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「欠番覇王の異世界スレイブサーガ」

作者  園島義船



□ 第六章 「収監砦」 編


345話 ー 354話




345話 「ソイドダディーの死 後編」


 ファテロナは滅刃を使用。

 特効の二倍ダメージを加えれば、彼女の攻撃でもダディーの硬質化した防御を貫くことができる。

 それでも所詮は表面を切り裂く程度だが、毒を扱う彼女にとってはそれで十分なのだ。

 ずるずるずるっ

 傷口から活性化した毒が侵入。ダディーの体内をむさぼろうとする。


(薬屋をなめてんじゃねえぞ!!! 毒がなんだってんだ!!)


 ダディーが奥歯に仕込んであったカプセルを噛み砕くと、苦い味の液体が広がった。

 強力耐毒薬、【坐苦曼《ざくまん》】。

 一時的に毒物の効果を中和させる薬で、いかなる毒素でも一定時間は完全に防ぐことができるという『凛倣過《りんほうか》』に並ぶ秘薬の一つである。

 これならばファテロナの毒とて防ぐことが可能である。実績と信頼性があるからこそ長く残っている薬なのだ。

 その強い効果の代償ゆえか非常に苦く、その苦味だけで常人ならば動けなくなるほどである。

 常人がそうなるのは身体中の毒素を中和するため、抗生物質のように体内全部に影響を及ぼすことが原因だろう。また、そうでないと意味がない。

 ダディーは強い武人なのでそのまま動くことができる。単に苦いのを我慢すれば毒が中和できるのならば、お安いものであろう。

 これもまたラングラスだからこその力だ。

 ジングラスが魔獣を操る力を持つのならば、薬物による肉体強化こそがラングラスの真骨頂であった。



 中和薬によって毒の汚染が一時的に抑えられる。


 が、あくまで一時的だ。


 このカプセルの効果時間は【一分間】。


 毒の種類を問わずに無効にできるという強力な薬ゆえに、効果時間がかなり短いのが最大の弱点である。

 連続服用も可能だが、一度使うと身体に耐性ができてしまって、しばらくは受け付けなくなることも扱いを難しくしている。

 毒に侵された直後に投与することで効果を発揮する薬、と思えばよいだろう。

 少なくともこれによって六十秒の時間を確保することに成功した。

 たかが六十秒。されど六十秒である。この時間は大きな意味を持つ。


(あの様子じゃ、すでに相当な血を流しているはずだ。血が毒だってんなら、使えば使うほど血を失うってことだ。長くは戦えない。すぐに勝負を仕掛けてくる)


 ダディーの戦闘経験値も高い。ファテロナが今までこれらの技を使わなかった理由も理解できる。

 ファテロナは血液自体が毒であるが、それはメリットにもデメリットにもなる。

 休んで血を作り出せば、生きている限りは半永久的に毒を使い続けられるが、戦闘中は毒攻撃を繰り出すたびに血液を消費していく。

 すでに述べたように武人の力は血の情報を読み込むことで引き出しているので、失血が一番怖い。血を失うごとに力も弱まっていく。

 打たれ強いわけでもないので、さきほどのダメージは相当なもののはずだ。今はテンションを上げて猛攻を仕掛けているが、それだけ余裕がない証拠である。

 上位技も使えば使うほどBPを消費する。はっきり言えば、ファテロナはすでに半死半生の状況なのだ。


(ならば話は簡単だ。坐苦曼が効いている間にラッシュで押し込んで消耗させる!!)


 体力ならばダディーのほうが上である。

 毒が一時的に無効化できるのならば、こちらのほうが圧倒的に有利だ。



「おらおらおら!!!」


 ダディーのラッシュ。豪腕が唸る。

 ファテロナは忍足で回避。ここで飛影を使わないのは消耗を抑えるためだろう。

 だが、逃がさない。さらに追い込んで鉤爪を振るう。

 今度は容赦せず鉤爪が彼女の頭を狙うが、そこにファテロナのカウンターが発動。


 ザクッ ぶしゅっ


 完璧なタイミングでカウンターが決まり、ダディーの胸に剣が刺さるも、当然今は毒を防いでいるので問題はない。

 かまわずに猛攻を仕掛けるために突っ込む。


 ブンブンッ ざしゅっ!


 鉤爪がファテロナの頬を掠める。最初に比べれば動きも少し鈍ってきたようだ。


(さすがラングラス! 何か投与しましたKA! ヤリますNEEEE!)


 ファテロナも血毒が入り込まない感触を受け、ダディーが何かしらの薬物を使用したと悟る。

 ただ、彼女も経験豊かな武人だ。ダディーの様子から制限時間があることを薄々感じ取り、一度間合いを取ろうとする。


「逃がすかよ!!」


 ダディーの追撃。

 炎龍掌を放ち、激しい爆炎が周囲を包む。

 今度は影を消すためではなく、直接彼女を焼くための攻撃だ。広範囲攻撃なので普通に避けることは難しい。


「HAAA! シントウメッキャーーークッ!! アッチーーーーッ!]


 ズバッ ブオオッ

 ファテロナは炎を剣で切り裂き、生まれた隙間から強引に脱出。

 ただ、強烈な炎に晒されたので身体の一部にかなりの火傷を負った。心頭滅却しても熱いものは熱いらしい。肌がただれる。

 やはりもともとの耐久値が低いのだ。テンションが上がったとて、ダディーの攻撃を受ければ大ダメージを負ってしまうことは変わらない。


「はーーはーーー! 血が足りないーーー!! チヌーーー!」


 ギュルルルルッ

 ファテロナが周囲から血毒の回収を始める。濃霧が一気に彼女に集まって消えていく。

 わざわざ血を回収するくらいならば自分から出さねばよかったのに、と誰もが思うが、そんな理屈が通用する相手ではない。

 その時にやりたいことをやりたいだけやる。無意味なことも楽しんでいるのだ。




「お前たちはさっさと逃げろ!! 巻き添えになるぞ!」


 その隙にダディーが、倉庫から耐毒薬を出し仲間に投与していたミエルアイブに勧告する。


「ここで逃げては特別上級衛士隊の名折れだ!! 最後までファテロナ殿を応援するぞ!」

「つーか、なんでお前は大丈夫なんだよ! 毒吸ってんだろう!」

「衛士隊の誇りである! こんなものに負けん!! むしろファテロナ殿の血ならばウェルカムである!」


 毒霧の中でもミエルアイブはまだ生きているし、あまり行動に支障をきたしていないようだ。

 非常に驚きの現象である。毒無効でも持っているのだろうか。あるいは髭に毒を吸収する機能があるのかもしれない。

 最後にキモい変態発言があったことも気になる。あまり関わりたくない人種だ。

 それにしても、まだ彼女を味方だと思っているようだ。その能天気さが羨ましい。


「状況を見ろ! あれがお前たちの仲間か!」

「当然だ! 彼女はお嬢様の侍従長だぞ! いいか、我々はこの都市の最高権力者たる領主様の下で働く、栄光ある者たち、選ばれた人間なのだ!! お前たちとは絆が違うのだ!! 熱く燃えるような愛情で結ばれた我々は、いかなるときも―――」

「AHAHAHAHAHAHA!!! 今度はお前が飛ぶんだ!! 何メートル飛ぶかなぁあああああ!!」

「あひっ!? えええええ!?」


 突如ミエルアイブの真後ろに出現したファテロナが、彼を掴んで―――ダディーに向かって投げる。

 女性とはいえ武人なので、大の大人が軽々と投げ飛ばされた。


 ヒューーーーンッ


「うおおおおおおっ!!」

「ちっ、馬鹿が!!」


 がしっ ぶんっ!


 両手に鉤爪があるので弾くわけにもいかず、仕方なくダディーはミエルアイブをキャッチすると同時に、遠くの地面に放り投げる。


「うぉおーーーーー!」


 ミエルアイブはガリガリガリッと装甲服を削りながら、向こうに消えていった。

 それを他の衛士たちが拾って移動していくのが見えたので、これでようやく邪魔がいなくなる。

 だが、そうすることを見越していたファテロナが、再び飛影でダディーの背後に出現。


「ヒトトオオオオオオーーーーーツッ!!」


 ブスッ!!


「ぐうっ!!!」


 ファテロナはダディーの背中に刺突を繰り出す。

 皮膚硬質化があるので深くは刺さらないが、それでも無防備なところに受けた一撃である。思わず呻くほどの一撃だ。


「ふんっ!!」


 スカッ

 ダディーが反撃した頃には、ファテロナは飛影を使って攻撃範囲から離脱していた。

 だが、直後にはまた出現し、刺す。


「ふたぁーーーーつぅうううう!!!」


 ざくっ!!


「MIIIIIIIっつぅううううううーーーーー!!!」


 ずばっ!!


 ファテロナの攻撃が続けてヒットする。


(こいつ! 『決め』にきてやがるな!!)


 明らかに今までとは迫力が違う。これで終わらす、という圧力が凄まじい。飛影も連続使用している。

 サッカーの試合を観ていても、彼らは九十分間、常に全力で戦っているわけではない。

 勝負所と流れを見極め、ある一定の時間帯に一気に勝負を決めにかかる。そこで致命的なダメージを与えれば、残りの時間はダレても勝つことができるからだ。



 それと同じように―――ここが決め時。



 さらに殺し合いともなれば、一回でも決めてしまえばそこで試合終了だ。

 それをいつどのタイミングで仕掛けるかが難しいのだが、ファテロナは今こそが勝負の時と考えているようである。

 ピピピッ

 ファテロナが攻撃を仕掛けるたびに血が舞い、ダディーに降りかかる。

 これは攻撃ではない。彼女の失血が激しく、もう霧状にできなくなるほど弱っているからだ。

 ファテロナにとっても、ここが限界ラインなのだろう。ダディーの立場からすれば、ここを耐えきれば勝てるということでもある。

 しかし、何やら攻撃した回数を数えているのが気になるし、不気味だ。

 無意味で理解不能な言葉とは打って変わって、戦闘においては非常に合理的な女性だ。人を殺すために最善の手を常に打ってくる。

 だからこそ、この数字にも意味があるような気がしてならない。とても嫌な予感がする。



「あははははは!! もうすぐ終わりですよ! あなたは死にますNEEEEE!!!」

「何言ってるか訳わかんねぇな。俺もてめぇを、すぐにぶちのめしてやるから覚悟しろや!!」

「AHAっ!! それは楽しみです!! W(よ)っつぅううううううう!! X(い)つつうぅうううううううっ!!!」


 ブシャッ!! ザクウウッ!!!


 ファテロナの剣が四つ、五つと身体に突き刺さる。

 ここでファテロナが、なぜ回数を数えていたのかが明らかになる。



 五つ刺された身体に―――明確な変化が起こった。



 ゾワワワッ ブワブワブワブワブワッ!


 ダディーの身体に濃紫色の【紋様】が五つ浮かぶ。

 肉眼ではよく見えないが、術士の因子がある者ならば、よりはっきりと幾何学的な紋様が見えることだろう。


 これは―――【血の術式】。


 突き刺した時に送り込んだ自分の血を媒体に術式を構築して刻み込んでいたのだ。もちろん刺青のようにしっかりと刻まれているので、こすっても取れることはない。

 そして、五つの術式が相互につながりあい、一つの大きな術式を作り上げようとしていた。


 暗殺術究極奥義、『九天必殺《くてんひっさつ》・絶対絶死《ぜったいぜっし》』。


 暗殺者の最大奥義(至高技)に、こういう名前の技がある。

 これは単体の技の名称ではなく、九天必殺には九つの章が存在し、それぞれが独立した技となっている。

 細かく見てみると―――


第一死・一天入滅《いってんにゅうめつ》
第二死・二天劫滅《にてんごうめつ》
第三死・三天塵滅《さんてんじんめつ》
第四死・四天破滅《してんはめつ》
第五死・五天霧滅《ごてんむめつ》
第六死・六天刺滅《ろくてんしめつ》
第七死・七天撲滅《ななてんぼくめつ》
第八死・八天粉滅《はってんふんめつ》
第九死・九天消滅《くてんしょうめつ》


 というように、名前を見ただけで不吉な印象を受ける技が九つも並んでいる。

 たとえば第一死の「一天入滅」は、細かいことを全部省いて一言で言えば、一撃で相手の脳天を破壊して殺す技だ。

 二天になれば、二撃で殺す技。三天になれば三撃で殺す技、といったようにヒット数が増えている。それによって区分けされているようである。

 名前を見れば、なんとなく死に方がわかるであろうか。


 今ファテロナが使っているのは第六死の「六天刺滅《ろくてんしめつ》」という奥義で、名前の通りに六回刺して殺す技である。

 六回も刺せばだいたい死ぬんじゃないか? 一回で殺すほうが凄くないか? という疑問はもっともだが、あらゆるタイプの暗殺者がどれか一つは体得できるように編み出されているので九つもある、ということだろう。

 武人のタイプや武器の種類に応じて使える技が異なるし、当然ながら才能によっても体得できるものとそうでないものがある。

 一天入滅を会得できれば一番かもしれないが、文字通りの一撃必殺は隙も大きくなるし消耗も激しいので、どの技がよいかは相手と状況次第であろう。

 ファテロナと相性がよく、体得できたのがたまたま第六死だったにすぎない。

 一つだけでも奥義扱いなので、これが使えるだけでもすごいことだ。

 この技はハンベエも使えないし、狐面も使えない。彼らとは暗殺者としてのレベルが数段違う。これこそ彼女が第七階級の達験級である証である。



 この九天必殺の怖ろしいところは、これらはどれも『即死無効貫通』の【絶対即死技】だということだ。



 絶対に死する、と技に書いてあるだろう。その通りの意味である。

 そう、仮にスキルで『即死無効』を持っていても貫通するのだ。これがいかに凶悪なのかは容易に想像がつくはずだ。

 即死とは、データ的にいえばHPが即座に0になることだ。もっと詳しくいえば、最大HP分のダメージを与えるということでもある。

 攻撃力がいくら低くても関係ない。相手のHPを強制的に0にしてしまう。だから即死技は怖いのである。

 武人の中には『即死耐性』あるいは『即死無効』を持つ者も大勢いるが、これは逆説的に考えれば、今まで数多くの者が即死技で殺されたがゆえに血が対抗策を練ってきた、ともいえるわけだ。

 こうして耐性を持つ者が増えれば、暗殺者の脅威も減る。『身代わり人形』などの術具も、そうした需要の多さによって生まれたものである。

 これで安心―――と思っていたわけだが、いつの時代もどの分野でもイタチごっこは起こるものだ。

 即死技を得意とする彼らが黙っているわけもない。そこで生まれたのが九天必殺という奥義である。


 もっといえば九天必殺とは、「九つの技を同時に相手に叩き込むことで絶対に殺す」ということから生まれた名前である。


 これを編み出した最強の暗殺者であった女性は、『実分身』を使って九つに分かれ、単独の相手に同時にすべての必殺技をお見舞いしていたのだ。

 どれか一つでも即死攻撃が通れば終わりである。これならば相手がどんなタイプの武人だろうが、必ず殺すことができるというわけだ。

 どうせなら全部やればいいじゃん、とは非常にシンプルな考え方であろう。

 が、さすがにそれでは難しすぎる(ほぼ不可能)ということで、九つに分かれたのが今に伝わる九天必殺の姿である。

 だが、各天が一つに分かれたとて、その脅威は変わらない。


 ファテロナは、すでにダディーの身体に五つの「死印」を刻んでいる。


 これこそが『即死無効』を解除する術式なのだ。それはあと一つで完成すると同時に相手の命を奪うものとなるだろう。



「SAAAAAAA!!! これで終わりです!!! 素敵な夜をありがとう!! アバンギャーーールドッ!! サンキュッ!」


 アバンギャルドとは、軍事的な意味の「前衛」という意味から芸術的な「前衛的」という意味でも使われる言葉だ。

 が、ヌード写真も敬遠されていた一昔前の日本では、男性の腹下(半分陰毛)あたりが映っている写真も「FU〜! アバンギャルド!!」とか言われていたそうなので、「胸毛」や「陰毛」を指す隠語になっているという話もある。

 おそらくファテロナは「アバンチュール(恋の冒険)」という意味で使いたかったのだろうが、興奮しているので「胸毛」あるいは「陰毛」と間違えた次第である。

 当然、これに意味はない。基本的にファテロナの言動には無駄しかないので、最後の決めで当人のテンションが上がっただけである。



 ファテロナが迫る!!



 勝利を確信したのか真正面から突っ込んでくる。


(油断したな! 何かやるつもりだろうが、さすがに甘く見すぎだ!)


 これでもダディーは慌てていない。

 六天刺滅が非常に危険な技だと勘付いていても、死線を潜り抜けてきた男は冷静に反撃のチャンスをうかがっていた。

 ファテロナが突っ込んできたところに渾身の一撃を与えるため、構える。


 そして両者が間合いに入り―――



「ヒーーーーハーーーッ!!」


「おおおおおおっ!!!」



 ファテロナが剣を突き出す。

 ダディーが拳を繰り出す。


(俺のほうが一瞬速いぜ!!)


 待ち構えていたダディーが完璧なタイミングで拳を合わせる。

 この一撃ならばファテロナの顔面が砕ける威力だろう。今となってはそれも仕方がない。

 覚悟を決めて打ち出す!!




 そして、、ダディーの拳がヒットするかと思われた瞬間―――




―――消えた




「なっ―――!!」


 ズズッ


「HUFUFUFUっ!! 絶対に殺す! それが九天必殺!!! クモン必読!!! なのです!!!」


 まさかの【飛影による移動】でダディーの背後に出現。

 直線的な動きはフェイントだったのだ。この女、頭はイカれていても殺しに関しては超一流である。

 最後の最後まで油断などしない。彼女もダディーが強いことなど知っている。

 今こうして押せているのはスピードで翻弄しているからであり、血を失って動きが鈍れば勝ち目がないことなど、とっくに知っているのだ!!!




「SINEEEEEE!! ハッスルハッスルゥウウウッ!!」




 ズブウウッ!! バチイイーーーーーーーーーンッ!!




