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「欠番覇王の異世界スレイブサーガ」

作者  園島義船



□ 第三幕 番外編 『偶像の終わり』


314話 ー 324話




314話 「大陸王の逸話」


 ガタゴト ガタゴト

 一台の馬車が荒野を進んでいる。

 交通ルートからだいぶ離れた場所なので、他の人影はない。大きな荒野にぽつんと一つだけ取り残されたように馬車が走っている。

 非常に質素な馬車で、御者台と荷台しかない農作業で使われるような簡易タイプのものだ。


 その荷台には―――プライリーラ。


 ワンピースを着たプライリーラが座っており、虚ろな表情を浮かべながら揺られている。

 彼女は何をするわけでもなく、夕暮れとなった荒野を見つめていた。


(綺麗だな…)


 何もない荒野。単なる夕暮れ。都市の外にある当たり前の光景。

 しかし、それが妙に美しく感じられた。

 今まで何度も見てきたはずなのに、このように感じたことは初めてだった。

 いや、記憶はある。忘れていただけだ。

 もっと昔、もっともっと昔。自分が子供だった頃、まだブランシー・リーラ〈純潔の白常盤〉とも〈戦獣乙女〉とも呼ばれていなかった時代、彼女は今と同じことを思っていた。

 何もないことが美しく思えた。自由であることが楽しく感じられた。

 それがいつしか、そうは思えなくなっていた。そう感じることもなくなっていた。


(慢心していた…のだろうか。戦獣乙女などと呼ばれて舞い上がり、自分の力を過信していたのか。なんてことはない。ただの小娘の恥ずかしい勘違いだ。ふふふ、若気の至りとは、こういうことをいうのだろうな。私だけならばいいが、爺にも多くの負担をかけてしまったな…)


 ふと前を見ると、御者台にはアーブスラットが乗っていた。

 寿命が減るということは細胞が急速に成長することでもあるので、紳士風に短く整えていた髪の毛も、今では仙人のように伸びてしまっている。

 まだ体力も回復しておらずつらい状態だが、彼は自分のためにこうしてがんばってくれている。

 この馬車もそうだ。彼がいなければ歩いて戻っていたところだ。

 これはアーブスラットが、万一のためにとプライリーラにも内緒で隠して用意していたものである。

 簡素な馬車にしたのも目立たないためだ。まさかこんな馬車にプライリーラが乗っているとは誰も思わないだろう。


(爺は、負けることも予期していたのだろうか。それとも、いかなるときも万全を尽くしただけなのか。ああ…両方か。それが人間として、武人として当然の行為だものな)


 つまりは、こうなることも想定の範囲内だった、ということだ。


 勝つことしか考えなかった自分に対し、彼は負けた場合の最悪の状況も想定して動いていた。

 相変わらず用意周到な老執事に感謝しつつ、そのしたたかさに若干呆れる。

 だが、彼が一方的に全面的に正しいのは認めるしかない。

 アーブスラットのほうが人生経験が豊かだったのだ。それだけ苦労して生きてきたともいえる。


 何が起こるかわからないのが世の常である。

 突然火事になり住む家がなくなることもあれば、この大地では住んでいた都市そのものが、ある日いきなりなくなることも珍しくはない。

 他の人間勢力や強力な魔獣がひしめく場所だ。誰も何の保証もできない。

 そんな中で最善の準備をする。そうやって人々は強く生き延びてきたのだ。

 しかしながら都市が発展していくにつれて、安全と安定が揺るがないものだと勘違いしてしまっていたのかもしれない。

 当然それはプライリーラだけの問題ではないが、知らずのうちに毒されていたことは間違いない。



 それを―――アンシュラオンが壊した。



 この世界には、そもそも安定などはないと教えてくれた。

 すべては万物が流転する中における一時的な状態にすぎない。一部分を見れば静かに見えるが、全体を見渡せば絶えず動いている。

 それこそが真理。新しい活力が古いものを突き動かし、破壊しながら再生するシステムである。


(アンシュラオン…か。不思議な男だ。ギロードを殺され、これだけのことをされたのに…怒りを感じない。悔しくはあるが、復讐心のような暗いものは感じないな。本当ならば怒り狂うところなのだろうが…私にはそんな感情すらなくなってしまったのか? 彼によって喰われたのだろうか?)


 人間、やられた怒りというのは非常に強力なものである。それが忘れられず、何年も何十年も復讐の機会をうかがう人間も多い。

 プライリーラだって怒りは感じる。大切な家族を殺されたのだ。あの時は怒りで自分を見失ったものだ。


 だが同時に―――肌の感触も思い出す。


 アンシュラオンによって、アイドルという仮面を剥がされたプライリーラは、ただの女になっていた。

 彼の前では、プライリーラはただの女。か弱い女性にすぎない。

 それが妙に快感でもあったのだ。

 アンシュラオンは自分を特別扱いしない。それどころか戦っている間は、侮蔑や毛嫌いするような視線さえ向けていたものだ。

 「ああ、また勘違いしている馬鹿女がいるのか」といった具合に。

 それは今まで「ジングラスの娘」として生きてきた自分にとっては、まったくありえないことだった。


(ああ、私は女にされてしまったのだ。…『乙女』ではなく、【女】に。だからこんなにも彼の肌が恋しいのだろう)


 いまだにアンシュラオンとの触れあいが忘れられない。

 女だから情愛に弱いのだ、と言われればその通りだが、彼との交わりは別格である。もう忘れることはできないだろう。

 なにせ彼は、グラス・ギースの戦獣乙女を子供扱いして倒してしまったのだ。

 その強さに惹かれない女はいないだろう。




「どうして…彼はあんなに強いのだろうね」


 その気持ちが強かったのか、ついつい言葉に出してしまった。

 半分は独り言だったのだろう。特に返事を期待したわけではない。

 だが、御者のアーブスラットは静かに答える。

 彼もまたアンシュラオンに負けた武人だ。気持ちは同じだろうから。


「あの男には、ジングラスにあるような信念や理念といったものはありません。正直申し上げて、そこらの盗賊と何ら変わりない生き方をしています。刹那的で享楽的で、おおよそ人間としては低俗な部類に入ります」


 話を聞いている限り、アンシュラオンの動機は最悪だ。

 アーブスラットが言うように最低の部類に入るだろう。


「しかし、関係ないのです。単純な力という意味において、そんなものは不要なのです。私もそれを改めて思い知りました」


 単純に強い。それは偉大なことである。

 どんなに意思が強い人間であっても、肉体が弱ければ銃で簡単に撃ち殺されてしまう。

 それと同じで、純粋な意味での力は非常に重要である。


「そうした純粋な力を求める人間は大勢おります。特に東側では、そういった人間のほうが大半でしょう。力があれば何でも叶います。欲しがらない者のほうが少ないものですな。ただ、彼ほどのレベルに到達している者は初めて見ました。まったくもって羨ましいことです」


 アーブスラットが笑う。そこにも憎しみといったものは感じられなかった。

 これまでの傾向を分析すると、強い武人ほどアンシュラオンを恨まない。

 その頂《いただき》に至るまでの努力と才能を知ることができるからだ。

 自分のすべてをぶつけて負けたのだから後悔などあるわけもない。守れなかったのは自分が弱かったからだ。

 むしろ清廉とした様子で、達観した雰囲気を醸し出していた。


「信念は…戦いに必要ないのか? 我々は都市を守るという意思を持ってきた。だが、それはまったく通じなかった。ならば意思は無意味なのだろうか?」

「それは半分正しく、半分誤りでしょう。たしかに彼の強さは才能に起因しておりますが、心がないわけではありません。そもそも意思がなければ戦気も放出できないものです。なればこそ武人の本質は、どれだけ意思が強いかでもあります。その意思の強さに反応して周囲の神の粒子は味方するのです。とすれば、彼は我々とは違う意味での強い信念を持っていることになりましょう。我々以上に強くそれを信じていることになります」

「アンシュラオンの信念…か。興味深いな。いったい何が彼をあそこまで強くするのだろうか」

「あの言動から察するに、彼にとっては純粋な力の強さこそが信念なのでしょう。これも逆説的ですが単純な力を信奉するからこそ、その力を得ることができるのです。そもそも信念や想いといったものは、その人間の傾向性によって形成されますからな。そういう環境で育ってきたことも大きいでしょう」

「では、私も厳しい環境に身を置けば強くなれるか?」

「…ある程度はなれましょう。まだリーラ様には多くの可能性がありますからな。全部を引き出せば、彼ほどでなくとも強くはなれます」

「それでも、ある程度は…か。なぜだ? 何が違う?」

「才能と鍛練による技量を別とすれば、残る要素はあと一つ。それは精神力の源、つまりは魂の強さに関連するものです。彼は一見すれば即物的な人物ですが、人間としての奥深さがあります。魂の経験値が高いのです」

「魂の経験値…か。漠然的だな。それはどうやって手に入る?」

「いろいろと経験するしかないですな。あの少女に対する愛情を見れば、彼の情緒が人一倍なのはすぐにわかることです。一度表側の道を深く歩いたからこそ、人間という存在の機微をよく知っているのです。だからこそ、ああやってこちらの裏がかけるのです」

「ん? 表側の道を歩いた? どういうことだ?」

「闇を知るにはどうすればよいと思われますか? 闇の中で光を知ることはできても、逆に闇を知ることはできないのです。ならば、光の側に立つしかありません。彼はおそらく一度は光の道を歩いています。それもかなり深く」

「それはつまり…善良な人間として、という意味だろうか?」

「左様ですな。そうでなければ闇を知ることはできません」

「…想像できないな。それならば普通、そのまま真面目で勤勉な人間になるのではないのか?」

「もちろん彼の中にある闘争本能や支配欲求が強いことは間違いありません。ただ、前も話しましたが、彼は何らかの反動で今の状態に陥っていると思われます。あの人間不信は相当なものですからな。よほど嫌な目に遭ったのでしょう」

「子供の反抗期のようなものか?」

「ふむ、なるほど…。そう言うこともできましょうな。ともあれ久々に私以上の壊れた人間を見たものです。はははは、まったく…凄い男です。いろいろとしてやられました」

「爺すら出し抜くほどだからな。だが、それだけの経験だ。あの若さで学べるものだろうか?」

「さて、見た目通りの年齢とは限りません。血が活性化した強い武人はピーク時の肉体を維持しようとします。もしかしたら本当は、かなりの年齢の可能性もあるでしょう。それに魂の年齢という意味では肉体年齢は関係ないものです。かの【直系】の方々は、見た目は若くても何千年もの経験をお持ちですからな」


 直系とは一般的に、【偉大なる者たちの直系】、と呼ばれる存在のことを指す。

 簡単に言えば女神たちの直接的な子孫のことで、地上人と違って物的生活を送らない人間のことである。

 地球で言うところの高級霊である「天使」や「龍神」に近い存在なので、地上人からすれば、ほぼ神々と呼んで差し支えないだろう。

 有名どころでいえば、初めて新人類をこの大地に導いた闇の女神の子「マリス(光の女神とは同名だが別人)」や、初代剣聖「紅虎丸」の子孫である「紅虎」などがいる。

 それ以外にも数多くいるが、基本的に彼らは【愛の園《その》】と呼ばれる高級霊界で仕事をしているので、地上でお目にかかることはまずない。(紅虎は物的仕事が多いので、たまに見るが)

 彼らの身体は幽体で作られているので見た目は若いままであるが、魂としての経験値はかなり高い。

 それと同じでアンシュラオンの見た目が若いからといって、中身まで同じとは限らないのだ。


「…たしかにな。私よりも年上のような雰囲気だったな…」

「彼に心惹かれましたかな?」

「女が強い男に憧れるのは当然だ。私はずっとそういう男を欲していたのだ。何か悪いのか?」

「いえいえ、リーラ様も普通の女性だった、ということですな。こうなってしまえば、そちらの路線で彼を手にするのも一興ですな」

「結局、相手にもされなかったがね。彼は妹のほうがいいらしいよ」

「そう拗ねるものではありません。まだチャンスはありましょう。ただ…彼と対等になることは誰にもできないのかもしれませんな。…ところでリーラ様は【大陸王】をご存知ですか?」

「大陸王…、大陸暦を作った王。初めて全世界を一つにした王、だったか?」

「その通りです。まさに【世界征服】を成した偉大なる王です」


 アル先生の国も「大陸」と呼ばれているが、こちらの大陸王は全世界を統一し、現在の暦を作り出した【本物の覇王】のほうである。

 国としての大陸の元首は、昔の中国に倣って【天子】という存在が治めている。こちらは大陸王とはまったくの別物だ。


「恥ずかしながら大陸王に憧れておりましてな。彼の伝記はよく読んだものです。いやはや、本当に凄い人物です」


 大陸王を語るアーブスラットの顔は、まるで英雄に憧れる子供のようだった。

 それも当然だ。

 現在の地球を考えればわかるが、すべての国家を統一するなど夢物語である。

 世界征服という言葉は簡単に使われるものの、実際にそれを成した存在は誰一人としていないのだ。



 が―――大陸王は統一した。



 その中には数多くの苦難もあったが、武力によって全世界を統一したのだ。

 現在使われている共通言語の「大陸語」や共通貨幣の「大陸通貨」も、その時代に一気に普及させたものだ。

 また、積極的に他民族同士の交配を進めて血を混ぜていった。

 融和を図るには、まずは言葉と金と血を統一する。まさに侵略のお手本のような戦略であるが、その結果として世界は統一の道に至った。

 アンシュラオンが驚いたように人種の違いが存在しないのも、大陸王がそうして全世界の人間を混ぜ合わせたことが大きい。

 まさに人種の垣根をすべて取り払ったのだ。


 もちろんその後は、現在の世界のように分裂という結果になってしまったが、二千年近く統一国家が続いたのだから偉業と呼んでいいだろう。

 一つだけ注釈すれば、大陸王は全大陸を統一したわけではない。主に西側と東側大陸を支配下に治めたのであって、南東南西大陸などは手付かずのところもあったそうだ。

 これは文化の中心が西側だったので仕方ないだろう。地球で国連加盟国を統一しても、それ以外の国や地域が漏れているようなものである。

 そういう国家も時代が進むにつれて、次第に大陸言語や通貨を受け入れているので十分統一したともいえる。(未開の場所もあるが)



「それだけの偉業を成し遂げた者だ。さぞかし立派な人間だったのだろう。真面目で理想に燃えていて、人類平等を目指す公正な人物で…」

「ははは!!」

「な、なんだ? 何が可笑しい?」

「いえ、申し訳ありません。リーラ様がそう思われるのも致し方ありませんな。人間は誰だって偉業を成し遂げた者を立派な人間だと思い込んでしまうものですので」

「もしかして…違うのか?」

「ええ。伝記が真実かはわかりませんが、彼はとても粗暴で横暴で自分の言うことが常に絶対だと信じておりました。敵対する相手は容赦なく排除し、数多くの女性を後宮に迎えたとも聞きます。男性に対しては厳しく、気に入らない相手は味方であっても冷遇したという話です」

「そ、それはなんとも…酷いな」

「しかし間違いなく全大陸を統一した王です。人間としては問題があっても強くて魅力があって、酷いことをされてもなぜか憎めない。それどころか逆に興味を惹かれるという非常に磁力が強い人物です。私がなぜこの話をしたのか、もうおわかりでしょう。どこか似ていませんか?」

「そういうこと…か。力ある者が人格者とは限らない。また、そうである必要性がないのか」

「信念は大事です。役割も大事です。ですが、それだけに囚われることは危険なのかもしれません。なにせ人の数だけ信念があるのです。彼は人を愛することもできるし、残酷に殺すこともできる。清濁併せ持つからこそ人間の深みが出ているのでしょう。考えてみれば自然なことです。我々の母たる女神も、お二人いらっしゃるのですから」


 女神がなぜ二人いるのか。なぜ光と闇で分かれているのか。

 それを疑問に思った者もいることだろう。

 人間には光と闇がある。愛と憎しみがある。怒りと哀しみがある。その二つを知らねば進化は成しえない。


 アンシュラオンは一度光の道を歩み、【馬鹿馬鹿しくなった】。


 だから今はそれを破壊するようなことをしているが、それもまた光を知るからこそ魅力的に映る。仮にただの粗暴な人間ならば嫌悪感しか抱かないだろう。


 そうしたものをひっくるめて、プライリーラはまだ弱かったのである。


(我々はジングラスの誇りという思想に汚染されていた、ということか。まったくもってアイドルだったというわけだ。滑稽なものだよ)


 ジングラスだから強いわけではない。魔獣を従えているから強いわけではない。

 アンシュラオンによって多くのことを学んだ。敗北を教えられた。

 だからこそ今の彼女は、戦獣乙女だった頃よりも魅力的である。




315話 「白常盤、運命の分岐点」


「リーラ様、これからどうされますか?」


 雑談も終わり、アーブスラットが本題に入る。

 プライリーラの獣性が抜けてすっきりしたのは良きにせよ、現状は何も変わっていない。

 むしろ負けてしまったことで、ジングラスとしての状況は悪化しているのだ。


「このまま都市に戻られますか?」

「それは…戻るだろうね。私が負けたとて、ジングラスグループがなくなったわけではない。味方に引き入れることはできなかったが、ひとまずアンシュラオンとは停戦が成立したんだ。結果を見れば悪い話ではないよ」


 そこはジングラス総裁。商売人としての頭も働く。

 アンシュラオンがジングラスに、これ以上の手出しをしないのならば建て直しは難しくない。


「たしかにもう私はアイドルではない。ギロードがいない以上、戦獣乙女ですらないのだ。そこは受け入れるしかないだろう。だが、私を信じてついてきてくれる者たちを見捨てることはできない。今までのような求心力は見込めないが、そこは自らの力で最初からやり直すさ。再起には時間がかかるだろうが、まずはそれを皆に伝える義務がある」


 ジングラスの誇りがすべて間違っていたわけではない。都市の食糧事情を一手に担っていることには変わりない。

 総裁がいきなりいなくなれば組織内はもちろん、都市全体に大きな混乱が起きてしまう。

 結局、生まれ持ったものをすべて否定することはできないのだ。

 今まで自分を愛してくれた者たちを、たった一回の敗北で失うわけにはいかない。

 本来ならば失われていたかもしれない命だ。それが助かったのならば、残された責任だけはしっかりと果たしたい。

 これがプライリーラの素直な気持ちであった。


「左様でございますか…。リーラ様らしいお考えですな」

「…爺? 何か気になることでもあるのか? 私が述べたことは普通だと思うのだが…」

「もちろんです。ご立派な答えだと思います。まさにジングラスグループ総裁に相応しい器量でしょう」

「言いたいことがあるのならば言ってくれ。気になるじゃないか」

「ふむ……」

「…??」


 しばし思案するアーブスラットを、首を傾げながらプライリーラは見つめる。

 彼女には老執事の沈黙が理解できないのだ。


「私の言葉に何か間違いがあったか? もし間違っているのならば教えてくれ」


 今までならば自分の意見を突き通していたかもしれないが、アンシュラオンによって自信を砕かれたことで聞く耳が生まれた。


 その様子を見て決心が固まったのか、アーブスラットは言葉を紡ぐ。


 だがそれはプライリーラからすれば、まったく想定していない提案であった。




「間違ってはおりませんが…私個人の意見を申し上げれば、このまましばらく身を隠すのが正解だと思います」




 アーブスラットが何を言っているのか、プライリーラには理解できなかった。

 だが、徐々にその言葉が浸透していくにつれて、彼女の美しい顔が動揺したものに変化していく。


「み、身を隠す? 私がか?」

「はい。できれば早急に」

「それも一つの案だろうが…では、一度戻った後に…」

「いけません。このまますぐに移動するべきです」

「着の身着のままだぞ?」

「問題ありません。こういうときのために物資を蓄えた隠れ家がありますし、船に合流するという手もあります。どちらにせよ、すぐに移動すべきでしょう」

「…都市の皆はどうする!? グループの構成員は?」

「見捨てます」

「っ! 爺! 何を言っているのだ! 正気か!?」

「はい。私は極めて正気です。こんな姿になろうとも、もうろくはしておりません」

「………」


 アーブスラットの顔を見つめるが、老執事は黙ってそれを見つめ返すのみである。

 どうやら本当にそう思っているようだ。



 彼の提案は―――【逃げる】というもの。



 すべてを捨てて逃げる。

 それはまさにアンシュラオンが提言したものと同じである。


「…アンシュラオンも同じことを言っていた。爺は彼を信じているということか?」

「いいえ、私はあの男を信用してはいません」

「…??? どういうことだ? ではなぜ、そのようなことを…」

「彼には大陸王のような魅力があるのは事実です。しかしながら、そういった人物は味方にすれば心強い反面、敵になれば危ういものです。リーラ様はすっかりと気を許されてしまったようですが、彼はいまだに【敵】なのです。それを忘れてはいけません」

「ううむ…たしかに不干渉というだけであって同盟を結んだわけではないが…彼が約束を破ると言いたいのか?」

「私の立場からすれば、その可能性も考慮したほうがよいと申し上げるべきでしょう。が、今回はそういう意味ではありません。彼があまりにあっさりと我々を逃がしたことが気になるのです」

