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「欠番覇王の異世界スレイブサーガ」

作者  園島義船



□ 第四章 「裏社会抗争」 編 第二幕 『激動の白』


181話 ー 190話




181話 「開演」


 その日、下級街の裏通りを十六名の集団が歩いていた。

 身体の大きい者、小柄な者、太った者、痩せた者、中には腕や腹の一部が欠損している者すらいる。

 そんな異様な集団が歩いていれば人目を引くのだが、その一団を見かけた人間に話を聞くと、彼らの身体的特徴など覚えていないと言うではないか。

 誰一人として、さして興味がなかったとでもいうような雰囲気で、頭に「?」を浮かべていたものだ。


 それはおかしい。


 たとえば警察の事情聴取。

 実際に見ていない人間に対象者を伝える場合、「背の低い太った男」「背の高いモヒカンの男」といった文句が並ぶはずだ。

 もしパンチパーマの男がいたら、それを最初に述べるだろし、常人を超える背丈の人間がいれば、記憶に残らないはずがない。

 人間は、まず一番覚えやすい場所を記憶する。それが身体的特徴であることが多いのは自然なことだ。

 そう、人間は覚えやすいものを記号として捉え、記憶の中に刻み込む。

 では、その集団を見た人間の中には、どんな【記号】が刻まれたのだろう。それは間違いなく覚えやすく、なおかつ印象に残るもののはずだ。


 ここに彼らを実際に見た人間の証言がある。




―――歩いていた集団を見た?



「ああ、見ましたよ。ええ、そうです。仕事の昼休みに裏道を歩いていてね。ほんと偶然です。え? 特徴ですか? 太った? 背の高い? ああ、そんな人もいたかもしれませんね。でも、それよりも一番目に付いたのは―――【仮面】です」



―――仮面?



「そうです。全員がなんというか…仮面を被っていたんです。だからびっくりしちゃって。騎士? うーん、そんな感じじゃなかったですね。仮面だけですから。騎士だったら鎧も着るでしょう? だからあれはそうですね…やっぱり…そっちのほうかなぁ…言いづらいですけど。ああ、コスプレ集団って意味じゃないですよ」



―――ヤバイ連中? マフィアみたいな?



「ええ、ええ! 間違いないですね! 雰囲気がもう本当に危ない感じでした。抜き身のナイフってのは、ああいうことを言うんでしょうね。歩いているだけで空気が切れるみたいな。いやー、男としてはちょっと憧れちゃいますけどねぇ」



―――近寄ってみた?



「いやいやいやいや!! 勘弁してくださいよ! 逆に訊きますけど、あなたは見るからに危ない魔獣に近寄りますか? 近寄らないですよね? 私だってそうですよ! あんなのに近寄ったら命なんてないですって!」



―――でも、見ていた。



「そりゃー、見る側としては面白いですからね。私たちには関係ないですし、見ているだけならいいでしょ? もちろん近寄ったりしたら危ないんでしょうけど」



 この目撃者の脳裏に刻まれた記号は、たった一つ。



 その集団は、全員が―――【仮面】を被っていた、ということ。



 これほどのインパクトがあれば、それ以外のものはすべて記憶から消えてしまうだろう。

 しかしながら、その一般人はもう一つのことも証言した。



―――その中で誰が一番危いと思う?



「一番ヤバそうなやつですか? そりゃもちろん、あの真ん中にいた【白スーツ】の人でしょうね。あれはもう別格ですよ。目が引き付けられるって言うんですかね? それ以外見えなくなっちゃって、ほんとびっくりです」



―――白スーツ? 屈強な大男?



「いやいや、見た目は全然違います。どっちかというと…小さくて子供みたいな感じでした。でも、周りよりずっと背が低いのに…あれはヤバイってすぐに思いましたよ。正直、震えちゃいましたね。足が竦むって、ああいうことを言うんですね…」



―――どうしてそう思った?



「明らかに雰囲気が違います。他の仮面のやつらも、そいつには従っていたみたいでしたし…あれがボスなんでしょうかね。だからそう、さっき言ったヤバイ連中っていう意味がね、もっと大きな意味なんですよ。ただの集団じゃなくて、もっと統率されているような感じがしていて…」



―――軍隊? 傭兵団?



「ああ、そうですね…。それに近いかなぁ。でも、もっとこう違うものがあるんですよね。そう、そう、そう…言ってしまうと『カルト集団』みたいな妄信的な圧力があるというか…。だから怖かったのかもしれません。あれには近寄ったらいけないですよ。そういう危険な感じがするんです。あっ、もういいですか? これからまた仕事なんで。あなたもお仕事で大変でしょうが、どうか彼らにはお気をつけて」



 こうしてインタビューを終えた男は、ひっそりと裏路地に消えていった。



 仮面の集団で一番目立っていた男は、少年だった。


 ただ歩いているだけなのに妙に目に付いたのは、白スーツに赤ネクタイという、いかにも筋者の格好だったからだけではないだろう。

 明らかに他者と違う威圧感を放っており、一目で他の仮面の男たちを従えているリーダーだと直感する。

 本能が、あれは危ないと告げるのだ。


 彼こそが【完全なる支配者】。


 その集団を完全統制している親玉である、と。




 ザッザッザッ

 仮面の集団が、一軒の店の前で止まった。

 その店は全体が扇情的なピンク色をしており、明らかに他の店とは様相が違う。


「オヤジぃ、ここみたいです」


 先頭を歩いていた腹にサラシを巻いた男が店の名前を確認して、中央にいた「オヤジ」に伝える。

 当然、それはオッサンという意味ではない。もっと深い意味を持った言葉だ。


「ここがそうか。やれやれ、センスのない店だな。いや、逆にこれはわかりやすいのかな。で、催促はしたんだな?」

「へい。二日前ほどに」

「それでも無視か。オレたちも、ずいぶんとなめられたもんだなぁ。なあ、ヤキチよ。この落とし前、どうつけてやろうか」

「へへ、そりゃオヤジ、やることはいつも決まってまさぁ」

「ふっ、悪い顔をしやがって。お前もとんだ悪党だ」

「いやいや、オヤジほどじゃねえですよ」


 その言葉に周囲の男たちも笑う。

 まったくもってたちの悪い冗談だ。この面子の中で一番の悪党が誰かなんて、いちいち訊く必要もないというのに。

 唯一笑っていないのは黒い仮面を被った紅一点、オヤジと呼ばれた少年よりもさらに年下であろう一人の少女だけ。

 オヤジは、その少女に問う。


「なぁ、姫、どうする? オレたちは優しいからな、見逃してやってもいいんだよ。ここで働いている連中は一応は一般人みたいなもんだしな。そこまでする必要がないって話も頷ける。だからお前が決めていいぞ」

「ひゅー、出た出た! 『姫様の占いコーナー』だぜ!!」


 周囲の連中の視線が一斉に少女に注ぎ、手拍子が始まる。


「ひーめ、ひーめ、ひーめ、ひーめ、ひーめ、ひーめ!」


 パンパンパン パンパンパン パンパンパン

 パンパンパン パンパンパン パンパンパン

 パンパンパン パンパンパン パンパンパン


 仮面の男たちの手拍子が続く中、少女が右手を突き出し―――


「…ぐっ」


 親指を立てる。

 それだけならばサムズアップ。日本では「グッド」を意味するサインだ。


「姫様、そりゃねぇよ! ご慈悲を!! 俺たちにどうかご慈悲を!!」

「姫様ーーーー! 頼むよーーー!」

「ひーめ、ひーめ、ひーめ、ひーめ、ひーめ、ひーめ!」


 パンパンパン パンパンパン パンパンパン

 パンパンパン パンパンパン パンパンパン

 パンパンパン パンパンパン パンパンパン


 さらに手拍子は強くなり―――



―――ぐるり



 その手拍子に応えるかのように、少女は手首を百八十度回転させ、親指を下に向けた。


 これはサムズダウン。


 こうなると一気に意味は変わる。

 それを見た仮面の集団は最高に楽しそうに笑った。


「はははは!! キタ、キタ、キタァーー!! 当たりだぜ!! 今日はラッキーデーだ!」

「げひゃひゃひゃっ!! 姐(あね)さんは容赦ねえなぁ!!」

「まったくだ!!! さすがオヤジの妹さんだ!!」

「オヤジぃ! いいだろう? もういいよな? 姫の姐さんの許可も出たんだ。やっちまっていいよなぁ!?」

「女は確実に全員確保しろ。あとは好きにやっていいが、責任者は殺す前に一度連れてこい」

「へへへ! わかっているぜ!!」

「よし、行け」

「ひゃっはーー! 狩りの時間だぜ!!! お前ら、いくぞ!」


「「「「「 おおおおおおおおおおっ! 」」」」」


 ヤキチを含めた六人の男たちが荒々しく扉を開け、各々の得物を持って店の中に入っていく。

 残りのメンバーは、表で誰も入らないように睨みを利かせている。

 一応、表からは見えないように扉を閉めておいたのだが―――



 数秒後―――吹っ飛ぶ。



 ドッバーーンッ ゴロゴロゴロ!


 中から投げつけられた何かが、木製のドアを見事に破壊してしまう。せっかく閉めたのに、その気遣いも意味を成さなかったようだ。

 まったく、物を投げるとは今までどんな教育を受けてきたのか、と文句を言いたくもなる。

 だが、投げつけられたのは物は物でも、【生物】であった。


「う、うう…」


 黒い制服を着ていること以外にさしたる特徴もなく、まさにただの受付といった様相の男が転がっている。

 ただ、顔つきは一般の労働者とは多少違い、どことなくだらしない雰囲気が見て取れる。明らかに駄目人間の兆候だ。


「ひっ、ひっー! 何事なんですかぁああ! ええ!? あ、あなたたちは、なんなんですかぁあああああ! ひ、ひぃいっ! 血ぃっ! 血ぃいい! 血がぁ! 頭から血が出てますよぉおお!」


 店員は何が起こったのか理解できず、頭から流れた血を一生懸命手で拭っている。


「血ですよ、血ぃっ!! ほら、見て! 血ですからぁあ!! いきなり何するんですかぁあ!」

「へっへっへっ、何か言ってるぜぇ、こいつ」

「なかなか面白い芸風だなぁ。でも、殴りたくなるよなぁ、こういうやつを見るとさ。ははは」


 自分の血を見て驚く店員を、ニヤニヤとした顔つきで見守る集団。

 当然表情は見えないが、仮面を被っていても雰囲気はわかるものである。

 彼らは、その様子を見て楽しんでいる。特に白スーツの男は最高に楽しそうに見つめていた。


「くくく、ヤキチのやつ、相変わらず手が早い。まあ、それだけで済んだだけでも幸いだったな」

「ひっ! あ、あなたたちは…な、何ですか!?」

「何って、ちょっとした挨拶だよ。やぁ、おはよう。あれ? もう『こんにちは』かな?」

「あ、挨拶…これが!?」

「そう、お前たちも挨拶をするだろう? それと同じさ。だが、まだ礼儀を知らないらしい。まずはそうだな…頭を下げるってことから覚えようか」

「がうっ!」


 オヤジが店員の頭を踏みつけると、顔が地面に密着。

 そのままごりごりと押し付けるたびに、店員の顔が擦り減っていく。


「痛い痛い痛い!! や、やべて…やべてくださいぃいい!」

「ああん? 痛いだと? 野郎の分際で何を抜かす。頭を地面にこすりつけるのは、オレの前に出てきた男がする最低限の礼節だろうが。ほら、まだ頭が高いぞ」


 ぐりぐり ずりずり


「ひぐっ、うううっ…ほんらぁ…もう頭が…くっついてぇますぅう!」

「そうなのか? オレからはそうは見えないなぁ。まだまだいけるだろう? ほらほら」

「ひっ、ひぐうっ!! つ、潰れるぅう! 頭がぁあ! つぶれつぶれぶつぶぶぶぶ」

「オヤジぃ、さっさと潰しちまいましょうぜ!! そのほうが面白い!!」

「そうでさぁ! ゲラゲラゲラ! トマトが、ぐちゃってするのを見せてくだせぇよ!」

「ひ、ひぃいいっ! た、たずげでえええ!」


 周囲の人間は、止めるどころかリクエストさえする。

 この場で彼を助けてくれるような者は、誰一人としていなかった。


「ふん、こんな虫を潰したら、せっかく高級デパートで買った靴が汚れるだろうが。お前たちで潰しておけ。ただし、あっちの目立たない裏路地でな。ああ、処理はいらないぞ。始末したら放置でいい。ゴミ箱にでも捨てておけ」

「へい! 任せてくだせえ!」

「そ、そんなっ! 待って! たずげっでえええ―――ぐはっ!」

「へへへ、お前はあっちで俺らと遊べってよ!」

「ひ、ひぃいっ! 助けてぇええ! ぐべっ! がぼぉおっ!」

「おおっ、けっこう跳ぶな、こいつ」

「マジかよ。俺にも蹴らせろよ」


 ドゴッ ボーーン ドゴッ ボーーン ドゴッ ボーーン


 店員は仮面の男たちに何度も蹴られて、まるでサッカーボールのように裏路地に運ばれていく。

 その先に何が待ち受けているのか、わざわざ説明する必要もないだろう。生ゴミが一つ増えるだけだ。

 どうやら生ゴミの類は畑の堆肥に使われるもの以外は、まとめて都市の外側に運んで放置ということらしい。

 つまりは、自然がそれを処理してくれるということ。場合によっては魔獣の餌になるかもしれない。ただそれだけだ。




182話 「やんちゃ無法のホワイト商会 前編」


「おい、椅子になれ。黒姫の分と二人だ」

「へい!」


 命令すると二人の戦罪者が四つん這いになり、そこにオヤジと姫が座る。


「やはり男は硬いな。座るなら女がいいか。姫はどっちがいい?」

「…バンバンッ、こくり」

「姫は男のほうがいいか。ははは、そういうところもオレに似ているな」


 黒姫はバンバンと男の背中を叩いて頷く。どうやら硬い感触が気に入ったらしい。

 オヤジが女を支配下に置くなら、黒姫は男を支配下にするらしい。そんなところまで似てきている。



―――「ざわざわ、ざわざわ」



 騒動が大きくなったせいか周囲に野次馬が増えてきたようだ。こんな裏通りなのに、すでに二十人くらいは集まっている。

 現在は昼前なので歓楽街が輝く時間ではないものの、それなりに人は存在する。ここは住宅街でもあるので人目にはつくだろう。


「なんだい、あれは?」

「どこぞの組か?」

「でも、あんな仮面の連中なんて見たことないぞ。何かのパフォーマンスか?」


 人は諍(いさか)いが好きなものである。それが他人同士のものであれば、なおさら大好物に違いない。

 だが、それが自分たちに飛び火するとなればどうだろう?

