191話 「サナとルアンの決闘 前編」
「ぐっ…!」
ルアンの左腕に痛みが走る。傷は浅いがショックが大きい。
ダガーが本物であることはわかっていても実感や認識がなかった。知識では知っていても痛みは知らなかった。
これが本当に自分を殺す道具であることを、今まさに身をもって知ったのだ。
だからこそ動きが鈍る。誰がどう見てもピンチである。ここに突っ込まれてきたら危うい。
そのチャンスに、サナは追撃―――しない。
少しだけ間合いを取って、ルアンの様子を眺めている。
その間にルアンは体勢を整えることに成功。再び真正面を向く。
だが、疑問は消えない。
(なんで攻撃してこないんだ? 怖くなったのか? …いや、そんなことはない。さっきの一撃は本当に殺すつもりだったはずだ。そう、本気で…僕を…)
サナのことを知らないルアンでも相手が本気であったことくらいはわかる。
料理人が魚を捌くくらい自然に、小学生が虫かごにセミをぶっ込むくらい強く、何の躊躇もなく刺してきた。
そのことに驚愕と戦慄を覚える。
(どうして人を簡単に殺そうと思えるんだ…! 信じられない!! 少しくらい迷ったり躊躇ったりしろよ! くそっ、違う! そうじゃない! そんなことを考えている暇なんてないぞ!! なんとかしないと…この状況をもっとよく考えるんだ)
ルアンには、一つだけ才能があった。
それは物を考える思考力。ソイドビッグにはなかった知的要素である。一方でビッグにはある腕力が彼にはないので、そうたやすく天は人に二物を与えないものらしい。
どちらにせよ、今の彼にできることは考えることだけである。それしかできない。
(あの子は、今もああやって僕を見ている…なんで見ているんだ? 弱い場所を探っている? その可能性もあるけど…さっきは今よりチャンスだったはず。あっ…もしかして、そのチャンスの攻撃を防いだから?)
少女が追撃しないのは、自分がさっきの攻撃を防いだからだと思われる。
出鼻をくじくという最大のチャンスで仕留め損なったことで、相手は慎重になっているのだ。
なにせ勝敗条件は「相手の身体にナイフを根元まで突き刺すこと」である。
それは腕でもかまわないのだが、骨のことを考えれば根元まで突き刺すのは難しい。今のように振り払ってしまえば怪我を受けても勝敗には影響しない。
むしろ逆に反撃されることを危惧したのだろう。ただでさえ相手は小さな女の子。揉み合ったら圧倒的に不利だ。
(この子は冷静だ。ちゃんと考えて動いている。それは怖い。でもそれって逆に言えば、腕力では僕のほうが上ってことじゃないか。相手の攻撃は防げるんだから、いざとなればそれで…。痛いけど…我慢すれば…左手を犠牲にすればチャンスはある)
ここでルアンに少しばかり勇気が生まれる。
非常につらいことだが、左手を犠牲にすれば攻撃は防げる。致命傷にはならない。それで家族が救えるのならば安いものだ。
「ふー、ふー、やるんだ。やるんだ。僕が守るんだ!」
何度も何度も荒い呼吸を繰り返し、小声で自分を叱咤する。
ちらりと両親を見ると、死にそうなほど青白い顔でこちらを見ている。
不正を嫌う真面目な父親と、自分を愛してくれる母親。レブファト同様、ルアンにとっても家族は命にも等しいものだ。
(僕の家族を悪党どもの好きにさせはしない! たかが腕じゃないか。そう、たった一本の腕だ! それでお父さんとお母さんを助けられるのならば…安いものだ!!! 勇気を出すんだ!! 間違っていない、間違っていない、間違っていない!!)
「お父さんは……僕は間違っていない!! うおおおお!!」
ルアンが攻めに転じる。
ブンブンッ
必死にダガーを振り回して牽制しながら、サナを追い詰めようとする。刺さないと勝ちにはならないが、まずは相手の戦闘力を奪うことも重要である。
また、この行動によって相手が少しでも動揺することを狙ってのことだ。
弱い生き物とて本気で抵抗してくれば簡単には殺せない。そういったことをアピールするためでもある。
格好悪く言えば、子供がパニックになって滅茶苦茶に腕を振るのと同じ現象だが、刃物を持っているので実はかなり厄介な攻撃でもある。
扇風機に手を突っ込むようなもの。簡単に受け止めに行くのも危険だ。
サナはそれを知っているのか冷静にかわしていく。
身体の小ささを利用してリビングのスペースを最大限活用し、軽いステップを踏みながら確実に距離を取る。
さらに当たりそうになったダガーに対しては、サナもダガーを振って対応。自分も牽制することでルアンのダガーを引っ込めさせる。
見た目としてはフェンシングの動きに似ている。刺すぞ刺すぞとダガーを軽く前方で振って、ルアンの動きを制限しているのだ。
(サナのやつ、いい動きをするな。立ち回りの練習以外は特に何も教えていないんだけどな…。それに足腰もしっかりしている。走らせた甲斐があったか? あるいは賦気の影響が少し出たかもしれないな)
賦気の素晴らしいところは、受けた相手が少しずつ気質に馴染むことだ。
サナもアンシュラオンの気を何度か受けたことで、ごくごく微量ではあるが、その力を吸収した可能性がある。
塵一つとはいえ、この強大な白き魔人の力である。その恩寵の効果は凄まじいの一言だろう。プールに染み込んだ一滴とて、全体に薄く広がれば影響力を持つのだ。
明らかに自分より体格の良いルアンよりも素早く動いている。小さい分、俊敏性がかなり高いようだ。その特性を生かしている。
「このこの!!」
「…じー」
ブンブンッ シュッシュッ
ルアンのダガーがすべて空を斬る。
サナはまだ動かない。なぜ攻撃してこないのか理解できないが、戦う意思をなくしたわけではないようだ。
むしろ―――逆。
(狙ってる。確実に狙ってる。だって、視線が…)
少女の視線は、明らかにルアンの胴体を見つめている。
それは突き刺すには一番適した場所。そして刺されば、ほぼ間違いなく致命傷になってしまう場所だ。
少女からは明確な殺気が感じられないが、こちらの腹を狙っているのは間違いない。
(このままじゃ駄目だ! こうなったら、こっちから一気に勝負に出るしかない。僕も刺される可能性があるけど、先に刺し込めば勝ちなんだ!)
サナが腹を狙っているように、ルアンも腹を狙う。
少女の腹。そこだけに意識を集中して一発勝負の隙をうかがう。突撃して激突すれば、仮に刺さらずとも体格差によって少女は倒れるに違いない。
倒してしまえばこちらの勝ちだ。
倒して、刺す。倒して、刺す。倒して、刺す。
頭の中でイメージが固まり、いざ実行に移すことを決める。
そのために一度後ろに下がって反動をつけようとして―――
ドンッ
「…え?」
ルアンが勢いをつけてサナに飛びかかろうとした瞬間、背中に硬い感触があった。冷たくひんやりとした重量のあるものだ。
一瞬誰かにぶつかったのかとも思ったが、この場にいる人間は限られており、すべて視界内にいる。
となれば、答えは一つ。
―――壁
ルアンがぶつかったのは、リビングの壁だ。
それによって完全に勢いが吸収される。
(なんで壁が…! え? もしかして…誘われた!?)
なぜ少女が仕掛けてこなかったのか。その理由は二つあった。
まずはルアンの体力を奪うため。
極限の状況下では、いつもより消耗が激しくなる。ルアンも慣れない攻撃と緊張のため、すでに息は上がっている。気がつけば服が汗でびっしょりだ。
もう一つの理由が、今まさに起こっている現象。
獲物を追い込むため、である。
サナしか見ていなかったルアンは、自分がそこに追い詰められていることには気づかなかった。
自分の家のリビングであるが、家具がなくなったのでまったく違う場所にいる感覚になる。それと思考に集中しすぎたため周囲が見えなくなっていた。
背後には壁。しかもすでに身体をぶつけて「死に体」となっている状態。
実際に背中を壁にぶつけるとわかるが、予期していない場合は思った以上にびっくりするし、あまりの硬さに全身から力が抜けるものだ。
追い込まれたルアンにとっては最悪で、追い込んだサナにとっては最高の場面である。
(サナ…なんて頭がいい!!! やっぱりあの子は天才やで!! ルアンもいろいろと考えていたようだが、サナのほうが五万倍くらい上だったな。そもそも器が違うんだ。お前みたいなガキが偉大なるサナに頭で勝てると思うなよ!! 浅はかなやつめ!!)
アンシュラオンは、その戦い方に感動すら覚える。
たしかに「慎重に」「よく見て」「無理はせず」「防御を優先して」「常に有利なポジションで」とは教えてあるが、それを見事に実践しているのだ。
正直サリータもビッグも頭が悪く、戦い方が雑でしょうがない。そういった者たちと出会ってばかりなので、サナの知的な戦いが際立って見える。
これは兄馬鹿でなくても感動するに違いない。実に見事だ。
(だが、次が問題だな。追い詰めたとはいえ相手は自分よりも大きな男だ。迂闊に飛び込めば逆に危ないぞ)
ここからが勝負の難しいところである。
相手は自分よりも力が強い男。いざとなればクリンチのように抱きつかれ、そのまま揉み合いになる可能性もある。そうなれば腕力勝負になるのでサナには不利だ。
少年とはいえ男に抱きつかれる画を想像するだけで、思わずルアンを殺してしまいたくなるが、そこは勝負なので我慢するしかない。
(くそっ! 来るなら来い! そのまま逆に刺してやる!! 刺してやるからな!!!)
ルアンは覚悟を決めてダガーを両手で握り直す。
刺すという行為に対して激しい忌避感を抱くも、死への恐怖と不利な状況が倫理観を排除する。かかっているのが自分の命だけならば諦めたかもしれないが、大切な人たちの命もかかっているのだ。
相手が突っかかってきたら迷わず自分も飛び込むと決める。相打ちでもいい。先に刺すことだけを考える。
そう思って、ぐっと身構えようとした瞬間―――飛んできた。
「えっ!?!!」
思わず左手を伸ばして顔を防御してしまった。
しょうがない。そうしなければ顔面にぶつかっていたのだ。これは反射的なことであり、意図したものではない。
そう、人間が突然何かを顔に投げつけられた瞬間、必ず手を前に出して受身の態勢になる。
経験豊かなヤキチでさえ、アンシュラオンの攻撃に対して受けを選択してしまったのだ。これはもう人間としての反射なので致し方ない。
「いつっ!!!」
防御したルアンの左腕に鋭い痛みが走った。
服の袖が裂け、血が滲む。最初の傷と合わさって、さらに痛々しい姿になってしまった。
それはそうと―――何を投げたのか。
受けて怪我をするもので、なおかつサナが持っていたもの。
その答えは、簡単。
「だ、ダガー!? なんで!??」
自分の腕に当たって跳ね返り、床に転がったダガーを見つめる。
当然ながら、サナが投げるものといえばダガーしかない。それ以外の武器を使ってはいけないのだから当たり前だ。
しかし、状況が理解できない。自分の武器を投げるなど、まずありえないことだ。これでは自ら負けを認めるようなものである。
(まさか…終わり? これで終わり? 勝負を放棄したの? じゃあ僕の勝ち? あれ? でも根元まで刺せって…え? どういうこと!?)
そのルアンの一瞬の迷いが致命的なミスになる。
いや、そもそも手で受けてしまった段階で、彼にはどうすることもできないのだ。
困惑している間にサナは間合いを詰め、ルアンのがら空きのみぞおちに―――蹴り。
「がっ…はっ」
192話 「サナとルアンの決闘 後編」
前蹴りのように押し出された蹴りが、みぞおちに直撃。
自分の手で視界が塞がれたため相手の挙動がまったく見えず、さらに武器を投げられたことで思考が止まった一瞬の隙を狙われたものだ。
ここでは体格差が悪いほうに出た。腕を上げてしまえば、小柄なサナからはルアンの胴体が丸見えなのだ。
「っ…ぁ!」
激しい衝撃でルアンの息が止まる。
みぞおちへの攻撃は、それが軽いものでも事前に踏ん張っていなければ大きなダメージになる。
しかもサナの蹴りは思った以上に重かった。まるで大人の男性に蹴りを入れられたような衝撃である。
こうなると本当に呼吸が止まる。衝撃と痛み、呼吸ができない状況にパニックになるのだ。
「かはっ…はっ…っ…」
「……しゅっ」
当然、その隙をサナが逃すはずがない。
動きが止まったルアンの膝に、もう一撃。今度はかかとの部分を強く押し当てるように、外側から膝を思いきり蹴る。
メキィッ
嫌な音がすると同時に、膝に激しい痛みが走る。
「がぁああ!」
みぞおちの痛みに加えて膝が曲がったことで、前屈みのような状態になる。
バシッ
今度は手首に手刀を叩き込み、持っていたダガーを奪おうとする。
「は、放すか―――っ!?」
ルアンは必死にダガーを守ろうと身体を丸める。
これを奪われたら終わりなのだ。それはもう決死の覚悟で守る。
が、それは―――フェイント。
少し離れた場所から見ていれば何が起こったのかわかる。
ルアンが丸まった瞬間、サナは一度バックステップをすると、身体を大きく捻った。
小さな体躯の少女とはいえ、身体全体を回転させて勢いをつけた一撃は強力。
無防備になったルアンの側頭部に―――蹴りが入る。
それは回し蹴り。こちらもかかとの部分が、まともに入った。
「っ!??!? ―――がっ…はっ…」
激しい衝撃の後、ジィイインという熱湯をかけられたような熱さが走る。
側頭部は軽く押しただけでも痛みを感じるような場所だ。空手の試合のように、そこに蹴りの一撃をもらえば屈強な男とて一発KOされるほどだ。
ルアンの視界が揺らぐ。立ちくらみのような視界と身体のバランスが合わない感覚に襲われ、ふらっと倒れそうになる。
されど、これで攻撃は終わらない。
サナは、さらに膝、腕、顔面に続けて蹴りとパンチを入れて、完全に無力化を図る。
当然、自分の肉体は武器の一つ。格闘は正当な手段である。ルール違反ではない。
ただアンシュラオンがあえて言わなかったので、ルアンの中には選択肢として浮かばなかったにすぎない。
彼には、せいぜい組み付いて倒すくらいしか頭になかった。それもまた体格が上の自分だからこそであり、まさか小柄な少女が格闘戦を挑むとは思わなかったのだ。
それは油断であるが、そもそもダガーを投げるという突飛な戦術を取った段階で、サナが圧倒的に有利に立ったのは間違いない。
これは実に不思議な光景。
いまだダガーを掴んで離さないルアン。おそらくそれは離したら死ぬという防衛本能によって、無意識下で行われているものなのだろう。
その彼とは対照的に、ダガーを手放したサナのほうが一方的に彼を攻撃している。これこそ戦いの妙というものだ。
(サナ、すごいな。ボコボコにしてるな。格闘術は…少し教えたっけ? でも本当に基本だけだし、護身術程度だよな? あんなフェイントなんて教えてないしね。それともオレの戦闘中に学んだのか?)