「それは……私を守るためではないのか? その…なんだ。恋人的なそういう意味で…」


 ちょっとだけ気恥ずかしかったが、あえてそう言ってみる。

 まるで少女のように頬を赤らめる姿は愛らしいが―――



「それは無いでしょう」



 ばっさり斬られる。

 ザクザクザクッ

 プライリーラに痛恨の一撃。9999のダメージを受けた。

 激しいダメージを受けて、胸を押さえながらプライリーラがよろめく。


「…じ、爺…もう少し優しくしてくれ…乙女心が傷ついた。私はフラれたばかりなのだぞ…」

「申し訳ありません。重要なことなのではっきり申し上げました」

「相変わらず、そういうところは厳しいな…」

「淡い夢を見て痛い目に遭うのは乙女の常でございます。悪い男に騙されないように指導するのも、ログラス様から承った私の大切な役目ですので」


 父親のログラスは、プライリーラが「恋に落ちやすい」ことを見抜いていた。

 子供の頃から強かった彼女が普通の恋愛などできるはずもない。実際、この歳まで処女だったのだ。

 そんな女性がいきなり男と関係を持てば、コロリとやられるのが世間の常識である。

 結婚詐欺師、ホスト、ヒモ、ジゴロ等々、女性を食い物にする男はたくさんいる。

 たまたまプライリーラが強かったので手出しされていないが、より強い男からすれば「ちょろい女」でしかない。

 そういった悪者から彼女を守るのも老執事の大切な役目である。


「くっ、お父様はすべてお見通しか…これでは私が馬鹿みたいではないか」

「それも経験というものです。話を戻しますが、私のような老人はともかくリーラ様には価値がいくらでもあります。仮に女性として興味がなくても、ジングラス総裁として考えればいくらでも金になりましょう」

「地味に傷つく言い方だな。…さすがにショックだ」

「事実は事実です。彼の目的が金である以上、そのまま放置する選択肢は、いささか甘いのではないかと思われます」

「あの時の約束を守っただけではないか? 私を犯すという目的と、ジングラスを疲弊させることで結果的には手を引かせることになった。だからもう関わらないということではないのか?」

「意外と義理堅い男だった、と言われればどうしようもありませんが、これだけのことをしている人物です。注意が必要でしょう。リーラ様ご自身がおっしゃったように、あなたはジングラスの総裁であり、最後の血を受け継ぐ者なのです。厳しいことを申し上げますが、その血が途絶えることこそジングラスにとって最大の痛手となるのです。どうかご理解ください」

「…そうだ。たしかにそうだ。さきほどは身体も参っていて上手く思考ができなかったが…その通りだ。爺は正しい」


 アーブスラットの言葉に、はっとする。

 知らない間に舞い上がってしまっていたようだ。ただの乙女の感傷に浸っていた。

 だが、自分はプライリーラ・ジングラスである。そこを忘れてはいけない。



 プライリーラは深呼吸をして、少し頭と心を整理する。

 それから改めてアーブスラットに問う。


「アンシュラオンのことはどう思っているのだ? 率直な評価を訊きたい」

「今しがた申し上げたように信用はしておりません。ただし、自分が気に入ったものに対しては愛情を向ける習性があるようです。リーラ様を守りたい…もっと正確に言えば、自分が手に入れるまで他人に触れさせたくない、とは思っているようです。だから逃げるように提案したのでしょう。都市内部はこれからもっと荒れるでしょうから、力を失ったリーラ様を狙う輩が出てくるかもしれません」

「…その可能性はあるな。初代様の武具とギロードを失ったとて、普通の連中に負けるつもりはないが…万一のこともあると思われているのだろう。彼から見れば、私は『か弱い女』だからね。つまり爺は、そこだけは逆に信用している、ということなのかな?」

「その通りです。当然ながら都市に戻らねば争いに巻き込まれる心配はなくなります。消極的な案ですが、身を守るうえではこれが一番確実です」

「昔の私ならば、あまりに弱気だと一蹴していただろうね。だが、今の状況では安易に否定するわけにもいかないな。爺がここまで言うのだ。それは長年の経験から来る勘かな?」

「はい。あくまで勘ですが、嫌な予感がするのです。ここは一度態勢を整える意味でも離れるべきでしょう」

「なるほど…。しかし、それではグループはどうなる? 私がいなければ組織は瓦解してしまう。それでなくとも今は重要な時期だ。私だけが隠れるわけにはいかないはずだ。都市を見捨てて逃げるようなことをすれば、ジングラスとしての存在意義がなくなる。そうだろう?」

「その通りです。ならば、もうお捨てになっては?」

「…へ?」

「戦獣乙女をお捨てになられるのならば、ジングラスとしての立場もお捨てになってもよろしいのではないかと存じます」

「だ、だが…爺はさっき、ジングラスの血筋を守るために逃げる、と言っていなかったか? それでは矛盾していないか?」

「ジングラスという存在の本質は、身分や立場ではありません。かの初代ジングラス様も都市を築くまでは英雄ではなかったのです。同様にグラス・ギースを離れれば、初代様とてアイドルではなくなるのです。一方で、それでも初代様は初代様です。どこに行っても何ら変わることはありません」

「………」


 アーブスラットのあまりの言葉に、プライリーラは口をあんぐり開けて放心する。


 彼の言葉は―――まさに【本質】。


 たとえば学生が就職して社会人になったとしても、その日を境に急激に力が伸びるわけではない。昨日や今日程度で何かが変化するわけもない。

 ジングラスの血には魔獣を統べる力がある。それはグラス・ギースでなくても変わらないものなのだ。

 食糧を担当しているのは信頼度の高さからであり、ジングラスだからではない。

 プライリーラこそがジングラスそのもの。ここが重要である。


「随分と…飛躍したものだね。その理由を訊いてもいいか?」

「ホワイトとの戦いで思い出したのです。この荒野を生き抜くには何が大事なのか。それは―――【死なぬこと】です。生き延びることです。他の何を捨てても必死になって逃げることです。死なねば負けません」


 アンシュラオンの言動は実にシンプルだった。

 強い者が勝ち、弱い者が負ける。

 それは若い頃のアーブスラットの考え方と同じである。生き延びるために戦い、奪い、殺し、死なないために逃げる。

 そこにプライドも未練も何もない動物的な生き方である。

 だが、真実の一端を示してもいる。


「リーラ様の人生はまだ長い。長い人生においては致し方なく逃げる時期もあります。どうか、この老いぼれの言葉を信じてはくださいませんか」

「爺…」


 アーブスラットは、生まれた時から自分を助けてきてくれた。

 この言葉に嘘偽りは何一つない。保身もない。ただプライリーラだけを案じての言葉だ。


 しばし迷う。


 簡単に総裁としての責務を放棄すれば、今まで血族が積み上げてきたものをすべて失うことになる。

 だが、負けたのも事実。

 戦獣乙女としてのプライリーラの信頼は失墜し、アイドルとしての価値が薄れていく。

 さらにギロードという切り札を失ったジングラスは、急速に弱くなるだろう。他の魔獣もいるが、あの聖獣ほど強くはない。

 こうなると他の派閥に吸収されるおそれさえある。プライドさえ捨てられれば、隠れて力を蓄えるのも妙案である。


 迷う。迷う。



 その迷いを払ったのは―――白い光。



 アンシュラオンが放っていた純粋なまでに白いオーラである。


(彼ならば何と言うだろうか? ああ、きっとこう言うな。『弱いやつが逃げるのなんて当たり前だ。逆に向かってくるほうがおかしい』、と)


 きっとあの男は逃げることに何の躊躇いもないだろう。それが生き延びるために必要ならば、当然の選択だと思うに違いない。

 そして、そんなふうにアンシュラオンが理解できる自分が、どこか可笑しい。


(ふふ、やれやれ…一気に自分を壊された気分だな。単純明快というやつかな。アンシュラオン、君はやはり面白い男だ)



「…わかった。爺の言う通りにしよう」

「リーラ様!」

「今は年長者の言うことを聞いておこう。私が信頼すべきは、いつも傍にいて助けてくれた爺の言葉だ。いつか気が変わるかもしれないが、その時までは休もう」

「ありがとうございます。悔しいでしょうが、必ず再起の道は開けます」

「いいんだ。疲れているのは本音だからね。…と、その前に屋敷には戻らないといけないな。さすがに館の身内には、このことを伝えねばならない。それくらいは認めてくれるだろう? 魔獣も退避させねばならないし、その点も彼らならば上手くやってくれるはずだ。大丈夫。他の者には接触しない。あくまで身内だけだ」


 館の使用人たちはプライリーラがもっとも信頼できる者たちなので、事情を伝えれば財務管理を含めて上手くやってくれるだろう。

 何よりも魔獣をそのままにはできない。あれはジングラスにとって最大の資産でもあるのだ。

 もちろん、それはアーブスラットも承知の上だ。


「わかりました。ただし通常のルートで戻るのは危険です。【抜け穴】を使うべきでしょう」

「そうだね。あまり使いたくはないけど…仕方ないか。では、そちらに向かってくれ」

「かしこまりました」


 実は、門を通らずともグラス・ギースに入る方法がある。

 グラス・マンサーには各々に専用の抜け道が存在し、秘密裏に都市の出入りが可能となっている。

 グマシカ・マングラスもまた、そうしたものを使っていると思われる。だからこそ誰にも所在が掴めないのだ。


(グラス・ギースともしばらくお別れか…。心苦しいが…私は負けたのだ。敗者は立場を受け入れねばなるまいな。…ああ、やっぱり心細いな。アンシュラオンが傍にいてくれれば……いや、彼に依存してはいけない。彼を振り向かせるくらい強くならねばなるまい)


 ガタゴト ガタゴト


 馬車は静かに夜の荒野を進んでいくのであった。




316話 「戦獣乙女の聖森」


 プライリーラたちは目的の場所に到着する。

 少し急いだので真夜中のうちには着くことができた。


「ありがとう。助かったよ」


 プライリーラが馬を撫で、礼を述べる。

 その馬にギロードの面影を重ねながら、優しく優しく触れる。

 いくら武人が闘争の中で暮らし、常時死と隣り合わせの存在とはいえ、家族への愛情が消えるわけではない。

 失った者への哀しみは簡単には消えない。それが戦友とも呼べる守護者ならば、なおさらのことだ。


(すまない、ギロード。今は感傷に浸る時ではない。改めて君を偲ぶ時間を作ると約束しよう)


「ほら、行きな」


 ぽんっと馬を叩くと、馬車は無人のまま去っていく。

 どうしても馬車の跡は残ってしまうので、こうすることで再び移動したように見せることができる。

 馬車用の馬に関しては、誰も乗っていない場合は人里に戻るように訓練されているので、そのまま馬車組合が管理保護するか、通りがかった旅人が再利用するだろう。

 この大地では魔獣に襲われて馬や馬車だけが残されることも珍しくはない。

 よって、荒野で無人の馬車を見つけた場合は、そのまま自分のものにしてもよい、という暗黙のルールがある。

 ただ、馬車を管理するにも手間がかかるので、そこらの旅人程度ならば一度使ったらそのまま逃がすか、馬車組合に売りに行くことも多い。

 このように上手く資源を使い回しているわけだ。


 ガタゴト ガタゴト


 馬車が荒野に消えていく。

 プライリーラは彼らを見送ったあと、周囲を見回した。

 そこは一見すれば普通の荒野であり、遠くから見ても近寄っても平凡な土の大地しかない。


 場所で言えば、グラス・ギースから南西に百五十キロほど行った場所だ。


 グラス・ギースの南にはハビナ・ザマという【交易消費都市】がある。

 規模としてはグラス・ギースの半分以下であるが、ハピ・クジュネとの間にあるので、高速道路のサービスエリアのような感覚で一般人や商人が多く訪れる都市だ。

 と、ハビナ・ザマについてはいつか改めて紹介するが、そのハビナ・ザマとグラス・ギース、そして魔獣の狩場で三角形を作った際のちょうど真ん中にプライリーラたちはいることになる。

 見渡す限り荒野なので、ここに好き好んで訪れる者はいない。ハンターも素通りするような場所であろう。


 だが、ここが彼女たちの目的地なのだ。



「行こう」


 プライリーラがアーブスラットを先導するような形で進む。


 トコトコトコッ ぷわんっ



 そしてプライリーラがある一線を越えると―――まるで映像が切り替わるように周囲の光景が変わった。



 荒野がいきなり消失したと思ったら、突如として青々とした世界が生まれた。

 生命の香りが鼻をくすぐる。足で踏みしめた芝生も、手に触れた葉の感触も本物と同じだ。



 そこには―――【森】があった。



 幻などではなく、まさに本物である。

 実に奇妙だが、何もないと思われていた場所には森が隠されていた。

 大きさは、だいたい直径三キロ程度だろうか。その中にぎっしりと草木が生え茂った森があったのだ。


 トトトトッ


 プライリーラたちが森を歩いていると、小さなリスのような動物とすれ違う。

 ピッタースキュット〈森蝕栗鼠〉という魔獣の幼体である。

 まだまだ小さいが成長するとプレーリードッグくらいの大きさになり、極めて温厚で戦闘力も乏しく、魔獣と呼ぶのも躊躇うくらい愛らしい生き物だ。

 この魔獣の最大の特徴は、風龍馬と同じく環境変容型であるという点である。

 ただし、風龍馬のように人間に害のあるものとは違って、環境にとても優しいタイプだ。(竜巻も星の生体活動に必要だから発生している。あくまで人間にとって害悪、という話である)

 彼らは常時植物、主に樹木などの種子を口の中で保存食として管理しており、それをさまざまな場所で食い散らかすことによって、意識せずとも緑化に貢献するのである。

 温和がゆえに生存力に乏しいため、今では絶滅危惧種に指定されている。非常に珍しい魔獣である。


「ちゅっちゅっ」

「ふふ、可愛いな。久しぶりだね。元気にしていたかい?」

「ちゅっ」


 一匹のピッタースキュットの幼体がプライリーラに駆け上る。主人に挨拶をしているのだ。

 しばらく首の周りを駆け回ったあと、幼体は再び大地に降りて草木の中に消えていった。

 それからも、すれ違う魔獣がプライリーラにすり寄ってくる。その数は三十種にも及ぶので、この森の中には多様な魔獣がいることがうかがえる。



―――『戦獣乙女の聖森《せいりん》』



 それがこの森の名前である。




(ここは無事のようだな。ジングラス一族しか入れないから当然か。【鍵】が私自身で助かったよ)


 プライリーラは守られている空間に入って安心したのか、ほっと息を吐いた。

 森は結界によって保護されており、入れるのはジングラスの血筋の人間だけとなっている。

 もし違う人間が入り込んでも認識されず、知らずのうちに結界の外周を歩くことになるだろう。

 こうしたタイプのものを【血脈結界】と呼ぶ。原理としては割符結界の人間版と考えればいいだろう。

 触れた人間の情報を術式がスキャンして鍵がどうかを判断すると思われるが、代々受け継がれてきたものなのでプライリーラ自身にもよくわかっていない。


 そう、この技術は四大会議にあったものと同じである。


 つまりは初代ジングラスたち、五英雄が生み出した結界なのだ。

 アンシュラオンの力を見たので絶対に安全とは言えないが、この場所が生まれて千年間、一族以外の者が入ったことはない【聖域】に指定されている。

 プライリーラが許可すれば他の人間が入れることも同じなので、アーブスラットも一緒に入ることができる。

 会議場とは違って人数制限はないのだが、ここも基本的に信頼が置ける人間し入れないようにしている。

 プライリーラもアーブスラット以外の人間を入れたことはない。身内に等しい館の使用人たちも、ここには入れないくらいだ。

 それだけ重要で、ジングラスの機密の中心部とも呼べる場所である。


(他派閥も各自の聖域を持っているはずだ。…互いに隠し事が多いのは今も昔も変わらないということかな。アンシュラオンもマングラスの聖域を見つけられればよいのだが…)


 この場所のようにマングラスもどこかに聖域を持っているのだろう。グマシカがそうした場所に戦力を隠し持っている可能性は高い。

 ただ、互いの切り札になりうるものだ。場所も知らなければ規模も不明。他の派閥がジングラスと同じ森であるかもわからない。


 ジングラスは、この場所に数多くの魔獣を放し飼いにして管理している。

 さきほどのピッタースキュットのように戦力にならずとも有益な種も多くいるので、魔獣を闘争の道具だけに使っていないことがよくわかる。


 初代ジングラスがこの森を作ったのは、おそらくは【種《しゅ》の保存】のためだ。


 聖森の中には希少な動植物も多々あり、それらはかつての大災厄によって失われた貴重な種ばかりである。

 初代がこの状況を予見していたかはわからない。単なる趣味で集めたものかもしれない。

 だが、現在の荒野を見渡せば、種子の重要性に気付く者は大勢いるだろう。


(初代様が遺してくださった種《たね》で、いつかこの荒野に緑を取り戻す。武具は失ったが、ジングラスの使命だけは失うわけにはいかない。魔獣がすべて悪だという概念も取り払わねばならないな)


 いつかこの大地を再び緑に。

 それがプライリーラのもう一つの夢である。


 そして、魔獣と人間の共存も果たさねばならない。


 魔獣は人間にとっては脅威であるが、彼らもまたこの星で成長を続ける【霊】である。彼らには彼らの進化の工程が存在するのだ。

 星に存在するものは、すべて調和と協調によって手を取り合うように作られている。それが女神の意思であり、世界のシステムだとプライリーラは考えていた。

 この聖森があればジングラスはやり直せる。ここも彼女にとっての希望の一つであった。

 ちなみにアンシュラオンが置き場所に困っている輸送船も、この森で管理されていたものである。

 ここは普段、ギロードが生活していた場所でもあるのだ。あの輸送船は移動する際の寝床の一つにすぎない。




 プライリーラとアーブスラットは、森の中央に移動する。

 そこには小さな家屋と【聖堂】があった。

 家屋のほうは下級市民が暮らす家に近く、生活に必要最低限のものしかない質素なものだが、一か月分程度の食糧の備蓄もあるので隠れ家にするには悪くない。

 一方の聖堂もこじんまりとしたもので、大人が十人も入れば一杯になるくらいの大きさだ。


「懐かしいな…」


 プライリーラは十七歳から十八歳までの間、この森で暮らしていたことがある。

 ジングラスの戦獣乙女となった者は、あるいは資質を宿した女性は、ここで最低一年間以上暮らす義務があるのだ。

 言ってしまえば、禊であり清めの儀式だ。

 都市の喧騒から離れて身を清め、魔獣を扱いこなすための修練をするためである。そのため基本的には一人で暮らさねばならない。

 ただ、ギロードや他の魔獣がいたおかげで寂しくはなかった。

 もともと魔獣に好かれやすく、彼女自身も魔獣が好きだったので、子供の頃からここが遊び場の一つになっていたものである。


「よくここでギロードと水浴びをしたな…」


 聖堂の前にある泉の前で、プライリーラは思い出に浸る。

 乙女と白馬、この組み合わせは昔から物語の題材にされるが、まさに二人は一心同体だったのだ。

 その半身を失ったことは、あまりに哀しい出来事であったと痛感する。


「痛みというものは簡単には拭えないものだな」

「…それも経験でございます」

「経験か。こんな痛い思いをして、その先に何があるのだろうね」

「痛みの先には必ず幸福が待っています。…と、僧侶ならば申し上げるところでしょうな。本当のところは女神にしかわかりません」

「では、女神に直接訊いてみるとしようか」


 ギロードを思い出し心が沈むが、今はその時間すら惜しい。


 ガチャッ ギィイイッ


 木製の扉を開けて聖堂に入ると、まず最初に目に入ったのが大きな『女神像』である。

 光の女神マリスをかたどったといわれる像は、優しい眼差しで両手を広げて傷ついたプライリーラを受け入れてくれた。

 グラス・ギースでは特段話題に上らないが、基本的にこの世界では【女神信仰】が主流となっている。

 その中でいろいろな宗派があるだけで、ロイゼン神聖王国に総本山がある『カーリス教』も、女神信仰の一つと捉えることができる。


 だが本来、信仰に形式はないはずだ。


 女神が人類の母であることには変わりないのである。

 それもあってグラス・ギースでは特に教会もないし、女神像を奉る習慣もない。

 ここに女神像があるのは、その清純さを見習うためとされている。あくまでシンボルだ。


(思えば、これも偶像なのかもしれないな。女神は光そのもの。最初から形などはない。それを無理やり人が形状を与えたのだ。そのほうがわかりやすくはあるがね…。女神の清純さより、像そのものを崇めるようになったらお仕舞いだな)