 その野次馬の一人、少しだけうっかり他の人間よりも前に出てしまった冴えない青年に、マサゴロウが威圧を開始。


「なんだそのツラ。文句があるのか?」

「ひっ! み、見てません! 見てないです!」

「見ていただろう。…お前も死にたいか?」

「ぐひっ!! ひぃいいいい! た、助けて!!」


 がしっ ぐい

 マサゴロウは青年の首を掴んで、軽々持ち上げる。

 もしその気ならば石畳に叩きつけることも可能だろうし、彼の握力をもってすれば、一瞬で首が切れてしまうに違いない。


「ぐえええっ…ひぐっ…がっ…だ、だずけ…でっ……」

「おい、マサゴロウ。堅気の皆様にご迷惑をかけるんじゃねえ。お前らはほんと、目を放すとすぐに騒動を起こすな。ゆっくりと座って休む暇もない」

「すいやせん、オヤジ」

「放してやれ」

「へい。…命拾いしたな、ガキんちょ」

「ごほっ、ごほごほっ、ひっ、ひっ」


 ぽいっ ごんっ

 青年は投げ捨てられて石畳に転がる。まだ血の気が引いているようで顔色は真っ青だ。

 その青年にオヤジが近寄る。


「すみませんね。うちの若いもんがご迷惑をかけてしまって。何せ血の気の多いやつらでしてね。私も困っているんですよ」

「ひっ、ひっ…」

「そんなに怯えないでくださいよ。ほら、これ、取っといてください。迷惑料ってことで」

「ひぇっ…? へ? …い、一万円…も?」

「堅気の皆さんにはがんばってもらわないと。この街をもっと楽しくしてもらう必要がありますからね。それとも私からの心付けは受け取れませんか?」


 赤い双眸の光が仮面からこぼれる。その圧力は、他の仮面の比ではない。

 その時、青年は思った。


(関わっちゃいけない人だ…目を向けてもいけない! 今すぐ逃げるしかない)


 と。



 されど、その青年が逃げる前に事態は悪化。

 再び店から吹っ飛んできた者がいた。


 ドゴーーンッ ゴロゴロゴロッ


「がはっ、げほっ!!」


 さきほどの店員とは少し違う色の制服を着ている男だ。身なりも多少立派なので、この店の中でより高い立場にあることがうかがえる。


「オヤジぃ、連れてきたぜ! こいつが支配人だってよぉ!!」


 そして、ヤキチも店から姿を現した。

 その手に握られた木製バットはすでに折れており、ヘッドの部分には血がべったりと付着している。

 見ると、その男、支配人も頭から血を流していた。


「な、何を…何をするのですか……あなたたちはいったい…」

「ああ? てめぇ、こっちの顔潰しておいて、よくそんな口が利けたなぁ! オヤジ、やってもいいかぁ?」

「まだだ。少しは血の気を抑えろ」

「久々のシャバで、身体が疼いちまってねぇ! ははは!」


 ヤキチの身体から赤黒いオーラが滲み出ている。

 人を殺したくて殺したくてしょうがない、という衝動である。


「オヤジが言うならしょうがねえ! もう少し待ってやる。だけどよぉ、そんなに長くはもたねえぜ! はぁはぁ、早く人が斬りてぇからなぁあ!! 今は強いとか弱いとかは気にしねぇ! 人間なら誰でもいいぜ!!」

「ひっ!!」

「やれやれ、どいつもこいつも困ったもんだ。では、改めましてご挨拶を。初めまして、私はホワイトと申します。あなたがここの支配人で間違いありませんね?」

「ほ、ホワイト…?」

「ご存知ありませんか? 少しは名が売れてきたと思っているのですがね。ほら、仮面ですよ。これを見ればわかるでしょう? 思い出しません?」

「ホワイト…その仮面…し、知っています。聞いた話だと、医者だと…」

「ああ、医者もやっていますよ。だからあなたの怪我を治すこともたやすいわけです。こんなふうに」


 ホワイトが支配人の頭に手をかざすと、傷が癒えていく。


「こ、これは…!?」

「ね? 噂は本当でしょう? 何でも治せるんですよ。まあ、大きな古い欠損以外ですけどね」

「そ、そのホワイトさんが…どうしてうちに?」


 怪我が治ったことで少し落ち着いたのか、支配人がこわごわとこちらを見てくる。


「恥ずかしい話ですが、医者だけじゃなかなか食っていけない時代になりましてね。今度、新しい商会を始めることにしたんですよ。上級街の郊外のほうに事務所を構えるつもりでしてね。【ホワイト商会】というのですが…知ってます?」

「ほ、ホワイト商会…!?」

「知ってますよねぇ。だって、何度も通告したはずですから。でも、あなたたちは無視をした。だからこうなっているのですよ。ご理解いただけましたか?」

「………」

「おい、オヤジが訊いてんだろうがぁ! さっさと答えろや!」


 ヤキチがポン刀を抜いて、支配人の顔に突き出す。


「ま、待ってくれ!! うちはもう『みかじめ料』を払っている! あんたらがこんなことをしたら、ただじゃ済まないぞ!」

「へー、そうですか。どこに支払っているんですかね? 無知な私に、ぜひ教えてくださいよ」

「そ、それは…」

「早く言えや! オヤジを待たせるんじゃねぇ!」

「も、モザート協会さんだ!!」

「モザート協会さんね。なるほど」


 モザート協会は、ソイドファミリーと同じくグラス・ギース内部のマフィアの一つである。

 ただし、管轄が違う。

 ソイドファミリーが医療品を手がけるラングラス一派だとすると、モザート商会は【人材を扱うマングラス一派】である。

 グラス・マンサー〈相互の都影に暮らす者〉の一人で四大市民であるグマシカ・マングラスは、主に人の流れを取り仕切っている。

 そのためスレイブ商会の八百人もまた、このマングラスの影響下にあり、年会費と称した「みかじめ料」を支払っていた。


(モザート協会か。情報通りだ。嘘は言っていないな)


 すでに調べはついているのだが、あえて訊く。彼が情報を流したことが重要だ。

 こうしたスレイブ以外の娼婦館やピンク店なども、マングラス一派のモザート協会が一手に取り仕切っている。

 この店はすでに彼らに金を払っているので、ホワイト商会に何かを支払う必要性はまったくない。

 だが、ホワイト商会はこの風俗店に金を請求した。「これからここを仕切るので、商売をやるなら金を払え」と。


 これは―――危ない。


 ホワイトの行為は、マングラス一派の縄張りに足を踏み入れるということだ。ソイドファミリーがそうであったように、彼らは自分の領域を守るためならば何でもやる。

 しかし、ホワイト商会はどこにも属していない。

 ついこの前、誰の許可も受けずに作ったのだから当然だ。完全フリーの新興勢力である。だから誰にも文句を言われる筋合いはない。


 よって、ホワイトは遠慮なく威圧を開始。


「そんなことは関係ないですね。そっちとうちとは無関係です。…ほら、わかったなら金を持ってこい。今すぐだ。今なら毎月売り上げの70%で手を打ってやる」

「む、無理です! 払えませんよ! そんなことしたら、うちらもヤバくなる! というか高すぎる! 25%が相場ですよ!」

「なるほど。条件を呑めないと。せっかく出向いたうえに、さらに顔を潰されたんじゃ、しょうがない。ヤキチ、中の女たちを持ってこい」

「おうよ! もう準備してあるぜ! おら、出せ!」


 ヤキチが合図を出すと、店の中から女たちが引きずり出されてきた。この風俗店で働く女たちだ。

 ただし、その風貌は普通の女性とは違い、痩せこけていたり目の下にクマがあったり、健康とは言いがたい雰囲気を醸し出している。

 実際、彼女たちは健康ではない。


「支配人さん、あんたらも物好きだな。麻薬中毒の女ばかりを集めてさ、こんな品質で客は満足するのか?」


 その女たちは、ほぼ全員が麻薬中毒者である。

 中には普通の借金を返済するために働く者もいるが、多くは麻薬が欲しいが金はない女性たちであった。

 売人たちにそそのかされ、ここにやってくるのだ。「そこで働けば、麻薬をくれてやる」と。

 そのまま稼ぎ続けられればいいが、途中で駄目になれば最後はラブスレイブになるしかない。

 ある意味ではスレイブ館ともつながりのある店であるが、ホワイトからすればあまり好みではない店の一つだ。


「女は健康であるから美しい。それを維持してやるのが所有者の義務ってもんだ。管理が悪いのはいただけないな」

「そ、そんなことはあなたには関係ない! こっちの自由だ! …そういうのが好きな客がいるんだ」

「ああ、そうだな。おたくらの勝手だ。それに文句はない。ただ、こっちも商売でね。遊びでやっているわけじゃない。金を出すか女を全員渡すか、今すぐ選んでくれ。女を渡した場合は、毎月50%で手を打ってやる」

「なっ! そんな権利がどこにあるってんだ!」

「わからない人だなぁ、あなたも。ヤキチ、マサゴロウ、好きにしろ」

「オヤジの許可が出たぞ!! やっちまえ!!」

「オヤジに逆らうとは、馬鹿なやつらだ」

「ま、待て!! そんなことをした―――ぐべっ!」


 支配人はマサゴロウの蹴りで顔面を蹴り飛ばされ、ごろごろと吹っ飛んだ。

 首が変な方向に曲がっているので骨が折れたかもしれない。そして、そのまま動くことはなかった。

 ただでさえ巨漢であり、武人であるマサゴロウの蹴りを受けたのだ。戦気を使わずとも、鉄のハンマー以上のパワーがある。一般人なら即死は当然だ。


「おら、出せ出せ! 女と金目の物は全部出せ!!」


 それから仮面の男たちが次々と店の中に入り、金庫やら女やらを引っ張り出してくる。この男たちの前では鉄の金庫も意味がない。


「ふんっ」


 メキバキィッ

 マサゴロウが軽く引っ張ると、鉄の金庫さえ簡単に引き裂かれる。さすがの握力である。中からは札束のほかに金塊も出てきた。


「ほぉ、この世界でも純金は希少なようだな。ははは、これを溶かして仮面でも作ってみるかな。黄金の仮面ってのは憧れるよな。ゲームみたいでさ。でも、歩くたびに敵が出てきたら面倒だからやめておくか。あれ? 爪だったっけ? まあいいや」


 当然、これらの金塊もすべてボッシュートである。

 金や女以外にも、たまに他の店員の男も一緒に吹っ飛んでくるが、袋叩きにあってすぐに動かなくなる。


「ひゃっはー!! 死ねや!」


 ザクッ ブシャー


「ぎゃっーーー!」

「ぎゃはははは!! さいっっこうだなぁ!! この感触がたまんねぇよぉお!」


 ヤキチも楽しそうに店員を斬っていた。

 白昼堂々と人を斬って楽しむとは、さすがにいい性格をしている。

 一方、マタゾーは雑魚には興味がないのか黙って見ている。ハンベエも同じだが、彼に至っては活躍されると周囲が全滅するので、今は黙ってくれていたほうがいいだろう。


 そんな中、こんな一幕もあった。


「た、たすけ…で…」

「ひっ、ひっ…!」


 逃げ遅れた一般人の青年に、斬られて身体から血をドクドク流している店員が近寄る。


「ひいいい! 来るな、来るな!! うわああ!」


 ドスッ ガスッ!

 そのあまりの形相に恐れをなして、青年が店員を蹴り飛ばして逃げる。

 蹴られた店員は、その後二度と起き上がってくることはなかった。

 蹴って逃げた青年は、これを知ったらどう思うだろうか。何を感じるだろうか。ぜひ訊いてみたいものである。


 それを見ていたホワイトは、心底楽しそうに笑う。


「ははははは!! いいぞ、ほら、もっとやれ。日々退屈なさっている野次馬の皆さんを楽しませてやれ! 場外乱闘もありだぞ! 観客の皆さんも、参加したければどうぞご自由に。一緒に楽しもうじゃないですか」


 その様子を野次馬の観客たちが息を呑んで見ていた。

 ここが下級街の下層に近い場所とはいえ、比較的平和なグラス・ギースでは珍しい光景である。


 誰もが恐怖を感じながら、それを愉しんでいる。


 目の前で交通事故が起きて人が吹っ飛ぶと、「おっ、すげー飛んだ! やっべー!」と、興奮して楽しくなるのと同じ気持ちだ。

 それが自分に降りかからない限り、それは楽しい【劇】なのである。




183話 「やんちゃ無法のホワイト商会 中編」


 下級街の裏通りが、一瞬にして略奪の場へと化す。金と女は奪われ、店員は殺されていく。

 突如現れた仮面の集団によるあまりに不可解で理不尽な行動は、現実感が希薄で、まるで映画のワンシーンを見ているかのようだ。

 野次馬も舞台を見守る観客となり、異様な興奮状態へと導かれていく。

 それを演出するのは白スーツの男、ホワイトと呼ばれる仮面の少年である。


 だが当然、これだけのことをやっていれば【抑止力】がやってくる。


 まずやってきたのは、衛士。


「こ、これはいったい…! 何が起こっているんだ!?」


 誰かが通報したのか、都市の治安維持を担う衛士たちがやってきた。

 数は三人。衛士隊は基本的に三人一組の小隊で動くので、最低限の戦力ともいえる。

 おそらくはこのあたりを見回っていた警邏(けいら)中の隊だろう。彼らも状況がよく呑み込めておらず、あまりの惨事に野次馬同様、混乱に陥っている。


「お前たち、そこで何をしている! や、やめるんだ!」


 だが、やはり衛士である。

 即座に異常事態であることを認識して近寄ってきた。ただし威勢よくとはいかず、やや引け腰である。

 が、それは致し方ないだろう。

 明らかに修羅場である。衛士とはいえ、見るだけで身の危険を感じるものだ。


「なんだぁ、変なのが来たな。おい、なんか用か」

「うっ…なんて血生臭いやつだ。それにその刀…血がべったりじゃないか!!」


 衛士はヤキチの刀を見て、一瞬後ずさる。

 ただ血が付着しているだけではなく、あまりに禍々しかったからだ。


「何を当たり前のこと言ってんだぁ? 殺せば血が出る。生物なら当然だろうがぁよぉ。ああ? で、何の用だ?」

「お、お前らは何をやっている!?」

「見てわかんねぇのか? わかんねぇなら引っ込んでろ。おめぇらも殺されてぇのか」

「我々は衛士隊だぞ! 言うことを聞け! ただちに武器を捨てて戦いをやめろ!」

「あ? 衛士隊? んなもん知るかぁ。邪魔するならよぉ…やっちまってもいいよなぁ? へへへ、丸腰のやつよりは面白いぜ」

「なっ、向かってくる気なのか!?」

「遠慮なんてするなぁよ。それじゃ楽しめないからなぁ。しっかりと腰にぶら下げたもんを使えよ。まあ、それでも対等にもならねぇけどよぉ! ひゃひゃひゃ!」


 衛士は銃と剣、鎧で武装をしている。それでもヤキチに臆する様子はない。


(ど、どうすればいいんだ…! 本気で戦うつもりなのか!?)


 衛士の男は、この状況にさらに混乱に陥る。

 衛士隊は、第一衛士隊、第二衛士隊、第三衛士隊と分かれており、それぞれ第一城壁、第二城壁、第三城壁内部を担当としている。

 ソイドファミリーの接待を受けた時、周囲にいた連中は第一衛士隊であり、上級街を担当していることから上級衛士隊とも呼ばれている。

 彼らは都市の事情にも精通しており、領主の命令もあってマフィアとの連携を強めているので、完全に組織側とグルになっている存在だ。

 一方ここにいる者たちは、第二城壁内部の治安維持を担当とする第二衛士隊である。第一衛士隊が領主に近い部隊なのに対し、彼らは一般公募から集められた者たちだ。

 つまりは前に領主城に潜入した際、臨時で集められていた者たちなので、「何も知らない衛士」と言い直してもいいだろう。


 そんな彼らは、戦いに慣れていない。


 街中で暴れる人間の大半がたいした装備を持っていないので、普通は威圧するだけで何とかなるからだ。

 それでも危ない人間の場合、マキなどが派遣されて制圧するので、彼ら自身が戦闘を行うことは稀だ。

 だが、目の前の存在は、そんな衛士に対してまったく臆することがない。その状況についていけないのだ。


「へへへ、どこから斬ってやろうかぁ?」

「ヤキチ、面白そうなことをしているな。混ぜろよ」

「なんだマサゴロウ、てめぇはあっちのゴミの処理でもしてろよ」

「もうあらかた終わった。つまらん。まだこっちのほうがいい」

「けっ、獲物の横取りか! こすいやつだなぁ!」

「お前こそ、斬りすぎだ。おれの分も残せ」

「早い者勝ちだろうがよぉ! おらぁの獲物を横取りするなら、てめぇもただじゃおかねぇぞ!」

「…それはおもしろい。やってみろ」

「でけぇ図体だけで勝てると思うんじゃねぇぞ!」

「刀だけで何でも斬れると思うな」


(なんなんだ、こいつらは…)