アンシュラオンが教えたのは、軽い護身術程度だ。
シャイナがホテルでアンシュラオンの顔を殴って拳を痛めたので、拳を痛めない殴り方や効果の高い蹴り方を軽くレクチャーしただけだ。
あとはサナ用に作った戦闘絵本教材で、一通りの知識を教えただけである。本格的な訓練はしていない。
しかしながら陽禅公の下で武芸をほぼ極めた男である。意識せずとも格闘オタクといってもよいレベルにあるため、「軽く教えた=空手の奥義を教えた」に近い可能性があるのも否定できない。
サナが何の躊躇いもなく回し蹴りをするなど異常だ。絶対に教えたに違いない。忘れているだけである。
また、サナは今まで自分の戦いをすべて見てきた。
思えばガンプドルフの戦いからずっと見てきているので、一般人とは思えないほどの「見る経験」を積んできているのは確かだろう。
見る、というのは学びの基本だ。昔の技術の大半は見て盗んだものである。しかもサナは普段から、いろいろなものをじっと見つめている。吸収しようとしている。
それが見えていたらの話だが、アンシュラオンやガンプドルフなどの一流の武人が行うフェイントを見ていたので、なんとなく覚えていてやってみたのかもしれない。
そう考えると、さきほどの回し蹴りはガンプドルフがやったものに似ている。まるでトレースしたかのように完璧にあの時のものだ。サナには真似る才能があるのかもしれない。
これは、ちょっと卑怯。
この事実は、ルアンにとって不運でしかない。
武芸を習った成人ならばともかく、何の訓練も受けていない子供にならば、これは効果覿面。かわいそうになるほど、ほぼすべての攻撃がヒットしていく。
カランッ
そしてついにルアンが―――ダガーを落とす。
サナにボコボコにされ、握る力もなくしてしまったのだろう。顔が腫れ上がっており、目は開いているが意識があるのかもわからないほど虚ろだ。
逆によくこれだけもったものだ。やはり体格差の影響は大きかったと思われる。
体重が軽いサナの一撃では、一発のダメージは少ない。これだけ打ってようやく無力化できたのだ。
だが、勝負は終わりではない。
これはあくまで余興にすぎない。結果を出すための手段にすぎない。
サナは相手の様子をうかがいながら、まずルアンが落としたダガーを蹴り飛ばし、次に自分が投げたほうのダガーを回収。
これで準備は整った。あとは刺すだけだ。
ゆっくり、ゆっくりと両手に持ったダガーを構え、サナがうずくまったルアンに近づいていく。この段階でもまだ油断はしていない。
サナは刺すという行為だけに集中している。刺さないで終わる、などという決着はありえない。
その状況に、レブファトが叫ぶ。
「ま、待て! もう勝負はついた! こっちの負けでいい!! だからルアンを殺さないでくれ!」
「レブファト、なさけないことを言うな。お前も男ならばわかるだろう? 勝負とは完全決着でのみ終わる。ルールは絶対だ」
「なんてことを!! もういいだろう! 負けだ!! 頼む!! 頼むから!! この通りだ!」
レブファトが土下座。床に頭をこすりつける。
それは必死に子供を守りたいと願う父親の純粋な姿であった。
その姿に、さすがのアンシュラオンも少し考える。
「ううむ、お前は武人じゃないしな…そこまで言うのならば考えてやらんこともないが…教育上はよくないんだよな…中途半端に終わるとさ」
「頼む! 何でもする!! だから助けてくれ!!」
「ふむ…」
(これ以上やるのはマイナスか? せっかく相手が負けを認めているんだから、そっちのほうが得かな? あとで根に持たれて自暴自棄になられても困るしな…)
相手が負けを認めたため、利益を優先するアンシュラオンにとっては、これ以上やることはむしろマイナスにもなりかねない。
ごりごりのヤクザが相手ならばいざ知らず、はっきり言えばただの少年である。そこまでする必要がないのも事実。
一番最悪なのは、利益が出ないこと。
レブファトが息子を殺された恨みで破壊的、破滅的な行動に出ることだ。それでは一銭の得にもならない。それはまさに無駄でしかない。
「しょうがない。お前がそこまで言うのなら…」
「…ちゃ…いけ……ない」
だが、その言葉に反発する者が、この部屋に一人だけいる。
それは―――ルアン。
顔中をアザだらけにした少年が、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。
膝をがくがくさせながら、身体をぶるぶる震わせながら、鈍い痛みに耐えて起きようとする。
その目にはまだ光があった。
意思の光、心の光、信念の光だ。意思こそが人の本質。魂の炎が彼に最後の力を与える。
「負けちゃ…いけ…ない…。負けたら…いけない!!!」
「ルアン、もういい! もうやめろ!!」
「お父さんは…ぼく…は……負けたら…いけないいいいいいい!!!」
しゃべるたびに口から血がぼたぼた垂れているが、そんなことは気にしない。
いや、おそらくルアンには、レブファトの声すら聴こえていないのだろう。もう外部からの言葉は何も届かない。
自分が負けたら終わってしまう。家族が不幸になってしまう。ただそれだけが彼を動かす原動力であった。
「うう、うぅぅうううぉおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
ルアンは最後の力を振り絞ってサナに襲いかかる。
もう自分の手にダガーがないということすら理解していない。防衛本能だけで動いている獣と同じである。
意識を失うまで頭の中に刷り込んでいたイメージ。押し倒して刺す、ということしか考えていない。
そう、側頭部への攻撃でほぼ意識が飛んでいたのだ。それ以後の記憶は彼にはない。
あるのは執念。守らねばならないという意思のみ。
「………」
サナは、数歩下がった。
それは臆したわけでも逃げたわけでもない。
歳相応の普通の少女、たとえばセノアならば怯えて動けなくなっていたところだろうが、サナにそんな感情は存在しない。
彼女にとっては、これは好都合。相手が両手を広げて突っかかってきてくれる。その腹は丸見えだ。
一度下がって、反動と助走をつけ―――再び前に向かう。
彼女の背後には壁はない。まるで弓の弦のように引き絞られた身体が、一気に前方へ加速。
ドンッ!!
―――激突
上から覆い被さるようなルアン。下から突き上げるような形となったサナ。
二人の身体が重なり合い、勝敗は決まった。
勝負を分けたのは、とても簡単な理由だった。
硬い壁を背にして反動なく飛びかかったルアンと、勢いをつけて万全の体勢で突っ込んだサナ。
それはもう始まる前から結果が決まっていたことなのだ。この状況を生み出した少女の圧倒的有利から始まったことだ。
結果は―――突き刺さる。
ルアンの腹に、ずっぷりとダガーが突き刺さっていた。
お互いに勢いがついたので途中で止まるということにはならず、根元まで突き刺さっている。
貫通はしていないが、それなりの長さがあるので確実に臓器まで達しているだろう。
「ぁ…ぁあ……」
ルアンから力が抜け、ずるりと崩れ落ちた。
これで勝負あり。サナの勝ちである。
193話 「勝者の美、敗者の罪」
(うーむ、技量に差があったようだな。ちょっとアンフェアだった気もするが、サナは女の子だしな。これくらいのハンデは妥当だろう。やはりルアンが弱かったのが悪いんだ。男ならばもっと鍛えておくべきだろうし。うん、これは正当な結果だ)
結果的にサナのほうが技量が上だったので、アンシュラオンの見立ては完全に間違っていたようだ。
が、サナが思った以上に強かったことを知って、心の中ではホクホク顔である。
世間に大々的に自慢したいところだが、それができないのがもどかしい。
「…ふー、ふー」
「黒姫、よくやった! 追い詰めた段階でお前の勝ちだ。よく周りが見えているな!」
「…こくり」
「その後もすごかったぞ! すごい! 素晴らしい! 最高だ! いい子、いい子。ほら、自分の手を見てごらん。それが勝者の手だ。この世でもっとも美しいものの一つだ。よく覚えておくんだよ」
「…ふー、ふー、こくり」
サナは興奮した様子で自分の手を見た。
それは勝者の手。勝った者だけが得られる美しい手だ。
「真剣勝負において勝敗は一度きりだ。その感覚は勝った者だけが味わえる。お前は勝ったんだ。勝ち残ったんだ」
「…こくり」
これが、サナが初めて一対一で勝った戦いである。
サリータの手も借りず、クロスボウも使わず、術具も使わず、相手と同じ条件で勝った。
場合によっては刺されていたのは自分かもしれない。その緊張感を感じていたかはわからないが、この経験は彼女に大きな恩恵をもたらすだろう。
(人生では負けて学ぶこともある。負けなければわからないこともある。だがそれは殺し合い以外の分野の話だ。勉強の順位やデスクワークでの失敗なら、いくらやってもいい。人間関係も、いくらでも失敗すればいい。しかし、戦いでそれをやったら死ぬ。だから勝ち続けねばならない。勝った者だけが強くなり続ける。それが武人なんだ)
人類はすべて勝者によって形成されている。
無限の生命を持つ本体の霊は失敗を経験しながら向上するが、地上世界に存在する生物は、遺伝子上、肉体要素的に全員勝者の因子を持っているのだ。
その勝者の中でまた生存競争が行われ、勝った者だけが生き残り、人の肉体は進化し続ける。
それこそ武人。武人の闘争本能の真髄。勝たねば進化できない宿命を与えられた存在である。
サナは―――勝ったのだ。
負けてはいけない戦いに勝った。この意味は非常に大きい。
(サナはやっぱりすごいぞ!! この成長率は半端ない! マジヤバイって! もう最高だよ、サナちゃん最高!!)
アンシュラオンは結果に大満足である。
そして、こうして喜ぶ勝者が存在するということは、もう一方は敗者となったことを意味する。
その落差は激しい。
「ルアン、ルアン!! しっかりしろ!!」
「…ぁ…と…さん…。ぼく…ぁ……」
「ルアン! 死ぬな!! 死んだら駄目だぞ!! 死んだら負けるってことだ!! 死ななければ負けてないんだぞ!! がんばるんだ!!」
「負け……ああ……くや…しぃ……なぁっ……」
ボタボタ
ルアンの腹から血液が流れ出る。それは敗者の証。負けた人間が受ける残酷な結果と痛み。
急所ではなかったのですぐに死ぬことはないが、現在のグラス・ギースの医療技術では助かるかどうかは微妙なところだ。
それ以前に、この男が逃がしてくれるわけもない。ニヤニヤしながら敗者に近寄る。
「よぉ、負け犬君、気分はどうだ?」
「ぁっ…ぁ…く…そっ…」
「人の顔を見てクソはないだろう、クソは。で、どうだ? 痛いか? 痛いよな?」
「いた…く…なんか…」
「んー? そうか? これでもか?」
アンシュラオンがルアンの腹に突き刺さったナイフを―――さらに押し込む。
「がぁあああああ!!」
「おや、痛くないんじゃないのか? 嘘はいけないなぁ、嘘は。その歳で嘘ばかりつくと歪んだ大人になっちまうぞ。で、満足か? これがお前が望んだ結末だ」
「こ、こんな…もの…望む…ひぐっ―――!!」
「なんだ? よく聴こえないな? もっとはっきり教えてくれよ」
それからさらに柄を動かしてぐりぐりと抉る。
「ぐあぁあああ!! ぎゃあああああああ!」
「お前は負けたんだ。敗者がどうなるか、わかるか?」
「がぁっっ…ぁっ!!!」
「おいおい、どうした。ちゃんと答えろよ。人の話を無視するのがお前の正義なのか? 父親から学んだことはそんなことなのか?」
「がっ…ぐっ…がぁぁっ!」
「全然聴こえないなぁ。もっと大きな声で教えてくれよ。お前の正義ってやつをさ。あんなに偉そうにオレのことを罵倒したんだ。その素晴らしいご高説を、ぜひもう一度拝聴したいもんだなぁ」
「がぁああああ!!」
「がぁあ? それがお前の正義なのか? すまんが人間の言葉でしゃべってくれないか? それともオレには正義を語ってくれないのか? なぁ、おい、そんな寂しいこと言うなよ。オレも仲間に入れてくれよ」
「かはぁっ…はっ……っ!」
ビクビクビクッ
あまりの痛みに身体が痙攣。もはや言葉を発せられる状況ではない。
「やめろ!! これ以上、息子を穢すな!!!」
「黙れよ、レブファト。これはお前が招いた結果なんだぞ。お前が息子にちゃんと教育をしなかったからだ」
「な、なんだと…!」
「正義なんぞを振りかざした以上、こいつにも責任がある。この痛みはその代償だな」
正義は素晴らしい。正義は美徳だ。正義なきところには何も存在しえない。誰だってそう思う。それは真実だ。
しかし、ルアンの言葉は正しくても、決定的に足りないものがあった。
それは父親から教わらなかったもの。今彼を追い込んでいるもの。
「ルアン、お前はかわいそうなやつだ。ただ真面目だけが取り柄の父親に美学だけを教えられ、真実を教わってこなかった。敗者がどうなるかを教わらなかった。『力無き正義が、悪よりも悪質』であることを教わらなかった。それは『愚者』と同じなんだ。無責任に自分の正義だけを振りかざす馬鹿と同じなんだよ」
「がああぁっ…ああ!」
「痛いか? そうだろうな。お前は負けたんだからさ。正義を求めるのならば、まず先に力を求めるべきだったんだよ。だからこれは勝者であるオレの権利であり、敗者であるお前が受け入れるべき痛みだ」
サリータを身内に入れた時、まず彼女には強くなることを勧めた。それ以外を考えるなと。
その意味は、わざわざ説明する必要もない。ルアンを見ればすぐにわかる。
いくら勇気があっても無謀な行動の結果は残酷だ。抉るごとにルアンの身体から血液が溢れる。この血が罪なのだ。まさに口だけの正義の末路だ。
当然、それを納得できない者もいる。ルアンを教育したレブファトだ。
「やめろ!! こんなことをして何の意味がある! 誰もがお前のように力を持っているわけではない! 力無き者は正義を語る資格もないと言うのか!」
「実行力がない思想に何の意味がある? その結果がこれだぞ? お前は自分のみならず息子まで巻き込んだ。その責任を少しは感じろよ。この結果だって予測はできたはずだ。こんな余興でなくてもオレがお前たちに何をするか、想像はできたはずだ。嫌ならば最初から従っておくべきだったな」
「くう…うう…!」
「力無き正義のなんと愚かなことか。たった一人の愚か者の行動が多くの人々を不幸にしてしまう。その典型だな。レブファト、ルアン、お前たちが正義を貫くのならば力ある者に付き従い、積極的に力を得る努力をすべきだった。もしオレが気に入らないのならば服従したふりをして、オレが弱る時を何十年でも待つべきだった。そんな覚悟もなしにお前たちは自分の正義に酔ったんだよ。力無き正義にな」
ズボッ ごぶごぶごぶっ
ダガーを抜くと一気に出血が増える。
「あぁあああ!! ぁっっ―――はぁはぁ…はぁはぁ…! とさん…おとう……さぁ…―――がく」
何度か激しく痙攣して、がくっと意識を失う。
血を失うごとに顔色が一気に青白くなっていくのがわかる。非常に危険な状況だ。
「かなりショックが強いな。そりゃ刺されたんだ。当然だな。治療をしなければ、すぐにでも死ぬぞ。子供は弱いからな…恨むなよ、対等な勝負だったんだ。逆の立場だってありえた。そこは納得しろ」
「た、頼む!! 息子を助けてくれ!!! 頼む!! 頼むから!!」
「グマシカ・マングラスの居場所を教えろ」
「本当に知らないんだ! 本当だ!! 信じてくれ!! ううぅう…ほ、本当なんだぁ…!!」
あの真面目で堅物のレブファトが泣きじゃくりながら懇願する。その様子は鬼気迫るものがある。