 戦獣乙女として立派になるために、よく祈ったものである。

 祈り自体は素晴らしい力だ。それ自体にエネルギーが存在する。

 願った通りの自分になるという話をよく聞くが、祈りによって決意を固めることによって、自動的にその人間にはエネルギーが引き寄せられる。

 意思は磁力なので、それによって力を得ることができるのだ。また、想いを同じくする霊団が愛の園から派遣され、その者を指導する。

 女神は実際に存在し、地上の人々に助力をしているのだ。


 だが、それを偶像にしてしまうのが地上の人間の愚かさである。


 女神信仰自体は価値あるものなのに、余計なものを付属させるから劣化する。

 今のプライリーラが願う純粋な想いこそが重要。自然の豊かさと、人と魔獣の平穏な暮らしを願う気持ちこそが尊いものである。

 アンシュラオンが壊した偶像によって、彼女は本当の意味で戦獣乙女に近づいたのかもしれない。だが、当人がそれを意識することはないだろう。

 本物の力とは、自覚することはあっても当人が周囲に言いふらすものではないのだ。


 何よりもプライリーラは、ここに祈りに来たのではない。


 若干そうしたい気分ではあったが、そんな女々しいことをしていても何も変わらない。今必要なのは実行力である。



「たしか…ここだな」


 女神像の胸、心臓の部分に触れる。

 これも会議場の椅子やテーブルと同じく、何か特殊な石で出来ている像なので壊すことはできない。


 が、プライリーラが触ると―――


 ガコンッ


 胸が開いた。

 その中には、緑色に光る十センチ程度の宝玉が納められている。


「あった。【転移珠】だ」


 これは転移珠と呼ばれる特殊な術式がかけられたジュエルで、その効果は名前通りに【転移】である。

 これまた会議場に行く際も使ったものであるが、あれとは繋がっている場所が違う別のものだ。


 この行き先は―――都市内部の館。


 彼女の自宅となっている別邸の地下室につながっている。

 そこにも聖堂と女神像があり、対となっている転移珠の間を移動できる仕組みなのだ。

 こんな便利なものがあれば、もっと使ってもよいはずだと思うかもしれないが、世の中はそこまで万能ではない。


「リーラ様、たしかこの宝珠は使用回数が決まっておりましたな」

「ああ、そうだ。一往復しかできないはずだ。魔力が尽きてしまうからね。その後、回復に一年かかる。私も子供の頃に一度使ったくらいだよ」


 これを普段から使わないのは、まさに【緊急脱出用】だからである。

 転移というものは術式の中でもっとも困難なものに該当し、人間の中では扱える者がほとんどいないといわれている超高等術である。

 そのため人間が使える転移の大半がこうして場所を特定したもので、しかも回数が決まっているものばかりだ。


 そして、今回は―――まさに緊急事態。


 ここで使わねばいつ使うのか、という状況である。惜しむ必要はないだろう。




317話 「館への帰還」


「リーラ様、使用人に伝えたあとは、最低限の物だけを持ってすぐに戻りましょう。長居は無用です」

「やはり館の者も連れてきたほうがいいのではないか? たいした手間ではあるまい」

「それでは他派閥の者に結託を怪しまれましょう。それよりはホワイトとの戦いで行方不明になった、と思わせたほうがいいでしょう。我々と違って館の人間はいつでも都市を出ることができます。そのほうが自然です」

「…そうだな。わかった」


(転移できる人数は、五、六人くらいで精一杯だ。どのみち彼ら全員は連れていけない…か。着の身着のまま最低限のものだけを持って隠れる。まさに夜逃げだね。敗者はつらいものだ)


 なぜこの聖堂の収容人数が十人という小規模のものなのか、理由は簡単である。


 それが転移の限界だからである。


 しかも往復で十人程度ということは、安全を考えても片道になれば五人しか移動できないことを意味する。


 プライリーラとアーブスラットを除けば、残りの枠は三つ。


 館には十人以上の人間がいるので、残念ながら全員を連れてはいけない。

 アーブスラットの提案は、いつもながら嫌味なほどに、甚だ正しい。


(爺がいなければ私はどうなっていたのだろうな。今までも知らないところで守ってくれていたのだろう。…いつも近くにいると口うるさく感じることもあるが、改めて感謝しないといけないな)


「爺、長生きしてくれよ」

「急にどうされました?」

「爺は頼りになると思ってね。まだまだ私には爺が必要だ」

「プライリーラ様のお世継ぎが生まれるまでは死ぬつもりはありませんよ。どうぞ、ご安心ください」

「かなり老けたようだが?」

「男の魅力は年老いてから出るものです。まだまだこれからです」

「ふっ、そうか。期待しているよ。では、行こうか」



 ブウウウウンッ ぽわんっ



 プライリーラが転移珠に触れると、二人の身体が光に包まれ、森に入った時に経験したように周囲の映像が切り替わる。



 気がつくと―――そこは館の地下。



 そこにある聖堂の中だった。

 聖堂は聖森のものとまったく同じ造りになっているので一瞬わからなかったが、日光の明るさが消えたので地下であることがすぐにわかる。


「…ふぅ、無事に移動できたか」

「そのようですね」

「久々だから緊張したね。宝珠が老朽化していて、変なところに飛ばされないか心配だったよ」

「初代様の時代から色褪せていないのです。大丈夫でしょう」

「そうだな…思えばすごいものだよ。そうなると私は、初代様の武具を壊した罰当たりものだろうか」

「物は所詮、物です。いつか壊れる運命にあります。逆に考えれば、今まで初代様の武具を壊すまで使い込んだ人間がいなかった、ということでもありましょう。むしろ誇るべきです」

「…なるほど。それも一理あるな。今までの戦獣乙女はアンシュラオンのような怪物と戦ってこなかった、ということだものな」

「その通りです。あれに勝てる者など想像できませんな。…参りましょう。私が先に出ます」


 ギィイイッ


 プライリーラとアーブスラットは、聖堂の外に出る。安全を考慮してアーブスラットが先頭だ。

 地下なので真っ暗だったが、プライリーラが出るとセンサーライトのように、ほのかに壁が明るく輝き出した。

 この壁にも何かしらの術式がかかっているらしい。

 アーブスラットが通ったときは反応しなかったので、その発動条件もジングラスの血筋の人間がいることのようだ。


 聖堂のあるこのエリアは、屋敷の地下二百メートルあたりに位置している。

 裏スレイブの店も地下にあることから、グラス・ギースにはかなりの大きさの地下空間が存在していることになる。


 実際のところ、グラス・ギースの地下には「広大なダンジョン」が存在する。


 いきなりのカミングアウトに聴こえるかもしれないが、公式の情報としてハローワークに登録されている、ごくごくありふれたデータだ。


 「輝霊《きれい》草原地下墳墓」という名のダンジョンで、領主城の地下に入り口が存在する。


 というよりは、そのダンジョンの入り口に領主城が作られた、といったほうが正確だろうか。

 領主城に入り口があることから基本的にディングラス家だけが入れるダンジョンなので、一般のハンターや『イクター〈掘り探す者〉』と呼ばれるダンジョン探索専門のハンターは入ることができない。

 唯一例外として、ハローワークが誘致されて都市にやってきた大昔に、存在を確認するために潜った記録があるくらいだ。

 どうやらこのダンジョンはかなりの深さらしく、最深部は地下千メートルを超えるという話である。

 ハローワークの調査隊も踏破はしておらず、ある程度調べたあたりで戻ってきたので、底がどこまであるのかは謎のままである。

 前にアンシュラオンがサナのためにペンダントを買ったが、その店主が言っていたように東側には古代遺跡が数多くある。

 そうした場所には人が集まる傾向にあるので、もしかしたらグラス・タウンは、遺跡に集まった人々が生み出した【発掘都市】だったのかもしれない。


 と、このように地下に制限はないので、それを含めればグラス・ギースは非常に広大な敷地を持っていることになる。

 おそらく四大会議で使われた例の会議場も、地下にあると思われる。

 さらにもう一つ驚くべきことがある。


 実はこの地下空間にも―――【城壁】が存在している。


 他の都市の人間からすれば、「城塞都市なんて、地面を掘って地下から侵入すればいいんじゃね?」と思うかもしれないが、しっかりと地下空間にも壁が存在するのだ。


 そして、地上よりも【強力な結界】が張られている。


 アンシュラオンがスケスケのボロボロと称した地上の結界と違い、地下は初代五英雄たちが張ったものなので非常に強力だ。

 会議場の透明の壁同様、プライリーラが全力で叩いてもびくともしない。それが全域に渡って張られているのだから相当な力の入れようだ。

 なぜそうなっているのかわからないが、グラス・マンサーの見解としては、上の城壁が出来る前から地下には城壁があった、と考えられている。

 考えてみれば、グラス・ギースの城壁が出来たのは三百年前の大災厄後である。

 一方、五英雄が存命していたのは千年前なので、時系列的には地下のほうが先に存在したことになる。

 むしろ地上部にある城壁は、これに沿って建てられたのだろう。そのほうがしっくりくるし、これは城壁というより【遺跡の外壁】だった可能性が極めて高い。

 遺跡があった場所の上にそのまま都市を作り上げたとすれば、考古学的になかなか面白い題材となるだろう。

 だが当然、一般人はそんなことをしている暇はないので、この話はごくごく限られたグラス・マンサーの間でしか知られていない隠された真実である。




 プライリーラとアーブスラットは、そのままゆっくりと通路を進んでいく。

 道は一本道で迷いようがないが、聖堂から館までは螺旋状に道が造られており、館の敷地以上の面積をぐるぐると何十回も回るため思ったよりも時間がかかる。


「…ふぅ」


 珍しくアーブスラットの額に汗が滲む。武人である彼の体力を考えれば、歩いて疲れるような距離ではない。

 見ると、顔が青白くなっていた。


「爺、大丈夫か!? 顔色が悪いぞ」

「問題ありません…大丈夫です」

「少し休もうか?」

「時間が惜しいので、このまま進みましょう。これが終われば嫌でも休まねばなりません」

「…そうか。無理はしないでくれよ」


(私は三日休めたが…爺は休みなしだ。ダメージも回復しきってはいない。かなり疲労しているのは間違いないな)


 アンシュラオンの技で凍っていた間は生命維持だけで精一杯だったので、正直回復する余裕などはまったくなかった。

 傷口はくっついたが細胞はかなり弱っており、身体の中はボロボロだろう。コンディションは相当悪い。

 これは少し休んだ程度では治らない。戦士にも休息は必要である。武人として再起するには、しばらく休息が必要だ。それだけ激しい戦いだったのである。

 アーブスラットを気遣いながら、プライリーラたちはさらに進む。



 またしばらく歩くと、緑色の植物の装飾が施された白い大きな扉が見えてきた。


(ようやく館の地下か)


 白い扉から聖堂までが血脈結界の範囲なので、あの先は誰でも入れる館の地下部分に該当する。

 自分の家に戻るだけでも、これだけ苦労しなければならないとは、実に難儀なものである。

 この転移を使うのは久々なので、こちら側から白い扉を見るのも子供の時以来だ。

 この先が我が家だと知っていても普段見慣れない光景のせいか、自分がまったく違う場所にやってきたのではないかと錯覚するほどである。


「よし、行こ―――」


「リーラ様、お待ちください」



 プライリーラが扉を開けようとした瞬間、アーブスラットが止めた。


「どうした? 体調が悪化したか?」

「いえ、それは大丈夫です。それより波動円で調べましたが、この先に反応が二つあります」

「二つ? 二人ということか。この先は『魔獣管理部屋』だ。今日の当番は誰だったか…」

「本日の当番は、ハウーロとルイペナの予定です」


 ハウーロはクラゲ騎士に餌をやっていた若い男の使用人だ。ルイペナは若い女性メイドの一人である。

 魔獣管理部屋は、ホスモルサルファなどのジングラスが保有している魔獣を管理している場所である。

 ジングラスの血統遺伝である『魔獣支配』スキルを完全に発動させるためには、魔獣が幼体の頃から慣らす必要があるため、大きくなるまでは都市内で飼い、成体になる前にあの森に移動させている。

 プライリーラは外に出ることも多いので、その管理と世話は使用人とメイドが日替わりのローテーションで行っていた。

 そして、今日はハウーロとルイペナが当番である。


「では、その二人ではないのか?」

「一人はルイペナのようですが…もう一人の感覚が少し違います。ふぅ…集中が乱れて定かではありませんが、もっとこう…荒々しいのです」

「爺は疲れているのだ。波動円も万全ではなかろう」

「たしかに万全ではありませんが…万一のことを考え、一度戻るべきかもしれません」

「もう目の前だぞ? それに一度戻るといっても、次に転移が使えるようになるのは一年後ではないのか?」

「それでもリスクがある場合は下がるべきです」

「さすがに心配性だろう。そこにルイペナがいるのならば、彼女に伝えれば終わりだ。物資も彼女に用意してもらえばいいだろう?」

「そうですが…」

「大丈夫だ。すぐに終わる。ここは私の家だ。危険はないよ」

「…かしこまりました。ですが、すぐに戻るようにいたしましょう」

「わかっているさ」


 アーブスラットは渋い表情であったが、プライリーラがそう言うのならばと従った。



 だが、改めて思い返せば―――この老執事の言葉はすべて正しかったのだ。



 彼は生死の境を何度も潜り抜けた歴戦の勇士である。

 激しく疲労しているとはいえ、その勘が告げる予感の精度は高い。弱っているからこそ敏感になる。

 一方、プライリーラは戦獣乙女とはいえ都市育ちのお嬢様だ。強くて頭が良くて凛々しい以外は、正直言えばベルロアナと大差がない。(けっこうな違いだが)

 結局のところ、温室で育った花は野生には遠く及ばないのである。



 ゴゴゴッ ギィイイイ


 プライリーラが扉に埋め込まれたジュエルに触れると、重々しい音を立てて開き出す。

 それと同時に少し強めの光が目に入ってきた。

 壁の発光は柔らかいもので違和感は感じなかったが、今感じているものは明らかに人工の光である。

 その光を感じることで、ようやく戻ってきたという実感が湧いた。


 魔獣管理部屋には地下を最大限利用した大きな空間が広がっており、魔獣ごとに分けられた快適な生活スペースが設けられていた。

 本来ならば鉄格子が必要なのだが、魔獣を愛するジングラスは水族館のように軽くガラスで区切っているだけだ。

 彼らは身内であり、ペット(家族)のようなもの。檻に閉じ込めるような乱暴なやり方はしない。

 動物園と同じく、慣れていない飼育係が怪我をしないように区切りを用意してあるだけだ。

 もしプライリーラとアーブスラットだけならば放し飼いでも問題はないくらいだ。


「さて、あの子たちは元気にしているかな?」


 プライリーラが嬉しそうにリザラヴァンの幼体がいるスペースを覗き見る。

 彼らの生息域である岩場を忠実に再現した寝床には、まだ一メートルにも満たない幼体が五体ほどいた。

 成体はほぼ恐竜だが、これくらいの大きさならば、まだまだ一般人が見ても可愛いと思えるレベルである。

 が、まったく動いていない。


(寝てる…のか? お昼寝中かな?)


 近くに餌を食べた跡が残っているので、ご飯を食べてお腹が一杯になって眠ってしまったのかもしれない。

 さして珍しい光景ではない。ペットショップでもよく見る光景だろう。


 そうして歩きながら各スペースを見て回るが、どの魔獣も眠っているようだった。


 珍しいことにホスモルサルファの母体も動かずに静かにしている。

 ホスモルサルファはクラゲなので、海水を入れた水槽の中で暮らしている。この海水もハピ・クジュネから輸入した高級品である。

 その彼らも眠ったように動かない。


(ふむ、クラゲちゃんがおとなしく寝ているのは珍しいな。いつもならば誰かしら動いているはずなんだが…)


 プライリーラは『寝る』と表現したが、ホスモルサルファ自体は寝るということはない。

 ただし不活性の時間帯があるので、そうした時間を寝ると呼称しているにすぎない。

 リザラヴァンは不思議ではなかったが、こちらは珍しいことである。だいたいはどこかの部分が動いているものだからだ。


 それに多少違和感を覚えつつ、さらに進む。


 この時、彼女もまた疲れていた。

 万全のプライリーラならば、さすがに異変に気付いていただろう。

 アンシュラオンとの戦いは、それほどまでに熾烈だったのだ。すべてをかけた戦いだったので、実際のところ彼女もまたボロボロであった。

 それゆえに思考も上手くまとまらず、「早く終わりたい」「休みたい」といった感情と焦燥だけに支配されていた。


 サナを捕らえようと焦ったアーブスラットと同じ心理である。


 ゴールが見えると、人間は急ぎたくなるものだ。

 あと一時間で一つの仕事が終わると思うと、もう限界に近いのに強引に終わらせて「憂うことなき休息」を欲するものである。

 これは誰にでも経験があることだろう。

 この宿題を終わらせて、早く遊びに行きたい。この仕事を終わらせて、早くビールが飲みたい。その後は自由だ、楽しみだな、と。

 そういった欲求に逆らうことは難しい。特に身体が限界の状態では、心もまた引っ張られる。

 これはそんな不運が招いた災難。


 ガチャッ



 魔獣部屋の入り口、飼育係の詰め所に行くと―――そこにはルイペナがいた。



 椅子に座っていた彼女は驚いたように立ち上がり、プライリーラをじっと見ている。

 ルイペナの年齢はプライリーラより少し上で、幼い頃より一緒に育ったので姉妹のような愛情さえ湧く女性だ。

 自分によく尽くし、苦しみも分かち合える、使用人の中でも、もっとも信頼の置ける人物の一人である。


「ルイペナ、よかった! 君がいてくれると助かる!」

「お、お嬢様…! そのお姿は…」

「ああ、話せば長くなるのだが…残念な結果になってしまった。我々は敗北して…ギロードも……死んだ」

「っ! まさか彼女が…!」


 ルイペナは信じられないといった顔をしている。

 彼女もまたギロードのことをよく知っており、その強さも認識していたからだ。

 遠征の際は何度か一緒に来てギロードの世話をしたこともあるので、プライリーラほどとはいかないが、それなりにショックであろう。


「信じられないだろうが真実だ。だから私と爺は、一度ここから離れようと思っている。状況が状況だ。弱った我々を狙う者たちが出てくるかもしれない。いいかい、魔獣たちの搬送が済んだら、君たちも順次すぐに館を離れて…」



「お嬢様―――お逃げください!!」



「…え? ルイペナ…?」

「ここにいてはいけません! 早く逃げてください!! 我々のことになどかまわず!!」

「何を…言っている?」



 プライリーラは勘違いをしていた。


 ルイペナはたしかにギロードが死んだことに驚いた。


 しかし、その驚愕の眼差しの理由は、プライリーラがここに現れたことに対してのものだったのだ。




318話 「待ち受ける者」


「ルイペナ…何を言っているのだ?」


 プライリーラは、まさかそんなことを言われるとは思っていなかったので、頭の中が混乱して真っ白になってしまう。

 普段ならば警戒を怠らないが、ここは自分の館である。誰とて自分の家ならば気を許してしまうものだ。

 ましてや相手が信頼の置ける侍女だとすれば、その傾向はなおさら強い。


 だが、その間にも【魔の手】は忍び寄っていた。


 その気配に気付いたアーブスラットが叫ぶ。


「リーラ様、お逃げください! すぐに聖堂に戻って転移するのです! あそこならばジングラス以外の人間は入れませんから安全です!」

「爺、どうしたのだ?」

「ルイペナの様子がおかしい。今すぐここを―――」



「おや、何やら騒がしいと思ったら、もう来てくださいましたか」



 ガチャッ

 館側の扉から、一人の男が入ってきた。

 この男の存在はすでにアーブスラットも感知していたが、やはりというべきかハウーロではなかった。

 ただし、まったく知らない人間ではない。

 むしろ、よく知っている人物である。



「君は…ソブカ氏!」



 そこにはソブカ・キブカランがいた。

 白茶髪のすらっとしたイケメンだが、釣り上がった目は肉食獣のように輝いている。

 この目を見間違えるわけがない。間違いなくソブカ当人である。


「なぜここに…!?」

「あなたを待っていたのですよ、プライリーラ。どうやらお出かけのご様子だったので、しばらく館で待たせていただきました。そのついでにルイペナさんに魔獣を見せてもらっていたのです。いやいや、まさか地下にこのような場所があるとは驚きでしたね」


 ソブカは珍しそうに周囲を眺める。

 すべてが魔獣管理用の道具なので、一般生活ではお目にかかれないものばかりだ。

 人間ならば押さえつけられたら死ぬような鋭利な刺叉《さすまた》も、リザラヴァンの皮膚ならば心地よい刺激になるだろう。身体を洗うブラシも大きく、剣山のように鋭い。

 たしかに別宅の地下、都市内部にこのような場所があるとわかれば誰もが驚くに違いない。ソブカの言葉に不自然な点はない。

 が、プライリーラはすぐに見破る。


「それは嘘だね」

「なぜですか?」

「この場所はジングラスにとって重要な施設だ。入れるのは私の側近のみ。爺以外では、この館の使用人だけだよ。いくら君が客人とはいえ、私の許可なくルイペナが入れるわけがない」

「なるほど、もっともなお話ですね。では、私があなたと婚姻すると言えば、入れる理由にはなるわけですかね?」

「話の順序が違うだろう。私がいない間にそのようなことが決まるはずもない。…もっとも、君がそんなことを言い出すとは意外だったけどね」

「ふふふ、プライリーラ。私はあなたのことが嫌いではありません。むしろ好きですよ。そういう姿ならば、特にね」

「へぇ、君はこういう服装のほうが好みだったのかな? だったらもっと早く言ってくれればよかったのに」

「あなたに鎧を脱げと私が言うのですか? それは傑作ですね。もしそう言ったら、あなたは脱いでくれたのですか?」

「…いや、脱がなかっただろうね。脱げなかった、と言ったほうが正確かな」

「でしょうね。あなたは戦獣乙女としての誇りがあった。その呪縛は言葉程度で剥がせるものではありません」

「呪縛…か。なかなか的を射た形容だ。いつから私が道化だと気付いていたのだ?」

「あなたとは付き合いが長いですからね。子供の頃からですよ」

「そうか。周りの人間から見れば、私はさぞや滑稽な存在だっただろうね」

「いえいえ、そう卑下するものではありません。それなりに役割は果たしてきたと思いますよ。グラス・ギースに住む者たちは、常々四大悪獣の脅威に怯えて暮らしています。気休めにはなったことでしょう。崇めても何も起こらない女神像よりはましです」

「相変わらず辛辣だな」

「それで、どうですか? 鎧を脱いだ気分は? こうして見ると、まるで普通の街娘のようですよ」

「悪くはないよ。できれば自分で脱ぎたかったがね」

「それはよかった。それもホワイトさんのおかげですね」

「………」


 プライリーラは注意深くソブカの動きを監視する。

 ソブカの服装は、いつものスーツではない。

 生地の裏側に鎖帷子が仕込まれた、鳥のような金色の紋様が描かれた臙脂《えんじ》色の戦闘用ローブを羽織い、腰には赤い剣を下げている。

 赤い剣はもちろん、アズ・アクス工房で仕入れた準魔剣の火聯《ひれん》である。

 剣がこれだけ上等なものなのだから、この臙脂色のローブも普通の防具とは思えない。

 豪華な見た目の段階で金がかかっていることがわかるので、これも術具かつ高級品に違いない。


 普段は商売に勤しんでいるので滅多に見ることはないが、これがソブカの【戦闘用装備】なのだろう。


 だが、その段階で―――異常。


 完全武装した人間がジングラスの機密施設にいることは、明らかに異常事態だ。

 その証拠にルイペナの表情は強張っている。客を歓迎するような顔ではない。

 そして何よりソブカは、アンシュラオンのことを隠そうともしていない。

 もう隠す気がないのだ。その必要がないと判断したのだ。



 ソブカは―――【敵】だ!!



