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「欠番覇王の異世界スレイブサーガ」

作者  園島義船



□ 第三章 「裏社会抗争」 編 第一幕 『始動』


164話 ー 173話




164話 「賦気の弱点と野宿」


 ドッゴーンッ


 ヤドイガニが、爆発とともにバラバラになる。

 セールスポイントの頑強な岩も完全に破壊されて無残な姿を晒していた。


「悪くない威力だな。大納魔射津は使えそうだ」


 再び出会ったので、今度は大納魔射津の実験を行ってみた。

 まずは、昨晩補充しておいた六つのジュエルを専用のカプセルに入れる。カプセルには上部にスイッチのようなものが付いており、押すことでジュエルを起動状態にする。

 起動させたら五秒後に爆発するため、それまでに投げるか設置すればいい。

 うっかりスイッチを押す可能性もあるが、それなりに強く押し込まねばならないし、危ないと思ったらカプセルからジュエルを出せばいい。

 カプセルが信管の役割を果たすから両者が重ならない限りは爆発しない。そこで安全性が確保されているわけだ。


 次に威力測定である。


 まず最初にヤドイガニの足元に投げてみたら、あれだけの重量が思いきり吹っ飛んで宙に浮いたので、なかなかの威力があると思われる。

 さらに次は本体の隙間から岩の中に投げ込んでやったら、今見た通りにバラバラになったというわけだ。

 この爆破も術式と同じなので防御無視であり、平均して200〜300のダメージを与えるようだ。場所によっては、今見たように即死の可能性も出てくる。

 範囲もそこそこ広く、敵が密集しているところに投げれば非常に効果的な武器となるだろう。


「これで試したいことはだいたい終わったな。クロスボウと術符、大納魔射津を試して、賦気も…」

「…ふらふら…がくっ」


 と、アンシュラオンが確認していると、サナが急にぐらぐらして―――ぽとりと倒れた。


「おっと」


 予兆があったので楽々アンシュラオンが抱き止める。

 しかし、サナはぐったりとしていて動かない。


「さ、サナ様!! いったい何が!!!」


 それを見てサリータがパニックになる。自分が守るべき対象がいきなり倒れたのだから当然だろう。

 だが、意外にもアンシュラオンは動じていなかった。これが何か知っているからだ。


「うむ、こんなものか。案外長くもったほうかな」

「し、師匠、これは…? サナ様に何が起こったのですか!?」

「心配するな。これは賦気の後遺症だ。サナの身体に限界が来たんだろう」

「後遺症…? 何か悪いものが残ってしまうのですか?」

「言い方が悪かったな。オレとサナの気質は相性がいいから、悪い意味での後遺症はない。そうだな…【筋肉痛】みたいなものだ」


 賦気は他人の生体磁気を使ううえに、許容量をオーバーするドーピングである。

 普通の薬剤でもドーピングにはマイナス面が伴う以上、賦気にもマイナス要素があってしかるべきだろう。

 サナが驚異的な身体能力を発揮した代償に、彼女の身体には限界ギリギリまで負担がかかっており、いわゆる筋肉痛のような状況になっているのだ。

 筋肉はもちろん、生体磁気を発するための各種器官、細胞、場合によっては幽体や精神体までオーバーヒート状態になる。


 そうなれば、倒れるしかない。


 身体が休息を求めて眠りに入るのだ。

 これはアンシュラオンも想定していたことなので驚かない。ただ、大切なサナがこうなると多少は心苦しいものである。


「サナはしばらく起きないだろうから、少し早いが今日はもう野営だな。今後の話もあるしな」

「わ、わかりました。ご無事でよかったです…ふぅ…」


(サリータも少し疲れが溜まっているし、ちょうどよかったな。今の未熟な二人にはこれくらいが限度だろう)


 ここに来るまでに何度か戦闘もしたので、サリータも少しは戦いに慣れてきたようである。

 だが、彼女にとってはすべてが決死の戦いだ。見た目は大丈夫でも心の中にはストレスを抱えているに違いない。

 人間、結局はバランスを取るように出来ているのだ。サナが賦気によって強化されたら最後はこうして眠るように、最終的には平均値に収まるようになっている。

 いわゆる振り子の法則である。振り子は必ず元の位置に戻るようになっているのだ。






 火が暮れ、夜になる。


 パチパチパチ ボォッ


 アンシュラオンが焚き火に燃料薪を入れると、一気に火が燃え広がる。

 この燃料薪はグラス・ギースで買ったものだ。何があるかわからないのでキャンプ用品を一式買っておいたのだ。

 燃料薪は、普通の木材と家畜の糞を混ぜ合わせた物の表面を樹液か何かでコーティングしたものらしく、かなり安価で売られている。

 北に大森林が広がっているので木材の確保は案外容易だ。奥地に行かなければたいした魔獣も出ないので、北側の村々は木材を輸出して生計を立てているようだ。

 そこにシーバンから奪った毛布類も投入し、火はさらに勢いよく燃え上がる。


「もうすぐできるからな」


 アンシュラオンがフライパンを使って料理をしていた。

 さして具材を仕入れていたわけではないので、簡単に作れるチャーハンにしてみた。


(ポケット倉庫は食材なら入るんだよな。不思議な仕組みだな)


 料理は入らないのだが、野菜という単品ならば入れることができる。米も同じで、調理していない状態ならば入るのだ。このあたりに疑問を感じないでもないが【認識】の問題だと思われる

 世界のすべては認識によって生まれる。それがそうであると観測した瞬間に、初めて実体を帯びるのだ。

 実に不思議なことだが、未来が現実になる瞬間も同じようなものである。自分の強い意思が世界を具現化するのだ。


 よく「思考は現実化する」といった題材の本があるが、半分正しくて半分は補足が必要となる。

 たしかに思考は現実化するが、思考は環境条件の制約を受ける。その人間が生きている世界の物的法則の制限を受けるのだ。

 だから、その星の環境によっては現実化、実体化の段階やアプローチが異なることになる。

 地球は実に鈍重な星であり、より物質的な側面が多かったので、思っただけでは簡単には物事は現実化しない。現実化させるには、やはり物的な活動を伴うことになる。

 だが、より精神的な世界、物質が軽妙な世界に行けば意思が具現化しやすくなるので、この世界のように戦気という精神エネルギーを操ることもできるようになる。

 ただそれも、やはり環境条件の制約を受けている。

 ポケット倉庫が管理できるのは、あくまで情報が少ない状態の物質に限られるのだろう。復元しやすいもの、観測しやすいもの、というべきだろうか。

 料理という複雑なものは難しく、食材という構成要素が単純なものが格納できるのが、その一つの根拠でもある。

 生きているものは駄目で、すでに死んで素材となったものはOKというところも、それならば納得できる。


 と、チャーハンを作りながらそんなことを考えるのは、アンシュラオンが理屈で物事を把握しているからだ。

 こんなことをサリータに言っても彼女は理解できないだろう。が、それでいながら結果は変わらないのだ。

 それもまた物的環境によって、周囲の場と物質が固定化されているからにほかならない。両者が意思だけでは変化しづらい環境にいることを示している。

 ここはそういう世界。

 意識せずとも他者を認識できる世界なのだ。当たり前に思えるが、実はこちらのほうが珍しい世界である。


「よし、出来たぞ」

「…こくり。がちゃ、ぱくぱく」


 皿にチャーハンを盛り付けると、サナがパクパク食べ始めた。

 さきほど料理を作り始めたあたりに目が覚めたのだ。まだ動きは鈍いが、体力を回復させるために食欲は旺盛らしい。

 いつもホテルの料理ばかり食べさせているので少し心配したが、サナにとっては何でも美味しい食べ物のようで、一生懸命口に掻き込んでいる。


(普通は贅沢になるもんだけど…サナは変わらないな。ワガママになるよりはいいかな)


 イタ嬢がよい例で、甘やかすと人は弱くなってしまう。

 アンシュラオンが金を求めるのもサナを含めた女性のためであるが、こうして考えると大きな金は危険であることがわかる。

 金持ちの多くが堕落し、弱くなる。物がありすぎるのも問題なのだ。生物として弱くなり、簡単に駆逐されるようになってしまうからだ。

 だが、すべては扱い方である。それを知っているアンシュラオンは失敗はしない。それだけの経験があるからだ。


「サリータも食べてみろ」

「は、はい。…あっ、美味しいです!」

「料理は嫌いじゃないからな。かといって好きでもないけど」


 今までは姉への奉仕だったので義務としてやっていたが、できることならばやりたくない。面倒くさいからだ。


「そのうち料理人でも雇うか…。人数も増えてきたし、子供もいるんだ。成長期の栄養管理はしっかりしないといけないだろうし」

「あの、師匠…質問してもいいですか?」

「ん? なんだ?」

「師匠は何のために強くなったんですか?」

「不思議なことを訊くもんだな。今までの戦いを見てわかっただろう。生き残るためだよ。誰かに蹂躙されないためだ。お前も世界の現実を見たはずだ。弱ければあのハンターたちのように死ぬだけだからな」

「そうですね…その通りです。自分は何も考えていなかったと思い知りました。なさけないです」

「弱いやつがいちいち面倒なことを考えなくていいんだ。生き残るために、ただひたすらに強くなることを目指せばいい。死んだら終わりだ。考えるのは強くなってからでも遅くはないさ。それに強くなれる可能性があるのならば、それを突き詰めるのが武人の義務というものだ。とまあ、これは全部師匠の受け売りだけどね。オレも同意見だよ」

「なるほど…たしかに。ところで師匠の師匠は、どのような人なのでしょうか?」

「ハゲのじいさんだよ。よくエロ本を読んでた」

「そ、そうですか…」


 ハゲでエロでジジイ。アンシュラオンが師に対して思うことは、たったそれだけである。


「ただ、強かったよ。間違いなくオレより強い。全力で戦っても勝てる気はしないな」

「師匠よりもですか!? 信じられません!」

「まあ、覇王らしいからね。強くなかったら他に取り柄がないじゃん。世が世なら姥(うば)捨て山に捨てられるようなジジイだし」

「覇王…!? もしや地上最強の覇王様ですか?」

「あんなジジイに様なんていらないって。ただのニートだから。で、有名なの? あのじいさんが? ただのジジイだよ?」

「自分もよくは知りませんが、世の中には【覇王】、【剣王】、【魔王】の三大権威があるらしく、その中のお一人ならば…もう雲の上の御方です!! すごいことです!」

「たしかに雲の上にいたなぁ。火怨山の頂上って雲の上だし」


 師匠への敬意がゼロ。


「覇王だろうがなんだろうが、それだけのことだよ。強いから好きに生きているんだろうしね。オレもそこそこ強いから、今じゃ好きに生きているし。逆に訊くけど、サリータは何のために強くなろうと思うの?」

「それは…ただ……守りたいと思っただけです」

「マキさんみたいなことを言うね。何を守るの?」

「わかりません。ただずっと何かを守らないといけないと思って生きてきました。物心ついた頃から、それが頭から離れなくて…だから護衛を始めて、盾を選んだんです」

「へー、不思議だね。なるほど、そういう理由があるのか」

「変ですよね…こんなこと」

「そうでもないよ。男が言うなら間違いなく下心があるんだろうけど、女性が言うならいいんじゃないの? 女性はもともとそういうものだろうし」


 男はいつだって壊すことを考えるが、女性は生活を守ろうとするものだ。それもまた傾向性の違いであろう。


「ですが、それがずっと見つからなくて生きてきました。だから身が入らなかったんだと思います」

「その言い方だと、今は違うのかな?」

「今は…師匠に出会う前と後では…違うと思います」

「きっかけや気付きなんて一瞬だからね。ある日突然、変わることがある。それが今だったにすぎないさ」

「…師匠は女性には優しいのですね」

「そうだよ。女性が好きだからね。男も強いやつは好きだよ。うだうだしたやつは大嫌いだけど。あと、弱いのに吠えるやつとか」

「はっきりしていて自分は好きです!」

「オレはべつに誰かに好かれようと思ってこの性格になったわけじゃないけどね」

「それでも好きです!」


 素直に好意を向けられるのは嬉しいものだ。それが魅力や魅了の効果であっても。

 それもまた力であり資質だ。遠慮せず使うべきものである。引け目を感じるほうがおかしい。


(うむ、もう完全に大丈夫そうだな。これで駄目だったら諦めもつく)


 アンシュラオンはサリータを完全に信用することにする。

 仮にこれで何かあったら、それこそ自分の責任だと割り切れるほどには、彼女のことを信頼できるようになったということだ。

 だから仕事を任せる。


「グラス・ギースに戻ったら、セノアとラノアという二人の姉妹を護衛してもらう。それとオレのメイドであるホロロって女性をね」

「任せてくださるのですか!?」

「君はそれだけのがんばりを見せたよ。実力は道具で埋めればいい。大切なのは心。忠誠心であり犠牲的な献身だ。十分合格だ」

「あ、ありがとうございます! がんばります!」

「最初は安全だろうが、事が進んだらいろいろと大変になる。一応覚悟はしておいてくれ」

「はい!」

「…ふらふら」

「ん? サナはもう眠いみたいだな」


 サナが揺れている。眠いのだろう。

 食べたらすぐ寝る。誰かに怒られそうだが、サナは常に正直だ。


「ほら、おいで」

「…こくり」

「ちゃんと命気で歯を磨いて…と」

「…すー、すー」


 サナがアンシュラオンの手の中にうずくまり、歯が磨き終わる頃にはそのまま寝息を立ててしまった。

 ベッドだろうが大地だろうが、どこででも寝ることができるのは彼女の特技かもしれない。


「それじゃ、サリータも一緒に寝ようか。疲れているだろう?」

「じ、自分もですか!?」

「お前も身内になったんだ。なんら問題はないさ」

「そ、そうですね。で、では、失礼します」


 サリータも、いそいそと近くに寄ってくる。こういうときにシャイナみたいにいちいち騒がないのも楽でいい。



 周囲を最低限の戦気で多い、虫や外敵が入らないようにしてから三人で就寝。


「すー、すー」


 しばらくするとサリータからも寝息が聴こえてきた。昼間の戦いで精神的にも疲れたようだ。


「おいおい、安心しすぎだろう。武人たるもの、寝ているときも周囲を警戒…って、普通は無理みたいだな。これが普通か。弱々しいものだよ」


 もしここで魔獣に襲われたら、二人だけならば確実に死んでいるだろう。人間なんて、その程度の生き物だ。

 だから守ってやらなければ死ぬ。サナは当然、自分が手に入れた者たちも同じである。


「オレが背負える範囲なら…それもいいか。この子たちには住みづらい世の中みたいだしな。オレが好きにできる範囲なら…な」


 二人が一緒に寝ている姿は、なんとも微笑ましい。

 普通は姫のワガママに振り回される従者なのだろうが、頼りない従者を助ける姫にも見えて、思わず笑いそうになる。それなりにいいコンビなのかもしれない。


「二人とも、おやすみ。また明日から忙しくなるからな…ゆっくり休んでおくんだぞ」


 子供を見守る親の気分で、その日はアンシュラオンも眠りに入った。




165話 「集まった戦罪者たち 前編」


 夜が明け、日が昇る。


「名残惜しいが、そろそろ戻るとするか」


 荒野の清々しい朝日に後ろ髪を引かれるが、計画の都合もあるのでグラス・ギースに戻らねばならない。

 これから再び人間同士の醜い争いが始まる。それはもっともっと激しくなっていくだろう。

 その前にこうしてリフレッシュができたのは喜ばしいことである。




 サナはまだ疲労状態なのでアンシュラオンがおぶることにして、サリータのペースで走って戻る。

 これから仕事を任せるサリータが消耗しても問題なので、出会った魔獣はアンシュラオンが排除しながら、昼前には南門に到着することができた。


 そこから目立たないように馬車に乗り、東門に到着。


「マキさん、ただいま!!」

「あっ、アンシュラオン君! お帰りなさい!!」


 恒例のハグをして、マキさんの胸を堪能する。

 やはりマキの胸は逸品だ。申し訳ないがサリータでは勝ち目がない。彼女には彼女の良い面があるので、これも各人の個性と役割であるが。


「もっと一緒にいたいけど、いろいろとやることがあるから…またね」

「うん…またね。会いたくなったら呼んでね。いつでも行くからね」

「東門の警備はいいの?」

「大丈夫よ。あそこの連中に死んでも守らせるから」

「ひぃっ」


 その言葉に衛士たちが青くなる。

 彼らが弱いのかマキの能力が突出しているのかは謎だが、彼らだけでは東門を守るのは難しそうだ。

 実際に何かあれば、まさに身を挺して守るしかなくなるだろう。


(マキさんって案外、惚れると見境がなくなるタイプかもしれないな)


