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「欠番覇王の異世界スレイブサーガ」

作者  園島義船



□ 第三章 「裏社会抗争」 編 第一幕 『始動』


174話 ー 180話




174話 「陽禅流 鍛練法」


「着いたぞ、ここだ」


 しばらく進むと馬車が止まり、出るように促される。

 これまた渋々外に出るも、いまだ一面の荒野が広がっていた。


「………」


 そこには、何もない。

 多少の岩石が周囲に残っている程度で、乾燥した大地が続いているだけだ。

 吹き付ける風も妙に生暖かく、とにかく強い。

 場所にもよるが、城壁内部では強い風に晒されることは少ないので、こうしたものに触れるだけで自分が「外」にいることを実感する。


 そして何より―――生々しい。


 直接大地に触れるため、生命というものをダイレクトに感じられる場所である。

 もちろん麻薬の栽培で日常的に土には触っているが、人間が耕して準備されたものとは違い、ここにあるのは荒々しいものばかり。手付かずの未開の大地だ。

 その砂粒が風に舞って肌に当たると、嫌でも今までの自分が「守られていた」ことを知る。


(壁がないっていうのは、こんなにも心細いものかよ)


 壁がないことがとても恐ろしく感じられる。

 ものすごく嫌いなはずのホワイトでさえ、同じ人間が近くにいると思うだけで安心感を覚えるほどだ。

 それほど無人の荒野というものは心細いものであった。


「外に出たことはあるか?」


 そのビッグの心情を見透かしたようにアンシュラオンが訊ねる。


「そりゃ…あるが、ここまで遠出したことはない。すでにルートを大きく外れているんじゃないのか?」

「そうだな。こんな場所にやってくる連中なんて、せいぜいハンターくらいだろう」

「そうか、ハンターもいるか…」


 ハンターならば遠出をする。この近くにもいるかもしれない。

 そんな微妙な安心感をビッグが宿した瞬間―――アンシュラオンが懐から何かを取り出す。


「これを見ろ」

「なんだこれは? カード?」

「ハンター証だ」

「ハンター証…あんたのか?」

「名前をよく見ろ。先日、ここで殺されたハンターのものだ」

「ぶっ!? 殺された!? 誰に!?」

「その言い方は間違いだな。『誰に』ではなく『何に』だろう? 当然、魔獣だよ。こんなところにいるのは魔獣くらいなものだろう」

「なっ…だって…ハンターだろう? 魔獣を狩る専門の傭兵じゃないか!」

「ハンターだって人間だ。自分より強いやつに出会ったら死ぬに決まっている。そして、このハンター証の連中は死んだ。弱いからだ」

「弱いから…死んだ…」


 極めて当然のことを言われ、安心しかけた心が砕かれて動揺する。

 自分が危険な場所にいるのだと再認識し、軽く身震いした。自分もいつこうなってもおかしくはないのだ。


「どうした? びびったか? メンタルの弱いやつめ」

「ふ、ふざけるな! 俺だってダディーの子だ! こんなことでびびるかよ!」

「それだよ」

「…え?」

「お前が殻を破れないのは、いつまでも親にしがみついているからだ。そりゃまあ親が有名だと、二世はいつも比べられるもんだけどさ…。それには同情するが、だからお前は弱いんだ。親以前にソブカにも勝てない」

「だから、あいつは関係ねえだろう!!」

「そうやって怒鳴るのは意識している証拠だと言っただろう。はっきり言うぞ。お前は精神力が弱すぎる。武人としての覚悟がまったく足りない。いや、人間としての覚悟も同じことだ。生きることも死ぬことも一緒なんだ。本気で生きるってことは、死ぬ覚悟を決めることだ。死ぬってことは、本気で生きた結果だ。お前はそれが中途半端なんだ」


 死を覚悟していれば、人間は死に対して怯えたりはしない。むしろ、人生でやり残したことがないかを気にして必死になるものだ。

 逆に死を意識しない人間は、まだ大丈夫だろうと安穏に暮らし、突然の不幸に動揺して人生を無駄にする。

 心の準備ができていないからだ。先を考えることを否定したからだ。だから弱い。

 そんな人間は探せば大勢いる。給料や年金のことは考えられても、死のことを本格的に考えるのが怖くて目を逸らすのだ。

 誰かが作ったレールに乗っていれば何も考えずとも生きていけるからだ。それが人を弱くする。


「お前の人生は、ダディーによって作られたものだ。そんな人形に何ができる。動物を見ろ。家畜の豚だって、お前よりは本気で生きているぞ。自分の境遇を知らないという点は同じだがな」

「くそっ…相変わらず嫌味なやつだ」

「いまさら豚君に何を言われても気にならんよ。お前とは人生経験が違うからな。ただ、気をつけろ。オレは自分が思っているより短気らしい。もう一度あの時みたいになったら、もう誰も止められないぞ」

「うっ…わ、わかっている」


 ビッグも意図的にサナには目を向けないようにしている。

 馬車に乗っているが、あたかもいないように振る舞っていたのは、そういった危険性を排除するためだ。


「サナ、おいで」

「…こくり」


 トンッ

 アンシュラオンに言われてサナが降りてくる。

 その姿をビッグは視界の端に収めたが、その堂々とした態度に一瞬だけ気圧される。

 彼女は、荒野に対して恐怖を抱いていない。アンシュラオンに庇護されているとかされていないとかは関係なく、まったく怯えていないのだ。

 それに自尊心が傷つく。


(あんな子供が堂々としていて、若頭の俺がびびっていたら笑い話にもならねぇ。負けてたまるかよ)


 そう思えること自体、彼が少しずつ変わっている兆候である。

 ただし、その相手が小さな女の子であることは哀しいが。


「さて、口上は終わりだ。この先には、オレが用意した【師】がいる。その偉大なる大先生が、お前に修行をつけてくれるそうだ」

「師? あんたが言っていた師匠ってやつか?」

「そうだ。ついてこい。馬車はここで待っていろ」




 アンシュラオンはサナと手をつなぎながら、ビッグをつれて荒野に足を踏み入れる。


「強くなるためにはどうすればいいと思う?」

「どうすれば…? 戦う…のか?」

「大雑把な答えだが、その通りだ。戦うんだよ。武人は戦えば戦うほど強くなる。そういう生き物だからな。そういうふうに作られているんだ」

「俺だって少しは戦ってきたつもりだ」

「少しは、だろう? しかも自分より弱い相手とだ。それでは強くなるわけがない。強いものと戦って成長していくんだ」

「あんたは…そうやって強くなったのか?」

「当然だ。最初は何度も死にそうになった。そうやって少しずつ強くなっていったんだ」

「そう…か。あんたでもそうなのか…」

「さきほどの答えの補足をしておこう。人間と魔獣の違いは何だと思う?」

「違い? …文化…とかか? あいつらは道具とかはあまり使わないしな…」

「それも半分正解だな。つまりは知識や思考だ。魔獣の中には人間より頭の良いものもいるが、基本的にはさほど高度ではない。人間のように大きな都市を作ったりしないし、壁を建てることも稀だろう。それはある種、彼らが強いからその必要がないともいえる。が、逆の見方をすれば、人間にはより高度な知能が与えられているということだ。それが人間の強みだ。当然、戦闘でもな」

「頭を使えってことか?」

「豚君はシンプルでいいな。その通りだ。実力差を埋めるためには頭を使うしかない。オレと戦った時のように直進するだけならば、ワイルダーインパスでもできることだ。あれでは命がいくつあっても足りない。もっと考えて戦え」

「考えて戦う…か」

「あとは自分で考えるんだな。着いたぞ。ここだ。ここにお前の師がいる」


 しばらく歩いた場所でアンシュラオンが止まる。


 そして、荒野にぽつんと置いてある―――【岩】を指差す。


 岩は大きなもので、高さが六メートル以上はあるだろうか。幅も大きいので、巨石と呼んでもいいくらいだ。


「岩? もしかして、あの裏側に誰かがいるのか?」

「行けばわかるさ。あの岩に向かって歩け」

「どうせ拒否する権利はないんだろう?」

「当然だ。ガキみたいなくだらない反抗心を見せるくらいなら、さっさと歩け。時間の無駄だ」

「くそっ…」


 ザッザッザッ

 言われた通り、ビッグが岩に向かって歩いていく。


(どうせホワイトのことだ。何か仕掛けを用意しているに違いない)


 アンシュラオンの性格を知っているので、注意深く周囲を警戒しながら歩く。

 人を蹴落とすのが好きな男だ。落とし穴でもありそうな予感がしていた。


(どこだ? どこにある?)


 ビッグは岩と足元に注意を向けながら歩いていく。今のところは何も起きない。


 グラッ グラグラッ


 しかし、彼が岩に対して残り七メートルの距離に達した時、異変が起きた。

 岩がぐらぐらと動いている。


「な、なんだ…!? 岩が…動いた? まさか誰かが持ち上げているのか?」


 ビッグが岩を注視していると、徐々に周囲の地盤が壊されていき、岩がぐらりと傾く。


 ぐらり、ぴたっ


 だが、傾いた岩は倒れない。それどころかゆらゆらと動き出し、まるで生きているかのような挙動を見せた。

 さらに警戒を強めて眺めていると、ドサァアッと、ひときわ大きな「ハサミ」が大地から出てきた。


 ザッザッ ガサガサッ


 三メートルはありそうな大きなハサミが姿を見せ、さらにもう一本のハサミが出現。

 それから脚が何本も地中から飛び出て、ようやくそれが何かがわかった。

 本来ならばもっと早く気づいてしかるべきだが、ハンター経験のないビッグではすべての対応が遅かった。


 岩の全身が出現し―――対峙。


「な、なんだこりゃ!!! 魔獣か!? で、でけぇ!!」


 それはアンシュラオンが、サナとサリータと一緒に倒した【ヤドイガニ】である。

 ただし、同じ種族のヤドイガニであるが、大きさが前とは段違いだ。前はもっと小さな個体だったのだが、今回のものは二倍はある。


 その名も―――ヤドイガニ亜種。


 モンスターを狩るゲームでありそうな設定だが、データで確認してみたら実際に亜種だったのだから仕方がない。

 亜種らしく微妙に部位の形が変わっており、目玉も真ん丸から三角状に変化しつつ、全体的に棘が増えて攻撃的な印象を受ける。なかなか強そうな面構えである。

 パチパチパチ

 戸惑うビッグの背後から、拍手が聴こえてきた。それに反応して振り返ると、楽しそうに笑うアンシュラオンがいた。


「豚君、おめでとう。【師匠】は君を歓迎してくれるそうだ。やっぱりあれだな、大きいほうが餌としては美味しそうに見えるんだろうな。オレのときとは反応が違って、やる気満々らしい。大きく産んでくれた親に感謝しないとなぁ」

