もしかしたら、それも含めてマングラスが調整している可能性がある。それほどマングラスの力は強いのだ。


 そのような事情があるので都市内部で戦力強化は非常に難しい。何よりも人材がいない。

 いるとしても、サリータやベ・ヴェルのような下位の傭兵くらいだろう。

 しかし、サリータを手に入れたアンシュラオンの苦労を見ていると、その程度の者たちならばいてもいなくても変わらない、というのが実情である。

 強い武人というのは、それだけ貴重な存在なのだ。アンシュラオンがプライリーラに目を付けられたのも頷ける話である。


 では、どうするか。


 これを打開する唯一の方法がある。


「決まっている。都市内部の人材がほとんどマングラスに牛耳られている以上、【外から雇う】しかねえ」


 それは、外から人材を引っ張ってくる、という単純なもの。

 ソブカが腕利きの傭兵を外で雇ったように、当たり前だがマングラスの息がかかっていない人材を連れてくるのだ。


「外の傭兵か。たしかにそれしかないが…そんなんで面子が立つのか?」

「マングラスの連中だって同じだろうが。外から人材を仕入れているのと同じだ。そこを言い出したらきりがねえ。重要なことは戦力を手にすることさ」

「なるほどな。オジキの提案も一理ある。必要なものは外から持ってくればいい。たしかハングラスもそうやって自衛団を作ったはずだ。だが、言うまでもないが二つの問題があるぜ。一つは、そんな連中をどこで雇うのかということ。もう一つは、その金をどうするかってことだ」


 モゴナオンガが極めて当然の問題を提示する。

 外から人材を持ってくる方法が気軽に使えるのならば、マングラスはここまで大きくはならなかっただろう。

 マングラスが吸収するのは基本的に、自らの意思でグラス・ギースにやってきた者たちだ。

 彼らは行き場所がなく、ここで生活するしかないからこそ本気で仕事を欲する。

 それを斡旋して面倒をみてやることで恩を売り、少しずつ組織内部に入れていくのだ。


 では、外から呼ぶ場合はどうだろうか。

 グラス・ギースは最北端の都市であり、お世辞にも栄えている場所とはいえない。文化レベルも高くはない。

 周囲も魔獣だらけで危険も多く、住んでいてもあまり面白い場所でもない。

 そこにわざわざ人材を引っ張ってくるというのは、なかなか難しい話だ。

 簡単にいえば、都会から田舎の町に能力のある若い者を呼ぶようなものである。

 多くの者が都会を選ぶ傾向にあるので、田舎はどうしても過疎化が進んでしまう。それを打開しようにも「売り」がないといけない。

 そのために町興しをする元気もないし、接待が持続するわけでもない。呼ぶことはできても定着せずに戻っていってしまう。

 それ以外の方法とすれば、ソブカがやったように大金を支払うという手段もあるが、そんな金があったら最初から苦労しない。


 こうしてマングラス一強時代が到来した、というわけだ。




356話 「ラングラス一派の集い 後編」


「重要なのは、やはり金だろう。自分が住む場所ながら、たいして面白い場所でもないって自信を持って言えるくらいだ。となれば、あとは金しかない。今回だけの助っ人ってことにしても、かなりの額が必要になるだろうな。そんな金がどこにあるんだ?」


 ラングラスには金がない。売り上げも年々落ちてきているので、自分たちの組織を維持するだけでも精一杯だ。

 さらに腕利きを雇うとなると大金が必要だろう。とてもとても無理な話だ。

 それはイニジャーンもよく理解している。しているが、背に腹はかえられない。


「ラングラスの命運がかかっているんだ。そこは捻り出す」

「無い袖はどうあっても振れないぜ?」

「そこを出すんだよ。物件を売ってもいい」

「そうは言われてもな…身を切りすぎてしまったら体力が落ちる。ここを防いだとしても長期的には破産だ。結局負けになる」

「今負けても同じじゃねえか」

「苦しみが続くのもつらいぜ」

「つべこべ言わずに掻き集めろ! やるしかねえんだよ! 命張る時だろうが!」

「…ふぅ…わかったよ。だが、うちはギリギリだからな。用意できても億に届くかどうかだ。ストレアの姐さんはどうだい?」

「うちはいつだってギリギリだよ。儲かっていたらもっと羽振りがいいさ」

「ごもっとも。先生のところは…まあ、無理だわな」

「申し訳ありません。医師連合はあくまで医師の登録管理組織でしかありませんので、個々人に対して金銭的な強要はできません。どうかご了承ください」


 医者は儲かっているイメージがあるだろうが、スラウキン自身は金に頓着しない男であるし、グラス・ギース全体が儲かっていないので必然的に医師連合も金がない。

 また、医療方針に対しては強い権限を持っている反面、医者個人に対する強要はしないことが慣習となっている。

 医者が各組織と癒着していても、そこには干渉できないのだ。あくまで医療に関してのみ協力を求めることで医師連合としてまとまりを図っているわけだ。

 アンシュラオンは医者は儲かると言っていたが、命気を扱えるあの男が特別なだけである。

 ホワイトが出現してからは、ソイド商会だけではなく他の医者の利益も減っているのだ。


「俺は出せるだけ出す。全部売り払ってもいい」


 ソイドダディーは覚悟をもってそう述べる。

 が、それはイニジャーンが止める。


「お前のところは本家筋のガキがいるんだ。そいつらを養うことも責任だ。無理はするな。言い出したのは俺だ。五億は用意する」

「オジキ、やはり限界じゃないか? 今は出せても続かないぜ」

「オヤジが寝ている間にラングラスを潰すってのか? そいつだけは許されないぜ! 絶対にだ! 俺らは死ぬまでオヤジに忠義を尽くすんだ。それが盃ってもんだだろうが!」

「それはわかっちゃいるが…」


 盃を酌み交わす時は、互いの血を一滴ずつ入れる。

 仮に本物の血縁関係ではなくとも、血を飲めば同じ一族になるのだ。

 あくまで形式的なものだが神聖な儀式であり、恩義に報いるために死ぬまで尽くすべき、というのが筋者として生きてきたイニジャーンの矜持である。

 古臭い考えではあるが、それはそれなりに美徳だろう。

 金や物ですぐに裏切る者たちには絶対に到達できない絆の世界だ。自分たちの組織、ファミリーを守るという覚悟が表れている。


 そして、覚悟を示した者たちを見たムーバが、そっと口を開く。




「金なら―――ある」




 突然の言葉に全員の視線が彼に集中した。

 まさかムーバがそんなことを言うとは思っていなかったのだろう。

 数秒間、沈黙が続いた。


「親父さん、どういうことなんです?」


 硬直から復帰したモゴナオンガが、ムーバに確認を取る。

 こういうとき比較的若い者の動きは素早い。

 ちなみにソイドダディーだけではなく、他の面子も彼のことを「親父さん」、ツーバを「オヤジ」と呼び分けている。


「金はあるんだ。最高級の腕利きを雇えるくらいの、な」

「オヤジの隠し財産ですか?」


 ラングラス一派の組織が稼いだ金は、半分を本家に上納する仕組みとなっている。

 本家はそれを体制維持のために使用するわけだが、多少の余剰は出るだろう。それをプールして隠し財産とすることはよくある話だ。

 むしろ隠し財産くらいないと、いざというときに困るだろう。

 それを知っているモゴナオンガが期待の眼差しで見つめる。

 しかし、ムーバは首を横に振った。


「そんなものはない。父さんは慎ましい人だから、金はすべて組織運営に回していた。自分が代理をすることになってからも、他の派閥の介入を防ぐための根回しに使っている。余剰金などはないのだ」

「じゃあ、その金ってのは?」


 本家の金でないのならば、どこの金なのか。

 金が勝手に湧き出るわけがないので、必ずどこかで入手したものだろう。


 ならばそれは―――





「金の出所は―――『キブカ商会』だ」






「キブカ商会…ソブカですか?」

「ああ、今日は出席していないが、こうなることを予期していたのだろう。金だけは事前に送ってきたよ。宝石類を含めて五十億以上はある」

「五十!! …簡単に出せる額じゃない。さすがソブカだ。儲けているな。しかし、どうしてすぐに言ってくれなかったんですか?」

「ソブカから『どうしても足りない時に使ってくれ』と条件が出ていたのだ。だから皆の意見が終わるのを待っていた」

「ちっ、気に入らねぇ。金だけ出せばいいと思っていやがる。しかも兄貴に条件だと!! 何様のつもりだ、あいつは!! 素直にさっさと渡せばいいものを、いちいち癇《かん》に障ることをしやがる!!」

「オジキ、そこは認めてやろうぜ。これで軍資金が出来た。十分な貢献だろう? 生意気なのはいつものことじゃないか。それよりは金だ」

「お前までそんなことを言うのか!」

「でも、これで少しは助かる。可能性が出てきたじゃないか。なぁ、そうだろう? これがあいつの愛情表現なんだよ。受け取ってやろうぜ」

「ふんっ…あの野郎、人を試すようなことをしやがって…そういうところがイラつくんだよ」


 ソブカが送ってきた金は、五十億という大金である。

 日本で運用すると考えた場合は、約二百五十億円くらいの価値に相当するので、一つの組が一つの作戦を動かす金としてはかなりのものだ。

 それだけならばソブカの優秀さを表すものとなるのだが、それで終わらないのが皮肉屋のソブカという男である。



 彼は―――他の組長を試した。



 ラングラスが窮地に陥った際、その者がどれだけ身を削って尽くせるかを試したのだ。

 人間の本質が見えるのは、本当に逃げ出したくなるほど厳しい状況でのみである。

 何の圧力もない平時に笑っていることは誰でもできるが、いざ危険な時に自己を犠牲にして、信じるもののために尽くすことは難しい。


 その覚悟、言い換えれば―――【ラングラス愛】を試したのだ。


 ラングラスになることに憧れ続けてきたソブカだからこその想いなのだが、それを知らない他の人間からすれば『イヤらしい挑発』に映るわけだ。


「ところで、それはいつ送られてきたのですか?」


 ふと疑問に思ったストレアが訊ねる。

 この会議の招集は今日の朝方に出た。それから金を出すこともできるだろうが、それならば会議に出席していてもいいはずだと思ったからだ。

 そのストレアの考えは正しい。

 なぜならばこの金が届いたのは―――


「四大会議の前だ。その時には届いていた」

「それはまた…! あの坊やもすごいものだね。こうなることを予期していたってことだ」


 ソブカの才覚は誰もが認めるところだが、会議の前にすでに想定しているとなると驚愕するしかない。

 ただし、これもソブカ側の視点からすれば当然のことである。

 アンシュラオンが行動する前から結託しているのだ。制裁の流れは最初からわかっていたことだ。

 四大会議の内容もグラス・ギースの闇をよく知っている彼からすれば、読み解くのは難しくないはずである。

 戦獣乙女が負ければ、次はマングラスが動き出す。そこにラングラスが危機的状況になる。

 すべては予定通りなのだ。



「ソブカのやつのことはいい。金が手に入ったことは認める。あとは肝心の傭兵だが…」

「本職の『殺し屋』じゃないと無理だ」


 イニジャーンの言葉に、ここは武闘派筆頭であるソイドダディーが助言をする。

 武人のことならば彼が一番詳しいので、誰もが素直に耳を傾ける。


「殺し屋ってのは…戦罪者とは違うのか? ホワイト商会の構成員は全員が戦罪者だって聞くぜ」

「戦罪者全員が殺し屋じゃない。単純に凶悪な犯罪者ってだけだ。それに戦罪者に対して戦罪者を当てる方法は、ハングラスがすでに試した。だが、負けた。その理由は簡単だ。ホワイトが強すぎるからだ」

「お前よりもか?」

「当然だ。戦獣乙女でも勝てない相手だ。俺が勝てるわけがない。そこを認めない限り、ここから先の議論は無駄になる。…俺が言った殺し屋ってのは『武人殺し』の連中さ」

「武人殺し?」

「強い武人を専門で殺す殺し屋のことだ」

「ハングラスもそういった連中を雇ったんじゃないのか?」

「たしかに腕利きを雇ったという情報だった。しかし、一般人を殺しの対象にしているような輩じゃ駄目だ。強い武人だけを専門に殺して回っているような本物の武人殺しじゃないと太刀打ちできねぇ」

「なるほどな。ならそいつらを…」

「それだけでも無理だ。ホワイトには勝てない。まともにぶつかるだけじゃ勝ち目は薄い」

「おいおい、どういうことだ。そいつらならやれるんじゃねえのか?」

「あくまで少しはまし、ってだけだ。それ以上の連中を俺は知らない。少しは役立てばいいと思っただけだ」

「そこまで強ぇのか?」

「当人も腕が立つうえに、その周りの連中を癒しちまうらしい。ビッグがそう言っていたし、第一警備商隊の生き残り連中も同じ証言をしている」

「なんだその化け物はよ。そんなやつに勝ち目なんかあるのか?」

「世の中に不死身なんてものはない。攻め続ければ、いつかは尽きるさ」


 そう言いながら、ダディーは無意識のうちに自分の胸に手を当てる。

 死にながらも生きているが、不死身でも不老不死でもない。ただ屍がかろうじて動いているだけだ。

 だからこそ、この世に絶対の無敵は存在しないことがわかるのだ。


「そいつらを捨て駒にしてでも削るしかないってことだ。だが、それでも闇雲に正面から相手をするべきじゃねえ。最低でもやつと戦罪者たちを切り離して各個撃破するべきだ」

「ホワイトは今、外に出ているんだろう? 今が最大のチャンスだが…肝心の兵がいないってことか。間が悪いな」

「そうでもない。俺たちにだって時間ができたことはプラス材料だろう。戦罪者をいくら殺してもホワイトのやつは痛くも痒くもねえんだ。頭を潰す方法を考えることも重要だ」

「やれやれ、これだから武人ってやつはよ…理不尽だなぁ」


 葉巻に火をつけながらイニジャーンが椅子に深く座る。

 長年この世界にいるので、その貫禄はたいしたものだ。ただし今は、その額にいくつものシワが寄っている。

 ラングラスは生粋の武闘派ではない。単純な戦力強化だけではハングラスの二の舞どころか、劣化版にしかならないだろう。


「思い出したんだけど、DBDの連中は使えないのかい?」


 ストレアが、ガンプドルフたちのことを思い出す。

 名前しか知らないが、名前が東大陸に知られていることだけでもすごいことだ。

 DBDの魔剣使いならば勝てる。素人ならば、そう思うのも無理はない。

 だが、問題はそれ以前の段階で頓挫している。


「セイリュウが言うには、領主はDBDの参加を認めないはずだとよ」

「なんでさ?」

「よそもんに鎮圧を頼めるわけがねぇ。そんなことをすれば領主自身で自分に統治能力がないって認めているようなもんだ。なめられるし、足元を見られる。あの領主がそんなことをするわけがねえだろう。政治的にも良くはない」

「こんなときまで面子かい?」

「こんなときだからこそ、だ」


 これはあくまでグラス・ギース内部の揉め事である。

 そんなことにまでDBDの力を借りれば、最悪は乗っ取りを促す結果になるかもしれない。

 そうなれば、より危険で厄介な問題がさらに浮上することになる。

 ここは是が非でもグラス・ギース内部の勢力だけで解決しなければならないのだ。だからマングラスも堂々と出てきている。


「じゃあ、どうするのよ?」

「それを考えているんだろうが」




 そうこう言い合っている間に、時間ばかりが経過していく。



 弱ったラングラスには対抗策は何一つなかった。

 結局のところアンシュラオンがいる限りはどうにもならないのだ。そこで詰んでしまう。


 イニジャーンの吸った葉巻の本数が三本に達し、このままマングラスに呑まれるしかないと思っていた時―――




「ホワイト医師の件ですが、もしかしたら無力化できるかもしれません」




 スラウキンが沈黙を破った。


「…なに? 本当か?」


 その言葉にイニジャーンが勢いよく反応する。

 驚きで葉巻が手から落ちそうになったくらいなので、よほどの食いつきである。


「ええ、あまり使いたくはない手段なのですが…」

「先生よ、そんなことを言っている場合じゃないだろう。打開策があるなら教えてくれ」

「そうだ。あんたもラングラスの組織に入っているんだ。うちらと医師連合は一蓮托生だぜ」


 モゴナオンガもスラウキンを促す。

 医師連合はある意味で独立した組織ではあるが、医療品を取り扱うラングラスとは切っても切れない間柄である。

 ラングラスの弱体化は、結果的に医師連合に大きな影響を与えるのだ。

 上位組織の組長二人にそう言われれば、スラウキンも覚悟を決めるしかないだろう。

 といっても、彼が提案した内容は極めてシンプルなものだった。


「では、お話しいたしましょう。まず状況を整理いたしますが、衛士隊が動いたきっかけになったのは、ベルロアナ様が麻薬を摂取したことが原因です。あくまできっかけにすぎませんが、それによってディングラスがラングラスに対して示威行動に出たのですから、極めて重要な問題です」

「たしかホワイトが麻薬を渡したんだよな? それでつながりがあったソイドに矛先が向いたってことだ」

「ですから―――【衛士隊にホワイト医師を拘束してもらう】のが一番だと思います」

「拘束? 衛士隊がか?」

「はい。医師連合は彼を医者とは認めておりません。正式な登録もされておりませんので、まず医療行為自体が違法です。また、麻薬の違法取引も当然ながら違法です。拘束するには十分な理由となります」