 アンシュラオンが選ぶお姉さんは処女限定なので、男性と付き合った経験がない女性ばかりである。

 そういった女性はやはりのめり込んでしまうのか、一度魅了されるともう他はどうでもよくなるらしい。

 三十路前の女性に対し、結婚という言葉の効果は実に絶大である。


「それじゃサリータさん、アンシュラオン君とサナちゃんをよろしくね」

「はい! マキ様!」

「ま、マキ様は…ちょっと恥ずかしいわね。でも、アンシュラオン君のおよ、お嫁さんになるんだから、それもしょうがないのかしら。ああ、私ってほんと幸せ者なのね! はぁはぁ、くねくね」


(サリータとマキさんは大丈夫そうだな。上下関係さえできればサリータは安定するしな)




 そして、東門を抜けて一般街に入る。

 東門では、マキの計らいでサリータも素通りである。リングを付けられることもなかった。


「そうそう、これを渡しておこう」


 サリータに白い「がま口財布」を渡す。ポケット倉庫である。

 すでに自分の私物は赤いポケット倉庫大に移したので、一つ余っていたものだ。こうして離れる以上、渡しておいたほうがいいだろう。


「これはたしか…師匠が使っていた…」

「ポケット倉庫だ。いろいろなものが入るようになっている。ハンマーやら斧やら、盾以外のかさばる武具はここに入れておけ。それとお前には余った術符と爆破カプセルを渡しておく。術符はいいが、カプセルは危ないからポケット倉庫に入れておけよ」

「爆破というと…昨日のですか!? じ、自分に使えるでしょうか?」


 サリータのHPでは、間違って自分のところで爆発したら瀕死あるいは死亡である。

 だが、逆に言えばそれだけ強力な武器ともいえる。


「弱いんだから、これくらい持っていないと心配になる。遠慮なく使え」

「は、はぁ…そうですね。弱いですしね…自分」

「もっと自信を持て。可愛いんだから」

「か、可愛い!? そ、それは強さとは関係ないのでは…?」

「オレのものなんだから、そこは重要な要素だ。と、それはいいとしても、常に堂々としていろ、ということだ。なめられたら終わりだぞ。そういう弱々しい気質は相手も見抜いて、いろいろと圧力をかけてくるからな。まずは悟られないように自身満々に振る舞うことを覚えろ」

「は、はい! 肝に銘じます!」


 びしっと背筋を伸ばして、ガチガチになりながら受け取る。

 ただ、もともと凛々しい顔立ちなので、黙っていればクールな印象を与えることができる。あとは自信が伴うかどうかだろう。


「では、指示を与える。お前はこれから上級街のホテルに向ってもらう。ホテル・グラスハイランドという高級ホテルで、ホロロというオレのメイドに会うんだ。南門で早馬で手紙を送ったから、話は通っているはずだ。あとはその人に任せればいい」

「はい。その方々をお守りすればよいのですね?」

「そうだ。はっきり言って三人は戦闘力がゼロだ。お前より遥かに弱い一般人だ。だから盾になって守るんだ。いいか、三人とも貴重な人材だ。万一の場合は自分を犠牲にしてでも守れ」

「わかりました! お任せください!」

「だが、何度も言うが進んで死ねという意味ではないぞ。自分のこともできる限り守るんだ。せっかく身内になったんだ。簡単に死なれると嫌だからな。お前が死ぬくらいならば他人を犠牲にして生き延びろ。他人はいくら犠牲にしてもいいから絶対に三人と自分自身を守れ。わかったな」

「はい! ありがとうございます!」

「西門の衛士には、この身分証を見せればいい。詳細はホロロさんに聞け。彼女の命令はオレの命令だと思えよ。では、行け」

「はっ!」


 意気揚々と行ってしまった。命令をよく聞く番犬を飼った気分だ。


(シャイナみたいな愛玩犬よりは使えるな。オレは小型犬より番犬として使える大型犬のほうが好きだしな。さて、オレはオレのほうの計画を進めるか)


 サリータはホロロに任せておけば問題ないだろう。ある程度しつけが済んでいるので、聡明な彼女ならば上手く使いこなせるはずだ。





 ガチャッ


「戻ったぞ」

「あっ、旦那! ちょうどよかったっす。裏スレイブがあらかた集まったっす」


 スレイブ館に戻るとモヒカンが出迎えた。どうやら裏スレイブが集まったようだ。

 そもそもこれが目的で戻ったので、すべては順調である。


「そうか。では、審査といくか。どこにいる?」

「物が物なんで違う場所にいるっす。案内するっす」


 ガラガラガラ


 モヒカンが裏から馬車を出してくる。

 これはビッグをホテルに運んだ際にも使ったスレイブ館専用の馬車で、館の傭兵が御者をやっているものだ。


(さて、ようやくか。多少時間はかかったが計画通りに進んでいるようだな。あとは裏スレイブの質だが…こればかりは会ってみないとわからないか)


「出せ」

「了解っす」


 アンシュラオンとサナ、モヒカンの三人が馬車に乗り込むと、ゆっくりと動き出した。



 ガタゴト ガタゴト



 馬車はスレイブ館がある表通りにある曲がり角に入り、南に向かう。


「どこに向かっている?」

「下級街の裏側っすね。そこに『裏スレイブ商会』があるっす」

「裏側…か。そういえば一度行ったことがあるな。…あまりいい思い出ではないが」


 初めて街に来た時、スレイブ館を探して下級街の裏道に入り込んだことがあるが、お姉さんたちに襲われて大変な目に遭った記憶がある。

 あれ以来、アンシュラオンは極力近寄らないようにしてきたので、そのあたりの地理は詳しくなかった。


 モヒカンの話では下級街は三階層に分かれており、各種店舗が集まっている上層部と、下級市民の住宅がある中層部、それから今向かっている【下層部】があるという。


 地図で見ると第二城壁に沿った側、色が濃くなっているエリアが下層部に該当する。明るい色の部分が中層部を含めた上層である。

 下級街は名前の通り下級市民たちが暮らす街を示すのだが、市民権を持っている段階で彼らはその中でも上位者となる。

 中層部以上に住んでいるのは、そうした市民権を持っている者たちである。


 では、下層部に住んでいるのは誰かといえば、【それ以外の者】たちだ。


 市民証を持っていないと商売を始めるのも難しく、物件を借りることも困難になる。信頼も得られない。

 となると、初めてこの都市に来た人間などは行き場がない。金がなければ市民証は買えないし、宿に泊まり続けることもできない。


 そうした人間が選ぶ道は、二つある。


 一つはスレイブになること。モヒカンのスレイブ館に登録される人間の大半が、こうした市民証の無い下層部の住人たちだ。

 スレイブになれば安全は確保されるので、セノアのように甘んじて受け入れる者は少なくない。彼女も「スレイブになれば衣食住には困らない。襲われることもない」という誘い文句で、仕方なくスレイブになったのだ。

 妹を探す前に自分が襲われては意味がない。市民証の有る無しにかかわらず、都市内部でも絶対に安全ではないのだ。


 もう一つは、多少危険ながらも隠れながら下層部に住むことだ。ここに勝手に住み着くという選択肢である。

 不法滞在ともいえるが、グラス・ギースでは細かい人口調査をしているわけではないので、犯罪行為に走らなければ追い出されることはない。

 こうなると人口過多になる可能性が考慮されるが、同じように出て行く者も多いので、総人口自体は大きく増えることはない。

 こちらはシャイナがそれに該当する。

 彼女はもともと下層部に住んでいた者であり、そうした人間が労働者として各商会の働き手になるわけだ。扱いとしては外国人労働者のようなものである。

 ニャンプルたちのような若い女性は、上手くやればそこそこ安定した生活を送れるものの、実際のところは苦しい生活を送っている者が大半である。

 男が働くとなれば誰もが嫌がる肉体労働ばかりだし、日当もあまり良くはない。

 となればスレイブになったほうが成功する確率は高い。サナやロゼ姉妹のように一発逆転玉の輿もありえるわけだ。


 領主が彼ら貧困者に対して特別な救済や援助をしないのは、それ自体が楽な商売だからだ。

 つまりは、住んでもいいけど勝手にしろ。悪事をしたら捕まえるか外に放り出すが、それ以外なら好きにしていい、というスタンスである。

 住める人間は住むし、駄目そうな人間は外に出て行く。生きている限りは消費を行わなければならず、何もしなくても経済は最低限回っていく。

 流入する側も、南のごたごたや魔獣被害などによって致し方なく流れてくる者も多いので、簡単には出て行けないという事情もある。

 領主としては何もしなくてもいいので、特段の元手はかからない。放っておくだけで勝手になんとかなるという、実にあこぎな商売を営んでいるわけである。

 言ってしまえば、それが不動産の強み。

 不動産を管理するディングラスは、土地貸しのように何もしなくても賃貸料が手に入る。いや、管理をしない分だけ、通常の管理人とは違ってさらに楽な商売でもあろうか。



 この下層部はそうした最下層の労働者階級の人間が多く暮らす場所である。

 ちゃんと働いている者はいいが、中には働けない弱者もおり、援助もないので、徐々に荒廃していくのは当然のことだろう。

 もちろん治安もよろしくなく、所々にはゴミも散乱していて衛生面も劣悪だ。要するに【スラム化】しているわけである。


(ソブカが領主を嫌っている理由がこれか。管理をしないんだから廃れるのは当たり前だな。そして、やつらは呑気に第一城壁内部で優雅な生活を満喫している。ふん、領主らしい腐った生き方だな)


 ソブカは領主に敵意を見せなかったが、それは隠していたにすぎないことだ。

 実際彼は「領主になりたいか?」という問いに対して、明確な拒否姿勢を見せなかった。

 そこには「自分ならばもっとましに管理できる」という意思が、わずかばかりでもあったはずである。

 彼が弱者救済などというご立派な信念を持っているかは定かではないが、自分より無能な人間が都市を好き勝手にしていることには不快感を覚えているだろうし、少なくとも大義名分として利用するつもりではいるだろう。


(結果的に都市機能が正されて生活が向上するのならば、ソブカは正義だということになる。都市の人間にとってみれば、そっちのほうがいいだろう。人間の善悪を決めるのは、最終的に【富】だからな)


 誰が自分に富を与えてくれるのか。守ってくれるのか。それが大半の住人の関心事であろう。

 どんなに理屈をこねようと、そこは絶対に変わらない事実なのだ。物と金を支配した人間が一番強い。それが暴力で手に入れたものでも、まったく問題はない。

 そして、もう一つの強力な要素である「人材」を手に入れたほうが勝つ。

 今から仕入れに行く「物」も、アンシュラオンにとっては実に有意義な道具となることだろう。




166話 「集まった戦罪者たち 中編」


 馬車が下層部の裏道に入ると、城壁の影響のせいか一気に薄暗くなっていく。

 太陽が西に傾く頃になると、このあたりは昼間でも完全なる日陰の世界になるのだ。そうなると犯罪率も増加するので、とりわけ治安がよくないのは想像に難くない。

 ここに一般人はまず立ち入らないだろう。立ち入っても本能が危険を告げるので、よほどの馬鹿以外は帰るに違いない。

 アンシュラオンのような自ら危険を好む者以外は。


「お前から見て、どうだ? そいつらは?」


 アンシュラオンがモヒカンに裏スレイブの感想を聞く。

 実際に見たのは彼だけなので、その印象が聞きたかったのだ。


「…相当ヤバイっすね。自分で選んだっすが、それでもあまり近寄りたくないレベルっす」

「ほっほー、いいじゃないか。楽しみだな。何人集まった?」

「二十人は集まったっす。あとは旦那が見定めるだけっす」

「たしか裏スレイブ自身が主人を選ぶんだったな。くくく、面白い趣向だ。オレを見定めるか。はははは、いやぁ、楽しみだよ。クズがオレをなぁ…くくく」

「そ、その…お手柔らかにお願いするっす…」

「そいつらの態度次第だな。どうせ死んでもいいクズどもだ。遠慮なく扱わせてもらうさ。死んでも金で解決できるんだろう?」

「それは大丈夫っす。ただ、強い武人も集まっているっすから…」

「そうか、そうか。それは楽しみだ」


(なんでこんなに嬉しそうっすか。信じられないっす…)


 裏側の世界に触れる時、アンシュラオンはとても楽しそうな顔をする。

 それはまるで人間という名の仮面を外し、本性である獣の側面を出せる喜びとでも言おうか。非常に生き生きとするのだ。

 長年、闇側にいるモヒカンでさえ、ここまで楽しそうに裏の世界を満喫する人間を知らない。


「これが【戦罪者(せんざいしゃ)】のリストっす」

「戦罪者? 名前からすると戦争犯罪人か?」

「それに近いっすね。元騎士や元傭兵から出た犯罪者を指すっす」


 戦罪者とは、騎士団や傭兵団、あるいは何らかの武装組織の中から出た犯罪者のことで、主に任務中や作業中に非道な行いをした者が拘束され、囚人となった罪人たちだ。

 戦闘に関わる組織から出た罪人なので、その多くは武人であり、戦闘力は一般人を遥かに凌ぐ。まさに全員が武闘派中の武闘派というわけである。

 しかも、強くありながらも非道な行いを厭わない者たちだ。これほど危険な存在はいない。


「騎士団の大半は武人だと聞いたことがあるな。そこからつまはじきにされた者たちか」

「そうっす。普通のスレイブにならないのは血を好むからっす。護衛とかじゃ満足できずに、積極的に人を殺したいと思っているからっす」

「素晴らしいな。そういう人材こそ欲していたものだよ」


 彼らは一般人と一緒に生活などできない。一緒にいたら殺したくなるような殺人中毒の人間も多いからだ。

 そんな人間が歩む道は、たった一つ。抗争の道具である裏スレイブになるしかない。そんなクズたちこそ、アンシュラオンが欲していた者である。


 手渡されたリストをパラパラめくると、そんな危ない連中のデータが山ほど目に入ってきた。


「ふむ、大半が騎士団や傭兵団…それとマフィア出身者か。オレはもともと詳しくないから騎士団などの名前に覚えはないが、西側から来た連中も大勢いるようだな」

「そうっす。西側からはよく流れてくるっす。こっちに来れば昔の罪なんてどうでもいいっすからね。それに島流しにされてここに漂着するやつらもいるそうっす」

「まるで罪人のための大陸だな」

「西側の連中にしたらそんな認識っすよ。こっちに住んでいる人間にとっては大変っすけどね」

「それで儲けているやつの台詞じゃないな」

「自分だって違うところに住んでいたら、もっとましなことをしていたっす」

「ましな仕事とは何だ?」

「その…金貸しとか」

「あまり変わらないじゃないか」

「仕方ないっす。他に何も思い浮かばないっす」

「お前も救いがないな」


 モヒカンみたいな男は、どのみち闇に沈むしかない。その本質が闇だからだ。


(そういえば東側は犯罪者が逃げてくる場所だったな。ダビアのような政治犯ではなく、こちらは凶悪犯というわけか。東側が荒れるわけだ)


 この未開の地では、過去の犯罪歴などが問題になることは少ない。黙っていれば新しい人生が始められる自由の大地なのだ。

 ただ、こうした犯罪者がやってくれば治安が乱れるのは必至である。そのため東側に住む者たちの中で情報共有が行われるし、戦罪者に関しては密航を手助けしたブローカーから資料が渡されることも多い。

 経歴を黙っている者もいるが、裏スレイブとなった戦罪者は自らそれを申告する。

 理由は簡単。それが「アピールポイント」になるのだ。

 どこでどれだけ人を殺したか。どんなやつらを殺したか。表のスレイブと同じように、裏スレイブにとって犯罪歴こそがセールスポイントとなる。

 アンシュラオンが見ているリストにも、いろいろと物騒な経歴が載っていた。


(最低でも二十人以上は殺しているような連中ばかりだ。おっと、中には百人以上もいるじゃないか。これは楽しみだ)