「し、師匠!? あれが!? 人間じゃないのか!!!」

「おいおい、誰が人間が師匠だなんて言った?」

「それはそうだが…ちくしょう! またハメやがったな!!」

「またとは人聞きの悪い。オレは嘘は言わない主義だぞ」

「騙して連れてきたくせに!」

「オレが嘘を言ったんじゃない。嘘をついたのはリンダだ。どうだ? 嘘じゃないだろう?」

「こいつは…!」

「勝手に思い込んだお前が悪い。それにしてもここまでノリがいいと、やっぱり豚君は劇団向けだよな」


 ビッグが十分驚いたのを見て、アンシュラオンがニヤリと笑う。

 まさに予想通りのリアクションをしてくれるので、仕掛けたほうも気分がいい。その意味では貴重な人材かもしれない。


「もうわかっていると思うが、それと戦ってもらうぞ。オレもよく先生方には世話になった。お前も存分に可愛がってもらえ」

「これが先生かよ!?」

「そうだ。陽禅流は究極の実戦主義なんだ。殺した数だけ強くなる。それに勝る修行法はない」


 陽禅公の修行は、とても簡単だ。

 自分より強い存在と戦うこと。戦い続けること。火怨山ではそれが魔獣であった。魔獣は手加減などしてくれない。だからこそ戦う価値がある。

 死に物狂いで戦っていく間に嫌でも生存術を実戦で学んでいく。それで生き残ったら少し技を教えて、また放り込んで生き残ったら新しいものを教える。この繰り返しだ。

 実に単純明快なシステムである。さして手間もかからない。

 あんなに強いゼブラエスが人智を超えた天竜に挑むのも、陽禅公の教えに忠実だからだ。それが自己を鍛える最高の手段なのである。


 幸いながら、ここにはビッグより強い魔獣は山ほどいる。

 それで今回選ばれた偉大なる師匠が、ヤドイガニ亜種先生であっただけだ。


「さあ、行け。師匠を待たせるもんじゃないぞ」

「冗談じゃない! こんなでかい魔獣なんて見たことないぞ!」

「お前が見たことあるような魔獣では意味がないだろう。だがまあ、一応教えておいてやるか。そいつな、お前が勝てる相手じゃないぞ」


 このヤドイガニ亜種のステータスは、さすが大きな個体だけあって、通常のヤドイガニの二倍以上は軽くある。

 現状のビッグのレベルでは、まず勝てない相手だ。


「いやー、探すのに苦労したよ。他のやつでもよかったけど、あまり攻撃力が高いと一瞬で死ぬしな。ちょうどよさそうなやつを探していたら、こいつと出会ったんだ。オレがわざわざ手間をかけてやったんだ。感謝しろよな」

「ちくしょう! やっぱり殺す気か!?」


 ビッグは、すでに逃げ腰である。なさけないやつだ。

 だが、こうなることも想定済みである。


「覇王土倒撃(はおうどとうげき)!」



 ドスンッ! ボコボコボコボコッ バゴンッ!!!


 アンシュラオンが大地を殴りつけると、大地が砂流となって、ビッグとヤドイガニの周囲一体を大きく陥没させる。

 覇王技、覇王土倒撃。

 大地に拳圧と戦気を流し込むことによって土石流などを発生させ、広域を破壊する技である。それを調整すると、こうして大地を陥没させることができる。


「う、うわあああ!!」


 ビッグがいた場所も砂になり、砂流に呑まれて落下していく。

 もがいて何かを掴もうとするも、周囲は完全に砂になっているので無駄な努力であった。

 まるで蟻地獄の巣穴のように吸い込んでいく。




175話 「ソイドビッグの死闘修練 前編」


 ズザザザッ!

 大地が大きく陥没し、周囲一帯が砂になっていく。


 ビッグはそれに呑み込まれ―――落下。


 ズルズルズルッ ヒュ〜〜〜 ドンッ

 それは思った以上に深く、数秒の時間がかかってようやく底にたどり着く。


(くっ! どれくらい落ちたんだ!?)


 周囲の状況を確認するのは人間として当然の習性だ。

 パラパラといまだ砂が落ちつつある暗闇の世界には圧迫感はない。両手を伸ばしても何も当たらないので、スペースはかなりあるようだ。


 ドサッ ドサドサドサッ


 それから大量の砂が落ち終わり、ようやく光が差し込んできた。


「なっ…!」


 反射的に上を見上げたビッグが、呻く。

 上部には光が見えた。青空も見える。しかし、その距離は四十メートル弱はあるだろうか。

 見慣れた城壁と比べての目測なので正確な距離はわからないが、かなりの高さであることがうかがえた。


(けっこう広いぞ、ここ)


 光が差し込んだので周囲の状況がわかってきた。

 もともとただの大地だったため、周りにあるのは土か砂である。

 ただし、大地と壁はしっかりと固められており、立ち上がっても崩れるようなことはなかった。

 これはアンシュラオンがその区域だけを狙って破壊して砂に変えたからだ。よって、それ以外の場所は元の大地そのままの造りとなっている。


 まるで―――コロッセオ。


 直径二百メートルの円柱状に抉られた大地は非常に無骨だが、まさに戦うためだけに生まれた闘技場であった。

 それを証明するものがすぐに落ちてくる。


 ボスーーンッッ


 ビッグが混乱していると、その音が聴こえた。

 明らかに何か大きなものが落下してきた音だ。


「ま、まさか…」


 確認するしかないので振り向くと、そこには大きな岩があった。

 岩から巨大なハサミが覗いている。当然ながらヤドイガニ亜種大先生である。


「よしよし、ちゃんと落ちたな。では、仕上げだ」


 アンシュラオンは穴の上部からその様子を確認し、仕上げに入る。

 水気を壁一面に展開させ、直後に凍気に変換。

 バリバリバリバリッ

 周囲の土壁が氷壁に変わっていく。しかも壁は荒々しいものではなく、完璧なまでに研磨されてツルツルしたものになる。

 指を引っかける場所がまったくないので、武人であっても登るのは困難を極めるだろう。


「ホワイト、てめぇ! 何をしやがる!! どういうつもりだ!?」

「豚君が登って逃げられないように周囲を氷で覆った。おめでとう、これで先生とマンツーマンレッスンができるぞ。羨ましいなぁ。だが、色目なんて使うなよ。先生は肉食系だからな。油断すると逆に襲われて食われるぞ」

「正気か!? 狂ってやがるぞ! さっき勝てない相手だと言っただろう!!」

「そうだな。オレはたしかに狂っているかもしれんな。しかし、なるほど…そうなると師匠も狂っていたってことか。思えばあの人の倫理感もちょっとおかしかったよな。人の命なんて屁とも思っていないような人だったし…弟子は師に似るものか。なるほどなるほど、オレも師匠と同類か」


 陽禅公の生き方も助言も一般とはかけ離れていたので、彼もまた倫理感がぶっ飛んでいるタイプの人間なのだろう。

 闘争と武を追い求めて覇王になったような男である。壊れていて当然だ。

 そう思うと、アンシュラオンやパミエルキの性格にも納得がいく。もともと壊れていたところに、あんな師匠と付き合っていれば、さらにおかしくなるだろう。

 逆に正常で健全な精神を保っているゼブラエスのほうがおかしいのだ。あれだけはどうしても謎である。


「長年の謎が解けたよ。ありがとう。オレは用事があるから一足先に戻っているぞ。お前はそいつを倒したら自力で戻れよ。待っていても永遠に迎えは来ないぞ。甘えるなよ」

「お、おい! 行くのか!? 本気か!?」

「童話じゃあるまいし、豚とカニの戦いを見ても楽しくないしな。ああ、そうそう、飢えないように差し入れを入れておくから腹が減ったら食べてくれ」


 ポイッ ドスッ

 土檻の中にリュックを投げ込む。


「た、食べ物か? 案外優しい…」

「燃料薪と水が入っている。そいつを倒して焼いて食べろ。たぶんカニだから食えるはずだ。あと、生はやめとけ。どんな寄生虫がいるかわからないからな。それじゃ、生きていたらまたな」

「ほ、ホワイトぉおおお!! お前はぁあああああ!!!」


 アンシュラオンが男に優しいわけがない。

 びびりのビッグのために、わざわざこんなステージを用意してあげただけでも感謝してもらいたいものである。


「人間、死ぬ気になればなんとかなる。リンダのためにもがんばるんだな」


 そう言い残し、今度こそ消えてしまった。





「くそおお!! ホワイトのやつめ! 火付け石ぐらいは入れておけよな!!」


 焼いて食べろと言いながら、火付け石を入れていないという凡ミスを犯す。

 怒る場所はそこではないのだが、何かしらに文句を言いたかったのだ。


 ズサッズサッ


 が、大きなものが動く音が聴こえて、慌てて振り返る。


「ちっ、そんな場合じゃねえか!!」


 ビッグには、ホワイトを罵る余裕などない。

 閉じ込められたのはヤドイガニ亜種も同じことである。そして、この魔獣は人間を餌とみなしている。

 普通の人間よりも大きい彼は、さぞかし上等な餌に見えていることだろう。

 虫と虫を閉じ込めると、それが普段は絶対に食べないような相手でも空腹に負けて食べてしまうものだ。


 それが【本能】であるから。


 ならば、もともと餌である人間を見つけたら、相手は喜び勇んでやってくるに違いない。

 じわじわとヤドイガニがビッグに向かってくる。


「ちくしょう!!! お前なんかにやられてたまるかよ!! こんなところで死んだら誰が家族を守るんだ!!」


 あの男のことだ。自分が死んだら約束を反故にする可能性もある。

 すでに裏の事情をよく知るソブカと接触しているのだ。無理に自分にこだわる必要はない。

 そうなれば直接約束をしたリンダはともかく、他の家族がどうなるかわかったものではない。


(俺は死なない! こんな場所で死んでたまるか!!)


 こうなったら戦うしかない。やるしかないのだ。


「うおおおおお!」


 先手必勝とばかりに駆け出し、ヤドイガニに拳を見舞う。

 ドスドスドスッ ドガッ!!

 拳がヒット。見事、顔面らしき場所に当たる。

 魔獣の身体の仕組みなどわからないが、顔が弱点なのは一般的な知識として知っている。

 それは正しい。正しいのだが、決定的に間違っていることがある。


「どうだ、これで―――っ!?」


 次の瞬間、ビッグの身長以上もある巨大なハサミが薙ぎ払われた。


 硬い甲羅のような感触を顔面に感じた瞬間―――吹っ飛ばされる。


 その衝撃は相当なもので、大地に激突してからも止まらず、さらに凍った土壁にまで激突するほどだ。

 一瞬、意識が飛びそうになる。が、ここで失ったら死亡確定である。

 逆に痛みに身を任せることで、かろうじて踏みとどまる。


「がふっ…ごっ……ぺっ」


 鼻血を腕で拭い、折れた歯を吐き出す。吐いた唾は出血で真っ赤に染まっていた。

 その情報が脳内で処理されるまで多少の時間がかかった。

 そして、愕然。


(や、やべぇ。なんだこれは…。こいつ、マジかよ…戦気でガードしたんだぜ! それでこのダメージかよ!!)