 あろうことか、誰が自分たちを殺すかで張り合っている。

 そこに衛士という存在がまるで入っていない。まるで気にしていない。扱われてもいない。

 それがあまりに危険。

 防衛本能を刺激された衛士の男が、反射的に銃を構える。


「お前たち、動くな! 動いたら撃つぞ!」

「お、おい、刺激するな!」

「馬鹿! このままだとこっちが危ない! さっさと銃を構えろ!」

「…くそっ!」


 他の衛士たちも覚悟を決め、銃を構える。

 しかし、ヤキチもマサゴロウも、たかが銃ごときで怯えるような可愛い連中ではない。


「撃ってみろ」


 マサゴロウが悠然と立って、衛士を睨みつける。


「ほ、本当に撃つぞ!」

「だから、撃ってみろ」

「くっ、本気か!! 撃つしかないか…!」


 普段は城壁内部で銃を撃つことなどほとんどない。一度発砲してしまったら、もう後戻りはできないのではないかという恐怖心が湧き上がる。

 だが、撃たねば自分が危ない。

 さまざまな葛藤が心の中で渦巻き、震える指がトリガーにかかった瞬間―――


「まあまあ、衛士さん。落ち着きましょうよ」

「ひっ!!?」


 バスンッ

 突然ホワイトが後ろから声をかけたので、思わず衛士が引き金を引いてしまった。

 目の前しか見えていなかったこともあるし、彼が気配を殺して近寄ったことも要因だ。

 衛士が持っている銃は風のジュエルで撃ち出す機構なため、普通の火薬とは違う軽い音が響いた。


「あっ…あっ!! し、しまった!」


 衛士は慌てて自分がやったことを後悔するが、すでに発射してしまった。

 彼は今まで人間に向けて撃ったことがなかったので、そのショックも大きかったに違いない。当たり所にもよるが、一般人ならば殺してしまえるだけの威力がある。


 だが直後、彼はそれ以上のショックを受ける。


 その場に彼の銃弾によって怪我をした人間はいなかったのだ。

 目の前の大男ならば銃弾程度ではどうにもならないだろうが、彼が見たものはもっと異様な光景。


 突き出された槍の尖端に銃弾が―――刺さっていた。


 否。

 槍の尖端「が」銃弾「に」刺さっていたのだ。発射された銃弾が、非常に小さな槍先の一点によって貫かれていた。

 それはまるで飛んでいるハエを串刺しにした図に似ている。


「やはり遅いものだな、銃弾というものは」


 それをやったのは槍を持った小柄な男、雷槍のマタゾー。

 少なくとも銃弾が発射されるまで、彼はまったく動いていなかった。それは間違いない。

 ならば彼は発射されてから銃弾を超える速度で槍を放ち、この動く小さな的を貫いたのだ。


「なに…が……え? は!? え!?」


 衛士が理解できたのは、銃弾が効かなかったということだけ。

 あとは何が起きたのかすらわからなかったに違いない。ただただ、その事象に対して呆然とする。


「ふんっ」


 バチンッッ

 マタゾーが槍の尖端に雷気を集めると、銃弾が一瞬で粉々に弾け飛んだ。


「余計なことをする。どうせ効かない」


 マサゴロウが、まさに「横槍を入れた」マタゾーに文句を言う。


「拙僧も退屈だっただけのこと。理由はそれだけよ。しかし、弱いものだ。もっとましな衛士はおらぬのか」

「ちっ、獲物が弱すぎるんだよな。雑魚の奪い合いなんてよぉ、おらぁたちの趣味じゃねぇよ。なぁ、オヤジぃ、こいつら弱すぎだぜ」

「しょうがない。ただの衛士だからな。ところで衛士さん、その銃を貸してもらえますかね?」

「…へ?」

「いえいえ、あなたに撃ったりはしませんよ。ちょっと見たいだけです。いいですよね? ほいっと」

「あっ!」


 ホワイトがさっと銃を奪い取る。

 見た目は猟銃のような形だが、もっとシンプルというか、地球にあったものより造りが雑だ。

 長さもストックを付けたサブマシンガンといった程度のもので、長距離での射撃は想定されていないことがうかがえる。

 対魔獣ではなく対人間用の武器なので、それくらいで十分なのかもしれない。


「ふーん、なんか安っぽいなぁ。通販で買ったエアガンのほうが精巧だったな。…これがコッキングか? ガチャッとやって…ちょっと撃ってみるか」


 バスンッ

 何の躊躇いもなく、自分の手に向かって銃を撃ってみた。


「あんた、何を!!! て、手が…」

「ああ、おかまいなく。銃弾を見たかったんで」

「…え?」


 ホワイトの手には、今撃った銃弾が掴まれていた。


「風で撃ち出しているわりには、地球にあるものと同じくらいの威力かな? でも銃ってさ、弾丸の種類も大事なんだよなぁ。これは何だ? 何かの骨なのかな? それを鉄か何かで薄くコーティングしているみたいだ。それに…丸いな。ライフリングは無いのかな? でもまあ、当たれば死ぬだろうから使えないことはないか」


 見たところ、速度も威力も地球製と同程度のものらしい。ただし、弾丸自体は鉄や鉛ではなく何か硬いもの、おそらくは魔獣の骨であろうか。

 同じく弾が丸い火縄銃も、近い距離からならば現在の銃弾と威力はさして変わらない。衛士の銃も、十分に人を殺すことができるだろう。


(んー? 装填数は二発なのかな? ちょっと少ないな。もうちょっと機構を改良すれば扱いやすくなりそうだけどな…。銃身を伸ばせば距離も伸びるだろうし、殺傷力が低下するけど、風で飛ばすのならば石でも代用できそうだな。なかなか面白そうだ。そのうち改造してみたいな)


 一般人の護身用武器としては悪くない。ホロロやセノアあたりが使うにはいいだろう。

 銃はキブカ商会からも入手が可能なので、何丁か仕入れるのも面白そうだ。


「あっ、どうもありがとう。これはお返ししますよ。ただ、こんな玩具じゃこいつらには通用しないんで、諦めたほうがいいですね」

「ひ、ひぃ…ば、化け物だ!」

「さて、改めてご用件を伺いましょうか? うちらに何かご用ですかね?」

「え、えと…あ…その……」

「衛士さんたちは街を守る大切な人材ですからね。こちらとしても無闇に殺したくはないんですよ。こっちは裏の事情で動いていますから、見過ごしたほうが皆さんのためだと思いますよ。ここは見逃してもらえないですかね? お互いのために」

「そ、そんなことできるわけ…」

「おい、一度引け!」


 困惑している衛士の男を仲間の衛士が制止。

 慌てて後ろに引っ張っていく。


「な、なんだよ! 放っておいたら大変だろう!?」

「冷静になれ。明らかに武人だぞ、あいつら。絶対に勝ち目がない」

「だ、だったら…キシィルナさんを…」

「それもやめておけ。手首を見ろ。リングがないだろう? つまりは都市内部での争いってことになる。こうなると、そもそもうちとは管轄が違う。巻き込まれたら損だ」

「どういうことだ?」

「見ろ。組織が動いているぞ」

「組織? なんだそれは?」

「そうか、お前は下級街に配属されて間がないからな…。畑仕事の多い第三城壁内と違って、ここいらではいろいろと決まりがあるんだよ。いいから一度引くぞ。危険すぎる。それはもうわかっただろう?」

「わ、わかった…」

「騒がせて申し訳ない。我々はここで失礼する。それで収めてもらえるか?」

「賢明な判断ですね。どうぞお帰りください」


 衛士たちは下がっていく。銃を撃った衛士も、それが簡単に止められた以上、どうしようもできないことを悟ったのだろう。おとなしく戻っていった。



 そして、衛士隊と入れ替わる形で―――【彼ら】がやってきた。



 もう一人の衛士が言っていたのは、このことである。

 そして、彼らこそホワイトにとっての本当の客だ。




184話 「やんちゃ無法のホワイト商会 後編」


 衛士は「管轄違い」ということで去っていった。

 そう、この都市にはルールがある。

 衛士隊は都市内部の「マフィア同士の抗争」には関与しない、というルールだ。


「おら、どけどけっ! どかんかい!」


 観衆の中から野太い怒鳴り声が聴こえ、誰かが割り込んでくるのがわかった。


「遅いご到着だな。ずいぶんと反応が鈍いようだが…これも危機意識が低いからかな」


 ホワイトが割れていく野次馬を見つめていると、明らかに堅気ではない連中が出てきた。

 六人組の男たちで、五人はチンピラ風、真ん中の一人はスーツ姿だ。


「おんどりゃ!! こりゃ、どういうことじゃ!」


 その中で先頭を歩いていた一人の男が、キャンキャン吠えながらやってきた。

 丸刈りのいかにもチンピラといった様相の男で、その手慣れた感じから、彼はいつもこうして他人を威圧しているのだろう。


「おう、お前ら、ここで何しとんじゃ! 人様のシマだとわかってのことかい!!」


 チンピラは、手に棍棒のようなものを持っている。

 人間は武器を持つと自信がついて、ついつい攻撃的になってしまうものだ。物言いも乱雑になりがちだ。

 それが普段と同じ状況ならば、それなりの威圧効果を持っているのだろう。彼の周囲から野次馬が逃げたように。

 だが今日は、とてもとても相手が悪い。


「なんじゃぁ! 人の話を聞いてんのか! それとも俺らとやるって……いう……の……か………」


 近づけば近づくほど、その場にいる者たちが危険であることがわかるのだろう。

 身体は正直だ。

 彼の本能が近づくことに拒否を始め―――ついに止まってしまった。

 目の前には巨漢のマサゴロウ。完全にチンピラが見上げる形になる。


「ぁあ……で、でけぇ…」

「なんだ、こいつは? またゴミが来たのか」


 マサゴロウが、じろりと睨む。


「な、なんじゃ、お前ら!! なにしてんじゃぁ!」

「見てわからないのか?」

「て、てめぇらこそ、わからねぇのか!! 俺たちがいんだぞ!」

「言っている意味がわからん」


 がしっ ぐいっ


「がっ!! て、てめ…がっ……何しやが…がはっ」


 そのチンピラもマサゴロウにあっさりと捕まる。まったく反応できずに首を掴まれた。

 ホワイトから見ればノロマな動きでも、常人からすれば恐ろしく俊敏なゴリラに近い。速度の基準、レベルが違うのだ。


「がっ…がああ…がはっ、やめっ…はな…せ……」

「な、何しとんじゃああ!! お前ら、ぶっ殺すぞ!!!」


 相手の仲間が駆けつけるが、その前にマタゾーが立ち塞がる。


「そこから一歩でも動くでないぞ。動けば刺す」

「うっ…! なんだこいつは!!!」

「オヤジ殿、どうされる? 一突きで殺すか? それとも少しずつ削ぎ落として殺すか? 拙僧はどちらでもかまわぬ」


 マタゾーも疼いてきたのか、相手が弱者であっても殺してもいい気分になったようだ。

 すでに殺すことは確定で、どう殺すかの話になっている。槍を構える仕草に狂気の色が宿る。


「な、なんだ…こいつら! 何言ってやがる…! 俺らが来たってのに、なんでやめねぇんだ!?」


 仲間のチンピラは、その温度差に驚いて動けない。

 こちらは威圧するつもりで行ったのだが、相手は最初からこちらを殺すつもりで来ている。

 その覚悟の差、圧倒的な意思の違いに場慣れしている彼らでも戸惑っているのだ。


 そんなチンピラにホワイトが近寄る。


「やぁ、やっと来てくれたね。待ちわびたよ。でも、対応が遅いんじゃないかな。少し拍子抜けだよ」

「ああん? 誰じゃ、このガキ―――ぶへっ!!」


 チンピラの腹が槍の石突きで叩かれ、吹っ飛ばされる。


「がほっ、げほっ…がっがが……がぼっ!!」


 チンピラは激しく吐血。呼吸ができずに苦しんでいる。


「オヤジ殿への無礼は許さん」

「マタゾー、手を出すのが早すぎるぞ」

「申し訳ない。これでも気を遣ったのでござるが…相手が弱すぎて加減が難しいですな」

「まあいい。お前にしては優しい一撃だったからな。ははは、案外まともに僧侶をやっているじゃないか」


 マタゾーにしてみたら、軽く槍の後ろ側でつついたくらいの感覚である。

 だが、常人にしてみれば石が剛速球で飛んでくるようなもの。筋肉の断裂、臓器の破壊が起こり、男は半死状態だ。


「いやぁ、ほんと申し訳ない。うちの若いやつらは血の気が多くてね。ああ、かわいそうに。怪我を治してあげましょう」

「げほっ、がほっ…ううっ…痛ぇ…痛ぇ………痛く…ない?」

「マサゴロウ、お前も放してやれ」

「…わかった」

「ごはっ、ごほっ…くそ……」


 チンピラを命気であっさりと治療。

 それを見たスーツ姿の男が、ホワイトの正体を見破る。


「仮面、治療…あなた、ホワイトさんですか?」

「ええ、そうです。ご存知とは光栄ですね。それで、あなたはどちら様?」

「モザート協会の取締役をやっております、ワカマツと申します」

「ほぉ、取締役。若頭ではなく?」

「…まさか。うちはまっとうな商会ですからね。取締役ですよ。お間違えなく。これ、名刺です」

「これはどうも。…なるほど、たしかにそう書いてありますね」


 ワカマツが出した名刺には、たしかに取締役とある。しかし、その顔はどう見ても堅気ではない。

 目の前で身内であろうチンピラが倒されても動じない胆力を持っていることからも、明らかに筋者であることを証明している。


 彼らこそ、この店を管理しているマフィア、モザート協会の者たちだ。


 騒動を聞きつけた者が、彼らにも報告したのだろう。あるいは、これだけの騒ぎになれば気づかないほうがおかしいのかもしれない。

 衛士が下がった理由は、まさにこれである。マフィアとマフィアの抗争ならば、彼らの出る幕はない。

 すべてのマフィアは、必ず各グラス・マンサーによって管理されている。領主軍がどちらかに加担すると公平性が失われ、後々面倒なことになるからだ。


「ほぉ、これを拝見すると…モザート協会さんは人材派遣のお仕事ですか。大変そうですね」

「ええ、大変です。このようなことが起きると、特にね」

「お互いに部下には苦労しているようですね。ご苦労はお察ししますよ」

「それはどうも…。それで、うちと契約している店にどのようなご用件でしょうか。見たところ、ずいぶんと乱暴なことをしておられるようですが」

「いえいえ、ちょっとご挨拶に伺っただけですよ」

「挨拶…というレベルを超えているように見えますが」

「そうですか? これでもかなり加減をしているんですけどね」

「これで、ですか?」


 乱暴どころか殺人まで平気に行っていることに、さすがのワカマツも眉をひそめる。

 グラス・ギースでは殺人事件も起きるが、数はそう多くはない。衛士たちもいるし、裏の人間が抑止力になっているおかげもあり、近年では滅多に起こらない。

 それが、この惨状。

 すでに何人もの死体が転がっている。これだけで大問題である。

 しかも、よその組の管轄に手を出したとなればどうなるか、裏の世界で知らない人間はいない。

 だが、ホワイトはワカマツの圧力にもまったく動じず、淡々と事実だけを述べていく。


「言ったでしょう。ご挨拶だと。挨拶ってやつは重要でしてね、上下関係をはっきりさせないといけない。そうしないと、どう挨拶していいのかわからないですよね? 上の相手には敬語が必要なわけですから」