「いい連中を集めたな。褒めてやるぞ、モヒカン」

「ど、どうもっす」





 裏通りを進み、一軒の廃屋のような場所に到着。

 周囲も廃屋が多いので目立たないが、ここが裏スレイブ商会「グラッパー」である。


「ここっす」

「サナ、着いたぞ」

「…こくり」


 サナはまだ賦気の影響が抜けていないので、少し気だるそうだ。

 これが最大のデメリットなのだが、修行の効果は少しずつ表れてくるだろう。


 アンシュラオンはサナと手をつなぎ、モヒカンの後に続く。


 廃屋の前には屈強な男が門番として立ち塞がっていたが、モヒカンを見ると黙って道を譲った。


 ギィイイイ


 門番の男が、やたら重そうな扉を開ける。

 それ自体がかなりの重量なので、門番が筋骨隆々なのは腕力も買われてのことかもしれない。



 中に入ると、意外と綺麗な空間が広がっていた。

 壁も外とは違う素材で、ハローワークのように石と木でがっしり補強されている。これならば地震が起こっても倒壊する危険性は少ないだろう。

 床には高そうな赤い絨毯が敷かれているので、中だけ見たらキブカ商会の館とあまり変わらないような高級感がある。


「ここから地下に行くっす」


 さらに通路を進み、もう一人の番人が守っていた部屋に入ると、そこには地下への入り口である階段があった。


(なるほど、地下か。ここならば簡単に見つからないだろうな。たしかに裏店は見つけにくい場所に作るものだが…よくできているものだ。それだけ危ないものを扱っている証拠でもあるけどな)


 アンシュラオンが外を探しても見つからないわけだ。外から見ているだけでは絶対にわからないだろう。

 門番もいるので普通の人間が紛れることもない。実に厳重である。


 トントントン


 三人は階段を降りていく。

 階段は長く続いており、所々で曲がったりしながら地下深くへと導かれる。

 壁にはジュエルの灯りも設置されているので真っ暗というわけでもないが、やはり光量は表の世界と比べても遥かに少なく、普通の感性をしていれば心細くなるに違いない。

 そんな中でも、サナは至って普通にアンシュラオンと一緒に降りていく。ふりふりと揺れる長い黒髪が闇に溶けそうで、さらにその美しさを際立たせるようだ。


「サナ、モヒカンは撃っちゃ駄目だぞ」

「…こくり」

「ひっ、何の話っすか!? いきなり後ろで怖いこと言わないでくださいっす!」

「ふふん、今ではサナも戦いを知っているんだぞ。だからお前を撃たないように教えておこうと思ってな」

「そういうことは最初に教えておいてくださいっす!! 怖すぎるっすよ!」


 サナはアンシュラオンの言いつけを常に守るので、こうしている間もポケット倉庫に意識を向けている。

 いざとなれば、そこからクロスボウを出して撃つことができるのだ。


(うんうん、ここは教育上もいい場所だな。緊張感があるし、間違って撃っても問題にならないからな)


 間違って撃たれるモヒカンは最悪である。



 そんなこったでしばらく降りていくと、ようやく大きな空間が広がった場所にたどり着いた。

 一見すれば、普通の店の中のようだ。スレイブ館の表の店に若干近い雰囲気があるくらいで、華美な装飾類もあまりない。

 上の入り口にあった高級絨毯に似合う室内を想像していたものだが、結局あれだけが特別だったようだ。


(こいつらは変に見栄を張りたがるな。雰囲気作りをするなら、もっとちゃんとやればいいのに)


 モヒカンもそうだが変なところで見栄を張る傾向にある。それがこのグラス・ギースの特徴なのか、果ては単純にスレイブ商に共通する感性なのかはわからない。

 ともかく、どうやらここがグラッパーの本館であるらしい。


「例のものを受け取りに来たっす」


 カウンターにいた男にモヒカンが話しかける。


「三号室に集めています。こちらが鍵です」


 ぼそぼそと愛想のない男がモヒカンに鍵を渡す。

 男は一瞬だけアンシュラオンにも視線を向けたが、すぐに戻した。男の額に今までなかった汗が滲む。

 その男にもわかったのだろう。スレイブ商人であるモヒカンより、その少年のほうが危ない、と。


 なぜならば、笑っていたから。


 アンシュラオンは、笑っていた。とても楽しそうに。心から。

 その理由は、べつに男を威圧するためでも驚かすためでもない。


 すでに【ソレ】が発せられていたから、である。



 空気が―――変わった。



 灼けつくようでヒリつくようで、チリチリとしながら冷たく、コンクリートや鉄に触れたような硬質的な感触が広がっていく。


 これこそ―――殺意。


 殺気と呼ばれるものである。


(いい波動を出すじゃないか。くくく、このオレに挑戦しているつもりか? ああ、気持ちいいなぁ。ここはすごく心が落ち着く。それにドキドキするよ)


 男が言った三号室の場所を確認するまでもない。そこから明らかに他者と違った波動を出す者たちがいる。

 その者たちは、ひどく威圧的で凶暴な気配を隠そうともしていない。

 誰もが「普通」という名のネジが外れてしまった狂人たちなのだ。その波動が、アンシュラオンを楽しませている。


「早く行こう。が、我慢できない」

「りょ、了解っす!」


 そのアンシュラオンの変化に気がついたモヒカンが、慌てて部屋に案内する。

 地下はかなり広いようで、三号室に到着するまでモヒカンの足で三分ほどもかかった。


 そして、目の前に黒い重厚な扉が姿を現す。



「あ、開けるっす」


 ガチャッ


 緊張した面持ちで、モヒカンが三号室の鍵を開ける。その手は汗まみれになっていた。

 ここにきて強い圧力を感じているようだ。彼も裏の住人。それくらいは感じることができるだろう。


 ギギギッ


 モヒカンが押すたびに、扉は軋んだ音を立てながら開いていく。

 半分くらい開かれた時、中の光景が視界に飛び込んできた。


 地上の家屋同様、やたら重い扉からも想像はついたが、その部屋は―――鉄で覆われていた。


 壁、天井、床のすべてが真っ黒な金属で覆われており、そこはもう【牢獄】とも呼べるような頑丈な造りになっていた。

 鉄鋼技術が完全でないこの都市において、ここまでの設備をそろえるのは簡単なことではないだろう。しかも、たかだか人間を閉じ込めるためだけの部屋に使うには大げさである。

 これほどの頑丈さならば、魔獣であっても閉じ込めることが可能だ。

 されど、そこまでしなければならない者たちなのだ。この中にいるのは、それだけ凶暴な存在であることを示している。


 部屋の大きさは、思った以上に広い。

 よく柔道の試合で、大きな会場で二試合同時に行われていることがあるが、あの広さくらいある。

 バスケットボールはもちろん、フットサルではない普通のサッカーもやろうと思えばできるかもしれない。

 ここは地下なので十分なスペースがあるのだろう。いくらでも使いたい放題である。


「では、行くか。先に入るから、お前は後ろからついてこい」

「は、はいっす」



 ツカツカ



―――ギロリ



 アンシュラオンとサナが入ると、一斉に無遠慮な視線が集まった。


 それからモヒカンが続くが、誰も彼などは見ない。最初からアンシュラオンに視線が集まっている。

 部屋には十八人の男たちが並んでいた。軍隊のように整列しているわけではなく、思い思いに座ったり壁に寄りかかったりしている。

 予定より数が少ないが、モヒカンが言っていたことは嘘ではない。

 数が合わないのは三名ばかりが床に倒れているからだ。血を出していたり泡を吹いていたりと症状はさまざまだが、すでに戦闘不能であることがわかる。


 どうやら内部で諍いがあったようで、一人の男の拳が赤く染まっていた。


 ただし、誰もそれを止めていないのだろう。誰もが無関心か嘲笑、その程度の反応で捨て置かれている。

 三人の中には完全に動かない人間もいるので死んでいるのかもしれない。それでも彼らの対応は変わらない。


 これが裏側の世界。


 裏スレイブたちの日常である。




167話 「集まった戦罪者たち 後編」


 アンシュラオンは一度、深呼吸する。


(いい空気だ。暴力の匂いがする。ここは素晴らしいな)


 火怨山の匂いに少し似ている。

 あの山では常時生存競争が行われ、繁殖と淘汰が繰り返されている。弱い者は死に、強い者だけが生き残る世界だ。

 それと比べればまだまだ知的な雰囲気がするだけ、この室内は【人間的】だといえるだろう。

 荒野の清々しい弱肉強食の世界とも少しばかり違う。生々しく、より残虐性が強まった世界だ。

 そこにはこの白い男がよく似合う。


 コツコツコツ


 アンシュラオンは悠然と前に出て、一堂を見回す。

 目に入ったどの男たちからも、死と破壊の臭いが漂ってくる。むせ返るほどに強く。

 それに満足し、話しかける。


「ごきげんよう。よく集まってくれたね。とても嬉しいよ。今日から君たちのボスになるアンシュラオンだ。巷ではホワイトと呼ばれているんだが、知っているかな?」

「………」


 それに言葉で答える者はいない。誰もが視線を向けているだけだ。

 だが、変化はある。

 さらに興味を深めた者、最初から無関心な者など、反応はそれぞれだ。

 興味を深めたのは、ホワイトの名を知っている者たちだろう。無関心な者は、そう装っている者と、本当にそうである者たちの二種類だ。


「ふむ、どれも悪くない面構えだ。いいだろう。君たちを雇おう。そうそう、最初に言っておくが君たちには死んでもらうよ。それは聞いているかな? まあ、どうせ死ぬ命だ。聞いているかどうかもあまり関係ないんだけどね。奴隷のように働いてもらえればそれで十分だ」

「………」


 その言葉に対しても特に誰かが答えることはない。ただじっとアンシュラオンを見つめているだけだ。


 依然として彼らから放たれているのは―――殺気。


 部屋に入った時から、あるいは入る前から自分に対して強烈な殺意が向けられている。

 これがもし常人の神経だったならば、それだけで身震いするに違いない。後ろにいるモヒカンのように。

 だが、アンシュラオンにとっては爽快なシャワーに等しい。その一つ一つが彼を生き生きとさせる活力剤のようなものであった。

 それゆえに満面の笑顔で話を続ける。


「具体的にやってもらいたいことはあとでまた話すが…なに、簡単だ。オレの敵を暴力で排除してくれればいい。な? 実に簡単だろう? 君たちの得意分野だ。それと、言うまでもないがオレの命令には絶対服従だ。要するにオレの命令だけを聞いていればいいんだ。どうせ頭の悪い君たちに複雑なことなんてわかるわけがない。言うことを聞いて、暴れて、その結果として死んでくれればいい。うん、実にシンプルでいい」


 ここにいる連中に頭脳など求めていない。必要なのは暴力だけである。猟犬に教えるのは「指示をしたら敵に噛みつけ」だけで十分だ。


「では、一度並んでもらえるかな?」


 アンシュラオンがそう言うと、反応があったのは四人だけだった。


 ザッザッ ドスドス スルスル スタスタ


 四者四様の歩き方で、四人がアンシュラオンの前、およそ五メートルの位置に並ぶ。

 左から見て、腰に刀を下げた角刈りの男、身長が三メートルはありそうな大男、槍を持った天蓋を被った小柄な男、ニヤニヤ笑っている若い男の四人だ。

 大男に関しては、さきほど述べた拳が赤く染まっている男である。その図体から繰り出される拳の威力を確認するまでもない。倒れている男たちが、その末路だ。


 その四人は、アンシュラオンの前におとなしく並んだ。


 だが、それ以外の者たちは、やさぐれたヤンキーのように誰も反応しない。

 そもそも後者のほうが普通の反応なのであって、おとなしく従ったほうが珍しいのだ。


「もう一度言うぞ。並べ」


 再び声をかける。

 しかし、二度目の言葉にも他の者たちは反応しなかった。


「なるほど。やはり頭の悪い馬鹿どもには、もっとわかりやすいほうがいいか」


 アンシュラオンが掌を、十数メートル先の壁にもたれて座っていた男に向ける。

 その男はヤク中だったのかもしれない。何かを夢中で吸っていた。それ自体は問題ない。何をしようがまったくの自由だ。


 だが、命令に従わない犬は必要ない。



 ボシュッ



 男が―――消えた。



 まるで煙になったかのように一瞬で消えてしまった。

 しかし、男はそこにいたのだ。間違いなくいたのだ。


「え? え? どこに行ったっすか?」


 その現象に驚いたのは、後ろで見ていたモヒカンだ。

 突然人間が消えたのだから疑問を抱くのは当然だろう。それだけ見ていれば、まるで手品である。

 だが、きょろきょろと見回しても消えた男を発見できない。


「ど、どこに? 逃げる場所なんてないはずっす!?」


 若干パニックになりながら、さらに探すが見つからない。

 だが、ふと周囲を見回すと、多くの者たちの視線が一点に集中していることがわかった。

 それは、さきほどまで男がいた場所。消えた場所。


「何を見て―――っ!!」


 モヒカンがようやく【それ】に気がつく。



―――壁の染み。



 おそらく壁が黒かったので見えにくかったのだろう。だが、改めて見ると、そこには痕跡が残されていた。

 黒い鉄壁よりもさらに黒い染み。壁にくっきりと張り付いた人型の形をした染み。


 それはまるで「焼きごて」で押し付けたような【焦げ跡】に似ている。


 さきほどまでそこにいた男の形をかたどった、かつて生きていた証である。


「ひ、ひぃいいっ…」


 モヒカンも、それでようやく何が起こったのかわかっただろう。

 もし自分がそこにいたら、モヒカン型の焦げが生まれていたのだろうから。



「さて、もう一度だけ言おう。三秒以内に並べ」


 その言葉に、今度は全員が反応した。慌てて立ち上がって並ぼうとする。


 ただ、その中の一人が転んだ。


 あまりに慌てていたのだろう。その男は裸足だったので、鉄製の床は逆に摩擦がありすぎてつまずいてしまったのだ。


 ボシュッ



 急いで立ち上がろうとするが―――消失。



 さきほどの男のように、床に人型の焦げを残して消えてしまった。

 まるで何も残らない。残ったのは染みだけだ。


「転ぶような間抜けは必要ない」


 アンシュラオンがひどくつまらなそうに言い放つ。むしろ、今のうちに見つけておいてよかったという安堵感すら滲んでいる。

 不要なものを処分することは重要だ。使えないものがいると、それだけで全体が弱くなるからだ。

 植物を見ていればよくわかるはずだ。腐った枝葉を早々に切り落とさねば、恐るべき勢いで全体が駄目になっていくのだ。

 自然は素晴らしい教師である。自浄作用の大切さを教えてくれる。


「…素晴らしい」


 それを見て一言、最初に並んだ槍を持っていた小柄な男が呟いた。身体が震えているのは恐怖からではないだろう。

 他の三人もそれぞれ違う反応をしていたが、どれもさらに興味を深めた様子であった。

 そう、最初に並んだのはアンシュラオンに対して興味を抱いた者たちである。だから、彼らにしてみればさして不思議なことではないのだ。



 その後も、彼らが予想したように極めて当然の結果だけが訪れていく。



「愚図はいらん。お前も遅い」


 一瞬反応が遅れた、もう一人の男も消えた。

 アンシュラオンの戦気波動によって、あっさりとこの世から消えたのだ。エジルジャガーにやったように、あまりに強すぎる戦気の波動に触れただけで消失してしまった。

 逆にいえば、その男が弱かったのが悪い。

 この程度で死ぬほうが悪いのだ。それがわかっている者だけが生き残る。



 そして、全員が並ぶ。



 人数は十八人から三人が脱落し、十五人となっていた。

 が、直後にまた一人消える。


 ボシュッ


 いとも簡単に男が消えていく。

 これを見れば、水流波動がいかに手加減に適した技であったかがよくわかっただろう。攻撃的な戦気ならば誰もがこうなっていたのだ。

 女性や子供ならば手加減するが、こんな人間のクズどもに遠慮は不要だ。さっさと排除するに限る。


 そして、男が死んだ理由は次のもの。


「誰の許可があって妹を見た? 次に視線を向けたやつも即座に殺す。わかったな」


 勝手にサナを見た。

 それだけで殺すには十分だ。見た理由など、どうでもいい。

 こんなクズどもがサナの素顔を見るだけでも罪である。生かしてはおけない。


 これで戦罪者は、十四人となる。


 ようやく並んだメンバーを見て、頷く。


「あまり多くても邪魔だからな。これくらいでいいか。さて、聞く状態にはなったようだな。改めて言おう。今日からオレがボスだ。そうだな、マフィアらしく【オヤジ】とでも呼んでもらおうか」


 アンシュラオンがそう言っても誰も口を開かない。

 今までのことで怖気づいてしまったのだろうか?