 ファテロナの一撃が、背後から心臓に突き刺さる。


 それと同時に必殺の術式が発動し、ダディーの身体に死神が舞い降り―――





―――HPがゼロになる





「―――っ…ぐはっ……」


 視界が急速に暗くなっていく。自分に死が訪れることがわかる。

 痛みはない。むしろ死ぬときは痛くないものである。だからこそ自分が死に至る道を歩んでいるのが、はっきりとわかるのだ。

 意識が遠ざかる。やたら眠い。まるで闇の女神に抱かれているような安堵感すら感じる。

 死は怖れるものではない。ただの地上人生の終わりにすぎない。

 これだけ激しい人生だ。この安らかな誘惑に耐えられる者など、誰もいないのだ。



(あぁ…やれやれ…だな。こんな女に殺される…とは。まったく…ついてねぇな。ビッグ、リトル…マミー、オヤジ…俺は…こんなところで……ぁあ―――)



 がくんっ


 そのまま身体中から力が抜け―――ダディーは死亡した。





346話 「ソイドビッグ、咆える 前編」


「あっ」

「あっ」


 両者が出会い、互いに驚きの声を出す。

 リトルを安全な場所に退避させたソイドビッグが、逃げてきたミエルアイブと遭遇したのだ。


「てめぇ!! よくも弟をやってくれたな!!」

「そこを動くな! 撃つぞ!」


 ミエルアイブに突っかかろうとするビッグの前に、衛士たちが銃を持って立ち塞がる。


「邪魔するんじゃねえ!」

「ぐあっ」


 が、簡単に薙ぎ払う。

 そして、装甲服を脱いでいたミエルアイブの胸倉を掴んで片手で宙吊りにする。


「ぐぇええっ!! 何をする!! 公務執行妨害で逮捕するぞ!」

「ああ!? やってみろや、こらぁ!! ソイドファミリーをなめてんじゃねぇぞ!!」


 重ね重ね言うが、アンシュラオン相手だと何もできないビッグも小物相手には強い。

 こう見えても武闘派であるソイドファミリーの若頭だ。うっかり忘れそうになるが、巷では怖れられる武闘派ヤクザの一人なのである。

 その圧力をもってミエルアイブを詰問する。


「なんでお前がここにいる! 逃げてきたのか!」

「なんだと! 逃げたのではない! こちらに前進しているのだ!」

「屁理屈言いやがって! 同じだろうが! ダディーはどうなった! そっちに向かったはずだぞ!」

「や、やつなら…ファテロナ侍従長と戦っている…」

「ファテロナ!? ディングラスの狂人かよ!!? なんであいつまで…というか、どうして俺たちに攻撃を仕掛ける! 誰の差し金だ!!」

「ふん、衛士隊の長は領主様に決まっておろう! 直々のご命令だ!」

「訳がわからねぇ…! 理由はなんだ!? 吐け!!」

「ぐううっ…それは…!」

「この場で殺されたいのか!」

「ぐええええ!」


 ギリギリと強く首を締め上げる。

 この大男の圧力は武人でなければ耐えきれない。仕方なくミエルアイブが吐く。


「わかった! わかったから、まずは放せ! 死んではしゃべられないぞ!」

「ふんっ! ほらよ」

「はーはー、まったくお前たちはディングラス家への敬意というものが足りぬな」

「いきなり攻撃を仕掛けられて、そんなもんを抱けるかよ。そもそも各派閥は平等のはずだろうが。役割が違うだけだ。それで、何が原因だ? 命惜しさに適当にだまくらかすなよ」

「嘘など言わぬ。本当は機密であるが…お前の父親には助けられたし、ファテロナ殿がすでに言ってしまったからな。仕方ない。理由は…お前たちがお嬢様に麻薬を渡したからだ。領主様がお怒りになられるのは当然だろう」

「お嬢様…? イタ嬢か?」

「ベルロアナ様と呼ばんか! 不敬であろう!」

「うるせぇ! 俺だってラングラスの直系だぞ! 身分的にはあまり変わらねえよ! それより、どういうことだ! なんでシロが渡ってやがる! うちにはディングラスに麻薬を売るような馬鹿はいないはず……」

「お前たちがホワイトとつながっているのはわかっているぞ! 諦めてお縄につけ! それですべてが済む話だったのだ!」

「なっ、ホワイト…だと!」

「無駄に抵抗をするから犠牲が増えた。…くっ、これほどの被害が出てしまうとは…領主様に報告すると思うと胃が…胃が痛い!! ラングラスなのだから胃薬くらい持っているだろう。あったら分けてくれ」

「………」


 ミエルアイブの言葉がまったくビッグの耳に入ってこない。それだけショックを受けたのだろう。



―――ホワイト



 その言葉ですべてを理解した。

 これほど雄弁に原因を語っている言葉も珍しい。この名前を出せばすべてが理解できるとは、なんと便利な名称だろう。


 あの男が全部悪い。


 これ以上の説明は不要である。

 アンシュラオンがイタ嬢にコシノシンを渡したのは、最初から衛士隊と揉めるためである。

 そして、その矛先がソイドファミリーに向かうことも計算してのことだ。

 イタ嬢とあの場で出会ったのは偶然だったが、そのうち届けようと考えていたのは事実である。遅かれ早かれ起きたことだ。

 デパートでの買い物も、すべてこの時のため。自分とソイドファミリーが結託している様子をアピールするためである。


 そもそもアンシュラオンの目的は、『金を得る』ことだ。

 それと同時に【目立たない】ことも重要だ。

 いくら金を手に入れても誰かから狙われる煩雑な日常は嫌だろう。手に入れた金を気ままに使うためには自由も必要なのだ。

 ではなぜ今こんなことをしているかといえば、【終局への道筋】がはっきりと存在するからにほかならない。

 ソブカとの共闘によって多少の変化が生まれたが、最終的にはアンシュラオンが思い描いた通りの状況が生まれている。


 これはすべて―――予定通り。


 唯一の予想外があるとすれば、ソイドダディーが死んだことくらいだろうか。

 まさかファテロナと戦うとは思ってもいないだろう。せいぜい派手に揉めてくれればいいくらいに考えていたことだ。

 ただ、仮にそうなってもアンシュラオンが困るわけではない。最終的に麻薬の利権を手に入れれば問題はないのだ。

 むしろ死んでくれたことはラッキーだろう。ある意味において手間が省けたともいえる。この状況ならばソイドファミリーが滅んでも辻褄が合う。


 当然そのことをビッグが知る由もない。


 豚君は台本も知らずに舞台の上でブヒブヒ踊るだけが仕事だ。このショックの表情も演技ではないから意味がある。

 豚は華麗に踊る。踊らされる。


 それに対してビッグの苛立ちが頂点に達する。



「…またかよ。またここで…あいつが…! ちくしょう、うんざりだ! いいかげん、あいつに振り回されるのはうんざりなんだよ!! いいか、よく聞け!! イタ嬢にシロを渡したのはあいつであって、こっちは関係ねぇ! 言いがかりなんだよ!」

「もう遅いわ! そんな言い訳が通じるか! 麻薬の氾濫が都市の治安を悪化させていることに変わりないのだ! 摘発には正当な理由がある!」

「てめぇらだって好き勝手やってきただろうが! 汚ねぇ野郎だぜ!」

「我々上級衛士隊は他の者とは違うのだ。賄賂を受け取るような輩と一緒にするでない」

「くそっ!! どいつもこいつも…! 自分勝手な!」

「それよりこんな場所で油を売っている暇はなかろう。貴様の父親が負けそうであるぞ。私が言うのもなんだが、早く行ったほうがいいだろう」

「はぁ? 何を言ってやがる! ダディーが負けるわけがないだろうが! あの人はラングラスで一番強いんだぜ!」

「たしかに強いな…戦車ですら破壊するのだからな。さすがと言っておこう。だが、あくまでラングラスでは、だ。貴様らこそファテロナ殿を侮らぬほうがよいぞ。伊達に領主軍のトップにいるわけではない。どうやら今回は本気のようだ。お前の父親でも危なかろう」

「なんだそりゃ!? 普段は手抜きしているってのか?」

「以前領主城に侵入した者を逃したことがあるようだが、それはおそらく勝てないと知っていたからだ。勝てない勝負では力を出さない。それもまた優れた武人の資質なのであろうよ。常人の私にはわからぬ世界だがな」


 事実、ファテロナがアンシュラオン戦ですべてを出していないことは、この戦いを見ればわかるだろう。

 なにせ相手が悪すぎる。

 最初の羅刹を見た時点で実力を見抜き、全力を出しても負けることがわかっていたので、無駄にあがくことなく抵抗をやめたのだ。(裸だったし)


 ここで一つの疑問が生まれる。


 仮に彼女が今回のようにフル装備で、すべての技と奥義をフル活用した場合、結果はどうなっていただろうか?

 その状況をシミュレートしてみるが―――



 結果は―――ワンパン。



 飛影で背後に移動しても、そこからの動作は通常の彼女の動きである。

 素の動きがすでにファテロナ以上のパミエルキと組手をしていた男である。その程度ならばアンシュラオンには容易に対応できる。

 ワンパンチで終わりか、あの時に持っていた斧で殴って終わりだ。

 では、六天刺滅を使ったらどうなっていたか?


 それも―――ワンパン。


 あの男相手に六回も攻撃を当てることが、いかに難しいかはプライリーラたちを見ていればわかるだろう。

 あれだけの武人と魔獣を相手に、直撃らしい直撃は一発も受けていないのだ。

 せいぜいアーブスラットが惜しいところまでいったくらいだが、あれも実力差を見せるためにわざと打たせたものだ。

 そんな化け物に六発当てるなど不可能だ。もしアンシュラオンが本気ならば、最初の一発目にカウンターを合わせられ、顔が粉々に吹き飛んで死亡である。

 ファテロナが強いからこそ、アンシュラオンの強さが理解できる。

 ここまで差がある場合は、生き延びたときにそなえて奥の手は見せないことが重要だ。このあたりは強い武人のしたたかさが発揮された場面であるといえよう。


「ダディーが負けるとは思わないが…くっ、嫌な予感はするな。ホワイトが関わる案件は全部ヤバイってのが相場だ」

「わかったら、自分など放っておいて行くがいい。今回は特別だ。見逃してやろう。恩を受けたままでいるわけにはいかん。少なくとも今日は、これ以上はお前たちに手は出さぬ」

「いちいち偉そうなやつだな、お前は!! 壊滅状態で出せないんだろうが」


 衛士隊の多くは毒にやられて意識不明の状態であり、馬車の荷台に寝かされて運ばれている。

 耐毒薬は投与したので死ぬことはないだろうが、即座に入院が必要なレベルであった。強い武人が少し暴れただけでこの有様だ。

 その惨状には、ミエルアイブ自身も心を痛めている。


「…我々とて好きでお前たちと争ったわけではない。それは理解してもらいたい」

「んなこたぁ、わかってんだよ! 悪いのは全部あいつだからな!!」

「我々に怒りは感じないのか?」

「あ? あいつ以上にムカつくやつなんているかよ!! てめぇもムカつくが…ああ、どうでもいい! やっぱりあいつのほうが数万倍はムカつく!! あんなやつに踊らされやがってよ!! 俺もお前も災難すぎるぜ!!」


 ビッグはミエルアイブを無視して、さっさと工場に急ぐ。

 ダディーが心配なこともあるだろうが、今さっきまで殺し合いをしていた者たちである。その連中をあっさりと見逃せるというのは、なかなか見ない光景であった。

 人間はさらに大きな悪(ホワイト)に対する際、小さな悪にこだわらなくなるものなのだろう。

 凶悪な殺人者をどうにかしないといけない時に、いちいち万引き犯にかまっている暇はないのと同じだ。

 それでも怒りは簡単に消えないものだ。やはりビッグの中には「同族」への愛情があるのかもしれない。

 もともとソイドファミリーは身内を大切にする。それを少し大きく広げれば「グラス・ギース全部が家族」ともいえるわけだ。

 アンシュラオンという外部からの敵がいると思うと他派閥すら仲間に感じられるのだ。

 よく少年漫画である「県大会で死闘を演じた敵が、全国大会では味方になって身近に感じるパターン」である。


「あの若者が甘いのか…それともそれが本来の姿なのか。我々が力を合わせられれば一番よかったのだがな…」


 そんな若者を見て、ミエルアイブは失われた栄光の日々を夢想する。

 五つの家がすべてそろったならば、かつての偉大なる五英雄の再来となれたかもしれない。

 その時こそグラス・ギースが【災いの名】を捨て、本来の姿を取り戻せる最大の機会となるのだろうが、このいがみ合っている状況では不可能なことだ。

 それが何よりも惜しいと思うのであった。




347話 「ソイドビッグ、咆える 後編」


 ソイドビッグが工場に着いたときには、ファテロナが最後の猛攻を仕掛けていた時であった。

 ビッグはその光景に目を丸くする。


(な、何が起きてやがるんだ! み、見えねぇ!! あれで本当に戦っているのかよ!?)


 すでにその領域は彼が立ち入れるものではなかった。

 あまりにレベルが違いすぎる。動きが速すぎて、ファテロナがどこにいるかも認識できないほどだ。

 ダディーが傷ついたり周囲の地面や木々が破壊されていくので、それでようやく戦っていることが理解できるほどだ。

 ここにきて彼は本格的に自己の未熟性を知るに至る。


(ちくしょう、ホワイトの言っていたことは事実だったぜ! 俺なんて話にならないほどガキじゃねえか!! あの野郎は最低のクソだが、戦いに関しちゃ憎らしいほどに間違ってねぇ! かろうじてダディーが劣勢だってことくらいしかわからねぇよ!)


 それがわかるのも、ビッグが少しばかりでも成長したからである。

 陽禅流鍛練法を受けて死線を潜り抜けたからこそ、この達人の領域の偉大さがわかるのだ。

 肌が大気を通じて武人の戦いを感じる。そこにわずかに含まれる殺気に反応できるのだ。

 これもヤドイガニ大先生の教えの賜物であろう。やはり実戦こそが武人を一番強くするのである。




 そして、ビッグがただ見守るしかできない中、ついに【あの瞬間】が訪れる。




「SINEEEEEE!! ハッスルハッスルゥウウウッ!!」



 ズブウウッ!! バチイイーーーーーーーーーンッ!!


 ファテロナの一撃がダディーに命中。背後から心臓を抉る。

 『即死無効貫通』の即死攻撃なので、これが決まれば確実に死に至る。だからこそ怖れられている奥義なのだ。

 仮にこれがアンシュラオンであったとしても、その術式が効果を発動させてしまえば即死するだろう。『基本的に』世界の法則を歪めることはできないからだ。


 九天必殺・六天刺滅は、相手を確実に殺す技。


 それをすべて受ければ、訪れるのは死のみ。




 ダディーが―――死ぬ。




 身体から力が抜けていく。

 瞼が半閉じの白目になり、両手がだらんと垂れ下がり、首がかくんと垂れる。

 それでも立っていられるのは気迫のおかげだろうか。死してなお立ち続ける姿には天晴れというしかない。



 とくんとくん―――ぴたっ



 ずぶっ

 HPが0になった証拠でもある心肺停止を確認して、ファテロナが小剣を引き抜いた。


「…あー、だりー。疲れたー、もー無理でございますー、ちぬー」


 だるだるメイドに成り下がったファテロナからも、がくんと力が抜ける。

 怪しい言動ながらも常に平静だった彼女が、ここまでだらけぶりを表に出すのは珍しいことだ。

 白かったメイド服も半分以上が自身の血で赤く染まっており、戦いがいかに激しかったかを物語っている。

 ディングラスとラングラスの最強の武人同士が本気で戦ったのだ。


 その激突は―――どちらかの死によって終わる。


 まさに死闘と呼ぶに相応しいものであった。疲労は極限状態だろう。



「ま、まさか…マジかよ! だ、ダディー!!」


 ようやく状況を認識したビッグが、よたよたとダディーに近寄る。

 いつもの彼ならばリトルを助けたように猛ダッシュするはずなので、いかにショックが強かったかがうかがえる。


「あら、いらしたのですか」


 ファテロナも今になってビッグの存在に気付く。

 視線に敏感な暗殺者がここまで接近を許すのも珍しいことである。これも相当弱っている証拠だ。


「誠に申し訳ありませんが、ダディー様はお亡くなりになりました」


 一応侍従長らしく、ビッグに対して優雅に一礼してみせる。

 しかし、ビッグはそんなものは見ていない。


 よた よた よた

 よた よた よた


 ゆっくり歩く。

 ゆっくり歩く。

 ゆっくり歩く。


 一歩ずつ大地を踏みしめることで現実を理解できるように、理解しなければならないと言い聞かせるように歩く。


 そして、十数秒かけてダディーにたどり着き、身体に触れてみた。



 心臓は―――止まっている。



 何度押し当ててみても心臓が止まっている。脈拍がない。

 さらに、どんどん冷たくなっていく。血流が止まったことで体温も急激に下がっていっているようだ。


「そ、蘇生を…き、気付け薬を…!」


 ラングラスには、いわゆる蘇生薬と呼ばれている『気付け薬』がある。

 何かしらの原因で血流が弱まって気を失ったり、朦朧とした場合に使うもので、強制的に意識を覚醒させることができるものだ。

 ビッグはカプセル状の気付け薬を取り出し、尖端のキャップを外して針を出す。

 これは液体状の薬品を入れておくカプセルで、他の薬でも代用できる携帯用の注射だと思えばいいだろうか。麻薬摂取にも使われるので彼らが持っていても不思議ではない。


 ブスッ チュウウッ


 針をダディーに押し当て、中の薬を注入する。


「………」


 ビッグは言葉も発さず、ひたすら覚醒するのを待つ。



 だが、一分経っても二分経ってもダディーが復活することはなかった。



 そもそも簡単に針が入ること自体が問題である。

 もし『皮膚硬質化』スキルが発動していれば針など簡単に折れてしまうのだから、今現在スキルが使われていない何よりの証拠であろう。

 つまりは、もうBPもゼロになった、ということだ。

 BPは生体磁気の量なので、身体的活動が止まったことによって供給が止まったのだ。

 結局のところ気付け薬というものは、まだ息があって血流が生きている人間にしか効果がない。

 もし死んでいれば、何度やっても、どれだけ待っても何も起きないのは当然だろう。


 そのことを徐々に受け入れ始めたビッグの顔が―――強張る。



「なんで……こんな…! なぁ、ダディー! 嘘だろう!? 嘘なんだろう!!! なぁっ!!!」


 バンバンと身体を叩くが反応がない。

 即死攻撃はHPを0にする技だ。ゼロといったらゼロなのだ。

 ただ、このHPであるが、同じゼロでも状況によっては蘇生する可能性がなくはない。

 たとえば身体が完全に砕け散ってしまえば、さすがにHPうんぬんの問題ではないが、身体の損壊具合が軽微であったり、まだシルバーコードが切れていなければ可能性はある。

 即死攻撃は文字通り即死だが、術式による即死なので身体はかなり綺麗なほうである。もしかしたら、まだ霊体が肉体から離れていない可能性もある。


 であれば、切れるまでの数分間が勝負となるだろう。


 もちろんシルバーコードも人それぞれ状況が違うため、切れるまでどれくらい時間がかかるかはそれぞれ異なる。

 ただ、戦闘での死亡の場合は、即座に切れるか数分間以内というのが一般的だ。(実際の霊体の切り離し時間とは別)