「それでこの結果ですか…。経緯を説明していただいてもよろしいですかね?」

「ええ、かまいませんよ。実は新しい事務所を構えたんで、その挨拶回りをしているんですよ。知ってます? ホワイト商会って。護衛派遣業なんですけどね」

「…あなたのお名前は存じておりますが、商会と事務所のほうは初耳です。それがうちの店と何の関係があるのでしょう?」

「この店の用心棒でもやろうと思いましてね。話を持ちかけたんですが…支配人の方が強情でしてね。話がこじれてしまったので、こうなっただけのことです」

「ホワイトさん、そいつは筋が通っていないんじゃないですかね? ここはもともとうちの管轄の店です。あなたにそんな権利はないですよ」

「スジですか? スジ肉は好きじゃないなぁ」

「冗談を言っている場合じゃありません。うちら筋者が、どうしてそう呼ばれるかはご存知でしょう? 筋道こそが重要なんです。あなたがやっていることは非常に危険だ」

「あれ? まっとうな商会の取締役さんですよねぇ? おかしいなぁ、それって筋が通っていないんじゃないですかね?」

「ホワイトさん、真面目に答えてほしいんですけどね」

「くくく、筋は通しているつもりですよ。強い者が勝つっていう力の流儀でね。我々のほうが彼らより強かった。それで十分じゃないんですか?」

「そんなもの、ここじゃ通じません。ここは狭い世界ですからね。お互いに協力するってのが筋なんです」

「そうですか? 我々の流儀は通じているみたいですけどね? ほら、あんなふうに」


 あらかた戦いは終わっており、屍の山が転がっている。彼らは弱いから死んだのだ。

 否。「弱い者は、より強い者に従う」という理に逆らったから死んだのだ。それは筋を通さなかったからである。


 と、その時、少し離れた場所で倒れていた店員が起き上がり、走り出した。


「ひぃいい! ひいっ!!」

「やろう、まだ生きてやがったか!」

「ひっ、ひっ…なんでこんな目に…逃げ、逃げないと……ぎゃっ!!」


 走り出した店員の背中に―――矢が刺さった。

 右の肩甲骨の隙間を貫き、肺を突き破る。


「おー、姐さんが当てたぞ」

「おーー! さすが俺らの姫様だ!」


 撃ったのは黒姫。真っ黒な仮面を被った少女が、クロスボウを構えていた。


「げはっ…ごほっ……ううう…い、いてぇ…いてぇえよぉおお…!」

「…?」

「黒姫、こっちの場合、心臓は左だ。逆だったな」


 首を傾げる黒姫に、ホワイトが近寄る。

 どうやら反射的に右胸あたりを狙って撃ってしまったようだ。それが背中になれば位置は逆になる。


「ほら、まだ終わっていないだろう? 最後までやってごらん」

「…こくり」


 トコトコ

 黒姫は倒れている店員のところに歩いていき、じっと様子をうかがいながら慎重に新しいクロスボウを取り出す。

 倒れている相手にも油断しないという教えを忠実に守っているのだ。


「ううっ…がっ…やめっ…たすけっ―――」


 狙いをつけ、迷うことなく矢が―――発射。


 ズトンッ


 至近距離から放たれた一撃が、頭に突き刺さり―――絶命。

 そのまま男は動かなくなった。


「おー、よくできたな!! いい練習台になってよかったな、黒姫!! 人間は魔獣と比べて的が小さいからな。次もよく狙うんだぞ」

「…こくり」

「よしよし、大成功だ。女も荷台に積んだようだし…移送はヤキチに任せる。予定通りに動け」

「おうよ!」


 ヤキチたちは奪った金と女を堂々と馬車に詰め込んでいく。

 麻薬中毒者の女たちがまったく騒がないのが、あまりに異様である。そんなことにはもう慣れきってしまったのだろうか。


 ヤキチと数名の戦罪者が乗った馬車が移動を開始。

 それを見届けたあと、ホワイトもワカマツに別れの挨拶をする。


「では、我々はこれで失礼いたしますよ。ここでの用事は終わったのでね」

「待ってください! このまま帰るおつもりですか? きっと後悔しますよ!」

「ん? まさか、その数でやるおつもりですか? かまいませんけどね、うちは。その場合、後悔するのは皆さんだと思いますけど?」


 相手は六人。ヤキチたちがいなくなったので、こっちは黒姫を抜かしても十一人。しかし、その数以上に戦力差は歴然としている。

 見たところワカマツは強くない。少しは戦えたとしても、せいぜいキブカ商会の構成員程度だろう。

 部下のチンピラも一般人を脅すためには有用かもしれないが、【殺し専門】ではない。殺したことがあるにせよ、ほんの数人だろう。

 それが六人程度ならば、マサゴロウ一人で十分過剰戦力である。この程度の相手ならば、彼一人で五百人は軽く殺せる。それも息一つ乱さず。


「オヤジさん、今度は私にやらせてくださいよぉ。みんなだけ楽しんで、ずるいですよぉー」

「ハンベエか。やりすぎるなよ。住民を巻き添えにしないようにな」

「わかっていますが…手加減できますかねぇ? ああ、楽しみだ。人が悶えて死ぬのを観察するのが好きなんですよ。うけけ、けーーーけけけ!!! いやー、楽しくなってきましたねぇ!!」


 不気味な笑いとともにハンベエが怪しげな瓶を取り出す。

 中身の液体は毒々しい紫なので、どう考えても劇薬である。


「ふふ、これはね、グバロパーン〈小竜噴毒蛇〉という根絶級魔獣の毒嚢(どくのう)から抽出した液体でしてね。普通の魔獣なら一滴で動けなくなり、二滴も注入すれば間違いなく死ぬって代物なんです。さて、問題です。ここで蓋を開けるとどうなるでしょう? 空気に触れると急速に気化して周囲一帯を…うけけ、楽しみだなぁ!! これね、西側の軍隊で化学兵器として使われている原料なんですよね。一度街中で使ってみたかったんですよぉ」

「やれやれ…ハンベエは加減できそうもないな。まあいい。観客はオレが水泥壁でガードする。こいつらは好きにやれ」

「ありがとうございます、オヤジさん! 話がわかる上司って、やっぱりいいですねぇー」

「オレはもっと話のわかる部下が欲しかったけどな」


 毒を見て、ワカマツたちは思わず下がる。

 いや、毒よりもハンベエの狂気に満ちた声と雰囲気に圧倒されたのだろう。毒が本物ならば、明らかに常軌を逸している。


「くっ…! 本気でやるつもりなのか? 正気か、あんたら!!」

「おや、焦っているようですね。ここじゃ力の流儀は通じないんじゃないんですか? おかしいなぁ。聞き間違いですかねぇ。で、どうします? いいですよ、逃げても。今なら見逃してあげますから」

「ぬううっ…!!」

「あ、兄貴ぃ。この数じゃ…! それにこいつら…ヤバイですよ! 絶対やべぇ!」

「どうやらそちらの若い人のほうが、状況を理解しているようですね。さすがマングラス一派、いい人材をお持ちだ」

「くうううううっ!! 帰るぞ!!!!」


 ワカマツは五人を連れて帰る(逃げる)ことを決断。懸命な判断だろう。

 だが、捨て台詞も忘れない。


「ホワイトさん、このこと…高くつきますよ!」

「それはいい。高いものは大好きでしてね。いつでも送ってください。安物だったら返品しますから、そこんところよろしく。あっ、普段は上級街の事務所のほうにいますよ。診察所の近くだからすぐにわかるでしょう。場所がわからないと送りようがないですからね。お間違えなく」

「…くそ!!! どこまでも馬鹿にしやがって!!」



 苦々しい顔をしてワカマツは帰っていった。

 これでモザート協会とは完全に敵対関係になったというわけだ。


「オヤジさん、せっかくいいところだったのに…」

「焦るなよ。これから好きなだけ殺させてやる。もう少しじっくり遊ぼうぜ」

「ふふ、わかりました。楽しみにしていますよ」



 こうして無法者たちがグラス・ギースに解き放たれた。


 これが最初の火付け。ここから火は広がり、グラス・ギースが燃え上がるのだ。




185話 「襲撃と事務所建設」


 ホワイトことアンシュラオンは、この一件の後、そのままいくつかの店を襲撃しに行く。

 やり方は同じ。事前にみかじめ料を請求し、それを断ったら店員を殺して金を奪い、ピンク系の店では女も奪っていく、というもの。

 基本的にどの店もどこかの派閥に金を払っているので、拒否するしかない。もし受け入れてしまえば、今度はそっちからも攻撃されるからだ。

 一番の被害者は、当然ながら弱者である店側である。

 みかじめ料は一応用心棒代なので、本来ならば自分たちを守ってくれるはずのモザート協会が武力で追い払われてしまった以上、彼らは混乱に陥るしかない。

 逃げたい。逃げられない。払って楽になりたい。でも、払ったら後が怖い。でも、払わねば死ぬ。


 と、葛藤している間に襲撃が始まり―――


「わ、わかった、払う! 払うから!!! 許してくれ!」

「もう時間切れだな。あんたは付く相手を間違えた。おい、やれ」

「ふふ、じゃあ、さよならのお時間ですね。はい、ちょっとチクってしますよ」

「ま、待って…まっ…うぐっ…ぐううう…がはっぁあ」


 シュッ

 ハンベエが軽く腕を引っ掻いた瞬間、支配人が苦しみ出す。

 突如、自分の身体を掻きむしり始め―――


「うぐっ…がっ…―――っ」


 バタン

 がくっと白目を剥いて倒れた。

 ハンベエの特殊毒である。ものの数秒で人間が死ぬ。まさに猛毒だ。


「あーあ、死んじゃいましたね。毒が強すぎるんですよ。本当は弱い毒でじわじわ死んでいくのが楽しいのに…つまらないなぁ」

「お前が好き勝手に毒を撒いたら他にも被害が出る。今はそれで我慢しておけ」

「…わかりました。今度は直接注入タイプの弱い毒も作っておきますよ。ふふふ、それはそれで楽しめそうです」

「これで店員は全員処分できたか。女を連れてこい」

「へいっ、オヤジ!」


 ここは違法クラブの一つで、麻薬の取引現場にも使われる店だ。

 ただ、上級街にあった高級店とは違って安っぽいバーなので、集まるのは下級街のチンピラばかり。その質は遥かに劣る。


 そして、戦罪者に連れられて女たちがやってくる。

 そこに勤めている女も半数が麻薬中毒者といったところ。こうしてみると麻薬はかなり蔓延しているようである。


「お前たちをこれから移送するが、途中で騒いだら殺す。ああなりたくなかったら言うことを聞け。わかったな」

「は、はい…」

「この中で子供がいるやつはいるか? 手を挙げろ。心配するな。悪い話じゃない」


 恐る恐る手を挙げたのは、八人中三人あまり。


「子供はこちらで保護して、お前たちと一緒のところに向かわせる。金だけを渡しても子供だけでは危ないからな」

「あ、あの、子供はどうか…助けてください…」

「逆らえば殺すと言ったが、従えば利益を与えてやる。子供も同じだ。悪いようにはしない。と言っても簡単には信じられないだろうな。それは仕方ない。だが、どのみち選択肢はない。今は黙って従っておけ」

「…はい」

「よし、行け」


 女たちは店員の死体を見ているので抵抗するそぶりはない。震えて声も出ないか、ヤク中で思考が上手くまとまらないかのどちらかだろう。


(今日はこんなものか。荷物も多いから無理をすると追跡されるかもしれないしな)


 現在はホワイト商会の動きに気づいていない敵が多いので、妨害工作の類は受けていない。

 今ならばこうした略取も簡単だ。よって、最初の襲撃は女がいる場所に集中することになる。

 それでも注意は怠らない。三軒目までは路上も使って派手にパフォーマンスを行い、最後の一軒はこうして即座に排除を終えることで、相手の目を誤魔化しているのだ。


「今日は撤収だ。夜になれば人も増えるからな」

「うすっ!」



 仮面の集団は素早く店を出ると、あらかじめ決められていたルートを通って人目に付かないように移動。

 すでに夕日となった太陽の光が完全に城壁の影に隠れ、昼間でも異様に薄暗いエリアに忍び込んでいく。

 そこには、大型の馬車があった。


「女を例の場所に移送しろ。護衛にはマタゾーと他に三名が付け。もし妨害に遭ったら敵は殺していい。だが、衛士に止められたら身分証を見せて強引に押し通れ。今は衛士とはできるだけ揉めるなよ。特に東門の女衛士には手を出すな。その人と戦うくらいなら女は捨てて証拠隠滅を図れ」

「承知」

「ああ、マタゾーさん。これ、差し上げますよ。私が作った毒玉です。女を殺す時に使ってください。荷台に放り込めば数秒で全員死にますから楽ですよ」

「趣味ではないが…もらっておこう」


 これは趣味の悪い冗談ではない。その時になったらマタゾーは迷わずに使うだろう。オヤジの命令は絶対だからだ。



 馬車はマタゾーたち護衛を乗せて出立。

 さきほどの風俗店で手に入れた女も戦罪者に護衛させ、こうして各所に隠してあった馬車に乗せて移動を開始している。


 向かう場所は、とある倉庫。


 キブカ商会が管理している倉庫の一つで、そこに一旦匿うのである。

 中には麻薬中毒者の女もいるため、もしかしたら善行の一種にも見えるかもしれない。しかし当然、これは慈善などではない。

 風俗店で働いている女性は処女ではないので、アンシュラオンが自分のものにするわけではない。この店の女も同じだ。だが、女はそれ以外にも使い道はたくさんある。


(とりあえずは麻薬工場の作業員として確保しておこう。ソイドファミリーの構成員たちを殺すと、生産が滞ってしまうからな。畑仕事にも使えるかもしれないし、人手の確保は重要だな)


 彼女たちはソイドファミリー制圧後、麻薬工場の従業員となる予定だ。麻薬を餌にすれば食いつくだろうし、その前にスレイブにしてしまえばいい。


(麻薬は利潤が高いコシノシンをメインで生産していこう。シャイナではないが、より品質の高い麻薬のほうが副作用が少ない。相対的に考えれば健康状態も多少はましになるだろう。オレがそれしか生産しなければ、相手は受け入れるしかないしな)


 現在はソイドファミリーが安い麻薬も放出しているので弊害が大きくなっているが、生産元が一つしか麻薬を製造しなければ相手に選択の余地はない。

 それは結局のところ、都市の正常化を助けることになる。

 副作用は減り、医者を介してコシノシンは医療麻薬としての本来の用途として使われるだろう。本当に必要な人間に対しては安価で提供もできる。

 当然、医者を通さない中毒者のクズどもには高値で売るつもりだ。それでバランスを取ればいい。

 完全とはいえないが、これならばシャイナとホロロの要望をある程度満たすことができる。主人たるもの、自分が所有する女の願望を満たすことも大切な責務である。


(麻薬の利潤はすべてオレがもらう。それとマンパワーを支配すれば、オレが求めるレベルの権力は手にできるな。マングラスのやつらとも上手く揉めたし…順調だな)


 捕らえた女性の中で、子供がいる者は権力を確保したあとに戻すかもしれないが、それはそれで別途雇えばいいだろう。

 その頃には勢力図は大きく変わっているはずで、スレイブになるかどうかにかかわらず、彼女たちもアンシュラオンの支配下に置かれることになる。


「残った者は、オレと一緒に上級街に戻るぞ」


 別途用意してあった馬車に乗り、一行は上級街に戻る。






 下級街から中級街に移動し、西門のチェックを受ける。

 その際、全員が仮面を被っているので衛士は困惑したが、身分証はホテルから発行されている最上級のものだったので、喉まで出かかった疑問を押し込めて、そのまま通してくれた。


「へっ、暴れられると思ったんだけどなぁ…」


 衛士もまさか、馬車の中でそんな言葉が呟かれているとは思っていないだろう。

 知らないところで命拾いしているというのは、実に怖いものだ。

 アンシュラオンは「できるだけ揉めるな」とは言ったが、揉めてはいけないとは言っていない。

 邪魔をする相手は誰であろうと容赦はしない。それがホワイト商会に課せられた存在意義であり使命である。



 馬車は上級街の商業街を通り過ぎ、診察所があった場所も通り過ぎる。

 その先はホテル街まで、だだっ広い空き地が広がっている。前にアンシュラオンがサナと歩いて見ていた何にも使われていない土地である。

 そもそもグラス・ギースの人口密度は相当に低い。そうであるにもかかわらず上級街だけが隔離されているので、必然的に土地が余ることになる。

 だが、そんな土地にも、今ばかりは少しだけ活気が宿っていた。

 馬車で移動していると、ランニングシャツに短パンといったラフな格好の男たちとよくすれ違う。

 上級街で労働者と出会うことは珍しくはないが、ホテル街に止まるような雰囲気の人間でもないので、この一帯ではなかなかに稀有な光景である。


 その正体は、しばし進むとすぐにわかる。


 何もないはずの広大な空き地の真ん中で、何かの工事をしている者たちがいた。

 やたら大勢の人間、特に体格の良い汗臭い男たちが、一心不乱に作業に集中している。

 アンシュラオンは馬車を降り、戦罪者たちと一緒にそこに向かう。


「おっ、こりゃ先生! どうも!」


 その姿を見かけた男が駆け寄ってきた。

 この人物も非常にマッチョで、いかにも「とび職」といった格好をしている。


「やぁ、久しぶりだね。工事はどう?」

「順調でさぁ。この分なら、あと二週間くらいでなんとかなるなぁ」

「それはよかった。急ぐ必要はないけど、しっかりと確実に頼むよ」

「へぇ、そりゃもう。先生には返しても返しきれないくらいの恩があるからなぁ」


 この男はホワイト診察所に治療に来た大工で、名前はゴウダ・ノブ。

 下級街で建設業を営んでおり、大工の腕前はかなりのものらしい。しばらく怪我で現場からは遠ざかっていたが、今回はようやく復帰が叶ってやる気満々だという。

 そのうえあの時に無料で治療したことで、アンシュラオンに対して強い恩義を感じてくれているようだ。

 しかし、アンシュラオンはさらに懐柔を徹底する。


「でも、先生…いいのかなぁ? こんなにもらっちゃって…。そりゃうちはありがたいけんど…また恩ができちまう」

「かまわないって。金なんて使うためにあるんだよ。前にも言ったと思うけど、すべては人の役に立つためにあるんだ。この金で労働者を雇えるし、それで経済が回れば結果的にみんなのためになる。ついでにオレも助かる。ね? いいだろう、そういうの?」

「せ、先生…! 先生はすごい人だぁ! おいらは感動しちまって…ううう…」

「いいって、いいって。それより【例の部分】は、くれぐれもゴウダさんが中心になって誰にも見られないように気をつけてね」

「ああ、そっちは万全だぁ。夜中においらが一人で作業して、もう全部作業が終わって囲っちまったよ」

「素晴らしい。それならば安心だ。あなたと出会えてよかった」

「それはおいらの台詞だよぉ。おおん、おおん…、先生は本当に偉大な人だぁ」


 涙に酔いしれるゴウダには、アンシュラオンの笑みの中に隠れた真の感情は読み取れない。

 だが、そのほうがいい。そのほうが人間は幸せなのだ。どうせ彼にとっては関係ない話。美談で終わらせたほうがいいに決まっている。


(人間は金で動く。どんな美談だって、それを支えているのは利益だ。この大工の集団も無料でやっていたらやる気も出ないだろう。助けたとはいえ所詮、こいつ個人の問題だからな。金を払って正解だったな)