「ふん、まあそうだろうな。グマシカは用心深い男らしい。他派閥とはいえ組長クラスでも知らないんだ。お前が知っている可能性は低いとは思っていたさ。だが、知らないのでは息子を生かしておく価値がないな。人質はお前の妻だけで十分だろうし。がんばって二人目を作るんだな」
「努力する!! 調べる! わかったことは全部知らせる! だから頼む! 頼むぅううう!!!」
「命をかけて調べろ。約束できなければ、息子はここで死ぬ」
「わかった!! 約束する!!」
「約束は絶対だ。裏切ったらどうなるか、わかるな。お前の妻もこうなるだけだぞ。仮にお前が逃げても追いかける。その先々ですべての人間が同じ結末を迎える。こいつのように泣きながら死んでいく。お前のせいでな」
「わかった! わかったから!! 服従する!」
「いいだろう。助けてやる」
契約は成った。
命気を放出してルアンを治療。見る見る間に傷が治っていく。
だが、まだ意識は戻らない。
「刺し傷は損壊より遥かに簡単だな。ちょっとオレが抉った部分の治りが遅いが…もう大丈夫だ」
「…本当に…治ったのか?」
「オレを誰だと思っている。名医のホワイトだぞ。信用しろ」
「る、ルアン…うううっ、お父さんを許してくれ…ううう、ううう!」
「感涙しているところ悪いが、こいつはオレが預かる」
「な、なんだって!?」
「負けた場合、オレの言うことを聞くと約束したはずだ。こいつには違う役割を与える」
「ま、待ってくれ! 何をさせるつもりだ! それで死んだらどうするんだ!」
「それは賭けに負けたこいつの責任だろう。それともお前の正義は約束を反故にすることなのか? 都合が悪くなったら破っていいと教えているのか? もしそうならば、オレもお前との約束を守れなくなるぞ。それでもいいのか?」
「そ、それは…」
「お前がグマシカの居場所を突き止めるか、あるいは有力な情報を提供したら息子を返してやる。安心しろ。それまではオレなりのやり方で教育してやる。子供の教育は大事だからな。お前のせいで多少歪んでいるが、少しはましになるようにしてやるよ」
レブファトは何も言えなかった。その権利すらない。
彼がやることはたった一つ。グマシカの居場所を突き止めることだけである。恐ろしく困難で危険だが、やるしかない。
アンシュラオンは、レブファトに抱えられたルアンを見る。
彼はたしかに負けたが、光るものはあった。その事実は認める。
「ルアン、お前は案外根性があるな。あのまま終わるかと思ったが最後に気迫を見せた。安っぽい正義感は嫌いだが、家族を守ろうとする意思の強さは本物だ。誰にでもできることじゃない。オレにだって簡単にはできない」
よく根性を見せろ、見せてやる、とは言うものの、実際に厳しい環境下に置かれると実行するのは難しいものだ。
アンシュラオンでも同じ真似はできないに違いない。そもそもこの狡猾な男がルアンだったら、痛い目に遭う前に服従するだろう。姉にそうしていたように。
だからこそルアンのがんばりは称賛に値する。
(ふむ、男にはあまり興味がないが…嫌いじゃないタイプだ。ゼブ兄に少し似ているせいかな? まあ、あの人は力があるから正義を振りかざしても問題ないんだが…こいつを鍛えたらどうなるんだろうな。その力でオレに向かってくるか? それもまた面白いか。ふっ、オレもあまりソブカのことは言えないな)
あえて危険を放置して楽しむ。遊び人の悪い癖である。
だが、ルアンという少年には少しばかり見込みがある。ひとまず無意味に殺すという選択肢はなくなった。
それは憐憫やら無責任な同情ではなく、彼自身が自らの行動で勝ち取った【権利】である。
これもある意味で恩寵。
魔人に教育されるのだ。世の中を何も知らないまま無力な正義を振りかざすよりは、よほどましな人間になることだろう。
当然、それが幸せとは限らないが。
194話 「ルアンの覚悟と使い道」
レブファトは息子を人質にされ、アンシュラオンに屈服。
多少手間がかかったものの普通に買収するよりは面白い展開になったので、個人的には満足である。何よりサナの糧になったのが大きい。
(グマシカのことはレブファトに任せておこう。どうせ仕留めるのはまだ先になるからな。ゆっくり狩ってやるとするか)
今はやることが多いので、何かしらの進展があるまではしばらく放置することにする。
しかし、ルーン・マン商会がいかにマングラスのトップに近い組織とはいえ、グマシカは異様に慎重な男のようで、レブファトたち監査官も居場所まではわからないという。
おそらく彼が調べてもわからない可能性は高いが、ここは小さな世界である。
何かの拍子に尻尾を掴むこともあるかもしれないし、それだけ慎重な男だ。自分の居場所を探っている者がいれば黙って見ていることはしないだろう。
アンシュラオン自身が用心深い男なので、グマシカの行動がある程度予測できることも大きい。
(あいつは【餌】だ。必ずレブファトに接触するやつが出てくる。そこから辿ればいいさ)
それに期待して餌を置いておくことにする。ここからは獲物との我慢比べである。
魔獣の中にもなかなか出てこないタイプがいるが、焦ってはいけない。罠を仕掛けてじっくり待つべきだ。
相手が生物である以上、必ず何かしらの動きがある。そこを狙うのだ。
アンシュラオンたちは、夜の間に移動を開始。
朝方一番で西門を抜け、上級街の事務所(工事中)前に到着。
その時、手に持っていた「荷物」が突然暴れ出す。
「むーー! むっーーー=!」
「ん? 起きたか? うるさい荷物だな、ぽいっ」
ゴンッ
荷物(肉)を荒々しく放り投げる。ついでに巻いていたロープも解いてやる。
すると覆っていた麻布からひょっこりと顔を出した少年がいた。
「この人さらい!!」
「いきなりそれか。相変わらず性根が腐っているな」
「お前にだけは言われたくないぞ!」
その荷物、より正しく述べれば「ルアン」と呼ばれる者は、すごい剣幕で怒鳴り始めた。
「どうやら傷は完全に治ったようだな。まあ、オレが治したんだ。完璧なのは当然だ」
「お前が来なかったら怪我自体をしていなかったんだよ!」
「無意味な水掛け論だな。そもそもお前が生まれなかったら家族が苦しむこともなかっただろうにな」
「子供には一番言ったらいけないことだぞ!?」
「ふん、事実を言っただけだ。お前は負けた。その事実を受け入れるんだな」
「くそ…」
一応、負けたことは覚えているようだ。
あれだけ衝撃的な経験をすると記憶が飛ぶこともあるが、この少年は思った以上に精神がタフらしい。
(この歳でオレに立ち向かうようなやつだ。根性はある。マフィアだって恐れおののいて逃げるくらいだしな)
最近日本で流行っているデリケートな「もやし」どもでは、こうはいかない。
かつての日本が愛した骨太の武士の心根と同じく、簡単には折れない心を持っているようだ。それはプラス材料である。
「…って、ここはどこだ!? 僕をどうするつもりだ!?」
「ピーピー喚くな、うるさい。これでもくらえ」
「あうっ!! ぺっ、ぺっ、何をする!」
「それは土だ」
「それくらいわかるよ! どうして蹴ったのかを訊いているんだ!」
「お前がうるさいからだ。これ以上の理由はない。次に無意味に喚いたらダンゴムシでも食わせてやるぞ」
「なんてやつだ…」
土を蹴り上げて顔面にくらわせてやった。いい気味だ。
「お前はしばらくオレが預かる」
「なんてこった!!!」
「お前な、その言い草はないだろう。せっかく助けてやったんだ。礼くらい言えよ。そうじゃないと、お前の父親を裏切ったクズと一緒になっちまうぞ」
「はっ!! そうだった! あいつ…絶対に許さない! どこに行ったんだ!!」
「知ってどうする?」
「ぶん殴る!! いや、あのダガーを貸せ! 刺してやる! 刺してやるからな!」
「ははは、ずいぶんといい感じになってきたな。教育した甲斐があったか」
サナと戦った時の暴力性がまだ残っているのか、ルアンからは激しい怒りが満ち溢れていた。
それがサナに向いていたら制裁を加えたところだが、怒りはアンシュラオンと父親を裏切ったシミトテッカーに向いているようだ。
「あいつはもう都市を出たぞ。探らせておいた部下が東門を出るのを見届けた」
シミトテッカーは昨晩中に都市を出たらしい。閉門ギリギリを狙って飛び出し、母親と恋人とともにどこかに行ったという。
その夜逃げのような姿に衛士も疑問に思い訊いてみたところ、「田舎の祖父が死んだので一時帰郷する」と言っていたそうだ。特に引き止める理由もないので、そのまま彼は消えていった。
「まるで海外への高飛びだな。犯罪者の典型的な末路か。はは、笑えるな」
「何が可笑しいんだ! お父さんを裏切ったんだぞ!」
「そんなに怒ることか?」
「当然だろう。仲間を裏切るなんて最低だ! あいつは許さない!」
「くく、まだまだ子供だな。このお子様が」
「な、なんだと! なんでだよ! お前だって裏切られたら怒るだろう!」
「もちろんだ。だが、裏切られるのは自分も悪い。いや、自分こそが悪い。相手の本質を見抜けなかった自分の能力に問題があるんだ。それを棚に上げて相手を非難ばかりするほうが、よほど人間としては問題があると思うがな。お前はチンピラを友達にしておいて、相手が裏切ったら怒るのか? チンピラなんだから悪いことをするのは当然だろう。それを知っていて友達になった。そいつを選んだのはお前だ。お前には選ばないという権利もあった。つまりはそういうことだ。まずは自分の愚かさを責めろ」
「…思ったよりまともなことを言いやがって…」
「お前より頭がいいからな。どうだ、すごいだろう」
子供相手に勝ち誇るアンシュラオン(大人)。
「じゃあ、放っておけっていうのか? あいつが正しいっていうのか!?」
「あいつは自分で未来を選択をした。その金を使ってどう生きるかは自由だ。ただ、それが幸せな人生だと思うのか?」
「ど、どういうこと…?」
「あいつのような気の弱いやつはな、これから一生裏切ったことが心のしこりになって苦しむだろうさ。何をやっても気が晴れない。すっきりしない。今度は自分が誰かに裏切られるんじゃないかと疑心暗鬼になり、周囲との人間関係も悪くなっていく。オレの予想じゃ、恋人ともそのうち別れるな。その際に金を奪われると見た。恋人なんて所詮は他人だからな。考えてもみろ。どんなアバズレだって上司とその家族を売るような人間と結婚したいと思うか? いつ自分も売られるかわからないじゃないか。生理的に耐えられるわけがない。恋人が先に疑心暗鬼になるさ」
「それを知って…そそのかしたの?」
「まあな。ただ、本当にそうなるかはわからない。案外、すべてが上手くいくかもしれん。が、どちらにせよ、あいつはマングラスの裏切り者だ。今日、お前の父親があいつを告発する予定になっている。当然、面子を重視するマングラスは追っ手を差し向けるだろうな」
シミトテッカーを生かしておいたのは、組織の目をレブファトから外すためである。
実際、告発の内容はすべて事実だ。
個人ではレブファトは最後まで屈服しなかったが、一方のシミトテッカーはあっさりと誘惑に負けた。裏切ったのは間違いない。
レブファトは組織に忠義を尽くした者として称賛されるだろう。そうなれば調査もしやすくなる。
「ははは、あいつの楽しい逃亡生活の無事を願ってやろうぜ。都市の外に出れば追っ手からは逃れられるかもしれんが、このあたりには魔獣もわんさかいる。他の都市に行く前に食われないといいな。あるいは盗賊に出会って死ぬかもしれん。だってさ、現金を持っているんだぜ? 盗人には臭いでわかるんだよ。金を持っているやつの臭いがさ。狙われるに違いない。その際、あいつは恋人と母親を見捨てるかな? ぜひ見物したいものだが小物にかまっている暇はない。残念だよ」
「…あんた…心が腐ってるよ」
「おいおい、お前が怒り狂っていたから教えてやったんだぞ。あいつにろくな人生は待っていない。どうだ、すっきりしたか?」
「ますます暗い気持ちになった…。人が信じられなくなった…お前のせいだ」
「それはよかった。そのほうがお前のためになる。せっかくだ。もう一つためになることを教えてやろう。お前の身柄はオレが預かっている。つまりはお前の飼い主だ。飼い主にはせいぜい媚を売っておけ。そのほうが利口だぞ。わかったか、負け犬君?」
「…勉強になったよ。こんな悪党もいるってね」
「ふっ、悪党か。いい言葉だ」
「少しは怒れよ!」
「力もないガキに何を言われても気にならないな。お前はただの荷物であり、無力な子供だ。そこをまず認識しろ。お前のためにレブファトは危険な任務に就くのだからな」
「くそっ、お父さんの足手まといになるなんて…これじゃ何のために…」
「ルアン、お前は幸せかもしれんぞ。オレは普通、男なぞ捨て置く主義だ。だが、根性があるやつは好きだ。だからお前にチャンスを与えてやる」
「チャンス…?」
「オレの利益のために役立ってみせろ、ということだ。それができたら報酬を与えてやる。仕事とはそういうものだろう? お前はもう両親のもとから離れた独り身。ただの居候だからな。恩義は働いて返せよ」
「くうう…何が恩義だ。でも、お前に借りを作るのなんて最悪だ。…わかったよ」
「いい返事だ。それで、報酬は何がいい? 一度訊いておきたいんだ。お前が今、何を欲しているかをな」
その問いに対して―――ルアンは即答。
今の彼には、迷いはまったくない。
「…力をよこせ! 僕に戦う力をよこせ!!」
「ほぉ、その力で何をする?」
「お前みたいな悪党をぶっ倒す!」
「くくく、いいねぇ。いいよ、お前。やはり見込みがある。そうだ、ルアン。暴力こそが最大の力だ。この世のすべては強制力という暴力によって成り立っている。それをまず認識したな。子供は成長が早くて楽しいよ」
警察が犯罪者を捕まえるためには暴力が必要だ。武芸を習い、銃の扱い方を学ぶ。
正義には力が必要だ。力無き正義こそ悪より悪質であるとルアンは知ったのだ。
「だが、才能には限界がある。お前には到達できないかもしれんぞ」
「ふざけるな! 絶対に力を手に入れる!! 正義を守るための力をだ!!」
「いいだろう。そこまで言うのならば、お前がオレの役に立つごとに力を与えてやろう。…その気持ちを忘れるなよ。多くの人間は大人になると忘れてしまうものだからな。その先にあるのは打算と妥協。お前の父親を裏切ったクズと同じ人生だ」
「忘れるもんか! あいつと同じになんてなるか!」
「では、お前に仕事を与える。この手紙を持って、この先にある高級ホテル・グラスハイランドに行き、ホロロという女性に会え。フロントで呼び出せばいい」
「ホテル? そこで何をするんだ?」
「特に何もする必要はない。まあ、その女性の指示に従え。ただ、ホテルからは出るなよ。お前が動いていいのは『二十四階』のフロアだけだ」
「?? よくわからないけど…わかった」
「よし、じゃあ行け」
「…独りで?」
「当たり前だ。まさか寂しいとか言わないよな?」
「馬鹿にするな! た、ただ…逃げたりするとは思わないのか?」
「そんなに母親をいかがわしい店で働かせたいのか? 種違いの弟と妹、どっちが欲しい?」
「くっ!! 悪党め!! お前はクズだ!!!」
「そんなに褒めるなよ。嬉しいじゃないか。ニヤニヤ」
「ふんっ! 行ってやるよ! 行けばいいんだろう! 約束を忘れるなよ!!」
ルアンは怒り心頭といった様子で歩いていった。
あの状態ならば問題ないだろう。怒りと悔しさが彼の原動力になるはずだ。
「人質のくせに偉そうなやつだな。まあいい、これで『影武者』の代用品ができた。予備の仮面を被せれば使えるだろう。どうせ見分けなどつかない」
手紙には、ルアンを二十四階に置くように書いてある。そこは無人のエリアだ。
まだ子供とはいえ男だ。ロゼ姉妹たちがいる二十五階に行かせるなんてとんでもない。あの年頃の男など毎日エロいことしか考えていないものである。危険すぎる。