 こうなると地球での救命措置のように、一秒ごとに蘇生できる確率が減っていく。


 すでにダディーは心肺停止から三分以上経過している。この段階でかなり難しい状況だ。

 ここからでも治せるとしたらアンシュラオンの命気か、一部の高位の魔王技くらいなものだろう。

 命気でもギリギリといったあたりなので、その二つのどちらも持ち合わせないビッグにはどうしようもない。


「ぁっ…ああ……」


 ビッグは、放心したようにうな垂れる。

 ソイドファミリーの家族の結束は非常に強い。誰も頼れない厳しい世界では家族だけが最大の拠り所だったのだ。


 その一家の大黒柱が―――死んだ。


 このショックは極めて大きい。ソイドファミリーにとっても大きいし、ラングラス一派にとっても大打撃だ。


(ダディー、俺はこの先…どうすりゃいいんだよ。何を頼ればいいんだ…何を信じればいいんだよ…何もわからねぇ…)


 本当にショックの時は涙すら出ないと聞くが、まさにその通りである。

 まず何よりも、この状況自体が理解できない。なぜこうなったのか頭が追いつかない。

 そんな中、このマイペースでクレイジーな女性がビッグを逆撫でする。


「死亡確認!」


 何を思ったのか、ファテロナがソイドダディーの額に手を伸ばし、「あの言葉」を発してしまう。

 なぜそんなことをしたのかは謎なのだが、当人に悪気があるわけではない。

 空気を読まないのは、ただの病気なのだ。許してあげてほしい。

 特にいじって楽しむ獲物(ベルロアナ)がいない場合、彼女の無邪気な好奇心が他者に向けられるようになるので危険が増す。

 領主がいろいろあってもイタ嬢の護衛に彼女をつけているのは、そのほうが安全に制御できるからだ。

 領主軍にとって一番怖いのがファテロナが暴走することなので、そのストッパーとしてベルロアナが必要だということだ。

 その意味では、何もしなくてもベルロアナは相当に役立っているといえる。当人の知らないところで、だが。


 とはいえ、家族を失った者の目の前でやることではないだろう。


 たとえば病院で、父親を失ったばかりの息子に葬儀屋が「このコースはこの値段になりますが、どうします?」と訊くようなものだ。

 まったくもってデリカシーのない発言だと誰もが思うだろう。今言うことではない。

 イラっとして当然。ムカついて当然。




 殴られて―――当然!!!




「てめぇえええええええええええ!!!」


 ボオオオオッ!

 その瞬間、ビッグが切れる。

 戦気が燃え上がり、そのままの勢いでファテロナに殴りかかった。

 女とはいえ容赦はしない。全力で顔面に向かって拳を繰り出す。それだけ怒っていた、ということだ。

 ショックで忘れていたが、目の前には親の仇がいるのだ。武人ならば闘争本能が刺激されてしかるべきだ。


「いやぁああ! 何をなさるのです! 暴漢だー! 暴漢が出たぞー! ヤラれるー!」


 シュッ

 と言っておきながらビッグの拳を難なくかわすと、カウンターで首筋に手刀を叩き込む。

 スパッ ぶしゅっ

 暗殺者として研ぎ澄まされた彼女の一撃は、それが素手であっても凶器となる。

 簡単にビッグの首を切り裂き、ぶしゃっと血が噴き出した。


「ぐっ…てめぇ……」


 ビッグは首筋を押さえて後退する。

 まだ動けるところを見ると、どうやら傷は浅いようだ。

 運がよかったのは、それが本気で殺すための一撃ではなかったことと、ファテロナが血を失いすぎて毒素を引っ込めたことだ。

 もし本気だったらバッジョーのように首が裂けるほど掻っ切られていただろうし、毒によって死んでいただろう。

 しかし、さすがの彼女も血を失いすぎた。これ以上の毒の使用は命に関わるのでセーブしたのだ。


「ちぃっ!! 半死半生じゃねえのかよ!」

「はい。今すぐにでも倒れそうです。これ以上はマジ無理です。吐きそうです! おえぇっ! 産まれそう!!」

「それでこれかよ!」

「それだけあなた様が弱いということでありましょう。しかし…あなたはダディー様の足元にも及びませんね。そんな弱いのに、なぜ向かってくるのですか? 頭が悪いのですか?」

「んなことはわかってんだよ!!」

「なるほど、頭が悪い、と。しかとメモしておきます。では、油性ペンで『肉』…と。カキカキ」

「どわっ! 何しやがる!!」


 なぜかビッグの額に「肉」の文字が書き込まれる。

 不思議だ。その文字が入るだけで強そうに見える。


「そっちじゃねえよ!! 弱いことなんぞわかってんだよ! だが、そんなに強くてもホワイトにはかなわないじゃねぇか!! てめぇも俺と同じだ!!」

「その通りです。それが何か? 私が悔しがるとでも思っているのですか。次は『中』の文字を書きますよ」

「てめぇら衛士隊は馬鹿か!!! まんまとホワイトのやつに踊らされやがって!! 全部あいつの差し金なんだよ! 思い通りなんだよ!! イタ嬢に麻薬を渡したのだって、こうやって俺たちを仲違いさせるためだ!! そうやって楽しんでやがるんだよ! あのクソ野郎はな!!!」

「私は衛士隊ではございません。あくまでお嬢様の侍従長です」

「やらされていることは同じだろうが! それに対して何も思わないのかよ!!」

「お嬢様以外のことはどうでもよいのです」

「そのイタ嬢を麻薬漬けにしたのはホワイトだろうが!」

「あっ、それには大賛成ですので」

「受け答えがおかしい!? あんた、頭がおかしいぜ!!!」

「ありがとうございます。ぽっ」

「なんで頬を赤らめるんだ! 意味がわからねぇ!!」


 普段ファテロナと話し慣れていないビッグには、彼女の思考はまったくわからない。ただただ困惑するばかりだ。

 いや、思えば領主やイタ嬢でさえ理解できていないので、誰も彼女とはわかりあえないのかもしれない。ある意味で一番イタイ女である。



 そして、この変なイカれ女と接触したことで―――ビッグがさらにキレる。



「ふざけんじゃねぇぞ!! ふざけるんじゃねええええ!! 俺は…俺はよ! 家族が一番大事なんだよ!! そうだろう! 家族を守るためにこうやって我慢してきたんだぞ!! それがそれがそれがそれがぁああああ!! こんなことで失ってたまるかよおぉおおおおお!! ふざけんじゃネェエエエエええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!」



 ボオオオオオッ!!!

 ビッグの身体から非常に強い戦気が湧き上がる。

 極限にまで膨れ上がった怒りと激情が彼に力を与えたのだ。

 その怒りは『小さな悪であるファテロナ』には向かず、当然ながら『より大きな悪であるあの男』に向く。



「ホワイトぉおおお!! 許さないからなああああ!! 俺はお前を絶対に殺してやる!!! ホワイト商会なんて、俺が全部ぶっ潰してやるぞおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」



 獣のように咆える。

 それがただの「負け豚の遠吠え」であっても、彼は咆える。咆え続ける。

 今までの不満を全部吐き出すように、大声で。

 弱い自分に対する怒りも、なさけなさも含めて、全部全部吐き出す!!




348話 「ラングラスの伝説 前編」


 ビッグが咆える。

 激情した勢いなのだろうが、あろうことかアンシュラオンを殺すとか言い出した。

 当人が聞けばジョークにしか思えないので問題ないのだが、他人が聞くとなかなか痛々しく思えてくる。

 特に実際に戦ったファテロナからしてみれば、「私、お姫様になるのー」や「僕はいつかスーパーマンになる」といった子供の荒唐無稽な将来像のようなものに匹敵するだろう。

 それは子供だから許されるわけなので、さすがにこの男が言うには痛すぎる。


「あなたでは永遠に無理です。あの方に勝てる人間は、少なくともこの都市にはおられませんよ。私が保証しましょう」

「そんなことは関係ねぇえ!! 全部あいつのせいだろうが!!! 俺はあいつをぶっ倒すからな!! 絶対にだ!!!」

「ぷっ、額に『肉』って書いてありますよ。そんな顔で言われてもギャグにしか感じません」

「書いたのはあんただろうが!!!」

「お止めはいたしません。ご自由にどうぞ。では、私は超疲れてるので、これで失礼いたします。明らかに労災です。そうだ、労災だーーーー! 労災だぞーーー! 訴えてやるからなーーー! チクショーー!」

「なんなのこの人!? 頭おかしーぜ!!」


 ファテロナの場合、労災は労災でも『精神障害』の労災かもしれない。

 ただ、入った時から頭がおかしいので認定はされないだろうが。



「てめぇ、このまま逃げるつもりか! 人の親殺して、ただで済むと思うなよ!」

「まったく…これだから親子ごっこは面倒なのです。オママゴトはよそでやってくださいませ。ただでさえこっちは、デブの領主様相手で疲れているのです。あっ、卑猥な意味ではありませんからご安心ください」

「てめぇ!! なめやがって! 殺す!!」


 ビッグが帰ろうとするファテロナに再び殴りかかる。

 が、何度やっても結果は同じだ。

 こちらも再びビッグの拳をよけ、カウンターで一撃を入れる。

 ドスッ

 ただし今度は素手ではなく、暗殺ナイフをみぞおちに突き刺した。綺麗にずっぷりと刺さっている。


「ぐっ…」


 ビッグが思わず身体を屈める。

 防御の戦気の展開すら間に合わない早業である。気が付いたら刺さっていたレベルだ。

 これだけ重傷でも技の冴えは衰えていない。これこそが達人と呼ばれる所以なのだろう。


「私に勝てない人間が彼に勝てるわけがありません。今お逃げになれば死なないで済みますよ」

「こんなもんが…こんなもんが……なんだってんだぁああああああ!!」


 ビッグはナイフが突き刺さったまま反撃。

 拳のラッシュを繰り出す。

 ブンブンブンブンッ スッスッスッ

 その攻撃を軽くかわすファテロナ。

 ダディーでさえ捉えるのが難しかった相手だ。ビッグには荷が重い。


 そこにファテロナのカウンター。


 ドスドスドスッ

 どこに隠し持っていたのか、さらに三本のナイフがビッグに突き刺さる。

 二本は肩と腹に。もう一本はビッグの左腕に刺さっている。

 今回は防御の戦気を展開していたが、まったく関係なく刺さったので、単純にファテロナの一撃が鋭いのだろう。

 しかしながら、ここで予想外のことが一つあった。


「おや、よく防がれましたね」


 ビッグの左腕に刺さったナイフをファテロナが意外そうに見つめる。

 この一撃は心臓を狙ったものであった。それをビッグが咄嗟に防いだのだ。

 弱っているとはいえファテロナの攻撃だ。速度は相当なものである。反応できただけでも見事といえるだろう。

 そして、これはまぐれではない。


(あ、危なかった…! 下手したら死んでいたぜ! この女、躊躇なく刺しやがってよ! まるで魔獣みたいなやつだぜ! だが、見えた…! 一瞬だが、こいつの殺気が見えたんだ! それで助かった!)


 もしヤドイガニ亜種先生との鍛練がなければ、この段階で致命傷を負っていただろう。

 見た目は美人だが、その中身は獰猛な魔獣のようである。殺すことに一切の躊躇いがない。する必要がないのだ。

 その冷徹な感情に恐怖を覚えつつ、自分が防御できたことに驚く。身体が勝手に動いたからだ。

 大自然の魔獣と戦う利点はここだ。真剣勝負というものの感性を磨くことができる。


 こうして間一髪命拾いしたビッグにとっては逃げることが最良の選択肢なのだが、頭に血が上っているので立ち向かう以外の道はない。

 勇猛果敢というべきか向こう見ずというべきか、迷いなくファテロナに突っかかっていく。


「うおおおおおっ!」


 ビッグの反撃。


 拳が唸るが―――


「ほいっとな」


 ドスッ

 ファテロナはあっさりと攻撃を見切ると、今度は殴りかかったビッグの拳にナイフを突き刺した。

 手の甲の部分から手の平にかけて、ぶっすりと貫通。

 初めての対戦ではあるが、互いの実力差がありすぎるので動きを完全に見切っているようだ。

 だが、それ以上の追撃はなかった。


「ふわぁあ、だりー、もう帰るー。それでは、ごきげんよう」


 ファテロナにとっては、もうどうでもいい勝負である。さっさと帰って寝たい気分だろう。


 彼女にしてみれば―――ビッグなど虫のようなもの。


 不快ではあるが殺す価値すらない弱者である。

 殺すチャンスはいくらでもあるが、それをやる気持ちにならないだけ。面倒くさいし、どうでもいいと思っているからだ。

 これは虫側にしてみれば最大の幸運である。

 勝てない勝負をしても意味がない。無駄な戦いをする必要はない。生き延びることが最重要だからだ。


 だが、それだけで割り切れないのが人間である。


 ここでもビッグが下した決断は、まったくもって無意味で無価値で必要のないもの。

 されど、人間だからこそ、過ちの中から正解を見つけようとする誇り高き存在だからこそ、あえてその道を選ぶのだ!!



「お前たちは…弱い人間のことをなめすぎだ!!」



 ビッグの拳が開かれ―――【掌】になる。


 その掌に【火気】が注がれ、一つの大きな力が生まれる。


「っ!」

「うおおおおおおおおおおお!!」


 ドオオオオオオンッ!!



―――爆発



 ビッグの掌で火気が爆発。前方に大きな爆炎が渦巻く。


 アンシュラオンが教えた―――【裂火掌】である。



(どうだよっ!! こいつの味は!! 俺だって、やるときはやるぜ!!)


 最初の拳はフェイントであり、相手を油断させるための『釣り』だ。

 当然ファテロナ相手に手を抜けないので本気で殴ったが、最初から狙いはこちらであった。

 人間は魔獣と違って相手を侮ることができる存在だ。相手が自分を格下だと思ってくれるのならば都合がいい。そのまま隙をついて攻撃できる。

 これも自分で自分を弱いと認めたからこそできるものだ。余計なプライドもなく、ただ相手を倒そうと努力したからこそ生まれた結果である。



 ボオオオオッ



 圧縮された火気に巻き込まれ、ファテロナが爆炎に包まれる。

 彼女もまさかビッグが裂火掌を使うとは思っていなかったのだろう。この奇襲は【当たった】。

 ただし、それが直撃するとは限らない。


「少々驚きました。まさかこのようなものを隠し持っているとは…豚は豚でも焼き豚でしたか」

「っ!! てめぇ!!」


 いつの間にかビッグの背後にはファテロナが立っていた。

 あのタイミングでの裂火掌を回避したとは驚きだ。

 しかし、その身体や服には焼け跡が残っていたので、完全にかわしていないことがわかる。

 さすがの彼女もこの状況下では、不意打ちに対応するだけの余力はなかったようだ。


 ファテロナに当てたという事実。


 両者の実力差を考えれば、それだけでも敢闘賞を与えたいものである。


(ちっ、こいつ! あの間合いでよけたのかよ!! 俺のとっておきだったのに!)


 だが、これで倒せなかったのはビッグにとっては悲報だ。

 裂火掌は彼にとって最大の技である。奇襲で仕留められなかったのは痛い。

 まだ熟練殿低い裂火掌では技の発動までに時間がかかるのだ。その一瞬をファテロナは見逃さなかった。

 ビッグにファテロナの相手は早すぎた。このレベル帯になると刹那の時間さえも惜しまねばならない。

 そして一度技を見せた以上、次からはそれを想定して動いてくるはずだ。二度と奇襲はくらわないだろう。


「1足す1は、ニーーー!」


 ドスッ

 ファテロナの反撃。今度は後ろからナイフを突き刺す。


「ぐううっ!!」

「おや、また防ぎましたね。シブトイナー」


 ファテロナの手に硬い感触が残る。

 狙ったのは心臓だったのだが、当たった箇所は肩甲骨であった。

 咄嗟にビッグが屈んだことで狙いが逸れたのだ。恵まれた肉体が幸いして、ナイフは肩甲骨に刺さったものの貫通には至っていない。

 これもビッグが事前に殺気を感じたからこそ反応できたのだ。


「おらああああ!!」


 そして、背中を刺されてもビッグは諦めない。

 何度も何度もファテロナに攻撃を続ける。殴ったり裂火掌を放ったり、すべてよけられても、けっしてやめようとはしない。

 そのたびにナイフを刺されたりするのだが、間一髪で致命傷だけは避けている。

 ダディー譲りの強い身体は、急所を刺されない限りは動き続ける。脳と心臓だけをがっしり守って、それ以外は捨てながら懸命に攻撃してくる。



 その姿が―――気色悪い。



(さすがはソイドファミリーの若頭。ダディー様に似てしぶとい。というか、『うざい』ですね)


 ファテロナはビッグの粘りに少々嫌気が差してきた。はっきり言って面倒くさい。うざい。汗臭い。

 何が好きでこんなやつと関わらねばならないのだろう。まったくもって不快でしかない。

 彼女は暗殺者だが必要以上の殺しを楽しむ趣味はなかった。享楽主義なので、楽しいと思わないと気分が乗らないのだ。

 すでにダディーは仕留めたため領主に言われた仕事は果たしたし、それなりに楽しめたのでお腹一杯だ。久々に全力を出したので疲れてもいる。

 そうなれば、もう【終わり】にしたいと思うのは当然だろう。


(一滴、でいいでしょう)


 ファテロナの指から、じわりと一滴の血液が滲む。

 言わずもがな、彼女の血は―――毒。

 一滴であっても耐性がないビッグならば、すぐにお陀仏だろう。それで簡単に事は済む。


「おおおおっ!!」


 シュッ

 ビッグの拳をよけて背後に回り、指先に血を混ぜた戦刃を生み出す。

 ああ、ビッグも馬鹿なことをしたものだ。こんな女など放っておけばよかったのに。分相応で逃げていればよかったのだ。

 だが、もう仕方ない。彼女が殺すと思った以上はどうしようもない。



(これで終わりです。帰ってネヨー)



 そして、ファテロナが腕を引いて、指を突き刺そうとした時―――




 がしっ




 その腕を【掴む手】があった。



 最初彼女はそれがビッグのものかと思ったが、彼の拳はしっかりと握られており、こちらに伸びてはいなかった。

 そもそも背後から刺そうとしている者の腕を取るのは不可能である。


(男性には『第三の手』があるといわれておりますが…ここまで見事に掴むとは、やりますね)


 などとファテロナが思ったのは、やはり頭がおかしいからだろう。

 たしかに男には第三の手と呼べるものがある。某ロボットでも、なぜそこに『隠し腕』を作ったのかと問いただしたいものもある。

 しかし当然、ビッグの竿が伸びて腕を掴むわけではない。あったら怖すぎる。




 では、誰の手が握ったのかといえば―――




 その手は―――【ソイドダディー】から伸びていた。




 死んでいるのですっかり眼中にはなく、死体は視界に入っても意識の中には入ってこない。死んでいると思っているのだから当然だ。


 だから―――完全に油断していた。


 ファテロナの意識がすべてビッグに向いていた。それは逆に言えば、自分の技に絶対の自信があったということだ。

 九天必殺は暗殺者の奥義である。くらって死なない人間はいない。

 いないはずだった。


 だが、ファテロナの前で驚愕の現象が起こる。



「―――ふぅうううう」



(っ!! 呼吸―――音!!)