「おいおい先生、いまさらか? そんなことで逮捕できたら苦労はないだろう。相手は戦争を吹っかけてきているんだ。暴力で反抗されるに決まっている。マングラスの査察だって無視し続けているんだぜ。頼りない衛士隊じゃ無理だろう」

「普通にやれば難しいでしょう。ですが、私が得た情報ですと、領主はホワイト医師の助手であるシャイナ・リンカーネンさんを捕縛したようです」

「誰だ? そいつは?」

「今言ったように、ホワイト医師の助手であり麻薬の売人をやっていた女性です」

「売人…? まさかそいつも関わっていたのか?」

「そのあたりは不明ですが、それはさして問題ではありません。違法行為で拘束していることが重要です。彼女はホワイト医師と浅からぬ関係にあります。そこでその売人の女性、シャイナさんを人質に取るのです」

「人質…か。悪くはない。…が、それが通じる相手なのか? とてもそんな連中には見えないぜ。人の命なんて、なんとも思っていないようなやつらだろう。いまさら一人の女を人質に取ったところで動じるとは思えねぇが…」

「たしかにその可能性はあります。彼が見捨てれば終わる話です。しかし、私がじかに彼と出会った印象を述べますと、ホワイト医師は自分の大切なものを最優先にする人物です。また、極度の女性好きでもあります。場合によっては効果的な手段になるかもしれません」

「自分の女を守るために…か。乗ってくるか?」

「もう一つ重要なことが、これは【ディングラスが主導する】という点です。仮に失敗してもよいのですよ。そうなればむしろ好都合なのではないでしょうか。都市の最高責任者たる領主に逆らってくれれば、ディングラスは面子を保つために全力で向かわねばならなくなります。そうなれば積極的にディングラスを巻き込むことができるのです」


 今まで領主は中立の立場であった。ホワイト商会への干渉も他のマフィア連中に配慮して中途半端な状態である。

 しかし今回は、初めて明確な敵意をもって臨むことになる。それだけの理由があるからだ。

 そこでホワイト商会がどういう対応をするかで状況は変化するが、成功すればホワイトの分断につながり、失敗しても本来は中立であるディングラスを制裁に引きずり出すことができるようになる。

 マングラスの思惑を多少軽減させる、という意味合いでも悪くない手である。何よりもラングラスにデメリットがないのだ。


「やることがあるとすれば、医師連合として証明書類を作るくらいのことです。それくらいならば、すぐにでもご用意いたしましょう。それ以外にラングラスにデメリットはありません」

「なるほど。そう考えれば悪くはないか」

「あくまで小手先の策です。私にできる貢献は、これが精一杯です。本命は、やはり皆様方のほうでしょう」

「いや、十分だ。それだけやってくれれば助かる」


 スラウキンがラングラスに協力的な態度を示したことで、イニジャーンの気分も少しは良くなる。

 駄目でもともと。やらないよりはまし。今は打てる手は何でも打つべきだろう。


「考えてもしょうがねえことはある。俺たちは俺たちのできることをするぞ。ソイド、その殺し屋連中ってのはどこにいる? お前なら知ってんだろう?」

「ああ、昔ちょっと関わったことがある。まだやっているかわからねえが連絡はつけてみるさ」

「急げよ。あまり時間はないぞ」

「わかっている。こっちだって息子の命がかかってんだ。本気でやるさ」

「兄貴、そういうことになりましたが、進めていいでしょうか?」

「ああ、任せるよ。こちらは父さんの世話で手一杯だからな。頼むよ」

「はい。任せてください。ラングラスをなんとしても守ってみせます」



 こうしてラングラス側も動き出すのであった。




357話 「サナの戦気術修行 前編」


 というように、アンシュラオンがいない間にいろいろなことが起きていたわけだ。

 ダディーが一度死んだりセイリュウが出てきたり、思った以上に動きがあったといえるだろう。

 これら一連の騒動が、都市に戻ってきた時のアンシュラオン逮捕劇につながるのである。



 では、肝心のアンシュラオンは今どうしているだろうか。



 マキに逮捕され、そのまま馬車で連行されたあの男は何をしているか。



「いやー、今日もいい天気だなー。気持ちいいー!」


 アンシュラオンが降り注ぐ日差しを受けながら、心地よさそうに伸びをする。


「サナも気持ちいいか?」

「…こくり」

「そうだよなー、ずっと働きっぱなしだからリフレッシュも必要だよな」


 サナと一緒にしばらく日向ぼっこを楽しむ。

 今は二人とも仮面を付けておらず素顔のままだ。やはり素顔が一番である。新鮮な空気が美味い。

 十分日光浴を楽しんだあとは【日課】が始まる。


「よし、やるか! 今日も鍛練をするぞ!」

「…こくり」

「まずは呼吸だ。吸ってーーー、すーーーー!!」

「…こくり。すー」

「それから、吸った酸素を燃焼させるように、吐くーーー、はーーーー!」

「…こくり、はー」

「吐く時間を長くするんだぞ。吸うのが1に対して、吐くのは3くらいかな。これを続けてー、すーはーーー!すーはーーー!すーはーーー!」

「…こくり、すーはーーー。すーはーーー。すーはーーー」


 呼吸を繰り返していくと、身体の中がぽわぽわ温かくなるのがわかる。

 呼吸は誰もが自然とやっていることなので意識しないが、こうして意図的にやるとかなりのエネルギーを使う。

 腹式呼吸をじっくりやるだけで十分なダイエットにもなるので、ぜひ試してみてほしい。

 が、これはあくまで準備段階だ。

 呼吸は生体磁気を活性化させるのが目的であり、武人にとってはこれからが本番といえる。


「今度は呼吸の間に、周囲からエネルギーをもらうイメージを浮かべてごらん。この星、この宇宙には無限の力が漂っている。それは幻でも塵でもない実在するエネルギーなんだ。そうだな、呼吸で生み出した力が種火だとすると、周囲の力は尽きることがない燃料のようなものだ。今体内で活性化した種火と化合させ、一気に燃え上がらせる」


 ぼしゅっ ぼーーーー

 アンシュラオンの体表に一瞬で戦気が生まれる。

 サナに見せるために意図的に発動を遅くさせているが、それでも実に滑らかで淀みのない美しい炎だ。

 戦気は、使う人間の本質を表すという。

 これだけ悪事を重ねているのに、なぜか戦気はとても美しい。真面目に生きている人間より綺麗なのだ。

 普通に考えれば理不尽だが、宇宙を管理する法則に偽りはない。起こったことこそが真実である。

 善も悪も光も闇も知ったアンシュラオンは、人間としても武人としても深みがあるということだろう。それを超越した存在なのだ。

 と、アンシュラオンの戦気は今までも散々見てきたので、特にいまさら語ることはないだろう。


 問題は、サナのほうだ。


「さっ、こんな感じで戦気を出してごらん」

「…こくり。ぐっ」


 サナが両手をぐっと握り締めて踏ん張る。

 まだまだ身体に無駄な力が入っており、その速度は緩やかであるものの―――体表に変化が起こる。

 ぼっ

 ペンダントの周辺に小さな炎が浮かんだと思ったら、そこを中心にして円状に広がっていく。

 ボボボボッ ゆらゆらゆら

 そうして広がった薄ぼんやりした炎によって、サナの身体が赤に包まれた。


「おっ、いいぞ! すぐに出せたな! これが戦気だぞ!」

「…こくり。ぐっ」


 サナも嬉しかったのか、小さくガッツポーズだ。


 そう、これが―――【戦気】。


 もうお馴染みの力であるが、改めてこうして最初からやってみると不思議なものである。

 『神の粒子』と呼ばれる『普遍的流動体』も、目では見えないが実在する力なのだ。

 愛や勇気などの捉えどころのない力も、精神の振動数ではしっかりと存在している。現に人間同士が集まれば、相手の気持ちがなんとなく空気感で読めるはずだ。

 それと同じように、尽きることのない膨大なエネルギーが至る所に存在している。


 それはまさに無限の可能性。


 もしこれをすべて扱うことができれば、世の中のエネルギー問題は一瞬で解決するはずだ。なにせ『母神』と呼ばれる『星創神』たちは、これを使って星すら生成しているのだ。

 だが、人間が扱う場合はどうしても制限が生まれる。


「全身を覆うまでが『二秒』ってところか。まだまだ遅いな。だが、自分で出せるようになったことは大きな成長だ。まずは出せることを日常にしような。それに慣れてきたら速度を上げるんだ。戦闘時はどんなに遅くても、できれば0.1秒以内で出せないと話にならないから、そのラインが最低目標だ」

「…こくり」


 無限の力を扱えるのは、当人の肉体能力と意思が及ぶ範囲のみである。

 たしかに精神や霊的エネルギーは無限であっても、物質の次元に顕現させる場合は『進化の法則』の制限を受ける。

 地球が微生物から始まって徐々に哺乳類が誕生していったように、無理がないように生命の進化は段階を経るようになっているのだ。

 人間が扱える力には、おのずと限界が生まれる。肉体も精神力も霊的進化にも制限がある。

 現状のサナには、これが精一杯。一気に急成長とはいかないのだ。

 展開するのに二秒もかかっていたら、突然の矢や銃弾は防げない。まだまだ課題が多いことがよくわかるだろう。



 が―――兄は大喜び。



「サナちゃん、すげー!! ちゃんと戦気を出せるじゃーん!! やっぱり天才だよなー! うおー、可愛いよぉおお! ぎゅっ! すりすりすりすりっ!」

「…むぎゅ」


 まだまだと言いながら、内心では頬ずりしたい気分で一杯であった。

 というか無意識のうちに抱きしめてスリスリしている。可愛くて可愛くてしょうがないのだ。

 やはり武人と一般人とでは差がありすぎる。強く抱きしめることも難しい。

 サナが因子を覚醒させて武人として強くなっていけば、気兼ねなく自然と接することもできるだろう。

 可愛い妹が自分と同じ世界に入ってきてくれたことが嬉しいのだ。

 たとえるのならば、もう何十年も自分がやっているオンラインゲームを、妹になった女の子が新しくやり始めたようなものだ。

 これは嬉しいだろう。ついつい面倒をみたくなるし、教えたくなる。教えたいことが一杯ある。

 だから今はもう最高の気分なのだ。ついついサナの戦気もじっくり見てしまう。


(ふむ、サナの戦気はまだぼんやりしているな。明度や彩度がそんなに高くないのかな? ただ、悪い気質は感じない。戦気は意思の力でもあるから、それが如実に表現されているんだろうな)


 サナの戦気は、薄ぼんやりとした桃色、といったところだろうか。マキのものと比べると明らかに色味が薄い。

 『意思無き少女』という異名の通り、彼女はまだまだ自分で意思を発することが苦手である。覚えたのは怒りの感情だけだ。

 『グラサナ・カジュミライト〈庇護せし黒き雷狼の閃断〉』には、アンシュラオンの意思力が内包されているので、危機的状況になれば強烈な力を発揮するものの、ペンダントの力無しではこれが本来の彼女の力だと思われる。

 魔獣相手にはそこそこ奮闘した彼女の戦気であるが、アンシュラオンから見れば物足りないのは仕方ないだろう。


(まあ、出せるだけでもいいか。これでようやくバッターボックスに立てる。試合に出れる。その意味は大きい)


 アンシュラオンが言ったように、レベルの高い実戦では百分の一秒でも無駄にできないので、現状では最低ラインに立っただけだ。

 野球でいえば、ようやくグローブとバット、ヘルメットを手に入れた段階にすぎない。

 スローイングやキャッチ、スイングはこれから覚えるのだ。ここからが大変である。


 しかし、サナの師匠となる男は―――アンシュラオン。


 覇王の下で修行した最強の因子を持つ男だ。その力がサナに与えられると思うと今から楽しみである。



「いいかい、サナ。戦いで重要なのは『戦気術』だ。戦気術ってのは文字通り、戦気を自由に扱う術のことだ。戦気を出すことは当たり前で、それをさらに自由自在に動かすことで戦いを有利にしていく。だから戦気術をいかに素早く無駄なく使えるかが大切になるわけだ。それで生死が決まるからな。絶対に鍛練を疎かにしちゃいけないぞ」

「…こくり」


 アンシュラオンいわく、【戦いの真髄は戦気術】にある。

 たとえば練気が上手い人間は戦気の発動速度が速いので、雑な戦気術しか使えない一段上の相手にも勝つことができる。

 それはすなわち、【技の発動速度が上がる】ことを意味するからだ。

 蒸滅禽爪《じょうめつきんそう》のような形状変化の技は、戦気術が上手いと特に発動が早くなる。

 相手より先に攻撃を出すことができれば有利になるし、相手の技を見てからでも間に合うようにすれば、あらゆる状況に対応することが可能だ。

 単純な攻撃や防御にも、基礎となる戦気術の効果が如実に出る。どんなに戦気量が多くても、それを実際に扱えなければ意味がないからだ。


「今は戦気が使えるだけでもいい。使っている間に慣れてくるだろう。じゃあ、次のステップに入ろうな。身体に展開した戦気を、今度は手に集めるんだ」


 アンシュラオンが体表を覆っている戦気を手に集めていく。

 それによって戦気は一点に集中して、さらに強い輝きを帯びた。


「これが戦気の『集中』だ。全体に広げて維持するのと同時に、こうやって瞬間的に集められるようにならないといけない。攻撃の時は、だいたいどこかに戦気を集めるもんだ。拳や足とかにね。ほら、お兄ちゃんがやったように手に集めてごらん」

「…こくり。ぐぐ」


 ゆるゆるゆるっ

 サナも見よう見まねで自分の手に戦気を集中させていく。

 まるでスライムのようにウネウネ蠢き移動し、ゆっくりと集まっていった。


「おっ、そうそう。いいぞ! それを維持してごらん」

「…こくり」


 ゆらゆら ぼぼっ

 サナの手に戦気がとどまって燃えている。身体全体に覆っていた時より強い力を感じる。

 その代わり、それ以外の場所からは戦気が消えてしまった。一つに集中することに夢中で他の場所に意識が向かなかったのだ。


(体表の戦気を維持するまではできないか。しょうがない。オレはすぐにできたけど、一般の武人の様子を見ている限り、十年くらいかかるみたいだからな)


 戦いの際は身体を戦気で覆いつつ、部分的に戦気を集中して戦うのが一般的だ。

 殴る場合は、当然ながら拳に戦気を集中させる。かといって身体の防御を全部なくすと問題なので、そちらも維持する必要がある。

 あとはその按配《あんばい》、バランスの問題であるが、初心者はとかく集中に夢中になって他が疎かになることが多い。

 サッカーも素人がやると団子サッカーになって、他のスペースががら空きになる。

 もちろん団子サッカーが全面的に悪いわけではないので、時には戦気を一点に集中して博打に出ることもある。


 が、基本はバランス重視が一番いい。万一反撃を受けたときの命綱になる。


 アンシュラオンは生まれ持った資質と、以前の人生で培ったバランス感覚を持っているのですぐに対応できたが、普通の人間ならば十年はかかる道である。

 何事も職人の道は最低十年といわれるが、十年経つと全体がよく見えるようになってくるのだ。それが一人前の証でもある。

 ただこれも一人前になっただけであり、二流、一流、超一流となるには、さらに二十年、三十年、あるいは五十年以上の月日が必要だろう。長生きの武人ならば二百年経っても道半ばかもしれない。

 そこに才能の問題もかかわってくるのだから実に奥深いものである。


(だが、集めることはできるな。初心者でこれだけできれば十分だ! すごいぞ!! サナ!!)


 サナの場合はまだ集中そのものを学ぶ段階なので、今のところはこれでいいだろう。こちらもできることが重要である。


 集中ができれば、次はこれだ。


「集めた戦気を土台にして、さらに力を集めるんだ。こんなふうに」


 ボボボッ ボオオ

 掌に集まった戦気が、さらに巨大なものとなっていく。

 最初のものが『燃えている』と表現するのならば、こちらは『燃え盛っている』というべきだろうか。明らかに質量が異なる。


「これが戦気の『強化』だ。一点に集めた戦気に新しい戦気を加えて強くするんだ。技を使う際は、この強化の程度によって威力も変わるんだぞ」


 『集中』が展開している戦気から割り振るのに対し、『強化』はさらに新しい戦気を練り上げて威力を上げる戦気術である。

 その分だけ上乗せするので、当然ながら新しく戦気を練り上げねばならない。

 自分の戦気を維持しながらも練気を使って上乗せする。落ち着いているときにやるのは簡単だが、戦いながらこれをやるのは難しい。


「ほら、やってごらん」

「…こくり。ぐぐぐっ」


 サナが身体に力を入れながら、手の戦気に『強化』を施す。

 ぼぼぼっ むくむく

 火は強く大きくなったものの―――


「…ふー、ふー」


 サナの呼吸が荒い。

 戦気を維持しながらも追加していく作業である。集中力の維持と練気を同時にやるのだから疲れるのは当然だ。


「いいぞ。その調子だ。それを拳に維持したまま叩きつけるんだ。甲冑を出すから実際にやってごらん」

「…こくり」


 アンシュラオンがポケット倉庫から全身鎧をサナの目の前に出し、それを命気で地面にしっかり固定する。

 このままだとちょっと背が高いので、胴体の部分だけをサナの身長、拳が届く場所に配置する。


「お兄ちゃんと同じ構えをするんだ。腰を軽く落として右手を引いてー」

「…こくり、ぐっ」

「抉るように打つべし!!」

「…こくり」


 ドンッ!!