よって、その下の二十四階に置いておき、何かあった際には替え玉として敵を撹乱させる手段に使う予定だ。
体格もアンシュラオンに近い。囮や餌として十分役立ってくれるだろう。
こうしてレブファトとルアンの一件は、ひとまず終わった。
だが、次なる問題はすぐに発生する。
195話 「イタ嬢と白い粉(小麦粉サイズ)」
問題が起きたのは後日、アンシュラオンたちが馬車で西門を通ろうとした時である。
「申し訳ありません。商会の権利が剥奪されていて、このまま通すわけにはいきません」
衛士たちが立ち塞がり、馬車が止められる。検問に引っかかったのだ。
ただ、それは不思議なことではない。予見できたことだ。
(まあ、そうなるよな。そういう話だったし)
設定としては「シミトテッカーが買収されて不正をしようとしたが、真面目なレブファトが阻止した。それがバレたシミトテッカーは都市外へ逃亡」ということになっている。
レブファトの潔白を証明するためには、それが書類上のことであってもホワイト商会を一度潰すしかない。そうしないと証言に矛盾が生まれてしまう。
アンシュラオンは商会にこだわりがないので、その点についてはまったくかまわないのだが、こういった事態が発生するのは面倒である。
馬車から顔を出して衛士と交渉を始める。
「ホテルのほうの身分証で大丈夫でしょ?」
「ホワイトさんと黒姫さんは大丈夫ですが、他の方はちょっと…」
「前は通れたじゃん。そんなに厳重じゃなかったよ」
「いえ、それが…そういうことになっておりまして…申し訳ありません」
「ふーん、そう」
(これはマングラスから圧力がかかっているな)
西門のチェックは緊急時以外はそう厳しくない。今まではホテルの証明書だけで通してくれていた。
だが、マングラスが根回しをしてきたのだろう。商会でなくなったのならば遠慮することはないということだ。
(オレたちが商会でなくなれば、場合によっては領主軍とも戦闘になる。マングラスにとっては、そっちのほうがやりやすいか)
この都市での商会は半分マフィアを兼ねているので、商会同士の争いには衛士隊は参加できない。
しかし、商会でなくなれば介入する口実ができる。これがマングラスの妨害工作の狙いである。
中立の領主軍ならば、他のグラス・マンサーと軋轢を生じさせないで済む。そこが重要なのだ。
(領主軍と揉めるのは時期が早いが…しょうがないか。仕事が多い今は機動力を奪われるほうが困るしな)
領主軍と本格的に揉めるのはもう少し後の予定だが、こうなったら仕方がない。彼らとも交戦状態に入るしかないだろう。
ホテル側の様子を確認するため事務所を上級街に建ててしまっているので、毎回西門で問答するのは面倒すぎる。ならば最初から力で押し通ったほうが楽だ。
「お前たち、好きに暴れ…と、待った」
アンシュラオンが命令しようとした時、ふと目に入ったものがあった。
それは商業街の方面から走ってきた一台の馬車。一目で普通とは違うとわかるものなので、乗っている人物がすぐに特定可能だ。
(ちょうどいいタイミングで来たな。狙っていたわけではないだろうが…使えるものは使っておくか)
「お前たちは、ここで待っていろ」
「うすっ」
アンシュラオンは外に出て、馬車が来るまで待つ。
そして、西門の衛士にも検問されずに通ろうとする馬車の前に立つと、御者の男が慌てて馬車を止めた。
「わわっ、いきなり飛び出たら危ないぞ!」
「ねえ、ベルロアナがそこにいるでしょ? 出してよ」
「はへ? お嬢様を? お前さん、誰だ?」
「うん、友達」
「…友達?」
「そうだよ。友達」
「………」
御者がじっとアンシュラオンを見る。非常に怪しい仮面の少年である。
が、その男が思っていたことは、それとはまったく関係ないことだ。
「はは、そりゃ嘘だな」
「どうして?」
「お嬢様に友達なんていないさ。だから嘘だ。いるはずがない。坊や、嘘をつくならもっと本当っぽい嘘をついたほうがいいぞ」
すごい発言である。まったく迷いがない。イタ嬢への周囲の評価が即座にわかる名言だ。
「嘘じゃないよ。本当に友達さ。ベルロアナーー、いるんでしょー、友達が来たよーーーーー!」
「あっ、こら! 勝手に呼びかけちゃ…」
ガタガタガタガタ ガスッ ドガッ
直後、いろいろな音が聴こえて馬車が揺れた。
それからしばらく様子を見ていると荒々しく馬車の扉が開く。
「と、友達!! 友達はどこですか!?! 私のトモダチイィイイイイイイイ!!」
「ぐえっ! お、お嬢様…首を絞めないで…!」
「どこです!? 言いなさい! どこにいるのですか!!! はっ、まさか馬車の下に!」
その騒ぎっぷりに、同乗していたファテロナも降りてきて、一言。
「お嬢様、落ち着いてください。どう考えてもそこにはおりません。相変わらずの馬鹿ですね」
「馬鹿!?」
「あっ、申し訳ありません。頭が悪いの間違いでした」
「同じ意味ですわよ!?」
「やっ、ファテロナさんも一緒だったんだ」
「はい。侍従長兼護衛ですから、片時もお嬢様から離れるわけにはまいりません。その絶望に沈む顔を一瞬たりとも見逃すわけにはいかないのです」
立場はまったく関係ない。明らかに当人の趣味である。
ファテロナはアンシュラオンに近づくと、ひそひそと話し始める。
「お元気そうで何よりです。あなたのお噂は伺っておりますよ」
「へぇ、そうなんだ? どんな感じ?」
「まだそれほど大事にはなっておりません。領主様の耳にも入っていないようです」
「なるほど…まだその段階か。なら安心だ」
「はい。ご安心ください」
「情報を漏らしちゃっていいの?」
「まったく問題ありません。お嬢様以外には興味がありませんので。むしろ混乱してくれたほうが楽しいものです。お嬢様が泣き叫ぶ可能性が高まります」
相変わらず病んでいるらしい。
「ね、ねえ、ファテロナ、何を話しているの?」
「ああ、こっちの話です」
「こっちの話!? き、気になりますわ」
「いえ、大丈夫です。こっちの話ですから」
「そ、そんなことを言わず、わたくしも交ぜてくださいな」
「駄目です」
「駄目!?」
イタ嬢は、アンシュラオンと親しげに話しているファテロナが気になっているらしい。
だが、ここで必殺の「こっちの話だから」をお見舞いする。
「ねぇねぇ、何の話?」「うん、こっちの話」「あっ、そ、そうなんだ…」。まさに学生のグループ間で起こりそうな光景である。
これは痛い。相当なダメージである。確実に溝が生まれる。
当然ファテロナはそれを楽しんでやっており、泣きそうになっているイタ嬢の顔を見て興奮する。
「はぁはぁ、お嬢様…くくく、素晴らしいです。その顔、最高ですよ。ふーふー」
「あのさ、お楽しみのところ申し訳ないけど、こっちの用事もいいかな?」
「なんでしょう? 人の楽しみを邪魔すると地獄に落ちますよ」
「そんなこと言わずにちょっとだけ貸してよ。減るもんじゃないでしょ?」
「しょうがないですね。ちょっとだけですよ?」
イタ嬢、完全に物扱い。
「ねえ、ベルロアナ! オレだよ、オレ! 友達のオレだけど! わかるよね?」
「あっ…は、はい。わ、わかりますわよ。お、オレさん…ですわよね」
「そうそう、オレだよ! 友達の名前を忘れるなんて人間としてありえないし、絶交レベルだもんね! 覚えていて当然だよね! 嬉しいよ!」
「も、もちろんですわ!! 覚えているに決まっていますわ!!」
「うんうん、そうだよね。安心したよ。さすがベルロアナだ」
「え、ええ、そうですわね。わたくしと『あなた』は友達ですもの」
イタ嬢は名前がわからないので「あなた」で済ますしかない。
便利な技だが、一度こうなるとなかなか訊く機会がなくなるという罠が待っている。
「ところでさ、あの衛士のお兄さんが西門を通してくれないんだよ。困っちゃってさ」
「え? そうなのですか?」
「そうそう。オレたちは善良な一般人なのに、なんか誤解しちゃってるんだよね」
「それは酷いですわ」
「だよなぁ。でもさ、オレってこんな仮面被ってるし、あの人たちが怪しむ気持ちもわかるんだ。だからしょうがないとは思うんだけど…悔しいよな」
「そういえば、どうして仮面を…」
「ベルロアナからも言ってやってよ! オレが好きで仮面を被っているんじゃないってことをさ! その理由は前に話したよね!!」
「あぇっ!? ま、前に…!?」
「そうそう、二人だけの秘密だって誓ったよね。その時、ベルロアナはオスカルのことを話してくれたじゃないか。オレが自分の秘密を話した代わりに自分もってさ」
「お、オスカルーーー!」
オスカルとは、イタ嬢が抱いて寝ているお友達のヌイグルミのことだ。
この名前を知っている人間は、イタ嬢とファテロナ、それとクイナくらいである。それを知っているということは深い仲であることを示す。
当然アンシュラオンは領主城での一件で知ったにすぎないので、完全なる作り話である。が、イタ嬢はさらに困惑することになる。
「あぅあぅ…」
「だからさ、ほら、言ってやってよ。怪しくないから通してやれってさ。オレたち友達だろう?」
「と、トモダチーーー! も、もちろんですわ! 任せておいてください! そこの方、この人たちを通してさしあげなさい!」
「え!? で、ですがその…通すなという命令が……」
「誰がそんな命令を出したのですか? お父様ですか?」
「あっ、いや、それは…ええと……身分の高い人と言いますか…」
「わたくしよりもですか?」
「あっ、はい」
「はい!?」
グマシカ・マングラスは、四大市民の現役トップだ。領主ならばいざ知らず、娘のベルロアナより地位は上である。
「…ベルロアナ、もしかして…駄目なの?」
「そ、そんなことはありませんわ!! 任せてくださいな!!」
「うん、信じてるよ。ベルロアナならできるって。君はやればできる子だもんね」
「こんなわたくしを信じてくださるなんて…! やります! わたくしはやりますわ!! わたくしはベルロアナ・ディングラスですわよ! 衛士たちを束ねる領主の娘ですわ! いつか領主を継ぐのです。それでも言うことを聞けませんか!!! その時にクビにしますわよ!」
「ひっ」
結局のところイタ嬢が頼るのは「権力」であった。
やはりこの世界、暴力、金、権力の三つが最強のようだ。
「ですが…その…」
「まだ何かあるのですか?」
「さすがに仮面はちょっと…素顔を見ないと誰かわかりませんし、偽者が交じっていたら困りますし…」
「そ、それはその…この仮面には深い、とても深ーい理由があるのです」
「どのような理由ですか?」
「どのような!? ふ、深い理由です。見ず知らずの人間には絶対に話せないようなことなのです! 友達のわたくししか知らない、とても大切で大事な理由があるのです。そこは察しなさいな! 出世できないですわよ!」
「は、はい!!! 失礼いたしました!」
「今後、この方たちは自由に通してさしあげなさい。命令ですわ」
「はぁ…ですが、怒られるのは私ですし…」
「まだ逆らうおつもりですか!」
「ベルロアナ、こういうときは目先の褒美を与えたほうがいいんだよ」
「あら、そうなのですか?」
「そうそう、そのほうが共犯…じゃなくて、相手も喜ぶから」
「では、あなたは今日から一つ階級を上げましょう。これでよろしいでしょう?」
「はい! ありがとうございます!」
「じゃあ、これからは通してくれるんだね?」
「まあその…こほん。私は目が悪いからな。うっかり見過ごしてしまうこともある。まったく人間というものは、なかなか見分けがつかなくて困るな…いやー、まいったまいった」
こんな怪しい仮面の男、絶対に見間違うわけがないが、とりあえず買収成功である。
(イタ嬢のやつ、役立つじゃないか。やっぱり持つべきは友達だよな)
「ありがとう、ベルロアナ。本当に助かったよ!」
「こんなもの、たやすいですわ」
「そうそう、ところで…あの【粉】は使ってくれている?」
「ああ、あれですわね。もちろん毎晩使っておりますわ」
「どんな感じ? 肌に合う?」
「最初は言われたように赤くなりましたが、その後は馴染んできましたわね。あれってすごいですわね。なんというか…使っていくと…だんだんと心地よくなるというか…心が落ち着きます。まるで違う自分になったみたいですわ」
「そうだろうね。そういうものだしね」
「と、ところであの…こんなことを申し上げるのは不躾ではしたないと思うのですが、あの白い化粧品……まだ余っていればその…またいただけると嬉しいのですが…。もちろんお金は払いますわ! その…どうでしょう?」
「ああ、そんなことなら早く言ってよ。ほら、たくさんあるから」
アンシュラオンがポケット倉庫から白い粉を出す。
その量、およそ五百グラム。よくスーパーで売っている小麦粉レベルの大きさだ。
この前、瀕死で戻ってきたビッグを治してやった対価として要求したもので、実はまだたくさんある。
これだけの量だ。末端価格を考えれば高額であるが、在庫から横流しさせたので問題はない。
もともとコシノシンは余っているのだ。それよりイタ嬢への投資のほうが重要だ。
「今回のお礼だよ。取っておいて。せっかくだ、二つあげよう。これで一キログラムだよ」
「こんなに!? よろしいのですか?」
「うん、かまわないよ。たくさんあるし」
「これはなんというお名前の化粧品なのですか?」
「実は名前がまだないんだよね。そうだ。友達のベルロアナの名前をもらおうかな。『ベルロアナヒーハー』なんてどうだろう」
「ええ!? わたくしの名前を付けてしまってもよいのですか!?」
「もちろんだよ。君には本当にお世話になっているし、ぜひこれを吸って『ヒーハー』言っちゃってよ!」
ベルロアナヒーハー。ベルロアナがヒーハーするものである。
「ありがとうございます。またしばらく楽しめますわ」
「うんうん、またいつでも言ってね。ファテロナさんに言えば、たぶん都合つけてくれると思うし。それじゃまたねー」
「はい。では、ごきげんよう」
こうしてイタ嬢は去っていった。
(イタ嬢のやつ、自分から欲しがるなんて、ちょっと中毒になってるかもな。まあいいや。副作用も少ないし、当人が楽しいなら何よりだ)
こうして衛士を抱き込み、ホワイト商会(仮)は顔パスになった。
持つべきものは、頭の悪い金持ちの友である。まったくもってちょろいものだ。
196話 「ジングラス襲撃 前編」
西のジングラス。
食料品や水全般を担当するグラス・マンサーであり、彼らがいるからこそグラス・ギースの食糧事情は安定しているといえる。
現在はアンシュラオンの大盤振る舞いによって多少の食糧難であるが、輸入量を増やしてなんとか持ちこたえているのは、ジングラスの尽力によるところが大きい。
そのトップに君臨するのは―――
プライリーラ・ジングラス、二十二歳、女性。
彼女こそ、ジングラスグループの若き【総裁】である。
父親が死去したため、若くしてジングラス本家を受け継いだ女性であり、その美しい容姿から『ブランシー・リーラ〈純潔の白常盤(しろときわ)〉』とも呼ばれている。
人が大勢集まれば、そこには必然的に話題が生まれる。誰か目立つ者がいれば噂になり、人々の話の種になっていく。
プライリーラもそうした人物の一人。彼女の名前を知らない人間はグラス・ギースにはいないというほど有名である。
ただ、有名にもいろいろな種類がある。ホワイトやイタ嬢のように悪い意味で有名になってしまう者もいるだろう。
が―――『アイドル』。
プライリーラに与えられた役割は、アイドル〈美化された英雄〉であった。
ジングラスの一人娘であるだけでも貴重なうえ、若くして武人の才能を開花させ、〈戦獣乙女(いくさけものおとめ)〉の称号を手にした女性。有名にならないほうがおかしい。