 美しいファテロナの目が大きく見開かれた。

 どんな状況でも楽しむほどの異常者が、本気で驚いている。

 いつも冷静に相手を殺す暗殺者が、この状況に対して軽いパニックに陥っている。

 だが、彼女が驚いたところで現実は変わらない。



 そう、呼吸しているという事実は―――変わらない!!!




「はーー!!! すーーーーーーーはーーーーーーー!!!」




 今度は呼吸音というレベルを超え、積極的に呼吸を開始している。


 ぐるんっ


 白目になっていた眼球が元に戻り、ファテロナを見つめる。


 どくんどくん どくんどくん


 呼吸が戻ったということは心臓が鼓動しているということだ。

 ポンプから血液が身体中を巡り、肌に赤みが戻ってきた。それが力となって、ますますファテロナの腕を強く握り締める。

 単純な握力ではダディーのほうが何倍も上である。必死にふりほどこうとするが、がっしりと掴まれて動けない。

 ただし、ファテロナのその動きにも身が入っていない。完全に驚きのほうが勝ってしまっている。


「…これはさすがに…驚きです。私の奥の手なのですよ。あれは『即死無効』すら貫通するのに……フォオオッ! お前はもう死んでいる!!」


 そのファテロナの言葉に、ついにダディーの意識まで反応する。


「…たくよぉ、てめぇって女は……とことんふざけてやがるな。ああ、一度死んだよ。よくも殺してくれたな」


 多少かすれた声になっているが、間違いなくダディー自身の声である。

 その目は間違いなく生きている人間のもので、しっかりと力強くファテロナを睨んでいた。


「あなたは…本当に『人間』ですか?」


 ファテロナの言葉は、まさに文字通りの意味だ。

 九天必殺の奥義が効かないとすれば、唯一可能性があるのは『人間ではない』という場合のみである。

 暗殺者の技は『対人用』が大半なので、種族が人間以外に対しては即死効果は生まれないことが多い。

 この九天必殺も人間を殺すためだけに編み出されたので、魔獣やマスターたちには通用しないのが最大の弱点といえるだろう。

 もし彼らが人間に化けていた場合、この技は通じない。ファテロナがそう思うのも無理はない。



 がしかし―――



「俺は人間だ。人間だからよ、こうして熱くなれるんじゃねぇか!!」



 ボオオオオオッ

 ダディーの身体から戦気が吹き上がる。赤い、赤い、とても赤い真っ赤な炎だ。

 この戦気を発せられるのも人間のみだ。魔獣は発しないし、マスターたちは『神気《しんき》』と呼ばれる違う気質のオーラを出す。

 心の奥底から猛るような、迸るような激情を生み出すのは、痛みと苦しみの中でこそ進化する人間だけの力!!!

 何度も何度も死にそうになりながらも、実際に死にながらも諦めなかった者だけが放つ戦う意思!!




 ダディーは人間だぁあああああああああああ!!!





349話 「ラングラスの伝説 中編」


 ダディーが動き出す。

 はっきりとした意思かつ、その手に強い力を込めて、自分が生きていることを証明している。


「ダディー!! 生きていたのか!! よかった! 本当によかった!!」


 当然、ビッグは大喜びだ。

 死んだと思った父親が生きていたのだ。喜ばないはずはない。

 ダディーも息子が無事であることに安堵する。


「ずいぶんと酷い有様だな。少し待たせちまったか…」

「そんなことはいいんだよ! それより大丈夫なのか!」

「まったく…子供にここまで心配されるとはよ、親失格だなぁ。ごほっ…げぼっ…ぺっ。…にしても、本当に好き勝手やってくれたな。なぁ、ファテロナの嬢ちゃんよ」

「信じられません…六天刺滅を受けて本当に生きているなんて…」


 ビッグももちろん驚いたのだろうが、もっと驚いたのはやはりファテロナであろう。

 なにせ絶対に死ぬという九天必殺の奥義を受けたのだ。必ず死ぬから必殺と書く。それが生きていては必殺ではないだろう。

 ファテロナとて、この奥義を簡単に極めたわけではない。

 若くてこれほど強いということは、もっと若い頃から生き抜くために必死になって、死にたくなるほどの修練を重ねてきたということだ。

 だからこそ自信があった。

 アンシュラオンのような規格外は別として、同レベル帯の人間相手ならば勝てると思っていた。

 これは自分が納得するほど、悪く言えば慢心するほど磨き抜いた技である。それが決まらなかったことに大きなショックを受けている。

 あのファテロナが、このファテロナが絶句して驚愕している。これほど珍しい光景はないだろう。


 だが、敵が生きていると知ったのならば、暗殺者がやることは一つしかない。

 ファテロナは一瞬動揺したものの、本能が暗殺者の本分を思い出す。



―――「死ぬまで殺せ」



 それが暗殺者の責務であり、武人として誰もが背負う宿命なのだ。

 ダディーが死んでいないのならば殺すだけである。



「次は殺すぅううう!! アチョーーー!!」


 ファテロナが血恕御前を出してダディーを攻撃。

 ダディーはよけない。いや、よけられないのか。

 ブスッ!!

 そのまま剣先は脇腹に突き刺さった。


(かなりキツイですが…仕方ないですね。モッテケドロボー!!)


 ドブブブッ

 ファテロナが突き刺さった血恕御前に血を送り込む。

 すでにダディーに投与された坐苦曼《ざくまん》の効果は切れているはずなので、この血毒を受ければ死に至るはずだ。

 ただし、かなり血を失っているのでファテロナの顔もいつもより青白い。もう限界なのだ。

 ここでさらに血を使うと、いつ倒れてもおかしくないフラフラの状態になってしまうが、このまま腕を掴まれているわけにもいかない。

 ダディーの戦闘態勢が完全に整う前に仕留めねばならないのだ。


 ジュワワッ


 残されたありったけの血毒を注入。

 剣先から毒が侵入し、ダディーの身体の中を蹂躙していく。


「………」


 ダディーは動かない。ただ黙って立っているだけだ。

 この血毒は即効性なので侵入すれば数秒で死に至る。もともと弱っていたダディーならば呻き声も出さずに死ぬだろう。


 一秒

 二秒

 三秒


 武人にとっては非常に長い時間が流れてもダディーは動き出そうとしない。

 それを見て、ファテロナが深く息を吐き出す。


(はぁぁあ、これで…オワッター)


 ファテロナは軽い安堵感を感じていた。多少てこずったが、これでようやく帰って眠れるのだと考えていた。

 暗殺者として経験豊かな彼女でさえ、そう思うのだ。

 だから、これから起こることには誰もが驚愕するに違いない。


「…で?」

「…はぁ?」


 死んだと思ったダディーから発せられた言葉に、ファテロナは思わず素っ頓狂な声を出してしまった。

 あまりに突然で意外すぎて、いつも余裕ある彼女にしては珍しい対応をしてしまう。

 それだけ目の前で起こっていることは異常だったのだ。


「『はぁ?』、じゃねえよ。これで終わりかって訊いてんだよ。続きはないのか?」


 ダディーは何事もなかったかのように立っている。

 ぎゅううっ

 それどころかファテロナの腕を握る手は、ますます握力が強くなっていた。


「ど、毒は…入りましたか?」

「ああ、入っているぜ。遠慮なく俺の身体を喰い散らかしてやがる。とんでもねぇ毒を持ってるな。たしかにこれじゃ他のやつらは勝ち目がねぇよ」

「ではなぜ、あなたは死なないのですか?」

「なんでだと思う? なぁ、おいっ!!!」

「ひううっ!」


 ブンッ ブーーーーンッ ドゴーーンッ!!!


 腕を強引に引っ張り、振り回し、大地に叩きつける。

 ファテロナは受身を取ったが、いかんせん腕を掴まれているので完全にはダメージを殺せない。

 背中から落ちて呼吸が止まるほどの衝撃を受ける。


「くはっ…!」

「散々やってくれたんだ。これくらいで済むと思うなよ!!」


 ドンッ!!

 倒れたファテロナを踏みつけるように蹴りを放つ。

 ファテロナはかろうじて回避するも、続けて放たれた一撃が腹を抉る。

 ドガシャッ


「ごふっ!! やべー、ゴリラだーーー! ゴリラがいるぞーーー!! 保健所! 保健所呼んで!! 殺処分してーーーー!」

「だからうちはジャガーだって言ってんだろうがよ!!」


 ブーーーーンッ ドゴッ

 また訳のわからないことを叫んでいるファテロナを引っ張り、大地に叩きつける。


「ぎゃふっ!! ひぃ、ひぃーーーーー! こいつ人間じゃねーー! おめーの血は何色だぁーーーー!」


 と言いながら、まだ放していない血恕御前をダディーの足に突き刺す。


 ブスッ じゅわわっ


 今回も小剣が完全に突き刺さり、血毒が入り込む。



「ったく、油断も隙もないな。お前はよ」

「げぇえ! なぜ無事なのですか!! こいつ、ヤベー!」

「いくら俺でも、お前にだけは言われたくないぜ」


 相変わらず発言が危険かつ、それに翻弄されると殺されるので危ない女性だ。



 が―――ダディーに変化はない。



 剣もしっかり刺さっているのに、いくら血を送り込んでも反応がない。

 毒など最初から効かない、といわんばかりの余裕の態度である。


 これは―――まずい。


 ファテロナの長所はスピードと毒だ。速度で撹乱しつつ必殺の一撃を入れる戦いが彼女の真骨頂である。

 しかし今は腕を掴まれているのでスピードは発揮できず、そのうえ毒まで効かないとなれば、ただの打たれ弱い武人でしかない。


「そ、それでは、私はそろそろお暇《いとま》させていただきます。あまり長居すると悪いので…アディオス!! アミーゴ!!」

「まあ、待てよ。そんなに慌てるな。餞別の一つでも持っていけ。もらってばかりじゃ悪いからな」

「いえいえ、それはさすがに悪いですから…おかまいなく」

「客に何も持たせずに帰らせるのは家主としては失格だからな。気にするな」


 (逃げられないのに)逃げようとするファテロナを片手でぐいっと持ち上げ、もう片方の拳を力強く握り締める。


「ひー、ヒーーーー! ヤラれるぅうううう!」

「一発もっていけや!!」


 ドゴーーーーーーンッ!!!


 積もり積もった恨みを晴らす如く、ダディーの強烈な虎破がファテロナの腹に―――炸裂。


 ぐるーーーーん ばたん

 腕を掴まれていたので衝撃の大半が逃げたが、その勢いで一回転して大地に激突。


「おぶっ…がはっ! なんじゃ……なんじゃこりゃぁああああああ!! だ、だめだこりゃぁっ―――がくっ」


 血反吐を吐き散らしながら、ファテロナが意識を失う。

 この条件では彼女に勝ち目はなかった。あっけなく敗北したのは仕方ないだろう。

 しかしまあ、テンションが上がると意味不明なことを言い出すから困ったものである。

 彼女のミスはただ一つ、「死亡確認」発言であろう。

 あれを言われて死んだ者はいないのだ。完全にフラグを立ててしまったファテロナが悪い。





 こうして勝負は―――ソイドダディーが勝った。


 だが当然、楽をして勝ったわけではない。

 誰が見ても死んだと思った状況からの一発逆転勝利だ。

 もしファテロナが用心深く、意識を失っていたダディーを切り刻んでいたら死んでいた可能性もある。


「はぁはぁ…ぐっ」


 ファテロナが戦闘不能に陥ったことを確認したダディーが、膝から崩れ落ちる。


「はーーはーー!!」

「ダディー! だ、大丈夫か!!」

「ああ…大丈夫だ。あんな女に負けるかってんだ…。俺は一度たりともタイマン勝負で負けたことはないんだよ。お前だって知ってるだろうが」

「そ、それはそうだけど…すげぇ…すげぇよ! あんなやつに勝っちまうんだもんな!!」

「そう…だな。このざまじゃ勝ったとは威張れないが…それで、リトルはどうした? お前が助けたんだろう?」

「ああ、気を失っているけど無事だよ。…でもさ、ダディー。この状況はマジでヤバイぜ。ここまでやっちまったら…俺たちは相当まずいことになる」

「…ああ、わかっている」

「ホワイトだ! 全部ホワイトの野郎が悪いんだ!! くそっ! 俺があんなやつに出会ったばかりに…!!」

「お前に対応を命じたのは俺だ。…全部俺のせいだ。お前のせいじゃねえ。…だから俺がケリをつける。心配するな」

「ダディー…」

「だが、お前の言う通り状況が悪すぎる。まずは一度家に戻るぞ。それから親父さんに連絡だ。これはもうラングラス全体の問題だ。ラングラス一派の組長連中にも話を通さないといけねえ。このままじゃ本当にディングラスと【戦争】になっちまう」


 衛士隊がここまで動いた以上、ソイドファミリーだけの問題ではない。事は【ラングラス存続】という大きな話にまで至る可能性が高い。

 しかし、現状でソイドファミリーに打てる手はない。

 せいぜい領主に詫びを入れる程度だが、いきなり攻撃を受けた手前、それをやってしまうと弱腰と受け取られかねない。

 かといって誤解を解かないままでは立場がどんどん悪くなる。ただでさえ弱いラングラスの弱体化が止まらなくなる。

 それだけでも嘆きたくなるのだが、ダディーにはさらに最悪の事態が起きている。


(くそっ、状況は相当悪い。まだ俺が『普通の状態』だったならばよかったが…こんなことになろうとはな。ファテロナが最大の誤算だったぜ)


 ダディーにとって一番の不運は、ファテロナが全力で向かってきたことだろう。

 その結果として『非常にまずい事態』に陥ってしまった。

 自分が死んで完全にラングラスが死に体になる最悪の事態だけは避けられたが、今の状態もけっして良くはない。

 その最大の要因は、これだ。


(力は入るが…汗が出てねぇ。血も出てない…か。あんなに動いたってのによ)


 ダディーの身体は今、非常に複雑な状況に陥っている。

 汗一滴掻いていないし、ファテロナに刺された箇所からは血すら出ていない。

 もし勘の良い者だったら、明らかにダディーの身に異変が起きていることがすぐにわかるだろう。

 が、頭が悪く洞察力もないビッグは何も気付かず、自分が生きていることに安堵しているだけだ。

 ならば、それでいい。そのほうがいいのだ。


(気付かないのならば、それでいい。俺が生きていると思ってくれれば、それで十分だ。なんとか誤魔化していくしかねえ。大丈夫だ。俺だってそこそこ影響力がある。生きているだけで価値がある人間ってのもいるんだ)


 戦国時代の有名大名や三国時代の軍師のように、存在そのものが抑止力になることは多い。

 彼らは自分が死んだことを秘密することで他国からの侵略を防いでいた。それだけの影響力があったのだ。

 さすがにそこまでとはいかないが、ダディーもラングラスにいるといないとでは他派閥の対応が変わってくるような人物である。

 今回の戦い、ファテロナに勝ったという話も広まっていくだろう。

 そうなればますます自分の影響力が強まっていく。「ダディーがいるからラングラスには気をつけよう」という風潮になるのだ。

 それだけが唯一の収穫。

 割に合うかはわからないが、せめて有効利用するしかないだろう。




 と、ダディーは考えていたのだが、それを完全に覆すかのように―――【彼】がやってきた。




 スッ スッ スッ

 まだ薄闇に包まれた世界にしっとりと馴染む黒い髪をたなびかせ、まったく音を立てずに歩いてくる影があった。

 冷たい氷のような青い目が、闇の中からダディーを見つめている。


「誰だっ!!!」

「うわっ!」


 ダディーはその視線に気付き、大声で威圧。

 その声はさすが組長。近くにいたビッグなど、まるで子犬のようにびくっと身体を震わせたものだ。

 しかしながら、その影の人物にはまったく驚いた様子はない。それどころか無警戒でこちらに近寄ってきた。


「ちっ…」


 ダディーは傷ついた身体を起き上がらせ、身構える。

 まるで動物が自分を大きく見せて威圧し、戦いを回避しようとするように。それだけコンディションが悪いのだ。


 スタスタスタ


 それを知ってか知らずか、その人影は速度を変えずに近寄ってきた。


 そして、薄闇からようやく顔が見えた瞬間―――ダディーが目を見開く。


 相当意外な人物だったのだろう。

 なんとも皮肉なことだが、自分が復活した時のファテロナのような表情を浮かべている。

 では、彼がそんなに驚くような人物とは誰か。



 それは―――





「てめぇは―――セイリュウ!!」





 思わず大声で叫んでしまうほどの影響力がある男。

 長い黒髪の三つ編みに、金刺繍で龍が装飾された青い武術服を着た美青年。

 その姿だけに限れば青二才にさえ見えるが、人は外見によらないものである。



 この男こそ―――マングラスの重鎮、セイリュウ。



 グマシカ・マングラスの側近中の側近である。



 セイリュウは静かな笑みを浮かべると、警戒中のダディーに気軽に話しかけてきた。


「随分と派手にやられましたね。今にも死にそうな顔をなさっておられますが、大丈夫ですか?」

「てめぇ…何しにきやがった!!」

「そんなに警戒しないでください。噛み付きはいたしません」

「どうだかな…! そこから一歩でも動いてみろ! ぶっ潰すぞ!!」

「それは怖い。では、近寄らないようにいたしましょう。危うきには近寄らず。それが長生きの秘訣ですからね」

「なめやがって…!」

「だ、ダディー、誰だよ! こいつ、知り合いか?」

「お前は見たことがないか。こいつがマングラス最強の男だよ。弟か兄か知らないが、双子のコウリュウってやつもいるがな。名前くらいは聞いたことがあるだろう。『マングラスの双龍』だ!」

「なっ! こいつがマングラスの…!!」

「はい。セイリュウと申します。どうぞお見知りおきくださいませ」

「あっ、ど、どうも…」


 セイリュウは深々とビッグに頭を下げる。

 ビッグはラングラスの直系なので、彼がそうすることは不自然というわけではない。

 だが、マングラスは四大市民の中で圧倒的に最大派閥である。その幹部かつ最強の武人ともなれば、立場上はソイドダディーよりも上とみなされる。

 場合によってはムーバ・ラングラスよりも上と見る者もいるだろう。それだけの影響力を持っている男だ。

 そんな男がビッグに頭を下げる。

 その意味を理解しているかどうかはわからないが、セイリュウの礼儀正しい姿に思わずビッグが戸惑って素の対応をしてしまう。

 その一方で、ダディーはセイリュウから目を逸らしていない。いまだ敵対的な姿勢のままであった。




350話 「ラングラスの伝説 後編」


(なんだこいつ? もしかして…いいやつなのか?)