 サナの拳が甲冑にヒットし―――


 ベコンッ


 へこむ。

 拳が甲冑にめり込み、金属製の鎧の胸付近を大きくへこませた。


「おっ、すごいぞ! もし中に人がいたら胸部骨折は間違いない。このあたりは一番頑丈に造られているはずだから、そこそこの威力だな」

「…こくり」

「いいぞいいぞ、この調子で次は虎破でも教えて…と、サナ。血が出てるな」


 ぽた ぽた

 甲冑を叩いた時に皮が剥けたのだろう。拳から血が垂れていた。

 いくら戦気で強化していても、まだまだ小さな女の子だ。むしろこんな小さな子が、拳で金属製の鎧をへこませるほうがすごいのだ。


「すぐに治してやるからな」


 じゅわわっ

 アンシュラオンが即座に命気で拳を治す。本当ならば、そういったことの対処も勉強にはなるのだが、今は数をこなすことが重要だ。

 多少の怪我くらいならばさっさと治してしまって、何度も何度もやったほうが効率的であろう。


「治ったな。じゃあ、もう一度だ」

「…こくり。ぐっ」


 ドンッ べこんっ ぽたぽた

 ドンッ べこんっ ぽたぽた

 ドンッ べこんっ ぽたぽた


 甲冑を殴るたびにサナは拳を怪我する。そのつどアンシュラオンが命気で治す。

 それでもまったく躊躇なく打ち続けるのであった。




358話 「サナの戦気術修行 中編」


「一度止めよう。鎧が壊れそうだ」

「…こくり、はー、はー」


 サナが百回鎧を叩き潰したあたりで、一度休憩が入る。

 鎧がへこむたびにアンシュラオンが内側から直していたのだが、さすがに叩き続けてベコベコになってきた。

 ここまで傷んだものは、使い捨てのスクラップ用として大技の実験台に使えばいいだろう。

 サナのためならば金は惜しまないので、改めて練習用の新しい鎧を買ってもいいし、あるいはまた倒した相手から奪えば経済的である。


「…ふー、ふー、ふーー、ふーー」


 さすがに百回も戦気を放出して殴ったので、サナの疲労はかなりのものだ。

 立っているだけでもやっとで、身体を揺らしながらふらふらしている。極度の疲労状態に陥っているようだ。

 戦気を使った時の疲労感を上手く表現するのは難しいのだが、展開している箇所に常時神経が向いている状態だと思えばいいだろうか。

 たとえば、壁に黒い点を描いた紙を張って、じっと見つめる。

 それだけでも目の神経は疲れるし、心のほうも疲労を覚えるだろう。感覚的には、あれに似ている。

 さらに生体磁気を使うので、それをフィットネスバイクに乗りながらやるようなものだ。

 もちろん『集中』や『強化』を行う際は、全力でペダルを漕がねばならない。

 それを百回も続けたのだから、体力と精神力、神経を著しく疲弊するのは当然だといえる。


 そして、この状態から自力で回復することも重要な訓練となる。


 荒野や戦場では、疲れているからといって誰も労わってくれない。生き残るためならば、そこからの回復方法も学ばねばならないのだ。


「サナ、疲れている時こそ呼吸を大事にするんだ。人間が呼吸から得ている力は酸素だけじゃない。生命素も同時に補給しているんだ。この呼吸、練気が日常的にできるようになると常時生体磁気が活性化するようになる。それはつまり細胞が活性化することと同じだから、結果的に長寿にもなるんだ。歳を取りにくくなるってことだな。それはオマケ効果としても、重要なことは疲労もすぐに取れるようになるってことだ」

「…こくり、はー、はー」

「ほら、呼吸だ。すー、はーーー、すー、はーーー、すー、はーーー」

「…こくり。すー、はーーー、すー、はーーー」

「最初は息を大きく吸ってもいいからな。しっかりと呼吸をすることが重要だ」

「…こくり。すーーーー、はーーーー、すーーーーーーはーーーーー」


 言われた通り、サナが深呼吸をする。

 息が荒いときはどうしても「ぜーはー、ぜーはー」したくなるが、意図的に腹式呼吸をしたほうが力を多く取り込むことができる。

 極度の酸欠状態のときは例外としても、結果的にはこちらのほうが疲労回復につながるのだ。


「…すー、はーーー、すー、はーーー」


 次第にサナの呼吸が落ち着いてきた。心音も安定し始める。

 これを続けていくと心肺機能も向上して疲れにくい身体が作れる。その繰り返しで体力も養うことができるだろう。


「『練気』は戦気術の基礎中の基礎だ。基礎が一番大事だから絶対に疎かにしちゃいけないものなんだ。基本を抑えれば、どんなことにも対応できるようになるからな。もちろん才能も重要だけど、そればかりはどうにもできない。ならば自分にできることを続けていくしかない。特に戦気術に関しては全部努力で何とかなる領域だ。それを怠ったやつに強いやつは一人もいない。わかったか?」

「…こくり、すーはーーー、すーはーーー」

「よし、いい子だ」


 意外なことにアンシュラオンが重視するのは、基礎と基本である。

 どんな分野でもそうだが、一流になればなるほど基礎を疎かにする愚か者はいない。

 たとえば素人には訳のわからない絵を描く画家も、普通に模写をやらせると怖ろしいまでに上手く描く。

 基礎が普通にできてこそ、初めて次の段階にいくことができるのだ。

 先に我流で個性を磨き、それから基礎に行く者もいるが結果は同じである。最終的には基礎を修めねば先に進めないようになっているから不思議なものだ。

 我流も突き詰めていけば合理的な基礎の理論に行き着くわけだ。基礎とは、体系化された効率的な手法を意味するからである。


 その中で特に練気術は、才能がなくても極めることができる大事な要素である。


 ラーバンサーもそうだったが、才能がなくても努力で補える範囲がある。

 逆にいえば才能では上位の存在が山ほどいるのだから、せめてそれくらいは修めねば話にならないともいえる。

 ただ、それをつらい修行にしなくてもいい。

 ゼブラエスのような極度の死闘鍛練を好む脳筋ならばともかく、呼吸と戦気の移動操作くらいならば日向ぼっこがてらにもできるので、毎日自然とやってみればいいだろう。

 そうした習慣を身につけさせることもサナには重要なことである。


「次の修練にいきたいが…そろそろ飯の時間だ!! 昼ごはんを食べにいこうな!」

「…こくり」

「俺はここから跳ぶけど、怖いからサナは半分くらいから跳ぼうな」

「…こくり」

「じゃあ、いくぞー」


 アンシュラオンが今いた場所から―――ジャンプ


 ヒューンッ スタッ


 地上五十メートルから降りても、まったく音をさせずに着地。

 なんと、地面すらほとんどへこんでいない。衝撃のすべてを膝などの関節で吸収してしまったのだ。

 これだけの運動エネルギーを軽々と受けきる身体に加え、衝撃を逃がす技術は達人と呼ぶのも失礼だ。呼ぶなら【超人】が相応しい。

 ちなみにアンシュラオンたちがいた場所は『第二城壁の上』である。

 この都市でもっとも高い場所の一つにいたのだから、日差しが気持ちいいのは当然だ。今は昼時なので、むしろ暑いくらいの日射が降り注いでいる。


「サナ、気をつけるんだよ。自分のタイミングで跳んでごらん」

「…こくり」


 次に半分のところまで降りてきたサナが、同じように跳ぶ。


 ヒューーーンッ ドンッ ごろごろっ


 足から着地はできたが衝撃を逃がすことはできなかったようだ。そのまま倒れて転がってしまった。

 だが、アンシュラオンは慌てない。


(戦気を放出していたからダメージも三割以下になっているはずだ。それに、着地後に転がったということは衝撃を逃がそうとした証拠でもある。今のサナならばこれくらいが限界かな)


 サナは戦気を使っていたので、すべてのダメージが軽減している。慌てる必要はないのだ。

 二十五メートルという高さはビルの八階に相当するので、一般人ならば死ぬ可能性もあるが、武人にとってはそこまで恐怖ではない。

 サナくらいの実力で考えれば、感覚としては二メートル半くらいの高さの壁から飛び降りるようなものだろうか。(それでも怖いが)


「サナ、無事か?」

「…むくり」


 アンシュラオンが転がったサナに近寄ると、すぐに立ち上がった。

 やはり致命傷にはなっていない。が、一応診察する。


「見せてごらん。ふーむ、膝と足首が傷んでいるが…捻挫まではいっていない。初めてにしては悪くない動きだが、衝撃の吸収も本格的に教えたほうがいいな」

「…こくり」


 ごぽごぽっ じゅわ

 サナを再び治療。怪我が治る。


「大丈夫か? ちょっと跳んでごらん」

「…こくり、ぴょん」


 サナは元気にぴょんぴょんと跳んでみる。特に異常はなさそうだ。

 アンシュラオンの命気がある限り、サナはいつだって全力で戦い続けることができる。

 いちいち休まねばならない普通の武人と比べると、何倍、何十倍もの鍛練を積めるということだ。

 物事の習熟度は、基本的に反復によって上がっていく。

 よく一万回繰り返せば誰だって結果が出るといわれるが、基礎を教わったうえでそれをやれば効果も抜群だ。

 こうやって何度も何度も何度も高い出力の修練を積めば、強くなるのは当たり前である。これだけでもサナは他の人間よりも圧倒的に有利なのだ。




 それから二人は一般街のほうに歩いていき、大衆食堂に入る。

 ちゃんとした家屋ではなく、屋台とオープンカフェが合体したようなアジアによくあるスタイルの店だ。

 昼時なのでアンシュラオンたち以外にも多くの客がいて賑わっている。


「おっちゃん、いつもの二つね」

「おっ、また来たか。すぐに出してやるから待ってな」

「サナ、座って待とうな」

「…こくり」


 アンシュラオンとサナは、空いている席に座る。

 しかし、ただ座っているのももったいない。ここでも修行はする。


「いいかい、どんなときも周囲の警戒を怠っちゃいけないよ。心を落ち着けて呼吸しつつも、常に感覚を伸ばして周囲と同化するんだ。ほら、少しずつ自分の意識が分かれていって、他の物質の視点が見えてくるだろう? これを戦気術『同心《どうしん》』と呼ぶ」


 戦気術、同心《どうしん》。

 自分の呼吸を整え、周囲全体に視線と感覚を合わせ、あらゆる環境に適応する基本の技である。波動円は、これに戦気を加えて拡大強化することで生み出される。

 この同心の内容をよくよく分析してみると―――


 心を落ち着かせ、よく周りを観察し、どこに何があるかを覚え、常に把握する。


 と言っているだけなので、べつに武人でなくても普通にできることだ。

 オーラはすべての生命に存在するものである。それを知っていれば常人でも感覚を伸ばすことは難しいことではない。

 これに慣れれば、瞑想時のように意識がいくつかに分裂したような感覚に陥り、まるで自分が背後にある石と同化したような気分になる。

 すると、石の近くにある生物や物質の気配がなんとなく感知できるようになる。その感覚をマスターすることで波動円の効果を最大限発揮することができるようになるのだ。


 また、これは心を落ち着けていなければできないことである。

 多くの者は静寂の心を忘れてざわついた生活を送っているので、この境地に至る者もそう多くはない。

 それができる者とて、心に悩みや迷いがあれば囚われてしまって、ついつい無防備になるものだ。

 同心は心の静寂をもたらす技術でもある。いついかなる時も常に心を平静にして準備を整えておくことが重要だ、という教訓を説いてもいるのだ。

 波動円も重要な戦気術なので是が非でも教えたい技の一つだ。その準備段階として同心の修得は必須である。


「あまり警戒しすぎても駄目だぞ。何も知らない人間からすれば、なぜか緊張しているやつがいれば自分から怪しいと言っているようなものだからな。あくまで悟られない程度に自然に感じるんだ」

「…こくり」

「まあ、サナの場合は大丈夫かな。邪念がないしね」


 サナはアンシュラオンに言われた通りにやる。それ以外のことをしない。

 良くも悪くも心は常に静寂なのである。


「…ぴく」


 そして、サナが背後から来る者の気配を察知する。

 少し腰を浮かせて、いつでも動けるような状態をキープ。


 ただしここは店なので、来たのは当然ながら―――



「お待たせ! できたぜ!」



 料理を運んできた店主であった。

 サナはそれを知って腰を元に戻した。それでもまだ動けるように意識はしている。


(よしよし、ちゃんと言われた通りにやっているな。いつでも動けるようにするのは大切なことだ)


 綺麗な歩き方講座では膝を伸ばすように説いているが、安全を考慮するのならば、歩いている時もできれば膝は少し曲げていたほうがいいだろう。

 もちろん、いざというときに反動をつけて跳躍できるようにするためだ。

 昔の日本人は腰を落として重心を低くする歩き方が一般的だった。そのほうが危険に対処できるからだ。

 今の日本でやっていると怪しい人なので、それこそ周囲をよく見て使ったほうが無難であろうが、そういう動作を見れば武道をやっているかどうかがわかるのだ。


 ともかく食事が来たのならば、おとなしく楽しむのが礼儀であろう。


「サナ、ラーメンができたぞ。食べような」

「…こくり」

「だからそれはラーメンじゃねえって言ってるだろうが」

「だって、見た目は完全にラーメンだからね。ラーメンでいいじゃん」

「ああ、もう。何でもいい。さっさと食え食え! 熱いうちに食え!」


 アンシュラオンたちに運ばれてきたのは、見た目は完全にラーメンの食べ物だ。

 一応店主は何か料理名を口走っていたが、ラーメンにしか見えないのでラーメンと呼んでいる。

 このラーメンであるが、転生中国人が建国した『大陸』にはちゃんと『中華そば』風の食べ物が伝わっているらしい。

 この店も大陸のものを真似て作っているので厳密な意味でのラーメンではないが、ここでも麺類が食べられるのは嬉しいことであろう。


「餃子も早くね」

「だからギョーザじゃねえよ」

「ずるずるずる。うん、ラーメンは美味いな! オレは米も入れよう。どぷんと」

「…ずるずるー」

「あー、まったりだなぁ。幸せだなぁー」


 仕事に追われるでもなく、昼飯に何の気兼ねもなくラーメンを食べるなんて、これほどの幸せはないだろう。

 流れる風も心地よい。実に良い日である。




359話 「サナの戦気術修行 後編」


「それじゃ、ごちそうさんー」

「おう、またいつでも来な」

「そうするよ」


 食事が終わったアンシュラオンとサナは、店を出る。

 腹も膨れて気分はさらに爽快である。このままゆっくりしたいところだが、サナを強くするための鍛練を欠かすわけにはいかない。

 今のアンシュラオンにとって、すべてはサナのために存在しているのだ。


「さて、どうしようか。また城壁の上でもいいけど、鎧がべこべこになっちゃったし…一度『あそこに』戻ろうか。あそこならいろいろ壊しても大丈夫だもんな。思う存分特訓しよう」

「…こくり」



 二人は再び第二城壁にまでやってきて、おもむろに登り出す。


 特に階段などはないのだが、岩のわずかな窪みに指を引っ掛け、すいすいと登っていく。

 サナもそれを見よう見まねで、すいすいとはいかないが登っていく。

 当然ながら城壁は簡単に登れないように表面がツルツルに造られている。普通の人間が登ろうとしても取っ掛かりがないので、すぐに落ちてしまうだろう。

 ただ、武人ならば常人とは握力が違うし、指の第一関節で全体重を支えることも容易だ。

 さらに城塞都市なので、第一城壁と第二城壁の内側は多少ながら上に登りやすく造られている。敵が登ってきた場合に城壁上で迎撃する必要があるからだ。

 そのため武人初心者のサナでも、がんばれば登ることができる。


(いやー、ほんと成長しているよな。こうやって一緒に登れるなんて夢みたいだ。これだよ。これを求めていたんだ)


 兄の後を一生懸命追う妹の、なんという愛らしさか。こんな意味のない行動でも楽しいとは実に幸せなことだ。

 もっともっとサナを強くしてあげたい欲求が高まっていく。


「…ぐい」


 サナが城壁を登りきる。

 それから軽いジョギングで第三城壁側の端に向かう。

 一番厚みが薄い城壁でも幅が一キロはあるので、なかなかよい食後の運動になるものだ。

 今のサナならば息切れすることなく軽々と走れる距離だろう。


「と、そうそう。仮面を被っておこうな」


 端まで到着すると、アンシュラオンは仮面を取り出した。


(どうせ顔なんてバレているっぽいけど、一応は隠しておくか)


 マングラスの情報力を考えれば、さすがに写真はないにしても、おおまかな顔立ちくらいは把握しているはずだ。

 「白い髪に赤い目のすごい美少年」という情報だけでも十分判別可能だ。アンシュラオンはどこにいても目立つのである。

 ただ、自分の中の区切りとして仮面は必要だと考えている。この戦いが終わるまではホワイトであらねばならないのだ。

 それが終われば、すっきりした気分で仮面を脱ごうと決めている。


 二人は仮面を被り、再びホワイトと黒姫に戻った。


 そこからまた―――ジャンプ。


 ヒューーンッ ぼしゅっ ピタッ


 第三城壁内部の茂みの中にアンシュラオンが舞い降りる。

 草木に舞い降りたはずだが、着地の際に戦気を軽く放出したので、周囲のものは消滅してしまって音を発しなかった。

 命気を使えば影響を与えずにそれが可能だが、今回はサナの見本になるためにあえてやった次第である。


 が、まだ『放出』まで教えていないので―――


 ヒューーンっ バキバキバキッ


 盛大に枝が折れる音をさせながら、サナが落下してきた。豪快なジャンプである。


「大丈夫か?」

「…こくり」


 サナは普通に立っていた。特に擦り傷も負っていない。

 草木がクッションになったおかげで、さきほどよりはダメージはないようだ。

 すでに一度経験したので、飛び降りるタイミングを理解したのかもしれない。そのあたりはさすがである。


「すぐに『放出』も教えてあげるからな。だが、まずは基本の反復だ。いいか、同心を使いながら気配を殺して、この森を移動するぞ。周囲のチェックを常に怠らないようにするんだぞ。当然だけど普通に音を立てても駄目だからな」