 建てているのは、ホワイト商会の新しい事務所である。

 しかし普通の事務所ならばいいのだが、作戦の都合上少し工夫しないといけない場所もあるので、その部分だけは赤の他人に任せるわけにはいかない。

 その点、ゴウダならば比較的安全だ。恩も売ったし、金もかなり払った。彼が裏切る可能性は非常に低い。

 また、キブカ商会がバックにいるので金の心配もいらない。商人として成功しているソブカには、金だけはあるのだ。


「それじゃ、おいらは作業に戻るよ」

「ああ、よろしく。夜の間はこっちで警備をするから、安心して作業に集中してね」

「おう、任せておいてくれよ」


 そして、ゴウダが作業に戻ったのを確認し、残っている戦罪者に指示を出す。


「お前たちは、ここで施設と大工たちの警備だ。まだ敵は出ないだろうが、盗みを働くやつがいるかもしれないしな。一応、警戒しておけ」

「うっす」

「飲酒などで羽目を外してもかまわんが、襲われた場合以外で殺しはやるなよ。問題があればオレに伝えろ。そのへんにいるからな」

「うっす」


 戦罪者たちは、各人がバラバラに事務所の周囲を覆う形で警備の任に就く。


「サナ、今日はここで野宿だ。大丈夫か?」

「…こくり」

「よし。そのために訓練をしたんだもんな。まあ、サナはもともと気にしないタイプかもしれないけど。どのみち事務所が完成するまでの辛抱だ」


 アンシュラオンはホテルに戻らず、この場所に野宿することになった。少なくとも相手の出方を確認するまでは戻れない。

 唯一サナが気がかりだったが、彼女もすでに武人として修行を始めた身である。荒野で多少の訓練を積んだこともあり心配はいらないだろう。


 ポケット倉庫から出した簡易テントを張り、サナにはその中で仮面を脱がせて休ませる。

 こうしている間も常時波動円でアンテナを張り巡らせているので、何かあればすぐに対応できる。



 その夜は、何もなく時間が過ぎた。



 しかし、問題が起こったのは次の日である。




186話 「マングラスの査察」


「オヤジぃ、誰か来ますぜ!」


 朝方の八時くらいだろうか。工事を再開するために大工たちが集まり始めた頃、彼らはやってきた。

 歩いてきたのは二人。

 やや濃い目の灰緑色の制服を着ており、チンピラのようなだらけた格好ではない。

 武装はしていない丸腰に見えるが、彼らの武器はおそらくは剣や銃といったものではないだろう。


「なるほど、まずはそっちできたか」

「どうします? ぶん殴りますか?」

「お前らはそれしか頭にないのか? まあ、そういうやつらだからいいんだが…今回はやめておけ。あれはオレが相手をする。ハンベエにも手を出すなと伝えろ」

「うすっ」



 アンシュラオンは、ゆっくり歩いてきた二人と接触。

 相手もいきなり揉めるつもりはないようで静かに止まる。


「何かご用ですかね?」

「失礼、こちらがホワイト商会さんの事務所と伺って来たのですが」

「ええ、間違いありませんよ。私がホワイト商会、会長のホワイトです」

「…あなたが…ですか」

「何か?」

「いえ、事前に聞いてはいましたが、本当に仮面を被っているとは…何か外せない理由でも?」

「実は私、人間じゃないんですよ。口が裂けていたり、目が五つもある異形なんです」

「………」

「冗談ですよ。ちょっとは笑ってほしかったんですけどねぇ。これは単なる趣味です。ただ、素顔は見ないほうがいいでしょうね。きっと後悔しますから。ふふふ」

「…っ」


 その笑いに薄ら寒いものを感じたのか、男が一歩下がる。

 しかし、彼らも遊びでここに来たわけではない。勇気を振り絞って前に戻る。


「申し遅れました。私はルーン・マン商会で監査官をやっております、レブファトと申します」

「自分はシミトテッカーです」


 レブファトは四十歳くらいの男で、物腰は丁寧だが言葉の端々からこちらをうかがうような態度が透けて見える。

 顔はまるで怒っているかのような険しいものだが、特に感情に変化はないのでおそらく地顔なのだろう。

 シミトテッカーはレブファトよりも若く、まだ二十代後半といった年齢であろうか。見た感じ、入社五年目くらいの若い営業マンを彷彿させる。

 レブファトが前、シミトテッカーが斜め後ろ。この二人の立ち位置を見る限り、レブファトが上司で彼が部下だと思われる。


「なるほど、お二人は監査官ですか」

「はい。我々の仕事は商会が正常に運営されているかの調査と査察です。そのため領主から監査権を与えられております」


 ルーン・マン商会。

 昨日接触したモザート協会と同じマングラス一派の組織だ。

 彼ら監査官の仕事は、商会の管理。他の派閥の商会も含めて、グラス・ギースにあるすべての商会に対して査察を行い、問題があれば勧告・是正する権利を有している。

 事実上モザート協会の上位組織にあたり、人材を扱うマングラスの中でもトップに近い大きな組織である。

 おそらくモザート協会からの連絡で、こちらに接触を図ったと思われる。


「それで、どのようなご用件でしょう?」

「単刀直入に申し上げますと、書類の内容に不備があるため、そちらの商会の設立を認可できませんでした」

「おや? 商会の設立はハローワークで認可されたと聞きましたが? この都市ではハローワークが行政機関を担っているはずですよね」

「たしかにその通りです。そちらでは通っていました。ですが、ハローワークはあくまで代行機関です。この都市で商会を運営していくためには、我々の査察による許認可が必要となります」

「へぇ、それは初耳だ。面倒くさいことはハローワークに任せておいて、自分たちの都合が悪いことが起きると文句を言って、しゃしゃり出るわけですね? ここは自分たちの街だから自分たちが決める、と。あなたたちらしいやり方ですね」

「どう捉えてもらっても結構。事実は変わりませんので」


 レブファトは淡々と言い放つ。

 どうやら見た目通り監査官としてはベテランのようで、嫌味に対しても眉一つ動かさない。


「それで、どこが問題だったのでしょうか? 根拠はあるんですよね?」

「はい。こちらが不備が発見された項目です。ご確認ください」

「ふむ、保証人の身分詐称、資本金の出所不明、違法雇用契約の疑い、無断の土地利用…か。たしかに問題が山積みですね。ははは」

「笑い事ではありませんよ。あなたがたの商会の話ですから」

「そうは言われましてもねぇ…これでハローワークの審査は通っているんですけど」


 ルーン・マン商会は、マングラス一派の査察機関。商会がルールを守っているのかどうかを監査するのが仕事だ。

 これを真面目に受け取るのならば、ホワイト商会は実につっこみ所満載の商会である。

 ただ、商会にとっては金があることが一番重要なので、たいていの問題は設立費用を払うことで黙認される項目ばかりだ。

 それをつついてきたのだから半分は言いがかりである。目的はもちろん、難癖をつけてホワイト商会を潰すことだろう。


 しかし、アンシュラオンはレブファトたちを見て、内心で笑っていた。


(まずはジャブってところか。しかしまあ、思った以上に相手側も困惑しているらしいな。ぬるい手を使ってくる)


 相手が打ってきた手は、当初想定していたより弱いものであった。

 おそらくマングラス側も状況を理解していないのだろう。直接的な武力行使ではなく、まずは【警告】という形で接触してきたのだ。

 行政は基本的に段階を踏んで行動する。いきなり攻撃したりはせず、最初は勧告や警告を発するものだ。

 それが普通の商会相手ならば、それなりの効果を発揮するだろう。


 しかしこれは―――悪手である。


 マングラス一派がまだホワイト商会の本質を理解していないことを、相手自らが示してしまったのだ。

 笑いたくなる気持ちを堪え、アンシュラオンはさも不安そうな声を出す。


「それで商会の設立が認められないと、私たちはどうなってしまうんでしょうか?」

「組織は解体ということになりますね。もちろん、そこで工事している建物もです」

「そんなぁ、いくらかかっていると思っているんですか? 途中でやめたら大損ですよぉ!!」

「そんなことは知りません。手続きに不備があった以上、こちらはどうしようもありません。ルールはルールですから守っていただかないと困ります。もし再度設立届けを出すのならば、三日以内に受理されないと同一内容での商会は作れませんので、ご注意ください」

「そこを何とかなりませんかね? ほら、わかるでしょう? ちょっと手心を加えるとか」

「…どういう意味でしょう?」

「もう、しょうがないなぁ。そこまで言わせるんですか? これ、取っといてください」


 アンシュラオンが、懐から札束を取り出す。


「とりあえず百万円ずつで…お二人ですから二百万ですかね。ひとまずこれでどうでしょう?」

「………」

「あっ、いえ…あっ…」


 レブファトは毅然とした表情で、シミトテッカーは少しだけ狼狽した様子で札束を見る。


「足りないですか? なら、さらに追加して…お一人三百万でどうですかね?」

「三百万!?」


 その金額にシミトテッカーが驚く。

 彼がいくらもらっているのか知らないが、都市の平均月収が四万だとすれば、個人で三百万というのは大金だろう。

 しかも通常の給料とは別枠で税金も取られない裏金だ。丸々利益である。


「ええ、そうです。ご希望なら、もう少し色を付けることもできますが…どうでしょう? そこは馴れ合いってことで。お互いにいい関係を築きませんか? ねっ、シミトテッカーさんもそう思うでしょう?」

「そ、それは…それは…駄目です。私たちは仕事で来ていますから」

「仕事…ねぇ。こんなこと、商会の査察ではよくあることでしょう? 上には適当に言っておけばいいんですよ。どうせあなたがたの上司も、机の上から命令することしか知らない世間知らずなんじゃないですか? ここで真面目に働いても、その実績の全部をそいつらが持っていっちゃうんですよ? それって嫌ですよねぇ。あなたはそんなやつのために働いているんですか? 報われてます? ちゃんと労働の対価をもらってます? ちょっと考えてみてくださいよ」

「………」


 シミトテッカーは思い当たることがあるのか、じっと札束を見ながら考えている。

 当然、アンシュラオンは彼の職場事情など知らないので適当に言っただけだが、どこの職場も似たようなものであろう。

 何も知らない上司にこき使われる部下。まさに人間社会の定番である。


「遠慮なさらず。ほら、どうぞ」

「ああ! だ、駄目です! ポケットに入れないでください!」

「じゃあ、靴の中に入れましょう」

「そこはもっと入らないですよ!!」

「そこまでです、ホワイトさん。それ以上やれば、贈賄の罪で訴えねばなりません」


 レブファトが止めに入る。ついでに脅しも忘れない。


「…へぇ、面白いことを言いますね。あなたは金を受け取ったことはないのですか?」

「ありません」

「一度も? 本当に?」

「ええ、女神に誓って」

「そ、そうです。レブファトさんは一度だってもらっていません。それは私も保証します」

「ふーん、本当かなぁ。ちょっと信じられないですね。汚職なんて、知らないところでいくらでもできちゃいますし」

「あなたがどう思おうがご自由ですが、真実は一つです」

「へー、本当だとしたらたいしたものですね」


 ルーン・マン商会もマフィアの組織なのは間違いない。

 そんな連中が真面目にやっているとは到底思えない。上納金さえ払えば、後は好き勝手やるのが彼らの常識だ。

 監査官という立場であれば、いくらでも賄賂を受け取ることができる。やらないほうがおかしい。

 だが、レブファトの顔には一切の動揺も後ろめたさもない。


「そのようなもの、いくら積まれても無駄です」

「金には興味がないですか…そういう人もいますよね。では、女ですかね? いくらでも用意してあげますよ。どうです? ハーレムというのは? 男の憧れでしょう?」

「いいえ、必要ありません」

「ああ、これは失礼。そっちの方でしたか。任せてくださいよ。男のほうもなんとでもしますから。子供がいいですか? 少年がいいですか? それとも大人?」

「そういう冗談は嫌いです。やめてください」

「ふむ…では、地位ですかね? 困ったなぁ。私の一存では難しいですが…あなたが望むならばそれなりのポストを用意しましょう。特別ですよ?」


 金、女、地位、おおよそ男が求めそうなものを挙げる。

 が、レブファトは冷たい視線を崩さない。


「話になりませんね。何をどうされても我々の意思はまったく揺るぎません。よくいるのですよ、あなたのような方が。何でも金でどうにかなると思っている困った人がね。監査官はいかなるときも公正でなければならないのです。賄賂などもってのほかです」

「お堅い人ですねぇ。シミトテッカーさんは、こんな人と一緒にいて疲れません? オレだったら嫌だなぁ」

「…いえ、そんなことはありません。正しいと思います」

「おやおや、あなたもお堅い人のようだ。でも、本心ですか?」

「当然です」

「じゃあ、これはいらないと。ぽいっと」

「あっ!?」

「欲しいなら拾ってもいいですよ。捨てたものです。ご自由に持っていってください」

「………」


 アンシュラオンが札束を放り投げると、シミトテッカーの視線が動く。未練があるのはバレバレだ。

 しかし、レブファトが戒める。


「シミトテッカー、一時の欲望で人生を失うのか? 結局、不正では何も得られないぞ。金も酒や麻薬と同じだ。快楽は一瞬でしかない。それ以後の人生を守ってはくれないんだ」

「…わかっています。申し訳ありません」

「うむ。それでいい」

「本当にいいんですか? ここで頷いておけば、お一人三百万…いえ、もっと用意したっていいんですけどね。まだ間に合いますよ。人間、素直になったほうが得だと思いますけどね」

「仮にそのようなことをすれば、我々の身が危うくなります。あなたもご存知のはずでしょう。今回のことを甘く考えないことです」

「どうやら本当に無駄のようですね」

「最初から言っている通りです」

「…わかりました。では確認しますが、三日以内に何とかすればいいんですね? 少なくとも不備がなくなれば認めてくださると」

「規定では、そうなります。差し出がましい口を利くようですが、三日では無理だと思いますよ。その間に都市を出たほうがいい」

「へぇ、それも警告ですか?」

「いえ、私個人の意見です。…蛇足でした。そろそろ失礼いたします。いくぞ」

「は、はい!」


 レブファトはそう言い残し、シミトテッカーと去っていった。



 その様子を見ていたハンベエが近寄ってくる。


「始末しますか?」

「殺したところで、どうせ代わりが来るだけだ。それでまたつつかれる。それよりせっかく用意した餌に食いついてくれたんだ。しっかりと釣ってやらないとな」

「ふふ、あなたも人が悪い。それなりに善良そうに見えましたけどね。まあ、そういう人だから面白いんでしょうけど…それで、どうします?」

「お前たちは襲撃を続けろ。ただし、今度は秘密裏にな。ルーン・マン商会のほうはオレがやる」

「わかりました」


(レブファトさんよ、あんたは勘違いしているよ。誰もが自分と同じだと思っていると痛い目に遭うぜ。それをこれから見せてやろう)