 ビッグは礼儀正しいセイリュウに困惑している。

 マングラス最強の男というからには、もっと強面の危ないやつを想像していたからだ。

 『マングラスの双龍』という異名からも強そうなイメージが先行しているので、そう思っても仕方ないだろう。

 事実ディングラス最強のファテロナは非常に危険人物であった。それと比べると物腰も柔らかくて普通に見える。


 しかしながら、ぼけっと無警戒のビッグとは対照的に、ダディーはセイリュウから目を逸らさない。


 彼を見る目は鋭く、明らかに敵対的な視線であった。


 その理由は、セイリュウが【ファテロナ以上の危険人物】だからだ。


 まだ経験の浅いビッグにはわからないのだ。この男から発せられる『嫌な雰囲気』が読めない。


(この状況でこいつはまずい! 一番最悪のやつだ!)


 セイリュウの危険性を知っているダディーは、焦りを隠しきれないでいる。

 詳しい実力は知らないが、プライリーラと対しても動じることはなかったので、最低でもファテロナ級以上だと思っていいだろう。

 あくまで勘だが、下手をしたらプライリーラに匹敵する実力者ではないかとも疑っている。

 だが、そうした強さの面も脅威であるが、それ以上に不気味なことがある。


 セイリュウが最後に外で目撃されたのは、【二十年も前】のことだ。


 この男を四大会議場以外の都市内で見ることなど、まずありえない。そもそもどこに住んでいるかもわからないのだ。存在自体が珍しいのである。

 それゆえに、まだ二十三歳のビッグが彼を知らないのも無理はない。



 そして、セイリュウが外に出る時は必ず【血生臭い何か】が起こる。



 彼が外で目撃された二十年前は、外部からの勢力がちょっかいを仕掛けることが多く、ビッグが誘拐された事件もそれに連なるものだった。

 その件にマングラスの一部の組織が関わっていたことが判明し、セイリュウはその粛清に乗り出したことがあった。

 それはとても凄惨なものであったという。

 彼の手によって加担した組織の者たちは皆殺しになり、徹底的に傷めつけられた死体が市内にいくつも晒されることになった。

 現モザート協会の会長であるジャグ・モザートも、その際に殺された者たちの死体を見て激しいトラウマと恐怖心を植えつけられている。


 グラス・ギースの治安とマングラスの結束が緩む時、必ずこの男が表に出て【見せしめ】を行うのだ。


 それ以後、外部の勢力からのちょっかいも減ったので、マングラスが何かしらの対抗手段を講じた可能性も考えられる。

 どちらにせよ、セイリュウが出てきて平和的に何かが解決したためしがない。

 優男の美青年に見えるが、その中身はファテロナ以上に真っ赤なのだ。殺された者たちの血の臭いが、今この場でも感じられるほどに赤に染まりきっている。

 一番怖いのが、それだけの人数を殺してもセイリュウは何も感じていない、ということだ。

 ファテロナが自分の楽しみで相手を殺すのに対し、セイリュウは何の感情もなく人を殺せる男である。

 どちらが上とか下ではないが、後者のほうが人間味が薄くて寒気がする。


 じわり


 今のダディーの額に汗は流れない。そうにもかかわらず、まるで本当に汗が流れたかのような、ねっとりとした嫌な感じがする。

 見た目に騙されてはいけない。本当に危険な人間は、こうした静かな圧力を放つのだ。



「てめぇ、その様子だと、ずっと見てやがったな」

「衛士隊がこのように騒いでいれば、何か異常が発生したのはすぐにわかります。様子を見に行くのは自然なことですよ」

「高みの見物か。いいご身分だな」

「状況を判断するためです。好きで見ていたのではありません」

「だが、てめぇならば戦いを止められただろう? ええ? マングラスの幹部さんならよ」

「ファテロナさんが暴れておられたのでは、さすがの私でも危険が伴います。さきほども申し上げましたが、危うきに近寄らぬが長生きの秘訣。私は臆病者なのですよ」

「よく言うぜ。四大会議であれだけ大見得切ったくせによ。お前たちの力があれば怖いものなんてないんだろう?」

「すべてはグマシカ様のお力であって、私の力ではございません。私個人の影響力など、たかが知れております」

「ふんっ、そうかよ。それなら何の用だ。ここでラングラスを潰そうって腹積もりか? 最大のチャンスだもんな」


 マングラスの目的が勢力拡大であることは明白だ。

 こうした何か大きな出来事があれば、それを口実に攻める可能性があることを四大会議の際に示唆していた。

 衛士隊と大きく揉めたラングラスは、その理由がどうあれ、他派閥から攻められても仕方ない口実を作ってしまったことになる。

 マングラスがこのチャンスを逃すとも思えない。セイリュウが出てきたのが何よりの証拠だ。

 ここでダディーを仕留めておけば、もはやラングラスに抵抗するチャンスは皆無となるだろう。

 ムーバを操ることなど簡単だろうから、それでラングラスが簡単に手に入る。実に美味しいシチュエーションだ。


「俺は絶対にラングラスを負けさせねぇ! 死んでも絶対に守る!! マングラスが相手だって、それは同じだぜ!! 甘く見るんじゃねぞ!!」


 ダディーは必死に虚勢を張って威圧する。

 気休めでもやらないよりはいいだろうし、本気でそう思っていることだ。

 何があってもラングラスだけは守る。それが自分自身に課した誓いなのだ。



 と、このようにダディーは激しくセイリュウを警戒していたのだが―――




「えっ…!?」




 当のセイリュウは、なんとも間の抜けた顔をして驚く。

 その驚き方は演技ではなく、本当にびっくりした、というものだった。


「なっ…」


 それを受けたダディーもまた、セイリュウの驚きに対してさらに驚く、という間抜けな構図になってしまっている。

 両者ともに互いの反応が意外だったのだろう。



 そこでしばし時間の空白が発生した。



 均衡を破ったのはセイリュウ。

 ゆっくりと時間をかけて、いつもの薄い笑みを浮かべた表情に戻っていく。


「ああ、いえ、申し訳ございません。まったく心に思っていなかった事柄でしたので、思わず驚いてしまいました」

「嘘をつけ。どう見てもチャンスだろうが! てめぇらマングラスが勢力を拡大するのは、こういうトラブルが起こるときって決まってんだよ! それ以外にお前が出てくる理由なんてあるか!」

「ソイドさん、あなたは誤解していらっしゃる。たしかに怯える気持ちはわかります。力無き者からすれば私たちは脅威に映るでしょう。人を制するということは世界を制することに等しいものですから、我々マングラスが強くなるのは自然なことなのです」

「自慢のつもりか? それとも挑発か?」

「事実をお伝えしているのです。そして、もっと大切な事実があります。我々マングラスは…いえ、グマシカ様はこのグラス・ギースを心より愛しているのです。そのような慈悲深い御方が、同胞であるあなた方を排するわけがありません。だから誤解なのです」

「お前を信じろってのか?」

「私のことを無理に信じなくてもけっこうです。しかし、グマシカ様は誰よりも都市を愛しておられる。それだけは疑わないでいただきたいのです。マングラスが兵を動かすとすれば都市を守るためなのです。けっして私利私欲のためではありません」

「人の心を覗くことはできない。言葉だけならガキにだって言えるもんだ。はっきり言うが、俺はお前を信じてねえからな。信じてほしいなら行動で示すしかないぜ」

「言葉よりも行動で、ですか。良い言葉です。ならば私は自らの態度でそれを示しましょう」


 そう言うとセイリュウは、ゆっくりとこちらに歩いてきた。


(何をするつもりだ? ちっ、やっぱり腕は良さそうだ)


 こうして歩いている姿も自然体だ。

 強面かつ実際に強い武人のダディーを前にしても、まったく心が乱れていない。

 ダディーはいつでも迎撃できるように構える。本当はそんな状況ではないが、そうできると見せかける。


 そうしてセイリュウを警戒しながら見ていると―――



 くるり



 何を思ったのか途中で方向を変え―――ビッグのところに向かう。



「っ!! ビッグ、逃げろ! 手に負える相手じゃないぞ!!」

「えっ!? えっ! どういう状況!? こいつ、味方じゃねえの?」

「馬鹿野郎! 逃げろって言ってんだろうが!! ぐふっ…まだ身体が…」

「ソイドさん、無理はなさらないほうがよろしい。なにせ【一度死んだ】のです。まだ【根】は完全に張っていないのでしょう? 不完全な状況で動けば、次は本当に死んでしまいますよ」

「っ―――!!」

「ふふふ、見学していたおかげで一つ謎が解けました。なるほど、【あなたが持っていた】のですね。ご安心ください。誰にも言うつもりはありません。もちろんムーバ様にも内密にいたしましょう。もし私が下手なことを伝えて、ラングラス内が剣呑な雰囲気になられても困りますからね」

「てめぇ…どこまで知ってやがる!」

「少しだけ長生きしているだけのことです。あなたよりグラス・ギースのことに詳しくても、私の年齢を考えれば不思議ではないでしょう?」

「くっ…」


 ソイドダディーは、自分の胸をぎゅっと押さえる。

 今その中では、さまざまな作業が行われているのだ。



 セイリュウが言ったように、ダディーが一度死んだことは―――事実。



 紛れもない事実なのだ。実際に死んでいる。

 『九天必殺』を侮ってはいけない。彼女の六天刺滅は間違いなく必殺技で、ダディーのHPをゼロにしたのだ。

 対人という限定要素があるからこそ、その威力は絶大。

 六天ならば六回の攻撃を連続して与えねば即死させられないが、逆に言えば六発刺せば即死効果が必ず発生するわけだ。

 さすがにアンシュラオンほどになると、全部受ける前に初撃で返り討ちにするだろうから問題ないが、ダディーはそれらを全部受けてしまった。


 ならば―――さようなら。


 死亡は死亡だ。例外はない。




 ダディーは―――死んだ。




 汗を掻いていないことも、傷口から出血をしていないことも、すでに死んでいるせいだ。

 それはまるでリビングデッド。

 映画の題材によくありそうな『生ける屍』のごとく、少し変な表現になるのだが、ダディーは死にながらも生きている。

 ここで「生」というものを改めて定義するのならば、霊体がまだ肉体にとどまっている状態である、ということだ。

 それはシルバーコードが切れていない状態を意味する。

 普通ならば死亡すればコードが切れ、徐々に、あるいは一気に霊体が肉体から飛び出るのだが、ダディーの場合は肉体が死んでいながら切れていない。


 では、なぜそうなっているのかといえば、物事には必ず理由があるものだ。


 ここで思い出してほしいことがある。

 これと似たような話をどこかで聞いたことがないだろうか。


 たとえばそう―――




―――「初代ラングラスは、死者さえも蘇らせた」




 という伝説を。


 伝説が伝説ではなく、それが本当だったらどうなるだろう。

 もし一時的であれ、死なない状況を作り出せるとすれば、その価値は計り知れない。

 当然、ラングラスの存在価値も今よりも遙かに上がるに違いない。


(こいつの言う通り、【アレ】は根付くまで時間がかかる。くそっ、まさか死ぬとはな…。ファテロナのやつが思った以上に強い隠し玉を持っていたせいだ。ああ、それはもう仕方ない。死んだものはしょうがねぇ。どうせホワイト相手に死ぬつもりだったんだからよ。相手と場所が変わっただけのことさ)


 ダディーは四大会議に出た際、ホワイト討伐を申し出て死ぬつもりでいた。

 普通に倒せれば一番だが仮に負けたとしても、とりあえずラングラスとしての禊は立てられる。そういう計算もあってのことだ。

 一度死ぬつもりだったのだから、それ自体は比較的受け入れやすい。

 今回の一件だってラングラスを救うための行動でもあったので、後悔はしていない。


 しかしながらソイドダディーは、蘇ったことに触れたくない様子である。


 セイリュウとの会話を途中で切ったのも、ビッグにそれ以上のことを教えないためだ。

 世の中、都合の良いことなど何一つない。すべての事象が法則によって管理されている以上、何事にもメリットに対するリスクが存在するものだ。

 ダディー自身も最悪の次に悪い、と思っているように、この状況はあまりよろしくない。それだけ追い詰められたがゆえの最終手段だったのだろう。

 これはすでに起きてしまったことなので潔く受け入れるしかない。

 過去には戻れないのだから自分を殺したファテロナを褒めるしかないだろう。


 であれば最大の問題は、なぜダディーに蘇ることが可能だったか、という点に尽きる。


 その答えは、実にシンプルだ。



(セイリュウのやつ…気付きやがったな。俺が―――『秘宝』を持っていることに!)




―――【ラングラスの秘宝】




 ムーバが四大会議で、ツーバを存命させたい理由の一つに挙げたものだ。

 『五英雄の秘宝』とも呼ばれるもので、各派閥にはそれぞれ初代が集めた武具や貴重なアイテムが保管されている。

 たとえばジングラスの秘宝は、初代の武具と守護者、魔獣を操る力がそれに該当する。

 アンシュラオンだからこそ簡単に守護者を打倒できたが、普通の武人ならば到底太刀打ちできない相手である。

 下手をすれば軍隊でも難しいだろう。竜巻だけでも大損害となる。

 それと同じようにラングラスにも秘宝がある。


 その一つがダディーを『生ける屍』にしているのだ。


 まさかダディーも気付かれるとは思っていなかった。セイリュウのことを甘く見ていた。

 さらに軽い脅しまでかけてくるという、ありがたくないオマケ付きである。

 ダディーが一部とはいえ秘宝を持っていることを知れば、ツーバの息子であるムーバとしての面子が立たない。

 ムーバは自意識が強い人間ではないが、さすがに実の父親から信頼されていなかったと知ればショックは大きいだろう。

 特に血筋を大事にする慣習の中で、外部からやってきたダディーのほうを優先した、ということは大きな禍根を残す。


 この段階で弱みを握られてしまった。


 セイリュウに先手を打たれた形になったのだ。

 やはり油断できない男である。




351話 「マングラスの提案 前編」


(こいつが俺よりも昔からこの都市にいるってことだけは確かだ。だからあのことを知っていてもおかしくはないが…たったこれだけで気付くとは、最初から疑ってやがったな)


 セイリュウが黙って戦いを見ていたのは、もしかしたらダディーが秘宝を持っているかもしれないと当たりをつけていた可能性がある。

 そうでなければ、これだけの情報で秘宝を使ったかどうかの判断はできないだろう。

 そして何よりもセイリュウは『秘宝の中身』を知っていた。それが一番問題なのかもしれない。

 ジングラスは都市を守る都合上仕方ないにせよ、各派閥が互いに何を持っているか知らないからこそ牽制の意味がある。

 だが、情報が漏れていれば、その効果は薄まる。対策を練ることができるからだ。

 ラングラスの秘密を知るセイリュウに対して、ダディーはますます警戒を強くする。


(何が目的だ? 脅して秘宝を奪うつもりか? それともラングラスを乗っ取るつもりか? くっ、状況が悪すぎる! どうすりゃいい!)


 今は何をやってもセイリュウに太刀打ちできない状況だ。

 仮に逃げるにしても、このレベルの実力者が相手だと難しい。しかも今はビッグというお荷物までいる。

 弱った自分には見守ることしかできない。それが一番もどかしいものだ。



 そんなダディーの心配をよそに、セイリュウはビッグの前に到着すると、軽く上を見上げた。


「ソイドビッグさん、ですね?」

「お、おうっ…!」


 いきなり近寄って話しかけられたので、ビッグは一歩後ろに下がる。

 身長はビッグのほうが高くて体格も良いはずなのに、びびったかのように引いた体勢となった。

 なんともなさけないことであるが、相手がマングラス最強の武人だと知れば誰でもこうなるだろう。

 むしろ逃げ出さないことを褒めたいところだ。ただ、怯えてしまって足が動かないのが本音だろう。豚と龍とでは格が違うから、これまた仕方がないことだが。


「ビッグさん」


 次の瞬間、セイリュウは何を思ったのか―――ぎゅっとビッグの手を握る。

 あまりに自然にその行動を取ったので、ビッグはまったく反応できずに握手するような形となった。


「うぇっ!?」


 もちろん突然の握手にも驚いたわけだが、それ以上にビッグは手の感触に驚く。


 セイリュウの手は―――異様に冷たかった。


 氷に触れたかのようにひんやりしていたため、ビッグは反射的に手を引っ込めようとする。

 ぐいっ ぴたっ

 が、相手が強く握っているので放すことができない。

 というより、びくともしない。まるで岩に手がくっついたかのように動かないのだ。


(う、動か…ねぇ! ぬぐうううううっ!! ま、マジかよ! 全然動かねぇ!! こんな細身のやつが、なんてパワーだ!!)