 否、そんな軟弱な者はここにはいない。


 彼らは魅了されていたのだ―――アンシュラオンの強さに。


 だから、こうなる。


「へへへ、たまんねぇな。こんなすげぇやつは初めて見たぁ。いいぜ、おらぁよぉ、ここで死んだってなぁ!!」


 最初に並んで一番左にいた男、刀をぶら下げていた角刈りの男が前に出る。

 刀といっても普通のものではなく、いわゆる【ポン刀】と呼ばれるもので、しかも通常の日本刀とは違いドスのように鞘が木製になっている【白鞘】のものだ。

 角刈りと腹に巻いたサラシ、白鞘のポン刀。劇画に出てきてもおかしくない堀の深い顔。これでさらに刺青でもあったら完全に日本のステレオタイプのヤクザだ。


「そこの角刈り、列に戻れ」

「…へへ、嫌だね」

「ほぉ、死にたいのか?」

「そりゃ願ったり叶ったりだぜ!! いやぁ、すげぇよ、こりゃぁよぉ! こんな上玉やれるなんてよぉ! 最高じゃねぇかよぉお!!」


 角刈りの男が興奮しながら腰にあるポン刀を掴み、じりじりとアンシュラオンに迫り寄る。

 その目は明らかに血走っており、最高級ステーキを前にした遭難者のようである。飢えて飢えてしょうがない人間の前に、突如そんなものが出てきたらどうなるか。

 答えは実に明白であった。


「ちょ、ちょっと待つっす! ここはそういう場じゃないっす!」


 そこに何を思ったか、モヒカンが止めに入る。

 いつもは怯えるだけの男だが、事がスレイブの契約問題なので、ついつい出てきてしまったのだろう。


 だが、それは彼の油断。


 いつもの癖で、ここが【表】だと錯覚している人間が犯すミスである。



 ガギィイインッ



 金属と金属が衝突する音が響く。

 激しい火花が散り、一瞬だけ目の前が真っ白になった。


「は、はひ?」


 目の前にいたモヒカンでさえ何が起こったのかわからなかったようだ。あまりの速度に常人では理解不能な領域での出来事だったからだ。

 見ると、角刈りの男が一瞬で抜いたポン刀を、アンシュラオンの包丁が受け止めていた。


「へへ、へへへ…!! やっぱりすげぇえ!!」

「ふん、これだから犬ってのはな…。特に狂犬は頭が悪くて困る。モヒカンは下がっていろ。お前は十分仕事をしてくれた。契約の時にまた働いてくれればいい。あとは任せろ」

「…ぁあ……りょ、了解…っす」


 ようやく自分が斬られそうになったことがわかったのだろう。顔を真っ青にしながら、這いずるように逃げていく。


 アンシュラオンは、刀を受け止めたまま周囲を見回す。


「どうやら我慢できないやつらが他にもいるようだな。いいだろう。戦いたいやつら全員の相手をしてやる。ただし、オレが勝ったら言うことを聞いてもらう。…いや。言葉が正しくなかったな。オレが勝つことは決まっているが、その死にたがりは取っておけということだ。死ぬならオレのために死ね」


 ここにいる連中は普通ではない。誰もが自分の一瞬の享楽のためだけに生きている。

 それは、死ぬこと。全力を出して死ぬことを求めている。

 厄介な点は、アンシュラオンが強すぎたことだ。それが彼らの闘争本能を刺激してしまっている。


 こうなれば話は簡単である。



「叩きのめしてやろう。まさに死ぬ寸前までな」




168話 「戦罪者審査 『ポン刀のヤキチ』」


「どうする? 全員同時でもかまわないぞ?」

「誰にも渡さねぇえ!! おらぁがもらうぜ!!」


 角刈りの男が、一度刀を振り払って仕切り直す瞬間―――


 シュンッ


「っ!!」


 突如自分の顔に飛んできた何かを、角刈りの男がバチンッと片手で払い落とす。


「なんだぁ? 矢?」


 それは―――矢。


 アンシュラオンと角刈りの男、両者が止まっている一瞬の隙に矢が放たれていた。

 木製の矢だったので簡単に叩き落とせたし、仮に当たったとしても武人である男ならば致命傷にはならなかっただろう。

 だが、それを放った人物が問題。

 そこにはクロスボウを構えたサナがいた。


「…じー」


 彼女は静かに角刈りの男の様子を見つめている。


(なんだ、このガキの目は…?)


 戦罪者である男にも、その視線は奇妙なものに映った。

 戦ってきた者の中には無感情や無機質な連中もいたが、ここまで「殺意がない」ものも珍しい。サナは殺すために攻撃するが、そこに殺気がないのだ。

 それに気がついた瞬間、角刈りの男に汗が滲む。


(殺気のない攻撃だと? そんなもん、伝説でしか聞いたことねぇぞ? だが、このガキがそんなレベルとは思えな―――)


 次の瞬間、腹に強い衝撃が走った。

 凄まじい勢いで押され―――吹っ飛ぶ。


「ぐっ!!」


 ビジュウウウッ

 鉄床で踏ん張ったせいで足裏から奇妙な音を出しながら、七メートルほど後退してようやく止まる。

 前方を見ると、足を上げているアンシュラオンがいた。

 腹には鈍い痛み。余所見をしている間に前蹴りで吹き飛ばされたのだ。


「勝手に妹を見るなと言っただろう。本当ならば殺すところだが、一回だけ見逃してやる」

「手加減してくれたのかぁ! お優しいなぁ!!」

「当然だ。不意打ちで死なれてもつまらないしな。サナ、今のタイミングは悪くなかったが相手が悪い。下がっていなさい」

「…こくり」


 サナが何事もなかったかのようにトコトコ戻っていく。

 ポイッ ゴンッ


「いたっ!!」


 が、放り投げたクロスボウがモヒカンに当たる。

 どうやら矢が当たらなかったことが不満のようで、投げ捨て方もかなり乱雑だ。とばっちりを受けたモヒカンは運が悪い。


(ふっ、サナのやつ、いい感じに学んできているな。そうだぞ。いつだっていいんだ。いつでも殺せるチャンスがあれば攻撃していいんだ。うう、サナが育っていく。感動だなぁ)


 不意をついたサナに感動を覚える。やはり凄まじい速度で成長しているようだ。

 本当は当たれば一番良かったが、そこまで甘い相手ではない。目の前の男はサリータのような素人ではないのだ。



「おらぁあああ!!」


 アンシュラオンがそんなことを考えている間に男は体勢を立て直し、一気に間合いを詰めて剣撃のラッシュを見舞ってきた。


 ブンブンブンッ

 斬る、斬る、斬る。


 防御などまったく考えていない様子で、ただひたすらに攻撃を繰り返す。

 それをアンシュラオンは、剣気を放出して同じ長さにした包丁で捌いていく。


(ひたすら攻撃…剣士のおっさんと同じく攻撃型か。とはいえ練度はまったく違うがな)


 我流かつ大振りの一撃もあるので、いなしていくのは難しくはない。同じ攻撃型であってもガンプドルフとはレベルが違いすぎる。

 だが、噂に名高い戦術級魔剣士と一介の戦罪者を比べることのほうが間違っている。そうした事実を差し引けば、攻撃の迫力はなかなかのものだ。

 そして、特筆すべきは戦気の質である。

 お互いに剣気を発しているが、赤白い自分のものと違い、相手の刀にはドス黒い剣気が放出されていた。


(戦気や剣気はその人間を写す鏡、か。師匠がよく言っていたものだ。こいつのは真っ黒で血に塗れた色だ。さすが裏スレイブだな)


 その刀はすでに多くの血を吸っているのか、刀身がやたら赤黒い。拭いても拭いても赤い色が消えないのだ。まるで怨念のように。

 放出される剣気も、それに呼応したように真っ黒。清々しいまでにドス黒い。

 今まで見てきたものとはまったく違う。ラブヘイアやソイドビッグ、かなり殺してきたであろう暗殺者のファテロナとも似ていない。

 ひどくいびつで歪んでいて、悦びと享楽のみで人を殺してきた者たちだけが放つ独特の気質である。


 男の剣は―――【殺人剣】。


 文字通り、人を殺すためだけに剣技を磨いてきた者たちなのだ。


(こいつはポン刀を持っているから、リストにあったヤキチという男だろう。殺した数は百人以上だったか? 雑魚ばかり殺してきたのかと思っていたが、この感じだと強いやつを狙って殺しているな)


 この男のことはリストで見た。


 『ポン刀のヤキチ』、それが彼の異名である。


 かつては傭兵をやっていたが、依頼されるものは騎士団への襲撃やら敵対組織の壊滅など、裏の仕事ばかりをこなしてきた。

 そしてついに反政府組織の依頼で、紛争地域に駐屯している他国軍を襲い、騎士を次々と殺す事件を起こした。その中には名有りの武人もいたようで、その相手を殺したことで有名になったようだ。

 当然、皆殺しである。たった一人で一つの部隊を倒したのだから、その技量は相当なものだろう。

 ただし、その時のダメージが原因で追撃部隊によって捕縛され、死刑判決を受けるも裏取引で生き延びる。

 その後の消息は不明。なぜ東大陸に来たのかも不明。誰の手にも負えない狂犬。それがポン刀のヤキチである。


(素性はどうでもいい。こいつが使えるか使えないか、それだけが重要だ)


 アンシュラオンにとっては、この地域以外の状況をまったく知らないので、そんな情報はあまり意味がない。

 大切なことはヤキチが使えるかどうか。裏スレイブとして役立つかどうかだけだ。


「おおおおお!!」


 ガキンッ ガキンッ

 こうして端から聴いていれば、剣と剣がぶつかる音など陳腐なものである。たいした音ではない。

 そんなことに命をかけるなど、ただの馬鹿者にしか思えないだろう。

 それでも、そのことだけに命をかけてきた男である。殺すことだけに特化した存在である。


 それが―――何もできない。


 どんなに強い一撃も、アンシュラオンの包丁がすべてを止めているのだ。


「ちぃっ!! 削れもしねぇのか!!」

「どうした? そんなものか? お前の力をもっと見せろ」


 目の前の少年が、自分を静かに見ている。

 その目は人間を見つめるものではない。まるで小動物を観察するようなもので、まるで温かみがないものだ。

 冷たく、暗く、自分が振るっている剣気よりも真っ黒なものだ。


「なら、全力で叩き斬るだけだぁああ!! おおおおおお!!」


 ヤキチが全力の戦気を放出。その戦気も赤黒く、剣気がさらに膨れ上がっていく。


 斬る、斬る、斬る。
 斬る、斬る、斬る。
 斬る、斬る、斬る。

 ガキンッ ガキンッ ガキンッ


 あらゆる角度から打ち込む。足を狙ったり、手を狙ったり、おおよそ剣を持つ相手が嫌がりそうなところに攻撃するが、そのすべてが受け止められる。

 少年は一歩も動いていない。

 ただ軽く包丁を動かすだけで、ヤキチの刀を簡単に弾いていく。赤黒い剣気など何の意味もない。


 逆にその黒さは―――子供騙し。


 金メッキで弱さを覆い隠すように、普通の色を塗っても出来が悪いからあえて黒で塗り潰したような、そんな醜さが表面化していくようだ。晒されていくようだ。

 それは比べるものが美しすぎるから。

 黒い剣気と衝突している赤白い戦気が、より純粋なる力そのものであるからだ。


「最初の威勢はどこにいった? せめてオレを一歩でも動かしてみせろよ」

「はぁはぁ…! す、すげぇ、すげぇえええ! こんなの初めてだぁってのぉおよ!」


 ただ刀を振るっていても勝ち目がないと判断したヤキチは、一度ジャンプして後方に着地。

 そこから刀を振ると、黒い漆黒の闇が放出された。

 剣王技、暗衝波(あんしょうは)。剣衝の闇属性版であるが、ただでさえ少ない闇属性を持つ人間にしか使えないものなので、なかなかにレアな技である。

 アンシュラオンも見るのは初めてだが、あっさりと暗衝波を叩き斬る。

 ズバッ ブワワッ

 斬られた暗衝波は消滅するが―――闇に包まれた。

 闇は夜よりも暗く、タコ墨のように視界を完全に埋め尽くして、周囲一帯が真っ暗に染まる。


(話には聞いていたが、これは面白い。たしかに視界はゼロだな)


 目の良いアンシュラオンでもまったく先が見えない完全なる闇であった。

 暗衝波の最大の特徴は、対象を【闇で包む】こと。

 攻撃力は通常の剣衝と同じだが、厄介なのはその追加効果だ。敵の視界を奪うことは、自身に大きなアドバンテージを与えてくれる。


(やっぱり防がれたか! だが、たとえ効かなくてもよぉ、太刀筋を隠すことができるのさぁ!!)


 ヤキチも最初から攻撃が効くとは思っていない。視界さえ奪えればいいのだ。

 暗闇の中を忍び足で移動し、アンシュラオンの死角に移動。

 それから通常ではありえないような刀の振り方で、床ごとアッパーカットで斬り上げるように身体を回転させる。

 殺人剣・卑転(ひてん)。

 攻撃のリズムを一気に変えて不意をつく技で、多くの表の武芸者を屠ってきたことから殺人剣に分類されたものである。

 完全なる闇に加えて、通常ではありえない角度からの斬撃。この攻撃は簡単にはかわせない。

 それが普通の相手で、並の存在ならば。


 ガキィンンッ


 闇の中でもわかる。

 その音は、目の前の少年がいとも簡単に攻撃を防いだ音であるということが。

 アンシュラオンはヤキチの不意打ちにまったく動じることなく、軽々と刀を止めていた。


「なっ…!!」

「変則技か。発想はいいが、戦技結界術を使えるオレには通じないな」


 アンシュラオンの周囲には波動円と、その上位版である無限抱擁が展開されている。

 視界など利かなくても問題ない。いかなる攻撃も事前に把握することができるのだ。


「しかしまあ、ずいぶんと打ち終わりに問題がある技だな。そんな回避しづらい格好でいると危ないぞ。わざわざ敵の目の前で隙を晒すとどうなるか…身をもって教えてやろう」


 ポン刀をたやすく切り払って、間合いを作ると同時に包丁を振り上げる。


(やられる!!)


 殺気を感じたヤキチが咄嗟に防御の姿勢。

 だが、それを見たアンシュラオンが冷たく言い放つ。


「お前も所詮は動物だな。動物は予想しない咄嗟の瞬間にどうしても本能が出る。そうやって反射で受けようとしてしまうんだ」


 包丁が振り下ろされる。


 剣硬気によって剣気が伸び―――ヤキチを両断。


 防御した左手首を斬り飛ばし、そのまま左肩に入り、腹の途中までを切り裂く。


「がっ…ぐうっ!!!」


 戦気で防御しているのにまったく関係ない。攻撃のパワーが違いすぎるのだ。

 ブシャッーーー

 傷口から、かなりの量の血が噴き出る。


「お前の敗因は、攻撃特化のくせに受けに回ったことだ。最初から防御のことなんて考えていないんだろう? だったら腕を切られても腹を切られても攻撃にこい。それがお前の戦い方だろう。―――と、その前にもっと重要なことを教えてやろう」


 一度剣気を消してから包丁を投げつける。

 恐るべき腕力で投げつけられた刃は、ヤキチの右肩に突き刺さり、それでも勢いが収まらず彼の身体ごと後方に引っ張り―――

 ドゴンッ

 そのまま背後の鉄壁にまで吹っ飛ばして、ヤキチを壁に縫い付けた。包丁は柄の部分だけを残して、刃は鉄壁に完全に埋まっている。


「がはっ…! ぐううっ!! くそっ!!」


 大きな裂傷と左手の切断、それに加えて右肩まで負傷したヤキチは、どんなにがんばっても動くことはできなかった。

 彼が勝てない理由は、とてもシンプルだ。


「お前、弱いな」

「っ!!」

「どれだけ人を斬ってきたかは知らんが、その程度の腕前でオレに挑むとはな。ははは、笑わせるぜ。お前のオママゴトに付き合っている暇はないんだよ」


 裏の道に入り、多くの武人を殺めた人間に対して【事実】を伝える。

 この結果が訪れたのは、単に弱いからだ。ヤキチが弱いからにほかならない。


 そして、ヤキチは悟る。


「へへ…へっ。ああぁあああああああああああ!! ま、負けたのかぁ!? おらぁがぁああああ!!! はは、ははははっはははあぁあっぁぁあ!! まるで…ゴミみてぇによぉぉお!」

「うるさい。少し黙っていろ」

「ごぼっっ!?」


 うるさいので、水気を飛ばして口を塞いでやった。


「あとで治療してやるが、それまでに死んだら知らんぞ。所詮そこまでの運だったということだ。お前は弱いし、代わりはいくらでもいるだろうしな」

「ごぼぼっ…ぼっ」

「『弱い犬ほどよく吠える』。お前に相応しい名言だ。よく覚えておけ」


 ヤキチは何かを言っているようだが、当然ながら何も聴こえない。

 しかし、その目は、その瞳は、目の前の少年を強く見ていた。

 敗北がこれほどの甘美であったことを知ったのだ。そう、彼はずっと待ち望んでいたのかもしれない。


 自分をゴミのように扱う強者を。


 そうでなければ裏スレイブになる必要はない。ただの殺人狂として生きて、そのまま死ねばいい。そうしなかったのは飼い主を欲していたからだ。


(なんて…目だ。ははは!! ゴミだ! おらぁのことなんて見ちゃいねぇぇ! ゴミを見る目だぁ!!! ありゃぁ、人間じゃねえぇよ!! はははははは、さいっこうだぁああああ!)