 それに疑いの余地はない。


 この瞬間、プライリーラは最大臨戦態勢の戦闘モードに入った。

 いくら疲れていても優れた武人である。この状況で楽観視などできない。



「それでソブカ氏、こんな夜分にわが邸宅に何か用事かな?」

「久々にあなたと語らいたいと思いましてねぇ。無理を言って通してもらいました」

「話なら前回、十分に話し合ったと思ったがね」

「あれはビジネスの話です。今回は個人的な話ですよ」

「こんな夜にかい? 一応は淑女の家だよ」 

「さして不思議ではないでしょう。婚姻中の男女が夜中に語り合うなど珍しくもないことです」

「なるほど。相変わらず辻褄だけは合わせるのだね。…で、どうやって館に入ったのかな? 外には私のクラゲちゃんがいたはずだ」

「伊達にあなたとは幼馴染ではありません。覚えていませんか? 子供の頃、一緒に館の裏から侵入してみたじゃないですか。あれは楽しかったですねぇ。ソイドビッグなんて、大きな身体が壁に挟まって身動きが取れなくなっていました。まだあるか心配でしたが、思えばあれも緊急脱出用の隠し通路だったのですね。確認しておきましたが、特に異常はありませんでしたよ」

「…それはありがとう。頼みもしないのに安全確認をしてくれるとは、君は気が利く男だな。見直したよ」

「物のついでですからね。礼は要りませんよ」

「しかし、裏にも警備のクラゲはいたはずだよ」

「そういえばいましたね。ですが、私の顔を見たら通してくれましたよ。顔パスしてくれるなんて意外と可愛いところがあるものです。今までは不気味でしかなかった魔獣ですが、少しは愛着が湧きましたよ」



(この言葉も嘘だな。抜け道は迂闊だったが、裏庭も厳重に警備しているはずだ。侵入者がいたら即座に排除するように訓練している。ソブカ氏たちの戦力でホスモルサルファを突破できるか? …微妙だな。仮に術具で突破できても、かなりの物音がするだろう。アラームに引っかかればグループの者たちがすぐに駆けつけるはずだ。…いったい何をしたのだ?)


 ソブカが何らかの手段をもちいて侵入したのは間違いないだろう。

 だが、まったく誰にも気付かれずにクラゲ騎士を突破するのは、かなり至難の業だと思われる。そのあたりが非常に薄気味悪い。


(いるのはソブカ氏だけか? 私の波動円では他に反応を感じない。まさか本当に独りで来たのか? だが、この余裕は何だ? いくらあの武具が術具でも我々に勝てるとは思えないが…。しかし、油断はしない。もし戦いになったら二人がかりでも取り押さえる! 私もアンシュラオンとの戦いで学んだのだ)


 プライリーラは油断しない。独りで戦うなどという馬鹿なことは考えない。

 それもアンシュラオンから学んだことだ。確実な方法を選ぶべきである。


 しかし、ソブカは余裕を崩さない。


 特に構えることもなく自然体で無防備に立っている。

 プライリーラがその気になれば、初撃で打ち倒すことができそうなくらい隙だらけだ。

 彼の戦闘能力は、プライリーラに遠く及ばない。

 いくら弱っていてもアーブスラットと二人がかりならば、あっという間に制圧することができるだろう。

 当然、そんなことはソブカも理解しているはずだ。


 だが、この男は笑っていた。


 ただの笑みではない。心の奥底から搾り出る感情を抑えるかのように、どことなくぎこちない。

 その複雑な感情が理解できず、プライリーラの動きは止まっていた。



 そこにアーブスラットの鋭い声が響く。


「リーラ様、ここはやはり態勢を整えたほうがよいでしょう。今すぐに聖堂に避難を!」


(爺は不利と考えたか…それも仕方ない)


 プライリーラはソブカを制圧することを考えていたが、老執事は撤退を選択したようだ。

 もともと彼のコンディションは悪いので、現状での戦いを不利だと感じるのは当然だろう。

 さらに余裕のあるソブカを見て、何かしらの準備があると判断したはずだ。


 相手はこちらを【待ち伏せ】していた。


 何も対策がないとは思えない。老執事の判断は極めて正しい。


 だが、その前にソブカが動く。


「それは困りますね。あなたたちには、ここにいてもらわないと」

「そのようなことに従う義理はない! リーラ様、お早く! ここは私が抑えます!」

「アーブスラットさんが相手だと分が悪いですね。仕方ありませんねぇ。…では、こういうのはどうでしょう?」

「ひくっ!」

「動かないでくださいよ。女性を殺したくはないですからね」


 シュッ ぴた

 ソブカが剣を抜き、ルイペナの背中に押し当てる。

 まるで彼女を盾にするかのように背後に回り、アーブスラットを牽制した。

 それにはプライリーラも驚きを隠せない。


「ソブカ氏、何をしている!!」

「見てわかるでしょう? ルイペナさんを人質にしています」

「な、なんということを…! 彼女を放すんだ!!」

「それはあなた次第ですね。あなたが逃げたら殺してしまうかもしれません。いいですか、そのまま動かないでくださいよ」

「やめろ、ソブカ氏!! 君がこんなことをするなんて…なぜだ! 理由は何だ!!」

「おや? 彼から聞いたのではありませんか? 私と組んでいると」

「それは聞いている。だが、君がこんなことをする理由にはならない」

「それだけで十分でしょう? それに、お互い様だと思いますがねぇ。あなただって私を売ろうとしたのではないですか? アンシュラオンさんを勧誘したのでしょう? 一緒になって私をイジメようって」

「…何の話だ?」

「ふふふ、隠し事が苦手ですねぇ。まあ、そういう話になるとは思いましたよ。あなたが彼を放っておくはずがないですからね」

「そうなると知っていて炊き付けたのかい? そちらにもリスクがあったはずだ」

「リスクなんて、生きていればいくらでもあります。もともと命など惜しんでおりませんよ。しかしその様子だと、アンシュラオンさんとは交渉決裂といったところでしょうか。ふむ…どういう考えでしょうかね? 彼からすると私のほうがやりやすい…? それは光栄ですが、資金的にはジングラスのほうが上ですし…あなたを捕らえなかったのも不思議ですねぇ」

「ソブカ氏、君は論理的で合理的だが、大切なことを一つ忘れているね」

「…何でしょう?」

「この世界には男女が存在する。二人が出会えば…【愛】が生まれる」

「………」


 ソブカはしばらく訝しげな表情を浮かべ、プライリーラの言葉の意味を考える。

 この頭脳明晰な男がこれだけ思考に時間がかかるということは、彼の頭の中には「そういったこと」が抜けているのだろう。


「わからないのかい? 彼は私を守りたいんだよ」

「守る…ですか。その理由は?」

「言っただろう。彼は私のことを好きに……いや、気に入ったからだよ。だから私を戦いから遠ざけようとしたんだ」

「………」


 ぽんっ


 それでようやく理解したのか―――ソブカが思わず手を叩いた。



「ふふふ…ははははは! なるほど、なるほど! そうですか。ああ、なるほど。そういう考えはまったくなかったですねぇ!! そうか、そうですか。彼は実に面白い!! まったくもってあの人にしてみれば、こんなことは全部遊びなんですねぇ! いやいや、本当に愉快なお人だ」

「愛や恋がそんなに可笑しなことかな? 女性にとっては最重要だよ」

「いえいえ、否定はしませんよ。私にとっては意外だっただけにすぎません。人間の価値観はそれぞれですからね。そういう動機で行動する人もいるでしょう。…ですが、それならばなおさらのことです。ここに戻ってきたことは迂闊でしたね」


 改めてルイペナに剣を突きつける。

 何があってもソブカは行動指針を変更しないらしい。


「私をどうするつもりだ? 手篭めにでもするつもりかな? あいにく、もう処女ではないよ。アンシュラオンに奪われたからね」

「私は彼とは違います。そんなことはしませんよ」

「なぜだ!! ありえない!! それでも男か!!」

「…そこは怒るところですか?」

「当然だ。狙っていた女が処女を奪われたんだぞ!! もっと嫉妬するべきだ!!」

「私は『狙われていた』のであって、狙っていたわけではありませんがね…。あなたを狙う理由は簡単ですよ。いろいろと使い道があるからです。ジングラスの総裁としても戦獣乙女としても、ね」

「私はもう戦獣乙女ではないよ」

「あなたがどう思っていようが、どうでもよいことです。大事なことは他人がどう思っているかです。都市の人間からすれば、あなたはアイドルのままだ。ジングラスを掌握するための餌になってもらいます」


 ソブカがプライリーラを狙う理由は―――アンシュラオンがやらなかったことをするため。


 つまりはプライリーラを【道具】として利用することである。

 彼女を利用すれば、ジングラスグループの組織に対して圧力をかけられる。個人的にプライリーラを慕う者もいるので、人質としての価値は計り知れない。


 ソブカの目的はジングラスを【乗っ取る】ことなのだから、この行動は極めて自然である。




319話 「もう一匹の獣 前編」


「安心してください。あなたには生きていてもらわないと困ります。戦獣乙女の名は他の都市にも知られていますからね。都市最強の武人が死んだと知られたら、狙われる可能性が高まります。もちろん、こんな辺境な寂れた都市に興味を覚えるような者がいれば、ですが、今はDBDも関わっていますから、無駄に混乱を引き起こすようなことはしません。生きたまま役立ってもらいます」

「一応は都市のことを考えているのだね」

「誤解がありますね。私は最初から都市のことしか考えておりませんよ」

「君が欲しているのはジングラスの力か?」

「そうです。ジングラスの都市内における食糧管理の権利と人材に加え、その魔獣の力が欲しいのです。あなたも言っていたようにラングラスとジングラスが合わされば、マングラスにも対抗できるでしょう」

「私を人質にしても他の者が従うだろうか? 負けた私に、もはや影響力はないと思うがね」

「その点はご自分を過小評価していますねぇ。ジングラスは長い時間をかけて家族間の繋がりを強化してきました。あなたのアイドル性はジングラス一派内では絶対的です。むしろ負けたからこそ、今まで世話になった自分たちが守らねばと思うものです。そこのアーブスラットさんのようにね。いやはや、女性アイドルとは得なものですねぇ。男性ならば即座に見限られますよ」

「…なるほど、君はジングラスの内情にも詳しかったね。内部の者を敵に回すと怖いってことがよくわかったよ」

「あなたが生きている証があればよいのです。姿を見せる必要はありません。私の指示通りに声明を出せば、あとは私が上手くやっておきます」

「偶像の次は傀儡とは、なかなか洒落ているね。だが、それでいつまでもつかな。ジングラスを甘く見ないほうがいいよ。そんな脅しに屈するような者たちじゃない」

「そうですか…あなたも私を甘く見ないほうがよいと思いますがねぇ」

「っ!」


 ソブカが剣をルイペナの耳に軽く押し当てる。

 ツツツッ

 剣はその重みだけで、何の抵抗もなく耳を切り裂いていく。

 ゆっくりゆっくり、一ミリずつ。


「こんなふうにあなたの耳を切り落として送ったら、ジングラス傘下の組織は素直に従ってくれるでしょうか? 従ってくれると楽なんですが…その前にルイペナさんで試してみましょうか」

「ううっ…ううっ…」


 ルイペナは、じっと耐えている。

 自分が声を出せばプライリーラに負担をかけるとわかっているのだろう。


「待て!! やめろ!! 彼女に罪はない!!」

「お嬢様! 私のことは気にしないでください!! この命、すべてジングラスのために捧げております!」

「ルイペナ…!」

「ふふふ、皮肉ですねぇ。わかったでしょう? 結び付きが強いからこそ、あなたには価値があるのです。ルイペナさんはあなたのためならば自分の命など、どうなってもかまわないと思っている。裏返せば、あなたの身に何かあれば死んでも死にきれない、というわけです。それだけあなたが大切なのです」


 ルイペナの献身性こそがジングラスを象徴している。

 彼女は特にプライリーラに近いので想い入れが強いが、ジングラス一派の人間は多かれ少なかれ当主に恩を受けている身だ。

 プライリーラを人質にされれば怒り狂うのは間違いないものの、まずは安否を気にするだろう。しばらくはそれで動きを封じられる。


「くっ! 食糧の権利が欲しいというのならば、持っていけばいい。同じことだ」

「言葉だけで傘下の組織が素直に受け入れるとは思えませんね。それに魔獣の力も手に入れたいのですよ」

「魔獣は無理だ。これはジングラスの血脈のみに許された力だからね」

「嘘ではありませんが正しくはないですね。当主から委任されれば魔獣の支配権を受け継ぐことができるはずです。それは当主が死んでも継続される。亡くなられたログラス様の支配権を委任されたアーブスラットさんがいまだに持っているようにね」

「なぜそれを…最重要機密のはずだよ!」

「推測すればわかることですし、これだけ長く狭い空間で暮らしていれば、機密の一つや二つは漏れるものではないでしょうか。私がここに忍び込めたようにね」

「さすがに頭が切れるものだね。私が負けることまで予想していたのか?」

「さて、私は生粋の武人ではありませんし、そのあたりは微妙なところでしたね。ですが、デアンカ・ギースを倒したアンシュラオンさんならば…とは思っていましたよ」

「彼は強いぞ。君が思っている数十倍もな。私など子供扱いだ」

「それは嬉しい誤算です。それならば本当にマングラスも打倒できるかもしれません。私では、どうやってもグマシカさんは殺せませんしねぇ」

「都合よく操れると思っているのか? 彼が君に牙を剥くとは思わないのか?」

「操る? 災厄を操ることなどできません。嵐に怯える小動物は、それを上手く利用するだけです。嵐によって損害を受けた敵の弱みに付け込んで、少しずつ支配力を削っていくのです。今、私がこうしているようにね」

「まるで火事場泥棒だな」

「言い得て妙ですねぇ。その通りです。しかし、それもまた弱者の知恵というものです。これが現実であり、事実ですよ。言っておきますが、人質が彼女だけとは思わないことですねぇ。館にいた人間は、すべてこちらが預かっています」

「くっ…」


 状況は完全にプライリーラが不利であるが、ソブカもかなりのリスクを負っている。

 ここで失敗すれば彼もすべてを失う可能性が高い。だからこそ本気さがうかがえる。




(この弱っている身体では、ルイペナを助けることは難しい。ソブカ氏は、ああ見えて鍛えている。最低限の腕前はあるはずだ。攻撃される前に剣を突き刺すくらいは簡単だろう。もっと危険なのは、それが誘いであった場合だ。ルイペナも助けられずソブカ氏も制圧できなければ、状況はさらに悪くなる。どうする!? どうすればいい!? …くそっ、方法が浮かばない。爺ならばどうする?)


「………」


 アーブスラットは会話に参加せず、ソブカと周囲の様子をうかがっている。

 彼もプライリーラと同じことを考えているのだろう。飛びかかる様子はない。

 また、老執事の役目はプライリーラの護衛が最優先事項である。ルイペナを助けるためにプライリーラを危険な目に遭わせることはできないのだろう。

 ただ彼は体調が悪いながらも、いつもと同じ立ち方をしていた。左手だけを常に後ろに隠す独特の立ち方だ。


 彼が日常からその立ち方をしているのは―――違和感なく【暗器】を取り出すためである。


 彼の左手には、いつの間にかワイヤーマインが握られている。こういうところは抜け目がない。

 しかし絡ませる武器の性質上、ルイペナが邪魔で今は使えない。直線も塞がれているので放出系の技も難しいだろう。


(私よりも爺のほうが状況を正確に把握しているだろう。何かあれば反応してくれるはずだ。ならば私は感情のままに会話に専念すべきだ。下手に動きを見せれば勘付かれる)


 今プライリーラにできることは彼を説得することだけだ。それがいくら低い成功率でも、やらないよりはましである。


 何より―――自分が納得できない。



「ソブカ氏、なぜなんだ? 君は何が不満なのだ!? こんなことをやるような男ではなかったはずだよ! 少なくとも人質を取るような卑怯な真似はしなかった! これが君が目指していた理想の都市の姿なのか!」

「ご立派ですねぇ。まさに正義の味方、都市の守護者、アイドル。どれもぴったりですよ」

「それは本当の私ではない。誰かに作られたものだ!」

「そのようですね。今のあなたからは以前のような気迫が感じられない。疲れているのでしょうが…もっと根本の問題です。…彼に【喰われ】ましたか」


 プライリーラは着ているものだけではなく、その本質自体が変わっていた。

 今の彼女からは獰猛さを感じない。前回会った時のようなビリビリとした圧力を感じない。



 『暴風の獣』が―――喰われたから。



 そのせいでプライリーラは、【普通の女性】になってしまっていた。

 それにソブカは落胆する。


「本当に酷い人だ。他人の獲物を掠め取るなんて…ふふふ、だからこそあの人は面白いのですけどねぇ。それでもあなたという器が手に入るのならば問題はありません。それで妥協しましょう」

「いつから器を欲するようになったんだ! それでは今の腐ったグラス・ギースと変わらないじゃないか! 君が一番嫌っていたもののはずだよ!」

「中身がいつだって上等で有用とは限りません。時には器や表面だけのほうが良いこともあります。そう、たとえばあなたが知っているソブカという男も、その表面は誰かに作られたものだとは思いませんか? 本当の私は、どのような人間なのでしょうかねぇ? それをあなたは知らないし、知らないほうがよいでしょう」

「悪ぶる必要はない。君はそんな男じゃない! 私が保証する!」


 プライリーラは、ソブカを子供の頃から知っている。

 彼は正義感が強く、不正を好まない。弱い子がいれば守るような男だった。あのソイドビッグのような落ちこぼれだって見捨てたことはないのだ。


(だからこそ私は憧れたんだよ。君のその強さに)


 プライリーラにとって、ソブカは憧れだった。若い頃から才能豊かで、その力を誰かのために使おうとする者であった。

 病気の者がいれば、それが貧困者であろうと自分の身分を使って助けようとした。不平等と不条理に怒り、いつだって正しいものを探し、その可能性を模索しようとしていた。

 それは成長してからも変わらない。

 自分などよりも、よほどアイドルに相応しい人物のように思えた。誰よりも都市のことを考えていた。


「今回のことも何か事情があるのだろう? 言ってくれないか。そして、協力し合えるはずだ。二人ならば何だってできる。そうだろう? 君は昔、そう語ってくれたじゃないか」