 ビッグは身体中の血管が浮き上がるくらいの力を入れて引っ張っている。

 戦気を出していなくても、そこらの石ならば軽く握り潰せるくらいのパワーがある。

 その力をもってしても目の前の優男はまったく動かない。ただただ静かに手を握っているだけだ。

 かといって意図的に強く握り返しているわけでもない。

 この違いがわかるだろうか。


―――【気付いていない】


 のだ。

 セイリュウはビッグが力を入れていることに気付かない。

 これほどの武人に洞察力がないとは思えないので、気付かないことなどないとは思うのだが、本気で気付いていないようだ。


 それはつまり―――感じないほど弱いから。


 人間が小さな昆虫の足をつまんだとき、あまりの力の差にもがいていることに気付かない状況に似ている。

 人間側としては非常に優しく握っているのだが、極小の虫からしてみれば万力で絞められているような圧力を感じるだろう。

 ビッグとセイリュウの間には、それだけの差があるということだ。

 この現象は、『誰かさん』を強烈に彷彿とさせる。


(ば、化け物か、こいつ! こ、この感じ…人間離れしたこの感覚は……ほ、ホワイト!? そ、そうだ! こいつは…あいつに似ている!)


 脳裏に浮かぶのは、あんなに小さいのに化け物のように強いアンシュラオンのことだ。

 あの男もまるで強そうには見えないのに、実際はとんでもない怪物である。

 アンシュラオンとセイリュウの外見はまったく似ていないのだが、なんとなく【内面】が似ているような気がしたのだ。


 性格とかではなく、その【本質】が、だ。


 その奥底に秘められた強烈なパワー、感情、圧力、人間とは思えない存在感。

 こうしたものは簡単に出るものではない。選ばれた者だけが発するものだ。


 セイリュウは―――狩る側の人間。


 アンシュラオンと同じく喰らう側の存在なのだ。

 こればかりは仕方がない。存在そのものが違うのだから受け入れるしかない。

 それに気付き、ぶわっとビッグの身体中から大量の汗が滲む。その姿は捕食者を前にした獲物であった。


 しかしながら、そんなビッグを完全に無視して、セイリュウは【歓喜の表情】を浮かべる。


「いやぁ、ビッグさん、私は感動いたしました!」

「はへっ!? か、感動? 何に!?」


 喰われるかと思って硬直していたビッグに対し、セイリュウは満面の笑顔だった。しかも声まで多少弾んでいるようだ。

 そのギャップにビッグの頭が混乱する。


「まだお若いのにたいしたものです。さきほどのお言葉、しかと拝聴いたしましたよ」

「こ、言葉? 何か言ったっけ? え?」

「またまた、ご謙遜を。あなたはこうおっしゃった。『ホワイトは俺が殺す』と。実に勇敢で雄々しいお言葉です。いやぁ、素晴らしいことです。最近の若い者はどうにも奥手だと思っていたのですが、ソイド商会さんは頼りになる跡取りをお育てになられましたね」

「うえぇえっ―――!!??!!?! あ、あれはその!! ち、ちがっ…」

「おや、聞き間違いでしたか? 私もかなりの歳になりますが、まだ耳は詰まっていないという自負があります。…おっしゃいましたよね?」

「あっ…え……言い………ました。調子に乗って言っちゃいました」


 まったくである。何度思い返しても調子に乗りすぎだ。

 ダディーが死んだと思ったので逆上し、その勢いでのことではあるのだが、今思えばとんでもないことを言ったものだ。

 しかも自分が独りの時に怒りで燃え立つのならばよいものの、他人に聞かれるというのは非常に気まずいものだ。

 だが、あくまで言っただけだ。それだけのことである。

 「ちくしょう! 部長のやつ、ムカつくな! ぶん殴ってやる!」「あの店員、なめやがって! 尻の穴にワサビでも突っ込んでやろうか!」と、怒りが収まらずに自宅で文句を言うこともあるだろう。

 所詮その程度のことだ。人間ならば誰にだってあることだろう。ちょっとした過ちである。



 そのはずだったのだが―――聞かれた相手がまずかった。


 パンッ


 セイリュウが握手を解除し、自分の手を叩く。

 ようやく手が離れたことを喜びたいビッグだったが―――


「素晴らしい! やはり聞き違いではなかったのですね」

「…いえ、その…忘れてください」

「いえいえ、しっかりと私の胸に刻み込まれておりますよ。そこでご相談なのですが、ぜひ我々に協力させてくださいませんか?」

「え? 協力…って?」

「なるほど、ご自分の力だけでやるつもりだったのですか。しかし、侮ってはいけません。敵は強大です。若者の勇気は称えますが蛮勇は無謀と紙一重です。ご無理はなさらないほうがよろしい。他者を頼ることは恥ではないのです」

「…あの…何を言ってるのか…」

「ホワイトを倒すのでしょう? マングラスがバックアップしますので、ぜひその【旗印】になっていただけませんか?」

「旗印…?」

「先頭に立って皆を鼓舞する、という役割です。それは勇気あるあなたにこそ相応しい。いやぁ、あなたのような若者を待っておりました。このような場所で出会えるとは強い運命を感じますね」

「………」


 ビッグは、じっとセイリュウの顔を見つめる。

 「こいつ、何言ってんだ?」という顔でしばらく見つめる。

 それから上を向いてみたり、視線を横に逸らしてみたり、首をごりごり回してみたりする。

 それを五セットくらい繰り返したあと、ようやくにしてビッグの回転の遅い頭が答えを見いだす。




 チッ チッ チッ ポーーーーンッ





「ぶほぉおおおおおおおお――――――!??!??!!!!!」





 本気で吹き出した。

 こんな『笑い話』には吹き出すしかないので当然の反応だろう。

 まったくもって何を言っているのか理解不能だ。いや、理解したからこそ意味不明なのだ。

 いくらビッグとて、ここ最近の出来事によって自分の実力くらいは理解している。

 アンシュラオンに何百倍も劣るファテロナにさえ、手も足も出なかったのだ。

 その程度のレベルの自分に何ができるのだろう。普通に考えればセイリュウが狂っていると思うだろう。


 だが、このセイリュウが何の算段もなしに動くわけがない。


 彼がこう提案した理由の一つが、まずはこれだ。

 手を握れるような距離でビッグが吹き出せば、飛び出た唾液などがセイリュウにかかるが、彼の顔は綺麗なままであった。

 それどころか―――


 パラパラパラッ


 唾液が細かい粒子となって掻き消えた。


「うっ、さぶっ!!」


 それと同時に強烈な寒気が襲う。

 セイリュウの圧力という意味ではなく、本当に肌寒かったのだ。


「ああ、失礼。つい咄嗟に反応してしまいました。他意はありませんのでお許しください」

「これは…まさか……あいつと同じ…!」


 セイリュウの身体から、ひんやりした冷気が発せられており、一気に温度が下がった周囲に霜が降りていた。


 それは―――【凍気】。


 アンシュラオンが得意とする水の上位属性だ。


「あんた…凍気が使えるのか?」

「凍気をご存知でしたか。ええ、そうです。グマシカ様より凍気を扱う資格を与えられています。これはとても光栄なことです。マングラスを象徴する気質でございますからね」

「どういう意味だ?」

「すでに忘れられた逸話ですが、五つの家はそれぞれの基本属性を示してもいるのです。我々マングラスは『融和の水』、あなた方ラングラスは『活力の火』、ジングラスは『護りの風』、ハングラスは『物質の雷』、そしてディングラスは『王の光』を示しています」

「…へぇ、あんた博識だな。そんなの初めて聞いたぞ。あれ? 基本属性ってもう一つなかったか?」

「はい。『闇』がございます。闇は一般的に『愛』を象徴します。この自然溢れる豊かな大地こそ『恵みの闇』なのです」

「自然溢れる…? ここが?」

「かつてはそうだった、ということです。災厄が訪れ、荒れ果てる以前は…ですが」


 四大市民にはそれぞれ方角が与えられており、同時に役割と属性も示している。


 東のラングラスは、火。

 人々の潜在能力と力を引き出す『活力の火』。

 これはソブカを見ているとわかりやすいだろうか。

 彼が着ているローブも臙脂色であったし、鳳凰のような刺繍が見受けられた。復活の火であり、活力の火であり、燃えるような心の炎を象徴する。

 彼が火の準魔剣にこだわったのも、それがラングラスの象徴だからだ。

 古い伝説や伝統に詳しいソブカだからこそ知っているものであり、ビッグなど今の世代の人間はほとんど知らない事実である。


 西のジングラスは、風。

 人々を守護せし武人の象徴、『護りの風』。

 プライリーラの髪の色もそうだし、彼女も風の上位属性である『嵐』を使ったこと、守護者が風を象徴していたことからもわかりやすい属性だ。

 西部は当時も未開の地が続いていたので、西からの魔獣の攻撃をジングラスが守護していたことから西の方角が与えられているわけだ。

 プライリーラの邸宅が都市の西側、中級街にあったこともそれが関係している。当時は城壁がなかったので西が一番危険なエリアだったのだ。

 また、ラングラスが東なのは、その風を受けて火が活性化するからだ。つまりは相性が良いのである。

 プライリーラがソブカのことを気に入っていたことも、そうした相性が多少は関係しているのだろう。(ビッグも火のはずだが)


 北のハングラスは、雷。

 人々が大地で生活するうえで絶対に必要な『物』の象徴、『物質の雷』。

 彼らが雷を象徴する由来は、原子核と電子のように、あらゆる物質を構成する要素が磁気的なものだからであろう。

 実際に雷属性を持つ人間は、いろいろなものを引き寄せる性質がある。

 ゼイシルは神経質な性格だが、ああ見えて部下からの人望は非常に厚く、そうやって作り上げた人脈によって多くの人と物を引き寄せている。

 そういった意味も含めて、まさにハングラスは雷に相応しいといえる。


 南のマングラスは、水。

 集まったすべてのものを中和し、融合させる象徴、『融和の水』。

 多種多様な人材を一つのまとめる力は、やはり水である。すべてを受け止め、浄化し、一つに混ぜ合わせてしまう魅力を持っているのだ。

 アンシュラオンも水を象徴するので似ているところはあるだろう。

 彼という巨大な中核がいなければ、どんなにスレイブがやってきても一つの集合体にはならないはずだ。彼が包み、彼の色に染めてしまうからこそ一つになるわけだ。

 マングラスが強いのは、そうした融和性の力を持つからなのだろう。

 彼らが南に配置されているのは、南部からやってきた人間を最初に受け入れる役割を持っていたからだ。

 こちらも雷を象徴する北のハングラスとは抜群の相性となる。人と物は切っても切り離せないのだ。


 最後に中央に位置するは、光のディングラス。

 人々を導き輝く王の象徴、『王の光』。

 今ではまったくの逆になっている気がしないでもないが、ディングラスは王の家系である。

 かつては五英雄のリーダーとして君臨しており、今も対外的にはトップの領主という立場にいることからも、その名残が見て取れる。

 どんなに苦しい時でも光さえ見えればがんばることができる。人々を鼓舞し、人間の可能性を示す存在こそが王なのだ。


 最後の闇は、この自然そのものである。

 闇というものは闇の女神が象徴するように、この世界では『慈愛』や『母性』を示すものなので、むしろ褒め言葉になることを忘れてはならない。

 種が芽吹くのは土の闇の中でこそだ。そこで養分を受けて、光を目指して昇っていくのである。

 また、人間が地上生活を送り、肉体(闇)に内在する霊(光)を育てることからも、大地は闇は象徴でもあるのだ。


 このように物事には必ず意味が存在する。

 ただ何気なくあるように見えても、それは意識して考えないからにすぎない。




352話 「マングラスの提案 後編」


「このように五つの勢力はグラス・ギースの要として存在してきました。しかし、長い年月の間に多くの美徳は失われ、此度の一件でも大切なものが失われようとしております。それが私は…とても哀しいのです!」

「は、はぁ…なるほど…」

「ビッグさん!」

「は、はい」

「あなたは非常に見所がある若者だ。どうですか? 一緒に祈祷などをしてみませんか? そうそう、この数珠をつければさらに効果が倍増しますよ。おっと、これを忘れてはいけません。この聖なる水を祭壇に掲げればもっと我々は神と一体となり…」

「あ、あの…急いでますんで。すんません。そういうのは大丈夫です」


(やべぇ、こいつ! 危ないやつだ! こえーよ!!)


 セイリュウの発言が危ない。道端で遭遇する頭のおかしいエセ宗教人のようだ。

 なまじ相手が強いからこそ怖さ倍増となる。早く立ち去ってもらいたいものである。

 だが、この男も遊びや宗教の勧誘でここに来たわけではない。マングラス最強の男がわざわざ出向く意味があるから来たのだ。



 そして、ようやく本題に入る。



「申し訳ありません。少し脱線してしまいましたね。しかし、私たちが力を貸すという話は本当です。我々は共に力を合わせねばならないのです」

「待て、セイリュウ! てめぇ、いきなり何を言い出す! ホワイトに関してはジングラスの戦獣乙女がやるって話だろう! 俺たちは不干渉じゃ…」

「プライリーラ・ジングラス様は敗北なされました」

「―――なっ!! 戦獣乙女が…!? 本当なのか!?」

「はい。すでに確認いたしました。さすがに証拠を提示するのは難しいのですが、間違いなきことです。お疑いになられるのならば静かに待ってみればよろしいでしょう。そのうちホワイトだけが都市に戻ってくるはずです」

「アーブスラットはどうした!?」

「彼も負けたようです」

「あいつが…! 馬鹿な!!」

「驚くのも無理はありません。アーブスラットさんは相当な手練れ。単独の戦闘力ならばプライリーラ様すら凌駕する可能性のある武人です。ですが負けたのです。それが現実です。そして、時間によって事実が証明される事柄に対して、私が嘘をつく理由がありません。信頼を損ねるだけでしょう」

「…どうやって知った?」

「人の噂が隠せぬように、人の目を隠すこともできません。いつどこで誰が見ているかわからぬものです」

「………」


 マングラスは人を御する者たちだ。密偵だけではなく、数多くの一般人ともつながりがある。

 遠くで巨大な竜巻を見た者がいれば街での酒の肴になるだろうし、聞きつけた情報屋が詳細を買い取ってくれることもある。

 アンシュラオンもプライリーラを倒してからは、敵意のある者以外は無視しているので、そうした情報を持ち帰る商人や旅人もいるだろう。

 それらの情報を組み合わせれば極めて事実に近い情報を得ることは可能である。

 マングラスが嘘をつく理由もないので、この情報は確かなものだと思われた。

 ただ、あまりに早い。

 電話すら満足に存在しない地域で、しかもこれだけ離れた場所において昼間起こったことをすでに知っている。

 その情報力が何よりも怖ろしい。これが人を動かす者たちの実力なのだろうか。


 そしてもちろん、プライリーラとアーブスラットを倒したアンシュラオンが一番怖ろしい。


(プライリーラは若いが、実力は文句のつけようもない。アーブスラットもそうだ。間違いなく俺より上の武人だぜ。それをホワイトが…? 信じられねぇ…想像以上だ!)


 その情報にダディーも驚愕するしかない。

 戦獣乙女は、この都市の切り札のようなものだ。それが倒される意味は極めて大きい。

 もし自分が死ぬ覚悟でいっても、たとえ秘宝を使って挑んだとしても、肉体そのものをすべて粉々にされてしまえば本当に死亡確定だ。

 あるいはアーブスラットのように氷漬けにされてしまえば、そもそも生きていようが死んでいようが関係ない。

 ここでダディーは、アンシュラオンの危険度をさらに引き上げるしかなくなった。

 アンシュラオン側の視点から見れば気楽な人生だが、こうして反対側から見れば、これほど凶悪な存在はいないだろう。


 と、ここまで情報がそろえば、セイリュウがここにやってきた意味もおのずとわかるだろう。


「てめぇの情報が本当だとして、今の話はいったい何だ? どういうつもりだ?」

「簡単なことです。戦獣乙女が倒れた以上、話は四大会議での議題に戻ることになります」

「ホワイトへの制裁か」

「その通りです。そこでグマシカ様は【合同制裁】を提案なされました。私がここに来たのは、その御意思を伝えるためです」

「合同制裁? 一緒にやるってことか?」

「はい。すでに戦力を失ったジングラス以外の全派閥が、共に力を出して彼らを排除するということです」


 制裁自体が各派閥による共同作業なのだが、そこはやはり派閥それぞれの思惑がある。

 実際に制裁するにしても、もっとも利益を手にする者が主導してしかるべきだろう。

 たとえば地球の国連軍も、その議題を提示または支持した国が主に軍隊を派遣することになる。

 名目上は国連となっているが、実質は特定の国家の軍隊の派遣を認める口実になることがあるわけだ。

 それと同じようにグラス・ギースの制裁も主導する派閥が重要になる。


 マングラスが提示したのは、合同制裁。


 一見すれば「みんなで仲良くやろう」と言っているようなものだが、力関係が対等でない以上はどうやっても平等にはならない。

 結局はマングラスが多大な影響力を発揮するだろう。


(ちっ、セイリュウのやろう、念を押しにきやがったのか! このままだとマングラスが主軸になることを認めることになる! それだけはまずい!)