グラス・ギースの前身であるグラス・タウンを作った五英雄の一人、初代ジングラスは女性騎士であった。
よって、代々ジングラスの女性には強い武人の因子が顕現することが多く、その中でも初代が遺した武具を身につけられる者には戦獣乙女の称号が与えられる。
こんな時代だからこそ人々は英雄を求める。強く美しいものを欲する願望に満ちている。
彼女は領主軍とは違う意味で都市を守る存在、その象徴として有名なのである。
今回のターゲットは、その戦獣乙女たるプライリーラ・ジングラスの傘下にある「ミッシュバル商会」。
この商会は、主に食料品の輸入事業を手がけている。
他の都市の商会と交渉して仕入れた食料品を、自分たちのクルマでグラス・ギースまで運ぶのが仕事である。
輸送に関してはダビアのような運搬業者や、その他のフリードライバーを使うこともあるが、食糧は重要な物資であるため自ら運搬することが多い。
今日もミッシュバル商会は、比較的安全なルートを通ってハピ・クジュネからの輸入品を運んでいた。
東の荒野ルートを通ってきたため、途中にあった二つの街でさらに特産品を買い、クルマに積まれた荷物も大量である。
彼らは馬車も使うが、ハピ・クジュネまでは距離があるのでクルマで輸送するのが一般的である。ミッシュバル商会も南側から仕入れた大型トラクターを使って輸送している。
そのトラクターがグラス・ギースの管理地域のルートに入りかけた時である。
「ん? なんだあれは?」
ドライバーの男が前方に何かを発見。それは交通ルートを覆うように堂々と置かれていた。
一般的な交通ルートの幅は二百メートル近くあるが、当然ここは荒野。フロンティア。未開の地。
この広大な土地に日本で見かけるような道路は存在しない。あるのは長年人間や馬車、クルマが踏み固めた結果、なんとなく道っぽくなった頼りない痕跡だけだ。
道路の両脇には柵などもないので、魔獣が出現しても完全に無防備である。逆に言えば、壊される物が何もない場所でもあるのだが。
ただ、人々にとっては、なくてはならない大切なものである。商人を含めた通行者は基本的に交通ルートを目安に移動する。
なぜならばこの交通ルートは、非常に長い年月をかけて人間が開拓した道であり、魔獣の縄張りを避けるように存在しているからである。
これを作るまでに何万、何十万といった人々が魔獣の餌食になったものだ。その彼らの犠牲によってルートが作られたのだから、まさに血と汗の結晶とも呼べる貴重なものである。
ここを外れてしまうと、いきなり強力な魔獣と出会って即全滅、といったことも頻繁に起こる。一般人にとっては、けっして見逃してはいけない大切な命綱なのだ。
そんな大切な交通ルートに、なにやら『岩』のようなものが大量に積み上げられて邪魔をしている。
一見すれば高さ五メートルほどの石垣のようにも見えるが、一つ一つの石は大きく、まるで城壁に使われている岩石を持ってきたかのようだ。
それによってクルマが通れるスペースが非常に限られている。両脇をがっちり石垣で覆われているので、真ん中を通るしかないようにされていた。
こんなものは行く時はなかった。あったら誰でも気がつくはずである。
「おい、これはどうなっているんだ?」
ドライバーは隣に並んだクルマに、運転席の窓越しに話しかける。
隣の男も自分と同じく労働者のような格好をしており、長年クルマを使って商売をしている同業者である。
その男も首を横に振る。
「さあな。俺たちだって順番待ちだ」
「順番? 検問でもやっているのか?」
「そんなの知るかよ。文句ならあいつらに言えって」
「あいつら…?」
ドライバーが前方を見ると、なにやら通るクルマや馬車をチェックして回っている連中がいるようだ。
「誰だ、あの連中?」
「知らんよ。その車体マークを見るところ、あんたはグラス・ギースの商会だろう? そっちのほうが詳しいんじゃないのか?」
「いや、俺も知らない。そもそもグラス・ギースでこんな検問なんてしたことはないはずだ。聞いたこともない」
「ふーん、そうかい。なら、何か犯罪者が逃げ出したとかは?」
「わからないな。少なくとも俺が都市を出るまで、そんな話は聞いたことがない」
よほどの大罪人が逃げ出したなどの特別な事態でない限り、普通は外でこうした検問が行われることはない。
しかも彼らは、グラス・ギースに向かうクルマを重点的にチェックしているようだ。
もし逃げ出したのならば、出て行くほうを中心に調べるだろう。何かおかしい。
ただ、案外進み具合は悪くなく、次々とクルマや馬車が通っていく。
こういう運送業者の連中は荒っぽい労働者が多いので、たまに検問に怒った短気な男の罵声が聴こえることもあったが、すぐに静かになるのでさして気になるものでもなかった。
(まったく、こっちは急いでいるってのにな…。といって交通ルートを外れるのも怖い。待つしかないか)
交通ルートといっても、たかが二百メートルの幅である。この広大な土地において、そんなものは無いにも等しい。もし嫌ならば迂回して進んだっていいのだ。
だが、これを外れて命を失った不用意な人間は数多く存在する。ルートを通っていても気まぐれな魔獣に遭遇するくらいだ。人の臭いが染み付いたルートから外れると何が起こるかわからない。
特に食料を移送しているクルマなど飢えた魔獣や盗賊のよい標的だろう。そう、そういった者を狙う人間もいるのだ。リスクは背負えない。
(それにしても、あんな岩…どこから持ってきたんだ? なにやらおかしな光景だな)
まず第一に、あれだけの岩がここに存在していることがおかしい。すさまじい量と大きさなので、人間が運ぼうとすれば通常のクルマでは難しいだろう。
特殊な重機か、あるいは魔人機と呼ばれる巨大人型兵器を用いなければ不可能なレベルにさえ思える。
普通に考えれば魔獣の仕業なのであろうが、グラス・ギース周辺ゆえに【天災】という可能性も捨てきれない。
なにせあの都市は一度大きな大災厄に見舞われているのだ。また起こっても不思議ではない。
だからこそ、それが一人の人間によって運ばれたものであることをドライバーは知らない。気付けない。それが常識の限界というものである。
ドライバーの男がそんなことを考えていると、ようやく自分の番、ミッシュバル商会のトラクターの番がやってくる。
誘導に従い不本意ながら石垣の前で止まると、ドアが叩かれる。
「はいはい。なんですか? 手短にお願いしますよ」
「はい。お時間は取らせませんよ。すぐに済みますから」
「…っ!?」
「おや、何か?」
「…い、いや…その……え? それって…え?」
「ああ、失礼。この仮面は日焼け止めなんです。驚かしてすみませんね」
「あ、ああ…なるほど」
仕方なくドアを開けると、目の前にいたのは―――少年。
しかも、ただの少年ではない。なぜか白い仮面を被っており、着ている服も白いスーツのために全身が真っ白である。
その美しい白さに一瞬、自分たちの長であるプライリーラを思い出すが、相手は少年なのでまったく違う存在だろう。それ以前に彼女がここにいるわけもない。
状況がわからずドライバーが困惑していると、少年が話を続ける。
「ちょっとお伺いしますが、積荷は何ですかね?」
「なんでそんなことを訊く? 都市じゃないんだ。何を積んでいたっていいはずだけどね」
「まぁまぁ、そう怒らないでくださいよ。ちょっと探し物をしていましてね。ご協力いただけたら助かります」
「うちはきっと関係ないよ。だって積んでいるのは仕入れたばかりの食料品だからね」
「ほぉ、食料品。なるほどなるほど。その車体の『羽馬マーク』は…もしかして、ミッシュバル商会さん?」
「そうだけど…それが何か?」
クルマにはジングラス一派であることを示す、ペガサスに似た馬のような商紋が刻まれている。
さきほどのクルマの男も、これを見たからこそ彼がグラス・ギースの商会であることがわかったのだ。
仮面の少年は、それを確認して笑う。
「そうですか。いやー、探しましたよ。申し訳ありませんが、ちょっとクルマを移動してもらえますかね。ほら、あそこなんてどうでしょう? あの端っこあたりに」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。なんだいこれは? こっちは早く行かないといけないんだよ。わかるだろう? 輸送は速度が命だからさ」
特に野菜は鮮度が命だ。このクルマは空調が効いているが、冷蔵庫の絶対数が少ないグラス・ギースでは、できるだけ早く届ける必要がある。
冷蔵庫または冷凍庫が少ないのは、凍結系のジュエルが少ないせいである。
術の中でも凍結はかなり難しい術式なので、ジュエルに埋め込める術者が少なく、当然生産される数も非常に少ない。
これは凍気を操る武人にも言えることである。使い手そのものが少ないのだ。
そんな事情もあってドライバーは早く行きたがる。しかし、トラクターの前には怪しげな男たちが立ち塞がっていた。簡単に通してくれるような状況ではなさそうだ。
「ええ、わかりますよ。いつもお仕事ご苦労様です。ですが、こっちにも事情がありましてねぇ。ちょっと移動してくれればいいんですよ。できれば平和的に解決したいんですけど…どうします?」
「…変なことはするなよ。こっちだって護衛がいるんだからな」
「いえいえ、ご心配なく。話が終わりましたら、そのまま行ってくださってけっこうですよ」
「…わかった」
渋々ドライバーは石垣の端にクルマをつける。
それと同時に随伴していた他のクルマも周囲に停まり、ぞろぞろと護衛の傭兵たちが降りてきた。
傭兵の数は十三人。大型魔獣を相手にするには多少心もとないが、あまり雇いすぎると経費がかさむので、このあたりの見極めが難しい。
彼らは途中の街で雇った者たちで、グラス・ギースに行けば、今度はハピ・クジュネ方面に出かけるクルマの護衛依頼を受ける。
傭兵団の中には所属都市を限定せず、次々と都市を移動して場当たり的に依頼を受ける者たちがいる。
そういった一つの街に定着しない傭兵を―――【渡り狼】という。
渡り狼を使う最大の利点は、料金が安いことである。
グラス・ギースの傭兵を雇うのも一つの手だが、往復分の代金が必要となるのは地味に痛い出費だ。その間の手当ても負担になる。
それと比べて渡り狼たちは都市間の移動に商会のクルマを利用させてもらう分、料金が安くなる。彼らにとっても護衛が移動手段になるというわけだ。
また、交通ルートの移動とはいえ魔獣と遭遇することも多い商売である。
彼らも普段から多くの魔獣と戦っているので傭兵としての実力は申し分ない。レッドハンター、あるいはブルーハンターに匹敵する者だっている。
それが十三人である。
一方の少年たちは、黒い少女を含めて六人。
数としては脅威にはならないと思えた。それもまたドライバーが素直に停まった理由である。
それよりミッシュバル商会と知りながら止めたのだ。そこに何かしらの目的があってしかるべきだろう。
ドライバーにとっては、そちらのほうが気になっていた。もし何かしらの商売上の用事があるのならば無視するわけにもいかない。
だから、このドライバーに非はない。責任はない。
なぜならば彼は、今グラス・ギースで起きていることを知らないからだ。外に出ていたので内部で何が起きているのかを知る由もない。
加えて単なるドライバーなので、組織の内情までは教えてもらえるわけがない。
だが、もし噂の一つでも聞いていれば逃げることはできたかもしれない。それだけが不憫でならない。
197話 「ジングラス襲撃 中編」
「それで、何か用ですか?」
「私、こういう者です。どうぞお見知りおきを」
「…ホワイト商会(仮)…さん? どうして『かっこ仮』なんです?」
「いやー、なんだか商会手続きのほうで不備があったらしくて、しょうがないんで名前を変えたんですよ。どうです? なんか売れそうな名前だと思いません?」
「はぁ、なるほど…」
ホワイト商会が駄目になったので、「ホワイト商会(仮)」という名前で再登録したのだ。
当然、これも名前を少し変えただけなので、マングラスにすぐに消されるのだろうが、だからこそ面倒になって「じゃあ、かっこ仮でいいよ」という感じになったわけである。
あとはこれを永遠に続けていくというイヤらしい戦法を取るだけだ。結局相手もいつか面倒になって、そのうち「ホワイト商会」で統一されることになるだろう。
商会など、あってもなくても変わらない。これもお遊びでしかない。
「失礼だけど聞かない名前ですね」
「始めたばかりですからね」
「で、そのホワイト商会さんが何の用?」
「我々は護衛業などをやっておりましてね。ぜひともミッシュバル商会さんの護衛を担当したいと思っているわけですよ。旅は危険でしょう? 強い護衛は必要だと思いましてね」
「ああ、そういうことですか…」
「うちの連中は役立つと思いますよ。どうでしょう? あちらの渡り狼よりも安くしておきますから」
「そうは言われてもな…。自分の一存で決められるものじゃないですしね。自分は単なるドライバーですから本部に言ってもらわないと」
「そこをなんとか現場の判断ってことで伝えてもらえませんかね?」
「うーん…名刺くらいは渡してもいいけど…採用されるかはわからないよ?」
「ええ、それで十分ですよ」
「話は終わり? じゃあ、もう行きたいんだけど」
「ああ、もう一つだけ。お時間は取らせませんから聞いてもらえないですかね?」
「しょうがないな。早めに済ませてくれよ」
「あなた、今の待遇に満足なさっておられますか?」
「…? 何の話だい?」
「いえね、もしよろしかったら協力してもらえないかなぁ、と思いましてね。あなたに協力してもらえると実に助かるわけですよ」
「はっきり言ってもらわないと…よくわからないんだが?」
「じゃあ、はっきり言いましょう。あなたが運ぶ荷物ですけどね、うちに【横流し】してもらえませんかね?」
「なんだって!!?」
「いえいえ、そんなに驚くことではありません。よくある話じゃないですか。もちろん報酬はお支払いいたしますよ。その分が丸々あなたに入るわけですからね。こんなにお得な話はないでしょう?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! そんなの無理だ!」
「たとえばそう、このあたりで積荷をちょこっとだけ降ろしてくれれば、それでいいんです。全部とは言いません。三分の一程度でもいいんですよ。代わりに空箱でも積んでおけばわかりませんよ」
「そんなのすぐにバレるって!」
「それなら適当に安いものと入れ替えればわかりませんよ。帳簿を書き換えれば済む話ですからね。…どうですか?」
「む、無理だ! そんなことをしたら殺される! うちはそんな甘い組織じゃないんだ!」
マフィアである以上、その制裁は最悪の結果をもたらす。ドライバーである自分など簡単に始末されるだろう。そんな危険は冒せない。
「なんで俺に言うんだ! 巻き込まないでくれ!」
「あなただけじゃありません。全員にお話をもちかけています」
「そ、そうなのか…? そもそも何のために横流しをする?」
「それを言わせるんですか? そりゃ簡単な話ですよ。グラス・ギースの食糧事情は切羽詰っているそうじゃないですか。となれば、それをコントロールすれば高値で売れる。ここで供給を減らし、そこから間引いた分でさらに儲ける。それだけの話ですよ」
食糧の供給が間に合わなくなれば、他で仕入れるしかなくなる。そこで闇市を開き、高値で売るという寸法だ。
しかもジングラスから横流しさせるので、供給量を直接制御することができる。一石二鳥である。