 咄嗟に戦気でガードしたが、これほどのダメージを受けてしまったのだ。

 その一撃は何の躊躇もない強烈な攻撃だった。確実に殺す気で攻撃している。

 魔獣なのだから当然である。相手は標的に対して容赦などしない。感情豊かな人間とは違うのだ。


 だが、そんなことすらビッグは完全に理解していない。


 知ってはいても漠然としかわからない。壁の中にいることが多くて、外の世界に対しての実感が湧かないからだ。

 これは外から来たサリータもそうだったので、ハンターでないとわからない感覚かもしれない。


(受けたダメージもやばいが…それ以上に相手がダメージを受けていないっぽいのが、もっとやばいぜ)


 ビッグが犯した間違いは、たった一つ。

 あれがヤドイガニであることを意識しなかった、という点だ。

 ステータス数値を知らないので責めるのはかわいそうだが、あの魔獣の防御も通常種と同じBである。生半可な攻撃が通じる相手ではない。


(こんな強い魔獣が外にはいるのか? 外はそんなに怖い場所だってのかよ)


 鈍感な彼でも、こうなれば理解できる。今自分がいるのは家族に守られた組織でも、壁に守られた都市内部でもなく、何もない荒野だ。

 アンシュラオンが簡単に殺すので見ている側は実感が湧かないが、魔獣は非常に恐ろしい存在なのだ。

 ヤドイガニ亜種はレアだとしても、それに匹敵する魔獣は荒野には山ほどいる。あのデアンカ・ギースと同種の四大悪獣だっているのだ。まさに食物連鎖の弱肉強食世界である。

 そんな場所に、たった独り。

 しかも、あの最悪のホワイトによって生み出された土の牢獄。遠くから見れば、この場所は荒野にしか見えないので、仮にハンターがいても助けに来る可能性はゼロに近い。

 いや、そもそもヤドイガニ亜種に単独で勝てる一般ハンターはグラス・ギースにはいない。運良く大納魔射津のような術具を備えた熟練の傭兵団が通りがかるのを待つしかないが、それこそ奇跡的確率であろう。

 つまりは絶体絶命のピンチ。

 檻の中に入れられた豚と肉食動物のようなもの。このままでは間違いなく食われる。


「ちくしょく、ちくしょう!! ちくしょうぉおおおおお!! どうしろってんだ!!!」


 現実とは厳しいものだ。叫んでも何も変わらない。

 ズリズリ ズリズリ

 そうしている間にもヤドイガニは近寄ってくる。その目は黒くて無機質で、おおよそ狩猟本能以外の感情が宿っているとは思えない。

 その目に、ぞっとする。


「はぁはぁ!! はぁはぁ! やるんだ! やるしかない!!」


 戦気を放出して完全なる戦闘態勢を整える。無手の戦士である自分には、それ以外の選択肢がないのだ。


「うおおおおおおお!!」


 再び突進。一気に接近する。

 ブーーンッ

 それと同時にハサミが襲ってくる。


「二度もくらうかよ!」


 一撃は重いが大振りのハサミの下をスライディングするようにかわす。

 普段はやったことがないので、正直成功するかわからなかったが、あれを防御するのは愚策である。成功してよかったと心底思った。

 こんなことは人間相手ならば思わなかったに違いない。相手が人間だと、どうしても余計なプライドが邪魔をするが、魔獣ならば何も感じない。

 ただ生き残るためだけに身体が動く。

 そして、なんとか体勢を整えてからカニの本体に殴りかかる。

 ガシャンッ

 しかし、拳が当たる直前に岩が上から落ちてきた。


 拳が―――岩と激突。


「ぐっ!! 硬ぇえ!」


 ヤドイガニの『岩石防御』。背負った岩を覆い被さることで、鉄壁の防御を生み出すスキルだ。

 これはガードの効果があり、防御力上昇に加えてダメージを半減させる。

 攻撃がAAのアンシュラオンならば簡単に破壊できるだろうが、ソイドビッグの攻撃はD。到底打ち砕けるものではない。

 ブシャッ

 逆に―――拳が裂ける。

 戦気で覆っていても相手のほうが強固である。まったく傷一つ付かない。


(くそっ、なんだよ魔獣ってよ! こんなに強いのかよ!! これをあいつは捕まえてきたってのか!! ふざけるなよ、化け物が!!)


 ホワイトがいとも簡単に捕らえてきた魔獣に、自分は互角にも戦えていない。

 思えば、この闘技場を作る段階で人間業とは思えない。やはりあの男は化け物である。




176話 「ソイドビッグの死闘修練 中編」


 ビッグの拳が裂け、血がしたたる。

 攻撃が通じない以上、下がるしかない。無様なまでにバックステップを繰り返し、壁際まで後退。


(ここには俺の知らないもんばかりがありやがる! こんな魔獣も知らないし、ホワイトの野郎も馬鹿みたいに強ぇ。こんなもんを作っちまうんだからな…。ちっ、冷てぇな…この氷の壁はよ)


 沸騰しかけた頭が、氷壁に強制的に冷やされていく。

 アンシュラオンがそれを目的としたわけではなかったが、結果的にビッグを落ち着かせることに成功する。

 ヤドイガニが追ってこないことを確認し、防御の姿勢を保ったまま深呼吸。


(ふーー、ふーーー、落ち着け。あいつと比べるな。張り合うな。あれは人間じゃない。あいつと同じことをしようとしたって駄目だ。俺がいくら殴っても、あの岩は壊れない。認めろ。認めるんだ。俺は…弱い!!)


 さすがのビッグでも、ヤドイガニの岩を殴り続けるのは無意味と判断する。実際に痛い目に遭ったのだから、よほどの馬鹿でもそれは理解できるだろう。

 いくら武人が痛みをある程度無視できるとはいえ、無駄なことをしてダメージを受けるのは馬鹿のやることだ。

 そこでホワイトの言葉を思い出す。


(無駄なことが嫌い。無意味なことが嫌い。利益が出ないことが嫌い。なるほど、たしかにそうだ。俺たちだってそうやって組織を運営しているんだからな)


 ビッグも組織運営に携わるようになって、利益がいかに重要かを知った。

 利益が出なければ組自体が弱くなるし、曽祖父のツーバ・ラングラスにも迷惑がかかる。ひいてはラングラス一派全体を弱体化させることになる。

 ホワイトに近づいたのだって利益を求めてのことだ。意味があることだからやったのだ。

 戦闘も、それと同じ。

 無駄なこと、利益が出ないことを繰り返していては勝てるものも勝てない。


(あいつにも言われただろうが。突進するばかりじゃ勝てないってな。悔しいが、あいつは頭が切れる。それが悪知恵だとしても意味があることしかやらねぇ! ムカつくが、それを認めるんだ!)


 アンシュラオンがヤドイガニを選んだことには意味がある。

 当人が言っていたように攻撃力ではなく防御力を優先して選んでいる。ビッグに単調な突進だけでは絶対に勝てないことを教えるためである。

 あの狡猾な男が選んだのだ。絶対に突進だけでは勝てないようにできている。まさに仕様である。

 ならばどうするのか。


(考えるしかない! 考えながら戦うんだ! 頭を使うんだ!)


 魔獣のように問答無用で相手を破壊できる攻撃力を持たない人間が、唯一持つ武器がある。それこそ知恵。知識。思考の力である。

 そう、この判断こそ重要なのだ。

 アンシュラオンが言ったように力押しだけで勝てる戦いなど少ない。それが許されるのは強者のみである。

 自分は、強者ではない。それを認めることが最初の一歩となる。


(じゃあ、どうする? 頭を使うなんて言われてもな…どう考えても絶体絶命じゃねえかよ)


 壁をつたって移動しつつ、一定の距離を保ちながら状況を整理する。

 壁は完全に凍っていて張り付くことはできない。普通の氷ならば破壊しながら取っ掛かりを作って上がればいいが、アンシュラオン製のものは強固なので傷をつけることなど不可能だ。

 仮にこのカニを倒しても、彼が迎えに来ないと言った以上、絶対に来ないだろう。

 その時のことを考えると動揺もするが、死んでしまえばすべてが終わる。


(ちっ、ネガティブなことばかり考えちまう。これじゃ駄目だ。何の利益にもならない。あいつが言った考えるってのはそういうことじゃねえ。無駄に先のことを考えるんじゃない。考えたってどうにもならないことは、そのときになってからでいい。俺が考えるべきことは、こいつをどうにかするってことだ。それだけに集中しろ)


 人間の思考は難しいもので、色々な記憶と考えが流れ込んできてしまい、心配ばかりしてしまうものだ。多くの人間がこれに苦しむ。

 ただし、一度に考えられるのは一つのことだけ、という絶対のルールがある。

 その人間にいくつもの心配事があっても、その瞬間に考えられるのは一つの事象だけである。

 たとえば最初に殴られた一撃と拳の怪我、どちらかより痛いほうに神経が集中するので、怪我の浅いほうはあまり気にしないで済む。

 これと同じで、常に何かプラスになることに集中していれば、他のネガティブなことを追い払うことができる。


 そして、ビッグが考えるべきことは未来の心配をするよりも、目の前の相手をどうにかするためのアイデアを練ることだ。


 意識をすべて相手にだけ向けて、倒すことだけに集中する。自分の死すら忘れて、ただ殺すことだけに熱中するのだ。

 これもアンシュラオンが言った死ぬ覚悟を決めるということ。死ぬよりも殺すことを先に考えるということ。

 その練習をするには、この場所はうってつけである。それ以外にやることがないからだ。できなければ死ぬしかない。


(あのハサミ野郎をどうやってぶっ殺すかが重要だ。そうだ。殺すことだけを考えるんだ。どうする? どうする? どうすればいい? 何か弱点はないのか? あの岩は駄目だ。あれ以外だ)


 ヤドイガニは岩を少しだけ持ち上げて、こちらの様子をうかがっている。

 それは「さあ、こいよ。いつでもガードしてやるぞ。どうせお前には打ち砕けはしないんだからな」と言っているように思えてくる。

 それは幻聴だとしても、ヤドイガニが防御型の魔獣であることは事実。ガードが有効であることを知った相手は、岩を盾にしてじっくり攻めてくるに違いない。

 魔獣は人間よりも知能が低いが、狩猟本能によって自身の能力をフルに扱う術を知っているのだ。


(くそっ、ムカつく目をしてやがる! 叩き潰してやりてぇ!)


 どこを狙っていいのかわからない苛立ちが募り、さきほど殴られた痛みも感じ始める。それに伴って、怒りもふつふつと湧き上がってきた。

 怒りは力となる。それによって戦気がさらに燃え上がる。だが、同時に怒りは注意力を散漫にさせる。


 直後―――肌に傷が生まれた。


「なっ!?」


 バシバシバシッ

 それに驚いていると、次は顔に何かがぶつかった。頬に傷が生まれる。

 何が起こったのかは明白。


「あのやろう! 岩を飛ばしてんのか!! いてっ!! いてて!!」


 見るとヤドイガニが自分の岩を少し削って、その破片を投げていた。ほんの小さなツブテをハサミで弾くだけだが、その威力は弾丸に近い。

 バンバンバンッ バシバシバシッ

 それは戦気を撃ち抜き、肉体にまでダメージを与えてくる。このまま離れていれば安全というわけではなかったのだ。

 ビッグの注意が逸れた瞬間に、即座に岩ツブテを発してくる。実に冷静な判断だ。これも魔獣の狩猟本能である。


「ホワイトといい、どこまでも…こいつらはぁああ!!」


 ヤドイガニ自身はホワイトとまったく関係ないが、利用されていることは事実。ビッグからすれば悪の一味にすら思えてくる。


「絶対にぶっ飛ばす!!! だが、馬鹿みたいに直進はしねえ! してやるもんかよ!」


 普段ならばそのまま突進していたところだが、ツブテをくらって逆に落ち着くというラッキーが生まれた。

 相手は待ち構えているのだ。誘っているのだ。そこに突っ込めばどうなるのかは、今のビッグならばわかる。

 左腕で岩ツブテをガードしながら、どう打開しようかを考える。


(岩は何をやっても砕けない。かといって顔面を殴っても、俺の攻撃力じゃあいつを砕けない。何か武器があればいいが…そんな都合のいいものはないよな。あとは技だが…虎破くらいしか使えないしな)


 戦士は肉体自体が武器である。ただし、その大半を支えているのが【覇王技】だ。

 まともな修練をしていないビッグに使える技は、せいぜい我流の虎破くらいなものだ。はっきり言えば全力で殴るだけなので、それが技といえるかわからない。

 アンシュラオンがやったように防御無視の発勁などが使えれば楽だが、それがない以上は何かしらの武器がないと厳しい。

 戦士だって武装するものだ。攻撃力が低い防御型戦士にとっては、たとえ剣王技が使えなくても剣気を放出できれば、それだけで大きな武器になる。


(何かないか? 何か武器になるものは…! …ん? あのリュック…何が入っているんだ?)