「…ええ、覚えていますよ。あなたも覚えていたのですね」

「忘れるわけがない。君は…私にとっての【英雄《ヒーロー》】だからね」

「ヒーロー…ですか。そうですね。私はずっとそうなりたかったのかもしれません。この心の奥底には、いつだってその言葉があった。だからこんなものを着ている」


 英雄になりたかった。

 初代ラングラスのような、多くの人を救えるような存在に。

 自分が今着ている臙脂色のローブは、『鳳薬師《ほうやくし》の天衣』と呼ばれるラングラスの秘宝のレプリカである。



 それはまるで―――コスプレ。



 憧れの人物と同じ格好をすることで、自分もそうなった気持ちになるという、なんとも哀れな慰めである。

 そう、ずっと初代ラングラスに憧れていた。

 薬師として困っている人々を助け、戦いとなれば仲間を守る最高の英雄。

 今でこそラングラスの立場は低いが、自分にとっては永遠のヒーローだったのだ。



 しかし、少年の夢は―――壊れる。



 あの日、あの時、あの瞬間に。




「プライリーラ、私の名前は何ですか?」

「なま…え? ソブカ・キブカラン…だろう?」

「ええ、その通り。私はキブカラン。ラングラスでは―――ない!!」


 ルイペナの背中に押し付けられたソブカの剣が、さらに抵抗を超えて、ぐいっと前に押し出される。


「あっ」



 刃先がツプッと柔らかい肉に突き刺さり―――貫く。


 準魔剣と呼ばれる強力な術式武具である刃は、豆腐に突き刺すように何の抵抗もなく入り込み、貫通。

 ソブカの剣は、ルイペナの右胸を貫いていた。

 ツゥウウ

 傷口から、静かにゆっくりと血が流れる。


「…くふっ! うっ…!」

「動かないでください。ギリギリの場所に刺しましたからね。手元が狂えば大量出血ですよ」


 ショックで動きそうになったルイペナの身体をソブカが押さえる。

 だが、一番ショックだったのはプライリーラであろう。

 目を見開いて、その衝撃の現場を見つめている。


「なっ、なんということを…!! 君がやっていることは最低のことだぞ! 人質を…それも女性を…!!」

「いまさら何を言うのです。これはマフィア同士の抗争なのですよ。いや、私にとってはグラス・ギースの未来を決める大事な戦いです。どんな手段を使っても勝たねばなりません」

「ソブカ氏…!! 君は!!」

「医者の知識も役立つものです。今刺した場所は急所ではありません。ですが、もう少し刃が左側に動けば動脈が傷つきます。そうなれば大量出血で死にますねぇ。しかし、従うのならばルイペナさんを助けることもできます」


 ソブカはそう言うと、若癒の術符を取り出す。

 まだ致命傷ではないので応急処置には十分な術式だろう。

 プライリーラとアーブスラットの様子から、彼らが回復術式を持っていないことを悟ったがゆえの交渉術である。

 このあたりも抜け目のない男である。


「やめろ! ルイペナを殺すな! こんなことをしても意味がない!」

「意味はありますよ。あなたにこの女性は見捨てられないでしょう? だって、アイドルですものねぇ。ジングラスの総裁として、この状況を見過ごして逃げるなんてできませんから」

「私が見捨てないのは、彼女が家族だからだ!! そんなこともわからないのか!!」

「お、お嬢様…お逃げ…ぐっ…ください…! 私のことは…お気になさらず…」

「いけませんねぇ、ルイペナさん。さきほどは私に協力して、魔獣を眠らせるためのお手伝いをしてくれたじゃないですか。さっきのように最後まで素直でいてくださると、お互いにとって幸せな結果になると思いますよ」

「眠らせた…だと!? あの子たちに何をした!」

「私の家は本家筋ではないので秘宝ほどではありませんが、代々伝わっている秘薬が数多くあります。それを使えば魔獣を眠らせることなど簡単なことです」


 ソブカが館に入って真っ先にやったことは、人質の確保と同時に魔獣の制圧である。

 むしろ魔獣さえいなければ、この館など簡単に落とすことができる。それが難しいからこそ誰もできなかったのだ。


 しかし、ラングラスならば簡単なこと。薬の力を使えば魔獣の無力化も可能である。


 よく地球でも医療関係の事件が起きるが、点滴に洗剤を混ぜただけで人は簡単に死ぬ。筋弛緩剤が死刑に使われるのも有名な話だ。

 その薬を管理するのがラングラスである。

 この都市ではラングラスは侮られているが、実はもっとも危険な存在であることを証明した。


 ソブカは外のクラゲ騎士を薬物入りの水を吸収させて無効化したあと、館に侵入。他の使用人を人質にして脅し、ルイペナに眠り薬入りの餌を魔獣に与えさせた。

 見ず知らずの他人からならばともかく、普段世話をしている者に信頼を置いていた魔獣たちは、あっさりとそれを口にして眠りに落ちた。

 ルイペナとしては、人質を取られているので従うしかない状況であった。

 彼女がプライリーラを見て激しく驚いていたのは、まさか聖堂から戻ってくるとは思わなかったことと、それに加担してしまった罪悪感からであった。




320話 「もう一匹の獣 後編」


「あなたが聖堂から来てくれるとは、私も運がいい。賭けた甲斐がありました。正面から来られたら困っていたところですよ」


 プライリーラが都市の正面から戻ってこないことはソブカも予想していた。

 そこで幼馴染であることを利用して入手した聖堂の情報を思い出し、ここに賭けたのだ。

 なんだかんだ言ってもプライドの高いプライリーラである。ジングラスの威光を気にする者ならば、絶対に人目につかない方法で戻ってくるはずだ。

 狙いは見事に的中である。予想する側としては、これほど嬉しいことはないだろう。

 ルイペナをここに配置したのも、その可能性を考慮してのことだ。


「ルイペナさんには本当に感謝しないといけませんねぇ。あなたと一番仲が良かった人ですし、人質としての価値も相当なものです。私も殺すのは惜しい。彼女の苦労に免じて助けてあげてくれませんかねぇ?」

「はぁはぁ…お嬢様……申し訳……ありません…」

「いいんだ。いいんだよ、ルイペナ。君は私の大切なものを守ろうとしてくれた。何ら恥じ入ることはないんだ。誇りに思っていいよ」


 ルイペナがソブカの指示に従ったのは、主人の帰る場所を守るためである。

 プライリーラの苦悩を近くで見てきた彼女だからこそ、主人の心安らげる場所を壊したくなかったのだ。

 ここには父親との思い出も数多くある。そんな場所で使用人が全員殺されたら、プライリーラのショックはいかほどだろうか。

 だからこそルイペナの行動を責めることはないし、むしろ誇りに思うのだ。



 だからこそ―――強い憤りを感じる。



「ソブカ氏、君の言った通り、これは権力闘争だ。何をしても勝たねばならない。でもね、人の心まで踏みにじっていいわけではないよ!! 彼女の誇りまで傷つけた君は…許さない!!!」


 ボオオオオオオッ!!

 戦気が身体から溢れ出し、ソブカを睨みつける。


「まだそれだけの力が出せるとは、さすがですね。それで、どうします? 力づくで助けてみますか? 今のあなたと私、どちらが速いでしょうねぇ」

「脅しには屈しない。その前に君の頭を吹き飛ばす!」

「ふふ、怖いですねぇ。では試してみましょうか」

「はぁはぁ…いけません! お逃げください! 私のことは…よいのです! 覚悟はすでに…決まっております。これは罠です…! ですから…ぐっうううっ」

「ルイペナ! 諦めるな! 私がなんとかする!」

「あまり時間をかけたくないんですよ。迷っておられるのならば、少し手助けをしてあげましょうか」


 ズズズズッ

 ソブカが剣を少しずつ動かす。


「あぐうっ!!」


 ルイペナの背中に強烈な痛みが走る。筋肉が傷つき、抉られ、中の臓器にまで到達。

 ザクッ ザクザクッ


「ぐううう、ああああ! かはっ…はーー!!」

「ルイペナ!」

「斬ったのは肺です。これくらいならば命に関わりません。といっても医者が本職ではありませんから―――」

「ううううっ! っ…ぁあ!!」


 ズズズッ

 剣がさらに身体を動き回る。その痛みと不快感たるや、武人ではない彼女には相当なものだろう。


「うっかりすると殺してしまうかもしれませんねぇ」


 ソブカの目が冷徹な色を帯びる。

 それは殺すことを知っている目。そうしようと決めた目。

 彼はきっと、なんら迷うことなくルイペナを殺すだろう。そういう人間特有の目の光であった。



「やめるんだ! 私にできることなど、もう何もないのだ! 君は勘違いをしている!」

「いいえ、ありますよ。どうあっても、あなたはジングラスのトップなのです。それは自分で決められるものではありません」

「そんなに欲しいのならば、くれてやる! 私は好きでなったわけではない!!!」


 プライリーラは、吐き捨てるように叫ぶ。

 これはすべて本心。子供の頃からずっと思っていたことである。


「私は一度たりともジングラスの総裁になりたいなどと思ったことはない! そう言ったはずだし、あれは本心だ!! 私は…私は…そんなものに興味はないのだ!! それより私は家族の命を選択する!」

「あなたの責任感とは、その程度のものなのですか? 代々ジングラスが守ってきたものですよ。それをたかが侍女一人と交換するとは、少々無責任では?」

「面倒くさい男だな、君は! 欲しいと言ったから、くれてやろうというのだよ! それよりルイペナのほうが大事だ! 彼女は私の家族だ!!」

「…お嬢…様…」


 プライリーラの嘘偽りない言葉にルイペナが感極まる。

 他人から見れば馬鹿げた答えだが、彼女は本気でそう思っている。


「皮肉ですね…プライリーラ。なんとも皮肉だ。あなたは望まないでジングラスになった。一方の私は、望んでいてもラングラスにはなれなかった。人生は皮肉なものだと思いませんか?」

「そうだ、皮肉だよ。とことん皮肉だ! 嫌になるほどにね! だが、だからどうしたのだ! そんな立場や地位に価値などあるのか!? 大事なのは私たち自身のはずだよ! その中身だ! 本質だ!! それは誰かに決められるものじゃないだろう!!」

「あなたらしい立派な台詞です。やはりあなたは価値ある存在だ」

「ソブカ氏、話を聞け! 私の話を…言葉を聞け!! 君は私の言葉を聞いていないじゃないか!! それで何がわかるというのだ! わかったふりをするな!!」

「聞いていますよ。理解もしている。それでも結果は変わらないだけのことです」

「いいや、聞いていない!! 君は聞いていないんだよ!! そんなこともわからないのか!! わからなくなったのか! 何が君をそうさせたんだ!」

「何が…ですか。さぁ、何が原因だったのでしょうね。この都市が閉塞しているから? がんばっても何も変わらないから? 平等を成し遂げたいから? …いいえ、違いますねぇ。私はね…もともとこういう男なんですよ。そう、あの人と出会った時から、ざわつくんです。ふふふ…ああ、熱いですねぇ。まるで身体の中から力が溢れてくるようですよ!!」



 薄々気付いていた。




―――自分は他人とは違う




 と。


 それを実感したのは、アンシュラオンと出会った時である。

 暴力という手段を清々しいまでに自然に表現している彼を見て、自分の中の【獣】がざわついた。


 初めて【同類】と出会ったことで眠っていたものが目覚めたのだ。


 ソブカ・キブカランという、周囲の存在によって作られた【上っ面】が妙にきつく感じられた。その中にある本当の自分が叫び始めた。

 その衝動は出会った瞬間から毎秒ごとに加速していき、次第に自分でも抑えることが難しくなっていった。

 一度気付いてしまったら、もう後に戻ることはできない。

 この胸の中にある激情を解放せずに終わらせるなど、できないのだ。




 できるわけが―――ない!!




「プライリーラ…うう、プライリーラ! あなたは…あなたを…くくく、私は…手に入れますよ。ジングラスを奪って、手に入れて…! 力を得る!! それで私はラングラスも…手に入れる!! 力づくでラングラスになる!! 次はハングラスを奪い…マングラスを始末する! 害虫や寄生虫にこの都市を任せるわけにはいかない!! ふふふ、ははははははは!! そうだ。それこそが英雄というものだ! この都市はもともと英雄のものなのですから、今一度取り戻さねばならないのですよ…!」

「それが望みならば、そうすればいいだろう! だが、奪うのは私だけにしろ!! 君が欲しいのはジングラスの血だろう!!」

「ああ、血…。そうです、そうなのですよ。血が、すべて血が、私を縛って、あなたを縛って…こんなもののために私は…わたしは―――」




「ワタシハァアアアアアアアアアアアアアア!!!」




 その瞬間、何かが切れたような音がした。

 表面張力でギリギリ耐えていた液体がこぼれるように、自分の中にある激しい感情が、ふいに落ちて、急激に上がってきた。

 一度こぼれたものは、二度と元には戻らない。こぼしたミルクは二度とコップには戻らない。



「お嬢…様っ!!! 今です!」



 ここで一瞬の隙が生まれた。

 覚悟を決めたルイペナが、自ら刃を押し込んで背中ごとソブカに体当たりをする。

 ズブズブズブッ どんっ

 刃はさらに深く突き刺さり、がっしりと固定される。


「はぁっはっ…! 逃げ…て」

「邪魔を…スルナ!!」



 激情のままにソブカが剣を―――振り上げる。



 剣はルイペナの右胸に刺さっていたので、それを振り上げるということは、そのまま右肩ごと切り裂くということだ。

 身体が頑強な武人の戦士ならば、多少は剣の動きを封じ込めることができたかもしれないが、いかんせん彼女は一般人である。

 剣士として修練を積んでいるソブカにとって、その抵抗はまったくの無意味。無駄。無価値であった。


「あっ―――」


 ルイペナの声が漏れたと同時に―――鮮血。



 ブシャーーーーッ



 赤い血が噴き出し、視界が赤に染まった。


「ルイ―――」

「ふんっ!!」


 プライリーラが彼女の名前を呼び終わる前に、アーブスラットは動いていた。

 シュルルッ

 ワイヤーマインが宙を飛び、振り上げたソブカの剣に絡みつく。


(まだ間に合う! ここで武器を破壊できれば!)


 プライリーラがルイペナを助けたいと願うのならば、最大限の努力をするのが執事の務めである。

 本当は彼女ごとソブカを絡め取りたかったが、主人はそれを望まないだろう。

 可能性が1%でもあるのならば賭けてみる価値はある。


 パンパンパンパンパンッ!!


 爆竹のような音を立ててワイヤーマインが爆発。マタゾーの槍にやったように武器と利き手破壊を狙う。


 しかし、1%は1%。


 万馬券など、そう簡単にくるものではない。多くの者がそれを夢見ながら最後は散っていったものだ。

 ソブカが持っている剣は普通のものではない。


 ジュオオオオオオッ バチュンッ


 爆発と同時に剣が激しい熱を発し、瞬時にジュエルを溶かす。爆破術式が完全に起動する前に破壊してしまった。

 それによってソブカは無傷で済む。


(惜しかったですねぇ。直接私を狙わなかったのは、あなたらしからぬ甘さですが…今回は正しい判断でしたよ)


 プライリーラが産まれる前のアーブスラットならば、躊躇なくルイペナごとソブカに巻きつけて殺していただろう。

 だが、彼も年老いた。多くの愛情を受けて、情けを覚えるようになっていた。

 アーブスラットとて同じ主人に仕える仲間を殺したくはない。ルイペナも彼にとっては孫娘のようなものなのだ。

 それと同時にソブカに巻き付けなかったことは、彼の慎重さが直感という形で正解を見つけ出していたからだろう。

 ソブカの着ているローブには『特殊な能力』がある。

 もし直接突っ込んできたりすれば、それこそソブカの思う壺だったに違いない。



 だから、これは必然。


 ズシャアアアアア!!



 振り下ろされた火聯《ひれん》が―――ルイペナを切り裂く。



 斜めに入った剣は右腕を切り落とし、そのまま腹まで一気に切り裂く。



「あっ…あ……お…じょう……さま……もうしわけ……ごぶっ」


 ゴトッ ドロォオ


 倒れたルイペナから、おびただしい量の血液が流れ出る。


 ゴポゴポッ ドロドロッ

 ゴポゴポッ ドロドロッ

 ゴポゴポッ ドロドロッ


 彼女は何度かびくびくと痙攣したあと、そのまま動かなくなった。




 ルイペナが―――死んだ。




 ソブカに殺されたのだ。





「ぁっ…ぁああ…ぺな……るい…ペナ……」


 プライリーラは、ただただ倒れたルイペナを見つめていた。

 自分の家族ともいうべき存在が冷たい地面に倒れている。血を出して動かなくなっている。

 ギロードを失ったばかりの彼女には、その光景はショッキングなものだった。

 そのことをどう受け止めていいのかわからず、心に刃が突き刺さったような痛みが走った。

 そう、ソブカの一撃はルイペナに向けられたのではない。


 これは―――プライリーラへの精神攻撃である。



「どうして…なぜ……なぜぇ……私は…君と歩もうと言ったのに…君のお嫁さんになってもいいと…言った……じゃないか!! そんな私に…ルイペナに……どうし…て……!!」

「ああ、プライリーラ…いいですね、その顔」

「どうして…どうして……どうしてぇええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!」

「あなたは…そんなに綺麗だったんですね。ああ、そうだったのですか。…今初めて、私はあなたの顔を見ましたよ」


 絶叫するプライリーラの顔を見て、ソブカは嬉しそうに笑っていた。


 プライリーラは―――とても綺麗だった。


 ショックを受けて涙をこぼす姿が、輝いて見える。

 民衆が彼女をアイドルと呼ぶのも頷ける。美しく可憐で、まるで花のようだ。今までアイドルに興味などなかったが、これはたしかに美しい。

 今までそのことに気付かなかった。彼女の美しさを知らなかった。

 なぜならばソブカが見ていたのは【プライリーラ・ジングラス】であり、【ただのプライリーラ】ではなかったからだ。


「プライリーラ・ジングラス。それがあなたでした。私にとっては、あなたはジングラスでしかなかった。ですが、今は…そう、ただの…プライリーラなのですねぇ」

「酷い、酷いよぉ、ソブカ氏!! 君は一度たりとも私を見ていなかった! そう言うんだね! 今のこの私に向かって!! 傷ついた私に向かって!!」

「ええ、そうですよ。事実ですからね。いつだって…事実は変えられないのです。それにしてもルイペナさんは素晴らしい死に方でした。花は散る時が一番美しいとは本当ですねぇ。憧れますよ」

「ソブカ氏ぃいいいいいいい!!! 君はっ!!」

「リーラ様!! 失礼いたします!!」

「じ、爺…は、放せ!!」

「冷静になってください! 逃げますぞ!」

「ルイペナが…ルイペナがああああ!」

「彼女は死にました! もう話し合いは終わったのです!」

「っ!!」


 アーブスラットは半狂乱となったプライリーラを強引に連れ出そうとする。

 ルイペナが死んだのならば、もう人質としての利用価値はない。ソブカは自ら交渉道具を捨ててしまったのだ。

 彼女の死はつらいが、プライリーラを守るという意味では好都合でもある。

 本当はまだほかに人質がいるのだが、少なくとも今のプライリーラに他の館の人間を心配する余裕はない。目の前の惨状に気を取られている。

 それを狙っての冷静な行動である。



「さすがはアーブスラットさん。ジングラスの懐刀は伊達ではない。頭の悪い魔獣などよりも、あなたが一番厄介ですよ」


 ソブカが握っていた術符を発動させる。

 それ自体はただの若癒の符だが、それに連動して床や天井に貼られていた何枚もの術符が起動。


 キュイイインッ


 部屋を覆うように結界が生まれた。

 複数の術符で構成する結界術で、『破仰無罫陣《はぎょうむけいじん》』と呼ばれる【封印結界】である。

 特に攻撃性はなく、その場所を隔離するだけのものであるが、閉じ込める力はかなりのものだ。


 部屋から脱出しようとした二人は、結界に激突。妨害される。


 やはりソブカは部屋に仕掛けを施していたのだ。この結界と同時に、彼の周りにも違う結界が展開されている。

 もしプライリーラが激情に任せて突っ込んでいたら捕縛されていた可能性もある。


「この程度で!! ぬんっ!」


 ボオオオオオッ!