ただし、これには協力者の存在が必要となる。そのための勧誘だ。
「そんなことをすれば都市の人間が苦労することになる」
「それは正確な表現ではありませんね。最下層の人間が苦労するだけのことです。どうせ上級街のお偉方は飢えたりしませんよ」
「結局、それは治安の悪化を招くじゃないか」
「べつにいいじゃないですか。利益が出るなら」
「うちらを甘く見ないでくれ。うちの社長…総裁は、みんなに食料品が行き渡るように尽力している人だ。そこには理念があるんだよ」
「ほぉ、総裁…たしかプライリーラ・ジングラスでしたか? 年頃の女性がトップとは、なかなか珍しいですね」
「その様子だと、あんた…グラス・ギースの外の人間だな? 古くから住んでいる市民の中で、うちの総裁を知らない人間なんていないしな」
「ええ、まあね。外から来た人間ですよ」
「なら、覚えておくといい。ジングラスは、ただ金儲けのためだけに商売をやっているわけじゃない。都市を守るために活動しているんだ。外に出て食糧を仕入れるっていう危険な役目を負っているのも、ジングラスだからこそだ」
ジングラスが食糧という一番重要なものを担当しているのも、それだけの信頼があるからである。
仮に家がなくても、便利な道具がなくても人は死なない。が、食糧と水がなければすぐに死んでしまう。
だからこそジングラスの役割は大きい。戦獣乙女のプライリーラはもちろん、そこで働く者たちにはプライドがある。
「それに、グラス・ギースには【守り神】がいるんだ。領主軍とは違う都市を守る最大の力だ。ジングラス本家は代々それを使って都市を守っている。あまり変なことを考えていると痛い目に遭うぞ」
「守り神ですか。それは初耳だ。どのようなものですか? 動く巨像とかですかね?」
「さぁ、詳しくは知らない。うちらの商紋に関係しているとは聞くが…。どのみちプライリーラ様はお強い人だ。こんなことが知られたら制裁されるぞ」
「それはそれは興味深いですね」
「冗談じゃないぞ。本当だ。あんたのためにも忠告しておくよ。…ここでの話は聞かなかったことにする。それがお互いのためだろう」
ドライバーは誘惑に打ち勝つ。
マングラスのシミトテッカーと比べたら、その心意気は立派だ。もちろん各人の人間性もあるが、やはりグラス・マンサーごとに傾向性が存在するようである。
ジングラスは、とりわけ結束力が強い。それもプライリーラというアイドルがいるせいだろう。
グマシカのようなジジイに好かれなくても気にならないが、プライリーラに嫌われるというのは耐え難い苦痛なのかもしれない。
「あなた、いい人ですね。嫌いじゃないですよ」
「そ、そうか…?」
「だから、あなたは殺さないでおきましょう。せっかく名刺を渡したことですし、生き証人も必要ですしね」
「…は? あんた何を…」
「マサゴロウ、やれ」
「了解だ、オヤジ」
アンシュラオンが声をかけると、トラクターの前に立ち塞がっていたマサゴロウが、傭兵に向かって歩き出す。
「ちょ、ちょっと…何をする気だ!」
「まあ、見ていてくださいよ。楽しいショーが見れますから」
「何をするってんだ…」
ドライバーがその様子をじっと見ていると、マサゴロウと呼ばれた男が大きな手を振り上げる。
誰もがそれを何事かと見つめていた。まだ状況の変化に気がついている者は少ない。
次の瞬間、手が振り下ろされ―――傭兵が吹き飛ぶ。
正直、吹っ飛んだ、というレベルではない。手に覆われた戦気の力によって、その張り手は完全なる凶器になっていたのだ。
受けた傭兵が一瞬で粉々のミンチに成り果てたのである。彼の上半身は、もはや原形をとどめていない。
びちゃびちゃっ―――ボトボトッ
肉片となった、かつて傭兵だったものが大地を赤く染める。
「なっ!! 何しやがる!!!」
ここで反応できたのも、そこそこ熟練した傭兵だったからにほかならない。護衛の仕事で魔獣や盗賊と戦ってきた彼らだからこそだ。
そんな相手をマサゴロウは見下す。
「お前たちは皆殺しだ」
「と、とち狂ってんのか、てめぇは!」
「死ね」
「がっ―――!?」
グチャッ
マサゴロウが素早く男の頭を掴み、握り潰す。ギリギリという音もしない。握った瞬間には、トマトのように簡単に潰れてしまった。
まさにミートソースのように、大きな手から血と肉がこぼれ落ちていく。
それでようやく傭兵は事態を察知。
「このやろう!!」
「撃ち殺せ!!」
バスバスバスバスバスッ
傭兵たちがどんどん撃ち込み、何十発という銃弾が注がれる。
だが、そのすべてが放出された戦気に防がれていく。何発か貫通したものもあるが、彼の分厚い筋肉によって押し返される。
HPの多い彼にとって、この程度は石ころにも満たない微々たるダメージだろう。
「な、なんだぁ! こいつは!! 銃が効かねえ!」
「ぬるい…ふんっ!!」
「ぎゃっ!!」
マサゴロウが手を張り出すと圧縮された戦気が傭兵を破砕。対魔獣用に用意した鎧を簡単に破壊し、肉体ともども粉々にする。
アンシュラオンがよくやる戦気波動の掌版、戦気掌である。戦気ではなく火気を圧縮すればビッグに教えた裂火掌になる。
「普通の人間じゃねえぞ! 魔獣用の近接武器を使え!! 大型のものなら…」
「ぎゃはは! どっちを見てんだよ! 敵はあいつだけじゃねえぜ!!」
ザクッ ブシャーッ
マサゴロウに注意が向いていた間に、他の戦罪者たちも各々の武器を持って襲いかかっていた。遠慮なく背後から襲いかかる。
「ぐあっ! き、貴様らぁ…! ふざけた真似を!!」
「ぎゃはは! 殺せ、殺せ!! オヤジの命令だ! 皆殺しだ!!」
「ぐはっ!! こいつら…強いぞ!!」
「ふんっ! 死ね」
「ぎゃーーー!」
数の優勢はどこにやら。次々と傭兵がやられていく。
その光景にドライバーは開いた口が塞がらない。
「ど、どうなってんだ! 渡り狼があんなに簡単に…! 魔獣でも倒せるやつらだぞ!」
「魔獣と言ってもいろいろいるでしょう。あの程度の腕じゃ、せいぜいエジルジャガーを追い払うのが精一杯ですね。ふふふ、うちの連中はあんな可愛い子猫よりも凶暴でね。どうもすみません」
「お、お前…! 何をしているのかわかっているのか!? こんなことをしたらどうなるか…説明したばかりだろう!!」
「ええ、わかっていますよ。ジングラス一派のミッシュバル商会さんの輸送トラクターを襲っているところです。で、たしか…制裁してくれるんでしたっけ? そのプライリーラさんが。いやー、緊張するなー、アイドルに会うのなんて初めてだし、やっぱり花束くらい用意したほうがいいですかね?」
「それを知って…」
「ああ、思ったより早く片がつきましたね。まったく、うちの連中は相変わらず手加減を知らない。滅茶苦茶ですねぇ」
ちょうど最後の一人が、マサゴロウに殺されている瞬間が見えた。
その巨体から繰り出される一撃が、あっさりと相手の剣を砕き、そのまま顔面を破壊していた。圧倒的な力の差である。
見ると、周囲は凄惨な状況になっている。人間の形を残している者のほうが少ない。
これならば魔獣に襲われたという口実でも信じてもらえるに違いない。
「なっ、馬鹿な!!」
「あれが本物の武人というやつです。どうです? 言った通り、うちの連中は渡り狼なんぞより役に立つでしょう? まあ、あいつらは対人戦闘に特化したやつらなんでね、魔獣の相手が多い渡り狼さんは災難でしたね。ははは」
「ひ、ひぃ!!」
ドライバーはアクセルを全開にして、トラクターを動かそうとする。
「早く、早く!! 動け!!」
ブオオッブオオオ ブシューー
だが、どんなに動かそうとしてもトラクターはまったく動かない。これも浮遊型なので浮き上がってから進むタイプであるが、まったく浮き上がらない。
まるで何か強い力が押さえているかのように。
「おや、動きませんね。故障ですかね?」
「くそっ、くそっ! どうして!」
「種明かしをしますとね、私が踏んでいるからですよ」
「えっ!?」
「だから、ほら。私が押さえているでしょう? だから浮かばないんです」
答えは簡単。アンシュラオンが足でクルマを上から押さえているから。
ドアから入れた右足一本で、軽く踏んでいるから浮き上がらないのだ。
198話 「ジングラス襲撃 後編」
「そ、そんな! 百トンもの荷物を運ぶクルマだぞ! 人間独りでどうにかなるもんじゃない!」
「ああ、そんなに運べましたか。軽いので積載量を心配しちゃいましたよ」
「な、なんなんだよ…お前は!!」
「だから言ったでしょう? 武人だって。あの岩を運んだのも私一人ですからね。最初はあいつらも使っていたんですが、遅くて遅くて…。いや、上司としては部下に任せるべきなんでしょうけどね。人殺し以外は苦手なやつらなんで困ったもんですよ」
「ば、化け物…」
「やだなぁ、人の顔を見て化け物だなんて。傷ついちゃいますよ。ちょっと罰が必要かな。ほら黒姫、やってごらん。狙う場所は足だよ」
「…こくり」
「な、なにを…」
サナがクロスボウを構えて―――撃つ。
その動作に迷いはまったくない。すでに手慣れた様子で即座に発射。
「ぐぁっ!!」
ブスッ
矢はドライバーの太ももに命中。ずっぷりと突き刺さる。
「おお、いいぞ。もうクロスボウはほとんど完璧だな」
「…こくり」
「やっぱり実戦が一番習熟が早いな。それじゃ、降りてもらえますかね」
「あっ!!」
アンシュラオンがドライバーを掴むと、外に放り出す。
そして、そのままトラクターに乗り込んだ。
「初めてのクルマの操縦だ。どんなもんかな。楽しみだな」
「ま、待て…! 待ってくれ! 荷物はどうか…」
「最初から言うことを聞いていればよかったのにね。そうしたら旨みもあったのに。要領が悪いと生きづらい人生になっちゃいますよ。んじゃ、おたくらのボスによろしく。会える日を楽しみにしていると伝えてください」
ブオオオッ
トラクターが動き出し、マサゴロウたちもクルマに掴まって移動していく。
ドライバーが追いかけようとするが、足が痛くて満足に歩けない。ひょこひょこと片足でケンケンするのが精一杯だ。
「くそおお!! やられた!!」
もうその言葉しか浮かんでこなかった。
これが魔獣にやられたのならば仕方ないとも思えるが、同じ人間相手にやられると非常に悔しいのはなぜだろう。
「…ひっ、死んでる…。渡り狼が…全滅なんて……」
しかし、目の前に広がる大惨事に比べれば、この程度の怪我で済んだ自分は幸運だろう。たかが足。古傷は残るかもしれないが治療すれば治る程度のものだ。
彼には遠ざかるクルマを見送ることしかできなかった。
アンシュラオンは奪ったトラクターで移動を開始。
交通ルートから外れ、荒野に入っていく。
(地球のクルマと大差はないな。アクセルが手元にあるくらいか?)
初めて運転するクルマだったが、あまり違和感なく操作できていた。
唯一違うところは、手元でアクセルとブレーキが操作できるところだろうか。地球でも障害者用に運転補助装置というものがあるが、これは案外便利である。
それからしばらく進み、荒野にぽつんと大きな枯れ木が立っている場所に停車。
およそ三十分後、違うルートの方向からもう一台のトラクターがやってきた。
そのクルマが停まると、槍を持った男が降りてくる。
「マタゾー、そっちも上手くいったようだな」
「万事滞りなく。オヤジ殿のご命令通り、ドライバーには名刺を渡して逃しました」
「それでいい。上に報告してもらわないと意味がないしな」
アンシュラオンたちの数が少なかったのは分担作業にしたからだ。地図で見ると一つしかないルートでも、広大な大地のため道はいくつかに分かれている。
他のルートにマタゾーやハンベエなどの強い武人を分けて配置し、それぞれがミッシュバル商会のトラクターを襲う計画となっていた。ちなみにヤキチは都市内部の襲撃と事務所の警備担当なので、この場にはいない。
作戦は、見事成功。
マタゾーも成功し、さらにもう一台やってきた。
降りてきたのはハンベエ。
「いやぁ、遅くなって申し訳ありません。ちょっと楽しんでしまいましたよ。ああ、それとドライバーは死んでしまいました。想定外の事故でしてね」
「悪趣味な男であるな。どうせわざと殺したのであろう」
「信じてくださいよー、マタゾーさん。たまたまうっかり毒を吸気してしまったようでしてねぇ。せっかく死ぬのならと少し見学していただけですって。オヤジさん、申し訳ありません」
「証人は二人いれば十分だろう。問題ない。死体が発見されれば同じだ」
「さすがオヤジさん、話がわかる」
どうやら毒で苦しむ姿を堪能していたようだ。相変わらずの狂人である。
だが、トラクターは奪取したので十分な働きだ。そもそも戦罪者に丁寧な仕事など求めていない。殺して奪えばそれで十分だ。
そしてまたしばらく待っていると一台のクルマがやってきた。運搬用のトラクターではなく、もっと小さなバンのような形をしている。
降りてきたのはファレアスティと、彼女の部下であろうキブカ商会の構成員たちだ。
「今度はこっちのほうが早かったね。オレの勝ちだ」
アンシュラオンは勝ち誇ったように笑う。初めてファレアスティと出会った際、彼女のほうが先に来ていた件のことを言っているのだ。
それに対して、彼女は呆れたような声を出す。
「時間を競い合っているわけではありません」
「借りは返さないとね。これでイーブンだ」
「まったく…案外子供ですね。しかし、結果は見事です」
「簡単な仕事だよ。物足りないくらいさ」
「無警戒だったのですから当然でしょう。次は対策を練ってくるはずです。どうぞお気をつけて」
「こっちの心配はいらないな」
「そちらが失敗をすれば、こちらの迷惑になります。そういう心配です」
「あっ、そう。君も相変わらずだね。それよりそっちはちゃんとやってるの? それこそ心配だ」
「こちらも問題ありません。すでに外部の輸出商会と契約を取り付けています。これによって食糧難になることはありません」
「それを聞いて安心したよ。この子たちが食いっぱぐれちゃ困るしね」
食糧を担当するジングラスを狙えば、グラス・ギース全体に影響を与えてしまう。物資不足による高騰が起き、普通に暮らしている人々は大打撃だ。
今やサナ以外にも何人か養っている身だ。結果的にそれが自分に降りかかることになるのは避けたい。全体的に経済が落ち込めば儲けも減ってしまう。
しかし、その損失分はすぐにキブカ商会によってカバーされることになるだろう。
独自に築いたルートを使って食料品を輸入したからだ。ジングラスが輸入できなかった分はキブカ商会がまかなうというわけである。都市にダメージはない。
「でも、食料品にまで手を出して大丈夫なの? キャパ不足とかにならない?」
「問題ありません。前々からこちらに手を出すことは決まっていたことです。あとはタイミングでした」
「なるほど、それをオレが与えてやったってことだね。感謝してもらいたいな」
「立場は対等のはずです。お互いの役割の違いにすぎません」
「それくらい言わせてくれてもいいのに。君はほんと、オレが嫌いなんだね」
「………」
「まあいいよ。せっかくだ。他の派閥を巻き込んだほうが面白い」
ジングラスを狙うのは、アンシュラオンの計画にはなかったことだ。自分の興味はスレイブと、せいぜいジュエル程度しかないからだ。
しかし、キブカ商会は新しい事業を展開する計画を練っていた。医療器具だけでは限界があるので、より大きな市場に手を出したかったのだ。
ただし、そのまま参入してはジングラスから文句が出る。最下位のラングラスでは、反対意見を押し切るだけの力はないだろう。
特にプライリーラというアイドルの存在が大きい。彼女を敵に回せば勝ち目は完全になくなる。
だが、ジングラスの力が弱まればどうだろう。安定した食糧が仕入れられなかったら?