 ふと目に入ったのは、ホワイトが置いていった大きめのリュック。

 彼の発言が正しければ、焚き火用の木材と水があるらしい。


(あれに武器が入っていれば…。だが、あの男が親切に何かを用意しておくとは思えない。それでも…確認しないと!)


 何か使えるものがあれば、この際は何でも使うしかない。生きるためには禍根や変なプライドは必要ないのだ。

 一縷(いちる)の望みをかけ、リュックに向かって移動を開始する。


「いてて!! この岩ガニ野郎め! 覚えてやがれ!」


 バシバシバシッ

 リュックに近寄っている間もツブテ攻撃は続く。

 ちなみに野郎野郎と言っているが、このヤドイガニは【メス】である。

 産卵時期になるとメスは多くの栄養を必要とし、普段はあまり食べない人間も食べるようになる。このあたりにヤドイガニが出現していたのは生態系の問題ではなく、単に時期的な問題であった。

 そして、メスのほうが強い。ハサミもメスのほうが大きい。

 生殖本能に忠実に従うメスほど、この世で強いものはない。それは人間と同じである。


「…よし、取った!! 何が入っている!?」


 ようやくリュックを拾い、急いで中身を確認。

 そこには言葉通りに木材と、水が入った水筒があった。当然だが剣や斧、ましてや術具などは入っていない。


「くそっ! あいつに期待した俺が馬鹿だった!!」


 ズリズリ ズリズリ

 そうしている間にヤドイガニが接近してきていた。岩ツブテでは倒せないと思ったのだろうか。再びハサミを構えている。

 それともビッグの焦りを感じ取って、チャンスだと思ったのかもしれない。どちらにせよピンチだ。


「リュックでもくらえって!!」


 あまりにイラついたので、リュックをヤドイガニに投げつける。

 もちろん何の効果もなく、ドサドサと中身だけが飛び出てきて、周囲に木材が散乱する。

 燃料薪では武器にならず、火付け石もないのでまったく役に立たない。せめて包丁でもあれば少しは希望も持てただろうに。


「やるしかない! 身体一つで…やるしか!! …ん? あれは…」


 ヒラヒラ パラリ

 ふと足元に落ちた紙切れが目に入った。おそらくリュックに一緒に入っていたものだろう。


 そこには何かの【絵】が描かれていた。


 まるで子供が落書きしたような、ひどく汚い殴り描きの絵だ。


(なんだこれは? ホワイトの妹が描いたのか? それにしても汚い絵だな。俺だってもう少しましに描けるぞ)


 たしかにサナが描いた絵である。ホワイト画伯も描いたのだが、サナのほうがまだましだったという悲劇もあったが。

 ただの嫌がらせかと思ったものの、あの男が無意味なことをするとは思えなかった。反吐が出るほど嫌いな人物であるが、頭は良いのだ。


(何の絵だ? 人間か、あれは? 手から…赤いものを出している? …駄目だ。さっぱりわからん。文字くらい書いておけよ!! 馬鹿にしてんのか!!)


 実際に馬鹿にしているのだが、そこには何か意味があるのは間違いない。

 人間と思わしきものが、手から丸くて赤いものを出している。壁画ならば神秘的にさえ見えそうな独特な抽象画である。

 だが、それが何かはわからないし、考えている暇はない。

 ヤドイガニがハサミを振り回しながら向かってきていた。巨大な岩が迫ってくるのだから、その圧力は人間の比ではない。


「ちっ! 待ってはくれないかよ!」


 なさけないことだが、ビッグは必死に逃げるしかない。

 どうやら直線は速いが小回りは利かないらしく、円の動きをしていればなんとか逃げられるようだ。

 しかし、これはまったく解決になっていない。

 あれだけの岩を背負って暮らしている魔獣である。間違いなく自分の体力のほうが先に尽きる。


(勝負を仕掛けるしかねえ! あいつの弱そうな場所といえば…もうあそこしかねえ! 顔が駄目でも、あそこなら!!)


 ビッグは突如動きを直進に変え、相手に飛び乗る。

 突然のことだったのでヤドイガニも対応できず、迎撃されずに乗ることができた。


 そこで彼が狙ったのは―――目。


 普通のカニと同じならば複眼だろうが、剥き出しの目が一番弱そうに見えた。あらゆる生物の中でもっとも弱い場所が、やはり目であろうという単純な発想からだ。

 自分もホワイトに目を潰された経験がある。あれは最悪の記憶であるが、自分がやるのならば問題はない。


「おおお!!! 砕けろ!!!」


 ガンガンッ ガンガンッ!

 殴るたびに金属のような音を響かせる。予想はしていたが、硬い。やたら硬い。目まで甲羅で出来ているようだ。

 そのたびに拳が痛むが、この場を切り抜けるにはこれしかない。必死に、全力で、無我夢中で殴り続ける。

 手に戦気を集中させて、何度も何度も叩きつける。どうせ敵の攻撃を受ければ致命傷だ。防御はほぼ無視して殴る。

 ヤドイガニは岩を下げて岩石防御をしようとするが、ビッグが目に張り付いているので上手く閉じられない。

 バタバタ グラグラ

 今度は暴れて振り落とそうとしてくるが、必死にしがみついて殴り続ける。ここを逃したら勝機はないことを知っているのだ。


「おおおおおおお!!! 潰れろぉおおおおお!!」


 ガンガンッ ガンガンッ!
 ガンガンッ ガンガンッ!
 ガンガンッ ガンガンッ!


 ガンガンッ―――グシャッ


 何回目だったか、いつもとは違う感触があった。

 それはまるで、ゆで卵を殴った時のような感触。外側の殻は硬いが、中身が半熟の卵を壊したような感覚。


 苦労の甲斐があり、ヤドイガニの目が―――潰れた。




177話 「ソイドビッグの死闘修練 後編」


「や、やった!! 攻撃が効い―――ぐはっ!!」


 急所の一つである目は潰した。かなりの健闘だ。


 だが、その代償は大きかった。


 殴ることに夢中になっていて気づかなかったが、大きなハサミがビッグを捕らえていたのだ。

 ヤドイガニの『拘束』スキルである。がっしりと身体全体を挟まれて身動きが取れない。


「しまった!! くそがっ!!」


 ガンガンッ ガンガンッ

 何度も殴りつけるが、硬い甲羅の感触しかしない。特にハサミは頑強なようで、岩と同じく破壊は難しそうだ。

 しかも暴れれば暴れるほど、尖ったハサミが食い込んでくる。握力も相当強いので、ギリギリと身体が絞められていった。


 万力のように徐々に圧力が強まり―――折れる。


 ボキンッ

 肋骨がへし折れる音が聴こえた。これまた魔獣特有の容赦のない攻撃である。


「こいつ…がはっ!! やべぇ!! こいつは…やばい!! このままじゃ…!」


 拘束にもいろいろな種類があるが、ヤドイガニのものは拘束中にダメージを与えるものなので、じわじわとHPが減っていく。


「ううう、おおおお!! 放せ、放しやがれぇええええ!!」


 戦気を挟まれている箇所に回して防御を固める。だが、相手のほうが強いのでダメージは受けてしまう。完全にジリ貧だ。

 一瞬、死がよぎる。

 物理耐性があるのでかろうじて耐えているが、ずっとこうしていれば間違いなく死ぬだろう。

 初めて感じる本物の死の予感にパニックに陥る。


(まずい…死ぬ! これを続けられると…死んじまう!! なんだよ、これは! こんなところで死ぬのかよ!! ふざけるな!! ふざけるな!! 俺は、俺はこんなところで…!!)


 いつ殺されても仕方のない世界にいるつもりでいた。それなりに覚悟を決めていたはずだが、こんなところで死ぬのは予想外で不本意すぎる。

 そして、理不尽。

 起こっているあらゆることが不条理で理不尽極まりないものに感じる。なぜ自分はこんなところで死にかけているのか。

 すべてはホワイトのせいだ。あいつが来てからすべてがおかしくなった。リンダだって、あの男にどれだけ苦しめられたことか。


 それでもホワイトは―――強い。


 強さだけが絶対のルールであるこの世界で、彼は正当な対価を支払っている。力を持っている。使っている。それは紛れもない事実だ。


(力! 力があれば! 俺は…力が欲しいんだ!! あいつにも負けない力、リンダを守れる力、家族を守れる力が…!! がはっ!!)


 さらに圧迫は強まり、服が裂け、肉が抉られていく。そのたびにヤドイガニが嬉しそうに身体を揺らす。


(そんなに嬉しいかよ! こんなに人を傷つけて!! てめぇは! てめぇええええええはぁあああああああああああああああ!! ホワイトぉおおおおおおお!!)


 だんだんとヤドイガニがホワイトに見えてきた。まったくの冤罪だが、ビッグにはそう見えるのだから仕方ない。


(このままじゃ死ぬ! なら、せめて一発はぶちかましてやる!!)


 手を伸ばすがハサミも上部に伸びているので、ここからでは相手の本体に触れることはできない。

 それでも殴ってやりたかった。そうしないと収まりがつかない。この怒りはそんな生易しいものじゃない。

 だから伸ばす。伸ばし続ける。だが届かない。

 伸ばす。伸ばし続ける。だが届かない。

 伸ばす。伸ばし続ける。だが届かない。



―――だが、届かない。



「なんで…届かないんだ…よ! ちくしょう! 届けよぉおおおおおおおおおおおおお!! 手が足りないなら、血でもいいから届きやがれぇえええええええええええ!!!」


 もう防御のことを考えている余裕はなかった。

 ハサミが腹に突き刺さるより、ギリギリと絞められるより、肉が裂けるより、まずは相手をぶっ殺さないと気が済まない。


「死ね死ね死ね死ね死ね!! てめぇえはぁあああああ、死ねよぉおおお!!!」


 ただただ手を伸ばし、笑っているカニ野郎に一発ぶちかましたかっただけ。

 だから、自然と身体中の戦気が一点に集中する。


 その手へと、その伸ばした―――掌へと。


「おおおおおおおおおおおおお!!」


 手から―――火が噴き出した。


 一点に集まった戦気が燃え盛り、火となった。ボウボウと音と立てて激しく燃えている。


 これは―――火気。


 アンシュラオンも火を付ける際に使っているもので、全属性の中でもっとも攻撃的な気質の一つである。

 潤い癒す水とは対照的に相手を滅するためだけに使われるものであり、パミエルキが得意とする臨気は、この火気の最上位属性である。

 こうなった理屈は簡単。ビッグはもともと火属性を持っているので、戦気が『火気』に変換されただけだろう。

 しかし、彼はそのやり方を知らなかった。戦気が火気になるとは知らないのだ。

 今こうして土壇場に陥って、直前に【イメージが刷り込まれて】いなければ、きっとこれは成し得なかったことだろう。


 火気が掌に収束。


 極限まで圧縮された火気が丸い形となって激しく揺らめいている。その姿はサナが描いた絵にそっくりであった。


「なんだこりゃ!? ちっ…どうでもいい! もう使えればなんでもいいぜ! だが、これでもまだ届かないのかよ!!」


 これをぶつけたいのだが、まだ距離があって届かない。

 あとほんのわずか。あと十センチ程度の距離が千里にさえ感じられる。もどかしくて、苛立たしくて、もう我慢などできない!!