「セイリュウ、会議での俺の言葉を覚えているか? ジングラスの戦獣乙女だから譲ったが、やつは俺がやると言ったはずだ。これは俺たちラングラスの問題だ。お前たちが口を挟むんじゃねえよ!」

「ラングラスだけでやるとおっしゃるのですか?」

「当然だ。てめぇの尻はてめぇで拭くんだよ。それが俺らの生き方だ」

「ソイドさん、それが不可能であることは、ご自分が一番よく理解なされているはずですよ。今のあなたの身体では到底立ち向かうことは不可能です」

「そんなことを言っているんじゃねえ。ケジメの問題だ」

「…なるほど。組長としては実に見事なお覚悟です。しかしながら、事はグラス・ギース全体の問題に発展しております。本日起こった衛士隊との騒動も根幹は同じところにあるのではないでしょうか。マングラスとしても黙って見ているわけにはいかないのです」

「お前たちの好きにはさせねえ!」

「敵意はないと申し上げたはずですよ」

「それが信じられるほど俺たちは仲良くないからな」

「…そうですか。長い諍いの月日によって私たちは互いを信じられなくなってしまったのですね。まるで氷のように…哀しいことです」


 セイリュウの凍気の影響か、周囲には雪が降っていた。

 水さえ商品となるグラス・ギースにおいては、本来ならば希少な情緒溢れる光景なのだが、その冷たさは互いの心の温度を示してもいた。

 五つの家が利権を争うようになってから、互いに牽制しあい、潰し合うことが当たり前になっていったのだ。

 一度敵対の歴史が生まれてしまうと、その確執を取り除くことは容易ではない。

 ダディーの中にはマングラスに対する警戒感しかない。そんな状況で合同制裁などできるはずがないだろう。

 当然、それはセイリュウも予期していたことだ。


「この氷は簡単には解かせません。ですが、若い世代ならばどうでしょう」


 そう言って、セイリュウはビッグを見る。

 セイリュウのことも五英雄の成り立ちも、その意味さえ知らない若い者たちは浅慮であるが、一方でしがらみに縛られないという最大のメリットもある。


「過去の慣習に囚われない若者こそ、この先のグラス・ギースを支える貴重な人材です。マングラスはそうした者たちに援助を惜しみません」

「結局は、お前らの手先になれって言っているようなもんだろうが。認められるかよ」

「それがご心配ならば、我々は完全にバックアップに徹する、ということでいかがでしょう。あくまで主導はラングラスかつソイドファミリーが行ってもらう形となります。それならば面子は潰れません。ですが、ソイドさんの今の状態では到底戦うのは不可能なことです。誰か代わりに先頭に立つ人物が必要です」

「それでビッグ…か」


 ラングラスが主導して制裁を行うにしても、それを率いる人間が必要だ。

 本当は戦闘が得意なソイドダディーがやるべき立ち回りだが、現状では戦うことは不可能だ。

 となれば【代役】が必要となる。そこで選ばれたのがビッグだ。

 ダディーによく似ている彼ならば、たしかに旗印としては適任だろう。あくまで見た目は、であるが。


 だが、ここで最大の問題に直面する。


「お前もわかっているだろう。こいつはまだ力不足だ。息子に死ねなんて言うつもりはない。どうせ死ぬのならば俺が死ぬ。それが最期の花道だ」


 当然、実力の問題である。

 ダディーほどの実力があっても足りないのだから、ビッグなど何の役にも立たないだろう。


「あなたはまだラングラスに必要な人材です。ジングラスが倒れた今、我々はこれ以上のパワーバランスが崩れることを望んではおりません」

「なぜだ? そんなに力があるなら、お前たちが都市を牛耳ればいいだろうが」

「どうやらそこに誤解があるようですね。まず大前提として、五英雄の血筋を絶やすわけにはまいりません。その偉大なる血には多くの強い力が眠っています。失うには貴重すぎるものばかりです。そして、その健全な活性化と存続には、各派閥がそれぞれに自立している必要があるのです。飼われた家畜では堕落してしまうからです。あなたのように外から来た人間の血を受けても維持していかねばなりません」

「はっ、俺たちを家畜呼ばわりかよ。てめぇの性根がよくわかる言葉だぜ」

「それもまた事実なれば受け入れましょう。私は聖人君子ではありません。あくまでグマシカ様の右腕にすぎないのです」

「そんなやつに息子を任せることはできねえな」

「ソイドさん、可愛い子供には旅をさせよ、と申します。いつまでも牧場の中にいてばかりでは強くはなれません。荒野に出てこそ生物は強さを得るのです」

「…てめぇに言われるまでもねぇ。だが、あまりに力が違いすぎる。危険だ」

「男子三日会わざれば刮目して見よ、とも申します。親から見ればいつまでも子供なのでしょうが、なかなか気骨のある若者に見えます。化けるかもしれません」

「ふん、世辞なんて言われても気持ち悪いだけだ」


 と言いつつも、セイリュウの言い分にも理があることは認めねばならない。


(たしかにビッグに足りないのは実戦と勝負度胸だ。武人ってのは死線の数だけ強くなるもんだ。…俺はそういったことをこいつに教えてやれなかった。自分の可愛い息子を死地に追いやるなんて…俺にはできねぇからな)


 だが、そんな息子も少しばかりは強くなっている。

 ファテロナとの戦いをわずかの間だけでも生き延びたことには、正直驚いた。

 どこで経験したのかわからないが、いつの間にか息子は一回り大きくなっていたようだ。

 ビッグの成長線は、まだ伸び始めたばかり。これからもっと死線を潜り抜けることで強くなっていくだろう。

 ただし、それをセイリュウに任せるかどうかは話が別である。

 それ以前に勝ち目がなければ意味がない。死んだら成長も何もないのだ。


「お前たちに勝算はあるのか? 戦獣乙女でさえ駄目だったんだぞ。勝てるとは思えねぇ」

「今までの敗戦はすべて単独で挑んでいたからです。いくらプライリーラ様がお強くても、やはりジングラスだけでは無理なのです。ですが、我々が力を合わせれば勝てます」

「たいそうな自信だな」

「それだけグラス・ギースの底力を知っているのです。我々に眠っている力はこの程度ではありません。ただ、多くの者たちが協調を忘れてしまっただけなのです。それが一番嘆かわしいことです」

「具体的にどうするつもりだ?」

「戦力はマングラスが出しましょう。物資はハングラスが担当します。それを指揮するのは、あくまであなた方ラングラスです」

「話がうますぎる。俺たちだけ美味しいところをもらうじゃねえか。あとで見返りを要求されたら意味がない」

「すでに申し上げましたが、グマシカ様はグラス・ギースを愛しておられるのです。この都市が混乱に陥ることを一番懸念しておられる。そのためならば労力を惜しむようなことはいたしません」

「ふん、よく言うぜ。仮にそれが事実として、ディングラスはどうする? うちらは衛士隊と揉めたぞ。それをどう収める?」

「その件につきましては我々にお任せください。すでに領主城に使者を送っております」

「何から何まで準備万端だな」

「マングラスだけが楽をするわけにはまいりません。共に苦労を分かち合う姿こそ、本来の五英雄の姿ではないでしょうか」


 などと、こうしてセイリュウは「いい人ぶって」いるが、やはり所詮は化けの皮にすぎない。

 ダディーにはこの男の内面、どす黒い部分がよく見えていた。


(このやろう、全部予定通りってわけか!! うちらが揉めるのを待っていやがったな!)


 この発言で、マングラスが『このタイミング』を見計らっていたことが確定する。

 さすがにベルロアナのことまでは知らなかったかもしれないが、いつか衛士隊とラングラスとの間で致命的な決裂が起こることを予測していたはずだ。

 ホワイト商会が商店街でマキとも揉めたので、決裂の予兆を感じ取ることは誰にでもできるだろう。

 また、衛士隊の中にもマングラス側の人間が数多く紛れ込んでいるはずだ。

 上級衛士隊と外周組の軋轢を見てもわかるように、そこには大きな待遇の隔たりが存在する。

 そうした不満に付け込み、多額の賄賂を送ってマングラス側に引き込むのだ。

 ベルロアナが麻薬を受け取った事実も、もしかしたらすでに把握していた可能性もある。領主の性格を考えれば激怒することも容易に見抜けるだろう。


 どちらにせよ―――思惑通り。


 両者の対立が深まった時にグマシカが出てきて、すべてを取りまとめることで、必然的にマングラスの影響力はさらに増していくことになる。

 今回の制裁でラングラスを前面に出すとはいっても、結局はマングラスの力によって成されることには代わりがない。

 それは四大会議の流れのまま、何一つ変わっていないのだ。




353話 「マングラスという名の悪」


「少し失礼いたします」


 ダディーが悩んでいる間、セイリュウが倒れているファテロナのもとに向かう。


「これは酷い怪我ですね。ですが、さすがはファテロナさん。こんな大怪我でも、まだまだ生命力が残っておられる。これならば問題ありません」


 なぜか目を見開いたまま気絶しているが、命には別状がないようだ。なんとも生命力の強い女性である。

 そのファテロナにセイリュウが掌を向けると、皮膚からどろっとした水色の液体が滲み出てきた。

 どろり ぼとぼとっ じわっ

 大量の粘ついた液体が傷口に侵入し、内部と表面をたっぷり満たしていく。

 肩口から胸にかけての大きな傷から、ダディーの虎破によって損傷した内臓にも染み渡っていった。

 じゅわじゅわっ じゅわじゅわっ


 十秒後―――傷が塞がる。


 あれだけ酷かった傷口が液体によって薄く膜が張られ、多少色が違うが擬似的な皮膚が形成されていく。

 さらにその上から液体が粘りつき、新しい細胞へと変化していった。


「まだ癒着には時間がかかるでしょうが、これで欠損部分も修復ができるでしょう。ファテロナさんには生きていてもらわないと困りますからね。安心いたしました」

「っ!! あんた、それ!!! ホワイトと同じ力か!!」


 それに一番驚いたのがビッグであった。

 自分のちぎれかかった腕さえも簡単に治療した命気を目の当たりにし、ますますアンシュラオンに対する畏怖を感じたものだ。

 それと同じく、これだけ重傷のファテロナを癒すのだ。

 セイリュウがやったことは、あの男のものとよく似ていた。驚くのも当然だろう。

 ただ、似たようなものであっても同じものではない。


「彼の力を直接見たことはありませんので確かなことは言えませんが、おそらくは違うものでしょう。私のものは少々特殊ですから普通の人間が使えるとは思えません。彼が使っているのはきっと『命気』でしょう」

「あんたのものとは違うのか?」

「彼のものは技であり、私のものは『効用』です」

「?? それの何が違うんだ?」

「これ以上の説明は難しいものです。同じ水の力を使っている、とだけ覚えておいてください」


 水を司る者、それがマングラスである。

 水は癒しの力、水はすべての源、人間の身体の半分以上が水分で出来ていることからも、水がいかに重要かがわかるだろう。

 セイリュウはマングラスの血筋というわけではないが、まさにマングラスの力を象徴するような現象を引き起こすことができるようだ。

 こうしている瞬間も、見る見る間にファテロナの傷は回復していっている。すでに損傷した胸や心臓の再生まで終わりつつあるようだ。


 この力は―――なんとも魅力的で驚異的。


 アンシュラオンが患者に崇められるように、もし医者をやればセイリュウもカリスマになれるだろう。それだけの凄まじい力だ。

 それに対して、ビッグは素直に称賛する。


「あんた…すげぇな」

「私の力ではありません。グマシカ様のお力です」

「でも、自分で身につけた力なんだろう? どれだけ修行したんだよ」

「修行…ですか。たしかに人間は不便ですね。鍛練をしなければ強くなれません」

「そんなの当たり前だろう? 誰だってそうやって強くなるはずだ」

「ビッグさん、世の中にはいろいろな種類の力があるのです。たとえばそう、魔獣です。個体差はありますが、彼らは成体になれば種の平均値に向かって必然的に強くなります。どんなに落ちこぼれでも、ウサギに負ける虎はいないでしょう?」

「そりゃそうだが…何が言いたいんだ?」

「この世界には人間でありながら、明らかにそれを超越した存在がいるということです。ホワイトという人物は、そういうタイプの存在ではないかと考えています。それならばプライリーラ様が負けても致し方ありません」


 某漫画に「虎や狼が日々鍛練などするかね?」という名言があるが、特定の種族に生まれた以上、基本的には組み込まれた遺伝子情報に沿いながら平均値に向かって強くなっていくものだ。

 魔獣が一般的な生息環境で普通に過ごせたならば、虎がウサギに負けることはまずありえないわけだ。

 仮に檻に閉じ込められて足腰が弱ったライオンでさえ、人間を噛み殺すことなど容易だろう。そもそもの力が違うからだ。

 そして、アンシュラオンが怖ろしいほどに強いのは、【虎が鍛練した】からだ。

 もともと魔人という特殊な因子を持つ存在でありながら、その才能を覇王の下で開花させたから圧倒的に強いのである。


「たしかにそうかもしれねえ。あいつの強さは普通の人間のレベルじゃない。あれは本当に人間じゃねえよ……ん? 待てよ…じゃあ、あんたの力もそういったものだって言いたいのか?」

「ふふふ。さて、どうでしょう。あくまでたとえ話として出しただけのことです。しかしながら、力の種類を勝手に決め付けることも危険です。先入観が一番怖いですから、相手をよく見て洞察力を磨くことも肝要です」

「…それは身にしみているぜ。腕っ節だけを頼りにしていたら、自分より腕力が強いやつが出てきたときに詰むからな」

「それがわかっておられるのならば、実に素晴らしい経験をしていますね。ファテロナさんとの戦いを拝見いたしましたが、あなたは見所がある。ぜひそのまま自分の才能を伸ばしていってください。まだまだ強くなるでしょう。僭越ながら私が保証いたします」

「お、おう」


(こいつ、やっぱりいいやつなんじゃないのか? 何よりも強い! この力だってホワイトに匹敵するような気がするぞ!)


 ビッグはセイリュウの力に魅せられていた。

 彼もアンシュラオンに散々いびられてプライドをズタボロにされたので、ルアン同様、力に対する憧憬を強めていたのだろう。目の前で起こった現象に興味津々である。

 ビッグからしてみれば、それは畏怖すべきアンシュラオンと同じ力だ。心の中では自分も欲しいと思っているに違いない。

 セイリュウはセイリュウで、それをあえて見せ付けることでビッグを『転がして』いる。

 豚はおだてれば簡単に喜ぶものだ。当人はまったく気付いていないが、セイリュウにうまく主導権を握られているのである。

 これだけの力を見せられれば、誰だってすごいと思うだろう。これも一種のパフォーマンスである。


 ただ、それを見ていたダディーは妙な感覚に囚われていた。


(あれがセイリュウの力…か。とんでもねぇな。伊達にマングラスの重鎮じゃないか。…だが、なんだこの妙な圧力は? まるで危険な魔獣を目の前にしているようだ。嫌な感じがするぜ…)


 親を殺された復讐に、若い頃は狂ったように魔獣狩りをやっていたダディーである。

 何百匹も殺したことがあるし、あるいは強い魔獣に向かっていっては返り討ちに遭ったこともある。

 そうした経験の蓄積による勘が、セイリュウに危険信号を送っていた。

 すらっとした体躯なのに、なぜか巨大な魔獣を相手にしているかのような圧力を感じるのだ。


 まるでそう、昔見た四大悪獣の一角であるゼゼント・ギース〈火山悪獣の食蟻虎《アリクイトラ》〉のように強大で凶悪に見える。


 ダディーが外での魔獣狩り、特に都市から遠く離れた荒野に出向くことをやめたのは、偶然出会った四大悪獣が原因だ。

 周囲に炎球を展開して悠々と歩く巨大な虎。その禍々しく歪な姿に畏怖を覚えたのだ。

 あれには勝てない。種族そのものが違う。

 そう思ったからこそ無謀な戦いをやめた。人間がどうやっても勝てない相手というのは存在するのだ。

 今セイリュウから感じる圧力も、それによく似ている。それが非常に不気味である。



「さて、これでファテロナさんの応急処置も終わりました。彼女は私が丁重に領主城まで届けておきましょう。領主様との折衝につきましてはお任せください。悪いようにはいたしません」

「…さっきの話はどうなった?」

「いきなりの提案ですから、ラングラス一派の皆様で話し合いが必要でしょう。それを受けてから対応を決めるといたしましょう。ですが、できれば早めがよろしい。彼が戻ってきてから動いては手遅れになります。我々がまとまるチャンスは、それまでの間しかないと考えております」

「………」

「強要はいたしません。しかし、あなた方の答えがどうあれ、マングラスとしては動くつもりでおります。その点に関しましてはご了承ください」

「その時になってから『俺たちも乗せてくれ』と言っても手遅れというわけか」

「ふふ、そのような意地悪はいたしませんが、発言力は低下するでしょう。それでラングラスが衰弱するようならば、グマシカ様も『致し方ない決断』を下す可能性もあります。この都市の治安を守ることが第一ですので。だからこそ私が出てきたのです」

「脅しか?」

「事実です」

「…ちっ」


 セイリュウが明言しているように、マングラス側としてはラングラス側の意見など、どうでもよいのだ。

 最悪は自分たちで事を収めてしまえばいい。それだけのことである。

 四大会議の際は「セイリュウとコウリュウ以外の人材は出す」と言っていたが、その条件を超えてセイリュウが派遣された意味がここにある。

 それだけ本気であることを示すために、わざわざマングラス最強の武人が出てきたのだ。

 たしかに強い一手だ。これだけの力を見せられれば逆らうのは容易ではない。


 しかし、だからこそ逆に気になる。


(なぜこいつらはラングラスを立てようとする? そのまま自分たちでやったほうが早いだろうに。やっぱり胡散臭いこと、この上ないぜ。この提案の乗れば絶対に高くつきやがる。あとから何を要求してくるかわかったもんじゃねえ。おおかたラングラスを盾にして面倒なことを押し付けようって腹だろうが…)


 グマシカは裏側に潜み、陰からグラス・ギースを支配しようとしている。いや、半分はすでに成しえている。

 これを継続強化するためには、引き続き表舞台に出ないことが好ましい。なにせ実際にアンシュラオンが狙っているのだから、用心深いに越したことはないだろう。

 だからこそ今回も自分たちを前面に出さずに済めば一番良い結果となる。

 ラングラスは、そのための盾にすぎない。都合の良い駒としての価値しかない。


(わかっている。わかっているんだ! こいつらが腹黒い連中だってのは、とっくに理解しているんだよ! だが、くそっ! かといってこのままじゃ手詰まりだ。俺たちの力じゃ領主との折衝なんてできねえ!)