 アーブスラットの戦気が燃え上がる。

 それからの拳ラッシュ。


 ドガドガドガドガドガッ

 バリバリバリバリッ バキンッ


 軽々と結界を破壊し、部屋から脱出していった。

 これにはソブカも呆れ顔だ。


「おやおや、なんとも強引な手段で壊しますねぇ。討滅級魔獣でも十秒くらいは押さえ込めるものなのですが…これだから強い武人というのは卑怯なのですよ。それ自体が異質で常識がまるで通用しない。しかし、このまま逃げられるとは思わないことですねぇ。ふふふ、楽しくなってきましたよ」


 ソブカの中の獣が喜んでいる。

 狩りをすることに、自分を表現することに歓喜している。


 この瞬間、もう一匹の獣が解き放たれた。


 プライリーラの獣よりも遙かに凶暴な獣が動き出すのだ。




321話 「絶望のプライリーラ 前編」


 アーブスラットはプライリーラを抱え、魔獣管理部屋に戻る。

 ソブカが追ってこられないように戦気壁を発動。扉を一時的に塞いだ。


「はぁはぁ…」


 アーブスラットの額から汗が流れる。呼吸も荒い。


(たったこれだけの戦気を使っただけで、この疲労か。私のコンディションは相当悪いな)


 アーブスラットは自分のことをよく理解している。

 あの場でソブカを攻撃しても、おそらくはまた術式を発動させて時間を稼いだだろう。

 まだかなりの数の術符が張られているはずなので、一回や二回ならば対応できるが、それが続くと今の状態では非常に厳しくなる。


(すまぬ、ルイペナ。お前を助けられなかった…。だが、その命は無駄にはしない。リーラ様は私が絶対に守る。だから許してくれ)



「リーラ様、ご無事ですか?」

「爺…くうう…私は…ルイペナを……」

「あなた様のせいではございません。あの状況では誰であっても助けられませんでした」

「これほど無力とは…今ほど自己嫌悪した瞬間はないよ」

「泣き言はあとでいくらでも聞きましょう。ですが、今は逃げねばなりません。自分すら守れない人間が他人を守ることなどできませんぞ。しっかりするのです」

「爺は厳しいな…」

「厳しくても生きるのです。生き抜くのです。それがリーラ様の使命です。生きていなければ借りを返すこともできませんぞ」


 プライリーラと違ってアーブスラットは、幾多の死を乗り越えてきている。

 その中には戦友と呼べる者もいたのだ。そういう経験を何度もしてきた彼は、ルイペナの死を一時的に忘却の彼方に追いやることができる。

 そんな老執事の存在が、今はとてもありがたかった。


「わかったよ。もう大丈夫だ。そうだな。ソブカ氏の好きにさせるわけにはいかない。…この借りは必ず返す!」

「その調子です。聖堂のエリアにまで逃げ込めば相手は手を出せません。ここで待っていたのが、その証拠。あそこまで行けば我々は負けません」


 ソブカは聖堂には入れない。ジングラスの血を持つ人間だけの聖域である。

 同じ結界に守られている聖森も同じだ。あそこまで転移してしまえば、どうやっても追うことはできない。

 一往復分の魔力しかないことも幸いである。戻りたくても簡単に戻れないのだから吹っ切れることができるだろう。


「行きましょう! すぐそこです!」

「ああ!」




 二人は聖堂への入り口に向かって走る。

 ここは館の中だ。そこまで広くはない。次々と通路を抜け、あっという間に目的の部屋にまでやってきた。

 相変わらず魔獣たちは眠っている。

 それを見るたびにルイペナの無念が感じられて、アーブスラットの心の中にも強い哀しみと怒りの感情が芽生える。


(ソブカ・キブカラン。やはり危険な男であったか。卑劣とは言わぬよ。これも闘争なれば、いかなる手段をもちいても勝つべきだ。その頭脳は見事だ)


 ソブカのやり方は、たしかに卑劣だ。さまざまな信頼を裏切るし、裏切らせる。

 だが、争い事に正道は存在しない。ルールなどはない。相手を支配するか、相手に支配されるか、その両者しかないのだ。

 この状況を生み出したソブカを褒めるべきだろう。なにせ転移するかどうかを選んだのはこちら側なのだ。読みきったソブカのほうが賢かったのだ。

 あの若さにして、これだけの頭脳戦を仕掛けられることは脅威である。


 だが、それを許すかどうかは、また別の話だ。


(リーラ様を傷つけた罰は与えるぞ。貴様は私が必ず殺す! ルイペナの恨みも晴らしてくれるぞ!)


 やられたからには報復は必要だ。報復があるからこそ均衡が保てる。

 そうしてアーブスラットが復讐を誓うのだが、ソブカの謀略はまだ続いていた。




 聖堂の入り口にあと少しのところで、アーブスラットの前に【二人の敵】が立ち塞がった。




 一人は大剣を持ったベ・ヴェル。

 もう一人は覆面を被ったラーバンサーである。

 彼女たちはアーブスラットがここに来ることがわかっていたように待ち構えていた。


(なにっ!? なぜやつらが…! 波動円に反応はなかったはずだぞ!)


 これには達人のアーブスラットも驚愕。

 触覚で判断するので、波動円で感知できないものは基本的にはない。もし人間が隠れていたらすぐにわかるはずだ。

 しかしながら物事に絶対はない。あらゆることに抜け道は存在するものだ。


「へぇ、本当に気付かなかったみたいだねぇ。術ってのも便利なもんじゃないか」


 ベ・ヴェルが感心した様子で苦笑する。彼女も半信半疑だったのだろう。

 もともと波動円は物体の表面を撫でることによって、それが何かを類推するものである。目隠しをして手で触れるのと同じく、これがなかなかに難しい。

 普通の使い手ならば箱に隠れた人間を探知するのも困難である。表面の箱に意識が向いてしまうのだ。

 しかし、アーブスラットほどになると、その精度がぐっと上昇する。長年の経験によって触覚が研ぎ澄まされているし、形状変化させて細かいところまで探るからだ。


 そんな熟練の手練れに対抗するための術式が存在する。


 荒野でアンシュラオンが隠形を使って隠れていたときにも触れたが、視覚や触覚すら誤魔化す『隠行術』と呼ばれるものだ。

 今回ベ・ヴェルたちが使ったのは『触擬隠体《しょくぎいんたい》』という隠行系結界術の一つで、自分の近くにあるものと気配を同化させる効果がある。

 たとえば岩場に隠れている者がこれを使った場合、波動円で触れても岩の一部と誤認してしまう。

 岩の感触を自分の周囲に展開コーティングしているので、触覚だけでは区別がつかないのだ。

 動いてはいけないという最大の制約があるせいか、その効果はなかなかのものである。


「…くんくん。うえっ、獣臭い…。まったく、魔獣と一緒におねんねするなんて、とんだ災難だったよ」


 ただしそのせいでベ・ヴェルたちは、プライリーラが来るまでの間、ずっと魔獣の寝床に隠れていなければならなかった。

 魔獣の居住スペースには干し草が敷き詰められているので、その中でじっとしていたのだ。

 スナイパーが標的を仕留めるために何日もかけて張り込むのと同じだ。非常に地味で嫌な作業である。

 だが、その苦労は実る。


「苦労した甲斐があって、大きな獲物が釣れたみたいじゃないか! また執事のオジイ様と会えて嬉しいねえ!! こんな子供騙しにも気付かないなんて、らしくないねぇ! あんたもあの坊やにまんまとやられたわけかい! ははは、あたしとお仲間だねぇ!!」


 万全の状態のアーブスラットならば通用したかはわからないが、これも彼が弱っていることが前提となった策である。

 仮に気付かれれば、彼らは途中で引き返していただろう。その場合は仕方がない。まともに二人とやり合うよりはましである。

 その場合、負けていたのはソブカたちのほうだったはずだ。



 だが―――ソブカは勝った。



 読み勝った。

 状況判断能力、分析力に加え、まさに動物的勘によって獲物を狩場に追い込んだのだ。




「私の館で好き勝手やってくれる! 爺、やるか?」

「リーラ様は力の温存を。ここは私が相手をします。隙を見て、聖堂に走ってください」

「無茶をするな! ラーバンサーもいるぞ!」

「ええ、知っております。やつとは同時期に都市にやってきましたからな。まさかこんな場所で相まみえることになるとは、なかなか面白い嗜好です。どう考えても、やつの狙いはリーラ様でしょう。迂闊に近寄らないほうが身のためです」

「たしか捕縛や拘束が得意な武人と聞いたが…」

「総合力では強者ではありませんが、その道のプロではあります。今の弱った我々には面倒な相手です。私が捕まった場合はフォローしてください」

「そうか。わかった。爺も無理はしないでくれよ」

「承知しております」


 そう言ってプライリーラを納得させる。といっても、これは事実でもある。

 アンシュラオンに圧倒されたラーバンサーであるが、この場では最悪の敵となるだろう。

 守りに優れた彼は時間稼ぎが得意だし、何よりも捕縛することに長けている。明らかにプライリーラを捕まえるための人選である。


「弱った相手と戦うのは趣味じゃないけど…これもお仕事なんでね!」


 仕事と言いつつ、彼女はプライリーラを無視して老執事しか見ていなかった。

 馬車内で言われたことをちょっと根に持っているのかもしれないし、単純に強い相手に興味津々なのだろう。

 ベ・ヴェルはアーブスラットに突っ込む。

 相変わらず勢いのある突進であり、そこから繰り出される一撃は豪快だ。


「甘い!」


 アーブスラットは横薙ぎにされた一撃を紙一重でよけ、剣を乗り越えるように跳躍すると、そのまま反撃。

 バキャッ!!

 流れるような蹴りがベ・ヴェルの顔面に直撃。

 この状況で手加減などするわけもないので本気の重い一撃が入り、がくんと身体が沈む。

 が、倒れない。


「つっ…! すごい技量とパワーだね! これで弱っているなんて信じられないよ! 今までのあたしだったら、これで死んでいただろうけどねぇ!!」


 ぺっと折れた歯を吐き出して、ベ・ヴェルは蹴りに耐える。

 アーブスラットは戦気を放出しているので普通の生身ならば耐えられなかったが、今の彼女ならば問題ない。


 ボォオオオオオッ



 ベ・ヴェルの体表からは―――【戦気】が出ていた。



 それが肉体を何倍にも強化しているのだ。今の彼女は、まさに武人である。

 彼女には、アンシュラオンがルアンにも提供した強化アンプルである『凛倣過《りんほうか》』が投与されている。

 それによって生体磁気が活性化して、彼女も戦気を放出できるようになったのだ。


 だが、仮に戦気を放出していたとしても、アーブスラットほどの武人の蹴りには耐えられないだろう。

 なにせベ・ヴェルは、アンシュラオンにサリータと同レベルと判断されたくらいだ。それが普通の強化薬程度で、これほどまでに強くなるわけがない。

 それゆえに、これまたルアンにも与えられた各種危険薬物を多量投与しており、筋力増強、反射神経強化等々、かなり危ないことをやっている。

 アンシュラオンには提供していないさらに強い秘薬もあるので、ベ・ヴェルの戦闘力は五倍から十倍近くに引き上げられていると思っていいだろう。


 ただし、これだけの効果があるのだ。代償は大きい。


(たかが寿命が縮むくらい、たいしたことはないねぇ。それで強くなれるのならさ!!)


 強さが第一基準である武人にとって、いかなる手段をもちいても強くなるべきである。そうでなければ存在価値がまったくない。

 ルアンが死を覚悟で薬物に手を染めるように、アーブスラットが細胞操作で老化が早まるように、力を手に入れるためには代償が必要だ。

 ベ・ヴェルもまた命を対価として強くなることを欲している。それをソブカが与えてくれるのならば、どんな仕事だってこなす。

 それが彼女の傭兵としての覚悟である。



 そして、ベ・ヴェルが体勢を整えている間にラーバンサーが迫る。

 防御型の彼であるが相手を仕留めるために攻撃を優先し、全速力でプライリーラに向かっていく。

 なぜかベ・ヴェルがアーブスラットに向かっていったので、それならば幸いと自分は本来の役割を果たすことを優先したのだ。


「やはり狙いは私か! 一人で来るとは甘く見られたものだな!! はっ!!」


 プライリーラは修殺を放って迎撃。

 大気を押し出す強力な拳圧がラーバンサーに迫るが―――


 ぶしゅんっ


 霧散。

 スキル『低級技無効化』の効果である。


「なにっ!? 私の修殺が効かない…だと!?」


 プライリーラがラーバンサーのこのスキルを見たのは初めてだ。

 『低級技無効化』は任意発動なので、自分の意思で使うかどうかを決められる。

 ラーバンサーは普段、この能力をあまり使わない。彼自身が一般ではそれなりに強い武人であることもあり、使わずとも対応できてしまうのだ。

 だからこれは【奥の手】。

 アンシュラオンやプライリーラのような、他と一線を画した相手と戦うときのための隠し玉なのである。

 アンシュラオンでも驚いたのだ。プライリーラが驚くのも当然だろう。


 ラーバンサーはダメージも反動も受けずに修殺を相殺し、一切速度を緩めずにプライリーラに突進。

 プライリーラは攻撃をやめて回避に専念。アーブスラットに言われた通り、迂闊に近寄らないことにしたのだ。

 しかし、まさか攻撃が掻き消されるとは思わなかった彼女は、一瞬だけ動きが鈍ってしまった。疲労の蓄積によっていつもの動きではなかったのだ。


 シュルルッ がしっ


 その一瞬の隙を狙ってラーバンサーが布を放出。

 布がプライリーラの左腕にがっしりと絡まる。


「くっ!! なんだこの布は! 切れない!」


 プライリーラは右手に戦刃を出して布を引きちぎろうとするが、思った以上に強固であった。

 繊維というものは筋に沿って刃を入れれば簡単に切れるが、それ以外の方向からは異常な強度を誇るものである。

 ラーバンサーは繊維の弱点をカバーするため、自身の戦気の大半を布にまとわせて厳重に補強している。


 そのうえラーバンサーも幾多の強化薬を使用していた。


 まだ未熟なベ・ヴェルと違って限界までレベルを上げているので上昇値は低いが、アンシュラオンと戦ったときと比べて三倍近い出力を出していると思っていいだろう。

 彼の防御は「C」だったので、単純に計算しても900の性能、防御「AA」に近い力を出しているのだ。

 これくらいになると、いくらプライリーラでも簡単に切れるものではない。


 そして、アンシュラオンとの戦いのときは布で巻きつけることすら許されなかったが、彼の本領はここからだ。

 ラーバンサーが隠されていた両手を開くと、掌から無数の針が出現する。

 ドロリ

 さらにその尖端には紫色の液体が塗られていた。


(見るからに色が悪い。毒か何かか!?)


 プライリーラも一目でそれが危ないものだとわかる。

 ハンベエの戦いを見ればすぐにわかるが、毒は人間にとって非常に怖ろしいものだ。

 相手は自分を殺すつもりがないので、おそらくは麻痺毒あたりだと思われる。

 医療品を担当するキブカ商会ならば、そういった薬品は簡単に仕入れることができるだろう。改めて彼らの危険性を認識する瞬間だ。


 ラーバンサーが針を剥き出しにして襲いかかる。


 すでに布で間合いが限定されているのでプライリーラはかわせない。

 彼女は毒耐性を持っていない。一本や二本程度ならば浄化できるだろうが、何十本も刺されると危険だ。


(仕方ない! カウンターで拳を合わせる!)



 プライリーラがダメージ覚悟で右手に力を溜めた瞬間―――視界にアーブスラットが見えた。



「やらせん!!」

「―――っ!」


 すでに攻撃態勢に入っていたラーバンサーは、その横槍をよけられなかった。


 バギャッッッ!!!


 強烈な蹴りが横からラーバンサーの肩に叩きつけられる。

 技を使っていないので、この攻撃は通る。吹っ飛ばされたラーバンサーは、そのまま壁に激突。

 ただ、布はプライリーラに絡まっているので、彼女も引っ張られる。


「お前の布は物理には強い。だが、術式ならば!」


 アーブスラットは水刃砲の術符を取り出すと、布に発動。


 ズシャーーーー ズバッ


 プライリーラを絡め取っていた布が切れて、腕が自由になる。




322話 「絶望のプライリーラ 中編」


「爺、助かった! また助けられるとは…いや、これはアンシュラオンに助けられたのか? やはり…愛なのでは?」


 プライリーラが何か言っているが、この水刃砲の術符はアンシュラオンからもらったものであるので、たしかに助けられたことには違いない。


「そんなことを言っている暇はありませんぞ! やつは私が!」


 布を切ったアーブスラットは追撃を開始。

 不利な体勢のラーバンサーを追い込んで拳のラッシュ。


「うおおおおおおお!!」


 ドドドドドドッ

 問答無用で顔面、腹、腕、ところかまわずに殴りつける。そのたびにラーバンサーが揺れる。


(ラーバンサーに技が通じないという噂もあったが…事実とはな。だが、通常攻撃は通るらしい。ならば手数で押し切る!)


 アーブスラットもラーバンサーのスキルの詳細情報を知っていたわけではないが、長年グラス・ギースで同業者をやっていた相手だ。

 いろいろな噂もあったし、自分も含めて武人は特殊な能力を隠し持つことが当たり前である。何かあるとは思っていた。

 それがプライリーラの修殺を相殺したのを見て、確信に変わる。そこで通常打撃の連打を繰り出したのだ。


 ラーバンサーは布を厚くして防御に徹する。強化されていてもアーブスラットの拳を直接受ければ危険である。

 地味に針を布の裏に忍ばせる等の小技もやってくるので、なかなかイヤらしい戦い方をするものだ。

 ともかくこうして、一番厄介であろうラーバンサーの動きを封じることには成功する。


 しかし、敵は一人ではない。



「もらったよ!!」


 そこに再びベ・ヴェルが突っ込んできた。

 大剣を抱えたまま跳躍。全身の力を振り絞って剣を引き、アーブスラットの背中に渾身の一撃を叩き込もうとする。


「爺っ!! 今度は私が助ける!」


 即座にプライリーラがカバー。両手で防御の態勢になり、攻撃を受け止める。


 ドッガーーーーーーーンッ!!


「ぐううううっ!!」


 メキメキィッ!!

 凄まじい圧力がプライリーラの腕を襲い、骨が軋む音が聴こえる。

 バキィンッ

 その衝撃に耐えきれず、床のほうが先に壊れるほどだ。


(なんという重い一撃だ…!! 彼女はそこまでのレベルには見えなかったが…この剣のせいか!?)


 まるで高所から巨大な岩でも落ちてきたような圧力である。大型魔獣に殴られたかと思ったくらいだ。


 プライリーラの見立て通り―――これは武具の力。


 『暴剣グルングルム』。それがベ・ヴェルが持っている大剣の名前であり、Bランク術具に指定されている術式武具だ。

 ほとんど装飾がないやたら無骨な外見をしており、刃もあるのかどうかもわからないほどに潰れているので、はっきり言えばナマクラである。これで木を切ろうとすれば相当苦労するだろう。

 だが、この大剣にとっては、それはどうでもいいことだ。


 グルングルムの能力は―――【重量変化】。


 この剣は斬るというより、【叩き潰す】ことを目的として造られている。

 軽いピコピコハンマーより鋼鉄のハンマーのほうが強いように、攻撃の威力は重さに比例する。

 もっと単純に言えば、【重さと速度】が重要である。

 交通事故があれだけ脅威なのは、あの速度で重い車が突っ込んでくるからだ。止まっていれば、ぶつかった程度では怪我はあまりしないだろう。

 能力発動のタイミングは自分で制御できるので、振り下ろすまでは通常の重さにしておき、重力の軌道に乗った瞬間に重くすることで威力が数十倍にまで引き上げられる。

 もともと大振りな重金属剣のため、何もしないでも二十キロくらいの重さがあるが、重力変化によって三百キロを超える重さになる。

 それが高速で落ちてくるのだから、トラクターくらいならば簡単に圧砕してしまうパワーがあるだろう。


 また、この剣を防御に使うと、こうなる。


「うおおおっ!!」


 ドンッ!!

 プライリーラの反撃の蹴りがベ・ヴェルに炸裂。

 だが、重くした暴剣を盾にしたため、弾かれたのはプライリーラのほうだった。

 まるで壁を蹴ったような反動が跳ね返ってくる。

 それでもベ・ヴェルの腕が痺れて後退を余儀なくされたので、プライリーラの一撃も相当な重さであったことがうかがえる。


「ちぃっ! 馬鹿力が…! こっちも化け物かい!!」


 まともにやりあったら暴剣を使っても太刀打ちできないレベルなのは間違いない。

 改めて戦獣乙女の怖ろしさを知るのであった。




(くっ…この程度の武人に苦戦するとは! 無手ではきついか!)


 プライリーラは素手の戦士としても優れた武人であるが、『暴風の戦乙女』を使うことに慣れてしまっていた。

 槍がない。鎧がない。それがなんと心細いことか。そうした不安が動きをさらに悪くさせていく。

 素の実力で遙かに勝るはずのベ・ヴェルに対しても、相手が術具で武装していると苦戦してしまうのだ。それが悔しくてならない。

 何よりも彼女の主戦場は屋外であり、空であった。魔獣管理部屋はかなり広いものの大空と比べることはできない。


 まさに籠の中の鳥だ。


 自由に羽ばたくことができず、地面を這いずることしかできない状況ならば、実力の半分程度も発揮できないのは当然のことだろう。

 これも待ち伏せの効果。プライリーラの長所を知っているソブカだからこそ弱点も知っているのだ。


(だが、私は負けない! 負けてはいけないのだ…!)


 立て続けに起こった惨事で精神はかなり疲弊していた。今すぐ泣き崩れてしまいたくなる。

 いつからこんな泣き虫になったのだろう。アンシュラオンに敗れて女としての自分が表に出てきたせいだろうか。

 しかし、ジングラスの血が、誇り高き武人の血がそれを許さない。泣いている暇があれば戦えと身体の奥底が熱くなる。

 それはアーブスラットが与えてくれた力であった。彼の諦めない不屈の闘志、そして倒れたルイペナの想いが彼女を動かす。


「はぁあああああああ!!」


 プライリーラが全力で練気。巨大な戦気を練り上げる。

 いまだ身体はだるくて重いが、ここで踏ん張らねばいつ踏ん張るのか。渾身の力をもって練り出す。


「おとなしく捕まっておきな!! そのほうが身のためだよ!」

「私は負けぬ!! ソブカ氏に加担したことを後悔するといい!」

「これだから箱入り娘のお嬢様はさぁああああああ!」

「大振りすぎるぞ! そんなものは二度もくらわない!!」


 ブーーンッ ドガーーーンッッ

 バキャバキャッ

 ベ・ヴェルの暴剣はプライリーラにいなされ、床に激突。その重みで地震のような衝撃が走るが、それでも体勢を崩さない。

 プライリーラはプライドも高いが、その才能に見合うだけの努力もしている。鍛練によって強くなった武人の力は、武具や薬で強くなった者を凌駕する。


「はああああ!!」


 ドンッ ギュンッ

 プライリーラが加速。マキと同じ直線の動きで一気に懐に潜り込む。

 ただし、風気をまとっているので、その動きはマキよりも数段速い。

 そこから拳の連打。


 ギュウウウンッ ドガドガドガドガドガドガッ!!!