「知ったことかよおおおお!! 一緒にくたばれ!!」



―――爆発



 最高潮にまで圧縮した火気が、ビッグとヤドイガニの間で爆発した。

 覇王技、裂火掌(れっかしょう)。

 火気を掌に球体状に圧縮して攻撃する技である。因子レベル1の技であるが、火の属性は総じて攻撃力に優れる傾向にあるので、これを強者が行えばそれだけで必殺技になる威力を持っている。

 本来は相手にぶつけるものだが、途中で爆発させても威力は高く、巻き込まれたヤドイガニは思わずビッグを放してしまった。

 ドスン ゴロゴロゴロ

 大地に落ちたビッグは、転がりながら距離を取る。無様な格好だが、もう体裁などどうでもいい。


「どうなった…やったか!?」


 痛む胴体に顔をしかめながらヤドイガニを見ると、顔面の周りが焼け焦げて黒くなっている。

 一部は生焼けの部分もあるなど焼き方にはムラがあるが、ビッグが初めて与えたダメージである。

 裂火掌の火による爆発の部分は防御無視である。これを防ぐには三倍防御の法則による戦気でのガードしかない。

 目も一つ潰れ、顔に大きな火傷を負ったヤドイガニは、右往左往しながら後退する。


「ざまぁみろ!! やってやったぜ!! ちっ、いってぇえ! あっちぃいい! ちくしょう!! 俺の手まで焦げるのかよ!!」


 敵が慌てふためく様子には溜飲を下げるが、中途半端な技だったので自分の手も焼けてしまった。右手が真っ黒になっている。

 これは単純に技が未完成であり、ビッグの技量不足が原因である。

 こういった技は当たった瞬間に、すべてのエネルギーを相手側に向かって放出させるものだ。それによって相手だけにダメージを与えることができる。

 が、その場の勢いだけでやったので、結果的に自爆技になってしまった。攻撃して自分も傷つくなど、実に非効率な技である。

 そして、その代償を支払ったにもかかわらず、まだヤドイガニに致命傷を与えていない。HPも通常種の二倍以上あるからだ。


 ブクブクブクブクッ

 ヤドイガニの口から泡のようなものが発生し、火傷の箇所に集まっていく。それと同時に少しずつ焦げ跡が薄くなっていった。

 ヤドイガニ亜種が持つ『泡浄化』スキルである。自身が受けた状態異常を癒し、HPを少しだけ回復する。

 餌のタコ型魔獣が毒を持っているので、それを無効化するために進化して手に入れたスキルである。


「なんだぁ!? 回復してんのかよ! ふざけるなよ!! 俺がこんな痛ぇ思いしてんのに、お前だけ泡風呂か!! そういえば…焼いて食えとか言ってやがったな、あいつ…! ああ、焼いてやるよ!! てめぇの身体の中からなあああ!!」


 ヤドイガニが泡でリフレッシュしている隙に懐に突っ込み、あのグロテスクな口に焼け焦げた右手を突っ込む。

 いくつかの分厚い歯が螺旋状に絡まった、見るだけで嫌悪感を感じてしまいそうな口だが、もう躊躇っている暇はない。無我夢中で腕を突っ込む。


「泡ごと吹き飛ばしてやるよ!!!」


 ドバッーーーンッ

 再び裂火掌を放つ。今度はさきほどの一撃よりも、かなりましな一撃であった。自身へのダメージはさほどない。

 これこそ武人の因子の凄さである。

 一度身体で覚えたことは簡単には忘れず、さらに進化していく。こうして自然発生的に覚えた技に関しては、因子が技の発動に必要な動作を自動的に検索してデータを取得する。

 裂火掌はもともとビッグに適した技である。身体がそのやり方を知っているのだ。


 その衝撃に、ヤドイガニが揺れる。


 直接口の中に技を放ったのだから、外殻がどれだけ丈夫でも関係ないだろう。外が駄目なら内。これも戦闘のセオリーである。


 ただし、口に手を突っ込むということは―――


「つっ!!!」


 ブシャッーー

 ビッグの手に鋭い痛みが走る。ヤドイガニの口が閉まり、手を噛み切ろうとしているのだ。ついでに小さいほうのハサミも動きだし、ビッグを攻撃してくる。

 相手からすれば餌が自分から来たようなものだ。遠慮なく食べようとしてくるだろう。


「いってぇな、このやろう!! これでも食ってろ!!」


 転がった際に拾っておいた木材を口に突っ込み緩衝材にするも、簡単にバキバキとへし折られていく。

 だが、その隙に左手を突っ込み、右手を守る盾とした。ガリガリと遠慮なく噛み切ろうとしてくるが気にしない。

 これはもう自分の手が切れるのが先か、相手が死ぬのが先かの時間の勝負である。少しでも時間が稼げればいいのだ。


「はっ!! はっっ!!! 死ね!!! 死ね!!」


 ドバッーーーンッ
 ドバッーーーンッ


 一発、二発。


 ドバッーーーンッ
 ドバッーーーンッ
 ドバッーーーンッ


 三発、四発、五発。


 裂火掌を連発。ただひたすら連発。

 左手から大量に出血していても無視。右手がさらに黒焦げになろうが知ったことではない。


「全部出し切れ!! 出さないと死ぬぞおおおお!! おおおおおおおおお!」


 自分で自分を叱咤し、いつもならば「もういいや」とやめている領域を超える。

 人間は疲れた時、休もうとする。自然と身体をセーブしようとする。それが普通であり推奨される行動だろう。


 しかしながら武人は例外。


 限界を超えなければ限界は上がらない。永遠にそのままである。痛いと思ったら先に進め。つらいと思ったら歯を食いしばれ。

 戦え、戦え、戦え!!!

 闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。闘え。



―――闘え!!


―――死ぬ前に殺せ!!



 そうしてこそ、武人は強くなる!!!!


 ドバッーーーンッ

 ドバッーーーンッ

 ドバッーーーンッ


 すでにBPは尽きている。理論上は撃てない。もう使えない。

 それでもここは意思が具現化しやすい世界である。自分が諦めない限り、自己の意思が一定の水準を超えれば【意思そのものが力】となる。


「ホワイトのくそ野郎がぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」


 ドバッーーーンッ!!!!


 ひときわ大きな音が響き、ついにビッグの身体からすべての力が抜ける。

 限界をすでに超えた最限界。さらにそれを超えた極限疲労状態になったため、意思ですら対応できないレベルにまで陥ったのだ。

 ずるりと手が抜けて、どさっと倒れる。もう指一本動かすこともできない。

 右手は半分炭化し、左手はちぎれかかっている。腹も焼けるように熱い。身体のあちこちが痛む。


 そんな状態であるのに―――満たされる。


 なぜか心は落ち着いている。悦んでいる。武人の血が燃えている。これでいいのだと感じている。


(なんだ…これ。頭がおかしく…なったのか? 訳わかんねぇ…よ。俺は…俺は……リンダ……みんな……)


 そして、そのまま意識を失った。


 誰の手助けもない状態で意識を失えば、もう彼は死ぬしかない。ヤドイガニの餌になるしかない。

 しかしながら、その場で動くものはいなかった。


 ただ重力に引かれ―――ドッスーンと岩が落ちただけ。


 そこには内部が焼けて、いい感じに美味しそうな匂いを出しているヤドイガニがいた。

 口からぶくぶく出る泡も、そこに醤油でも垂らせばジュウゥウと香ばしい匂いをさせて、食欲をそそってくれるに違いない。



 勝った。


 かろうじての勝利。辛勝も甚だしい。競馬で言えば、鼻差でようやく勝ったようなもの。


 だが―――勝ったのだ。


 万馬券だろうが、勝ったのだ。

 この世界では、勝ったものが強い。勝った者だけが勝者となる。そして、勝ちを知る者は、さらに強くなる運命を与えられる。

 それが、武人。それこそが武人という生き物。



 勝者であるビッグが意識を取り戻すのは三日後。


 その頃には死んだヤドイガニはたくさんの鳥型魔獣についばまれており、半分以上は食べられていたことを知る。

 自然はなんと逞しいことか。それでいて完全に統御されている。

 鳥型魔獣が食べるのは【死肉】のみ。敗者の肉のみ。だから勝者は生き残る。これもまた荒野の厳正なるルールであった。

 当然、アンシュラオンは迎えに来なかったので、ヤドイガニが背負っていた岩を足場にしたり、鳥型魔獣によってバラバラにされた甲羅を組み立てて梯子もどきを作り、なんとか脱出に成功するのであった。




178話 「ソブカの秘書 前編」


 ビッグがまだヤドイガニ亜種大先生とマンツーマンで戦っている頃、アンシュラオンとサナはグラス・ギースに戻っていた。

 ガタゴト ガタゴト

 馬車が通常の交通ルートに戻り、ゆっくりと進んでいく。


「…じー」


 その間、サナはじっと荒野を見つめていた。見ているのは、ビッグを置いてきた方向だ。


「なんだサナ、豚君が心配か?」

「…ふるふる」

「心配じゃないか。だが、気になるって感じかな。…もしかして、あの絵のことかな?」

「…こくり」

「そっか。サナはがんばって描いていたもんな」


 サナが心配なのはビッグではなく、自分が描いた絵のことのようだ。

 まず何より彼があの絵の存在に気がつかねば意味はないし、気がついても生かせねばただの紙くずである。

 あのような方式を採ったのは、まだビッグは技を教える段階にはないからだ。武人そのものの覚悟が足りないのだから、生半可に教えてもあまり意味がない。

 それならば、いちかばちかの勝負で覚醒を促したほうがよいだろう。


「あれでどうにかするってのも無理な話だけど、理屈で言っても理解はできないだろうしな。やることはやったさ。これで生き残れないようなら生物として弱い証拠だ。弱ければ、どのみち今後生き残ってはいけない。心情的には生き残ってほしいけどな」


 リンダを操るためにはビッグが必要だし、ファミリーに対する保険としても生き残ってはもらいたい。これは本音である。

 しかし、死んだらしょうがないとも思っていた。その際は適当にアリバイをでっち上げて生存しているように見せかけ、できるだけ早くソイドファミリーを襲うのがいいだろう。

 リンダには恐怖を与えてあるので情報を漏らすことはしないと思うが、女は感情で生きるものだ。ビッグの死に勘付けば何をするかわからない。

 ただそれも結局はファミリーの乗っ取りまでの話。それ以後となればリンダは必要ない。


「やれやれ、手間のかかるやつらだよな。それもまたギャンブル性があっていいかな」


 アンシュラオンはギャンブルに興味はないので、スリルを求める心境は理解できない。

 しかし、自身にとってどうでもいいものならば、それもまたいいだろう。さして利益に影響しないのならば、どっちに転ぶのかを予想して楽しむのも悪くはない趣向だ。


「豚君が生き残ってくれたほうがドラマチックになるんだけどなぁ。オレはあまりギャンブル運がないからな。あまり期待せず待つことにしよう」




 馬車がグラス・ギースに到着。

 そのまま都市に入る頃には、日が傾き始めていた。

 アンシュラオンとサナは東門を少し行った先で馬車を降り、夕刻になって少しずつ増えてきた通行人に紛れながら目的地に進む。


(予想できない豚君より、まずはこっちのほうが重要だな。さて、女の人って話だけど、どんな人が来るかな?)