 すでに人間でなくなった自分を扱うには、これ以上相応しい存在はいないだろう。




169話 「戦罪者審査 『身体割りのマサゴロウ』」


「さて、次はどいつだ? それともやめておくか? 勝ち目などないからな」


 アンシュラオンが周囲を見つめると、さすがの戦罪者たちも動けない。

 あまりにレベルが違う。

 あのヤキチでさえ子供相手、いや、まるで虫けら扱いだ。いくら狂人とはいえ、そこまでレベルが違うと挑もうとする気概すらなくしてしまうものだ。

 しかし、ここには超が付くほどの馬鹿どもが集まっている。


「次は…おれだ」


 ドスドスと巨体を揺らしながら、一人の大男が前に出た。


「この結果を見てもまだやりたいとは、さすがだな。それとも馬鹿か? まあいい。虫であっても調教は必要だ。誰が飼い主か教えてやらないとな。それにしても…でかいな」


 アンシュラオンが完全に見上げる形になる。

 ビッグも大きかったが目の前の男はさらに巨大だった。やはり三メートルはありそうだ。

 しかもただ身長が高いだけでなく、この太い身体全部が筋肉で包まれているので、その圧迫感は相当なものだ。

 この部屋の天井は七メートルはあると思われるが、この男がいるだけで距離感が狂いそうになるほどだ。


「お前、名前は?」

「マサゴロウ」

「案外、素直だな。たしかリストでは…死刑囚だったか? 何人殺した?」

「覚えてはいない」

「はは、それもそうだな。殺した相手のことなんて覚えていないよな。オレも何匹殺したか覚えてなんていないし」


 異名は『身体割りのマサゴロウ』。

 小さな頃から暴れん坊として有名だったが、マフィアに入ってからさらに名を上げた男である。

 この男も捕らえられて死刑囚になったあと、何かしらの事情で逃げ出すことに成功し、東大陸に渡ってきた凶悪犯である。


(こんなに簡単に東側に移動できるとなると闇ブローカーがいるのは間違いないな。って、こいつらがそうだった)


 冷静に考えれば、裏スレイブ商自体が闇ブローカーである。おそらく西側とのパイプもあり、こうした危ない連中を逃がす手助けをしているのだろう。

 西側にとっては犯罪者を処分できるし、法や人権がほぼ無い東側にとっては貴重な戦力になる。このあたりで利害が一致しているのだろう。

 そして、最後に行き着く場所がグラス・ギース。

 法の手が届かず、倫理や道徳など何の価値もない混沌の場所に流れ着く。完全なる終焉の世界である。

 だが、アンシュラオンにとっては便利な場所だ。ここが最果ての地であってくれて助かった。


「いつでもこい。お前も身の程を教えてやろう」

「いくぞ…」


 マサゴロウが拳を大きく振りかぶる。

 その拳は、ただでさえ大きな身体の中でもさらに大きいもので、明らかに常人と比べて肥大化していた。

 人間の身体はある程度バランスが決まっているものだが、それを完全に無視するように通常の二倍以上はある。

 それを力いっぱい殴りつける。


 ドッゴーーンッ


 一瞬、部屋が揺れる。

 この鉄で覆われた部屋が、直接当たってもいないのに衝撃で揺れるほどの威力が放たれたのだ。


 拳はアンシュラオンに衝突。


 体格差もあるので俯角(ふかく)に放たれたものであったが、見事命中している。

 が、アンシュラオンは平然としていた。


「どうした? そのでかい身体はハリボテか? まさか中身は美少女とかいうオチじゃないだろうな?」


 エロゲーではよくあるネタなので、美少女ゲームをやるとついつい疑ってしまう要素の一つだ。

 それは冗談にしても、アンシュラオンは戦気でガードしているため、当然ながら無傷である。

 ただし、この戦気に触れても男の拳は傷ついていないので、彼自身も戦気を放出している証だ。

 見ると、非常に粗野で荒々しいが、その分だけ力強い戦気が拳を覆っていた。

 さきほどのヤキチとは違い真っ黒ではないが、煤けた赤といった色合いだ。これも人殺しによく見られる色である。


「不思議だ…。どうして、そんなに白い?」


 マサゴロウが、ぼそっと呟く。

 おそらくそれはアンシュラオンの戦気を見ての感想だろう。


「ん? 色なんて自分で選べないだろう? 生まれ持ったものだよ」

「殺せば…黒くなる」

「オレは他人のことにあまり興味がないからな。比べる必要はないし、何色だろうとかまわん。使えればいい」


 アンシュラオンも平然と人を殺すが、その赤白い戦気は純粋なままの色合いである。

 単純に「ゴミなんてどうなってもいい」と思っているだけかもしれないし、自分と自分の所有物以外に興味がないので、そこに罪悪感をあまり抱かないせいかもしれない。

 あるいは「自分の利益=正義」という価値観に基づいて動き、それ以外を悪と断罪しているせいかもしれない。

 だが、いくらそうであっても戦気はおのずと変色していくものである。それが白いままというのは戦罪者たちにとっては、ある種のカルチャーショックだったようだ。


「ううう…オォオォオオオ!!」


 マサゴロウが大きく戦気を放出。煤けた赤色の力がさらに湧き上がってくる。


「次は…殴る!!」

「今殴っただろう?」

「全力で…だ!!」


 拳にすべての戦気が集まっていく。技を仕掛ける気だろう。

 戦気は慣れると各部位に集中させることができるようになる。攻撃力を高めたい場合、攻撃する部位に集めればそれだけ強力になる。

 しかし、当然ながら一箇所に集めれば他方が脆くなるので諸刃の剣となる。技を出すタイミングが難しいのは、こうして防御が疎かになるからだ。

 それでもマサゴロウは攻撃に集中する。

 この体格である。体力やHPも高いに違いない。となれば、相打ちでもいいから一発当てるというのが、この男の戦闘スタイルであろうか。


(隙だらけだが…この展開で先に殴ったらブーイングだよな。受けてやるか)


 ものすごい隙のあるモーションなので殴り放題である。が、周囲には観客もいるのでやめておいた。

 ここが戦場ならばいざ知らず、自己の力を示す場である以上、相手の力を出させたうえで叩き潰すのが効果的だろう。


「ぉおおおおおおおおお!!」


 マサゴロウが、腰の入った強烈な一撃を繰り出す。

 覇王技、虎破(こは)。

 言ってしまえば正拳突きであるが、正しいフォームで繰り出された時の威力は全技中最大ともいわれている。

 戦士がもっとも得意とする攻撃の一つであり、基礎中の基礎ゆえにアンシュラオンもまっさきに習った技であった。

 しかもこの技には『シールド破壊』効果があるので、迂闊に受けると盾が破壊される可能性がある。サリータには厄介な相手だろう。


(虎破か。そういえば久しく使っていなかったな。姉ちゃんやゼブ兄に虎破を当てる余裕なんてないしな)


 相手も妨害してくるので、モーション値最大の虎破を当てるのは難しいものだ。よって、おのずと虎破は各自の我流の形へと進化していく。

 たとえばアンシュラオンの虎破は、速度と命中率重視の「マッハ突き」のように進化しており、最速で打ち出すことを優先している代わりに攻撃補正値が下がってしまっている。

 そうなると姉やゼブラエスには通じないので、結局あまり使う機会がなくなってしまったというわけだ。


 一方のマサゴロウのものは身体を思いきり捻って長く溜めているので、攻撃補正値を重要視したもののようだ。

 当たればかなりのダメージを与えられるだろうが、その分だけ隙が生まれるため、動かない相手ならばともかく動き回る相手に当てるのは難しいだろう。

 しかし、地面や建造物を破壊して瓦礫で攻撃するという手もあるので、一つの持ち技としては悪くはない。


「ぬおおおおおお!!!」


 技が完成し、虎破が―――激突!!


 ドッゴーーーーーーンッ!!! グラグラグラッ!


 さきほどの揺れの二倍以上はありそうな衝撃、震度7に近い縦揺れが発生。モヒカンなど、思わず倒れそうになるくらいの強さだ。

 この力で鉄壁を殴れば、厚さが数メートルあっても破壊は十分可能だろう。

 それだけの威力が衝突したということだ。もしそこに人がいれば、跡形もなく粉々になっているに違いない。


 だがしかし、アンシュラオンはまたもや平然と立っていた。


「やれやれ。わざわざ当たってやったのに…こんなものか」


 マサゴロウの拳は赤白い戦気に阻まれ、さきほどとまったく同じ位置で止まっていた。

 虎破は防御無視の技ではないので、単純にアンシュラオンの防御力のほうが上だったにすぎない。この威力でも戦気の防御膜を打ち破れなかったのだ。

 それも仕方がない。マサゴロウが悪いのではない。

 アンシュラオンの防御はSS。1500以上は軽くある。仮に虎破の攻撃補正が二倍だったとしても、攻撃A以下ではダメージを与えられるか怪しいところである。

 あの攻撃力がSの凶悪なデアンカ・ギースでも、軽く血を流させるくらいで精一杯だったのだ。マサゴロウの力では、いくら溜めてもあの魔獣には及ばない。


「ほら、一発で諦めるな。何発でも打ち込んでみろ」

「うう、ウオオオオオオオ!!」


 ドンドンドンッ ガンガンガンッ
 ドンドンドンッ ガンガンガンッ
 ドンドンドンッ ガンガンガンッ


 マサゴロウは拳を連打する。身体に似合わずラッシュは速い。

 が、結果は同じである。

 何度もやっても目の前の少年は潰れない。


 それにマサゴロウが―――笑う。


「フフフ、フハハハハ!! ツヨイ、ツヨイ、ツヨイ!!! ナラバ、ならば!!」


 突如殴るのをやめたマサゴロウが、今度は掴みにかかる。

 アンシュラオンはよけない。

 マサゴロウは両手で戦気を掴み―――引っ張る。


「ニギル、ニギル!!! オオオオオオオオ!」


 グイグイグイッ!!

 どうやら両手に戦気を集中させて、引き裂こうとしているようだ。

 最初、アンシュラオンは何をしているのかわからなかったが、その行動によってマサゴロウのデータを思い出した。


(そういえば、こいつは『身体割りのマサゴロウ』だったな。なるほど。なかなか奇抜な発想だが、たしかにこの握力で引っ張られれば人体くらいは簡単に裂けるかもな。普通の人間ならな)


 マサゴロウは両手を強化しているので、鎧ごと相手を引きちぎることができるのだろう。

 しかし、相手がアンシュラオンである。戦気に触れるのが精一杯で引き裂くことはできないようだ。


「せっかくだ。握力勝負をしようぜ。お前とオレ、どっちが強いかな?」


 アンシュラオンが戦気を操り、マサゴロウと同じサイズの手を生み出す。それを戦硬気で固めれば、擬似ハンドの出来上がりである。


 それで―――【力比べ】をする。


 体格では遥かに小さいが、こうして戦気を操れば大きさに違いはない。


 押し合いが開始。


 ぐいぐいと両者が力比べをしていく。


「どうした、ほらがんばれ。全然力が入っていないぞ。まさかこのオレに手加減をしているのか?」

「うう…ウウウウウ!!」

「おいおい! それじゃまるで赤ん坊だぞ! まだママ恋しいのか? さっさと全力で握れ」

「っ!!! ウウウウッ、おれはぁ…おれはぁあああ!!」


 その挑発に、急にマサゴロウの握力が強くなった。


(おっ、なんだこいつ? 急にやる気になったのか? まあ、それで何かが変わるわけでもないがな)


 グウウウウウッ バギャッ!


 アンシュラオンの戦気が―――マサゴロウの左手を砕く。


 手の平を返すなどの小細工はしない。単純に力で、上から覆い被さるように握り潰したのだ。


「グオオッ! 手がぁああ! おれの…手が!!」

「だから全力で握れと言っただろう。ほら、もう一個あるだろう。そっちは全力で握れよ」

「ふーー、ふーーーー!!」


 マサゴロウは歯を食いしばって、全身を震わせながら残った右手にすべての力をかける。

 ギリギリッ ギリギリッ

 身体の奥底から絞り出すように、握力計を握り締めた時のように一点に力を込める。

 爆発するかのような輝きとともに戦気が集約。相手を殺すために全身全霊の力を出す。

 指の感覚がなくなっていく。握っているかどうかすらもわからなくなる。噛み締めた歯が欠けるほどに、全身から力を振り絞る。


 これは―――初めての経験。


(ああ…これ……母ちゃん……)


 マサゴロウの脳裏に、ふと母親の顔が浮かぶ。

 赤子の頃から武人の血が覚醒していた彼は、知らずのうちに母親の手を握り潰してしまったことがある。加減ができないゆえの悲劇だ。

 それでも母親は彼を愛し、世話を続けた。恐れをなした夫が逃げ出しても続けた。


 だからいつしか―――本気で握れなくなっていた。


 荒くれ者として一般人を殺した時も、マフィアに入って敵の身体を割った際も、全力など出したことはなかった。

 出さずとも倒せていた。

 だが今、生まれて初めて全力を出している。全力を出していながら、まったくもって何の変化もない。

 目の前の小さな生き物は、何の興味もなさげに自分を見つめていた。つまらないものを見るような目。虫けらを見る目である。


(これは…壊れない)


 自分が本気で握ったところで「なんだそれは?」という程度の顔しかしない。根本が違う。存在が違う。

 だから壊れない。だから壊れない。だから壊れない。


「コワレナイィイイイイイイイ!!!」


 グチャッ!!

 全力で握った結果なのか、マサゴロウの右手が【自壊】した。

 あまりの威力に身体のほうが耐え切れなかったのだ。それを前提にして訓練していなかったからだ。


「つまらん。お前も弱い」


 アンシュラオンが無造作に繰り出した拳が、マサゴロウの腹にヒット。


「―――っ!?!」


 凄まじい衝撃とともに吹っ飛ばされ、ヤキチの隣の壁に激突。鉄壁がひしゃげ、身体の半分が埋まる。


「がっ…ふっ………」


 マサゴロウは動けない。両手が潰れたうえに戦艦の砲撃のような一撃を受ければ当然である。

 されど、まだ意識はあるようだ。それにアンシュラオンが驚く。


「ほぉ、今のはけっこう本気で殴ったんだが…一発で死なないところを見ると耐久力だけはあるようだな。その身体に免じて、一応合格にしておいてやろう。終わるまで生きていたら、あとで治療してやる」


 技を使わない通常攻撃であるが、かなり本気で殴ったのは事実である。それでも死なないのは、見た目通りに彼の耐久力とHPが高い証拠だろう。


「…負けた…ああ、コレガ…負けか」


 マサゴロウは、自身の潰れた両手を見て―――笑った。




170話 「戦罪者審査 『雷槍のマタゾー』」


「次は誰だ?」

「ぜひ拙僧とお手合わせ願いたい!!」


 槍を持っていた小柄な男が、ずいっと前に出る。

 ずっと気になっていたのだが、この男は虚無僧(こむそう)が使う、頭をすっぽりと覆った天蓋(てんがい)のようなものを被っていた。

 よく時代劇で、尺八を吹きながら歩く僧が被るアレだ。

 ただし、竹などで作られているわけではなく、金属製のような鈍い輝きがあるので防具なのかもしれないが。


「拙僧? 僧侶なのか?」

「人を殺めるために修練を重ねてきた卑しい僧でございます。欲が我慢できずに堕ちた次第。されどこの歳になっても武への意欲は衰えてござらぬ!!!」

「そ、そうなんだ。僧侶らしいといえば、らしいけどな…」


 アンシュラオンの中での僧侶といえば、女と肉食が大好きな腐った連中だ。自分も一度でいいから墓を盾にして金を徴収するという、あこぎな商売をやってみたいものである。


(この世界にも仏教があるのか? あるとしても、おそらく違う名前だろうが…僧という概念はあるようだな)


 これもおそらく地球からもたらされた文化だと思われる。

 転生者の霊性レベルもそれぞれ異なるうえ、霊界の上部に行かない限り、こうした地上的宗教の枠組みからは逃れられない。

 いわゆる成仏というのは、人間の霊が地上的束縛から解放される段階を意味する。その段階に至れば、もはや霊的な自然法則に名前は必要ない。

 今回の場合は、いまだ仏教的思想で留まっている下層階の人間が転生し、それを普及させたのだろう。古ぼけた思想を広められるのは迷惑な話であるが、この世界の根幹が女神なのでまだましだ。最後は人類の統括者たる彼女に行き着くのだから。