 ドガドガドガドガドガドガッ!!!

 ドガドガドガドガドガドガッ!!!


 攻撃が止まらない。次から次へと高速の拳が襲いかかり、ベ・ヴェルをボコボコにしていく。

 メキョメキョッ ボギボギィッ


「ごふっ!! ぶはっ―――!!」


 拳を全部受けきる前にベ・ヴェルの肉体のほうが耐えきれず、吹き飛ぶ。


 覇王技、青雲烈風拳《せいうんれっぷうけん》。

 因子レベル3の打撃技で、マキが使った紅蓮裂火撃の風属性バージョンだと思えばいいだろうか。

 マキのほうは攻撃特化の爆発を伴うものに対して、風属性のこちらは速度を極限までに高めた連撃である。

 打撃と同時に風気も叩き込むので、ベ・ヴェルが着ている鎧にも斬撃のような痕跡が残っていた。

 打撃のダメージで骨が何本か折れ、風撃によって肌や肉が切り刻まれる。なかなか強力な技である。

 プライリーラはアーブスラットの弟子でもあるので、マキと同じ訓練も受けている。武器がなくても、こういう戦いもできるのだ。


「ったく、…お嬢様は…やんちゃだねぇ。ごぼっ…でも、まだまだ…!」


 これにもベ・ヴェルは耐え、血を吐き出しながらも立ち上がる。

 この鎧も術具であり、ダメージを二割カットするという強力な術式が組み込まれている。それによってかろうじて助かったようだ。

 さらに用意されていた数十枚の若癒の術符が自動起動し、彼女の身体を癒していく。

 こうした同じ術の連続使用は非常に危険なのだが、そんなリスクすら受け入れる彼女は、思った以上にしぶとい。




 このように戦いは続いているが、地力の差は明白であった。


 やはりプライリーラたちは―――強かった。


 はっきり言えば、強化したベ・ヴェルでも力不足である。キブカ商会のエースであるラーバンサーでさえ、弱ったアーブスラットに苦戦している。

 それも仕方ない。この二人はジングラスの最高戦力なのだ。もっと言えば都市最強クラスである。弱っていても簡単な相手ではない。

 しかしベ・ヴェルたちは、自分たちだけで勝とうとはしていない。最初から持久戦を覚悟のうえで準備している。



 そして、徐々にその効果が表れる。



 プライリーラの身体から大量の汗が滲み始め、呼吸が荒くなる。


(はぁはぁ…!! くっ! 息が…体力が…もたない。弱っているうえに武器もない状態では厳しい。こちらは戦う準備がまったくできていないが、相手は万全かつ待ち伏せだ。このままでは圧倒的に不利だ!)


 アーブスラットもかなり疲弊しているが、自分の体力も完全に回復はしていない。この程度の技で息が上がってしまう。

 自分が着ているものは、単なる洋服だ。鎧でもないし衝撃緩衝材でもない。一般女性が気軽に買い物に行くときに着るような布の集まりでしかない。

 このままベ・ヴェルの攻撃を受け続けたら危険だ。まぐれ当たりでもクリーンヒットすれば、その段階でノックアウトされるかもしれない。

 これ以上の戦闘は極めて不利である。


「リーラ様、聖堂に走ってください!」


 ラーバンサーを押さえながらアーブスラットが叫ぶ。


「ルイペナがあそこまでの覚悟を見せたのです。私もとうに覚悟は決まっております! 私が盾になりますから、その間に脱出を!」

「置いてはいけない! 爺まで失ったら私はどうすればいいのだ!」

「リーラ様は生きねばなりません! それが我々の総意なのです!」

「生き残って…生き残ってどうする! 私はまた…家族を失うのか…!」


 プライリーラは動けない。

 この短時間にショックなことがありすぎて、一番頼りにしているアーブスラットに対する依存がさらに強くなっている。

 それは老執事にとっては嬉しいことでも、現状ではよろしくない傾向だ。


「あなた様には、まだやるべきことがある! 生き残ること、それが重要なのです! その意味は生き残ってから考えても十分に間に合います!!」


 ゴゴゴゴゴッ

 アーブスラットの気質が変わっていく。身体中の細胞が活性化して力を生み出していく。

 彼のユニークスキル『寿命戦闘力転化』を発動させたのだ。これを使えば、この状況を打開できる。


「ぐっ―――!! ごほっごほっ!!」


 ゴボッ びちゃっびちゃっ

 だが、身体の中はとっくにボロボロ。咳をするたびに黒い血を吐き出す。

 細胞操作をするたびに激痛が走る。細胞が傷みきって、もはや痛みすら調整できないまでに弱っている。

 それでも彼は続ける。力を引き出し続ける。同じ白髪であっても、さらに精気が抜けた煤けた色合いになっていく。


「爺! 無茶をするな!! 死んでしまうぞ!!」

「武人たるもの、死を怖れません!! はぁあああ!!」


 ドゴッーーーー!!!


 アーブスラットの強烈なボディーブローが、ラーバンサーの腹を抉る。


「っ…ごぼっ…」


 ラーバンサーの覆面が血で染まる。防御特化の彼であっても今の攻撃には耐えられない。

 しかしながら、彼とて生半可な気持ちで戦っているわけではない。


「やら…せん! 若の夢のために…!」


 シュルルッ ギュウウウッ!

 今まで以上の戦気で強化された布が、アーブスラットの身体に絡みつく。

 ラーバンサーもまたキブカ商会に拾われて恩義を感じている男だ。それと同時にソブカの才覚も知っているので、彼の理想の手助けをしたいと思っている。

 その溢れる想いが戦気となって伝わってくる。そのたびに布の力が強くなる。

 意思の強さは現実の力となる。それがこの世界のルールであった。


(立場こそ違えど、お前も私と境遇は同じ。だが、すべてを犠牲にしてもリーラ様だけは守る!)



「うおおお…おおおおおおおお!!」



 グググググッ ビリッビリビリッ

 繊維は切れにくい、と言ったばかりであるが、それ以上の力を加えれば破れるのは道理である。

 アーブスラットは肉体を活性化させることで強引に布を引きちぎる。


「やらせないよ! くたばりな!!」


 そこにベ・ヴェルが追い討ちをかける。布を破ろうとしているアーブスラットに暴剣を叩きつけようと振りかぶる。


「爺はやらせん!!」


 それをプライリーラが阻止。ベ・ヴェルに殴りかかる。

 バゴーーーンッ メキッ

 ベ・ヴェルは暴剣の重さを最大にしてガードするが、表面が窪んでしまった。恐るべき腕力である。


「ちっ!! まだ動けるのかい!」

「お前たちになど負けぬ!! ジングラスを侮るな!!」

「リーラ様、私のことはよいのです! 早く!!」

「無理だ! 置いてはいけない!!」

「リーラ様…!!」

「駄目だ駄目だ駄目だ!! 私にはできない!!」


 何度も何度も何度もアーブスラットは促すが、プライリーラは受け入れられない。


 これがプライリーラの―――【弱さ】。


 アンシュラオンがずっと危惧していた彼女の弱点である。

 サナは戦罪者を見捨てることができた。だから生き残った。だが、プライリーラにはできない。


 そこにはまだ【甘え】があるからだ。


 耳当たりの良い物語では、こんなときでも救いが訪れるものだ。

 何か超常的な力やご都合主義によって、どんな困難でも切り抜けてしまう。

 だが、そんなものは所詮空想の物語。人々の願望が生み出した夢想にすぎないのだ。



 ボシュッ がちゃっ



「その状態でまだ抵抗できるとは…あなた方は怖ろしいですね」

「ソブカ氏!!」


 扉が開き、ソブカがやってきた。

 アーブスラットがユニークスキルを発動させたので、戦気壁を維持できなくなったのだ。

 そして、すでに彼の周りには、術式武具で武装した強力傭兵たちが十人以上集まっていた。

 ベ・ヴェルでさえ薬と武具を使えばここまで強くなれるのだ。この数の増援は非常にまずい流れである。

 しかも、そこにはよく見知った男性もいる。


「ハウーロ!」

「お、お嬢様…! わ、私のことは気にせずに逃げてください!!」


 連れてこられたのは、使用人の一人であるハウーロであった。

 後ろ手に縛られ、背中には再びソブカの剣が突きつけられている。

 彼は見るからに青ざめており、死人のように顔色が悪い。おそらくはルイペナの死体を見たのだろう。

 覚悟はできていても、いざ自分の番となると怯えてしまうものだ。それが普通の人間の神経というものだろう。無理もないことである。

 だが、ジングラス内部の結束は固い。シミトテッカーのように身内を裏切るようなことはしない。彼もまた死ぬ覚悟を決めていた。

 皮肉なことに、そんな忠義に厚い彼らだからこそプライリーラにとっては重荷になってしまうのであった。




323話 「絶望のプライリーラ 後編」


「さて、プライリーラ。次はハウーロさんですよ。どうしますか? また見捨てますか?」

「くっ…汚いぞ、ソブカ氏! また人質か!」

「汚い、ですか。私からすれば血や慣習で新しいものを受け入れない者たちこそ卑怯だと思いますがね。グラス・マンサーは数の暴力で真実の声を押しのけてきた。変革を拒んできた。それこそ卑劣ではないのですか?」

「だから言っているだろう! 私の声を聴くんだ!! そんなことを訊いているんじゃない! 私と向き合え!」

「どうやらショックからは復活したようですね。それでこそプライリーラです。しかし私は、さきほどのあなたのほうが好きですよ。また泣き叫んでみますか?」

「待て! やめろ!!」


 ズバッ ブシャッ

 制止の声もむなしく、ソブカの剣がハウーロの背中を切り裂く。

 肌と肉が切られ、血があふれ出す。


「うっ…お嬢様…! かまわずに…! 私たちは…いいんです! 逃げて…ください…!」

「健気ですね。その忠義は見事ですよ。ならば全身で表現して、その熱い情熱を彼女に伝えてあげてください」


 切り裂いたハウーロの背中の傷口にソブカが何かを押し込み、前に蹴り出す。

 ドンッ

 蹴られた勢いで前につんのめりながら、よたよたと歩くハウーロ。


「ハウーロ、今助ける!」

「お嬢…様! 来てはいけません!!」

「なにっ―――」

「今までありがとうございました…あなた様こそ私たちの…希望―――」





―――爆発





 ボーーーーーーーンッ




 バシャバシャッ ぐちゃっ ドスン


 ハウーロの身体が爆発し、粉々に砕け散る。

 特に胴体の損壊が酷く、四肢が吹き飛ぶかのように爆死した。



 ソブカが体内に入れたのは―――大納魔射津。



 ヤドイガニでさえ身体の中で爆発すれば死亡するようなものなのだ。

 人間、それもただの使用人の彼の中で爆発すれば、一発でお陀仏である。






「うう…うううう!! ううううおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!! ソブカ氏ぃいいいいいいい…!! 君という男は…男はぁああああああああああああ!! どこまでえええええええええええ!!」






 プライリーラが―――咆えた。


 ビリビリとした怒気が戦気となって周囲を圧迫する。

 その姿は、まるで全身の毛を逆立てた獣であった。



「ああ、よかった。完全に喰われたわけではなかったのですね。その姿こそ戦獣乙女に相応しいものです」

「ソブカ氏! 君はやってはいけないことをしたな!! 血は血で贖《あがな》うしかない!! 君を殺して仇討ちとする!!」

「おや、ホワイトさんもあなたを滅茶苦茶にしたのでしょう? 彼と私とでは随分と扱いが違うのですね。少し嫉妬してしまいますよ」

「彼は君とは違う!!」

「そうでしょうか? あの人の怖さを知らないだけではありませんかねぇ。彼が本気で暴力性を発揮したら、この都市の人間なんて一瞬で皆殺しですよ。それと比べれば私などは小物にすぎません。それとも、それがあなたの言う愛なのでしょうか。それならば仕方ありませんねぇ。女性は情で目が曇るものですから」

「問答は無用!! うおおおおおおお!!!」


 怒り狂ったプライリーラは、一気にソブカへと向かって走り、立ち塞がった護衛を力づくで殴り飛ばす。

 護衛の傭兵も術具の盾で防御したはずだが、盾ごと殴りつけ、壁に叩きつける。

 盾は凹み、衝撃で骨が折れるほどの強烈な一撃である。

 次に来た傭兵も獣のように殴りつけて無力化し、そのままソブカに一直線に向かっていく。


「ふふふ、プライリーラ。さあ、こっちですよ」

「ソブカ氏ぃいいいいいいい!!!」

「リーラ様、なりません! 挑発です!」

「じいさんの相手はこっちだよ!」

「雑魚はどいていろ!!!」


 バチィーーーーンッ ビリビリッ

 アーブスラットは布の拘束を完全に解くと、ラーバンサーを吹き飛ばす。

 さらにベ・ヴェルが迫ってきたところにカウンターの一撃。

 覇王技、羅刹を叩き込む。

 ドガシャッ ズブウウッ

 高速の貫手は彼女の鎧を貫通し、その腹に突き刺さる。耐力壁などの防御術式が発動していたが、それでも防げなかった。


「ぐふっ…ちくしょう! 滅茶苦茶強いじゃないか…だけど…まだ…!」


 ベ・ヴェルが若癒の術符で回復。

 この連続使用も寿命を縮める行為だが、刹那の強さを求める者にそんな助言は必要ない。


「仮初めの力に頼っても強くはなれない。そう言ったはずだ!」


 ゴボボッ

 ここでアーブスラットが『死痕拳』を発動させる。ベ・ヴェルの腹の中に増殖するガン細胞を注入する。


「っ…やばい!!」


 ベ・ヴェルは直感で、それが非常に危険なものであることを理解する。

 これは昔の経験が生きた現象だ。

 彼女はクラゲ騎士に対して激しい嫌悪感を示していた。その元凶となった変な魔獣に刺されたトラウマが蘇ったのだ。

 あの時も体内に何かを植えつけられそうになった。その魔獣は寄生型で、卵を他の生物に植え付けて孵化《ふか》させる性質を持っていた。

 そういうものに対処する方法は一つ。



 腹を―――焼く。



 ベ・ヴェルは、よろよろとアーブスラットから離れたあと、すぐさま鎧を脱いで自らの腹に術符を押し当てる。


 火痰煩の術式が起動―――爆炎。


 ボジュウウウウウウッ

 ねっとりと絡みついた炎が腹を焼いていく。


「ぎゃぁああああああああああああああ!!」


 自らの術符で自らを焼く。

 実に不毛だが、族長の治療を受けた際も容赦なく焼かれたので、これが寄生に対する正しい伝統的対処方法なのだろう。

 まだ身体の奥に入りきる前ならば、これが一番楽である。凄まじく痛いのを除けば、であるが。


「はーーーはーーーー! うううって…ちくしょう……!」


 こうなればベ・ヴェルも立ってはいられない。そのままうずくまってしまった。



 しかし、時間稼ぎはできた。


 すでにプライリーラはソブカに肉薄している。


「ソブカ氏ぃいいいいいいいいいい!!」

「そうですよ。プライリーラ。私はここです!」

「君は、君はぁああああああ!! 私が殺すぅううう!! 死ねぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」


 ソブカが両手を開いてプライリーラを待ち受ける。

 弱っていても戦闘能力ではプライリーラのほうが上だ。このまま拳の攻撃を受ければ死ぬ可能性が高い。


 だが、ソブカという男が真正面から敵とやり合うわけがない。


 あっさりとハウーロを殺したのもプライリーラを激怒させ、こちらに真っ直ぐに向かわせるためである。



「うおおおおおおおおおおおおお!!」



 プライリーラの拳がソブカに当たろうとしたその瞬間―――彼女の視界の端に人影が映った。






 その人物が―――雷撃。






 ズドオオオオオーーーンッ



 雷貫惇の術符が発動し―――貫く。


 稲妻はプライリーラの左肩から入り、右肩を貫通。雷撃が彼女の体内を蹂躙する。


 バチバチバチバチッ ドサッ


 プライリーラは感電して、その場で転倒。

 肩は黒ずんでおり、ブスブスと肉が焼けた嫌な臭いが立ち込める。



「がふっ…ぐふっ……ぐうう……、ふぁれ……あすティィイイ」



 プライリーラは、自分を撃った人物を見つめる。



 そこには―――ファレアスティがいた。



 彼女も『触擬隠体』の術で隠れていた。

 そして、プライリーラが激高してソブカに突っかかるまで待っていたのだ。

 最初にベ・ヴェルとラーバンサーだけが出たのは、隠れていたのが二人だけだと錯覚させるためである。

 急いでいた彼女たちは注意力が欠けており、まさかもう一人隠れているとは思わなかっただろう。

 ファレアスティはこの一瞬のためだけに配置されていたので、仮にベ・ヴェルやラーバンサーが死んだとしても助けに入ることはない。


 【仲間を見捨てる覚悟】があったかどうか。


 それだけ本気で成し遂げる意思があったかどうか。それがこの勝負の分かれ目となったのだ。



 ファレアスティは、倒れたプライリーラに青い剣を突きつける。


「プライリーラ様、動かないほうがよろしいでしょう。雷貫惇の術符が貫通しています。いくらあなたでも無理をしたら命に関わります」

「命が…なんだという…のだ。私は…私は…遊びで…生きてきたわけでは…ないよ!」

「はい。知っています。あなたは人間的にも尊敬できる人です。このようなところで蹂躙される御方ではありません。ですが、勝ったのは我々です。負けた側はおとなしく従ったほうが身のためです」

「君は…なぜ……君ならば、止められたのに…! どうして…!!」

「私はソブカ様の味方です。…何があっても、仮にすべての者がソブカ様を否定しても私だけは味方なのです。そんなことは、あなたにもわかっていたはずです」


 ファレアスティの目は、まともだった。正常で正気だった。

 そのうえでなお、彼女はソブカの味方になると決めているのだ。彼がどんな酷いことをしても受け入れ、けっして見捨てないと決めている。


「…ファレアスティ……残念だ」

「…私もです」


 その想いを感じ取ったプライリーラが、力なくうな垂れる。

 もうけっしてわかり合うことはないのだと悟ったのだ。

 両者は生まれた瞬間から交わることはなかった。哀しいことに、これが現実であった。




「さて、これで終わりですね。アーブスラットさん、そろそろ終わりにしませんかねぇ」

「くっ…リーラ様…!」

「いくらあなたでも、この状況では勝てませんよ。そこからここまで来る間に私は彼女を殺せます」

「貴様に殺せるのか?」

「ええ、殺せますよ。あなたに殺されてすべてが無に帰すよりは、部品として彼女を利用するほうを選びます。その証拠を見せましょうか?」

「うぐうっ!」


 ブスッ ズブブッ

 ソブカが火聯で、プライリーラの背中を刺す。

 軽く突き刺しただけなので少し血が出た程度だが、このまま刺し殺すことも可能だ。


「この剣は斬った相手を焼き殺すことができます。あなたが抵抗すれば、すぐにでも力を発動させますよ。いくら彼女でも体内を焼かれれば無事では済まないでしょう?」


 アーブスラットの前には傭兵たちが立ち塞がる。

 彼らを蹴散らして到達するまでにプライリーラは死んでしまうだろう。


(あの目、本当に殺す気か。それでもかまわない、ということか…)


 ソブカの目は、妙な熱気を宿していた。

 冷たい目でも困るが、こういった目を持っている人間はもっと厄介だ。殺すことを楽しめるような人間であり、【狂気】を宿した者だからだ。

 だからアーブスラットも覚悟を見せる。


「お前のような危険な男にリーラ様の運命を託すくらいならば、刺し違えてでも終わらせる」

「プライリーラが死にますよ?」

「お前に弄ばれるよりはましだろう。それが主人の願いならば、運命を共にすることも辞さぬっ!!」


 ゴゴゴゴゴゴッ

 アーブスラットの戦気が激しく燃えるたびに部屋が揺れる。

 力を使うごとに死期が近づくのを感じるが、そんなことにかまっている余裕はない。もはや長くない命だ。ここで燃え尽きても悔いはない。


 何よりも―――ソブカは危険だ。


 手段を選ばないだけならばまだしも、その奥底には破壊的な激情と狂気が宿っている。

 もし力を持ったソブカが暴走するようならば、グマシカ以上の脅威になる可能性すらある。

 そんな存在にジングラスを、プライリーラを任せられるわけがない。ここで相打ちでもいいから始末しておかねばならないだろう。

 死痕拳ならば一突きで殺すことが可能である。ベ・ヴェルは自分を焼くことで耐えたようだが、手を離さずに細胞を送り続ければ防ぐことは難しいはずだ。



 ぞわり、とアーブスラットの気配が変わる。



「若、気をつけろ。この男は…本気だ」


 ぼそっとラーバンサーがソブカに忠告する。

 彼が言葉を発するほどなのだ。よほどの事態である。


「ラーバンサーの言う通りだ。こちらの言葉は嘘ではない。私もリーラ様も死ぬが、お前たちも死ぬ」

「…どうやら本気のようですね。このまま穏便に終わりたかったのですが…まさかここまで破滅的な選択をするとはね。本当にあなたはブレないですねぇ。いつだって主人第一だ。まるで忠犬ですよ」