「…こくり」

「じゃあ、やってごらん。周りに敵がいると思って動くんだよ」


 第二城壁の東門付近から北側には、かなりの範囲で森が広がっている。

 さすがに荒野にあるような鬱蒼としたものではないが、それなりに深い森なので隠れて移動するにはもってこいの場所だ。

 もちろん、ここでも修行を忘れない。


 すっ すっ すっ


 サナは森の中を極力音を立てずに、抜き足差し足で静かに移動する。

 ここでは実際に身体を動かしながら同心を行うため、身体と心の両方に意識を集中させねばならない。難易度もさらに上がっていることだろう。

 枯れ草一つ踏んでも音が出るので、それを避けて歩かねばならないのだが、森の中なので音が鳴るものはたくさんある。落ち葉、根っこ、枝、すべてが面倒な障害物だ。

 それを避けようとしても、今度は足元ばかりに注意が向いてしまって周囲の確認が疎かになる。

 そのせいでサナの足取りはかなり遅かった。


(この鍛練には、同心をフル活用する必要がある。足元を見ないでも何があるかを感覚で察するんだ。要領はサッカーと同じだな)


 サッカーは当然ながら足元を見るわけだが、一流選手になると足元を見ないでも卓越したボールタッチができる。

 その間に周囲が確認できるので、非常に広い視野を確保することができる。今回の鍛練も要領はそれとまったく同じだ。

 ただ歩くだけでも無駄にしない。武人にとっては生活のすべてが貴重な修練の場となる。


(ここはいいなー。安全を確保しつつも、すべてがサナの訓練になるぞ)


 苦戦するサナを見て、アンシュラオンは満足そうに笑う。

 やはり自然の中が一番訓練になる。あらゆるものが予測不能だからだ。

 本当は魔獣が跋扈《ばっこ》する危険な地域のほうがいいのだが、今のサナのレベルを考えると危険のほうが大きい。

 まずは街中という安全な場所でありながらも、一応狙われているという微妙な状況が最適な修行環境条件を生み出すのだ。



 そして、サナが東に二キロばかり歩いた頃、木々の隙間から石で出来た大きくて無骨な建造物が見えてきた。


 大きさは十階建てのビルくらいであろうか。ただ、正方形状で幅はかなりあるので、ここから見ていてもどっしりとした重厚感を醸し出している。

 その建物の周囲は何もない荒地で、とても見晴らしが良い。そのまま行けば簡単に人目についてしまうような場所であった。

 ここでもサナの修行は続く。

 次の目標こそが、あの建物なのだ。


「あそこに誰にも気付かれずに到達するには、どうすればいい? ここはかなり開けた場所だ。障害物はない。夜ならば誤魔化せるが、今は昼間だ。さすがにこのまま強行突破は難しいぞ。どうやってあそこまで行く?」

「………」


 茂みに身を潜めたサナは、じっと建造物を見ながら黙って考えている。

 ここから建物までの距離は、およそ百五十メートルといったところだろうか。

 建物の周囲には、見張りの衛士たちがいる。その数は多くはないものの、これだけ開けた場所ならば誰かが移動してくればわかるだろう。

 アンシュラオンのように超高速移動が可能ならば、常人の目に留まることなく一足で到達可能だが、サナの足では見つかる可能性が高いはずだ。

 彼らに見つからずにどう移動するか。これが今回の課題だ。


(サナは感情が乏しい代わりに頭がいいが、いろいろな状況に対応できるまでにはなっていない。どんどん経験させて引き出しを増やしてあげるべきだろう)


 サナは今までアーブスラットの裏をかくなど、かなりの奮闘をしている。

 しかしながら、そういった機転の多くは「一度見たもの」ばかりだ。

 アンシュラオンがやっていたり、彼と戦った者がやっていたことを見て覚えたものが大半である。

 逆に言えば、自分が見ていない初めてのものは、真似できないし対応できない。

 それに気付いているアンシュラオンは、こうしてサナに自分で考えさせるようにしているわけだ。


(これだけ広い場所ならば同心の練習にもなる。常に周囲をうかがう必要があるからな。さて、サナはどうするか…おっ、何か見つけたか?)


「…じー」


 しばらく考えていたサナが、どこか遠くの一点を見つめている。



 アンシュラオンもそこに視線を向けると―――『馬車』があった。



 ここから少し離れた森の中に五台の馬車が置かれている。

 荷台には木材が載っているので、もしかしたら伐採あるいは枯れ木の集積を行っていたのかもしれない。

 グラス・ギースでは緑は貴重であり、基本的に都市内部での伐採は最小限にとどめるため、おそらくは後者だと思われる。

 その馬車はすでに満載かつ馬もしっかりといるが、特に見張り番も付けずに放置されている状況であった。

 サナはそれに目をつけたらしい。


「…こそこそ」


 さっそくサナが動き出す。茂みに隠れながら馬車の近くに接近する。

 誰が潜んでいるかもわからないので、念のために周囲を警戒しながら進んでいく。


「…きょろきょろ」


 今まで培った技術によって周囲に人がいないことを確信。


 すぐさま一台の馬車に近寄り―――


 バキッ


 荷台の車輪の片側を破壊した。

 車輪は木製だったので、戦気で強化すればサナの腕力でも簡単に破壊できる。

 完全には壊さず、シャフトの根元の部分がかろうじてつながっている状態にとどめるように半壊させる。


 バキンッ バキンッ バキンッ


 続けて三台、計四台の馬車の車輪を破壊していく。

 パシャパシャッ

 そのついでに、ポケット倉庫から何かを出して荷台に振り撒いていた。


(ほぉ、馬車を使う気か。なかなか面白いことを考えるな。とりあえず好きにやらせてみよう)


 アンシュラオンは黙ってサナのやり方を見守ることにした。

 どんなやり方であっても、彼女が自ら考えてやろうとしたことだ。自主性を尊重すべきだろう。


「…かちゃかちゃ」


 それから休んでいた馬にハーネスをしっかり固定させてから―――刺す。


 ブスッ



「ヒヒッンッ―――!!?」



 まったく躊躇なく、取り出したダガーで馬の尻をぶっ刺した。

 そのショックで馬が跳ね起きる。


「…ぶす」


 馬が状況を認識する前に、さらに刺す。

 ブスッ!


「ヒヒンッ!!!」


 ガタガタガタッ!!

 いきなり刺された馬はたまらない。当然逃げようと荷台を引きながら動き出す。


「…カチカチッ」


 馬車が動き出す前に、サナが火付け石で火花を散らす。


 ボボッ ボォオオオオッ


 すると火花は荷台に積まれていた木材に引火し、一気に燃え広がった。

 普通はこの程度では燃えないので、さきほど荷台に撒いたのは『油』であったことがわかる。

 その炎に驚いた馬が、まさに尻に火が付いたように走り出していく。


 サナはその後、他の三台にも同じことをした。

 これによって荷台に火が付いた馬車四台が、誰も乗せずに四方八方に走り出すという状況に陥る。

 そして、最後の一台の馬も仲間の異常な状況に興奮して、逃げるように走り出した。


「…さささっ」


 その瞬間、サナは五台目の馬車の荷台にさっと乗り込み、手綱を手に取りながら身を屈めて隠す。


 ガタゴトガタゴトッ ガタゴトガタゴトッ

 ガタゴトガタゴトッ ガタゴトガタゴトッ


 混乱して本能のままに走っていく馬を手綱で制御しながら、サナの馬車はさきほどの建造物に向かっていく。

 この五台目の馬車は車輪が正常なので普通に進んでいくが、他の四台は違う。


 最初に出立した馬は森を抜け、広い荒地をある程度進んでいくと―――


 バキンッ ごとんっ


 あらかじめ破損させておいた車輪が外れ、馬車が傾く。

 それに負けじと馬も動くのだが、車輪が外れた状態では上手く進めない。だが、背中では火が燃え続けているという状況になり、ますます馬はパニックに陥る。

 同じ箇所をぐるぐる回ったり、口に泡を吹き出しながら踏ん張って必死に逃げようとする。


 それを続けていくと―――横転。


 ドザザザザッ

 引火した木材が地面にぶちまけられる。

 それが荒地でならばまだよかったが、他の二台の馬車は森の中で横転して火が周囲に燃え移っていき、黒い煙が上がった。


「なんだ…? おい、何か様子が変だぞ!」

「煙!? 火事か!?」


 その怪しい煙に建造物の見張りも気付く。


「大変だ! あっちでも馬車が燃えているぞ!! 早く止めろ!!」


 建造物の見張りが彼らの役割とはいえ、目の前で起こった事件を放置しておくことはできない。

 衛士たちは大慌てで馬車に駆け寄り、馬をなだめようとする。

 だが、傷と炎で興奮している馬車はなかなか止まらない。激しく暴れながら走り回る。

 しかも四台がバラバラに走って混乱を撒き散らしているので、衛士たちは分散して対応にあたらねばならなかった。


 一方、サナが乗った五台目の馬車は、まっすぐに例の建造物に近寄っていた。

 ただし、すでに他の衛士の視界に入り、捕捉されている。

 まだサナ自身は見つかってはいないので「あっちにも馬車がいるぞ」程度の認識である。

 だから、そのまま突進することはしない。


 バキンッ ドサドサドサッ


 サナが意図的に荷台を破壊すると積荷が落ちる。それに紛れながらサナも一緒に地面にダイブ。

 戦気で身体を防御しているので、馬車から落ちたくらいではそうそうダメージは受けない。見事に積荷に紛れて落下に成功する。

 そして、落下の前に馬車には『とある物』を仕掛けていた。



 チッ チッ チッ チッ チッ




―――ドーーーーーンッ




 しばらく馬車が進んだところで―――爆発。


 荷台に仕掛けられた大納魔射津が発動し、馬ごと荷台が吹っ飛ぶ。


「なんで爆発したんだーーーー!!!?」


 怪訝そうに馬車を見ていた見張りの衛士の一人が、突然の爆発に驚く。

 他の衛士たちも爆発音が聴こえた方向に目を向ける。


 これによってほとんどの人間の視線が―――【浮く】。


 人間は何かに集中すると他が見えなくなるものだ。その間に財布をすられても気付かないほどに鈍感になる。

 それほどの異常事態に思考が追いつかないからだ。


 そして、ここがチャンス。


 その間もサナはじっと木材に埋もれて気配を殺しており、同心を使いながら周囲の様子を事細かく感じ取っていたのだ。


「…さささっ」


 その場にいたすべての人間の視線を盗み、静かに建造物の死角に走りよっていく。

 もともと建造物の入り口は一つしかない造りなので、建物の裏側、北側にあたる場所には警備の者はいない。

 そのあたり一帯がちょうど日陰だったことも幸いし、サナの黒い姿が影と同化して裏側に消えていった。

 これによって誰にも気付かれずに建物に到着することができたのだ。


 サナ、無事に課題クリアである。



(ふむ、騒ぎを大きくして注意を引き付けている間に潜入、か。劇場型というべきか映画型というべきか。テロリストがよくやる手だな。…素晴らしい!)


 派手な囮で敵の注意を引き付けている間に本丸に突入する、というのはよくある戦術だ。

 静かに入り込むことができないのならば、こういった手段を取るしかないだろう。

 結果が伴ったこともそうだが、何よりも迷いがなかったことが素晴らしい。十分評価できる内容だ。


 しかしながら一番の被害者は、馬車の持ち主である。


 馬車はほぼ全部が破損しているし、爆発で吹っ飛んだ馬は挽き焼き馬肉になってしまっている。さらに積荷は燃えるで散々な結果である。

 持ち主も防犯意識が薄かったという過失があったことは否めないが、さすがにこれは不運としかいいようがない。

 一番悪いのはサナに課題を与え、このやり方を黙認(称賛)しているアンシュラオンである。この男の歩く道には災いが降り注ぐのだ。

 運が悪かったと諦めるほかはないだろう。




360話 「アンシュラオンの収監事情 前編」


 サナが建造物に無事到着。

 それを見たアンシュラオンは、高速移動で一瞬でサナに追いつく。

 まだまだサナの修練は始まったばかりだ。自分と同じことができなくてもいい。今回はこれで十分合格にしておくべきだろう。


「また登るか」

「…こくり」


 アンシュラオンとサナは、裏側の壁から建造物の屋上に向かう。

 城壁より粗い石で造られているため非常に登りやすく、サナでも猿のように軽々と登っていく。


 ぐっ ぐっ ぐっ ぐい


 あっという間に屋上に到着すると、その中央部分には【穴】があいていた。

 本来ならば何もないはずの屋上、というよりは単なる岩の上部であるが、そこが円形状にくり貫かれているのだ。

 まるで鋭利な刃物で切り取ったかのように綺麗な切り口である。


 ぴょんっ


 アンシュラオンとサナは躊躇なくそこに飛び込み、中に入る。

 穴はトンネル状に造られており、配水管のようにいくつかの穴を潜り抜けると、一つの部屋に到着する。

 トンッ

 アンシュラオンが部屋に降り立つ。



「あっ―――!!」



 それと同時に人間の声が近くから発せられた。ものすごく驚いたような焦ったような声である。

 見ると、そこには一人の男が立っている。

 年齢は二十代後半くらいだろうか。衛士が身につけるような革鎧とともに、手には身長より少し短い棒、棍《こん》を持っている。

 その男がアンシュラオンを指差して驚愕の眼差しを向けていた。


「あっ、あっ!! あーーーー!!」

「なんだよ、うるさいな。大声を出すな」


 トンッ

 部屋に飛び降りたサナを見届け、声を出した男を一瞥する。

 だが、男が声を張り上げるのは至極当然だ。

 なぜならば―――


「う、うるさいな、ではない! どこに行っていた!! だ、【脱走】だ! これは脱走だぞ!!」

「べつに走ってないけど」

「ならば脱歩だ! 脱歩!」

「なんだよ脱歩って。というか、人の部屋に勝手に入るなよ。ほいっ」

「っ―――」


 アンシュラオンが掌を向けると、凄まじい衝撃波が発生。

 ヒューーーンッ ドガッ

 飛ばされた男が、向こう側の『鉄格子』にぶつかる。


「ぐ、ぐえぇ…」


 頭を打った男がそのまま昏倒する。



「黒姫、これが『放出』だ。集めた戦気を一定方向に噴出する技だな」


 ちょうどいいので、その男を実験台にしてみた。

 今やったものは相手を傷つけるためではなく、爆発させるように放出することで衝撃波を生み出すものだ。

 それでも普通の人間にしてみれば空圧の激流だ。

 受けた瞬間には足が浮いてしまい、そのまま流れに身を任せるしかなくなる。

 今度はそれをサナにやらせてみることにした。


「同じようにやってごらん。まずは手に『集中』だ。強化はいらないよ」

「…こくり。ぐっ」


 サナは戦気を展開して、一点に集める。

 ゆらゆら ゆらゆら ボッ

 手に集まった戦気が赤く燃えている。


「おっ、さっきより少しは滑らかで早くなったな! 百回修行した効果だぞ。なっ? 鍛練は無駄にならないだろう?」

「…こくり、ぐっ」


 サナも軽くガッツポーズである。

 集中と強化は戦いの基本なので、何度やっても無駄にはならない。やればやるほど上手くなっていくものだ。

 今回はスムーズに集めることができたので、燃え方もなかなか綺麗である。


「『放出』の感覚としては、そのまま外に押し出す感じかな。イメージが大切だぞ。本当にそうなったことを想像することで具現化されるんだ。集めた戦気が飛んでいく姿を考えながらやってごらん」

「…こくり。ぐぐぐ」


 サナが手に力を入れながらイメージを固めていく。

 ゆらゆら にゅぐぐ

 すると戦気がゆっくりと動き出し、前方に伸び始めた。

 だが、この段階ではまだ『展開操作』と変わらない状況だ。放出とは呼べない。


「ここで『部分強化』を使うと放出もしやすい。切りたい部分にだけ強く『強化』を施してごらん。爆発するくらいに強くだ」

「…こくり。ぐぐっ」


 サナが全神経を集中させて、長く伸びた戦気の中央部分に『強化』を施す。

 むくむくむくっ ぶくっ

 その部分だけ戦気が異様に膨れ上がっていく。まるで蛇が獲物を飲み込んで、お腹だけ膨れた姿に似ている。


「いてて…何が起こって…」


 その時ちょうど鉄格子に頭をぶつけた男が、ふらふらと立ち上がってきた。

 まったくもって間の悪い男というべきだろうか。彼が立ち上がった場所は、サナがまさに手を向けている先であった。


 サナの戦気が膨れて膨れて膨れて、それが最高潮にまで盛り上がると―――


 ボンッ


 鈍い破裂音のような音がした途端、戦気が前方に弾け飛んだ。



 それはふらふらと微妙に蛇行しながら男に向かい―――直撃。



「ぎゃーーーー!! あっつうううううう!!」


 サナの戦気の放出を受けた男が再び倒れ、ごろごろと転げ回る。


「ふむ、戦気の『維持』がまだ難しいようだな。バラバラに破裂しちゃったか」


 戦気の放出にもいろいろなタイプがあるが、今回の方法だったらまとまった戦気が飛んでいく「戦弾」になっていただろう。

 ただ、サナの戦気の『維持』の力、状態持続力が弱かったため途中でバラバラになってしまった。

 その結果、細かい火花となった戦気が男に降り注いだのだ。

 たとえるのならば、熱湯が入った水風船が目の前で爆発したようなものだ。

 それだけでも十分最悪であるが、幸いながらサナの戦気の威力が低かったため致命傷には至っていない。その点では運がよかったともいえる。


「放出の中には『拡散』という種類もある。オレが前にやった烈迫断掌《れっぱくだんしょう》もそうだし、水覇・天惨雨もその一つだ。それはそれで別途覚えておくべきものだぞ」