 それ以前に目の前の男は武人。

 その欲求は女や金ではなく、ただひたすらに血を求める衝動にあるのだろう。それもまた卑しい欲望であるので、この男はいわゆる破戒僧というやつだと思われる。


「それで、名前は?」

「マタゾーと申します」


(さっきから日本人っぽい名前のやつばかりだな。時代劇に紛れ込んだ気分だよ)


 どうやら人種が多様なように、日本人っぽい名前の輩も世界中のあちこちにいるようだ。そのあたりに頓着がないのは、なんとも奇妙な世界に感じられる。


「いいだろう。相手になってやる」

「かたじけない。では…遠慮なく!!」


 マタゾーが長い槍を軽く振り回して構える。背が低いので槍が大きく感じられるが、槍自体は二メートル強の一般的なサイズだ。

 槍の尖端は四角錐状の刃が一つ付いており、突き刺すことを念頭に置いた造りをしている。

 それと対照的に刃の反対側の石突きの部分には、打撃用だと思われるやや大きめの球体が付いていた。

 構える姿に隙がまったくない。手慣れた様子から嫌でも相手の高い力量が伝わってくる。


(この男、この中では一番の武闘者っぽいな)


 ヤキチもマサゴロウも強いのだろうが、目の前の男から感じる気質はゼブラエスや陽禅公に近い。

 ただ強くなるために修練を続けてきた武人だけが放つ気質。

 一般人から見れば何の意味もないような愚行の果てにしかない、狂気の力を追い求めた人間だけが放つオーラを感じる。

 それは単に人殺しが目的なのではなく、強さへの探求心が呼び起こすものである。その意味では、先の二人とはまるで別物だ。


 スルッ


 荒々しい掛け声も挙動もなく、男の手から槍が放たれた。

 シュッ

 音が遅れてやってくるほどに速く突かれた一撃が、何の躊躇いもなくアンシュラオンの頭部を襲う。

 されど、それは肉体に届く前に再び戦気によって防がれる。


 ガキィンッと硬いもの同士が当たる音が響き、槍が―――弾かれない。


「…いい腕だ」


 その一撃をアンシュラオンが褒める。

 槍の細い尖端が、一ミリの狂いもなく完璧に戦気と真正面から衝突し、全エネルギーを一点に集約させていた。だからぶつかっても弾かれないのだ。

 槍を完全に操っていなければできない芸当である。少しばかりアンシュラオンも驚いた表情を見せた。

 だが、それ以上の衝撃をマタゾーは受けていた。


「なんと…! これほどとは…なんと…美しい。武とは、これほどまでに輝くのか! この五十年間の修練さえも届かぬ領域が、目の前にあるというのか…」


 マタゾーの身体が震える。

 恐怖でも怯えでもなく、それは【歓喜】。

 自分より強い人間がいることは知っていたし、実際に見たこともある。だが、より修練すればどうにかなると思わせるものであった。

 五十年の間、物心がついた時から槍を振り続け、ようやくにして【一点】の力を手に入れた。武人として多少ながら成長したという実感もあった。

 この槍こそが自分の人生の集大成。ただそれだけに人生を費やしてきた。


 それが―――砕かれる。


 否、比べるのもおこがましい。天を見て掴めると思う傲慢さ、地を見て壊せると思う不遜さが恥ずかしい。

 目の前の存在は、矮小な人間が見る巨山のように雄大で、人が踏破を夢見ることすら許さない圧倒的な差を感じさせる。


 それでも、槍は捨てられない。


 自分は死ぬまで槍にしがみつくしかないのだ。


「これで終わりじゃないだろう? 五十年、がんばったんだ。受けてやるよ。全力でこい」


 その気概をアンシュラオンも汲み取る。火怨山での修練を思い出したからだ。この男もまた、血反吐を吐いて武を磨いてきた同類なのだから。


「…かたじけない!! わが人生をかけさせていただく!」


 ふぅう、と男が練気を開始するとピリピリとした戦気が放出される。

 それは若干雷の気質を帯びており、相手が雷属性を宿していることがうかがえた。

 バチンッ バチンッ

 マタゾーの周囲に静電気が弾けるような音が響き渡る。強い雷気が槍を覆っているのだ。

 それはリストに載っていた彼の異名を彷彿とさせる。


(なるほど、たしかに『雷槍のマタゾー』だ。こいつも変わった男のようだが、レベルは明らかに一個上だな。イタ嬢のスレイブくらいって言っただろうに。モヒカンのやつめ、マキさんやファテロナさん級のやつを連れてきてどうする)


 マタゾーの実力はファテロナに近いレベルにある。おそらくマキでも正面から戦えば苦戦するに違いない。

 つまり、この男も達人クラスだということだ。

 人生をかけて武だけを追い求めた男である。その努力が無駄で終わることはない。


(こうなると豚君を鍛えてやらないといけないかな。このままじゃ…あいつ、死ぬよな。死んでもいいけど、場合によっちゃ違うところで使えるかもしれないし…)


「ぬんっ!!」


 マタゾーは振り回した槍を、まったく無駄のない手首の動作で手に収めると、再び高速で打ち出す。

 尖端から迸った剣気が【雷矢】となって飛んできた。

 剣王技、矢槍雷(しそうらい)。雷気で直線状に敵を打ち貫く放出技である。

 貫通力が高い技なので、敵が複数いても簡単に貫くことができる。因子レベル2の技だが、槍限定の技なので希少かつ攻撃力が高い。


「やれやれ、問題が多いな。まあ、そのあたりは適当に調整しておくか」


 アンシュラオンが戦気を水気に変化させて雷矢を包み込み、鉄床に方向転換させる。雷矢は鉄床を破壊し、そのまま流れていった。

 ガンプドルフ戦でやったのと同じ防御方法である。

 そのままでも防御はまったく問題なかったが、背後にサナたちがいるので、過剰なまでに安全な方法を選択したにすぎない。


「ぬんっ!!」


 今度は打ち出した槍が三つに分かれ、同時に襲いかかってくる。

 剣王技の三蛇勢(さんじゃせい)という技で、自分の攻撃に合わせて戦硬気で生み出した擬似槍を生み出すことで、幻惑しながら三連攻撃する技である。

 ガッガッガッ ガッガッガッ
 ガッガッガッ ガッガッガッ

 高速で放たれた槍が、擬似槍を含めて何度も防御の戦気にぶつかるも、アンシュラオンは微動だにしない。

 そもそも攻撃が通らないのだから反応する必要がないのだ。ヤキチもマサゴロウも、まだ誰一人としてこの戦気膜を破壊できていない。


(硬い…! なんと強固な!)


 戦気のどの部分を狙おうが、まったく打ち砕ける気配がなかった。

 圧倒的に相手の素の防御力が上である。おそらく戦気なしの生身であっても、いったいどれだけ傷つけられるか疑問に思えるほどだ。


(これが天賦というものなのか? …違う。天賦だけで得られるものなど、わずかのはず。この気配、拙僧よりも濃密な戦いの時間を過ごしてきたのは間違いない! こんな少年が、わが五十年を簡単に超えるというのか!)


 アンシュラオンに天賦の才は間違いなくあるだろう。なにせ魔人であるパミエルキの弟なのだ。それは間違いない。

 ただし、それを支えているのが、あの苦難の日々である。ガンプドルフでさえ恐れおののいた濃密な気配は、彼が日常的に魔境と呼ばれる場所で戦っていたからこそ得られたもの。

 けっして才能にあぐらをかいていたわけではない。努力した天才だけが放つ圧倒的な気質が垣間見える。


(ならば全身全霊、この身のすべてをかけるまで!!)


 マタゾーが槍に戦気を集中させると、さらに強い雷気で輝いていく。

 それはもう光そのものに近くなり、触れただけで黒焦げになるほどのパワーを宿している。


 その光が徐々に集約を始め―――尖端に集まる。


 マサゴロウもやった戦気の一点集中である。さらに彼には『一点の極み』があるので、その効果は倍増するだろう。


「………」


 槍を、突き出す。

 無言で繰り出された一撃は今までで最速の輝きを生み出し、一直線にアンシュラオンに向かっていく。


 剣王技、雷槍人卦(らいそうじんか)。


 因子レベル3で使える技で、全雷気を一点に集約して解き放つ強力な単体技である。【防御貫通】かつ【人間特効】を持つマタゾーが使える最強の技だ。

 彼が人生をかけて修練し、たどり着いた答えがこれ。ただ一つ、ただ一点にすべてをかけるという単純なもの。とてもシンプルな生き方。

 そんな人生しか生きられなかった男の執念が、この一撃に宿されていた。


 激しい光を帯びた槍の尖端が戦気に衝突し―――



 ズバンッ!!



 槍が―――戦気を抜けた。


 パミエルキなどの身内を除き、ガンプドルフ以外の誰にも抜けなかったアンシュラオンの戦気を貫いた。



(ああ、わが人生に…悔いなし)


 たったそれだけで至福。たった戦気を抜けただけ。ただそれだけが、あまりに愛おしい。

 されど、これほどの強敵相手に成しえたことならば、これはもう奇跡に近い。もし自分に家族や一族がいたならば、子々孫々まで語り継がれてしかるべき偉業である。


 槍は戦気を貫き、アンシュラオンの手に―――掴まれる。


 これは力比べではない。馬鹿のように突っ立っているわけがない。マタゾーの槍は戦気を貫いたが、ただそれだけだ。

 アンシュラオンは槍の軌道を完全に見切っており、上半身を軽く捻って造作もなく回避。そのまま目の前にきた槍の柄を掴んだのだ。


「不埒者め。相手に当たっていないのに満足するやつがあるか!!! それでも武闘者か!!」


 アンシュラオンの声には、多少ながら怒気が含まれていた。

 いったいどこに戦気だけを貫いて満足する武芸者がいるのだろう。相手を倒すために放ったのだから、当たらなければ意味がない。

 それは武への冒涜。相手を完全に滅することを信条とする「陽禅流」に対する軽薄な行動であった。怒られて当然だ。

 ぐいっ

 アンシュラオンが掴んだ槍を力任せに引っ張ると、それを持っていたマタゾーも持ち上がり―――そのまま床に叩きつける。


 ドッスーンッ!!


「がっ―――はっ!」


 マタゾーの視界が揺れ、意識が飛びそうになった。

 が、かろうじて頭を振って体勢を整えた瞬間には、すでに自分の槍は手元になかった。


「返してやろう」


 今度はアンシュラオンが槍を放つ。

 剣こそ多少使ったことはあれ、槍を使うなど初めてのこと。全部が見よう見真似。素人の真似事である。


 それなのに―――貫く。


 閃光が走り、世界が真っ白になると同時にマタゾーの身体に槍が突き刺さっていた。胸を貫通し、背中に尖端が突き出る。


「ごふっ…なんと……わが槍よりも…速し」

「お前は雷気で槍を加速させていたようだが、結局は腕力だからな。技量もクソもない。単純にオレのほうが力が強いだけだ」

「くふふ…道理。まさに道理!! これぞ力の理よ!!」


 初めて使った槍が、自分の五十年を上回る。ここまでくれば後悔などないし、畏敬の念しか湧かない。

 目の前の少年は、ものが違う。存在そのものが人間とは違うのだと悟る。


「ぐっ…うう……」


 傷口から血が溢れる。

 心臓の大動脈を破壊されているので、身体の中ではかなりの出血があるはずだ。


「後悔…なし。わが人生……凡夫(ぼんぷ)にして…ひと撫でであれ巨山に届ければ…」

「おい、勝手に満足するな。心臓が傷ついたくらいで死ぬようなヤワなやつでもないだろうに。いいか、お前の人生はオレのためだけにあればいい。槍じゃない。オレだけに捧げろ。男で、しかもお前みたいな腐れ坊主に捧げられても気色悪いが、致し方なく特別に許してやる。次こそオレのためだけに死ね。わかったな」

「…ああ、これぞ…拙僧が求めていた……もの。理不尽なまでの合理なり…」


 ポイッ ドタンッ


 アンシュラオンが槍を投げ捨てると、マタゾーも一緒に倒れた。

 がくっと倒れたが、まだ死んではいないだろう。それくらいで死んでいたら武人など務まらないのだから。




171話 「戦罪者審査 『ハンベエとムジナシ』」


「これで三人か。お前はどうする?」

「私ですか? 私はやめておきましょう」


 アンシュラオンが最初に並んだ四人のうちの最後の一人、ニヤニヤと笑っている若い男に話しかける。

 男の肌の色は白いが、アンシュラオンのものとは違い、どこか病的な弱さを感じさせるものだ。

 着ている服も普通なので、外で見かけたら裏スレイブとわからないかもしれない。


「いいのか? 自分の力を試さなくて」

「私は力自慢ではありませんから」

「では、お前の持ち味はなんだ?」

「そうですね…頭脳ですかね」

「気をつけろ。自分で頭がいいと思っているやつほど足元をすくわれるもんだぞ」

「なるほど、参考になります。ところで…そろそろ解放してくれませんかね?」


 男の周囲には、目に見えないほど薄い戦気壁が展開されていた。かなり薄いので武人であっても気がつかないほどだ。

 ただ、触れればダメージを負うことは間違いなく、それによって閉じ込められていたのだ。

 張ったのはアンシュラオン。


「いつ気がついた?」

「今さっきですよ。どうもね、反応が悪いと思っていたんです。本当ならもっと早く効果が表れているはずですから」

「狂った男だな。他の連中ともども全滅させるつもりか?」

「これは異なことを。ここでは自分が生き残るか死ぬか、それだけです。他人にかまう暇なんてないでしょう?」

「たしかにその通りだな。それでお前はどうする?」

「さあ、それはあなた次第です。私の体力ではこれを抜けるためには命がけになるでしょう。そんな危険を冒すくらいならば、おとなしくあなたに従いますよ」


(さて、どうするか。ずいぶんと危険な男のようだしな…)


 アンシュラオンがこの男を閉じ込めたのは、最初の整列が終わった時であった。


 その理由は―――【毒】を撒いていたから。


 非常に微量なものだが、男からは毒が発せられていた。それに気がついたアンシュラオンは即座にサナをガードするため、男を閉じ込めたのだ。

 どうやら男自体は毒に耐性を持っているようで何も感じないらしく、周囲が毒に満たされても平然としている。

 だが逆にそれが災いして、自分が閉じ込められていることに気づかなかったようだ。

 周囲を見回し、毒に汚染されている人間がいないことで、ようやくそのことに思い至ったというわけだ。


(この男は…間違いないな。『味方殺しの毒撒きハンベエ』だ)


 男は、この場にいる全員を殺してもいいと思っていた。それはまさに異名通りである。

 男の武器は毒。非常に強力ながらも、常に味方を巻き込むことで有名となった狂人である。

 どこぞの研究者だったようだが、次第に毒の魅力にとり憑かれて賞金首に成り下がった男だ。

 というより、この場にいるほとんどの人間には懸賞金がかかっているらしい。まともな人間がいるわけがない。


 アンシュラオンはしばし考え、男の処遇を決めた。


「ほら、出してやる。手を握れ」


 そう言って、アンシュラオンが戦気壁越しに左手を出す。

 左手だけ戦気壁の内部に入れた形だ。


「ああ、これはどうも」


 ハンベエはその手を取った。


 カリッ


 ただその際に、軽く人差し指の爪でアンシュラオンの手の端を引っかく。

 意図せずとも、たまたまこういうときがあるものだ。たとえばレジでお釣りをもらう際、うっかりと爪が当たってしまうことはよくある。

 だが、これはわざとだ。


(くくく、どうやら毒に耐性があるようですが、この毒はどうでしょう。私の体内でのみ生きていられる毒…。これならばあなたでも…)


 ハンベエが持つ『特殊毒素生成』スキル。

 毒耐性すら無視して相手を殺す毒薬を生み出すスキルだ。毒無効でも多少の影響は免れないので、その凶悪さがよくわかるだろう。

 しかし強すぎる反面、外気に晒すと簡単に気化してしまうため、こうして直接送り込むしかない。非力なハンベエにはリスクが高すぎるデメリットだ。

 それでも手間に見合う威力を持った毒薬で、強い魔獣でさえイチコロの取っておきである。

 この男は、最初からアンシュラオンを殺すつもりであった。その一瞬の隙を待っていたのだ。

 実に狡猾でしたたかな男である。彼はこうやって何百人もの人間を殺してきた。


(はぁぁ、あなたはどんな顔をして死んでくれるのでしょうねぇぇ。楽しみですよぉ。とてもとてもぉお)