187話 「レブファトの思い込み 前編」


「レブファトさん、このままで大丈夫ですかね?」


 夕刻、その日の仕事が終わり、直帰の命令が出ていたので帰ろうとすると、シミトテッカーがふとそんなことを言い出した。


「何がだ?」

「あれですよ、…ホワイト商会のことです」

「その案件は終わったはずだ。今日で三日目。やはり間に合わなかったようだな」


 あれ以後、ホワイト商会からは何の連絡も問い合わせもない。

 あれだけの不備がたったの数日でどうにかなるとも思えないので、結局は間に合わなかったのだろう。


「あの連中の噂を聞きました? かなり危ないみたいですよ。襲われた店は、ほとんどが全滅です。殺され方も酷いものばかりだったようですし…それで心配になって」

「いくらマフィアだとしても商会として成り立たねば、この都市で活動を続けることはできない。ただのならず者として処理されるだろう。そのための勧告だったはずだ」


 マングラスがわざわざこんな手を打ったのは、他の組織の動向を考えてのことだ。

 彼らは最大勢力がゆえに簡単には動けない。迂闊に行動すれば、他のグラス・マンサーの勢力から突き上げられる可能性がある。

 しかし、商会として認められなければ、相手はただの不法滞在者のようなもの。領主軍の介入も期待できるし、他の組織にも説明がしやすい。

 手としては穏便なやり方であるが、レブファトはそれで問題ないと思っている。監査官は抗争屋とは違う。話し合いで片がつけば、そのほうがよいに決まっている。

 しかし、シミトテッカーは心配なのか、この案件をまだ気にしているようだ。


「それはわかりますよ。ただそれって、あくまでこっちの理屈だと思うんですよね。相手がそんな理屈を考えないようなやつらだったら…どうします?」

「何を言っているんだ? ルールはルール。理屈は理屈だ。それが守られているからこそ都市は都市として機能する。例外はない」

「そ、そうですけど…その、私としては認めてしまったほうがいいんじゃないかなって思うんです」

「…なぜだ?」

「だってその…そのほうが得というか、特に不利益はないかなーと」

「不利益はあるだろう。そうなれば上に迷惑がかかる。こちらで抑えろという命令だ」

「それも何か嫌なんですよね。ほら、レブファトさんがいつも言っているじゃないですか。監査は公正にと。最初から駄目になるように細工をするなんて卑怯じゃないですか」

「私は細工をしているつもりはない」

「でも、結局は駄目になるようにしているわけで…」

「相手から問い合わせがくれば真摯に応えるつもりだ。指導もする。だが、それがない以上、どうにもできん。相手にその意思がないということだ」

「で、でも、こちらが積極的に指導してあげれば、もっと温和に話が進むんじゃないかと…」

「シミトテッカー、君は私を怒らせたいのか?」

「い、いいえ! とんでもない! ただその…一般論というか…なんというか…」

「たしかに我々が組織に属し、都市の機能を保全している以上、上から言われたことは遂行しなければならない。監査官だって人間だ。それに左右されることもある。だが、私はいつだって公正に生きてきたつもりだ。今回の不備はあまりに酷い。そのうえ改善する努力もしないのでは話にならないだろう」


 レブファトは、自身がマフィアの組織にいるとは思っていない。

 何せこのグラス・ギース内の主要機関の大半、おそらくはハローワーク以外は、例外なくグラス・マンサーの手がかかっているのだ。

 真面目に仕事をして出世していくようなタイプのレブファトは、望む望まないにかかわらず組の一員になるしかない。


 だが、それでも不正は行ってこなかった。


 そうした命令があれば、他のさまざまな不備を指摘して、あれこれと理屈で無理だと訴える。けっして悪事を働くことはしない。賄賂もすべて断っている。

 それが許されるのは、彼が優秀な人間だからだ。普通の監査の仕事では優れた成績を残し、他派閥の不正を見つけてマングラスに貢献しているからである。

 ただ、それを続けていくうちに「レブファトは仕事はできるが、付き合いづらい」ということで、上からの命令に関わる仕事からは外されていた。

 今回ホワイト商会への通達に狩り出されたのも、彼が組織の中で浮いているからにほかならない。逆に言えば、相手の言葉に左右されないレブファトが適任だったからでもある。


「レブファトさんは…どうしてそんなに…真面目なんですか? 他の監査官は賄賂だって受け取っているじゃないですか」

「そうかもしれないが、結局は最後にツケを支払っているはずだ。組織に損害を与えているわけだからな。それに私は自分が真面目だとは思っていない。ただ普通に仕事をしているだけだ」

「そう…ですね。それが仕事ですもんね」

「シミトテッカー、どうした? 普段の君らしくないな」

「そうですか? 自分は普通ですけど…」

「君は私と似たタイプの人間だと思っていたがな。…いや、それもしょうがないか。正直に言ってほしいのだが、君は金が欲しいのだろう?」

「えっ!? な、何を…」

「見くびらないでほしい。ホワイトが札束を出した時、君は反応していただろう? 相手もそれがわかったから、君に見せ付けるようにしていたんだ。あれは心に隙があったからだ」

「………」

「心当たりはある。前に言っていたな。恋人がいるって。そろそろ結婚すると言っていただろう。もしかしてそのあたりか?」


 シミトテッカーは準監査官の中では、とりわけ真面目な人間だ。

 もともとレブファトに憧れて補佐官になったという変わり者でもあるので、上司こそが彼にとっての理想像なのだ。

 そんな人間が賄賂に動揺するのならば、それ相応の理由があるのだろう。


「…レブファトさんにはかなわないですね。そうです。彼女との結婚資金が欲しかったんです。母さんも体調が悪くて、少しでもいい場所に引っ越したくて…。すみません。不純な動機でした」

「そうか。正直に言ってくれてありがとう。…それも人間だよ。そうした欲望に溺れたり耐えたりしながら、人は本当に大切なものを学んでいくんだ」

「レブファトさんの大切なものって…ルールとかですか?」

「ははは、それこそ見くびらないでほしいな。私にだって家族はいるんだ。人間にとって一番大切なものは家族さ。特に私のような趣味もないつまらない人間にとっては、家族の幸せだけがすべてさ。家族仲良く慎ましく生きていければいい。不器用な生き方だが、自分はこれでいいと思っているよ」

「…そっか。やっぱりあなたも人間なんですね。よかった。安心しました」

「みんな同じ人間だよ。誰もが迷って生きている。君が現状に不満を抱く理由もわかるが…ホワイト商会についてはこちらではどうにもできない。金は諦めてくれないか」

「もちろんですよ。そもそもそんなことをしたら、自分たちの身が危ういですからね。それこそ都市を出るしかないです」

「そうだな。また他の都市でがんばるのは難しいからな…。私も安定するまで、この歳までかかってしまったよ」


 今から他の都市で働いても同じ地位に就くことは難しいだろう。よほど自分を買ってくれる人物がいないと不可能だ。

 不器用な生き方しかできないレブファトには、それは難しい。ならば、このグラス・ギースで不器用なまま暮らすしかないだろう。

 辺境の都市ではあるが慣れれば案外悪い場所ではない。今ではそれなりに気に入ってもいた。


「そうですよね。やり直すのは難しいですよね…レブファトさんみたいな真面目で正しい人は…煙たがられますし」

「それでも正しいことをするべきだ。続けるしかない」

「でも、世の中では不正を働くやつらが多いですよ。いつだってそいつらが邪魔をする。金をもらう連中ばかりが得をしています。それが納得いかなくて…」

「そのための監査官だろう? 不正をなくすための戦いだ。それに必ず因果は巡る。最後は正しいことをする人間が報われるようになっているんだ。女神様は正しい者の味方だからな」

「レブファトさんは、すごいですね。本当に…すごい」

「君だって真面目な人間だろう。よくやっている」

「そんなことは…ないですよ。自分は誘惑に弱い人間ですから…」

「あまり自分を卑下するものではないさ。さて、そろそろ戻るとしようか。今日は家族で外食の予定なんだ。すまないね」

「い、いえ、こちらこそ変なことで呼び止めてすみません! そ、その…どうかお元気で!」

「うむ、ではまたな」




 シミトテッカーと別れて帰路につく。

 レブファトの家は中級街の社宅の中でも役員クラスの人間が暮らす大きなものだ。小百合と同じような家、といえばわかりやすいか。

 日本でいうところの一般家庭の一戸建て程度であるが、この都市でそれだけの家に住める人間はさほど多くはない。

 彼も長年真面目に勤めて、ようやく住むことができるようになったのだ。それゆえに玄関を開けるたびに感慨深い気持ちになる。


「それにしても…」


 自分の家の前に来て、なんとなく頭に引っかかることがあった。

 それはさきほど別れたシミトテッカーの様子である。


(普段の彼とは少し違う様子だったな。別れの言葉も不可思議だったような…。だが、そういう日もあるか。彼も彼女とのことでいろいろと考えることもあるのだろう)


 人間は多様な感情を持つ生き物なので、日によっては情緒不安定なこともある。

 魔が差す、という言葉の通り、どんなに真面目な人間でも時には間違ってしまうこともある。欲望に負けることもある。

 今日という日が、彼にとってそういう日だったにすぎないのだろう。よくあることだ。深く考えることもない。



 カチャカチャッ


「ん? 鍵が開いているな…。まったく、無用心なことだ。いつもかけておくように言ってあるのに。城塞都市とはいえ平和とは言い切れないからな」


 玄関の鍵が開いていた。

 レブファトには妻と小さな息子がいるので、防犯にも気を遣わねばならない。


「特に最近は物騒だからな…」


 ついついそう言ってしまったのは、ホワイト商会のことを思い出したからだ。

 白昼堂々と店を襲うような連中がまだいる。他の都市から来た組織なのかもしれないが、そういう輩を追い払うのもマフィアの仕事だ。

 日本のヤクザが経済化したように、彼らは商会を使って合法的に乗っ取りを図ろうとすることもある。それを防ぐのが自分の役割である。

 その際に、多少強引な手を使うことも致し方がない。不正はしていないが、ホワイト商会を相手にした時のようにあれこれと言いがかりをつけることはある。

 本意ではないが、それは守るためだ。この都市を混乱に陥れる勢力は、何としても抑制しなくてはいけない。それが家族の安全につながるからだ。

 レブファトも、自分の理念と上からの命令、そして家族への愛情で日々揺れている。シミトテッカーの迷いも不満も、まるで自分のことのようにわかるのだ。


(私には妻と息子がいる。家族さえいれば、どんな苦しみも耐えられる。よし、こんなことは忘れよう。今日は家族で外食だからな。しかめ面では嫌がられるだろう)


 ついついシワが寄りがちな眉根をほぐして、見た目だけは少しでも良くしようとする。

 ここは自分の家。リラックスする場所なのだ。



 廊下を通って、リビングへのドアを開く。


「今帰ったぞ。玄関のドアが開いていたが、しっかり閉めておかないと危な…」



―――「やぁ、お帰り」



「…?」


 ふと聞き慣れない声がした。

 それは妻にしては男性的で、息子にしては少年的すぎる。美しくも強く、独特の響きをした声である。


 声がした方向に視線を動かす。


 リビングにあったソファーに、一人の男が座っていた。


 その人物の特徴を一言で示すならば―――仮面。


 白いスーツに白い仮面を被った少年が、そこにはいたのだ。




188話 「レブファトの思い込み 後編」


「ぁ…あ?」

「ははは、どうした。自分の家なのに変な顔をして」


 状況が理解できないときの人間は、いつだって思考だけにすべてが集中して緊迫した真顔になってしまうものだ。

 レブファトはもともとそんな顔だが、素で困惑しているので、見る側としてはなかなか楽しめる。


「自分の…家?」

「そうだ。ここはあんたの家だろう?」

「ぁ…あ…そうだ。私の家…だ。だが、なぜ…」

「なぜ、オレがいるのか、かな。オレだけじゃないぞ。この子もいる」


 アンシュラオンの隣には、サナの姿もあった。

 それに気づけなかったのは少年の存在感が強かったせいもあるが、少女の存在がひどく無機質に感じられたせいもある。


「ああ、そうそう。家主に挨拶をしないとは非礼だったな。お邪魔しているよ。それと手ぶらでは悪いと思って手土産もある」

「手土産…とは、そこにある金のことか?」

「そうだ。五百万用意してある。金はいいぞ、絶対に無駄にはならない。手土産にはこれが一番だ」

「…ふぅ」


 その金を見て思考が働いたのか、レブファトが少しだけ冷静になる。

 ホワイトの目的は一つ。自分に金を受け取らせて共犯にするつもりなのだろう。よくある手だ。


「懲りない人だな。家に押しかければどうにかなると思ったのか?」

「非礼は承知だ。ただ、あんたが時間制限を設けたからな。それに付き合ってやっただけさ」

「金などはいらない。それより不備は正されたのか?」

「残念だけど、それは無理だ」

「ならば、話し合いの余地はない。ルールはルールだ」

「話は最後まで聞けよ。あの不備はな、オレがそう『リクエスト』したんだ」

「…何を言っている?」

「わざと不備が出るようにしてもらった、という意味さ。オレがその気なら普通に商会を設立させることもできたが、あえてしなかった。なぜかわかるか?」

「わざわざそんなことをする意味など理解できないな」

「そりゃそうだろうな。どうやらあんたは堅物のようだしな。馬鹿にしているわけじゃない。オレはいい加減な性格だから、あんたみたいなやつは尊敬するよ。そんな人間がいるから社会は上手く回っているんだと思うからな」


 これは本心である。

 社会が回っていくためには、それを管理する真面目な人間が必要だ。もしずぼらな人間に任せていたら、社会はどんどん腐敗するだろう。

 だからアンシュラオンは、本当にレブファトを尊敬していた。


「世の中を見回せば、不正をする連中ばかりだ。そこまではしなくても、道理も倫理も、あまつさえ信念や誇りさえない輩も大勢いる。そんなクズと比べて、あんたは驚くほど潔癖だ。素晴らしいよ」

「…それを聞いて、礼を言えばいいのかな?」

「そう邪険にするものじゃない。オレとあんたは味方同士だ。この金を受け取れば、だがな」

「金は受け取れない。理由は一つ。私が、今あなたが言った通りの人間だからだ。不備が正されなかったのならば今すぐに都市を出たほうがいい。これは私からの好意による忠告だ」

「あんただって金は必要だろう。もし望むなら、もう少しくらい工面してやるぞ」

「必要ない。今の暮らしで十分だ」

「…なるほど。では、オレからも好意による忠告をしておこう」


 トントンッ

 アンシュラオンは机の上にある札束を軽く叩く。

 札束の感触は、いつ味わってもいいものだ。ただの紙ではあるが、暴力に次ぐ力なのだから。


「金を受け取れ。オレと手を組め。そうしないと後悔することになる」

「脅しには屈しない」

「…ほぉ、あんたは死ぬ覚悟があるんだな。オレにはわかるよ。ずいぶんと肝が据わっているじゃないか」

「当然だ。私とて本気で生きてきたからな」

「くくく、いいね、面白い。あんたは金、女、出世、そのすべてに興味がない。どうやら本当に買収は不可能らしい。いやー、立派だ。本当に尊敬するよ。あんたみたいな人間が世の大半だったら、世界平和だってできただろうにね」

「ようやく理解したか。理解したのならば、早く…」

「では、買収はやめよう。おい、出せ」


 ガタンッ

 奥のキッチンのほうから物音がした。

 そこで思い出す。

 ホワイトを見た瞬間にそのことを失念していたことが悔やまれてならない。


「むーっ…むーー…」


 戦罪者に引きずられて出てきたのは―――レブファトの妻。


 後ろ手に縄で縛られ身動きを封じられ、口に布を噛まされているので声が出ない。

 さらに髪の毛を掴まれているので、その苦悶の表情がよく見える。


「ソニア!! 貴様…!!」

「言っただろう。買収はやめた。ここからは脅迫にしよう」

「つ、妻を…」

「妻を放せとか、つまらんことを言うつもりはないだろうな? あんたなら、この状況をもっとよく理解できているはずだ。オレたちがどんな連中か、誰よりも知っている」

「ぐっ…」

「感動の対面だ。口は外してやれ」

「へい、オヤジ」


 戦罪者が布を外す。

 口には布が強く巻かれていた跡が残っていて痛々しい。


「…あなた…ごめんなさい。連絡便が来たから…開けたら…」

「そんなことはいいんだ! 無事なのか!?」

「い、今以上の酷いことは…されていないわ」


 すでに酷いことになっているが、それ以上はされていない、という意味だ。

 だが、声が震えているので、その間の恐怖は相当なものだったに違いない。

 そして、もう一人の大切な家族がいないことに気がつく。


「はっ…ルアンはどうした!! あの子は無事なのか!」

「る、ルアンは…」

「おっと、そこまでだ。それ以上はまだ言えないなぁ。奥さん、余計なことは言わないほうがいい。女性は傷つけたくないんだ。わかったね?」

「………」

「素直な女性はいいもんだ。…というわけなんだが、どうかな?」

「くっ…これがあんたらのやり方…か」

「マフィアの常套手段だろう? 略取、誘拐、恐喝、脅迫、誰だって使う手だ。それを防げないほうが悪い。これも忠告だけど、大切なものからは目を放さないほうがいいよ。片時も離れちゃいけないなぁ」


 そう言って、サナの肩に触れる。

 大切なものは、常にこうして傍に置かないと誰かに奪われてしまうかもしれない。それを実践している男からの大切な教訓だ。


(しかしまあ、こういうやり方は効果が高いな。誘拐ビジネスが流行る理由もわかる)