「…こくり」


 覇王技の烈迫断掌は、今サナがやったようなことを数百という単位で同時に行うものだし、水覇・天惨雨も肥大化した水気を爆発させて雨のように振り撒く技だ。

 どちらも放出の応用である『拡散』を使った技である。これはこれで修得が必要な要素であった。

 ただ、一応は放出もできることがわかっただけでも収穫だ。今後鍛練を続ければまともになっていくだろう。



「食後だし、少し休憩しておくか。しかしまあ、相変わらずここはむさ苦しいな。やっぱり素直に横穴をあけておこう」


 アンシュラオンが掌を奥の壁に押し当てると―――


 ドンッ ドボオオオオオッ


 突き抜けた衝撃が十数メートルの岩を破壊し、そのまま粒子状に粉々にして吹き飛ばす。


 そこには―――外の景色。


 明るい昼過ぎの青空が、はっきりと見えた。


「もっと広くするかな」


 それから破壊した壁の周辺を綺麗に抉り取っていくと、まるで新しい部屋ができたかのような大きな空間が生まれた。

 これならば外の景色が常時見えるので、星空を眺めることもできるだろう。

 アンシュラオンはそこにソファーも設置する。


「黒姫、おいで。いい景色だぞー」

「…こくり」


 二人はふかふかのソファーに座りながら外を眺める。

 普通の硬いソファーではなく、ソブカの家にありそうな高級ソファーだ。座り心地は最高である。


「おっと、そうだった。冷たいジュースでも飲むか」


 さらに壁を凍気で凍らせて冷やしておいた箱(擬似冷蔵庫)からジュースを取り出して、二つのワイングラスに注ぐ。

 それを優雅な動作で飲み干す。


「ごくごく。ふー、いいね。やはり冷たいのに限るよ」

「…ごくごく」

「外を見てごらん。まるで人がゴミのようだ。あんなにあくせく働いていたら、心ばかりが荒んじゃうよ。あー、やだやだ。ああはなりたくないね」


 外には、今しがた暴走していた馬車を片付ける衛士たちの姿があった。

 誰もが汗を垂らしながら必死に働いている。べつに自分たちのせいではないのに、なぜか後始末をさせられている。

 その姿は、まさに働きアリだ。


「キリギリスになかったのは【力】だ。力があればアリから奪うことも容易だった。いいかい、まずは何よりも力だ。金も力だが、できれば奪われにくい武力を得ることを最優先にするんだよ。自分を守るものは、何よりも武力だ。武力こそがこの世で第一に頼るべきものだからね」

「…こくり」

「ほんと、この都市は良い教育の場だなー。絶好の環境だよ」

「ちょっとーー! 何をくつろいでんの!! そのソファー、どこから持ってきたの!!」

「あんた、まだいたの?」

「いるわい!! ここがどこかわかっているのか!!」

「【収監所】だろう?」

「そうだよ! ここは【牢屋】で、お前は囚人なんだぞ!!」

「お前とか言うな。このやろ!」


 ブーンッ ゴンッ


「いったーーーー!!」


 アンシュラオンが投げたグラスが男の頭に命中。鈍い音が響く。


「見たか? コップが割れなかっただろう? 今のが放出系の基本技の一つである『維持』だ。自分の戦気を物質に分け与えて強化するだけじゃなくて、離したあとも一定期間持続させる技だよ。銃弾とかを強化する場合はこの技を使うんだ」

「…じー、こくり」


 商店街の戦いの際、アンシュラオンが戦気で強化した弾丸を放ったが、その際に使った基礎技がこれである。

 普通の人間もそうだが、手で触れたもの、近づいたものにはオーラが残る。

 超能力の一つに、物質に触れただけで触った人間の情報を読み取る『サイコメトリー』と呼ばれるものがあるが、それは触れた人間のオーラが付着しており、物質が情報を記憶しているからである。

 これは逆に言えば、物質そのものにも微弱ながらオーラが存在しているので、触れた者の磁気データをオーラ内に記録している、ともいえるだろうか。

 こうした原理を利用して、戦気を一時的に物質にとどめることで強化するのが『維持』、あるいは『持続維持』である。

 離れた戦気はそのままだと急速に力を失っていくが、それを上手くコーティングしたり染み込ませたりして持続させるのだ。

 これが上手い武人は、戦弾やら戦気銃弾などが得意な武人だといえるだろう。放出系の武人だということだ。



 と、そういえば、ここがどこかを明記していなかった。

 すでに名前が出ているのでわかるだろうが



 ここは―――収監砦。



 文字通り、罪人を収監しておく場所である。

 場所は第三城壁内部の北東。東門を出て北に進むと見えてくる一番端っこの砦だ。

 罪人を街がある第二城壁内部に置くわけにはいかないので、東門の外である第三城壁内部に置くのは自然なことであろう。

 ここからは北西門には行けないように窪みになっているため、脱出するには必ず東門近くの砦の前を通らねばならないようになっているし、そこから南門に行くにもかなりの距離がある。

 サナのように騒ぎを起こせばよいのかもしれないが、さすがに連続してあれだけのことをやるのは難しい。よって、収容所としては最適な場所といえる。


 そして、ここの持ち主は領主である。


 都市の治安を脅かした者を投獄するのだから、至極当たり前のことだ。

 となれば、目の前の男も衛士なのは当然として、さらにいえば『刑務官』である。収監砦内部の罪人を監視する役目の衛士だ。

 だが、アンシュラオンに出会ってしまったことが運の尽きだった。

 見てわかるだろうが、彼は収監当日から地獄のような日々を送っているのだ。



「ううっ…なんでこんな目に…」


 サナの戦気を受けた刑務官が、よろよろと立ち上がる。

 この男は真面目な人物らしく、こんな目に遭ってもまだ職務を遂行しようとする。


「こんな時間にどこに行ってたんだよ!! 捜したじゃないか!」

「昼だぞ? 昼飯を食うに決まっている」

「昼ごはんなら、ここで出るでしょ!! ほら、これ!! せっかく持ってきたのに!」

「ああ、このゲロみたいなやつか? そんなに言うなら、お前が食え!!」

「ぎゃーーーーっ、ごぼぼっ!!」

「どうだ? 美味いか? んん? 味わって飲めよ」

「げほげほっ…!! 飲み物じゃなーーーい!! それ以前に、なんですぐに抜け出すんだ!!」

「逆に訊く。いる理由があるのか?」

「あるでしょ!? 悪いことしたから投獄されたんだから!!」

「見解の相違だな。オレは悪いことなどしていない。悪いのはお前だ!!!」

「どういうこと!?」

「おい、タバコをよこせ。最高級品の葉巻を用意しろ」

「あんた何様なの!?」

「あ? 囚人様に決まっているだろう。調子に乗るなよ、こら!」


 ブーンッ ガスッ

 石が頭にヒット。


「いたーーーい!!!」

「むさ苦しいのが問題だが、まあ、悪くはないな。いてやるから感謝しろよ。ほらそこ、ちゃんと掃除しとけ。少しでも汚れていたら便所に顔をつっこんでやるからな。それと夕食はステーキとワインを用意しろ。それも極上の最高級品だぞ。わかったな。わかったなら帰れ」

「もう、なんなのこの人!! 檻の意味が全然ないじゃん! 檻自体がもうないし!!!」


 現在アンシュラオンは、某格闘漫画の死刑囚のような優雅な暮らしをしていた。部屋も牢屋とは思えないほど豪華な家具が並んでいる。

 しかも気が向いたら外に出て、また気が向いたら牢に戻るという悠々自適な生活を送っている。

 当然、サナも一緒だ。べつに彼女にまで拘束指令は出ていないが、アンシュラオンが手放すわけもない。

 捕まって馬車で連行されていたあの時も、少しでも馬車が揺れると「妹が酔うだろうが!」と衛士の頭を蹴っていたものだ。担当した御者は泣いていた。

 そして、アンシュラオンの牢屋の檻は、すでにサナの訓練によってボコボコになって原形をとどめていない。

 最初は天井に穴をあけて勝手に外に出ていたが、今やったように壁に穴をあけてしまったので、これを牢屋とはもう呼べないだろう。


 それとアンシュラオンの手には、手錠もなければヘブ・リング〈低次の腕輪〉もない。

 何度かヘブ・リングをはめられたのだが、ニヤニヤしながら、はめた瞬間に戦気を放出して破壊する嫌がらせを執拗に続けるので、それに関しても衛士は泣きながら諦めてしまったというわけである。


 今現在の衛士たち全員の声を代弁すれば―――



「もういいから、戻ってこないでくれよ!!」



 である。

 どうせ好き勝手外に出られるのだから、いちいち戻ってくる必要はないのに、なぜか戻ってくるのだ。

 こんな人間を収監するほうの身にもなってほしい。圧倒的な暴力の権化であるアンシュラオンは、その存在自体が迷惑なのである。




361話 「アンシュラオンの収監事情 中編」


 このようにワガママ暴力大魔王に、衛士たちが振り回されるのは当然である。

 しかしながら被害に遭っているのは衛士だけではない。

 ほかにいったい誰に迷惑がかかるのかといえば、ここがどこかを思い出してほしい。


 ここは―――収監砦。


 この場所の主役は衛士ではないはずだ。


 むしろ衛士たちより遙かに人口が多いのは―――【囚人】。


 もともと牢屋は乱暴者や規則違反者、あるいは殺人狂などの異常者を拘束隔離しておくための場所である。

 収監砦はそのために造られたので、当たり前の話だが中は囚人だらけだ。

 囚人の中にはたまたま罪を犯しただけで、まともな人間たちもいるが、基本的には「ろくでなし」どもの集まりである。

 普通の人間にとって刑務所に入ることは、そうした悪い連中と出会うことも一つの大きな恐怖になっているはずだ。


 だが、この男の場合は違う。


 爪も牙もないネズミの群れの中に、獰猛な虎が入り込んだようなものだ。



「次は『技』を教えよう」

「…こくり」


 アンシュラオンはサナを連れて収監砦の中を歩いていた。

 そして、手頃な場所を見つけて再び鍛練に入る。


「黒姫は剣士だから、あとで剣気の出し方も教えるけど、まずは無手でも最低限は対応できるようにしよう。幸いにも戦士因子が1ある。これは大きいぞ。0と1の差は絶大だからな。上手く力を引き出せば防御面がかなり安定する。それと同時に腕力も上がるし、何よりも『技』が使える」


 因子レベルが重要なのは、何度も言っているように技が覚えられるからだ。

 ユニークスキルを除き、覚醒値に応じて使える技は厳格に決まっているので、因子レベルは高ければ高いほどいい。

 何でも使えないよりは使えたほうがいいのだ。引き出しが多いほうが有利なのは、誰もが認めるところだろう。


「技はもう何度もお兄ちゃんのものを見ているな? 便利なものから一撃必殺のもの、周囲を薙ぎ払うもの等々、いろいろな種類がある。さて、何にするか。放出系はまだ不安だから…最初は基本の虎破かな。いわゆる『正拳突き』だ」


 因子レベル1で扱うことができる技の中で、最初に覚えるべきは『虎破《こは》』であろう。

 ビッグやダディーも普通に使っていたが、基本的な型を覚えれば戦士ならば誰でも使えるものだ。

 そのわりにダメージ倍率もよく、シールド破壊効果もあるので効率の良い技でもある。これ一つ使えれば、ひとまず自衛手段としては問題ない。

 では、どうやれば技を覚えられるのか、というのが今回のテーマだ。


「ほら、オレと同じ構えをしてごらん」

「…こくり」


 アンシュラオンが軽く腰を下ろして右手を引く。

 サナもそれに倣って、同じような体勢を取る。


「引いている間に戦気術の『集中』で拳に戦気を集めるんだ。それと同時に両足にも戦気を展開させて踏ん張るように力を溜める」

「…こくり」


 ゆらゆら ぼっ

 サナが拳に戦気を集中させると、一段明るい炎が宿った。

 次に両足にも戦気をまとわせる。こちらは叩きつけたあとに衝撃をすべて相手に伝えるために必要な動作だ。


「そして、それを真っ直ぐ対象に打ち出す。この時に左手も下げることで反動をつけて腰を一気に回すんだ」


 ぎゅっ ぐいっ ドゴーーーンッ!

 アンシュラオンが壁に向かって虎破を放つ。

 相当手加減した一撃だが、その一発で壁は粉々に砕け散った。奥行きが数メートル以上もある大きな破壊痕が残る。


「同じようにやってごらん」

「…こくり、ぐいっ」


 ぎゅっ ぐいっ


 サナが左手を引きながら一気に腰を回し―――右手を叩きつける!!


 ドンッ! ビシイイッ


 サナの小さな拳が壁にめり込み、亀裂が入る。

 さすがにアンシュラオンのように粉々にはならないが、数十センチの大きな亀裂が走ったので、常人が当たったのならば鎧を着ていても腹が爆発している威力だろう。


(やはりサナは他人の動きを真似することができるんだな。完全にオレの動きと一緒だ)


 今回の訓練でも、サナのコピー能力の精度が極めて高いことがわかる。

 アンシュラオンの動きを完全にトレースしており、体重移動などの身体動作に関してはほぼ完璧といった具合だ。

 アンシュラオンも少年体型であり、サナと比較的大きさが近いからこそ相性も良いのだろう。

 だが、問題がないわけではない。


(身体の動きは真似できても戦気術までは真似できないか。まあ、それも当然か。戦気術は努力によってのみ体得が可能な技だ。そんなに甘いもんじゃない)


 単なる型としてだけならば合格だろうが、技として成立させるには不十分だ。

 サナの戦気術がまだ未熟なせいで上手く戦気が伝達せず、虎破と呼ぶにはまだ至っていない。

 これだと正拳突きの構えから発したパンチ、つまりは単なる突きでしかない。


「まだまだ戦気の流れが悪い。溜めた力を一気に前方に集中させるんだ。足の戦気もただ展開するだけじゃなくて、動きに合わせてバランスを取るんだ。大切なことは、その技が何を目的にしているか、ということだ。虎破は相手の中心線に対して一点破壊を試みる技だ。拳という一点にすべてをかけることを意識するんだよ。インパクトの瞬間に力を爆発させるイメージが大切だ」

「…こくり」

「これも反復だ。さあ、できるまでやってみよう」


 サナが右手を引く、足に戦気を展開させる。左手を引くと同時に腰を回転させて打つ。

 ぐいっ きゅっ ドンッ!!


 サナが右手を引く、足に戦気を展開させる。左手を引くと同時に腰を回転させて打つ。

 ぐいっ きゅっ ドンッ!!


 サナが右手を引く、足に戦気を展開させる。左手を引くと同時に腰を回転させて打つ。

 ぐいっ きゅっ ドンッ!!



 ぐいっ きゅっ ドンッ!!

 ぐいっ きゅっ ドンッ!!

 ぐいっ きゅっ ドンッ!!