 都市での用事とは、待ち合わせのことだ。

 これから重要な人物と出会うことになっている。今後の作戦に大きく関わるので、ビッグ以上に大切な用事である。


 待ち合わせ場所は、ハローワークの近くにある喫茶店。


 サナを連れて行ったこともあるので、さして迷うこともなく到着。

 オープンテラスがあるカフェで、夜になれば食事処にもなる半分食堂に近い様式の店だ。

 城壁によって夕日が半分以上隠れているので、街自体はかなり薄暗い。すでに街灯がつき始めているところもある。


 カランカラン


 店の中に入ると、そこそこ人が入り始めていた。家族連れの姿もあるので、仕事終わりに家族で夕食といった一般人も多いのだろう。

 そんな中、奥から明らかに強い視線を感じる。

 その視線に誘われるように奥に進むと、外や周囲から見えにくい席に一人の妙齢の女性が座っている。

 アンシュラオンとサナも同じテーブルに座る。


「やあ、お待たせ。時間通りに来たと思ったけど…遅かったかな?」

「予定通りです。私が早かっただけのことですので問題はありません」

「そうなんだ。オレも昔は五分前には絶対に来ていたし、場合によっては十五分前に来ていたもんだけど…いつからかやらなくなったなぁ」


 地球時代の若い頃は律儀に待っていたものだが、ほぼ毎回必ず誰かが遅れてくるので、次第に時間通りに行かなくなってしまった。

 最長で四時間待った時などは、本当に馬鹿らしくなってしまったものである。

 そうなると不思議なもので、自分まで待ち合わせに遅くなっていくのだから付き合う人間は選んだほうがいいのだろう。


「注文していい?」

「どうぞ」

「あっ、おねーさん、コーヒーとお子様ランチ一つね」

「はーい! ありがとうございまーす!」

「そっちの追加注文は?」

「これで十分です」

「あっ、そう」


 サナにお子様ランチを注文しながら、目の前にいる女性を観察する。


(うん、あの時にいたお姉さんだな。でも、ここまで愛想がまったくないとは…こういう性格なのかな?)


 女性は一応反応はするものの、必要最低限の言葉しか発しない。

 しかも言葉から愛想と呼べるものがまったく感じられないので、非常に無機質でそっけない印象を受ける。

 もともとこういう性格なのか、あるいは意識的にやっているのかは微妙なところだ。


 そして、彼女は【あの場】にいた女性の一人である。


 アンシュラオンがソブカと初めて出会った場所。あの執務室でサリータと大剣のお姉さん(ベ・ヴェル・ヘルティスというらしい)と一緒にいた女性である。

 年齢はサリータと同じくらい。ロイヤルブルーの鮮やかな長めの髪をサイドアップでまとめ、メガネをかけているせいか全体的に理知的に見える。

 顔立ちは、間違いなく美人。サリータと小百合の中間のような、クールさと可愛さが両立したような顔である。


(たしかソブカの秘書だったかな? 彼女だけは雇われじゃない構成員なんだっけ)


 この女性はサリータやベ・ヴェルとは違い、キブカ商会に属している本物の構成員の一人である。

 しかもソブカの秘書という立場なので側近中の側近なのだろ。あの男が傍に置くのだから、よほど信頼されているはずだ。


「………」


 追加で頼んだ料理が来るまで、その場では何の会話も発生しなかった。メガネの女性は静かに、ただ黙っている。


(うーん、これは性格の問題じゃない気がしてきたな。一応、確認してみるか…)


 あまり気乗りしないが、「その可能性」も考慮して訊いてみることにした。


「もしかして、オレって君に嫌われてる?」

「いえ、べつに。主人には、お力になるように言われておりますので」

「そういう言い方をされると気になるけどなぁ」


 公共の場なので、当然ながらソブカの名前は出さない。

 だが、その言い方ではっきりした。


(やっぱり嫌われてるな。『いや、べつに』とか言う人に好かれていることなんて、まずありえないし)


 「ねえ、そこの人」レベルにとっつきにくいパターンである。


(だが、なぜ嫌われているんだ? 何かやったかな? そりゃまあソブカ以外の連中は多少ボコったけど…それだけだよな?)


 アンシュラオンには嫌われる理由が思い当たらない。キブカ商会の構成員に多少怪我を負わせたが、それもまたソブカも納得していることのはずだ。

 それとも構成員としては割り切れない感情というものがあるのだろうか。


(ううむ、わからん。女性はよくわからない理由でいきなり感情的になるからな…。たぶんギリ年上くらいだし、魅了効果は発動してもおかしくないけど…効いている様子はないな。それともツンデレか? まあ、オレもそんなに好みってわけじゃないからいいけどさ)


 シャイナのようなお馬鹿ツンデレは可愛いが、クール系ツンデレはちょっと面倒である。ツンデレでなければ、ただのツンであり、そっちはもっと苦手である。

 クール系はすでにホロロという従順な美人を得ているので、さして目の前の女性に固執する必要はないと判断。

 さっさと話を進めることを優先する。


「それじゃ、話を進めようか。とりあえず名前くらいは訊いてもいいかな? 教えてくれないならメガネちゃんって呼ぶけど」

「ファレアスティ・ヘイムです」

「ファレアスティさんね。これからよろしく」

「…よろしくお願いいたします」


 渋々といった具合で頷く。


(気に入らないなぁ。こういう人はさっさと見てやろう)


 こっちが気を遣う理由もないので即座に情報公開を発動。

 相手に信頼関係を築く努力が見られないのだから仕方がない。他人との付き合い方系の本でも読ませてやりたいくらいだ。


―――――――――――――――――――――――
名前 :ファレアスティ・ヘイム

レベル:30/35
HP :330/330
BP :550/550

統率:E   体力: F
知力:C   精神: E
魔力:F   攻撃: E
魅力:C   防御: F
工作:C   命中: D
隠密:D   回避: D

【覚醒値】
戦士:0/0 剣士:1/2 術士:0/0

☆総合:第九階級 中鳴(ちゅうめい)級 剣士

異名:ソブカの秘書
種族:人間
属性:水
異能:沈着冷静、中級秘書、迅速事務処理、身代わり、報われぬ愛
―――――――――――――――――――――――


(偽名は使っていないようだ。使っていたら問題だけどね。ふーむ、HPの伸びはサリータより低いし、この人も実務系かな? キブカ商会が力を求める理由もわかるな)


 ファレアスティもどうやら実務系、文官系統であるらしい。知力と工作などがCと高めで、『中級秘書』スキルがあるので秘書としては優れていることがわかる。

 『秘書』スキルは単純に秘書としてのグレードが上がるもので、中級になればどんな相手にでも合わせることができる。

 ただ、その効果は自分の主人にしか適用されないので、アンシュラオンとの会話には影響しない。そっけないのは、これまた単に嫌われているだけだろう。


(武人としても最低限の力はあるか。スピードタイプかな、この人は)


 体力やパワーは壊滅的であるが、命中と回避がそれなりに高いので、分類としてはスピード型の剣士に該当するのだろう。

 こういうタイプはスピードで敵を掻き回したり、手数で圧倒することで短所を補う。若干暗殺者と被るが、あくまで剣王技を主体にして戦う点が特徴だ。

 強い武器を装備すれば攻撃力も上がるので、防御無視の技などが使えればなかなかの戦力になる。

 加えて『身代わり』スキルもあるので、ソブカの秘書をやりながら護衛をするくらいはできるだろう。


 そこまではいい。予想の範囲を超えていない。

 だが、最後に気になる単語を見つける。


(『報われぬ愛』ってなんだ? 恋でもしているのか? だから魅了効果が発動されないのかな?)


 今までの経験上、すべての人間に魅了が効くわけではないようだ。特に何かに意識が集中しているタイプには、効果があまり見られないことがある。

 たとえばサリータも最初は自分のことだけに集中していたが、それが解けたら突然アンシュラオンに向ける視線が熱くなってきた。

 シャイナも最初は自分の境遇に苦しんで余裕がなかったが、ホテルでの一件から甘えるようなそぶりが増えてきた。

 シャイナは年下なので魅了効果うんぬんは関係ないが、何かに囚われていると他者からの干渉を受けにくくなるようだ。簡単に言えば、視界に入っていないのだ。


(うーん、となると他に好きな人がいるとかって話だよな。しかし、直接訊くのものな…プライベートなことだし…)


「ねえ、誰かと付き合っているの?」


 だが、訊く。

 男たるもの、何物も恐れてはいけないのだ。気になったのだから仕方ない。




179話 「ソブカの秘書 中編」


「仕事とは関係ないと思います」


 当然、そういう答えになると思っていたが、そんなことで諦めるほど弱い心は持っていない。


「わかった。不倫でしょ? だから報われないんだね」

「違います。勝手に報われないと決め付けないでもらえますか。失礼ですよ」

「いやー、君の性格上、そんな気がしてさ」

「もっと失礼ですね」

「相手が金持ちのじいさんとか? 遺産目当てと疑われて門前払いとかされたの? もしくは、おっさん好きとかかな? わかった。相手が身体目当てで恋愛対象にはならないとかでしょう?」


 最悪の発想である。

 嫌がる女性に無理やり訊く姿は、セクハラそのものでしかない。


「仕事とは関係ないことに答える義務はありません」

「つれないなぁ。せっかくこっちが緊張をほぐしてあげようとしているのに」

「その必要はありません。あなたには関係ないことです」

「そうだけどさ、君は美人だからね。どうすればそんなクールビューティーになるのかなと考えてみたんだけど、女性が綺麗になるには【恋】が一番かなって思ったんだ。その秘訣を教えてもらおうと思ってね」

「恋などしません」

「それは嘘だね。恋はするものじゃない。落ちるものだから」


 恥ずかしいことを言ってしまったが後悔はしない!!

 ちなみにアンシュラオンは恋になど落ちたことはないので、単に一般論のパクリだ。


「もしかしてナンパですか?」

「そんなつもりは毛頭ないよ。だって君、オレに興味がないでしょ?」

「はい」

「だよねー」


 即答された。さすがにちょっと傷つく。


「では、嫌がらせですか」

「短絡的だなぁ。ちょっとした世間話だよ。秘書なら商談相手と談笑することもあるだろう?」

「私はしません」

「…そうなんだ。オレが言うのもなんだけど、愛想がいい方が得だよ?」

「おかまいなく」


(ソブカのやつ、大丈夫か? 人当たりって大事だよな。愛想が悪いだけで商談がまとまらないってこともあるだろうし…それともあいつの趣味かな? まさかのマゾってことはないだろうけど…逆か? いじって楽しんでいるのか?)