 あれだけ頑固だったレブファトも、今では明らかに動揺を隠せない。実に効果的だ。

 このやり方を防ぐためには、二つの方法がある。

 一つはアンシュラオンのように大切なものを手放さないことと、もう一つは「最初から弱点を作らないこと」だ。

 家族が大切だと思うのならば、最初から作らねばいい。それならば弱点にはならない。だが、レブファトはそれをしなかった。だから付け込まれる。


「私が…お前の商会を認めれば…いいのか?」

「そうだなぁ。どっちでもいいや」

「…? 何を言っている? そのために来たんじゃないのか?」

「あのさ、商会なんてものは何の意味もないんだよ。真面目に社会で働いて暮らす人間には重要かもしれないけど、オレや社会の底辺にいるクズどもには、まったくの無関係なことなんだ。いや、あんただって本当はそうなんだよ。こうして簡単に崩れるくらいなものなんだし」

「不正が続けば社会は終わる。それでは人々は安心して暮らせない」

「それだよ。あんたは人間の社会のことしか考えていない。でも、それって小さな世界だろう? ここの連中はよく言うよね、『ここは小さな世界だ』って。その通りだ。城壁がなくなれば、さして時間もかからず魔獣に蹂躙されるだけだからね。そんな小さな世界で、商会が認められようがなかろうが、どっちだっていいことだ。オレたちがやることは変わらない。欲しいものは力で奪う」

「暴力だけでは必ず限界がくる…。人間には生きる場所が必要だ。秩序ある社会が必要だ。この都市にはそれがあるんだ」

「オレはこの都市にそれほどの秩序があるとは思えないが…それはいいだろう。で、暴力を嫌うあんたは何を信じる?」

「…人間を信じる。人同士が助け合うには、それ以外にないだろう」

「…くくくく、ふふふふ!! ふはははははは!! そうか。人間を信じてるのか! これは面白い」

「何が可笑しい? お前だって人を信じることはあるだろう?」

「それはそうだ。ただ、人は選ぶなぁ。すべての人間を信じるなんて馬鹿がやることだ」

「それは私だって同じだ」

「はたしてそうかな? それじゃ教えてあげるよ。どうしてこの家の場所がわかったと思う?」

「調べたからだろう」

「では、どうやって調べる? どこで調べる?」

「…ルーン・マン商会の名簿か…不動産屋か…ハローワークか…」

「そうだな。それくらいかな。あるいは近所の人っていう可能性もあるな。だが、面倒なことは嫌いでな。そんな場所に行ったら足がつく。それでは意味がないだろう? そうなれば誰に訊くのが一番早い?」

「誰に…? 私のことを知っている人間…?」


 しばらくレブファトが考えるが、あまり人付き合いがよくない自分には、咄嗟に思い当たる人物が浮かばない。

 その姿にアンシュラオンは、呆れとも同情ともいえるような表情を浮かべた。


「やれやれ、オレもあまり人付き合いを好まないから、なんだか他人のような気がしないな。しょうがない、教えてやろう。あの若い男さ」

「若い男?」

「あんたと一緒に来た…なんだったかな。そう、シミトテッカーとかいう若い男だよ。あいつに訊いたら、家の場所から家族構成までいろいろと教えてくれたよ。あんたの仕事場での立場とか評価とか、知っていることは全部な」

「…なっ!! な、なぜ彼が!?」

「本当にわからないのか? 幸せな男だな。当然、あいつがこっち側についたからだよ」

「馬鹿な! 彼に限ってそんなことはしない! さっき会った時だって…」

「あんたが言った言葉をそのまま変えそうか。『どう思おうと自由だが、真実は一つ』だ。あいつは金を受け取ったよ。ここにあるものと同じ五百万だ。しかも、あいつはこうも言ったぞ。『あの人がいらないんだったら、その五百万もくれ』とな。だからこの金は、あいつにくれてやろうかとも思っている。一度あげると決めたものは、誰かにあげないと気が済まない性格でね」

「…本当…なのか?」

「嘘を言うメリットがないな。なんなら会って確かめてみるか。ただ、もう逃げる準備をしているかもしれないぞ。ここに残っても、どうせただじゃ済まない。金を持って他の都市に逃げるようなことも言っていたしな。まあ、賢明だな。あいつはあんたの忠告をちゃんと聞いていたってわけだ」


 どちらの側についても地獄である。それならば金を持って逃げたほうがいいだろう。

 彼はまだ若い。元手があればいくらでもやり直せる。



(…彼の様子がおかしかったのは、そういうことなのか…。そんな馬鹿な…)


 レブファトは強いショックを受けていた。まさかシミトテッカーが裏切るなんて夢にも思わなかった。

 あまりのことに頭に靄がかかったような気がして、上手く思考がまとまらない。

 唯一思い出せることは、彼は最後まで自分を説得しようとしていたということだ。ホワイトに味方するように、金を受け取るようにと遠まわしに言っていた。

 そこで、気になった。


 人間はそう簡単に裏切るものか、と。


 だから答えに行き着く。


「彼も…脅したのか? 金には興味があったが、そこまで堕ちているとは思えない。ホワイト、彼も脅したな?」

「やはり頭は悪くないようだな。そうだよ。最初は迷っていたようだが、恋人をちょっと捕まえてやったらおとなしくなったよ。ああ、安心しろ。さっき恋人も解放してやった。今頃はあいつと一緒に逃げた頃だろうさ。せがまれたから、ついでに母親の病気も治してやったんだ。ほんと至れり尽くせりだな。どうだ、オレは優しいだろう?」

「脅しておいて…! 彼は真面目だったのに!!」

「そうか? 最初から欲望丸出しだったように見えたがな。まあ、あんなやつのことはどうでもいい。で、どうする? オレの側につくか? よく考えろよ。この答えにかかっているのは、あんたの命だけじゃないぞ」

「………」

「あ、あなた…」

「くううう…不正は……くう!!」

「綺麗な奥さんだな。まだ現役でいけそうだ。二人目も産めそうだが…父親が誰になるのかまでは保証できないぞ? 豚どもに食わせるには惜しいよな」

「この外道が…!!」

「ありがとう。嬉しいよ」


 この商売、むしろ外道と言われなくなったらおしまいだ。


「最初に会った時に気付いたが、あんたは大きな思い違いをしているよ。相手も自分と同じだと思っている。ルールを守る人間だと思っている。気持ちはわかる。あんたは真面目な人間だからそう思いたいんだろうな。しかし、すべての人間にはそれぞれ違う考え方がある。あんたの潔白さと覚悟を相手も持っているとは限らない。残念だが、あいつにはあんたほどの覚悟はなかったんだ。だが、それこそが人間だ」


 シミトテッカーは誘惑に弱い男であった。当然、彼にも長所はあるのだろうが、相手の悪いところもしっかりと把握しておかねばならない。

 それを怠ってしまい、迂闊に相手を信じればこういう結果になる。まさに裏切りの典型的な展開だ。


「相手を信じれば裏切られる。あいつを安易に信じたお前の負けだよ」

「哀れな男だな…お前は」

「そう思いたければかまわんよ。だが、こうして失敗して窮地に陥るよりはいいだろう? オレは人間の闇をよく知っている。だから油断はしない。人間の光を信じるあまり、お前は闇を侮ったんだ。これがその結果だ」

「………」

「タイムリミットだ。決めろ」

「…くっ、わ、わかっ…」



 もう手の打ちようがない絶体絶命のピンチだ。

 ホワイトという男は、迷うことなく家族を蹂躙するだろう。そんな甘い男ではない。

 レブファトにとって家族は命であり、すべてだ。もう自分には服従するしか道はない。



 そう思った時―――





―――「駄目だよ、お父さん!!」





「っ―――!!」




 レブファトの心に突き刺さるような懸命な声が響いた。




189話 「力無き純粋な正義」


 そこに現れたのは、レブファトの息子である―――ルアン。


 まだ成熟していない身体と声の持ち主で、おそらくセノアと同じ十二歳くらいの年齢だと思われる。

 母親譲りの柔らかい茶色い髪と、父親から受け継いだであろう黄色い瞳が、彼らの愛の結晶であることを物語っている。

 そして、その瞳には強い光が宿っていた。


「る、ルアン、無事だったのか!?」

「うん。一度捕まったけど、僕だけ自分の部屋に入れられて…でも、声が聴こえたから出てきたんだ」

「そうか…よかった…!! 本当によかった!!」


 レブファトは息子の無事にほっとしたのか、身体から一気に力が抜ける。家族が一番大切という言葉が真実であることがよくわかる。

 だが、ルアンの言葉に再び身体を硬直させることになる。


「お父さん、こいつら悪いやつなんだろう? そんなやつの言うことを聞いたら駄目だよ! いつも正しいことをしろって言っているじゃないか! それを貫いてよ!」

「だ、だが、お前と母さんが…!」

「あなた、ルアンと逃げて!!」

「馬鹿なことを!! そんなことができるわけないだろう!! こいつらはそんな甘い連中じゃない! …いいんだ。もう…いいんだ。私はお前たちだけがいれば他には何もいらない!!」

「あなた…うう…」

「お父さん…」

「くっくっく…はははははは!!! いいね、いいよ。素晴らしい!!」


 パチパチパチッ

 アンシュラオンは、そのやり取りに拍手を惜しまない。実に予想された通りの展開だからだ。


「君たちは実に素晴らしい家族だ。そんな家族をバラバラにするのは忍びないな。なあ、そう思うだろう? そのためにどうすればいいのか、とても簡単な選択だと思うぞ。しかも金まで手に入るんだ。こんなラッキーなことはない」

「………」

「なぁ、レブファトさんよ、もう十分だろう。あんたは立派だったよ。よくここまで我慢した。なに、たいしたことじゃない。ほんの少しオレの味方になってくれればいいだけだ。それだけで全部が丸く収まる」

「本当に…それだけで済むのか? 口封じに殺すつもりじゃないのか?」

「そんなことをする必要があるか? まあもちろん、あんたがこっちを裏切るような真似をすれば相応の報復をしないといけないが…協力すれば安全は確実に保障しよう」

「妻と息子には手を出すな」

「当然だ。あんたにも手は出さない。むしろできるだけ守ってやるさ」

「…そうか。こうなった以上、もう…しょうがない……」

「お父さん、そんなやつの言葉を聞いたら駄目だよ!」

「だが…もうそれ以外には…お前たちを守るにはこうするしかない」

「それでいいの!? 間違ったことをしたら最後は失敗するんだって、いつも言っているじゃないか! だ、大丈夫! ぼ、僕が…僕がなんとかするよ!!」

「ルアン!」


 震える足で、一歩前に出る。まるで父親を守るかのようにアンシュラオンに立ち塞がった。


 それは子供が持つ―――無垢な正義感。


 穢れた社会を知る前の子供だけが持つ、まだあどけなく、それでいて崇高な使命感に満たされたもの。

 彼の中には理想がある。夢がある。希望がある。

 すべての人の幸せを願い、笑顔を願い、健やかに安らかに生活することを願い、正しきことだけで世界が満たされることを願う気持ち。


 それがアンシュラオンという【悪】を許さない。


「お父さんとお母さんに手を出すな! 帰れ!!」

「意外な勇者の登場だな。子供の頃は憧れるもんだよな、ヒーローってやつにさ。だが、現実は厳しい。お前みたいな子供がどうやって守るんだ?」

「最後は正しい者が勝つんだ! 女神様は絶対に僕たちを見捨てない!」

「ほぉ、女神様ときたか。これは参った。実際に出会った身としては気まずいよな…。顔を見ちゃうとな…」

「嘘を言うな! お前みたいなやつが女神様に会えるもんか! いい人しか出会えないんだぞ!」

「オレが『いい人』でないと、なぜわかる?」

「こんなことをするやつが正義なもんか!」

「くくく、そうか。まあ、そうかもな。で、ルアンといったか? そんなにオレのことが嫌いか?」

「嫌いだ! 悪は許さない!」

「ははは、今度は悪ときたか。いいなぁ、お前。オレの好みだよ。オレも悪が嫌いでね。似た者同士だな」

「どこが! こんなことをして恥ずかしくないのか! お前は悪だ!」

「ルアン、やめるんだ! その男から離れなさい!!」

「駄目だよ! こいつらに屈したら駄目なんだ!」


 青ざめたレブファトが止めるが、ルアンはけっしてどこうとはしない。

 その姿は、まさに勇者でありヒーロー。困っている人を悪から守る正義の化身だ。

 ルアンは正義という言葉に酔っている。まだ子供なのだから仕方がない。

 レブファトも、まさかこんなことになるとは思わなかっただろう。ただ健やかに立派な人間になってもらいたいと願い、正しいことを教えただけなのに。


「これは面白いことになってきたな。では、どうする。オレと戦うか? 言っておくが見た目で判断しないほうがいいぞ」

「…悔しいけど、暴力じゃお前には勝てない。さっきみたいに捕まっちゃう」

「その通りだ。思った以上に現状は理解しているようだな」

「だから、僕と【賭け】をしろ!!」

「…ほぉ? どんな?」

「勝負は何でもいい。僕に決める権利なんてないだろうし…。でも、賭けなんだ。対等にならないと賭けじゃないからな!!」

「ほほぅ、なるほどなるほど。たしかにそうだ。賭けは常に公平でないといけない。お前の言うことも、もっともだな」


 競馬などでも必ず負担重量などを付けて、同一の条件になるように調整される。そうしないとあまりに差が生まれるからだ。


「子供のくせに賭けなんて知っているんだな」

「お父さんから聞いたことがあるんだ。そういうのが好きな駄目な人間がいるって」

「ははは、賭け事も駄目か。ずいぶんと厳しいもんだな。流儀を貫くなら極端なほうがいい。オレもそのほうが好きだな。ふむ、そうだな…対等か。子供に合わせるには何がいいかな…」


(乗ってくれた…? 上手くいったんだ! 賭けなら少しは可能性があるぞ!)


 ルアンは、内心でほっとしていた。

 もし相手が力づくで物事を解決していたら、自分なんてあっという間に潰されていただろう。

 目の前の男は比較的小柄だが、母親を取り押さえている男はゴリゴリのマッチョである。まず勝ち目がない。

 たまたま父親が監査した違法賭博の話を思い出し、決死の覚悟で言ってみたのだが、相手はあっさりと乗ってくれたようだ。

 賭けはどちらに転ぶかわからない。ならば自分にも勝ち目があるはずだ。


 しかし、ルアンはまだ知らない。


 目の前の男が、他人の痛みなどまったく気にしない男であるということを。


「では、一つゲームをしようか。これに勝ったらお前たちを無傷で解放しよう。ついでに金もやろう。二度と手は出さない。だが、こっちが勝ったら言うことを聞いてもらう。レブファトだけじゃないぞ。お前もオレの言うことを聞いてもらう。こっちが譲歩したんだ。こうしないと公平じゃないだろう?」

「…わかった」

「ルアン! やめなさい! 危険すぎる!! 約束を守るはずがない!!」

「おいおい、酷いな。約束は守るさ。そうしないと面白くない」

「くっ、お前にとってはすべてが遊びか…!」

「さすがいい目をしているな。その通りだ。娯楽だよ。だからお前の息子がオレを満足させるなら許してやってもいい。それもまた遊びの醍醐味だろう? そこは信じろよ」

「…駄目だ。やっぱり駄目だ! ルアン、危ないことをしたらいけない! 本当に危険なんだ! 頼む、わかってくれ!」

「お父さん…正義は何があっても負けたらいけないよ! 正しくないといけないんだ!!」

「ははは、子供はいいなぁ。楽しくて。じゃあ、ルールを説明しようか」


 するり

 アンシュラオンは懐からダガーを一本出す。何の能力もない、ただの刃物だ。


「ひっ…むっ!」


 それにソニアが悲鳴を上げるが、すぐに口を塞がれて声は途中で止まった。


 しかし、それを使って攻撃するのではなく―――床に投げる。


 カランッ

 少しだけ甲高い音をさせて、ルアンの前にダガーが転がった。


「それを拾え」

「………」


 ルアンはダガーを拾う。

 大人にはさして重くなくとも、子供の彼にはまだ微妙にずっしりと重みを感じるものだ。それに加えて使い慣れてはいないので、まったく異質なものにすら感じられる。


「これで…お前を刺すのか?」

「ははっ、なかなか怖いことを言うな。それでもかまわないが、オレ相手ではどうあがいても君に勝ち目がない。それはフェアじゃない。だから、この子と戦ってもらおうかな」

「えっ!? その子と!?」


 ルアンは、今になってアンシュラオンの隣にサナがいることに気がつく。やはり白スーツの男の存在感がありすぎるのだ。


「その子は…女の子だろう?」

「ああ、そうだ。お前より年下だな。たぶん」

「身体も…小さい。ど、どういうつもりだ!? どうしてその子と…!」

「対等な勝負にすると言っただろう。この子ならちょうどいい。黒姫、いいな?」

「…こくり」


 アンシュラオンが視線を向けると、サナが立った。

 言わずとも理解をしているのか、彼女も腰からダガーを抜く。


「お互いの武器はダガーだけだ。二つの武器はまったく同じ。同じ店で買ったものだ。これで勝負してもらおう。勝敗はそうだな…先に相手に刺したほうの勝ちかな。ずっぷり根元までな」