 サナは次々と壁に向かって虎破を打っていく。

 ただ、なかなか虎破として成立しない。さすがに技となれば相当の修練が必要なので一発合格とはいかないものだ。

 もし簡単にできるものならば、わざわざ道場や師という存在は必要ないだろう。やはり難しいのである。


(技を使うには条件がある。【決められた型】に合わせて一定の戦気の操作を行うんだ。アレンジもできるが、その中で許容される幅の範囲内でやっている。だから技の範囲外のことをやると技が発動しないんだ)


 普通に戦気を集めて殴ったり蹴ったりする基本攻撃は、自分が好きなように調整することができる。

 しかし、すでに技として成立して存在しているものは、型に合わせてやらないと技として発動されない。

 一般的に伝えられている技というのは、誰にでも扱えるように【体系化されたもの】だからだ。

 最初は経費度外視の超性能の試作機を造り、そのデータを参考にして一般兵が乗る量産機が生まれるように、一般の武人が理解しやすいように調整されている。

 だからこそ使いやすい反面、一定の型というものが存在し、それに沿わないと発動しないという『デメリット』あるいは『安全装置』が存在しているのだ。


 変に自己流にしてしまって自らの身体を痛めないようにである。


 所作にはすべて意味があり、それが一つの目的に向かっているからだ。

 仮にその機械の構造を知らない人間が勝手にバラバラにしてしまうと、二度と戻らないことがある。最悪は暴走、暴発して大怪我につながりかねない。

 そうしたことを予防するために型が存在しているのだ。やはり安全装置と呼んだほうがいいかもしれない。


 しかし逆に言えば、その幅の範囲内ならば自由にカスタマイズできるともいえる。


 前にも述べたが、アンシュラオンの虎破は速度重視のものになっており、正拳突きのように腰を落とさなくても腕一本の『直突き』で発動が可能である。

 ただこのアレンジについても、ある程度ショートカットできるだけの実力がないといけないので、サナには基本の型をまず教えている次第だ。

 変な癖をつけるより、まずは基本をしっかり身につけさせることが重要である。


(だが、考えれば考えるほど不思議なシステムだよな。ゲームでありそうな『閃きシステム』に近いものを感じる。誰かが閃いたものを『登録』することで、技として【世界に認知】されるんだろうな)


 よく『〜が編み出した』と説明しているので気付いているとは思うが、技は独自に開発することができる。

 歴代の覇王や剣王は、その卓越した才能と努力によって次々と新しい技を開発している。

 今あるすべての技は必ず誰かが開発したものであり、アンシュラオンがこうして強いのも、そうした偉大なる先人がいたからにほかならない。


 その努力は当然称賛されるべきだが、ここでは技の成立という観点で見てみよう。


 彼らは発案者当人なのでアレンジの幅も相当広くなっており、他人には真似ができないような技に組み上げることもある。

 虎破は誰が開発したかは不明だが、おそらく編み出した者はアンシュラオン以上に独自のアレンジを重ねたことだろう。


 が、それを【技として登録】すると、他人には型に沿わないと使えなくなるのだ。


 この世界に住んでいる人間には、当たり前のこととして受け入れられていることだが、『情報公開』が使えるアンシュラオンから見れば非常にゲーム的に見える。

 ある者が技を『閃いた』場合、そのままでは当人しか使えない状態にある。

 おそらく誰にも伝えないまま死亡すれば、その技も一度消去されることになるのだろう。また誰かが発見するまで闇の中に埋没する。


 だが、『血に覚えさせる』ことによって、それが武人全体のデータファイルの中に『技として登録』されるのだ。


 ゲームのシステムデータのように、一度登録された技が消えることはなく永遠に残り続ける。

 仮にアレンジや派生技を編み出しても、それは別のものとして登録されるだけで減ることはない。

 武人として覚醒すると血液の性質が変化し、『武人のデータバンク』にある情報を読み取れるようになるのだ。

 不思議な点は、距離や時間に関係なくそれができる点だ。

 このデータというものも精神や魂のように違う次元に存在し、常時どこかとリンクしている状態にあるのだろう。

 アンシュラオンは、これをゲーム的と称しているにすぎない。

 改めて世界のシステムが恐るべき情報量によって構築されていることを認識する瞬間である。


 ぐいっ きゅっ ドンッ!!
 ぐいっ きゅっ ドンッ!!
 ぐいっ きゅっ ドンッ!!

 ぐいっ きゅっ ドンッ!!
 ぐいっ きゅっ ドンッ!!
 ぐいっ きゅっ ドンッ!!


 サナの鍛練は続く。アンシュラオンもそれを見守り続ける。


 だが、ここがどこかをもう一度思い返せば、この次に何が起こるかわかるだろう。




 そうやって壁を叩いてばかりいると―――




「うるせえな!! 誰だ! 壁を叩いている馬鹿は!!」

「死ね、このやろう!! クソでも食わしてやろうか!!」


 周囲から罵声が飛んでくる。

 それも仕方がない。サナが叩いている壁は牢屋と牢屋の間にあるものであり、中にいる囚人からしたら騒音でしかない。

 犯罪者でなくても、いきなり壁を叩かれたら怒るのも当然だろう。

 だが、相手が悪い。そんな主張が通じるわけもない。

 うっかりそんな言葉を吐いてしまえばどうなるか。


「なんだと? オレの可愛い妹の打撃音がうるさい…だと?」


 明らかに怒気が含まれているアンシュラオンの声が響く。

 アンシュラオンにしてみれば最高に素敵な音なのだ。それを否定するとは神をも恐れぬ愚行である。

 それでも彼らからは二人の姿が見えないので、再度罵倒の言葉が飛んでくる。


「うるせーからうるせーって言ってんだよ! どこの馬鹿だ! 死ね! カスが!!」


 無知というのは罪である。言葉は諸刃の剣である。

 言ってしまった言葉は必ず自分にも降りかかるのだ。


 ツカツカツカッ


 アンシュラオンが暴言を吐いた囚人の牢屋の前にまで歩いていく。



「お前か。今暴言を吐いたやつは」

「あ? なんだ、お前は。変な仮面を被りやがって」

「暴言を吐いたのはお前か、と訊いている」

「へっへっへ、だとしたらどうするよ? ああ? かーーーぺっ!! どこのお坊ちゃんだぁ? ここはお前みたいなガキが来る場所じゃねえぞぉ。それともお前が俺の相手をしてくれんのかぁ? たっぷり溜まってるからなぁ、相手をしてやってもいいぜぇ! ひゃははは!」


 この男は長い間ここに収監されているのでホワイトの噂を知らない。

 もし噂を知っている者がいれば、けっしてそんな口は叩かないだろう。


「その代わり、ここから出してくれよ!! 出してくれたら相手をしてやるよぉ!」

「ほぉ、本当か?」

「そりゃもう、いくらでも相手をしてやるさ!!」

「それはありがたい申し出だ。ぜひそうしてもらおう」


 ぐっ

 アンシュラオンが鉄格子を掴み―――


 メキョォオオオオ バチンッ!!


 まるで柔らかいゴムのように鉄格子を『ねじ切って』しまった。

 よく劣化した輪ゴムを引っ張ると、簡単にバチンと切れるだろう。あんな感じである。


「…へ?」

「出してやろう。来い」

「…へっ? …へっ? ぐえっ!!」

「こっちだ」

「ちょっ、ちょっと待っっ!!! な、何が…何が…!! えっ!? なにこれ!? なんで鉄格子が切れ…えっ!?」


 アンシュラオンは囚人の頭を掴むと、ずるずると引きずっていく。

 そのあまりの腕力に男はまったく抵抗できない。人形のように軽々と引っ張られる。

 そして、サナのところに連れていく。


「よかったな黒姫、相手が見つかったぞ。たっぷり相手をしてくれるそうだ。オレも壁より実際に人間を的にしたほうがいいと思っていたんだよ。いやー、助かるな」

「えとその…何を…ぎゃっ!!」


 ドンッ ねちゃっ

 アンシュラオンが男を壁に叩きつけると同時に、背中を命気で壁と接着した。

 これでもう男は逃げられない。


「うぐっ…うううっ」

「さあ、虎破の練習をしよう。遠慮なくやってくれ」

「…こくり」

「えっ!? ちょっ、ちょっと…なに…」

「…どんっ」


 ぐいっ きゅっ ドンッ!!



「―――げほっ!!」



 サナの拳が男にヒット。

 瞬時に腹に力を入れたが、そんなものは何の関係もないとばかりに衝撃が突き抜け、思わず嘔吐する。


「まだ流れが悪い。何度も何度も反復して学ぶんだぞ」

「…こくり」

「ごぼっ…ちょっ…ま、待って……―――ごぼっ!!!」


 ぐいっ きゅっ ドンッ!!
 ぐいっ きゅっ ドンッ!!
 ぐいっ きゅっ ドンッ!!

 ぐいっ きゅっ ドンッ!!
 ぐいっ きゅっ ドンッ!!
 ぐいっ きゅっ ドンッ!!


「ぎゃっ! げぼっ!! ごぼおぼおおおおおおおおお!!」


 サナもサナで、まったく遠慮することなく腹に拳を放っていく。

 これだけでも不運だが、さらなる不運が男を襲う。


 じたばたと無駄に暴れてしまったため、サナの拳が―――陰部にヒット。



 メキョッォオオオオ!! バリンッ!



「―――あっ…」




 嫌な音がした。

 オスならば誰でも怖れる『アレ』が起こってしまったのだ。


 こうして男は―――昇天。


 もう彼が動くことは二度とないだろう。うっかり暴言を吐いてしまったがゆえに大切なものを失ったのだ。


「動かなくなったな? 死んだか? まったく、もっと粘れよな。使えないやつだ。まあいい。ここには『代わり』は山ほどある。くくく、いい的がたくさんあるからな。実に素晴らしい環境だ。次はどいつにしようかなぁ〜〜〜」

「な、なんだよ今の悲鳴は!! 何が起こっているんだ!!!」

「お、悪寒がする!! 俺にはわかる! すごい危険が身に迫っているってな!! だ、誰か! 誰か出してくれええええええ! これからは真面目にやるからさ!! なっ、信じてくれよ!! 頼むよおおおお!!」


 サナの虎破が形になったのは、十人目の男の『バットとボール』が吹っ飛んだ時であったという。

 さすがに技として成立するとパワーも段違いだ。一発昇天である。


 こうして囚人たちの多くが犠牲になっていく。




362話 「アンシュラオンの収監事情 後編」


 悪の中に悪が入るとどうなるか。


 答えは毎度言っているように―――より強い悪が勝つのだ。


 囚人ではあっても所詮はただの人間。そんな中に凶悪な悪魔が入ってしまえば、そこは単なる蹂躙の場と化すだけのことだ。


「貴様らは人間のクズだ!! それをよく理解しろ!! わかったな!!」

「はい! 私たちは人間のクズでございます!!」

「ひざまずけ!! ひれ伏せ!! クズが命令もなく顔を上げるな!!」

「ははぁあ!!」


 アンシュラオンの目の前で、何十人もの囚人たちが通路にひれ伏す。

 その光景はまさに大名行列の如くであるが、通路が狭いのでほとんど隙間なく土下座している感じだ。


「さあ、黒姫。絨毯ができたよ。歩いてごらん」

「…こくり」


 ぐにっ ぐにゃりっ ぐにぐに

 その肉の絨毯の上をサナが歩く。

 背中を踏んだり頭を踏んだりしながら通路を歩いていく姿は、まさに強者と弱者の図式の極みであった。

 一目で誰が上かがはっきりとわかる光景だ。

 こんな扱いをされる囚人は、さぞかし誰もが屈辱的に感じている―――


「ああ、幼女の足が俺を踏んでいる…!」

「か、快感だ…! も、もっと踏んでくれ!」

「く、黒姫様が俺に触れているぅううう!」


 と思いきや、一部では大好評であった。

 しかし彼らは、それさえ許される身分ではない。


 ごりっ


 次に通ったアンシュラオンが、その男たちの頭を強く踏む。


「ぎゃううううっ!!」

「貴様らクズがオレの可愛い黒姫に欲情するとは、万死に値する」

「ち、ちがっ! こ、これはちがうのですぅううう…!」

「違くない。死ね」


 ドンッ ぐちゃっ!!

 そのまま頭を踏み砕く。


「ひ、ひぃいいい」


 全員がひれ伏しているので実際の光景は見られないが、言葉と音だけで何が起こったのかわかるのだろう。

 すぐさま通路には軽い悲鳴と、囚人が恐怖で震える音しか聴こえなくなった。


「ったく、靴を汚しやがって。ふきふき。お前たちは本当に役立たずだな。せめて雑巾代わりにはなれよ」


 アンシュラオンが靴裏の血を隣の囚人の服で綺麗に拭き取る。

 そんなことをされても抵抗する者はいない。ただただじっとひれ伏している。怒りすら抱くことができない恐怖が彼らを支配しているからだ。

 普通ならば衛士が止めそうなものだが、周囲を見回しても、この場に衛士の姿はなかった。

 いても意味がないので、彼らはアンシュラオンに関わらないようにしているのだ。

 さすがに囚人が外に出ようとすれば気にするかもしれないが、もともと中で何が起きようが見て見ぬふりをするのが慣習でもある。

 刑務官に与えられた命令は、囚人を外に出さないことと最低限の面倒をみることだけだ。


 それはつまり囚人同士の諍いには関与しない、という意味でもある。


 ここに収監されている囚人の中には、各派閥マフィアの息がかかった者たちも大勢いる。

 中立である領主軍がどこかに組するわけにもいかないので、不干渉のルールは収監砦の中でも見事に適用されるというわけだ。

 これをいいことにアンシュラオンは、収監砦に入ってすぐに囚人たちを支配下に置いた。(衛士が止めてもやるが)

 まずは【地上部分】の階の囚人を解放しつつも、今見たように自らの道具にしたのだ。

 彼らにさしたる利用価値があるわけではない。数人が生意気な口を利いたから全員が巻き添えになってこうなっただけである。

 不運ではあるが、罪人になってここにやってきたのだから自業自得な面もある。同情は必要ないだろう。


(力への恐怖を知っている分だけ囚人どもは楽だな。馬鹿な一般人よりはましだ)


 多くの者が暴力沙汰に関与して囚人になっている。

 だからこそ、より強い力に対しては従順なのである。暴力の真の怖ろしさを一般人よりも知っているからだ。

 このあたりは程度の差こそあれど裏スレイブたちとよく似ている。支配下に収めるのも非常に楽であった。



「よし、今度は剣気の出し方だな。武器を使った鍛練をしよう」

「…こくり」


 肉の絨毯を渡り終えた二人は、鍛練に入る。

 次にサナに教えるのは『剣気』である。


(サナは剣士タイプだし、まだ身体も小さいから武器に頼ることになる。剣気は必須だな)


 剣士にとって剣気は戦気と同じくらい重要だ。

 これを使えなければ武器を扱う意味がない、と言ってもよいくらいだろう。


「最初だからダガーでいいか。出してごらん」

「…こくり。しゅっ」


 サナがダガーを取り出す。

 相変わらず何の変哲もない普通の刃物である。


「まずはダガーの刀身にも戦気をまとわせてごらん。『集中』の要領でできるはずだ」

「…こくり」


 ゆらゆら

 サナの戦気が手に移動し、そのままの刀身まですっぽり覆う。

 戦気の移動と集中はもう普通にできるようだ。


「そうやって戦気で覆うだけでもダガーの威力は上がる。剣気を扱えない戦士でも武器には意味があるんだ。ただし、やはり剣気が出せてこその武器だ。あったほうがいいに決まっている」


 剣気は戦気と比べて、およそ1.5倍の出力を誇る。

 範囲系の技は倍率が1のままであることも珍しくないので、この1.5倍は非常に高い数値である。

 仮に素の攻撃がDの200だとすれば、Cの300にまで上がるので、扱えるだけで攻撃力がぐんと上昇する。

 まだ武人として非力なサナには、ぜひとも覚えさせたい基本技といえる。


「戦気を剣気に変換するには剣士の因子を使う。武器を使わないと剣士の因子は発動しないから注意が必要だぞ。総合タイプが剣士だと戦士因子にもマイナス補正が入るから、武器がない場合は圧倒的に不利になるんだ。だから常時、武器のストックは切らさないこと。これは絶対に覚えておくんだぞ」

「…こくり」


 剣士因子は武器を扱う能力なので、何かしら武器を携帯しないと発動しないという特殊なものだ。

 武器を持たない間はマイナス補正がかかった戦士因子か術士因子だけを頼ることになるため、できれば予備の武器を含めて複数の装備を常時身につけるべきだろう。

 サナも蛇双と予備のダガーを持っているので安心だが、今持っているものは間に合わせで調達したものなので、改めてサナ専用に新調してやる必要がありそうだ。

 今はまだその余裕がないので、ひとまずこのままでいくことにする。


「では、さっそく剣気を出してみよう。お兄ちゃんのをよく見ているんだよ」


 アンシュラオンも同じタイプのダガーを取り出し、まずは刀身に戦気をまとわせる。


 それから剣士因子を発動させると―――剣気が放出。


 明らかに一段強い光が刀身に宿り、ギラギラと輝いていた。


「これが剣気だ。戦気をより攻撃特化に変質させたものだ。出し方としては…そうだな。武器の刀身に対して『強化』を発動させる感じかな。このあたりは感覚的な要素があるから実際にやってみるほうが早いだろう。刀身が自分の手の延長だと思ってやってごらん」

「…こくり」


 サナがダガーの刀身に意識を集中させる。

 ゆらゆら ぼっ

 刀身に宿った戦気が強く燃え上がり、燃え上がり、燃え上がり―――


 ギュイイインッ ボオオッ


 より強い輝きを帯びた光になった。

 ただ、まだ剣気には至っていない。これでは単なる戦気の強化だ。


「もう一押しだな。剣気っていうくらいだから、もっと刺々しいイメージだったり、鋭い雰囲気を想像するんだ。戦気は防御にも使うものだが、剣気は攻撃のためだけに使うものだ。それを意識してごらん」

「…こくり」


 サナがゆっくりと自分の闇の中にある映像を探す。

 今までアンシュラオンと出会ってから見てきたこと、教えられたことすべてを思い出す。

 その中で剣気は、いつだって相手を殺すために存在していた。切り裂き、突き刺し、抉るものだった。

 そのイメージを剣先に集中してみる。


 ジジジッ ジジーー シュボッ


 すると戦気という炎が凝縮しながら明滅し、より鋭利なものに変わっていく。

 薄ぼんやりしていた意識が『破壊』という方向性を与えられたことによって明確になり、鮮明になっていく。

 もっと鋭く。もっと強く。もっと殺すための力となっていく。


「おっ、出たぞ!! そうだ、それが剣気だ!!」

「…こくり」

「案外簡単に出たな。やっぱり剣士タイプだからかな? まあ、オレも簡単に出せたから、これが普通なのかもしれないけどな」


 とアンシュラオンは言っているが、普通の武人は剣気を扱うにもそれなりの鍛練が必要なものである。

 剣気を扱うアンシュラオンを何度も見てきた経験も大きいのだろう。サナは見事、剣気を出すこともできたのだから才能があるのだ。『天才』は伊達ではない。



「次は剣気の実験をするぞ! そこのお前、鎧を着てから盾を持って構えろ」

「は、はい!」


 アンシュラオンが、ひれ伏していた囚人の一人を足で小突く。

 通路の壁には鎧やら盾やらといった防具一式がいくつも置かれている。その中には銃もあった。

 男は言われた通りに革鎧と金属製の盾を身につけて立つ。

 この装備は衛士の武器庫から没収した品々である。すでに武器類を奪っても何も言われないほどにアンシュラオンの影響力は強くなっているのだ。

 そして、この男に装備を渡したのは、当然ながら標的にするためだ。


「これから黒姫が攻撃するから、お前は必死に防御しろ。命令はそれだけだ。反撃してもいいが…してもしなくても結果は同じだろう。好きにしろ」

「は、はい!」

「黒姫は剣気を使って好きに攻撃してごらん。これも実際にやって感覚を掴むんだぞ」

「…こくり。ぐい」


 サナが剣気を宿したダガーを構える。


「ひっ」


 対する男は怯えたように盾を前に押し出す。

 彼に選択権はない。ただ言われるがままにするしかない。


「…しゅっ」


 その男に対して、サナは斬撃を選択。

 ダガーは基本的に刺すものと教えてあるが、まずは様子見とばかりに切りかかってみるようだ。


 ズバッ!! バジュュンンッ!!