「褒め言葉として受け取っておく。…今すぐにリーラ様を解放しろ。それが条件だ」

「ほぅ、自分も見逃せとは言わないのですね」

「そう言えば条件を呑むのか?」

「さすがにあなたを逃がすわけにはいきません」

「その言葉を聞く限り、私のほうがリーラ様よりも上の評価のようだな」

「ええ、その通りです。ジングラスにおいて、あなたほど厄介な人間はいない。本当はあなたの力も欲しかったのですが…その様子では無理でしょうねぇ」

「当然だ。私が従うのはリーラ様のみ。お前には死んでも従わない。さあ、どうする。リーラ様を解放するか、ここで私とともに死ぬか。選べ」

「………」


 相手が死を受け入れてしまえば、あらゆる脅しが無効になる。

 自爆、玉砕、共倒れ。

 アーブスラットの選択はこの世で一番愚かであろうが、同時にソブカにとっては一番怖ろしいものである。

 お互いに死ねば誰も得をしない。マングラスが笑うだけだ。それだけは絶対に認めるわけにはいかない。


「確認しますが、その聖堂の先はジングラスの聖域に繋がっているのですね?」

「そうだ。リーラ様以外は入れない」

「なるほど。やはりそうですか…」




 ソブカはしばし思案し―――決める。




 あまり好ましくはないが、こうした状況も考えてはいたので決断は早かった。



「いいでしょう。プライリーラは解放しましょう。ただし条件があります。プライリーラにはジングラスの聖域からは出ないようにしていただきましょう。けっして都市には戻ってこないようにしてください。うろうろされると困りますからねぇ。その保険として、あなたには人質になってもらいますよ。力が戻ったプライリーラが私を殺しにくるかもしれませんしね。それがこちらの条件です。どうでしょう? 悪い条件ではないはずですよ」

「お前が約束を守るのならば、だがな」

「信用がありませんねぇ。まあ、あるわけもないですかね。ええ、守りますよ。そこは一応信用してください。そうでないと何も進みませんからね。本当はもっと建設的な話をしたかったのですが…」

「これ以上、無駄話をするつもりはない。さっさとリーラ様を解放しろ」

「爺…!! 馬鹿なことは…やめるんだ!」

「リーラ様、これでよいのです。あなたが生きていればいい。それだけで十分です」

「くううっ…ソブカ氏……! これで…満足なのか!?」


 プライリーラが、ふらふらと立ち上がる。雷貫惇で貫かれても、まだ立ち上がれるのは見事である。

 その目には、絶望とも失望ともしれない感情が秘められていた。

 しかしながら、その目をもってしてもソブカの心は動かない。


「満足はしていませんよ。この程度の利益で満足するのならば最初からやっていません。しかし、いつだって思い通りになるとは限りませんねぇ。欲をかきすぎると失敗するものです。完全な結果ではなかったですが、上々と思うべきでしょうか」

「そういうことを訊いているのではないよ…!」

「プライリーラ、あなたと話すことはもう何もありません。あなたは負けた。勝ったのは私です」

「ソブカ氏…」


 もはや二人の会話は平行線だ。

 そもそもの視点が違いすぎるので会話にもならないのだ。




324話 「血塗られた道を歩む覚悟」


「結局…私に興味はなかったのだね」

「興味はありますよ。できればあなたをもっと傷つけたかった…。今ならばそう思えます」

「…そうか。どこかで壊れてしまったのだな。君ならば…もっと正しいやり方で都市を救えると思ったのだが…」

「それは買いかぶりすぎです。あなたがそう思いたかったにすぎません。それもまた誰かが作ったソブカ・キブカランという存在ですよ。本当の私はもっと暴力的です。そして、あなたのような甘い考えでは永遠に都市を変えることはできません。だからホワイトさんはあなたを見限ったのではないのですか? 最初からアイドルのあなたには荷が重かったのです。ジングラスの血を絶やしたくなければ、おとなしく隠居なさることですね」

「………」

「では、行ってください」



 プライリーラが少しずつ移動する。

 その動きをファレアスティが追い、一方でアーブスラットも彼らの動きを監視する。

 ソブカもアーブスラットを信用しているわけではない。突然約束を破る可能性もある。

 そのためラーバンサーがアーブスラットを常に捕捉している。この場で老執事に少しでも対抗できる相手がいるとすれば彼だけだ。

 倒す必要はない。プライリーラを捕縛できれば問題ないので、常に布が出せる用意をしている。



 互いが互いを信用していない中、人質交換は極めて慎重に、静かに、長い時間をかけて行われた。



 そして、プライリーラがアーブスラットとすれ違う。



「…爺! こんなことが…私は…!」

「リーラ様、ルイペナもハウーロも本望でした。他の者も同じ気持ちでしょう。我らはジングラスのために…いや、リーラ様を慕って仕えていたのです。だからこそ何があっても動じてはなりません。むろん、この老骨に何があろうとも御身のみを大事にしてください。見捨てるのです。すべてを見捨てて自分だけ生き残るのです」

「それが…組織の長の生き方だというのか? 納得は…できない…したくはない」

「ジングラスのことを考える必要はありません。リーラ様には未来があります。その資質はまだ完全に開花しておりません。いつか必ず、あなた様の光が人々を導くはずです。ですから…今は我慢の時です」

「…そうか。私があらがえば…皆が死ぬのだな…」


 プライリーラがバラバラになったハウーロに目を向ける。

 彼に落ち度はなかった。少しドジではあったが真面目な好青年だった。彼が死んだのは単にプライリーラの使用人だった、というだけの理由。

 自分が意地を張れば張るほど周りの人間が死んでいく。自分を大切にしてくれている大切な人たちが殺されていく。


 そのことを理解し―――涙を流す。



「ソブカ氏、これだけは言っておく。もし爺や館の者をこれ以上殺めるようならば…私は君を許さない。一生だ! それこそどんな手を使っても君たちを殺す!!! 他の都市に援助を求めてもだ!!」


 涙を流しながら【独りになった彼女】がソブカを睨む。

 その拳は強く握りすぎていて血が滲んでいた。

 他の都市に援助を求めるということは、グラス・ギースを裏切るということである。そこまでして彼女は自分の家族を案じているのだ。


「約束は守りますよ。他のジングラス傘下の者までは保証できませんが、館の人間には手出ししないと誓いましょう」

「………」

「さあ、行ってください。念を押しますが、聖域からは出ないように」

「…わかっている」


 プライリーラが奥の聖堂への扉に近づく。

 もう言葉が不要であることを悟ったのだ。彼女にできることは逃げることだけだった。


「アーブスラットさんも変な真似はしないでくださいよ。こちらにはホワイトさんがいることを忘れないでください」

「ふん、他人頼みとはなさけない男だ」

「悔しくもなんともないですねぇ。私の武器は武力ではありませんので。むしろ武力に頼りすぎたから慢心したのです。それ以上の強い相手が出てくれば簡単に栄華が終わるものです」

「あの男の存在は、お前にとっても災厄になりうる。いつか必ず破滅するぞ」

「…肝に銘じておきましょう」

「爺、必ず…いつか必ず…! 必ず助ける!!」

「リーラ様…どうかご無事で」



 ギィイイイイ バタンッ



 プライリーラが奥に消えると同時に、音を立てて扉が閉まっていった。

 これでもう誰も後を追うことはできない。



「ラーバンサー、彼を拘束してください」

「…心得た」


 しゅるしゅるっ

 ラーバンサーが布を放射。

 次々とアーブスラットの身体に巻きついて動きを拘束し、毒麻痺針も大量に刺していく。

 さらに念を押して『ヘブ・リング〈低次の腕輪〉』を両腕に三つずつはめた。これならばさすがの彼でも簡単には破れないはずだ。


「はぁはぁ…うっ…」


 そしてここで―――限界。


 アーブスラットの戦気が完全に消えうせただけではなく、また何歳か老化したように見える身体から力が抜けていく。

 これは毒や腕輪の作用ではなく、ユニークスキルの代償である。

 普通に使っても危険なスキルである。現在は細胞がかなり損耗していたため、負担は通常時の二倍はあったことだろう。もう立っていることすら難しい。

 アーブスラットは、とっくに限界を超えていたのだ。ソブカたちを殺すことも実際には難しかったのかもしれない。

 だからこそ博打を打ってプライリーラだけでも逃がした。相手が譲歩しやすいように自分を人質にすることを提案した。


 アーブスラットは疲れきった表情を浮かべながらも、にやりと笑う。

 プライリーラを逃がせただけでも上々の出来だ。


(どのみち長くはない命よ。もし私が死ねば人質の価値もなくなる。リーラ様が力を取り戻す時間があればいい。無事ならばよいのだ。…非常に不愉快だが、こうなればホワイトに任せるしかない。梟雄《きょうゆう》同士が並び立つことはありえぬ。いつかこの男も滅びるだろう。あとはホワイトがリーラ様をどう思っているか…そこに賭けるしかないな)

 
 アーブスラットの言った通り、アンシュラオンはソブカにとって害悪にもなりうる存在だ。

 あの男は敵でも味方でもない不思議な存在である。意図的に操作するのは難しい、まさに自然現象に近いものだ。

 運があれば、その風がプライリーラに吹くこともあるだろう。


(ふふふ、まさかあの男に期待する羽目になろうとはな…。だが、女に甘い分だけソブカよりは何倍もましか。さて、疲れた…な。どうせ動けぬ身だ。しばらく眠らせてもらおう…)


 そのままアーブスラットは気を失う。すべてから解放されたように熟睡モードに入る。

 どうせ拘束された身だ。たまには自堕落に生きてもいいだろう。

 自分の命に見切りをつければ、人間はこれだけ図太くなれるのだ。


 その様子を見て、ソブカはまたもや呆れる。


「やれやれ、相変わらずしたたかな御仁ですね。ではラーバンサー、彼を例の部屋に連れていってください。監視は怠らないように頼みますよ。眠っていても薬物の投与は続けるように。強力な武人に油断は禁物です」

「…心得た」


 ラーバンサーが、アーブスラットの捕縛と監視を続けながら出ていった。

 この館に隠し部屋があるようにキブカ商会にも同じようなものがある。しばらくはそこで隔離する予定だ。

 そこは本来プライリーラを閉じ込めるために用意していた場所なので、強力な武人に対抗できる術式が張られている。



「ベ・ヴェル、無事ですか?」


 ソブカが腹を押さえているベ・ヴェルに話しかける。


「心配いらないよ。…くそっ! あんな弱っている連中に負けるなんて…あまりにふがいない。薬の量を増やすよ。文句はないね?」

「ご自由に」

「ふんっ…くそっ…苛立たしいね! 次は役立つ…! 見てな!」

「十分役立ちましたよ。死ぬ危険性が高かった仕事を引き受けてくれました。満足しています」

「私が満足していないのさ! こんなもんじゃないよ! 私は…強くなるんだ」


 バタン

 苛立ちを隠そうともしないベ・ヴェルも外に出ていった。

 まだまだ未熟だが、彼女の強くなりたいという気持ちだけは一級品であった。

 それこそ武人にとっては重要な資質だ。彼女もいつか大成する日が来るかもしれない。その日まで生き残っていれば、だが。


「役立ったのは本当なんですけどねぇ。こちらも被害が出てしまいましたが、彼女の気概のおかげで士気が下がらずに済みましたよ。人を雇うというのは難しいものですからね…」


 傭兵も命がけとはいえ、中には逃げ出すような者だっている。特に外部から雇った人間はその傾向が強い。

 今回もプライリーラたちによって重傷者が出ている。それで士気が下がらないのは、自ら腹を焼いたベ・ヴェルがいたからだ。

 女の傭兵があそこまでやっているのだ。自分たちも負けてはいられない、という思いが生まれるのは当然だろう。


「それにしても思ったよりギリギリでしたねえ…。これが四大市民の力ですか。やはり怖ろしいものです。ホワイトさんがいなかったら万に一つも勝機はなかったですね」


 ようやく緊張した空気がなくなり、息を吐く。

 彼にしても大きな賭けだったのだ。下手をすれば死ぬ危険性もあった。

 しかし、だからこそ勝った時の報酬が大きくなる。


「ソブカ様、プライリーラ様は逃がしてよろしかったのですか?」


 魔獣に再び薬を投与して深く眠らせたファレアスティが戻ってきた。

 持ち出せる魔獣は持ち出すが、それ以外は部屋ごと燃やす予定だ。誰もいなくなった館を調べられては困るからだ。


「仕方ないでしょう。アーブスラットさんに玉砕されたら私どころか全員死にますからね。そうなればホワイトさんの独り勝ちですよ。それでは嫌でしょう?」

「それはたしかに極めて不快ですが…これで不安要素が増えました。彼女がおとなしくしているとは思えませんが…」

「どうでしょうねぇ。あなたも聴いていたかもしれませんが、彼女は思った以上に『乙女』だったようですよ。強すぎたがゆえに守られた少女時代を過ごしましたから、逆に傷つきやすくて繊細なのです。ちょっとつついてあげれば、このありさまです。人質はまだまだいますからね。問題はありませんよ。それと人質にはプライリーラを捕まえたと虚偽の情報を伝えて自害を防いでください」


 使用人はまだいる。繊細な彼女にとって彼らは切り札になるだろう。

 こちらもプライリーラを人質に取れば迂闊に自害はできないはずだ。無駄に死ぬことはないだろう。


 そして、ソブカは宙を見つめながら呟くように言葉を紡ぐ。


「…いいんですよ。あれで。もし彼女を手にしていたら…私はきっと自分を抑えることができなかったでしょうねぇ。この中にいる【獣】はひどく凶暴で怖ろしいものですから、彼女を傷つけて楽しんでいたに違いありません。…ふふ、怖いですねぇ。私が一番怖いのはね…自分ですよ。自分が一番怖い」


 プライリーラが哀しむ顔、苦痛に歪む顔、それが妙に生々しく、美しく思えた。


 それは―――獣の感情。


 自分の中にいる獣の側面がそう感じさせるのだ。

 獣は血を好む。殺しを楽しむ。蹂躙を欲する。プライリーラの苦しみを楽しむ。

 獣は彼女が苦悩する顔を見るために、何の利益がなくても人質を順に殺していったかもしれない。彼女の目の前で、さらに凄惨なやり方で。


 涙を流して叫ぶ彼女。それに興奮する自分。


 まさに狂気の沙汰であり、猟奇的な嗜好である。

 だがきっと、そうしていただろう。束縛されていた獣が解き放たれたならば、それくらいは簡単にやってのけることをソブカ自身が一番よく知っている。

 だからこそアーブスラットの提案にも乗ったのだ。

 もしこれ以上やれば、自分が自分でなくなりそうな気がしたからだ。人間という皮を被った何か恐ろしい怪物になってしまいそうで怖かった。

 逆に言えば、まだソブカの中には人間性が残っている、ということである。それを理性がとどめたのだ。


「自分にそんな変質的な趣味はないと思っていたのですが、やはりどこか壊れてしまったのでしょうかね。女性の泣き顔を見て興奮するなど…ただの変態です」

「………」

「ああ、女性のあなたに言う台詞ではありませんでしたね。これは失礼」

「…ソブカ様は、プライリーラ様がお好きなのですね」

「随分と飛躍しましたねぇ。なぜその結論に至ったのか謎ですが、あなたもそういう思考ができるなんて少々意外でした。やはり女性なのですね。安心しましたよ」

「それこそ失礼な発言だと思いますが?」

「おやおや、それは失礼。改めて言いますが、私はプライリーラに対して特別な感情はありませんよ。憎悪や怒りというもの以外はね」

「そうですか」

「あなたから話題を振ったわりに冷たい反応ですねぇ。…と、そんな話はともかく、プライリーラはあのままでいいでしょう。聖域がどこかはわかりませんが、仮に都市に戻ってくれば捕らえればいいですし、他の都市に行っても今の彼女に伝手はありません。所詮、この都市だけのアイドルですからねぇ」


 ジングラスと付き合いのある他の都市の商会もあるので、そこに助けを求めるという手もある。

 が、組織の後ろ盾を失ってしまえば単なる少女。強いとはいえ個人の女性だ。この事態を収拾できるほどの力はない。

 戻ったところでアンシュラオンがいる以上、彼女に打開の道はない。

 彼は勝つためにソブカを選んだのだ。だからこそ彼女に「都市に戻るな」と警告していた。

 それを受け入れなかったのは彼女自身なのだから、いくら女に甘いアンシュラオンでもソブカを殺すようなことはしないだろう。

 何よりもアーブスラットや館の使用人が人質なのだから無茶はできない。



 よって、プライリーラは―――【無力】である。



 ただ、彼女を逃がした以上、予定は多少ながら変更するしかない。


「ジングラス一派のほうはどういたしましょう?」

「そのまま手に入れることは不可能になりましたね。肝心の魔獣も奪い損ねましたし。魔獣が使えればいろいろと方便で誤魔化すこともできましたが…仕方ありません。せっかく結婚話にも乗ったのに、これではあまり収益がありませんねぇ」


 ソブカが結婚話に乗ったのは、婚約の事実を利用するためだ。

 仮にここで魔獣の支配権が手に入れば、それを口実にジングラスへの影響力を強めるつもりでいた。

 自分がジングラスの身内になったから魔獣を操作できるのだ、というように合法的に支配が可能となる。

 が、そう上手くは運ばないらしい。魔獣は諦めるしかないだろう。あとは薬で暴走させるといった使い方しか浮かばない。


「しかし、当主が行方不明になれば動揺は広がるはずです。象徴がいなくなれば、組織自体は短期間でかなり弱体化します。そこに付け入る隙があるはずです」


 ジングラスは大きな組織だが、プライリーラとアーブスラットの求心力によって維持されてきた側面が強い。

 その二人がいなくなれば弱体化は必至。食糧事情にも影響が出てくるはずだ。

 そこで他の組織がどう動くか。特にマングラスの動きが重要となる。

 もしマングラスが吸収に動けば、ジングラスは強い拒否反応を示すだろう。そのあたりで隙が生まれるはずだ。


「その時に迅速に動くために、まずはラングラスを手中に収めなければなりません。…そう、ラングラスを…私がラングラスになるのです。そのためにはホワイトさんの助力が必要です」

「そのホワイトですが、衛士隊が血まなこで探してるようです」

「ああ、そうでしたね。領主がかなり怒っているようですから…仕方ないですねぇ」

「プライリーラ様と密約を交わして独断で逃がそうとするあたり、あの男こそ信用できません。自分のことしか考えていない男です。あまり頼りすぎるのは危険です」

「相変わらずあなたは彼が嫌いですねぇ。でも、そういう人だからいいんですよ。仲良し小好しの相手では逆に信用できませんからね。互いに刺激し合うほうが楽しいじゃないですか」

「ソブカ様のそういうところも危険です」

「よいではありませんか。どうせ我々は危険な道を歩むしかないのです。それならば最後までやりきりましょう。それが賭けというものです。そうそう、衛士隊の件に関しては干渉する必要はありません。彼は彼の判断で動くでしょう。それよりはラングラス側の掌握を急ぎましょう。ファレアスティ、今回はご苦労様でした。これからも頼りにしていますよ」

「はい。お任せください」


 ソブカの後ろに付き従いながら、ファレアスティはプライリーラのことを考えていた。

 すでにアイドルではなくなった哀れな女性であるが、彼女のことを想うと胸が痛む。



 痛々しいという意味ではなく―――【嫉妬】で。



(たしかにアーブスラットとの交渉は致し方ないとはいえ、あっさりすぎる。ソブカ様は最初からプライリーラ様を都市から逃がしたかったのだろう。あの御方がいれば自分がおかしくなってしまうから…。そして、自分を恨んでほしいから。そうしなければホワイトに取られてしまうから)


 ソブカが必要以上にプライリーラを攻撃したのは、彼女が好きだったからだ。

 もちろん当人は認めないし、自覚はほとんどないのだろう。だが、女性視点から見ればすぐにわかることだ。


 ソブカはプライリーラが好きだったのだ。


 彼女の美貌とか豊満な肉体とか、そういったものに対してではない。

 自分と同様の獣を宿し、同じ視点から物事が見える存在は稀有だ。同属に対する強い愛情と興味があったのだ。

 だが、それ以上に四大市民への憎しみが強かった。その狭間で彼は自分を制御できなくなってしまった。


(でも、もういない。プライリーラ様は…いない。ふふふ…それでいいのだ。彼女にはどのみち務まらない。私と同じことはできないのだから)


 今後、ソブカはもっと非道な行いをするだろう。目的のためならば、それができる男だ。

 なにせ敵はもっと悪い者たちだ。アンシュラオンが言ったように、悪はより強い悪によって淘汰されねばならない。


 むしろ、それを【正義】と呼ぶ。【力の正義】だ。


 それができるからこそ、アンシュラオンはソブカを選んだ。

 ファレアスティは、ソブカと一緒に血塗られた道を歩く。自分にはそれができる。

 だからこそファレアスティは、ソブカに選ばれた。

 この道だけは自分しか歩くことはできない。そのことに幸せを感じるのであった。




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