「根元までって…それでは死んでしまうぞ!!」


 あまりの内容にレブファトが叫ぶ。息子の危機で顔がさらに青ざめている。


「おいおい、忘れるなよ。オレは医者だぞ。それくらいは治せる。だが、お前の息子が怪我をした場合は、治してやるかはわからないなぁ。そこまで譲歩すると対等ではなくなる」

「そもそも対等ではないくせに…」

「あんたの意見は聞いていない。黙って見ているといいさ。せっかく息子が助けてくれると言っているんだ。一発逆転のチャンスだぞ?」

「ルアン、教えたはずだ。賭けなど最初から胴元が勝つことが決まっているものだ。この男の口車に乗ったらいけない!」

「その言葉は正しいが、これは彼の勝負だ。彼に決めてもらうことにしよう。それでルアン、君はどうする? やるかな? 言っておくが嘘でも脅しでもない。これは本当のルールだ。甘く見るなよ」

「や、やるさ。これで…お父さんとお母さんを助けるんだ…!」

「る、ルアン…! くううっ!! 待ってくれ! 私が代わりに…」

「あんたもしつこいな。子供でも一人の人間だ。あんたとは違う人間なんだ。その意思を尊重しろ」


 アンシュラオンが札束を一度回収してから、指をパチンと鳴らす。

 バシュッ

 次の瞬間、室内にあったすべての机とソファー、家具類が消えた。戦気で消滅させたのだ。

 引っ越すと思い出すが、家具のない部屋は案外広いものである。この家のリビングも家具を全部なくすと、正方形ではないがボクシングのリングくらいの大きさは確保できる。

 子供同士が戦うのならば十分な広さだろう。


「ほ、本当に約束は守ってくれるのか!? ルアンを殺すのが目的じゃないだろうな!!」


 その光景を見て、レブファトの声が今まで以上に震える。

 正直ホワイトはその見た目から、あまり強いとは思っていなかったのだ。戦罪者が聞いたら思わず笑ってしまうだろうが、一般人からすればそんなものだ。

 こんな存在がいるのならば、後からいくらでも約束を反故にできる。


「安心しろ。何度も言うがオレは約束は守る。ただし、こっちが勝ったらお前には協力してもらうぞ」

「な、何をさせるつもりだ!」

「商会なぞ、どうでもいい。お前には、グマシカ・マングラスの居場所を吐いてもらう」

「っ!! ま、まさか…それが目的なのか!?」

「そうだ。グマシカがオレの獲物だ」

「ま、待ってくれ! 私は知らないんだ! 本当だ! だからこの勝負には意味がない! 最初から意味なんてないんだ!!」

「それが本当かどうかはオレが判断する。それに今は知らなくても、どこかで知るかもしれないだろう。もし知らないなら調べてもらおう」

「馬鹿な…狂ってる…そんなことのためだけに…こんなことを…」

「聞き慣れた言葉だな。狂った人間でなければ上にはいけないぞ。少なくともトップにはなれない。あんたには縁のない世界だろうがな」


 アンシュラオンの目的は、最初からグマシカである。

 商会などという形式や名前には意味がないし、興味もない。不備をわざと作ったのも監査官をおびき出すための罠にすぎない。

 そして、レブファトという哀れな虫が、蜘蛛の巣に引っかかっただけのことだ。




190話 「仕組まれた義憤」


 サナとルアン、二人の子供がリビングで相対する。

 これが親戚同士の集まりならば、これから始まるのは単に可愛い喧嘩くらいなものだが、お互いに持っているのはダガー。

 ナイフよりもやや太くて丈夫な構造をしており、相手を殺傷するためだけに生まれた武器である。これは遊びではないのだ。


「合図をしたら始める。少しだけ考える時間を与えてやるから、それまでに環境に馴染んでおけ」


 サナには必要がないので、これはルアンのための言葉だ。

 まずはメンタル面で大きく遅れを取っているルアンに対して、公平になるように準備時間を与える。物怖じしないサナと比べると、その差は歴然としているからだ。

 また、サナはすでに実戦を経験しているので完全なる素人ではない。この事実は非常に大きなアドバンテージとなる。

 それを埋めるためには、いくつかの要素が必要だ。


(サナには今回、賦気は使っていない。普段から使うと身体へのダメージが大きいし、それだけに頼るようになるからな。本格的に戦いが始まった以上、しょっちゅう倒れられても困る。素の力を上げないと意味がない。さて、その状態でどれだけやれるかな。特に接近戦は初めてだからな…興味深いものだ)


 賭けは対等でなければ意味がない。つまらない。

 アンシュラオンは勝ちが決まっている勝負しか挑まないが、賭け事ならば遊ばねば面白くない。

 そこで、できるだけ対等になるようにしたのが今回の勝負である。


(体格は間違いなくルアンのほうが上だな。賦気を使わないのならば、普通に考えればサナのほうが不利だ。本当に一般人だしな。この差は大きい)


 サナがメンタルで上回っているのに対し、体格的にはルアンが圧倒的に有利だ。

 この世代では女性のほうが背が高いことも珍しくないが、ルアンはそこそこ身体がしっかりしているので、百六十センチはあるだろうか。

 レブファトの身長も高いため、このまま成長を続ければ、かなり背が高くなることも期待できそうだ。

 一方、サナは小さい。百三十センチにも満たない。

 こうして二人が並ぶと、およそ三十センチの差がある。頭一つ以上も差があるので、体格的には完全にサナのほうが不利である。

 賦気を使っていない状態ならば、体格差は致命的な差ともなる。

 ボクシングの階級が体重を厳密に定めているのは、数キロの違いが本当に大きく影響してくるからだ。実際に太っていた人間が痩せると、そのパワーの減退ぶりに驚くだろう。


(格闘能力の有無と差は、正直言ってよくわからん。サナを本格的に鍛えたわけじゃないし…弱すぎるとわからないんだよな。サリータだってオレからすれば弱すぎてわからないし…豚君との差もまったく感じないほどだ。これはこれで問題だよな。ルアンは…見るからに素人っぽいし…ここは互角かな?)


 次は技量の要素。

 サナの格闘戦の実力は正直言って未知数だ。

 ダガーも与えてあるが、軽く使い方を教えただけで実際に使われてはいない。単純に相手が大人や魔獣だったので、クロスボウを使う機会が多かったからだ。

 ルアンもダガーを見て驚いていたことから使うのは初めてだろう。ましてや人を傷つける目的で使うことは今までなかったに違いない。

 この技量の点では、両者は互角と判断した。はっきり言ってレベルが低すぎてわからない、というのが本音だが。


 メンタルで上回るサナ。フィジカルで上回るルアン。技量は互角(推定)。


 つまりは―――対等。


 完璧な対等などそもそも不可能なので、現状ではこれが最大の設定となるだろう。

 温和な人間ならば、コインやカードゲームで話をつけるということもありえただろうが、アンシュラオンには最初からそんな選択肢はない。

 どうせやるのならばサナの成長に関わるもののほうが得。そういう思考である。

 ただ、場合によってはサナのほうが分が悪い可能性もある。


(ううむ、普通の子供同士だったら間違いなくサナが不利だよな。小学六年生の男子が、小学四年生くらいの女の子と戦うわけだしな。しかし、強くなるためにはどんどん不利な戦いにも挑まないといけない。それこそ血みどろの戦いを経ないと強くはなれない。最悪はしょうがない。サナが怪我をしたら治そう。我慢、我慢だ。手を出しちゃいけない。これは試練なんだ)


 アンシュラオンはそっと見守ることにする。

 これも強くなるための試練である。サナのためでもあり、アンシュラオンが耐える練習でもあるのだ。


(しかし多少予想はしていたが、思ったより面白いことになったな。ちょうどいい相手が見つかってよかったよ。わざと放置した甲斐があった)


 実のところ、これは意外な展開ではない。アンシュラオンによって【仕組まれた】ものだ。


 ルアンを捕まえた際、彼の中に強い感情があることはわかっていた。

 自己防衛本能が強いアンシュラオンは、自身に向けられる敵意といったものに敏感である。彼からは初期のシャイナ同様、いや、それ以上に強い敵意を感じたのだ。

 捕まったのだから当然だが、それが暴発しそうなほどの危ういものだと見抜いた。だからあえて二階の鍵のない部屋に置いておいた。


 彼に「偽りの自由」を与えるのが目的だ。


 ルアンの本質を見極めるためでもあり、一つの不確定要素の「遊び駒」として配置しておいたのだ。

 彼にはいくつかの選択肢があった。

 こっそり逃げて外に助けを呼びに行く、という選択肢もあっただろう。だが、母親が気がかりだし、バレたらどうなるかわからない。

 単独で母親を助けに行くことが無謀であることも理解していたため、チャンスを待つことにしたようだ。ここまでは子供にしては冷静な判断だ。

 そして、父親が帰宅。

 ここで合流する手もあったが、状況が変わらないことを予見した彼は、父親を『囮』に使うことにした。

 父親が相手の気を引いている間に助けを呼びに行こうとしたのだ。これは半分成功。他の人間はルアンの行動には気付いていない。


 ただ、一つ予想外のことが起きた。


 ルアンが助けを呼びに行くとすれば、最初に思い浮かぶのは衛士である。ただ、中級街の詰め所までは遠いので、最短で誰かに伝えるとなれば父親の同僚、つまりは「シミトテッカー」ということになる。

 何度か遊びに来たこともある大人の男性。腕力には優れていなさそうだが、それなりに頭が良い彼ならば、自分よりも適切な行動ができると思った。

 父親を慕っている様子がわかったし、自分とも遊んでくれた気の好い青年だ。印象は悪くない。選択肢に挙がるのも当然だろう。

 このあたりは社宅エリアなので、彼が住んでいる社宅ともそう距離はない。まずは彼に伝えに行こうと考えていたのだ。


 それが―――裏切り。


 子供が持つ正義感が、すべてを許せなかった。これから助けを請おうとした人間が裏切ったのだ。純粋な子供の心は傷つけられ、強い人間不信を植え付けることになった。

 所詮は子供。人間が持つ闇まで理解はできない。彼は自分の正義だけを信じて暴発する。

 結果は、まさに予想通り。無謀な行動に出て、このような挑戦をすることになる。


 それはすべて仕組まれたこと。


 アンシュラオンは波動円を使っているので、ルアンの行動などすべてお見通しである。様子をうかがっていたことも全部知っている。

 そんな彼に対して、わざとシミトテッカーの話をしたのだ。

 もちろんレブファトに対し、駄目人間を信じる愚かさを伝えたかったこともあるが、あれはルアンにも聞かせるために話を誘導したのである。

 ここまで予想通りに運ぶとは考えていなかった。だが、種を蒔いたのは間違いない。それが最高の形で花開いた時の快感は、まさに最高の一言である。

 ちなみにルアンが玄関から逃げていた場合だが、その時はリンダと同じく両手足が凍りつくという結果になっていただろう。どちらがよかったのかは当人に訊いてみないとわからない。


(サナの練習には手頃な人材だ。見た時から使えそうだとは思っていたんだ。しかし、いくらオレでも罪のない子供を練習台にはしたくないしな。だが、こうして自ら挑んできたのならば有効利用しないと勿体ない。実に嬉しい展開だよ)




「はぁはぁ…」

「………」


 何も知らない両者は合図を待ちながら黙っている。

 だが、その様子は対照的だ。

 サナが静かに待っているのに対して、ルアンはまだ何もしていないのに荒い呼吸を繰り返す。完全に精神的な影響だろう。


(ナイフ…? いや、ダガーって言ってたっけ? こ、こんなものがあるのか…? これで戦うのか?)


 レブファトは文官ながらそこそこの地位にいるので、ルアンは「良い家のお坊ちゃん」といったところだろう。

 それゆえにナイフはもちろん、ダガーなど持ったことはない。せいぜい果物ナイフくらいなものだろう。平和な城壁の中で暮らすゆえの弊害である。

 ただ、知識はある。これが刺されば致命傷になることを知っている。

 相手の少女は、ホワイトと呼ばれた男が治すだろうが、自分が受ければそのまま死ぬかもしれない。いや、きっと死ぬだろう。

 しかも、死ぬのは自分だけではない。


 家族と―――正義が死ぬのだ。


 レブファトが説いた正義は失われ、自分が死ねば家族はバラバラになるだろう。少なくとも父親は責任に押し潰されてまともではいられなくなる。

 母親も人質に取られるだろう。哀しみと絶望に打ちひしがれながら、彼女も弄ばれてしまう。

 ならば、勝つしかない。生き残るには賭けに勝つしかない。

 自分の命だけではなく家族の命が、こんな刃物一本にかかっていると思うと、やたら重く感じられる。


「はぁはぁ…君は…こ、怖くないのか?」

「………」

「こんなことしたって…痛いだけだ。わかっているだろう? それともあいつに無理やりやらされているのか?」

「………」

「しゃべられないのか? その仮面のせいなのか? それとも無口なだけなのか?」

「………」

「はぁはぁ…なんとか言ってよ…」

「………」


 緊張からかサナに話しかけるが、少女は何も答えない。

 そもそも聞いているのかすらわからないほど静かだ。そこに感情の揺れというものが、まったくない。


(この子はもしかして…慣れているのか? だとすれば僕に勝ち目なんてないんじゃないのか…?)


 カタカタ

 ルアンのダガーを持つ手が震える。

 正義感ゆえに短絡的な行動には出たが、親の教育もあって頭自体は悪くない。次第に状況が見えてくる。


(おかしいよ。どうして僕だけ普通に部屋に置いておいたんだ? 拘束もしないで…いつだって逃げ出せるのに…。子供だから油断した? ミスをした? いや、会話を聞く限り、そんな甘いやつじゃない。だったらもしかして…待ってた? 僕が動くのを待っていたの? わざとこの状況を生み出したの? 嘘でしょう? そんなこと…狙ってできるわけがないよ…)


 ちらりとアンシュラオンの方向を見ると、目が合った。

 仮面なので目自体は見えないが、明らかに自分を観察していることがわかる。それはまるで品評会に出された動物を検分するような視線だ。

 表情、ボリューム、毛並み、頭の良さ、芸の有無、そうしたものを審査するような目である。


 それが―――怖い。


 ガタガタガタガタッ


(なんだ…あれは。怖い…怖いよ…! こんなに怖いなんて…! 僕は間違っていたのか…!? やっぱり助けを呼ぶべきだったのか!? さ、刺される…これで刺されたら……死ぬ?)


 この緊迫した状況だ。考えれば考えるほど悪いことばかりが浮かぶ。

 濁流のように思念が紛れ込んできて、頭が真っ白になった。


 その瞬間―――



「始めろ」



 ルアンの動揺を見透かしたように開始の合図が下る。

 アンシュラオンが彼の感情が理解できないわけがない。知っていてこのタイミングにしたのだ。なんともイヤらしいやり方である。


「っ!!」


 身体が硬い。脳からの情報が伝わっても、ほとんど動かない。

 ルアンはその場で硬直。

 しかし、そんなルアンとは対照的にサナはすでに動いていた。

 迷いなく突っ込むと、ダガーを右手で構えて突き刺そうとする。


「うあぁっ!」


 シュッ

 ルアンは必死に回避。なんとか生存本能が打ち勝ったようだ。

 ただし、暴漢から逃げる「か弱い女性」のように反射で動いた結果、見事に背後を相手に見せてしまう。

 こうでもしなければよけられなかったので、それが最善の動きだったのかもしれない。それは責められない。

 が、相手に身体の横から背中を見せることは、まさに最悪の状況。鎧のない二人の戦いにとって、それは致命的。


「…しゅっ」


 サナが追撃。再び突き刺そうとする。


「うわああ!!」


 ザシュッ

 容赦なく繰り出された一撃が身体を抉り、血が舞う。

 その数滴が垂れ、リビングの床に赤い染みが生まれた。


「ううっ…痛い!! 腕が…!」


 負傷したのは腕であり、しかも深い傷ではない。咄嗟に腕を払ったので、それによって生まれた傷だった。

 それでも初めて経験する刃物による傷だ。それが攻撃されたものならば、ショックはなおさら大きい。

 他人が害意を持って自分を狙ってくる。この恐怖は想像を絶するものがある。




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