まずマフィアたちが管轄する店から苦情が出るだろう。それから住民たちにも不満が溜まり、治安が悪化するかもしれない。それが徐々にジングラスへの圧力になっていく。
そこにキブカ商会が入り込む隙が生まれる。
緊急措置、人助け、大義名分は何でもいいだろう。ともかく都市の維持のためと言い張ればいい。
そうやって人々の信頼を勝ち取っていけば、自然と地位は定着していくものである。
「これを続ければ、いくらアイドルがいても限界はやってくる。人間ってのは正直なもんだ。食い物がなくなれば騒ぐだろうしね。くくく、悪いやつだな、ソブカは。まったくもって鬱屈したやつだよ」
「あなたには…言われたくありませんね」
「まあ、そうだね。ただ、こうなるとジングラスからの圧力…制裁だっけ? 攻撃があるんじゃないの? オレたちはいいけど、そっちに向かったら危ないんじゃない?」
「そうでしょうね。こちらが物資を持っていけば確実に衝突するでしょう」
「大丈夫なの?」
「我々が覚悟もなしに生きていると思うのですか? こちらも本気です。そう、私たちはいつだって本気なのです」
ファレアスティの目が鋭くなる。生き残るために必死になった者の目。獣の目だ。
「いい目だね。それなら大丈夫そうかな。そういえばプライリーラは強い武人だって聞いたよ。それはどうするの?」
「ソブカ様とプライリーラ様は、年齢が近いこともあって幼馴染として過ごしたこともあります。いきなり正面衝突はないでしょう」
「そうなんだ。プライリーラって子は、どんな性格なの?」
「理知的で常に堂々としている方です。正道を好み、人々の理想であろうと努力する女性でもあります」
「まさにアイドルだね。…偶像か。好きじゃないタイプだ」
「こちらが動くことで彼女を引きずり出します。その後は…」
「わかっているよ。こっちが潰す。ところで奪った食糧はどうするの? けっこうな量だけど」
「そのまま持っていけば怪しまれますから、こちらの裏取引ルートで換金します」
「ジングラスの分を丸々横取りだもんね。あっちは大損で、そっちは大儲けだ。儲けたんだから、こっちへの援助も忘れないでね」
「もちろんです。やってしまった以上、一蓮托生ですから」
「うん、いい言葉だね。オレが大好きな四字熟語だよ。それと次の予定だけど…【ハングラス】ってことでいい?」
「問題ありません。スケジュール通りにお願いします」
「しかしまあ、少しは手応えのある相手が欲しいな。うちの連中も相手が弱いと飽きちゃうからね。そこんところ調整しておいてよ。情報を事前に流すとか何でもいいからさ。強いやつらが来るようにしておいて、それを潰したほうが箔が付くでしょう? そのほうが注目されて、そっちも動きやすくなるし」
「…わかりました」
「じゃあ、またね。ソブカによろしく。おい、行くぞ」
「へい、オヤジ」
アンシュラオンと戦罪者たちは、クルマにも乗らずに荒野に消えていってしまった。
少しでもルートから外れれば魔獣に出会うかもしれないというのに、まったく怖れていない。
それも当然。ホワイトハンターであり、デアンカ・ギースすら一蹴した彼に怖れるものはないのだ。
その姿を見て、ファレアスティは思わず身震いする。今になって対峙していた時の圧力が襲いかかり、汗が滲む。
(怖ろしい人…あんな狂人連中を奴隷のように扱えるなんて…。ソブカ様が魅了されるわけです。彼がいれば怖れるものはない。でも…だからこそ不安です。いざというときは…この身を犠牲にしてもお守りしなくては)
アンシュラオンはいいが、ソブカ自体はさして強くはない。何かあれば死んでしまう身なのだ。
それを防げるとすれば自分だけだろう。いざとなれば身代わりで死んでもいいと思っていた。その覚悟が彼女を強くする。
「さあ、戻りましょう。早くこれを処分しなければ」
羽馬の商紋を削り取ったトラクターに構成員たちが乗り込み、動き出す。
ファレアスティたちも荒野に消えていく。ただしアンシュラオンとは違い、慎重に油断せずに恐れながら。
それが両者の格の違いを如実に表現していた。
199話 「事務所完成記念パーティー」
「なぁ、今日は診察があるって本当か?」
「私はそう聞いたけどねぇ…」
「最近、先生があまり来なくなった理由ってなんだぁ?」
「これは噂だけどね、裏で圧力をかけたやつらがいるって話だよ。それであまり診察所を開けられなくなったってさぁ」
「なんだよ、それ。いったい誰がそんなことを…!」
「あいつらじゃないのかねぇ。ほら、あそこさ」
老婆が指差した場所には、どう見ても堅気ではない連中がいた。
それも数人というレベルではなく、あちこちにもいくつかのグループがおり、こちらに対して目を光らせているようだ。
「あいつら…筋者かぁ? どうして邪魔を?」
「先生が治療するのが面白くないのさ。こっちは少ない生活費でやりくりしているってのに、まったく許せないねぇ!」
「自分たちだけ儲けやがって…なんたるやつらだ! 先生に手出ししたら、ただじゃおかねえぞ!」
「そうだ、そうだ!」
中年の男の声に周囲が賛同する。彼らにとってホワイト医師は最後の頼みの綱。唯一の救世主である。
ただ、相手がマフィアだとわかっているので、まだ彼らも自制が利いている状態である。
それはギリギリのところでホワイトが診察を続けているからだ。
「えー、皆様、大変長らくお待たせいたしました。これより『ホワイト商会事務所、完成記念パーティー』を開催いたします。それでは、主宰のホワイト様、よろしくお願いいたします」
進行役のバニーガール(日雇い、三十歳)がステージを指差す。
ドバーーーンッ モクモクモク
爆発と煙幕による派手な演出が終わると、そこには白スーツに仮面の少年が堂々と立っていた。隣には黒姫もいる。
「おお、ホワイト様がおいでになったぞ! 黒姫様もいらっしゃる!」
「ありがたや、ありがたや!」
「お出迎えじゃーー! 呪文を唱えよー!」
「もにゃもにゃもにゃ、むじゃむじゃむじゃ!」
最近では崇める者も現れ、よく聞き取れない謎の呪文を唱える輩も多くなった。
地球でも、たまに駅にいる怪しいおっさんにコインを入れてやると、早口で「もにゃもにゃもにゃ! チベットにご寄付を!」とか言うので、ぜひ一度試してもらいたい。
ワーワー パチパチパチッ
万雷の拍手の中、アンシュラオンが意気揚々と挨拶を始める。
「本日、無事に事務所が完成いたしました。これもすべては患者の皆さんのおかげです。心から御礼申し上げます。皆さんの幸せこそが私の幸せです。ホワイト商会は、患者の皆さんのために存在します。この事務所と新しい診察所が少しでも皆さんのためになることを祈っております。今日はお集まりいただき誠にありがとうございました。ぜひお楽しみください」
「うう、先生! なんて謙虚な人なんだぁ! おいらは、おいらは感動して…!」
「ホワイト先生ーーー! ステキーーー!(黄色い声)」
「黒姫たーん! 最高!(野太い声)」
「どうも、どうも」
各種声援に応えながら、アンシュラオンとサナが壇上から降りる。
それを見計らい、バニーガールが観衆に通達を行う。
「本日はささやかながら料理をご用意いたしましたので、どうぞおくつろぎください。治療のほうも行いますので、ご希望の方はあちらにお並びくださいませ」
事務所の脇には、今までよりも立派な診察所が建てられていた。
その言葉を聞いた患者たちは、我先にと走りながら順番を競っている。走れる元気があるなら大丈夫そうだが、当人いわく病人なのだから仕方ない。
「お並びの方は必ずホワイト商会の理念が書かれたパンフレットをお持ちになってください。パンフレットは無料でご提供しております。それとホワイト先生直筆サイン付きの本、『読めば誰でも幸せになれる本 ザ・ハッピー』もご用意してあります。こちらは有料となりますが、お持ちの方は優先的に治療を行うとのことです。本はたくさん買った方を優先いたします。もちろんパンフレットの方は無料で診察いたしますのでご安心ください。ただし治療は先着五十名様限定となります。どうぞお急ぎください」
「うおおお! 買うぞ!! 五冊くれ!」
「こっちもだ!! 十冊くれ!!」
「ありがとうございます。ありがとうございます。これからもホワイト商会をどうぞよろしくお願いいたします」
無料のパンフレットだけではなく有料の本まで売れていく。有料の本は診察料の代わりになっているので、それが一万円だろうが問題ない。しかも先着五十名しか治療しないので、当然ながらバカ売れだ。
そう、ここはホワイト商会の事務所。
ついに完成した記念にパーティーを開いているのだ。
旧診察所のほうにも報せを出しておいたので、完成した事務所前には患者が大勢詰め掛けていた。
ただ、黄色い声(+野太い声)も交じっており、若干アイドルのコンサートに近い雰囲気があったりもするが。
患者の熱狂を受けながら、アンシュラオンは診察所に向かう。
そこには一人の女性が待っていた。
「よぉ、シャイナ、久しぶりだな。元気にしていたか」
「せ、先生ー! どうなっているんですか!?」
「そんなに慌ててどうした? 痴漢にでも遭ったか? だから常々自衛を大切にと…」
「ち、違いますよ! 痴漢には遭っていません!」
「本当か? 勝手に処女じゃなくなったら、捨てはしないが降格処分だからな」
「犬より下って…どこまで下があるんですか?」
「ミトコンドリアくらいまではある」
犬 → 鳥 → 魚 → トカゲ → カエル → 蛆虫 → ミトコンドリア
「安心しろ。あと六段階まで落ちることができる」
「上がる道を示してくださいよ!!」
「残念だが、今の犬がお前にとっての頂点だ」
「ええええーーー!? これでですかー!? あうー、サナちゃん、引っ張らないでー」
「…ぐいぐい、なでなで」
サナも久々にゴールデン・シャイーナに出会えて嬉しそうだ。引っ張ったり撫でたりしている。
犬は犬以上にはなれないのだ。残念!
「それで、何を慌てている?」
「慌てているというか…あんな感じじゃ普通は居心地悪くなりますよ」
「呪文を唱えるやつらのことか? たしかにうざいを通り越して気色悪いがな。むしろ戦慄だ。だが、本を買うので許してやらんでもない」
「ところでその本、何が書いてあるんですか?」
「うむ、題名通りだ。読めば誰でも幸せになる本だ」
「内容は?」
「さぁ? 知らん」
「へ? どうしてですか? 書いたんですよね?」
「書いたのはマタゾーという商会員の破戒僧…というか破壊僧だ。適当に念仏でも書いてあるんじゃないのか? きっと幸せになるさ。まあ、さっき見たら人の殺し方が書いてあったから読むのをやめたが…」
「完全に詐欺じゃないですか!? 全然書いてないですよ! しかも内容が酷い!!」
「何を言う。サインは書いたぞ。ついでにバカ売れだ。売れれば中身など何でもいいんだよ。世の中の大半の本がそうだろうが」
「もうっ、何してるんですか! と、そっちじゃないです。もっと危険な人たちがいるでしょう? あっちですよ!」
シャイナがマフィアの監視員を指差す。
「ああ、あれか。最近見慣れたからな…あまり気にならなくなってしまったな。というか、人殺しを推奨する僧侶のほうが怖くないか? それに比べればあんなのたいしたことないぞ」
「そっちも怖いですけど、こっちは実害があるじゃないですか。…どうにかなりませんか? 毎日増えていきますよ」
「ははは、それだけオレたちが有名になった証拠じゃないか。結構なことだ」
「それってたぶん【悪名】のほうですよね? 最近、よくない噂も聞きますけど…」
「どんなものだ?」
「先生が悪党連中を引き連れて、あちこちを襲っているって」
「ふむ、噂か。安心しろ。すべて事実だ」
「だから安心できないんですよ!? どうなっているんですか! 説明してくださいよ!」
「お前は何も知る必要はない。黙って普段の生活を続けていろ」
「ううー、どうして私には教えてくれないんですかー! ホロロさんには教えているくせにー!」
「だってお前、嘘がつけないし」
「そうですけどーーー! ううーー! 悔しいーー!」
「何を張り合っているんだ。そもそも役割が違うじゃないか。安心しろ。あいつらは襲ってこない。正確に言えば、襲ってこられないんだ。患者がいるからな」
アンシュラオンがここに診察所を配置したのは、それが自衛にもなるからだ。
マフィアとて一般人を簡単に害したりはできない。誰かしらどこかの勢力の労働力として働いているので、迂闊に攻撃すると突き上げをくらうからだ。
それ以前に彼らは都市を維持する側の人間。住民に攻撃を開始したら、それこそ末期。自殺行為である。
昼間は襲撃に出かけることが多いので事務所の警備が疎かになる。そういったとき患者が盾になって守ってくれるのだ。
よって、こうして遠くから監視するしかない。かといって夜になれば襲いかかってくるわけでもない。
上級街は領主のお膝元でもある。勝手に大きな争いを起こすわけにはいかない。これもまた領主が詳細を知らないことと関連している。
「最悪、患者どもには自決してでも守れと言ってある。やつらも集団自決なんて後味が悪いだろうから襲ってなどこないさ」
「医者の言葉じゃないですよ!? 戦時中ですか、ここ!?」
「ある意味で正しい表現だな。それより診察をするぞ。準備をしろ」
「えっ!? 本当にいいんですか? ものすごい久しぶりじゃないですか!」
「ああ、かまわない。これも計画の一部だ」
「ねぇ先生、真面目に仕事して平和に暮らしませんか? 危ないことをしても大変なだけですって」
「真面目に仕事をしているお前が、こんな状況なのにか? もともとはお前が発端だぞ。父親を助けるんだろう? それも計画に入っているんだ。そうしない限り、お前は一生売人だ。オレは飼い犬に売人をやらせておくつもりはない。他人の命令で自分の犬が動くなんて許せないからな。お前は解放されるのが嬉しくないのか?」
「そ、それは嬉しいですけど…なんだかどんどん危ない方向にいっているなって思って…」
「危険を冒さずして利益は手に入らん。だが、お前のほうはどうなんだ? 本当に誰にも襲われていないのか?」
「心配してくれるんですか?」
「当然だ。お前に何かあったらサナが哀しむからな」
「先生も哀しんでくださいよ!」
「喜んで股を開くようになったら心配してやろう。しかし、なるほど…まだ大丈夫か」
(こっちが本格的に動き出したから多少心配だったが、今のところ相手も動きにくいか。オレたちは店に攻撃はしたが、積極的にマフィアの構成員は殺していない。だからまだ本気では動けない。想定通りというか甘いというか、筋者ゆえに筋を通しているというか…こっちとしては好都合だけどな)
アンシュラオンは意図的にマフィアの構成員を殺してはいない。殺したのはあくまで管轄の店の者であり、直轄の組員には手を出していないのだ。せいぜいジングラスのドライバーの足を矢で撃ったくらいである。
ちなみにハンベエはドライバーを殺したが、アンシュラオンは自分がやっていないので完全に忘れている。ホワイト商会が強いことが、安易に襲ってこない最大の要因なのだろう。
今のところはファテロナも言っていた通り、まだ大事には至っていないということだ。
ただ、周囲の状況を見るに徐々に危険が増していることは間違いないだろう。次の大きな襲撃を境に状況は一変する可能性もある。
逆に言えば、それまでは無事である。その間に態勢を整えればいい。
「それじゃ、治療を始めるぞ」
「は、はい。ふんふんふーん♪」