 仮にファレアスティが誰に対してもこうである場合、男女問わず多くの反感を買っている可能性がある。

 女性は愛嬌といわれるように、愛想のいい女性は可愛がられるものである。逆に愛想がないと嫌われる。誰だって人当たりのよい人間が好きなので、当たり前の現象だ。

 しかし、ソブカがそういった女性が好みという可能性もあるので、他人の趣味には口出ししないことにする。

 自分だってホロロやシャイナのことを言われたら嫌だろう。趣味は人それぞれである。


(相手に仲良くする気がないなら、それでいいや。こっちもビジネスライクのほうが気楽でいいし、万一この人が死んでも気にしないで済むしね)


 茶化しも済んだので、これ以上はつっこまないことにする。

 興味があったというよりは、なぜか嫌われていることに対しての意趣返しみたいな感じであった。



「じゃ、本当に仕事の話をしよう。それで、ファレアスティさんがいろいろ手伝ってくれるんでしょ?」

「はい。表立って動けないあなたのために、主に事務系のお手伝いをさせていただきます」

「それは助かるよ。この都市については、まだよくわからないことも多いしね」

「さっそくですが、【商会】を立ち上げるということでよろしいでしょうか?」

「そう、あっちの名義でね」


 あっちの名義=ホワイト。

 これも公共の場なので口に出すのを控える。


「事業内容はどういたしますか?」

「うーん、街の治安維持ってのはどう?」

「それだと領主軍と被ってしまいます。公にやるのは難しいかもしれません」

「あいつらがそんなに役立っているとは思えないんだけどな…それじゃ用心棒ってのは? 護衛でも何でもいいけど、傭兵以外でそういう業種はある?」

「護衛業はあります。ハングラス一派にも警備商会というものがあり、警備を生業にしています」

「なら、それでいいよ。どうせ書類上のことなんだし」

「では、護衛派遣業で登録しておきます。ただ、人材関係だとマングラス一派の査察が入る可能性がありますが…」

「マングラスか。いいね、むしろありがたい。ぜひ彼らとは接触しておきたいんだ。元締めはどんなやつか知っている?」

「グマシカ・マングラスでしょうか? かなり高齢と聞いておりますが…巷では優れた手腕と長命もあってか【妖怪ジジイ】と呼ばれております」

「マングラスは最大勢力でしょう? それを治めているんだから、それなりのやつだよね」

「かなりのやり手であることは間違いありません。もっとも危険な人物です」


 グマシカ・マングラス。

 マングラス本家としてグラス・ギースのマンパワーを一手に担っている男である。年齢はツーバより上であり軽く百歳を超えているが、いまだ現役で病気の噂は聞いたことがない。

 外見も独特で、長く垂れ下がった耳や、カエルのようにぎょろりとした目から【亜人】なのではないかと噂される男でもある。

 長命と容姿の不気味さから、世間一般では【妖怪ジジイ】と呼ばれており、当人もそれなりに気に入っているという。


「しかし、妖怪ねぇ。…ところで、このあたりの地方に亜人っているの?」


 この世界に亜人がいるの? と訊きたいところだが、ぼかして訊いてみる。

 今までまったく意識してこなかったが、グマシカの話でふと思い出したのだ。


(異世界には亜人がいてしかるべきだよな。それでこそファンタジーだし)


 特段ファンタジーを求めているわけではないが、地球にいない存在がいれば面白いに決まっている。

 魔獣だって初めて見たときは感動したものだ。その後は激しい殺し合いになってしまったが。


 して、その答えは―――


「私は見たことはありませんが、いるようですね」

「えっ!? いるの!?」

「はい。いるとは聞いております」

「ね、猫耳とかは?」

「はい?」

「い、いや、あのさ…こう女の子の頭の部分に魔獣の耳だけが生えているような感じの…あとは人間と変わらないみたいな。あっ、尻尾があってもいいんだ。むしろあったほうがいいかなって…」

「なぜ女性限定なのですか?」

「た、たまたまだよ。男でもいいんだけど…、そういうのって…いるの?」

「そういう種もいるとは聞いています。彼らは人間にはない特殊な能力を持っているようですが、一方で近代化は好まない傾向にあるようで、そのせいか人間の都市の近くにはあまりいません」

「そっか。いるだけでも御の字だよ。そういった種族ってスレイブにはいないの?」

「はい? …そういえばスレイブがお好きでしたね」


 ファレアスティの目が若干冷たいが、誰になんと言われようと気にするような男ではない。

 世の中、自分が楽しいものを追求するほうが面白いに決まっている。自分は自分、他人は他人だ。


「うん、まあね。スレイブを集めるのが趣味というか生き甲斐だから。で、いるのかな?」

「スレイブは基本的に人間を対象にしておりますので、亜人のスレイブというのはあまり聞きませんね。ただ、稀に見分けがつかない種族が交じっている場合もありますので、いないとは断言できません」

「ふむ、なるほどね…そういうこともあるのか…」


(もし紛れていれば、情報公開でわかるからいいか。でも、人間と大差なかったら意味がないんだよな。せめて耳は…耳だけはなんとかしたい)


 この世界には、亜人という存在がいる。

 ただし、それは西洋風ファンタジーに出てくるゴブリンやオークなどではない。猫耳やツノなど、基本的には人間に何かしらのブレンドがされたような種が多く【人間の亜種】といった意味合いが強い用語だ。

 亜人は女神が進めている星の進化とも関係が深い存在で、無限の因子の中から生まれた可能性の一つである。

 多くは人間とは生活圏が被らない奥地で暮らしているそうで、このあたりでは亜人自体をあまり見かけないという。


「もし亜人を見かけたらどうするの?」

「? 特に何もしませんが」

「捕まえたりしないの?」

「組織の運営に邪魔になる等の理由があれば別ですが、特には。…さきほどから不思議な質問ばかりされますね。どのような意味があるのですか?」

「そ、そうかな。オレが違う大陸から来た人間だからかな。文化の違いを確認しているんだよ」

「…なるほど。たしかにあなたのような人は、ここでは珍しいですね」


 その言葉に多少ながら悪い意味が込められているように思えたが、どうやら上手く誤魔化せたようだ。


(それにしても相変わらず人種とか種族に頓着がないんだな。それはそれでいいことなんだけどさ…。普通は見慣れないものを見たら意識するとは思うけど、ここでは違うんだな)


 訊いてみたところ、亜人に対する差別意識はまるでない。よく薄い本でありそうなオークとエルフの絡みなどは想像したこともないだろう。

 もともと人種の区別をしない世界である。魔獣に対しても脅威というだけで、それ以外の差別意識を持つことはないのである。

 そうでなければ、あれほど危険な裏スレイブなどという存在を許容したりはしないだろう。良くも悪くも大雑把なのである。


「なるほど…いるにはいるんだね。勉強になったよ。ありがとう」


 と、ファレアスティの視線を気にして一見冷静に答えたが、内心では相当盛り上がっていた。


(マジで!! いるの!? 超欲しい!!! シャイナも犬だと思っていたけど、外見で本当にそういう子がいるなら、ぜひ欲しい!! これはそのうち集めないとな!!)


 やはり異世界に来たのならば猫耳だろう。これは外せない。ぜひ手に入れたい。


(サナが猫耳だったら、きっとオレは悶絶死するよ。サナ猫ちゃん、超可愛い…)


 隣にいるサナに幻の猫耳を見て、独りで悶絶する。

 超絶な可愛さだ。今度猫耳バンドを作ろうと本気で思った。あと尻尾も。絶対に実現させねばならない偉大なる使命である。


 多少自分の中で盛り上がってしまったが、ようやく仕事の話に戻る。


「グマシカ・マングラス…か。その感じだと会ったことはないのかな? 君の主人も?」

「はい。主人も会ったことはないはずです。簡単に会えるような存在ではありません」

「君の主人くらいの立場なら会うくらいはできそうだけど…呼び出すことも無理かな?」

「まず無理です。派閥も違いますし、そもそもグラス・マンサー自体に会うのが難しいのです。同じ一派でもそうです。会議で本邸に赴くことはありますが、その一派の最高権力者と直接会うことができるのは序列上位の一握りです」

「そこにあいつは入っていない、か。豚君はラングラスに会っているようだけど?」

「彼は本家の血筋ですから自然なことです」


 グラス・マンサーには簡単に出会えない。領主に並ぶこの都市最大の地位にいる者たちなのだから、それも当然のことである。

 ラングラスでいえば、高齢ということもあるがツーバ自体はあまり表に出てこない。会議の際は息子のムーバが代理として取りまとめる。

 よって、直接会う機会はほとんどない。せいぜい新しい組織が盃を交わすときくらいだろう。

 だが、場所がわかれば強引に会いにいけばいい話だ。ビッグもいるし、ソイドファミリーを制圧すればラングラスのほうはなんとでもなる。マミーを人質にしたっていいのだ。それは問題ない。

 問題はマングラスのほうである。


「じゃあ、マングラスを殺すには、何かしらの手段でおびき出さないといけないかな」

「恐ろしく用心深い人物です。簡単なことでは出てこないでしょう。こちらでも所在を突き止められておりませんし、護衛の人間も都市内で最強クラスの武人です」

「護衛は問題ないよ。この都市の武人のレベルは、だいたい把握できているしね。そいつらって門番のお姉さんより強いの?」

「一人ひとりが互角だと思います」

「なるほど、なら楽勝だ。千人いても問題ないよ。たとえばそいつら全員とデアンカ・ギース、どっちが強い?」

「…デアンカ・ギースでしょう。あの悪獣には束になっても敵いません」

「ほらね。問題ないよ。あの程度の魔獣にてこずるようじゃ、たかが知れてるからね」


 マキは強い。それは間違いないだろう。だが、アンシュラオンはもっともっと遥かに強い。

 仮に最初から本気モードでいけば、マキが千人いても、さほど苦労なく突破できる自信がある。

 もし不意打ちなら、覇王流星掌で半数は排除できるに違いない。そのまま全滅もありえる。

 問題は特殊能力の類だが、今までの戦いの感覚では多少面倒臭いといった程度のものだ。

 デアンカ・ギースに勝てない程度の武人なら、いくらいても脅威ではない。火怨山の魔獣であれば、むしろデアンカ・ギースは彼らの餌となる存在でしかないからだ。




180話 「ソブカの秘書 後編」


「それより問題は、巣穴からどう出すかだよ。まあ、出るしかない状況に追い込めばいいんだけどね。仮に部下を全部殺せば、どのみち力を失うことになるだろうから…そっちでもいいかな。その過程で何かしらアクションを起こすだろうし」

「ところで、彼に恨みでも? そこまで固執する理由がわかりかねます」

「直接的な恨みはないよ。会ったこともないし。でも、邪魔だから処分する。さっきも言ったけど、オレはスレイブが好きだからね。その利潤を吸い取られていると思うと腹立たしいだろう?」

「では、乗っ取るのですか?」

「どうかな。あまり面倒なのは嫌いだからね。管理に関しては君の主人の力量次第じゃないかな。オレはスレイブを自由にできればそれでいいよ」

「こちらも忙しく、場合によっては都市の人の流れに問題が発生すると思われますが…」

「それならしょうがないよ。オレには関係ないし、必要なものが手に入るなら混乱もやむなし、かな」

「…そうですか」


 ファレアスティの顔に、明らかに不快の感情が浮かぶ。

 それを見逃すほどアンシュラオンは凡庸ではない。


「あれ? もしかして不満なの? 意外だな。君たちだって、もともとそういうつもりだったんでしょう?」

「主人が決めたことです。不満などあろうはずがありません」

「それって遠まわしに『自分は不満です』って言っているようなもんだけどね。言いたいことがあるなら言いなよ。怒らないからさ」


 男が言ったらキレることでも女性ならば我慢できるだろう。

 こういう冷淡な態度の女性と仲良くしたいとは思わないが、会うたびに不快な思いをするのも嫌である。

 不満があるのならば、ここではっきりさせておきたいものだ。


「………」

「どうしたの? 遠慮はいらないよ。言いにくいならオレから先に不満を言おうかな。オレは君みたいな態度の女性はあまり好きじゃないんだよね。女性は従順で可愛げのあるほうがいい。もちろん例外もあるけど、限度はあるよね」