 ダガーを斜めに振りきると、金属同士がぶつかる音とは違う聴き慣れない音が響いた。

 もし今までのサナの攻撃だったならば、ガキィンッという音とともに刃が弾かれていただろう。

 どんなに鋭い刃であろうとも、さすがに同じ金属である盾には弾かれてしまう。そもそも盾は攻撃を弾くために存在しているからだ。


 しかしながら今回は違う。


 ジュウウウウッ

 ダガーが振り抜かれた瞬間、盾の表面に溶接の際に見られるような火花が散った。

 盾を見ると、表面には斜めに大きな切り傷が入っていた。その部分だけに深い溝が生まれているのだ。

 どう考えても、たかだかダガーで斬られた程度で付くような痕跡ではない。


「…?」


 その威力に、斬ったサナも首を傾げる。思った以上の結果だったのだろう。

 だが、これこそ剣気。相手を滅するための力である。


(ただでさえ強い戦気が凝縮して、より攻撃的な気質になるんだ。弱いわけがない。サナ程度の剣気でもこれくらいは可能だ)


 剣士が怖れられるのは、彼らが剣気を自在に操るからである。

 剣王技が脅威なのは、剣気によって発動する技だからである。

 剣士とは、戦士以上に攻撃に特化した存在なのである。武人最強の攻撃力を有するのだから、これくらいはたやすいものだ。


「もっと好きに試してごらん」

「…こくり」


 サナはダガーを持って、さらに男に迫っていく。


「ひ、ひっ!!!」


 だが、男からしてみれば、これほど怖いことはない。

 アンシュラオンが自分に盾を持たせたのは『盾を持たなければ一撃でさえも耐えられない』と判断されたからだと理解したのだ。

 盾を持つ手がガクガクと震える。

 が、当然ながらそんな男の恐怖などサナが考慮するはずもない。


「…しゅっしゅっ」


 ズバズバズバッ!!!

 遠慮なくサナが再び斬撃。縦、横、斜めと三発の攻撃を放つ。

 バジュッ! バジュンッ!! バジュュンンッ!!

 斬撃の軌跡をなぞるように軽々と盾が抉られていく。表面はすでにズタズタだ。

 ただ、まだ盾そのものを切り裂くには至っていない。そのことを知って男は安堵した。


(はぁはぁ…、なんとかなった…か? そうだよな。あんな小さな刃物で盾が切れるわけがないんだ。ふー、大丈夫。大丈夫だ。そうだよ。常識だよな。この盾は金属なんだからさ)


 常人の男にとって盾が切れるという現象は、常識では考えられないことだ。

 そんなことを考えたこともないし、あってほしくもないだろう。もしそれができるとすれば魔獣くらいなものだ。

 しかし、目の前にいるのは人間の少女である。魔獣と同じような真似ができるとは思えない。


(なんとか受けきって目立たないようにしていれば、まだ生き残るチャンスはあるんだ。はぁはぁ、俺はこれから真面目に暮らすぞ! もうこんなのは真っ平―――)


 牢屋に入れられても反省しなかった『ろくでなし』が、より凶悪な悪と出会って更生への誓いを宿した時である。

 ジュブウウウウッ

 これまた普段はなかなか聴かない音が、男の耳に届いた。



 しかもその発生源は―――盾を握っていた左腕。



「…え?」


 男が信じられないといったような表情で自分の腕を見た。


 何かが自分の腕から飛び出ている。


 少しだけ赤黒い尖った何かが、ひょっこり顔を出しているではないか。

 ブシュッ ドババッ

 男がそれを視認した瞬間、腕から大量の血が流れ出る。


 それと同時に―――強烈な痛みが走った。


「ううっ、うああああああ!!!」


 男はパニックに陥り、必死に腕を振り回そうとするが、何かが邪魔をして動かすことができない。

 その選択権すらも彼にはないのだ。


 もしそれがあるとすれば、【ダガーを盾に突き刺している】サナだけであろう。


 サナは斬撃から突きに攻撃を切り替えた。

 軽い斬撃でも盾の表面を溶解させるレベルなのだ。突きならば盾を貫くことも難しいことではない。

 そしてサナは、一度攻撃したからには相手を殺すまで行動するように教えられている。

 ズズズズッ ジョオオッ

 突き刺したダガーが少しずつ動き、腕ごと盾を抉り斬っていく。


「ひっ! ひいいいいい!!」


 男がどうあがいても抵抗することはできない。

 なにせ相手は、下手をしたら魔獣よりも凶悪な【武人】と呼ばれる存在なのだ。

 まだ幼体とはいえ、白き魔人によって力を与えられつつある黒き少女である。相手が悪すぎる。


 ズバッ!!


 サナが何の躊躇もなくダガーを振り切った。


 ボトッ


 切り落とされた腕が落ちる。

 男はその非現実的な光景に悲鳴を上げたかったが、残念ながら刹那の勝負の世界においては、その一瞬すら貴重であった。

 ドンッ

 男が最期に見た光景は、自分の心臓にナイフを突き立てている少女の姿であった。

 革鎧など、何の効果もない。剣気の前には紙切れにも等しかった。

 至近距離にまで近づいたことで、仮面の下にある少女の瞳がうっすらバイザー越しに見える。


 その目は―――ただただ【赤い】。


 サナのエメラルドの瞳も、瞳孔は黒だ。

 しかし、彼女が何かを殺そうとする時、その目は赤く輝くのだ。



 まるで―――魔人のように。



(悪魔……だ)


 男の意識は、それだけを思いながら闇に沈んでいった。




363話 「収監砦、地下エリアへ」


「やはり雑魚では相手にならないな」


 サナの周囲には、いくつもの囚人の死体が転がっている。

 あれから何回かやらせたが、結果はだいたい同じようなものであった。

 いくら常人が武装したとて剣気の出力に耐えられるわけがない。あっけなく死んでいくので、これ以上続けても意味はないだろう。

 剣気で人を殺す感覚さえ覚えられれば十分だ。


「…はぁはぁ…はぁはぁ…」

「黒姫、疲れたか?」

「…こくり。はぁはぁ…」

「剣気は戦気と比べて出力が高い。ということは、それだけ多くの戦気を使うということだ。剣士が剣気を使うのは攻撃の瞬間だけに絞るのが一般的だ。普通の剣士は戦士因子があまり高くないから、体力も低くて戦気量が多くないからな。今回みたいに出しっぱなしだと、すぐにガス欠になるんだ。これもいい勉強になったな」


 サナは戦っている間、ずっと剣気を放出していた。

 この剣気というものは戦気を凝縮したものなので、攻撃力も1.5倍ならば消耗度も1.5倍となる。

 まだ精神の値も低い彼女にとっては、長時間の剣気の放出はなかなかしんどいものだろう。これだけ持続できただけでも褒めてやるべきだ。


「おいで。回復させよう」

「…こくり」


 アンシュラオンは命気で細胞を癒しつつ、賦気を施す。

 自らの生体磁気を与えることで失われた活力を復活させるのだ。

 唯一精神力だけは戻すことはできないのだが、それも命気で身体を包んであげることで多少ながら回復する。

 精神力というものは肉体と密接に関係しているものだ。

 長時間、集中力を持続させたいのならば、まずは身体的環境を整えてみるといい。身体が疲れなければ心も乱れにくくなるはずだ。


 じゅわわ ボオオッ


 サナにアンシュラオンの力が注がれ、再び剣気が使える状態にまで復活する。

 普通ならばもっと休まねばならないので、やはりこれだけでも十分有利といえるだろう。


「剣気を使った基本技もいくつかあるが…一般的なものは『剣衝《けんしょう》』と『剛斬《ごうざん》』だろうな。最低限これだけ覚えていればなんとでもなる。まずはこの二つを覚えよう」


 剣衝は、剣を振った時の剣圧に剣気を乗せて放つもので、中遠距離を攻撃する剣士の基本技の一つだ。

 ラブヘイアも風衝を使っていたが、属性を乗せなければ単なる剣衝と同じである。

 また、剛斬も一時的に剣気を強化して斬るだけなので、さほど難しい技ではない。

 しかしながら基本の技を鍛えれば無理に上位技に頼る必要もなくなるので、強い武人ほど低級技を好んで使うようになる。

 アンシュラオンが普段、修殺やら水流波動を使うのは、それで事足りてしまうからである。

 まずは基本を学び、鍛える。これこそが武の真髄だ。


(といっても、単にオレが剣王技に詳しくないだけなんだよな。技に対応するために多少は知っているが、やっぱり畑が違うと難しい。今はとりあえず基本技だけを教えておこう)


 アンシュラオンは戦士なので剣王技には疎いところがある。

 サナに基本技しか教えないのは、自分も基本的な技しか知らないからだ。このあたりは要改善であろう。



「さっそく練習してみようか。まずは剣衝だな。最初に手本を見せるぞ」


 アンシュラオンがダガーに剣気をまとわせ―――軽く振る。


 リィイイン スパッ


 放たれた剣圧が少し離れた場所にあった壁に激突し、まるで吸い込まれたかのように、すっと消えていく。

 ぱっと見ると壁には何の痕跡もなかった。


「見えたか?」

「…ふるふる」

「そうか。少し鋭くやりすぎたかな。だが、これでもちゃんと切れているんだぞ」


 アンシュラオンが壁の上部に手を触れて押し込んでいく。


 バキンッ ズズッ ずずずずっ


 力で押した箇所は破壊されたが、下の部分の断面はあまりに綺麗で、磨かれた鏡のようにキラキラと光っていた。

 アンシュラオンの剣衝は、たしかに壁を切り裂いていた。

 ただ、技のキレがあまりに鋭すぎて、壁に一切の衝撃を与えなかったのだ。だから壁自体に何の変化もなかった。

 しかし実際は、放たれた剣衝は壁を貫通しており、建物の外部にまでしっかりと切れ目を入れている。


 達人ほどの腕前になると、相手に斬ったことを悟られない、という。


 あまりに鋭すぎて剣先も見えないし、自分が斬られたことにも気付かないのだ。

 漫画や噂話でしか聞かない話だが、アンシュラオンがやると本当にそうなってしまうから怖ろしい。


「次はわかりやすいように少し雑にやろう」

「…こくり」


 再びアンシュラオンが剣衝を披露。

 ズバシャッ!

 今度は放たれた剣衝が壁に大きな痕跡を残した。

 こちらのほうが一見すれば派手に見えるが、威力が分散されているので技の質としては相当低いものとなる。

 だが、サナに手順を見せるにはこちらのほうがいい。見やすいついでに剣圧にも戦気で色を付けてみたので、さらに技の軌跡が視認できたことだろう。


「…じー」


 狙い通り、サナも技をよく見ていた。

 彼女の『観察眼』は目で見ることができる速度であれば、すべてを事細かく記憶できる。

 すでに身体の動きは完全に覚えたはずだ。


 では、次は実践である。


「極めることを別とすれば、剣衝は剣気が出せれば案外簡単にできる技だ。さあ、やってごらん。今の黒姫ならできるはずだよ」

「…こくり」


 ジジジッ シュボッ

 サナがダガーに剣気をまとわせると、光の剣のように刀身が光った。

 何度か練習したことで、すでに剣気は自在に出せるようになっているようだ。


「剣気を戦気の『放出』と同じく、押し出すように放つんだ。そうだな。刀身に付着した水滴を払うような感覚で振り抜いてごらん。水滴を剣気だと思うんだ」

「…こくり。…しゅっ」


 サナは言われた通り、ダガーを振ってみる。

 子供の時はよく傘に付いた雨粒を払って遊んだものである。飛んでいく水が面白くて、何度も何度も払ったものだ。

 それくらい思いきり振れという意味であるし、子供の彼女にはわかりやすい例だと判断して言ったことである。

 が、思えばアンシュラオンがグラス・ギースに来てからは、雨が降ったことはまだ一度もないので伝わったかどうかは不明だ。


 シュバッ


 そんな事情を知ってか知らずか、サナが振ったダガーからはしっかりと剣圧が放たれる。

 これ自体は振ったあとに発生する風圧のようなものだ。常人でも剣を振れば強い風が発生するだろう。それと同じである。


 だが、常人を遙かに凌駕する速度で剣を振れる武人がこれをやれば―――


 バシュウウッ!!


 押し込んで斬ったことで生まれた風圧の刃が、壁を切り裂く。

 壁を見ると、斧で思いきり叩いたような荒々しい痕跡が残っている。

 しかし、これでも本来の威力ではない。


「少しタイミングが外れたな。剣気が乗りきれなかった。だが、その調子だ。あとは剣気が乗るまで練習すればいい」

「…こくり」


 シュバッ バシュウウッ

 シュバッ バシュウウッ

 シュバッ バシュウウッ


 その後、サナは五十回ばかり剣衝の練習を行った。


 シュバッ ズバッシュッ!!


 それによって次第に剣気が乗るようになってきて威力も上昇。壁にも深い痕跡が残るようになってきた。

 さすがに実際に斬りかかったときとは比べられないが、離れた対象に与えるダメージ量としてはそれなりのものだ。

 裸の成人男性ならばもちろん、革鎧を着込んだ相手でも殺傷は十分可能なレベルにあるだろう。



「剣衝はここまでだ。この練習も毎日続けるぞ。剣衝が上達すれば普通の斬撃も上手くなるようになっているからな」

「…こくり」

「次の剛斬は剣衝とは正反対の技だ。剣気をさらに強化して、斬撃と一緒に叩き込むシンプルな技だよ。『強化』の練習をもっとハードにしたものだ」


 剛斬は文字通り『強い斬撃』という意味で、もともとが戦気の1.5倍の剣気を、さらに1.5倍に強化して放つ強烈な一撃である。

 単純に通常より強いパワーを溜めて放つものなので、二段階強化版の斬撃と思えばいいだろうか。

 剣衝同様、こちらも練習しかない。反復してコツを掴むのだ。


 細かい『うん蓄』等は割愛するが、サナは剛斬の練習もしっかりと行った。


 しかし、それによって彼女の『弱点』が浮き彫りになる。


(サナは全体的な戦気の扱いは上達してきているが、まだ『強化』が少し苦手かな。特に『維持』が難しいようだ)


 集中させ、強化するまではできる。が、強化させている時間が短い。

 少しでも長く維持させようとすると全体の戦気量が減ってきてしまい、展開が不安定になっていく。

 意思の力が少ないということは、それだけ一つにかける集中力が弱いことを意味している。

 観察することには長けているものの、実際にやる力が不足しているのだ。

 それが剛斬という、より強い力を集約させる技において露見する。


(弱点や未熟な部分があるのは仕方ない。まだ始まったばかりだ。それを克服するための鍛練だからな。課題が見つかるのはよいことだろう)


 アンシュラオンにだって弱点はある。

 自分より弱い相手にはパワーで圧倒できるが、姉やゼブラエスのような実力が上の相手には体格差による腕力の差が如実に出てしまう。

 それは仕方がない。どうしても覆せないことはあるものだ。ならばそれを長所に変えてしまうことが重要だ。

 サナもいろいろな経験を積むうちに、自分の中で強みを見いだすことができるようになるだろう。

 まだまだ始まったばかり。今後に期待である。


「一度ストップだ。このまま続けてもいいが、収監砦には【用事】もある。まずはそちらの用件を済ませておこう」

「…こくり」

「お前ら、そこらの死体は適当に処理しておけよ。戻った時には綺麗さっぱりなくなっていなければ、どうなるかわかるな? お前たちも死体の仲間入りだぞ。処分されたくないのならば、がんばって掃除するんだな」

「ひ、ひぃ! わ、わかりました!!」


 アンシュラオンの怖ろしさを知っている囚人たちは、その言葉に素直に頷く。

 囚人とはいえ一般人を平然と実験台にするのだ。命令に逆らえば次にこうなるのは自分たちである。

 ここが牢獄という点も彼らには最悪だ。逃げ場がないので従うしかない。

 怯えた囚人によって即座に掃除が始められ、あっという間に汚れた通路は綺麗になった。




 アンシュラオンはサナを連れて収監砦をゆっくり歩きながら、四階、三階、二階、一階へと降りていく。


(地上部分は完全に支配できたな。まあ、ここにいる連中は今言ったように雑魚ばかりだ。常人ばかりだし、あまり面白くはない。サナの鍛練にもあまり使えん)