 領主がどれだけ怒っていたとしても、グマシカの言葉ならば受け入れるしかないだろう。

 グラス・ギースは、マングラス無しでは何もできないのだ。

 人のいない空っぽの都市など、ただの建造物の集合体にすぎない。人を御するとは、そういうことだ。

 すべての力の源は―――人間。

 人が生み出す創造力にこそ価値があるのだ。


(こんなところでよ…終わらせるわけにはいかねぇんだよ。くそっ、全部が上手くいかねぇ。どうすれば…どうすればいい…)


 ダディーは迷う。

 武闘派の彼は、もともと考えることが苦手だ。具体的な対案など出せるわけがない。


 そんな時である。




―――「ダディー、俺はやるぜ!!」




 ビッグが父親に歩み寄る。


「なっ…お前、状況がわかっているのか!?」

「いや、よくわからない」

「わからねぇって…お前…」

「ああ、わからねぇよ。俺には派閥やら何やら、マングラスがどうやらラングラスがどうやらもわからねぇ。しょうがねえよな。だって俺はまだガキだからさ。そんな小難しいことはわからねえよ。でもよ、もう我慢の限界だぜ。俺は…俺は…!! マジでムカついてんだからよ!!! あいつと関わってから人生滅茶苦茶だ!! もうこんなのはうんざりだ!! うんざりなんだよ!!」


 その気持ちはよくわかる。あの男と関わると誰もが不幸になるのだ。

 今まで我慢してきたが、一度切れた糸は簡単には戻らない。

 考えれば考えるほどに怒りが滲み出てくる。



 もう―――限界



 限界なのだ!!!



「俺は…俺は!!! あ、あいつを!! あいつをなんとかしねぇとよ!! もう満足に眠れもしねえんだよ!!! だったらよ、マングラスだろうがなんだろうが、使えるもんは使うぜ!!! なあ、セイリュウさんよ! 力を貸してくれんだろう!! あんたのその力をよ!!」

「もちろんです。マングラスにできることならば何でもいたしましょう。私自ら出向いてもよい、とグマシカ様からもご許可をもらっております」

「ならよ! やるしかねえよ!! なあ、ダディー!! やるぜ! 俺はやる!! あいつらを倒すぜ!!」

「ビッグ、本気なのか!! こいつらは…」

「言わなくても親子だからわかるぜ。ダディーはこいつらのことを疑ってんだよな。俺は馬鹿だからわからねぇけど、ダディーがそう思うならそれが真実なんだろうよ。だが、悪を倒すには悪が必要だってのも理解できるぜ。世の中は綺麗なことばかりじゃないからな。俺だってそれくらいはわかる。今は家族を守るためにやれることは何でもやるべきだぜ!! なあ、ダディー! そうだろう!? もうこんなのは嫌なんだよ! 俺はダディーを守るぜ!! 家族を守る!! 俺が守るんだ!」

「お前…いつの間にそんな…立派に……」

「ソイドさん、親の知らないところで子は育つものです。任せて差し上げるのも成長につながることでしょう。もちろん我々が全力でサポートいたします。信じてくださらなくても結構。自分たちのために存分にご利用ください」


 ビッグがさりげなくセイリュウのことを「悪」と罵っているが、まったく表情を変えていない。

 本当にそんなことはどうだっていいと思っているのだろう。

 そうなのだ。本当の悪というものは、「お前たちは悪だ!」と言われたくらいでは何も感じないのだ。

 それを言われて動揺するくらいならば、まだ可愛いほうである。まだまだ改善の余地はある極小の悪を宿した者たちだ。

 だが、それをすでに超越しているからこそセイリュウは何も感じない。罵られている間も淡々と自分の役割を果たし続ける。


「ビッグさんのお気持ちは素晴らしいものです。私も感動いたしました。ですが、やはりラングラス内で一度話し合うべきでしょう。やり方はすべてお任せいたします。必要な物資と人材を申請してくだされば、それに応じましょう」

「ああ、やってやる! やってやるぜ!! 俺たちでケリをつけるんだ!!」


 ビッグが自ら名乗り出る。

 その顔は豚君の名に似つかわしくないほど格好良かったという(あくまでダディー視点)。


(息子がここまで言ってんだ。親としては腹をくくるしかねぇか…)


 それを受けてダディーも覚悟を決める。

 すでにセイリュウの登場によってペースは握られている。

 領主との折衝についてもそうだし、秘宝のこともそうだ。どのみちあらがえるような状況ではない。



 こうしてアンシュラオンがいない間に起こった騒動は、幕を下ろすのであった。



 その代わりに新たな激動が起ころうとしている。

 アンシュラオンが常々言っているように、悪を倒すのは正義ではない。さらに強い悪である。

 ここでマングラスという悪が、アンシュラオンという悪に対抗するためにビッグに味方することになるのであった。




354話 「ラングラス一派の集い 前編」


 上級街の東、上級住宅街の最東端には百坪はあろうかという、ひときわ大きな館がある。

 庭や他の施設まで含めれば二百坪(約660平方メートル)はあるだろうか。

 地理的には西門の正反対の場所にあたるので、城塞都市の最奥とも呼べる場所に館があることになる。


 ここは―――ラングラス本家の館。


 一応はツーバ・ラングラスの所在地となっているが、いろいろと身を隠すことも多いため、実際にはどれだけ利用しているかは不明である。

 それでもここがラングラスの城であることには変わらない。彼らにとっては、とても重要な場所である。

 他の派閥の館よりも安全な場所にあるのは、彼らが薬師の家系だからだ。

 傷ついた者たちを治療し、再度戦場に送り込むために、医者はできるだけ非戦闘地域にいなければならない。そうした配慮によって与えられた場所でもある。


 この夜、館には『六人の人間』が集まっていた。


 六人は全員が各組織を束ねる組長クラスで、ラングラス一派を構成する中核メンバーである。

 衛士隊が麻薬工場に突入したのが明け方前のことなので、その日のうちにメンバーが集まったことになる。それだけラングラスにとって重要な会議であることがうかがえた。



 では、メンバーを紹介しよう。


 まずは一人目。

 ラングラスの家長が座るべき椅子にいるのは、やや弱気な顔をした肥満体のムーバ・ラングラス。

 現当主である父親のツーバ・ラングラスが病に臥せっているため、代理としてラングラスのまとめ役を務めている男だ。

 彼がどんな人物であるかは、すでに四大会議で見た通りである。

 威厳とカリスマで皆を引っ張るリーダータイプの父親とは違い、細々とした調整を得意とする補佐役に向いている男だ。

 頼りなくともツーバがいない以上、ラングラスの最高責任者である。彼がいなければ始まらない。


 二人目はソイドファミリーの組長であるソイドダディー。

 彼の人柄も今までの言動を見ていれば、ある程度のことはわかるだろう。

 粗野に見えるがラングラスのことを第一に考えている男で、ムーバの娘を嫁にもらったことからラングラス直系筋に躍進した男だ。

 正確に言えばダディーは外から血を運んできただけであって、直系筋はマミーの子供であるビッグから数えるのだが、その実力はラングラスになくてはならないと言っても過言ではないだろう。

 彼がこの場にいるのも当然のことだ。


 次からは、今まで名前は出ていたが初めて登場するメンバーたちの紹介となる。


 三人目は、日に焼けた肌をした白髪のスーツの初老の男で、顔に大きな刀傷があるのが特徴である。

 ダディーほどではないが肩幅も広く、座っているだけで相当な威圧感がある。

 彼こそは大型医療機器を担当するイイシ商会の組長、イニジャーン。

 長年組織に尽くした功績から、ツーバの娘でありムーバの妹であるミバリを嫁にもらったことで、分家筋のトップに位置している男だ。

 分家筋とはいえ、イニジャーンはこの都市の生まれでもあるため、外部からやってきたソイドダディーよりは格上の扱いとなっているので、序列はソイドファミリーよりも上の『第二位』だ。

 当主のツーバにも信頼されており、ムーバがいないときは彼がまとめ役をやるほど影響力を持っている。


 四人目は、中年を過ぎて渋みが出てきた俳優のようにダンディーで、高級スーツを華麗に着こなしているオールバックの男。

 小型医療器具を担当するモゴナッツ商会の組長、モゴナオンガ。

 この男も分家筋に当たる者で、ツーバの血の流れにこそないが、その前の世代の直系筋に連なる家系であるため、序列はキブカ商会よりも上の『第三位』となっている。

 商売人としてもそれなりにやり手で、細々とした小型医療器具を扱いながらも、さりげなく他の商品まで便乗して手を出して売り上げを伸ばす狡猾さを持っている。

 気さくかつ面倒見の良い男のため、ラングラス内部の若い衆からは「兄貴」や「兄さん」と呼ばれて親しまれている。


 五人目が、日本の着物を彷彿とさせる桜色の民族風衣装を着た、五十歳くらいであろう中年の女性。

 紅一点の彼女は、女性用品を担当するリレア商会の女組長、ストレア。

 リレア商会はアンシュラオンがサナと買い物を楽しんだ一般街にも店を構えており、女性物の医薬品や生理用品などはもちろん、オムツやマタニティーウェアなども手がけている。

 彼女は直系でもなく分家筋というわけでもなく、序列もこの中では最下位という立場に甘んじているが、ラングラスは伝統的に女性物を扱う商会を組織内に組み込むため、その中で最大規模の組がリレア商会ということで幹部に数えられている。

 文化レベルが低い地域だと生きることに必死で、どうしても女性は後回しになる傾向にある。

 しかし、女性がいなければ子供が産めず、蔑ろにしていれば都市は疲弊していくばかりだ。女性を大切にしない社会に発展はない。

 薬師や助産師として妊婦と関わることも多いラングラスだからこそ、こうして女性のことも考えることができるのだ。

 そう思うとなかなかまともな組織に見えてくるし、実際リレア商会は女性の『駆け込み寺』としても有名だ。

 困った女性がいれば助ける。そうやって支持を伸ばしてきたからこそ、今の地位を確立できたのである。


 最後の六人目は、医師連合の代表たる理事長を務めるスラウキン。

 彼についてもすでに登場したので、あまり語ることはないだろう。相変わらず学者肌の医者として日々研究に勤しんでいる。




 こうしてラングラスの主要組織の長たちが、館に集まった。



 ここに集まった者たちこそが、ラングラス一派において最大の発言権を持つ幹部たちといえる。

 彼らによってラングラスの方向性が毎年決められているのだ。

 ただし、各組は多少連携しつつも普段は別々に動いているため、こうして臨時で各組長が一堂に会するなど、年に一度ある同派閥会合以外ではまずお目にかかれない珍事である。


 今この場では誰も口を開かず、しばしの沈黙が続いていた。


 すでにソイドダディーから話は伝わっているので、誰もが事の重大性を知っている。

 だからこそ言い出せない。言葉が出ない。

 普段はリードを取るタイプのモゴナオンガでさえ、今日は重苦しい雰囲気の中で沈黙を強いられている。

 たまにトレードマークのボーラーハット(トップが丸い形の帽子)をくるくる回す程度で、話を切り出す様子はない。

 ここで本来ならば司会役になるべきはずのムーバは、あまり気分が優れないのか、やや青い顔をしながら黙ったままだ。

 おそらく事の詳細を聞いて、プレッシャーに押し潰されそうになっているのだろう。自分のことで精一杯で話を切り出せる様子ではなさそうだ。


(…しょうがねえ。親父さんからしたら寝耳に水だからな。さすがに同情するぜ。こうなれば俺から動くしかないか)


 そんなムーバの状態を見たソイドダディーが、仕方なく動こうとする。

 事の発端となったのは自分たちなのだから、最初に話を切り出すのが筋というものだろう。


 そう思ってダディーが口を開こうとする前に―――イニジャーンがぼそっと呟いた。


「ソブカのガキは来ないのか?」


 よく通る低く野太い声が、静まり返った部屋に響く。

 ラングラスの中核を担ってきたに相応しい威厳と迫力が、その声音には滲んでいた。


「あのクソガキが。普段は偉そうに物を言いやがるくせに、こういうときにいないってのはどういう了見だ」


 イニジャーンが呟いたことにより、部屋の空気に流れが生まれた。

 それによってモゴナオンガも口を開く。


「たしかに。こんな重大な会議に遅れるってのは問題だな」

「なめてんだよ、あのガキは。人がムカつくことをあえてやって挑発してやがる。まあ、あんなガキなんぞいなくても問題はないがな」

「まあ、そう言うなよ、オジキ。あいつのおかげでうちらの財政も潤っているんだ。役に立つならいいだろう?」

「馬鹿野郎! この世界で一番重要なのは義理と筋だ! 金なんてもんは、そのあとからいくらでもついてくる! 最近のガキどもは、それがわかってねぇ!!」

「言い分はわかるが時代は変わったんじゃないのか。今はいくら筋を立てても金が物を言うしな」

「その結果が、このざまか。俺はあいつを認めないからな」

「やれやれ、オジキのソブカ嫌いは筋金入りだ。一応は親戚筋なんだからよ、もう少し可愛がってやれよ」

「だから腹立たしいんだろうが。あいつはラングラスの恥だ」


 イニジャーンは義理や筋道を大切にする『昔気質のヤクザ』である。

 その彼にとってみれば、いとも簡単に会議をすっぽかすソブカは嫌悪の対象だ。

 いや、それ以前からソブカは旧来の体制に強い敵意を向けていたので、イニジャーンに対しても皮肉をよく浴びせて挑発していたものだ。

 ソブカは地球で言うところのいわゆる『経済ヤクザ』と呼ばれる存在で、昔の流儀を無視して金さえ稼げればよい、という理屈で動いている。

 そんな両者が仲良くできるわけがない。水と油の関係である。


「兄貴、いないやつのことは無視していいですかい?」


 イニジャーンが隣にいたムーバに話しかける。

 この『兄貴』は、自分から見た組織内でのムーバの立場のことでもあるし、実際に嫁であるミバリの兄であるのでこう呼んでいる。


「あ、ああ…そうだな。ソブカは…いないのか。こんな大事な時にな……困ったやつだなぁ」


 いきなり話しかけられたムーバは、周りをきょろきょろしてソブカがいないことを確認する。

 あまりの緊張からか、いないことに気付かなかった可能性すらある。あれだけ目立つ男を見逃すとは、さすがムーバであろうか。



 そう、この場には―――ソブカがいない。



 彼は今、プライリーラの館を襲撃して待ち伏せを行っている最中である。ここに来られるわけがない。

 ソブカとしては、このタイミングで仕込みが発動するとは思っていなかったわけだが、そもそもラングラスの会合に出るつもりはなかっただろう。

 彼はすでに本気で動き出している。

 プライリーラたちへの苛烈な仕打ちを見てもわかるように、あらゆる犠牲を覚悟で突き進むつもりでいる。

 そんな彼がこの場に来てしまったら『興奮してしまって』、溢れ出る殺気を抑えることができなかっただろう。

 この段階で自分の野心を悟られるわけにはいかない。それならば最初から出ないことを選択したほうがいい。

 この程度ならば「またなめた真似しやがって!」で済むわけだ。

 むしろソブカがイニジャーンや古株連中に対して嫌味や皮肉を述べていたのは、こういうときのための『予防線』である。


 普段からそうしていれば怪しまれない。そういうやつだからと流される。


 彼が【下克上】を夢見た瞬間から、その結果を得るための道筋は作られていた。自分を殺し、偽って騙すことも含めて、全部を用意していたのだ。

 この場にいる者たちは、まさかソブカが反逆を企てているとは思っていないはずだ。反抗的だとは思っていても反逆するとまでは考えていない。

 この覚悟と認識の差が後々大きな違いを生み出すことになるが、それはまだ少し先のことである。




「ふぅふぅ…では、そろそろ始めようか…今日の議題はな…ふぅふぅ」

「兄貴、つらいようなら俺が代わりにやります。無理をしないでください」

「あ、ああ、そうか。じゃあ、イニジャーンに頼むとするかな」

「はい。わかりました」


 やたら汗を掻いているムーバを気遣ってイニジャーンが声をかける。

 こうして簡単に譲ってしまうあたり、イニジャーンとしてもいろいろと思うことはあるが、逆にラングラスの一大事をそんな状態のムーバに任せるわけにもいかないだろう。

 改めてイニジャーンが進行役として、今日の議題を提示する。


「マングラスの提案はお前たちも聞いたな? 時間がねえ。どうするか今晩中に決めるぞ」


 イニジャーンらしい実に単刀直入な物言いである。

 だが、あまりに直球すぎて、それに対しては誰も口を開けない。


「やるしかねぇ。俺はもう決めた」


 唯一、ソイドダディーを除いては。


「お前のところが発端になったんだ。そりゃそうだろうな」

「勘違いしてもらっちゃ困るが、うちはやつと取引はしたが、あくまで医者としてだ。組としては関わったつもりはねぇ。それは何度も通達したはずだ」

「だが、結果的にはこの有様だ」

「だから責任を取ると言っているだろう。四大会議の時はジングラスに邪魔をされたが、今回はうちらがケジメをつける」

「お前はいいが、あの話…ビッグのボウズがやると言い出したってのは本当なのか?」

「…ああ、事実だ」

「本当にいいのか? 危険だぞ?」

「あいつも男だ。覚悟を決めた以上はやらせてやるしかねえ」

「俺はべつにお前の息子の心配をしているわけじゃねえ。ラングラスの跡取りの心配をしているんだ。そこはわかってんのか?」

「重々理解している。逆にそうだからこそ、あいつが出る意味がある。あいつ自身もそれをわかって言っているんだろうよ」

「…そうか。あの鼻垂れボウズがな…。昔は泣いてばかりいやがったのによ」


 イニジャーンにしてもビッグは近い間柄の親戚である。

 心配していないというツンデレ発言もあったが、幼い頃から知っているし、それなりに可愛がってきたものだ。

 ソブカが嫌いでビッグを可愛がるのは不思議なものだが、『馬鹿な子ほど可愛い』というのはどの世界でも共通なのだろう。

 その馬鹿な子が本当に馬鹿なことを言い出したものだから、さすがのイニジャーンも驚きを隠しきれないようだ。




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