「なるほど、予想通りに支配欲の強い人間のようですね」

「それをオレだけに言われてもね。世の中の男性の大半はそうだと思うよ」


 アンシュラオンに限ったことではなく、世の男性の大半に言えることである。

 男性は力を好み、元来支配欲が強いものである。存在そのものが力の象徴でもあるからだ。

 ただ、その中でもアンシュラオンは特にその傾向が強いというだけのことだ。そうでなければスレイブに固執はしないだろう。


「それとも君の主人は違うのかな? あいつとは似た者同士だと思ったけど、女性の趣味は違うのかもね」

「っ…」


 その言葉を聞いて、ファレアスティの表情が変わる。

 最初から冷淡な態度だったが、その目がより冷たいものになる。


「いい目をするじゃないか。さすがマフィアの女幹部ってところかな」


 その目は、ホロロがモヒカンに向ける目とも違う。もっと冷酷で鋭く、刃のようなものだ。

 伊達にマフィアにいるわけではない。彼女もまた激しい生存競争の中で生き抜いてきた女性である。成人男性でも、この視線には耐えられないだろう。


「でも、まだまだぬるいなぁ。はは、こそばゆいよ。なぁ、サナ?」

「…ぱくぱく、こくり」


 が、アンシュラオンには、その殺気に似た目がとても心地よい。

 戦罪者と比べれば、この程度の視線など子猫の肉球にも等しい柔らかさだ。

 それはサナも同様のようで、お子様ランチを食べながらも頷く。


 それを見て―――ファレアスティが警戒を強める。


「あなたは危険です」

「それが不満の原因なの? マフィアよりは安全な人間だと思っていたから…ちょっとショックだな」

「危険の種類が違います。あなたは破壊することを厭わない。おそらく都市を破壊してもいいとさえ思っている。それで誰が何人死んでも、きっと何も感じない。むしろその様子を楽しむかもしれない」

「ふーん、そういう危険か。そうだね。その通りかもしれないね。オレもさっき豚君の修練に付き合ってやって気が付いたんだけど、倫理観が壊れているのは確実みたいだよ。でもしょうがないよな。こういう人間なんだからさ」


 マフィアは暴力団体であり、あくまで社会の枠組みの中にあるものだ。利益を求めるために住民を傷つけることもあるが、社会そのものを破壊することはない。

 だが、アンシュラオンは違う。

 そんな社会すら、さして必要としていない。枠組みの外から枠組み自体を破壊する存在になりえる。

 そして、それを楽しんでもいる。それがファレアスティには危険に映るのだ。


「でも、それを言うなら君の主人だって危険な男のように見えたけどね。あまり言いたくないけど、オレとあいつは似ているよ。君が言う危険という意味でもね」

「だからです。あなたは主人を刺激してしまった。あなたがいなければ…このようなリスクを負うこともなかったのです。彼はこの都市を心から愛しているのです。この都市に愛着も何もない、よそ者のあなたがどうこうしていい人間ではありません」

「なるほど。それが君の不満か。ただ、それもお門違いな発言だね。あいつが危険なタイプの人間なのはオレのせいじゃないし、今回のことを決めたのもあいつだ。自分で選んで自分で責任を取る。それが生きるってことだ。もちろん巻き込まれた君には同情するけどね」

「巻き込まれてはおりません。自分の意思で決めたことです!!」

「へぇ、そういう感情も出せるんだね」

「っ…」

「照れる必要はないよ。それもまた君を構成する要素の一つだ」


 ファレアスティが初めて感情を見せた。それが怒りでもなんでも、冷淡と嫌悪以外に初めて見せたものである。

 感情が多いほうが人間味が出る。多くても嫌だが少なすぎても嫌なものだ。


「君ってさ、あいつの何なの?」

「秘書です」

「それだけ?」

「それだけです。ご不満ですか?」

「不満ではないけれど…不足かな。君がオレに突っかかる理由としてはね」

「これ以上、この件についてお話しすることはありません」

「あっ、そう」


(わかりやすいなぁ。それだと肯定しているだけなんだけど。感情を消すこと自体が逆に不利になるんだよな。サナとは大違いだ)


 ファレアスティがソブカに特別な感情を抱いているのは間違いない。

 それは問題ない。個人の自由である。

 ただし、彼女自身に隙があるのはいただけないことだ。感情があるのに無いふりをするのは、あまりよいことではない。

 サナのように本当に意思の発露が乏しいのとは、まったく意味合いが違ってくるからだ。それはいつしか大きな代償としてのしかかってきそうで不安になる。


「ねぇ、確認したいんだけど、そっちの組織は今回のことに全員が納得しているの? あとで裏切られると困るんだけど」

「すべての人間が賛同しているかはわかりません」

「出たよ。あいつの悪い癖だ。不確定なことで楽しむのはギャンブル依存症って言うんだよ。オレもこの前、痛い目に遭ったからね」


 サリータの件である。あれは明らかにソブカの悪ふざけが原因だ。

 彼は自分の運を天に任せるような態度を取ることがある。部下の能力について問いただした時も、各人のやり方に任せるような言い方をしていた。

 これすなわち「もし部下に見放されたのならば受け入れる」という境地にあり、能力がある人間、特に乱世の英傑たちに多いタイプだ。

 アンシュラオンとしては裏スレイブたちにやったように絶対統制派なので、ソブカの行動はすべてが危うく見えてしょうがない。

 だが、能力はある。彼の代役は存在しない。そのリスクも受け入れるしかないだろう。


「まあ、それはいいよ。どうせ治らない病気だしね。でも、そっちが一枚岩じゃないのは困るな」

「その点に関しては問題ありません。現状の序列システムに納得していない者が大半なのは間違いありません」

「実力が評価されないってのはおかしいからね。誰もがそう考えてくれればいいけど…」

「まだご不満ですか?」

「結果は変わらない。オレが関わった以上、この戦いは必ず勝つ。勝たない戦いに価値はないからね。ただ、心配なだけだよ。君たちはオレと違って弱いからさ。ちょっとしたことで全滅しかねない」

「それは認めます。我々は武闘派ではありませんから」

「なんならうちの連中を貸そうか? なかなか使えるよ」

「そのような危ないものはお断りいたします」

「危ないからいいのに。わかってないなぁ」

「統率の取れない人間がいると逆に我々の強みを消すことになります。たしかに我々は武力の面では弱いですが、強さにもいろいろな側面があります。こちらはあなたにはできない方向から動きます」

「それは納得だね。君たちには君たちの戦い方がある。それには期待しているよ」


(あいつなら裏スレイブも手懐けられそうだけど…たしかに信用できないからな。普通の人間には扱えないか)


 面接の場でいきなり襲いかかるような連中である。ソブカでも対応は難しいだろう。

 それ以前に、キブカ商会は案外まとまっているようである。もっと動揺すると思っていたが、ファレアスティの様子を見る限りは心配はいらないようだ。

 それもソブカの魅力ゆえだろう。彼はリーダーの資質がある。ラングラスの統治者になれば、上手く組織を運営できるに違いない。

 アンシュラオンとソブカが同じ存在だったのならば、わざわざ手を組む必要がない。違う形だからハマるのである。互いに短所を補い合えばいいだけだ。


「これでお互いに不満は言い合ったから、打ち解けてくれる?」

「それとこれとは別です」

「あっ、そう…。頑固だね」

「それより事務所はどうされますか。こちらで手配することもできますが?」

「うーん、作戦の都合もあるし、こっちの伝手で建てるよ。ちょうど大工に知り合いもいるしね。ところで建物って勝手に建てていいのかな?」

「普通はディングラスの不動産屋を通さないといけないはずです」

「診察所は何も言われなかったけど?」

「上級街は土地が余っているので最初は気づかなかったのかもしれません。土地のやり取りの大半は第二城壁内部ですし。ですが、それ以後は間違いなく組織側からの通達で黙認していたと思います」

「なら、土地もそこでいいや。どうせ後で壊すし、上級街の診察所の近くなら場所も余っているからね。もし文句を言われたら話し合いで片をつけるよ」

「話し合い…ですか。こちらとしては手間が省けるのでかまいませんが」

「足りないのは武器類かな。商会なら銃を買えるんだよね?」

「はい。しかし、都市内部で買うと動きが露見する可能性があります。事が露見するまでは、武器類は外から仕入れます」

「いいね。さすが商人だ。オレの要望はそんなところだね。情報や物資は随時もらうとして…そっちの【リスト】は出来たの?」

「はい。こちらが対象となります」


 ファレアスティがリストを渡してきた。

 そこには、さまざまな商会の名前が書かれている。どれもこの都市のライフラインを握るような大きな商会だ。

 特に食糧を担当する【ジングラス】の名前が多く挙がっている。


「へぇ、あいつも相当やる気だ。こんなにやっていいの? そっちにかなりの敵意が向くけど? 耐えられる?」

「自衛力は高めておく予定です。あなたとは違う方法で強化することもできますから」

「強い武具や術具でってことかな?」

「はい。それと…薬で強化することもできます」

「なるほど、ドーピングね。それはいい手だ」


 アンシュラオンはドーピングに肯定的である。

 強くなるためなら何だってやるべきだ。弱いままでいるよりは遥かに素晴らしい。力がなくて死ぬのならば、生き残るために犠牲を払ってでも強くなるべきである。


「でも、まだまだ心配だなぁ」

「あなたも他の方々が心配ではないのですか? いろいろと身内が増えているようですが」

「それを言われると痛いな。サリータだけじゃ危ないよね、やっぱり」

「サリータは…ご迷惑をおかけしていますか?」

「ん? 友達だったの?」

「いえ、契約時とあの日だけの付き合いです。ただ、不器用な女性ですから」

「そうだね。苦労はしているよ。ただ、見込みがないやつほど鍛え甲斐がある。一度自分のものにした以上、途中で見捨てることは絶対にしない。君たちについても、それだけは約束できる。だから安心しなよ。いない場所ではどうしようもないけど、目の前にいたら助けるからさ」

「その際は、よろしくお願いします」

「準備ができたら順次仕掛ける。後処理は任せるからね」

「わかりました。では、私はこれで。また連絡要員を遣わします」

「うん、またね」

「会計はこれで…」


 ファレアスティが万札を出す。

 が、それを手で抑える。


「いいよ、べつに。こっちで払うさ。金なんて、これからいくらでも入るんだしね」

「…わかりました。では」


 ファレアスティは何事もなかったように帰っていく。

 だが、これでお互いに後には引けなくなった。その証拠に、彼女の背中からは哀愁にも似た緊張感が滲んでいた。

 彼女やソブカが犠牲になるかもしれない戦いなのだ。緊張するのは当然だろう。



 それを見て―――アンシュラオンが笑う。



「サナ、楽しくなってきたなぁ。これからまたお兄ちゃんが面白いものを見せてやるからな。お前も女優としてデビューするんだぞ。楽しみだろう?」

「…こくり」

「そうかそうか。オレも楽しみだよ」


(今度は何を学ぶのかなぁ。冷淡さかな? それともずる賢さかな? それが何であれ、サナの栄養になるなら大歓迎さ。なぁ、ソブカ。お前も楽しめよ。オレとお前で盛大に花火を上げてやろうぜ)


 そして、ついに裏社会の権力をかけた戦いが始まるのであった。





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