 ハンベエは心の中でアンシュラオンの死にざまを想像して恍惚とする。

 彼の趣味は、毒に侵された人間が苦しんで死ぬ姿を観察すること。その表情を見て楽しむことである。

 力強かったものが徐々に弱っていく姿が、なんとも言えずに美しく思える。虫に殺虫剤を少しずつかけて、弱らせていくときの快感に似ている。

 目の前の強く美しい少年が、いったいどんな顔をして死んでくれるのか。それを考えるだけで達しそうになるくらいだ。


「あっ、そうそう。お前に一つだけ言っておくことがある」

「なんでしょう?」


 その妄想に耽っていた瞬間、その声で我に返る。まだ毒は完全に効いていないようだ。それだけでも恐るべきことだが、この取っておきが効かないとは思えない。

 平静を装って、話に耳を傾ける。


 が、直後―――予想もしないことが起きる。


「お前のせいで妹が危険に晒された。罰を与える。もし生き残っていたらゴミクズのように使役してやるから感謝しろ」


 アンシュラオンの左手が―――取れた。

 まるで作り物の手のように、ずぽっと抜ける。


「へ? なっ…!? これは…!?」

「ずいぶんと目が悪いようだな。それとも興奮していて気づかなかったか? 今度からは肌の色もよく見ておくんだな。オレの肌がそんな汚い色をしていると思うか。馬鹿め」



 それは―――ヤキチの左手。



 アンシュラオンのものとは比べ物にならないほど薄汚く、普通に見ればおかしいと思えるような明らかな差異があるもの。

 さきほど切り落とした左手を、戦いの最中に命気で包んで回収していたのだ。

 差し出したものは自分のものではない。ハンベエは勝機と快楽への欲求に負けて騙されてしまったというわけだ。


「ど、どうして…わかったのです?」

「お前みたいな危ないやつに油断などするか。それよりも自分の心配をするんだな。ほら、その手をよく見てみろ」


 ハンベエは毒を注入することに気が向いていて気がつくのが遅れたが、その手は何かを握っていた。


 握っていた丸いカプセルのスイッチが解放され―――




 大納魔射津が―――爆発




 ボンッ


 戦気壁で覆っていたので外部にはまったく影響を与えず、内部でのみ爆発が起きた。

 逃げ場もなく、すべてのダメージが中にのみ集中したので、ハンベエにとっては最悪の状況だったことだろう。

 サリータに渡したものは前の残りであり、これは新しく補充していたものだ。常に準備は怠らない。それがアンシュラオンという男である。


 ブスブスブスッ


 白の中に黒が混じった煙が晴れると、ゆっくりと内部が見えてきた。


「…いたた。けっこう痛い…ですね」


 ハンベエは生きていた。


 ただし身を翻して防御したせいか、身体は焼け焦げ、背中と側頭部の一部が破損している。

 それでもこうして話せるのは、非力とはいえ彼が武人だからだろう。その生命力はたいしたものだ。


「生きているようだな。まあ、この程度で死ぬようなやつに興味はないがな。いいだろう。お前の毒は役立ちそうだ。約束通り、ゴミクズのように使役してやる。涙を流して感謝しろ」

「ふふふ、光栄です」


 仮に身を翻していなかったら半死だったのは間違いない。咄嗟の判断力によって生き残ることができた。

 しかし、そんなことよりも、こうしてやり返されても笑っていることのほうが異常。

 その笑みには怒りや憎しみといったものがまったくない。単純にすべてを享楽として楽しみ、受け入れている異常者の姿があった。

 そして、ハンベエもまたアンシュラオンに興味を抱く。


(くっくっく、毒を見抜いていたのか用心深いのか。それにしても他人の左手を使うとは、なんて残忍な。いえ、残忍という気持ちすらない。だって私たちは、彼にとってはゴミですからね。あの左手も使い捨ての道具でしかない。ああ、いいですね。この感じ。この人は何か面白いことをやりそうな気がします)


 当然、アンシュラオンはハンベエたちのことを対等になど思っていない。

 せいぜい100円ショップの使い捨て電池くらいの感覚だ。それがまた彼らにとっては快感である。




「さて、これで四人とも終わったわけだが…ほかにいるか?」


 その言葉に答える者はいなかった。誰もがアンシュラオンの強さと魅力に惹かれている。

 ここにいる人間は、ただで命を失おうとは思っていない。何かのために、誰かのために死のうと思っている連中だ。

 その相手が自分より強いのは当然。そして、アンシュラオンが放つ威圧的で傲慢な感じが―――刺激的。


 この世界で長く生きていればわかる。


 この男は他とは違う。普通の人間とは違うのだ。そんな畏怖すべき存在と人生の最後に出会えた幸運に、誰もが感謝していた。


「旦那、やったっすね!」


 モヒカンが呑気に駆け寄ってくる。アンシュラオンの強さを間近で見て、改めて忠誠を誓ったのだろう。

 しかし、これで終わりではない。


「安易に近寄るな。どうやらもう一人いるようだ」

「へ? ど、どこにっすか?」

「最初から最後まで出てこなかったが…そろそろ引きずり出すか」


 ドッスーーーンッ

 アンシュラオンが鉄床を踏みつける。


「どわわっ!」


 その振動にモヒカンが倒れるが、それが重要ではない。

 足には戦気をまとわせており、踏んだ瞬間に【地中】に放出。


 鉄を破壊し、床を破壊し、建物の基礎部分を破壊し、さらに地中に向かい―――命中。


 さらにアンシュラオンは水気を穴に注入し、その【虫】を引きずり出す。



 ズルズル ズルズルッ ズポンッ



「げぼっ…がぼっ……」


 そこには水気に捕縛された上半身裸の男、たぶん変態がいた。

 身体中が土塗れなので、今まで地中に潜んでいたことがうかがえる。


「気色悪い虫だな。なんだこいつは? オケラか?」


 男の顔は半分が擦り減っており、正直相当グロい顔をしている。ただし、これはアンシュラオンの攻撃でこうなったのではなく、最初からこういう顔なのだ。


「その男は知っています。ムジナシ…でしたか? 土の中から標的を引きずり込んで殺す暗殺者です」


 その問いにハンベエが答える。同業者同士、顔見知りらしい。


「こいつも裏スレイブか?」


 確認のため、モヒカンにも訊いてみる。


「そ、そうっす。リストにいるっす。たぶん『土潜りのムジナシ』っす!」

「オレが心配する義理はないが、簡単に逃げ出されているようだが大丈夫か?」

「申し訳ないっす…。同じスレイブ商として恥ずかしいっす。それより、いつから気づいていたっすか?」

「最初からだ。常時周囲は監視しているからな。誰だって地中に人間大の反応があれば、おかしいと思うだろうさ」

「さすが旦那っすね」



 これで全員が集まった。



 最初の十四人にオマケの一人を加えて【十五人】だ。これがアンシュラオンの新しい道具となる。

 当然、女の子のスレイブとはまったく扱いが違う。彼女たちは大切な所有物だが、男たちは使い捨ての駒でしかない。

 そして、それを何より嬉しがるような変態どもだ。遠慮なく、こき使ってやればいい。




172話 「戦罪者との契約」


「それじゃ、このスレイブたちと契約するってことでいいっすか?」

「そうだな。悪くない面子だ。だが、少し強すぎたかもしれないな」


 他の戦罪者はともかく、アンシュラオンが戦った戦罪者たちはイタ嬢の七騎士以上の強さである。

 マタゾーは達人級、ヤキチとマサゴロウも単独で軽々ビッグを倒せるくらいの実力はある。

 ハンベエに至っては、知らずに近づいただけで毒殺される可能性があるので、さらに危険な人材だ。

 想定していたより明らかに強い面子が集まったといえる。


「そ、そうっすか? 自分はよくわからないっす。旦那を見ていると強さの基準がますますわからなくなるっす…」


 モヒカンにとっては、それを一蹴するアンシュラオンのほうが脅威である。

 素人であっても桁が違うのは一目瞭然だ。こんな存在と対等に戦える者がいるのか疑問にさえ思える。


「こんなの集めて、この都市を落とすつもりっすか?」


 計画を知らされていないので、何をやろうとしているのかまでは知らない。

 だが、普通に考えればまともなことではないはずだ。この面子ならば、かなりのことができるに違いない。

 領主城に単身で乗り込むような男である。何か大きなことをやらかしそうだ。そこに一抹どころか大いなる不安を抱くわけである。


「そのつもりなら、わざわざこんな連中は必要ないさ。オレだけで事足りる。そうしないからこそ面子が必要なんだよ。相手の基準に合わせてやっているんだからな」

「そ、そうっすか? それならいいっすが…不安っす」

「そんなにびびるなよ。ちょっとしたお遊びじゃないか。遊びなんだから楽しまないとな。お前だって退屈しているだろう? そんな連中に楽しい時間をプレゼントしてやるだけさ。まあ、オレ流のドッキリみたいな感じだな。驚きすぎて心臓が止まるかもしれないけどさ。ははは」

「…そうっ…すね……なるほど…」


 モヒカンは頷きながら、壁に打ち付けられて半死状態の裏スレイブを見る。


 彼らは―――笑っている。


 ここまで傷ついているのに、とても楽しそうに笑っているのだ。

 人を殺すことを享楽とし、こうして殺されることを喜ぶような者たちだ。こんな連中を外に解き放ったらどうなるか、想像するだけでも背筋が寒くなる。

 何より、そんな連中を取りまとめるアンシュラオンが恐ろしくてたまらない。

 使えない戦罪者を殺す際も躊躇いなどはまったくなかった。自分も逆らったらああなるだろうことは明白だ。

 スレイブ館に謎のモヒカン型の焦げ跡が残り、「奇異! モヒカンの聖地誕生!」とか書かれて名所にされてしまうに違いない。

 各地方からモヒカンが集まり、自分の死んだ跡を崇めるなど想像もしたくない。


(くわばらくわばらっす。自分は自分の仕事に集中すればいいっす。長いものに巻かれるのが長生きと成功の秘訣っすからね)


 モヒカンは、アンシュラオンの側にいることに安堵する。

 逆に敵対する相手に哀れみすら覚えるが、自分が生き残るほうが大切なので忘れることにした。




「ええと、たしかあの別嬪さんのメイドが契約するっすよね?」

「そうだな。オレにとっては実験の意味合いも強いし、彼女に任せるつもりだ。ただ、この五人にはギアスは付けられない」

「え? どうしてっすか!?」

「そんな素直な連中に見えるか? オレの強さを知りながら向かってきた相手だぞ。お前のところのギアスで収まる輩じゃない」


(こいつらの精神は全員がC以上。どのみち無理だな)


 他の戦罪者はD以下なので問題ないが、ヤキチ、マサゴロウ、マタゾー、ハンベエ、ムジナシはC以上である。

 ファテロナの件から考えてギアスは効かないと思ったほうがいいだろう。

 精神の値は戦気量にも関わってくるものだが、彼らの場合は常人離れした気概、生きざまや胆力からくるものだろう。強烈な生き方への執着が、そうした強靭な精神力を養うのだ。


(ギアスを付けられないと不安ではあるが…サナは一緒に連れて歩くし、何かの予兆があれば処分すればいいか。どうせ戦いが激化すればこいつらにも余裕はなくなるしな)


「いいか、この瞬間からオレが絶対支配者だ。くだらないことで暴れたり文句を言ったら即座に殺すからな」

「へへ、オヤジ…か。悪くねぇ」

「…おれの…命を…オヤジに」

「オヤジ殿……拙僧の力、存分に使うとよい」

「くくく、面白くなりそうですよ。ねぇ、オヤジさん」

「ごぼっ…げぼっ…」


(こいつら、大丈夫かなぁ…)


 アンシュラオンは生来の人間不信からまだ疑っているが、戦罪者たちはすでに魅了状態にある。

 裏には裏のやり方、生き方がある。その流儀で彼らを支配したのだ。


 それから治療を行い、戦罪者たちの審査は終わる。


 ヤキチの手は戦気でガードしていたので損壊はなかったが、数も多かったので多少の時間は浪費することになった。これも投資だと思えば惜しいものでもないが。


「さて、あとは契約か。ホロロさんを呼ばないとな。それとついでにあちらの用事も進めておくか」


 その日は、連絡馬車でホテルに手紙を送って終わりとなった。

 再びバランバランやコッペパンに行って、武器や術符の補充をするなどで終了する。






 翌日の午前十時、スレイブ館の前に馬車が止まる。

 いつも乗ってくる白い馬車ではなく、ホテルの馬車乗り場にある至って普通の色合いのものだ。大きさも四人乗りで、こじんまりとしている。

 そこから、一人の女性が降り立つ。

 口元にホクロのある艶やかな女性、アンシュラオン専属メイドのホロロである。


 ガチャッ


 ホロロがスレイブ館の表店のドアを開けて入る。

 店の中には前にも見たモヒカンの男がおり、愛想笑いを浮かべていた。


「あっ、どうもっす」

「おはようございます。…あの御方は?」

「奥にいるっす。案内するっす」

「そうですか。では、お願いいたします」


 そんなモヒカンにホロロは静かな視線を向ける。

 彼女の口調も何の感情もない事務的なもので、美人を前にして少し舞い上がるモヒカンとの対比が酷い。

 しかもホロロはこんなことを思っていた。


(醜い男です。心の醜悪さが顔に表れている。でも、こんな男でもあの御方の大切な道具。無駄に軋轢を生むことはないでしょう)


 そう思い直してから、一転してニコリと笑う。


「あっ…へへ」


 その笑顔にモヒカンが少し頬を赤くするのが気持ち悪い。何を勘違いしているのだろう、こいつは。

 しかし、それも仕方がないかもしれない。

 日々スレイブと接し、その中にはファテロナのようなホロロ並みの美人もいるはずなのだが、彼にとってスレイブは道具であり、恋愛対象にはならない。

 ラブスレイブも性欲を晴らす存在ではあっても、結局のところ心までは許せない存在なのだ。

 となれば、恋愛対象はスレイブではない一般女性ということになり、免疫のないモヒカンが舞い上がるのも仕方がないことであろう。

 この点に関しては、姉とスレイブしか愛せないアンシュラオンよりは、幾分かましな人間だともいえる。

 が、そんなことは関係なく、最初からホロロにとっては汚物程度の存在なのは変わらないのだが。


 そうしてモヒカンに「愛想」を振り撒いたあと、ホロロは背後にいる者に声をかける。


「あなたも入りなさい」

「…は、はい」


 もう一人、扉から入ってきた女性がいる。

 小柄で可愛らしい雰囲気を持った女性だが、頬が少しコケているので、せっかくの愛らしさに翳が差している。


「行きましょう。主を待たせるのはメイドの恥です」



 モヒカンの案内で、二人が裏店に到着。

 相変わらず薄暗い通路をいくつか通り過ぎると、少しだけ広い部屋に出る。


 そこにはアンシュラオンとサナがいた。


 その瞬間、ホロロの顔に嘘偽りのない真実の笑顔が花開く。


「ホワイト様、黒姫様、ただ今参りました」

「ありがとう、ホロロさん。まあ、座ってよ」

「はい。失礼いたします」


 ホロロが促されるまま椅子に座る。

 アンシュラオンは従順で綺麗なホロロに満足しつつ、もう一人の女性に視線を向けた。


「やぁ、リンダも久しぶりだね。おっと、ミチルだったかな。まあ、ここならどっちでもいいか」

「っ…は、はっ…い」

「ん? どうした? まだ今日の分の麻薬は打っていないのか?」

「い、いえ、うち、打ちました…」

「そうか。まあいい、君も座りなさい」

「は、はい…」


 バクバクバクバクバクバクッ

 リンダの心臓が早鐘のように鳴る。

 アンシュラオンの姿を見た瞬間から身体が震え、顔も一気に青白くなっていく。

 あの時に植え付けられた恐怖が蘇りそうになるのを必死に我慢し、何とか椅子に座ることに成功するも、震えだけはどうしても止まらない。

 本当の恐怖を植え付けられた者の正しい姿である。これ以上の見本はないだろう。

 そんなリンダにはまったく興味がないので、アンシュラオンはホロロと話を進める。


「セノアとラノアはどう?」

「セノアには緊張が見られますが、ラノアのほうは完全に慣れたようです。二人とも、おとなしく部屋にいます」

「それはよかった。外に出たがらない?」

「今のところは問題ありません。二人には部屋が安全だと言いつけておりますし、学ばせることも多いものです」

「そっか。一応はメイド扱いだからね。それに勉強とかも教えてあげないといけないなぁ。子供のうちからしっかりと教育しないとね。ほんと、教育は大事だよ」


 メイドの知識はホロロが教えてくれるだろうから、それ以外にも文字の読み書きや術士としての勉強もさせてあげたい。

 サナも戦闘で武人としての経験を積んでいるので、彼女たちはサポート役として育ってほしいものである。


「サリータはどう? 実は一番気がかりだったんだけど…上手くいった?」

「はい。大丈夫です。彼女は実に忠実で扱いやすい人間でした」

「ほっ、よかった。特にトラブルはなかったんだね。セノアとラノアはどう反応した?」

「最初は驚いていましたが、彼女の丁寧な対応に警戒を解いたようです。うろうろさせても邪魔なので、現在は部屋の前で番犬のように立たせています。特に文句もなく生き生きと仕事に邁進しているようです」