「なんで腰を振る? 誘っているのか? この淫売め!!」
「違いますよ!! もうっ、どうしてわからないかなー!」
「?? 何を言っているんだ?」
「…じー」
「ん? サナ…どうした?」
サナがじっとシャイナを見ていた―――その【服】を。
それで気がつく。
「ああ、その服…デパートで買ったやつか?」
「そ、そうですよ。ど、どうですか? こないだのとはまた違うやつですけど…」
「いいんじゃないか? 元がいいんだ。似合うさ」
「えっ!? そ、そうですか? えへへ、嬉しいです」
「そういえばサリータにも何か買ってやらないとな。美人なんだし、着飾れば見れるようになるよな。あと、そうか…ロゼ姉妹にも買ってやるか。楽しみだな。これは夢にまで見たロリータ戦隊が作れるかもしれんぞ」
「え? ええ!? だ、誰ですか!? サリータ? ロゼ?」
「ん? お前にはまだ言ってなかったか。オレの新しいスレイブだ。ロゼ姉妹は子供だけどな」
「ええええええええええ!? 知らない間に増えてる!!」
「しょうがない。お前はいなかったんだ。というか忘れてた」
「忘れてた!? 酷い! なんで勝手に増やすんですかーー!! 私がいるじゃないですか!! ホロロさんだっているのに!」
「それで足りるわけないだろう。女はお前だけじゃないんだ。それ以前に、お前はまだスレイブじゃないだろう。危うく騙されるところだったぞ。シャイナのくせに高等テクニックを使いやがって」
「…むうう! 先生はどうしてそうなんですか!!」
「何がだ?」
「知りません!!」
「いや、知らないって…」
「だから知りません!」
ぷりぷりと尻を振りながら診察所に入っていってしまった。
(シャイナのやつ、またへそを曲げたな。ヒステリックな女はこれだからな…。まあいい。無事が確認できただけでよしとするか。さっさと治療を終わらせて目的を果たそう。先方もちゃんと来ているようだしな)
こうして今日は診察を続けるのであった。
しかしながら、このパーティーを遊びで開いたわけではない。
この日、ゲストが二人ばかり来ていた。そちらが本命だ。
200話 「医師連合、スラウキンとの交渉 前編」
治療がひと段落ついたころ、アンシュラオンは空き地のパーティー会場に戻る。
そして、そこにいた一人の特徴的な男に声をかけた。
「よぉ、豚君。元気そうで何よりだ」
「て、てめぇ、ホワイト…!! どの面下げて!!」
「どの面って言われてもな。オレはいつも仮面だ」
「そういうことを言っているんじゃねえよ!」
「そんなにいきり立つなよ。お祝いの場だぞ」
「何がお祝いだ! お前、こんなことして…!」
「ぎゃんぎゃん騒ぐな。あっちにいるマフィアの監視たちが見ているぞ」
「くっ…!」
記念パーティーに招いたゲストの一人は、ソイドファミリーのナンバー3、若頭のソイドビッグ。
彼がここに来ていることは対外的に見てもおかしいことではない。なにせ最初に接触したのが彼らであり、家紋入りの馬車で接待した経緯もあるからだ。
だが、すでにホワイト商会が騒動を起こしている以上、あまり賢明な動きではないだろう。そのせいかビッグの顔も非常に苦々しいものになっている。
「来たくなければ来なければよかったのに。べつにお前に会いたいわけじゃないし」
「俺だってそうだよ! だが、そうしたらリンダにしわ寄せがいくだろう!」
「まあな。軽く尻を叩くくらいはするぞ。それだけで大泣きしそうだけどな」
「当たり前だ! リンダには近寄るな! お前の存在自体がトラウマなんだよ! これ以上、麻薬中毒者にするな!」
「ははは、麻薬を売っているお前が言うと面白いよ。相変わらずラブラブなようで、実に結構なことだ。リンダの身が心配ならおとなしくしておくんだな」
「くそっ…マフィアよりマフィアらしいやつだよ、あんたは…!」
「これでも手加減しているんだけどな。まあ、褒め言葉は素直に受け取っておくさ」
どのみちビッグは逆らえない。当人がどう思おうと従うしかないのだ。
ただ、一応探りは入れておく。
「ソイドダディーは何か言っていたか?」
「…いや。あんたとの一件は、そもそも俺に一任してくれている。だからこそ最低の気分だ。どうしてこんなことをする? ソブカと何か企んでやがるのか?」
「襲撃のことか? お前は気にすることはない」
「普通は気にするだろう!」
「知ったところで意味はない。余計に苦しむだけだ。そういうお前の弱いメンタルを考慮して、あまり負担をかけないようにしてやっているんだ。普段は自由にさせているだろう? そこはありがたく思えよ。だが、リミットが近いことは覚えておけ」
「…家族は…殺すな」
「その前に自分の心配をするんだな。オレがなぜお前を鍛えたのか、その意味は薄々わかっているんじゃないのか? 今、お前がここにいる。それが理由だ。これでわからなければ本当に頭が悪い証拠だぞ」
ホワイト商会とソイドファミリーが接近していることは、前述したようにすでに周知の事実。
この場にナンバー3のソイドビッグがいることが何よりの証拠。
監視の目もアンシュラオンと同じくらい強い視線がビッグに向けられている。明らかに敵意が混じっている視線だ。
「いやいや、ソイドファミリーも大変だな。みんなから恨まれているようだ。普段の行いが悪いせいだな。そうそう、請求書を払ってくれてありがとう。おかげでやりやすくなった。持つべきものは友だよな。なぁ、相棒?」
「てめぇ、最初からそのつもりだったんだな! ハメる気だったんだろう! 今じゃあのネタのせいで他の派閥からも突き上げくらってんだぞ! このままじゃ商売に影響が出る! つーか、もう出てんだよ!」
「お前だってオレをハメる気だっただろうが。因果応報だ。くくく、これでお前たちも狙われる身だ。自衛はしっかりしておけよ」
「俺たちは無関係だ! ここに来たのも…来たのもその……営業の範囲内でのことだ。そうだ、商談のためだ」
「その言い訳を他人が信じてくれるといいなぁ。マングラスやジングラス、それにハングラスまで敵になると大変だろうしな」
「てめっ…まさかハングラスにまで手を出すのか!?」
「あっ、言っちゃった。オレとしたことがうっかりだなぁ。今のは聞かなかったことにしておいてくれ。聞いたところでどうしようもないだろうしな。だが気をつけろ。負けたら切り分けられてロース肉にされちまうぞ。お前だけならばいいがリンダや家族だって危ないんだ。武闘派なら武闘派らしく腕力で守るんだな」
「…ぐううっ! 俺にはお前の考えていることがさっぱり理解できねぇ! 金が欲しいんじゃねえのか?」
「そうだ」
「だったら金のあるところだけを狙って襲えばいいだろう!」
「ははは。短絡的な銀行強盗の発想だな。その結末は銃殺か? お前にはお似合いだ。だが、オレは違う。すべてを計算して動き、後の憂いなく金だけをもらう。お前には到底理解できまいよ。ただそうだな、一つ勘違いをしているようだから教えておいてやろう」
「勘違い? 何をだ? お前からは悪意しか感じないぞ」
「それはそうだな。そもそも敵だったわけだからな。だが、オレはお前を安易に犠牲にしようなどと思ってはいない」
「…どういう意味だ?」
「考えてもみろ。もしお前を捨て駒にするつもりだったら、わざわざ鍛えてやろうなどとは思わない」
「あのカニとの戦いは死にそうだったぞ!」
「それくらいで死ぬようならば生かす価値もないだろう。しかし、お前は勝った。だからな、お前はこれから―――【英雄(ヒーロー)】になるんだ」
「…は?」
「若いってのはいいよな。それだけで期待される。お前もなかなかいい面構えになった。死線を超えたやつの目だ。最低限の資格はある」
「何を言っているのか…ますますわからねぇ。あんた、頭がおかしくなったんじゃねえのか?」
「いつの時代も愚者は賢者を理解できないもんだ。お前に理解されようとも思わんさ。それより、そろそろ紹介してくれよ。あちらさんも待っているようだぜ」
アンシュラオンが、少し離れた場所にいる男に目を向ける。
四角メガネをかけたボサボサの黒髪の四十代後半の男で、肌の色は青白く、目の下にも薄くクマが浮かんでいるのであまり健康的とは言いがたい。
他の人間がさまざまな色の服を着ているのに対し、その男が着ているものは―――白衣。
薬品の臭いが染み付いているせいか周囲には誰もいない。せっかくの料理もその臭いで台無しにされるからだろう。
「あの人と会ってどうする? 俺が言うのもなんだが…けっこう変な人だぞ?」
「オレと彼が会うのは状況的に自然だと思うが? いいから、さっさと呼べ」
「…スラウキンさん、来てくれ」
ビッグがその男、スラウキンを呼び寄せる。
ふらふらとした足取りながらも、やたら眼光だけは鋭いので妙な迫力を有している。
スラウキンはアンシュラオンの前に立つと、恭しく礼をした。
「初めまして。【医師連合】の代表を務めております、スラウキンと申します」
「初めまして、ホワイトです」
「おお、ホワイト先生…お会いしたかった。ずっとあなたに会いたかったのです!」
「私もあなたに会いたかったですよ」
「それは嬉しいことです。ぜひともお話を伺いたいのですが…」
「ええ、では事務所の中で。ああ、ビッグさんは帰っていいですよ。もう用済みですから。せっかくここまで来られたのですから、彼女さんにでも会っていかれるとよいでしょう」
「くっ…お前にそこまで指図されたくねぇよ! スラウキンさん、気をつけろよ。そいつは悪党だぜ」
ビッグは、そんな捨て台詞を残してパーティー会場を後にする。
向かった先がホテル街の方向なので、なんだかんだ言いながらリンダに会いに行くに違いない。
しかし、忘れそうになるがリンダは密偵だ。対外的にはソイドファミリーの身内とバレてはいけないのだが、平然と会いに行こうとするあたり、逆に心配になるほど隙だらけだ。
半ばもう「どうにでもなれ!」と自暴自棄なのかもしれない。リンダという癒しがなければ駄目になるほど追い詰められているようだ。
「すみませんね、スラウキンさん。彼はちょっと被害妄想と虚言癖の兆候がありまして、よく変なことを言うのですよ」
「ああいうお仕事の人にはよくあることですよ」
「ははは、そうですか。では、行きましょう」
まだパーティーは続いており、ステージでは即興の手品大会や歌唱大会のようなものが催されている。久々の治療と豪華な料理に誰もが満足しているようだ。
その熱に紛れるように、アンシュラオンはスラウキンと一緒に事務所に向かう。
入り口には戦罪者が二名、見張りに立っていた。
「誰も入れるな」
「うす」
戦罪者に命令を出し、中に入る。
事務所は二階建ての屋敷のようになっており、かなりしっかりした造りである。さすが本職の大工は違う。まさに本物の家屋だ。
客間に案内する間、アンシュラオンはスラウキンを観察していた。
(医師連合代表のスラウキン…ラングラスの中でも特殊な存在だな。いや、グラス・ギースの中で、か)
ラングラス一派として扱われる医師連合であるが、その中でも彼らは特別扱いを受けている。
すべての医者がこの組織に属することを強要されているので、彼らなくして医療行為は受けられない。
それゆえに他派閥、それが領主やマングラスであろうとも医師連合を潰したり圧力をかけることはできないのだ。
(こちらの話に乗ってくるといいが…いいや、乗ってくる。必ずな。今日ここにやってきたことがその証拠だ)
アンシュラオンは彼らと組みたいと思っていた。
ラングラスを牛耳ったとしても医師連合がついてこないのならば意味はない。医療麻薬の流通も難しくなるだろう。
自分は本物の医者ではないし、独りで治療を続けることは難しい。何より早く辞めたいとすら思っている。だから医者の確保は急務なのだ。
かといって協力を無理強いするわけにはいかない。
薬を含む医療機器の制限などを材料に脅すこともできるが、反発されてボイコットやストライキが起こると面倒になる。
スラウキンをぱっと見てもわかるように、彼らは変わり者の集団なのだ。金や暴力だけでは動かない人間も多い。
まずは穏便に話し合い。それが安全だろう。
ガチャッ
客間に入り、波動円で事務所の周囲に誰もいないことがわかるや否や、少しだけ空気が変わった。
「ここまで来れば大丈夫だ。もう演技の必要はない。すまないね。わざわざこんな茶番に付き合わせて」
「いえ、かまいません。ソイドビッグさんも大変なようですからね」
アンシュラオンが突然、砕けた態度を取る。
その様子にスラウキンは驚かない。笑顔を浮かべて対応する。
「まあ、座ってよ」
「失礼いたします」
「それでスラウキンさん、ここに来たということは、オレと組むってことでいいのかな?」
「はい」
「賢明な判断だね。今日会うのはあまりいいタイミングではなかったけど、それだけの価値はあったかな」
アンシュラオンとスラウキンは―――面識があった。
最初にキブカ商会と接触した後、時間がある間にスラウキンとも接触を図っていたのだ。
その際にお互いの条件を詰めていたのだが、彼には即断できない理由があった。そのため先延ばしにしており、事務所完成をリミットに指定していた。
他の人間にも見られるので今日がベストとは言いがたいが、医者が医者に会いに行くのだからおかしくはないはずだ。ビッグに紹介させるという手段をもちいれば、さらに危険は分散される。
ただし医師連合まで接触するとなると、ラングラス一派全体に圧力がかかることになる。キブカ商会も動きつつあるので、ラングラスへの疑惑はさらに強まっていくだろう。
(疑惑が強まること自体は計画に盛り込まれていたことだしな。…どうせ時間の問題だ。ソブカも動けばさらに混乱するだろうし、逆にこのほうがいいかもしれないな)
ラングラス一派全体が怪しい動きをすれば、それこそ相手は困惑するに違いない。一つの組織だけに力を集中できなくなり、ソイドファミリーやキブカ商会への圧力も減る。結果的には今日でよかったのだろう。
それよりは、スラウキンが今日来たことが重要だ。それは医師連合内部で進展があったことを意味する。
「理事会は掌握できたの?」
「申し訳ありません。まだ完全ではありません。まだ迷っている者もいるようです」
「やれやれ、これだけ時間を与えてもか。医者ってのは頭が固い連中が多いらしいからね。それもしょうがないか」
スラウキンが即断できなかったのは、医師連合の他の理事がホワイトに難色を示していたからだ。
その理由は簡単だ。
「ホワイト先生のお力が、あまりに人智を超越しているのです。医者としては、なかなか認められないものでしょう。特にお歳を召した古参の方々は」
「どこの業界も面倒くさいな。しがらみばかりだ。この程度のことも認められないんじゃ、これから苦労するよ」
アンシュラオンが命気を放出して浮かべてみせる。
そう、この命気というものを医者が受け入れないのだ。そんな万能なものがあってたまるか、という理屈なのだろう。
実際、アンシュラオンもそう思う時があるが、使えるのならばそれでいいと割り切っている。が、医者はそうではないというわけだ。
そんな連中にぜひ姉を見せてやりたいものだ。あまりの常識はずれにショック死してしまうかもしれない。彼女にかかれば生命創造すらできそうなのだから。
しかし、例外もいる。
スラウキンが、目を爛々と輝かせて命気を見つめる。その顔には「知的探究心」という文字が書かれているかのように食いついている。
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