 上の階には衛士の宿直室や食堂などもあるので、収監砦の中では比較的治安が良いとされている場所だ。

 そもそも【地上エリア】は、殺人までには至らない軽微な罪を犯した者や、ダビアのような政治犯、詐欺などで捕まった知能犯が投獄される場所である。

 囚人自体がたいした連中でもないし、配備されている衛士たちも一般人ばかりだ。


(では、そんな場所にオレが投獄されたのはなぜか。単純に入れる場所がなかった、という感じかな。本当ならば【地下】に入れる予定だったが、オレが入ると逆に面倒なことになると思ったからだろう)


 この収監砦は、『地上エリア』と『地下エリア』に分かれている。

 地上は今述べたように軽微な犯罪を犯した者たちが収監されている。


 一方の地下にはどんな人間が収監されているかといえば―――凶悪犯たちだ。


 外部から来た人間もいるだろうが、基本的にはグラス・ギースの裏社会出身者たちが収監されているエリアといってよいだろう。

 武人の囚人も警備の厳重な地下に入れられるのが普通なので、アンシュラオンに地上の牢獄が割り振られたのは少々おかしな話だ。

 だが、第一の問題として、ヘブ・リング〈低次の腕輪〉さえ効かない相手を地下に連行すること自体が不可能だし、そんな男を地下にやってしまったら大混乱に陥ることは必至である。

 それならば上の階に配置して好きにさせるほうがよい、と考えたのかもしれない。

 もちろんこれは現場の衛士たちの独断だ。無理ですとは領主に言えないので、その場でなんとか誤魔化したにすぎない。


 どちらにせよ、その段階で破綻している。


 少なくともホワイトハンター級を収監できるほどの設備は、最初からこの都市にはないのだ。

 しかし、そうにもかかわらずアンシュラオンは収監砦に滞在し続けている。

 いつでも逃げ出せるのに、そうしていない。それはなぜか。


(自然な形で収監砦に入ることができたな。これで【目的の一つ】を達せられる。やれやれ、ようやく『あの馬鹿犬の案件』が処理できるよ)


 アンシュラオンがわざわざ収監砦にいる理由はいくつかあるが、その最大の理由が―――



―――シャイナの父親を見つけること



 である。

 アンシュラオンが裏社会に関わることになった最初の原因が、シャイナだ。

 今回シャイナが狙われたことからもわかるように、彼女の存在がずっと足枷になってきたのは事実である。


 その一番の要因は、彼女の父親が人質になっていることにある。


 それがなければ、ソイドファミリーを壊滅させるだけで話は済んだのだ。

 ただ、そこにアンシュラオンの資金稼ぎという名目が加わったことで、今回の大きな話の流れに入ったわけである。

 それ自体はかまわないことだ。目立つ男なので、どうしても狙われてしまう。いつかは裏社会と接触を持ったことだろう。


 そして今、ようやくにしてシャイナの父親を奪還する時が来たのだ。


 アンシュラオンが収監砦に入ったのは偶然ではない。この目的を達するために必要だから入ったのだ。

 だが、一人では自然な形で入ることはできない。【協力者】が必要となる。


(どうやらスラウキンがしっかりと動いてくれたようだ。事前に頼んでおいてよかったよ)


 すでに知っていると思うが、スラウキンはアンシュラオン側の人間である。

 領主がラングラスと揉めることも計画の一つだったので、事務所記念パーティーの際に話を通しておいたのだ。

 スラウキンは見事約束を果たしてくれたようだ。やはり彼にとっては権力闘争よりも医学の研究と発展のほうに興味があるらしい。

 むしろアンシュラオンが素直に従いすぎて彼に疑いの目が向くことが懸念材料だったが、今のところは問題ないようだ。

 平和ボケしているこの都市においては、誰もそんなことを疑っていないのだろう。幸せなものである。


(シャイナの父親は地下か。地下は裏社会の人間と武人が閉じ込められる場所らしいからな。人質として一番深い場所にいそうだな)


 すでに衛士から得た情報では、父親が地下エリアに収監されていることはわかっている。

 あとはそこに向かうタイミングを計っていただけのことだ。

 ここ何日かで少しずつ動きも出てきたようなので、今が頃合であろう。




364話 「地下のルール」


 アンシュラオンとサナは、堂々と収監砦の中を歩いていた。

 地上一階に到達すると、さらにぐるっと北側に回り込んで地下に向かう階段を下りる。

 途中、看守の衛士たちに出会ったが、もう諦めているようで何も言わなかった。

 積極的に道を開けていくので関わりたくないというのが本音だろう。

 アンシュラオンも特に興味を示さず、どんどん進んでいく。


(シャイナの父親か。どうやらクズのようだから、本当ならば死んでいてくれるのが一番いいが…ひとまず確認だけはしておくか)


 アンシュラオンの目的の一つは、シャイナの父親の安否確認および奪還である。

 ただし、あくまで生死の確認が最優先事項であり、奪還回収は二の次だ。

 いくらシャイナの父親であっても、男のことなどはどうだっていい。それがクズならば、なおさら興味がない。

 一番好ましい結果は、何度か言っているようにシャイナの父親がすでに死んでいることである。

 面倒なことを背負い込むより、そちらのほうが何倍も楽だろう。シャイナも諦めがつくに違いない。

 なまじ生きていると面倒をみないといけないので厄介だ。わざわざ殺そうとは思わないが、できれば死んでいてほしいわけである。


(まあいい。生きているかどうかも怪しいからな。どうせシャイナは面会もできないんだ。適当に生きているって仄めかしているだけの可能性もある。衛士も生死までは知らないとか言っていたしな)


 これから向かう場所は、衛士たちも簡単には入り込めない場所なのだ。

 言ってしまえば囚人たちの自治、治外法権が認められた場所であるともいえる。

 シャイナも「収監砦にソイドファミリーの売人が入り込んでいて、いつでも父親を殺せると脅された」と言っていたのが印象的だ。

 彼らは囚人でありながらも外の世界と接触が可能で、組織の命令通りに動いているのだ。

 看守と囚人が手を組むのはよく見かける光景だが、外側の組織まで絡んでくるのは城塞都市の閉鎖性ゆえだろうか。


(どんな場所か楽しみだな。武人もいるようだし、サナの訓練になればいいな)


 サナの鍛練を途中で切り上げたのは、残りの時間は実戦に使おうと考えていたからだ。

 牢獄なので人は多いのだが、さきほど上で殺した囚人ではまったく役立たなかった。

 必要なのは、もっともっと凶悪な連中である。できればサナでも対応が可能なレベルの武人であることが望ましい。

 マキより強い相手はいないだろうが、少しは修行に役立つ者がいればと期待している。


 アンシュラオンの行動原理は、基本的にサナのためにある。


 自分独りならば金も特に必要ないので、女の子スレイブたちに人生のすべてが捧げられているのだ。

 その意味では、支配者でありながらも一番苦労しているともいえる。

 ハーレムというものは聴こえはいいが、案外苦労が絶えないものだ。

 いまだ中東で続く一夫多妻制でも、逆上した妻の一人に耳を切り落とされたとかも聞くので、妻が増えれば増えるほど男の苦労は増していくのだろう。

 生物学的には、やはり男より女のほうが強いのだ。寿命も長いし病気や痛みにも強い。

 アンシュラオンよりパミエルキのほうが強いことも、それを証明している。




 アンシュラオンたちが地下一階に到達。


 やや広めの一本道の通路を歩いていくと、ひときわ大きな扉が設置されているのが見えた。

 格子状にはなっているものの、まるで大型の魔獣を閉じ込めるような分厚い造りになっており、普通の人間ならば絶対に壊すことができないものだ。

 武人であってもこれを壊せるレベルならば、それなりの実力者であるといえる。


 その扉の前には二人の衛士が立っていた。


 上にいるような間抜けな顔の連中ではなく、衛士とは思えないくらい精悍な顔つきをしている。

 一人は剣を二本持っており、もう一人は篭手と盾を装備していた。どちらも使い込んでいる様子がうかがえる。


(へぇ、こいつらは武人だな。衛士隊にもマキさん以外にちゃんとした武人がいるんだな)


 二人の衛士は、その佇まいからしても武人であることは間違いない。

 当然ながら実力はマキには及ばず、おそらくはザ・ハン警備商隊の隊長と隊員の中間くらいの強さだろうが、それでも衛士隊の中では貴重な戦力だと思われる。

 そんな彼らがここに配置されていることには、きちんとした意味がある。


「ホワイト様、ここより先は地下エリアとなっております」


 アンシュラオンたちが近寄ると、剣を持った衛士が先に話しかけてきた。

 言葉遣いも上の人間よりも丁寧で、なぜか様付けである。こちらに対する敬意のようなものすら感じられた。


「うん、知ってるよ。地下に用事があるんだ。オレのことは知っているんだね」

「はい。もちろんです。あなたが収監砦に入った日より存じております」

「衛士のわりに丁寧だね。どこかで会った?」

「いいえ、初めてお会いいたします。しかし、私も武人の端くれです。あなたのお噂はかねがね伺っております」

「犯罪者扱いだけどね。だからここに入っているし」

「我々武人には関係なきことです。四大悪獣の一角を打ち滅ぼした英雄であることには変わりありません。それは称えられるべき偉業でありましょう。少なくとも我ら二人は、あなたに対する敬意を失うことはありません」


 ザッ

 二人の衛士が、アンシュラオンに敬礼する。


 ここで二つのことがわかる。


 一つは、城塞都市の中でもさらに閉鎖的であろう収監砦でありながら、外の最新情報が簡単に手に入る場所であるということ。

 ホワイトの存在はたしかに有名ではあるが、城塞都市全域で噂が流れているわけではない。

 被害を受けた一部のマフィア連中、グラス・マンサーとより深い間柄の者たちしか知らないことだ。

 たとえば外部から来た人間には、直接被害が出なければ情報は伝わらないようになっているはずだ。

 せいぜいが「腕利きの医者がいる」くらいのことしか知らないはずである。

 もう一つが、アンシュラオンの正体がバレているということだ。

 領主がアンシュラオンの正体に気付かないのに、末端の衛士が知っているというのはなんとも皮肉なことだ。


「オレの正体はどうやって知ったの?」

「情報には『三種類』あります。表のもの、裏のもの、そして『武人のもの』です」

「なるほど。武人のネットワークがあるんだね」

「はい。その中においては派閥は関係ありません。そして我々は常々、都市の現状に不安を感じておりました」

「都市の防備に関してかな?」

「その通りです。いざというときは死すら覚悟して戦う所存でありますが、それでどうにかなる問題ではありません。より強き者を私たちは歓迎いたします」

「君たちみたいな武人がいて少しは安心したよ。この都市の危機意識は低いからね。心配していたんだ」

「ありがとうございます。それでホワイト様、ここより先は地下エリアとなります。差し支えなければご用件を伺いたいのですが」

「人を捜しているんだ。名前は…何だったかな? あいつの苗字はリンカーネンだったから…同じなのかな? 麻薬の持ち逃げで捕まったリンカーネンっていう中年の男は知ってる? 中にいるはずなんだけど」

「リンカーネン…ですか。残念ながら存じ上げませんが、麻薬関係ならばラングラス側のエリアにいるでしょう」

「ラングラス側のエリア? いくつかエリアがあるの?」

「失礼ですが、地下エリアのことはどれくらいご存知でしょうか?」

「囚人の中でヤバイやつらが集まっているって話くらいかな。各派閥の武人や凶悪犯が集まっているって聞いたよ」

「上の者たちから得た情報ですね。…もしよろしければ地下エリアについてのルールをご説明いたしますが、いかがでしょうか?」

「いいの? 入るのを止めないの?」

「止められるわけがありません。あなたに勝てる衛士はおりません。ならば必要以上の被害が出ないように、ご説明申し上げるほうがよろしいでしょう」

「合理的な判断だ。嫌いじゃないよ。じゃあ、教えてもらおうかな」


 衛士たちはアンシュラオンを止めるつもりはないようだ。

 噂の内容は知らないが、第一警備商隊を壊滅させただけでも十分な箔が付いただろう。止めたくても止められないのだから通したほうが楽である。

 ただ、シャイナの父親については知らなかったので、あくまでここを守るための門番といった役割なのかもしれない。

 あるいは武人らしく、自分より強い者以外には興味がない可能性もある。


「この収監砦ですが、地上部分と地下部分は完全に別の場所となっております。上の衛士たちが地下に関わることは一切ございません。上は普通の監獄ですが、下は別のルールによって統治されているのです」

「聞いた話だと、囚人が自治を行っているそうだけど?」

「はい。それは事実ですが、少々言葉が足りません。より正確に述べれば【四大派閥間による権力闘争】が行われております。その結果によって誰が支配権を持つかが変わるのです」

「そこにディングラスが含まれていないってことは、中で何があっても衛士は関与しないってことだね」

「その通りです。衛士は中立を保っています。介入することはありません」

「金や物の取引はともかく、中で殺人が起きても止めないの?」

「はい」

「ふーん、完全に独立した場所なんだね。でも、わざわざ刑務所内部にそんな場所がある意味があるの? 外とあまり変わらないなら、この場所の意味がないと思うけど」

「おっしゃることは理解できます。しかし、罪を犯した者を放置しておけば、一般の市民の方々にもご迷惑がかかります。それによって人の流れが止まってしまえば物流も減り、都市自体が衰弱してしまうのです。ですから収監砦には一定の意味と価値があります」


 基本的に各派閥間での抗争は禁じられているが、どうしても暴力沙汰が起きてしまうことはある。

 酔って暴れたり、うっかり殴って殺してしまったりすることもあるだろうし、縄張り争いで死人が出ることもある。

 そうした突発的なトラブルではなくても、必要に迫られて相手を排除しなければならないこともあるだろう。

 しかし、そうやって争いが激化していくと一般人にも被害が出てしまい、人が寄り付かなくなる都市になってしまう。

 経済とは平和な状況によってのみ活性化するのである。紛争で金が儲かるのは安全な他国であって、紛争国自体ではないことが重要だ。

 一般人が安全に暮らせるように、領主としては『対外的な見せしめ』が必要だったのだ。安全な都市であることをアピールする必要があった。

 かといってグラス・マンサーの組織の人間を大々的に処分することもできなかった。処分が偏りすぎると不満が出るからだ。


 それに対応するために収監砦の地下エリアが作られた。


 地上が駄目ならば、あとは地下しかない。そこに彼らが暮らす世界を作ってやる必要があったのだ。

 最初は派閥間の権力闘争などはなかったのだが、人が集まれば自然と闘争が起こるのが人間の性であろうか。

 次第に地上の組織も地下に対して影響を及ぼすことになり、地下でも四大派閥間の権力争いが起こるようになったのだ。


「地下でも権力闘争か。その結果に意味があるの?」

「たしかに直接的に外の力関係には影響いたしません。しかし、有事の際は地下エリアから人材が派遣されることもあります。その際に裏側で支配力を高めた人間は優遇されることになるのです」


(刑務所で幅を利かせて組自体を有名にさせるのと同じか。たしかに裏側で力を持つのは悪くない。他の派閥への圧力にもなる)


 力関係をはっきりさせるのは良いことだ。

 今衛士が言ったように彼らの中には「お勤め」を終えて組に戻る者もいるのだから、個人間で力の差を見せておくことでトラウマを植え付けることもできる。

 また、地下で強い力を得ておけば、今後送られる可能性がある他派閥の人間に対しては交渉材料にもなるだろう。

 何にせよこの都市は、四大市民あるいは五英雄絡みで物事が動いていくシステムが構築されているようだ。


「なかなか興味深い話だ。面白いよ。で、地下でも最大派閥はマングラスなのかな?」

「現在はハングラスが最大勢力となっております」

「え? ハングラスが? マングラスじゃないの?」

「はい。マングラスは下から二番目、三位となっております」

「んん? どうなってんだ?」

「マングラスは地下にはあまり力を入れていないようです。入ってくる武人も弱い者ばかりですし、粛清の大半もセイリュウ様個人で行っているようですので、地下には影響がないのです」

「ああ、そういうことか。外では最大派閥でも、ここではそうとは限らないんだ。むしろ逆になるのか」


 幹部クラスがわざわざ収監されることはないので、セイリュウがいくら誰かを殺してもマングラス側に逮捕者は出ない。そもそも同派閥なので問題にはならないのだ。

 入ってくるのは、マングラス内で他派閥と問題を起こした小物ばかりとなる。すると地下では弱い勢力となってしまう。


 そう、ここでは逆なのだ。


 逆に外でマングラスが強い力を持っているのは、地下に力を入れていないからともいえるわけだ。

 ただ、意図的に地下の勢力図を変えようと人材を派遣してくる組もいるので、その意味においてマングラスは地下に無関心だという。


「他の順位はどうなっているの? ラングラスは?」

「上からハングラス、ジングラス、マングラス、ラングラス、となっております」

「…また最下位か。さすがに笑えないな」

「派閥に入っていない中立の者もおりますが、一ヶ月に一度の【賭け試合】では、どこかの派閥に組しないといけません。それも含めた序列です」

「賭け試合? 面白そうな単語が出たね。何それ?」

「地下での権力争いはさまざまな方法で行われますが、その中で一番人気があるのが賭け試合です。互いに武人を出し合って戦う試合形式のイベントです。かなりの金も動きますので、そこで勝った派閥が一ヶ月間の統治権を得るのです」

「ほぅ…いいね。試合…か」


(収監砦だから期待はしていなかったが、思ったより中は楽しそうじゃないか。興味が出てきたよ)




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