「おお、それは何よりだ!! ふー、なんとかなりそうだね。よかったよかった」


(サリータが一番心配だったからな。なんだ。案外ちゃんとやっているようじゃないか。安心したよ)


 一番の懸念はロゼ姉妹が怯えてしまうことだったが、普段のサリータは優しい女性なので、ロゼ姉妹に対しても丁寧に接しているようだ。

 問題は有事の際の護衛力であるが、今のところ誰かが襲ってくる様子もない。まだ大丈夫だろう。


 報告を聞き終えて安心したので、次の話題に入る。


「さて、ホロロさんには話してあった通り、あいつらと契約してもらうよ」

「かしこまりました。…あれが裏スレイブですね」

「…えっ」


 リンダが慌ててホロロの視線を追うと、そこには何人もの男たちが立っていた。

 アンシュラオンへの恐怖で感覚が完全に麻痺していたので、密偵でありながらそれに気がつかなかったのだ。

 もしかしたらリンダはもう密偵の仕事はできない可能性がある。身体と心が半分壊れかけているからだ。

 ただ、男たちも異常である。

 誰もが何一つしゃべらず、黙って気配を殺して立っている。まるで背景の一部かのように自然だったからこそ、リンダも気づかなかったのだ。


 それは当然、アンシュラオンが命令したからだ。


 男の無駄話など聴きたくもないので、「黙って直立不動で立っていろ」と命じたので、その通りにしているのだ。


「残りは違う部屋で待機させているよ。まずはあいつらで試してもらおうかな。あれは大丈夫だと思うから」

「かしこまりました」


 アンシュラオンが立ち上がり、裏スレイブたちに命令する。


「彼女がお前らクズどもの主人となるホロロさんだ。当然だが絶対服従だ。もし逆らったり指の一本でも触れてみろ。その瞬間に全員殺すからな」


「「「「「 うすっ、オヤジ!! 」」」」」


 ドスの利いた声が一斉に返ってきた。

 あれだけの戦いを見せたのだ。この場にいる誰もがアンシュラオンを「オヤジ」と認めている。

 正直、ギアスなど必要ないくらいに彼らは主に忠実である。だが、代理契約の実験もあるのでホロロに契約させるべきだろう。


「モヒカンはホロロさんの契約のサポートを任せる」

「はいっす!!」

「なんだか嬉しそうだな?」

「そ、そうっすか? べつにいつもと同じっすよ!!」

「そうか。じゃあ、任せる」

「了解っす! ホロロさん、こっちっす!」

「はい。よろしくお願いします」

「へへ、任されましたっす!!」


(哀れな男だな。まあ、夢を見るくらいは許してやるか。手を出したら毛をむしるけど)


 にやけ顔でホロロを案内するモヒカンを哀れみの視線で見送りながら、今度はリンダに向かう。

 視線を向けただけで、再びリンダが震えだす。


「そんなに怯えるな。お前に興味はないし、危害を加えるつもりはない」

「は、はい…」

「お前を呼んだ理由がわかるか?」

「…ふぁ、ファミリーのこと…ですか?」

「そうとも言えるが、今日は豚君のことだ」

「ビーくんの…?」

「逢引きを装って豚君を呼び出してくれ。不自然にならないようにな」

「は、はい。わかり…ました。でも、呼び出すって…その、まさか…」

「安心しろ。殺しはしない。と、そんなに信用がないのか、オレは?」


 激怒した際、一度約束を反故にして攻撃したので、そのことが彼女の脳裏から離れないようだ。

 それは自分がやったことなのでしょうがない。信用しろというほうが無理だ。


「だが、このままではどうせ豚君は死んでしまう。これから起こる抗争でな」

「えっ…!?」

「事はオレとソイドファミリーだけの問題じゃないってことさ。もう火種は撒かれている。恋人を救いたいのならば言うことを聞いておけ。オレがあいつを鍛えてやる。生き残るためにな」

「…はい」


 リンダにはアンシュラオンがやろうとしていることはまったくわからなかったが、さきほど見た裏スレイブたちの雰囲気があまりに不穏だったので、その言葉に嘘はないと思えた。

 どのみち逆らう選択肢はないので、頷くしかないのだが。


(豚君の修行か。男相手にオレがわざわざ手ほどきするのは嫌だから、師匠直伝の『陽禅流』でやるとしようか。きっと驚くだろうな。そのための仕込みもあとでやっておこう)


 慌てふためくビッグの顔を想像して、思わず笑うアンシュラオンであった。




173話 「豚君のデート詐欺被害報告」


「ファッ!? フォッ!?」


 べつに何かの冗談でも釣り文句でもない。

 これはソイドビッグが、【ソレ】を見た瞬間の率直な感想である。



 少し時間を遡ろう。

 彼は先日、恋人のリンダから連絡を受けた。内容は「デートしよう」という、恋人ならありふれた内容のメッセージ。

 もともとお互いに忙しく、なかなか会う機会もなかったため、その誘いはとても嬉しかったものだ。


「…そうだな。身も心もボロボロだもんな…俺たち。少しは息抜きも必要だよな」


 あの男と出会ってから、自分の人生はボロボロになってしまった。

 家族といても監視されているようで居たたまれず、裏切っているという罪悪感で胸が張り裂けそうになる。

 それが身内を生き残らせる唯一の方法だと言い聞かせているが、その分だけ自分の心を犠牲にしているのだ。

 何をやっていても集中できず、仕事にも身が入らない。いっそこのまま逃げてしまいたくもなる。

 しかし、愛するリンダも人質に取られている手前、そんなことはできない。もしそんな決断をしたら、間違いなく地獄が待っているだろう。


 よって、ボロボロ。


 何もされていないのに日々耐え難い苦痛に苛まれているのだ。

 そんな時、リンダから連絡があった。

 きっと彼女も苦しんでいるのだろう。たとえ心の底から喜べなくても、少しでも気が紛れるのならば幸運だ。

 苦しいときこそ一緒に歩むから家族なのだ。リンダともそういう関係になりたい。愛を維持したい。


 そう思ってやってきたのだが―――



 その場にいたのは、【あの男】。



 思わず変な声を出してしまうのも仕方ないだろう。


「よぉ、久しぶり」

「あっ…なっ!? ファッ!?」

「ついに人間の言葉も忘れたのか? それともオレの顔を忘れたわけではあるまい?」


 今は仮面をしていないが、この顔と声を間違えるわけがない。

 あまりの驚きで頭が真っ白になる。


「おまっ…ホワイ…ぶはっ!? ごっぼぼっ!?」


 ビッグがその言葉を発する前に、口に水気が満ちた。


「げぼっ、げぼっ!」

「迂闊にその名前を出すな。ついてこい。話がある」

「ぶはっ…くっ……」


 水気を解いてやると、ビッグは忌々しげにアンシュラオンについてくる。


「乗れ」


 用意してあった馬車を指差す。


「…どういうつもりだ? まさか彼女に何か…」

「安心しろ。お前の恋人は無事だ。そういう用事じゃない」

「…わかった」


 ビッグは訝しげな視線を向けながら、渋々馬車に乗る。

 どのみちアンシュラオンことホワイトには逆らえないのだ。従うしかない。





 馬車は金色に輝く小麦畑を通りながら、ゆっくりと南門に向かう。

 その間、ビッグはひたすら動揺する心に翻弄されていた。彼もリンダと同じく、心に大きな傷を負っているのだ。

 あの時のことを夢に見るので睡眠不足はもちろん、常に周囲から監視されているという強迫観念によって、歩いているだけでも激しいストレスを感じる。

 もう完全にPTSDの症状である。

 ただ、まだこうして出歩けるだけリンダよりはましだろう。男としての最低限のプライドと、大切なものを守る意思だけが彼を支えているのだ。


 そのすべての原因となった男が目の前にいる。


 これも相当なストレスだが、リンダが近くにいないだけ安心である。あんなに会いたかったのに、今はいないのが嬉しいとは皮肉なものだ。


「もうすぐ麦の刈り入れか。コシシケの刈り入れもやるのか?」


 少し落ち着いたのを見計らって、アンシュラオンが話しかける。


「安全のため、いくつかに分けてやっている。一期目は終わって、これから二期、三期とある。これからが本番だ」

「では、まだまだ忙しい時期だな」

「そうだ。だからあんたの道楽にかまっている暇はないんだ」

「そのわりには意気揚々とやってきたようだがな。なんだ、その格好は? 浮かれやがって」


 ビッグはセーターにズボンというカジュアルな服装でやってきた。

 よくカップルのデートで見かけるものだが、ビッグが着ると違和感が半端ない。


「それはあんたが…! じゃなくて、リンダがデートしようっていうから…」

「あれは嘘だ」

「もうわかってるよ…ちくしょう…。詐欺に遭った気分だ」


 人生の終わりのような顔をして俯く。

 またもや幸せの絶頂から奈落に突き落とされた気分である。この男と付き合うと、ろくなことにならない。

 ただ、これもソイドファミリーから仕掛けたことなので、その多大なる代償を支払っているにすぎないが。


(この様子だと、ファミリー側はまだ何も知らないようだな。リスクを負ってまでリンダを使った価値はあったかな)


 リンダに命令したのはファミリー側に怪しまれないためでもあるが、それによって何か周囲で異変が起こるかどうかをチェックする目的もある。

 ビッグ自身が裏切らずとも、他の人間が感づくかもしれない。あるいはホワイトに接触するビッグに対して見張りが付いているかもしれない。そうしたことを探るためである。

 だが、今のところ異変はない。追跡している者もいない。

 まだ完全に油断はできないが、ソイドファミリー自体は暴力を前面に出すタイプの組織なので、こうしたことに大雑把な可能性が高い。

 少なくともキブカ商会とは雰囲気が違うのは間違いないだろう。


「やはりお前は、ソブカとは似ていないな」


 その落胆する顔を見て、思わずあの男と比べてしまう。

 ソブカならばこんな顔は絶対にしないだろうし、そもそも騙されてやってくるようなこともないだろう。


「あいつはどうした? もう会ったんだよな?」

「オレに訊くより、お前のほうが詳しいんじゃないのか。親類だろう?」

「俺とあいつは幼馴染だが…ソリが合うわけじゃない。あいつが何を考えているのかなんて、俺にはわからねぇよ」

「お前とは違う意味で、あいつは面白い男だったよ。自分の欲望のために努力をしている。行動もしている。お前とは別物だ」

「もしかして…馬鹿にしたのか?」

「そうだ。それくらい気がつけ。お前は怠惰な豚だが、あいつは少なくとも目的に向かって何かをしようとしているぞ」

「なっ!? 俺が努力をしていないってのか!?」

「しているとでも思っていたのか? 親のスネをかじって、流されるままに生きていただけだろう。オレに負けたことを忘れたわけではあるまい。それともお前は、自分がソブカに勝っているとでも思っているのか?」

「それは…くっ…。あいつが商売上手だってのは認めるさ。だけどよ、俺だって…」

「仕方がないことだ。そもそもの存在が違うんだ。家畜と野生動物の違いってやつだな。家畜のお前が悪いわけじゃないさ」

「…それはもっと馬鹿にしていないか?」


 ビッグとソブカは違う。ソブカは自分の野心のためにリスクを冒すことも厭わずに決断した。

 組長と若頭という立場の違いはあれど、両者の格の違いは歴然である。

 ただ、そこにもれっきとした理由と原因はある。


(ソイドダディーは単独でのし上がった叩き上げだ。そういうタイプは子供に甘くなる。一方のキブカ商会は長く続いている組だ。そうなると今度は、ああいった異端児が生まれる。凝り固まったものを破壊するためにな)


 ソイドダディー自体が異端であり、自らの力でソイド商会を創り上げた強い固体である。いわゆる中小企業の創始者だ。

 一方のキブカ商会は、何百年も続いたラングラス一派の組織である。逆にこうした組織では、次第に衰退していく中で、自然と弱いものを淘汰する異分子が生まれることがある。


 これぞ自然界の掟、摂理。


 傲慢な金持ちの最後の子孫に、清廉潔白、品行方正な人物が生まれて清算が行われるように、すべては淘汰と再生進化の流れの中にあるのだ。

 ビッグは何も考えずに甘く育てられ、ソブカは緩慢な束縛された世界を憎しみながら育った。

 両者が違うのは当然だ。そうでなければ、かえって不公平だろう。


「ともあれ、ソブカもお前と同じ状況になった、とだけ言っておこう」

「…そうか。あんたにかかれば…それも仕方ないな」

「そういうことだ」


 アンシュラオンは、それ以上のことは言わなかった。

 そのためビッグは、ソブカも暴力で脅されたと思っているのだろう。同情するような顔がその証拠だ。


(こいつは頭が悪いからな。情報を与えると漏れる危険性もある。嘘は言っていないし、勘違いしてくれるのならばありがたい)






 ガタゴト ガタゴト


 馬車は都市を出ると、北東に向かっていく。

 さらに移動し、ついには交通ルートからも外れ、荒野の中に入っていく。

 その様子にビッグの表情が硬くなる。


「どこまで行く気だ? ひと気のない場所で俺を殺す気か?」

「せっかく苦労して手に入れた駒だ。そんなことはしない。それよりお前、強くなりたくはないか?」

「強く…だと?」

「オレに散々やられて悔しくはないのか? 少しくらい抵抗してみたいと思うだろう。それに、せめてソブカに武で勝たないとお前の存在意義がない」

「あいつと比べるな」

「ふん、それこそ意識している証拠だろうが。お前たちは血筋を大事にしているようだからな。同年代の親戚で、お互いにラングラスの組を受け持っているのならば比べられるのが当然だ。そこから目を背けても何の利益も生まれないぞ」

「…利益か。あんたらしい考え方だな」

「お前が世の中と物事を知らないだけだ。利のないところには何も生まれない。自己陶酔で自爆して満足する輩もいるが、あんな連中こそ社会の害悪、人間のクズだよ」


 意味のないこと、無価値なこと、利益が出ないこと。これは最悪だ。

 勝てない勝負をすることもそうだ。よく感情に訴えかけて人々を煽動し、勝てない戦いに導く指導者がいるが、あれこそまさに人類の害悪でしかない。

 彼らは利を与えず、破滅しか呼ばない。そして、負けたことをさらに理由にして、憎しみだけを無垢な子供たちに植え付けていく。

 まったくもって無価値でマイナスの借金だらけの存在だ。それこそアンシュラオンがもっとも嫌うものである。


 そして、ビッグもまたその境界線上にいる。


 甘やかした父親も悪いのだが、このままではただの負け犬ならぬ「負け豚」になるだろう。そういう腐った性根の者がいれば組織全体に影響を及ぼす。


「お前はソイドファミリーを維持するための道具の一つだ。だから強くなる手助けをしてやる。それならば少しは自信が持てて、世の中を見る余裕ができるはずだ。それはお前が大好きなリンダを守ることにもつながるだろうさ」

「………」

「どうした?」

「いや、まさかあんたがそんなことを言い出すとはな。何か裏があるんじゃないかと思っただけだ」

「当然だ。裏がない話など、この世には存在しない」

「では、それがあんたの利益になるということか?」

「そうだな。今言ったようにお前はファミリーに対する保険の一つだ。しかしこれから先、お前が望む望まないにかかわらず、いろいろなことが起こるだろう。そこでお前が死なれると困る。せっかく手に入れた豚を出荷しないまま死なせたら、完全なる赤字だろう? 赤字は嫌いなんだよ」

「…やっぱりあんたは変わらないな」

「当然だ。人間がそんなに簡単に変わるか」

「それで、あんたが修行をつけてくれるのか?」


 一瞬、そのことに恐怖を覚えて身体が震える。

 あの魔人の姿を想像すると、どうしてもこうなってしまうのだ。

 だが、その問いにアンシュラオンは首を横に振る。


「残念だがオレは男を鍛えるつもりはない。代わりの【師】を用意してあるから安心しろ」

「ふぅ…よかった」

「そうだな。よかったな」


 その時、アンシュラオンが不気味に笑った顔をビッグは見ていなかった。

 それを見ていれば少しは警戒できたのだろうが、もはや手遅れであろう。




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