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「欠番覇王の異世界スレイブサーガ」

作者  園島義船



□ 第二章 「ホワイト先生と太陽の子犬」 編


112話 ー 123話




112話 「豚君へのプレゼント 前編」


(これで仕事も終わりだ。懐柔が終わったなら、リンダも帰ってくるだろう。ようやく結婚ができるな。ああ、長かった…。あいつには今までの分も、いい思いをさせてやりたい。幸せな家庭を作りたいな)


 リンダが初めてやってきた日、それはもう廃人のような姿だった。

 すべてに絶望をして諦めてしまった少女の顔は、ビッグに大きな衝撃を与えたものである。

 生まれた時から裏社会で暮らし、常に闇と隣り合わせで生きてきた彼の周りには、汚いことも暴力も当たり前のようにあった。

 人を殺したのは、まだ小さな頃である。

 武人としての力もあったので、ちょっとしたトラブルで口論になった相手を殴り殺してしまった。

 思ったより罪悪感はなかった。もとよりファミリー以外の人間に対する感情が希薄だったので、それも自然なことだろうか。


 だが、リンダと出会って、それが少しだけ揺らいだ。


 あの顔を見てから、自分がやってきたことが正しかったと言えなくなった。いや、最初から正しくないことはわかっていたが、それが麻痺していたのだ。

 吹き溜まりにいると、いつしかそれが当たり前になってしまう。人間として当たり前にある善の感情がわからなくなってしまうのだ。


 それが、壊れた。


 あの時初めて、他人に対する哀れみを覚えたのかもしれない。

 今まで血縁者との絆しか知らなかった彼に、人間としての温かみを与えてくれた女性。それがリンダだ。

 彼女のことを考えると胸が熱くなる。そして、幸せにしてあげようと思うものだ。

 すべては彼女のためにやったこと。我慢したことだ。その解放感を胸に、ホワイトから遠ざかろうとする。


「では、私はこれで…」

「ああ、そうだった。忘れていた。待て。お前にプレゼントがある」


 それをホワイトが止める。

 一瞬、嫌悪の感情がよぎったが、プレゼントという言葉に不快よりも疑問が勝った。


「プレゼント? 私に…?」

「うむ。オレばかりが要求するのも悪いだろう。だから、お前たちが喜ぶような【物】を用意してきた。忙しいだろうが、受け取る暇くらいあるだろう?」

「…ええ、まあ。プレゼントをもらえるというのは…嬉しいものですね」

「そうだろう、そうだろう。外で待たせてあるから、今持ってくる」


 そう言ってホワイトは、仮面の少女と一緒に外に出ていった。

 それもまた不思議な光景である。あの少女は何者で、なぜ一緒にいるのだろう。リンダの情報では妹だという話だが、それを連れ回しているのはなぜなのか。

 妹も仮面を被っていることも不思議で仕方がない。噂には王族説や貴族説もあるらしいので、本当に顔を晒せない素性なのかもしれない。

 謎の技術で末期患者すら治すのだ。恐るべき能力である。それを考えれば、顔を隠すくらいは当然だとも思える。


(プレゼントか。そんなものを用意しておくとは、やはり裏側の世界に通じた人間なのかもしれんな。それとも今までのことは演技で、こういうところでバランスを取るつもりなのかもしれない)


 今まで見たホワイト医師は、傲慢で横柄ではあるが頭はかなり良い。すべてを計算ずくだとすれば、実にあざとい男である。

 だが、そんな男が持ってくるプレゼントについては皆目検討もつかない。

 医療品を扱っている者たちに同じものを与えるとは思わないし、彼が何かを集めているという話も聞かない。今のところまったく予想できなかった。

 物なのに待たせてある、という言い方も不思議だ。あえてそういう言い回しをしたのか、ただ言い間違えたのか。



 そして、しばらく待っていると、ホワイトに連れられてモヒカンの男がやってきた。


(なんだあの男は? ホワイトの知り合いか?)


 待たせていたのは、あの男だろうか。取引の場にあまり部外者を入れたくないが、ホワイトが連れてきたのならば何も言えず、ただ見守る。


「お待たせしたっす。旦那がいきなり言うから用意に手間取ったっす」

「衛士たちは大丈夫だったか?」

「旦那の身分証があったから問題なかったっす。で、場所はこちらでよろしいっすかね?」

「ああ、問題ない。代金はオレが払ってやるから安心しろ」

「いやー、大助かりっすよ。こっちは在庫が余っていて困って…いたっ!」

「こら、余計なことを言うな。余り物みたいで印象が悪いだろう。あくまでプレゼントだぞ」

「す、すみませんっす」


(待てよ。あのモヒカンの男は…スレイブ商人か?)


 ビッグはスレイブには疎いが、領主の娘が白スレイブを集めていることは知っているので、最低限の知識だけはあった。

 この都市にスレイブ商会は二つしかない。その中で白スレイブを扱っているのは八百人という店だけだ。

 目の前にいる特徴的なモヒカンの男は、イタ嬢が懇意にしているスレイブ商人だったという記憶がある。

 狭い都市である。世間もまた狭いもので、裏社会の人間もよく見る顔ばかりだ。おそらく間違いないだろう。


(もしかしてシロを買い取ってくれるのか? スレイブにはシロも有効と聞くからな。だが、何か逆のようなことを言っていたような…)


 麻薬の目的はさまざまだ。その中にはスレイブに使用して、言うことを聞かせやすくする用途も存在する。

 あるいは依存症にさせて、薬を対価に上手く操るなどの手法もよく行われるという。

 ビッグはスレイブ商人というものを見て、それ以外に何も思いつかない。

 彼はたしかに裏側の人間で、日常的に闇に触れてきた男だ。しかし、闇は闇でもいろいろな種類が存在する。


 ホワイトが用意したのは、【違う色の闇】。


「ほら、行け」


 ホワイトの言葉で、ぞろぞろと何かが店に入ってきた。



 それは―――女たち。



 数は四人。首にスレイブの証である緑のジュエルをぶら下げているので、彼女たちがスレイブの女性であることは一目瞭然だ。

 しかし、その足取りは非常に不安定。今にも倒れそうに、ふらふらと歩きながら入ってきた。

 中には、いきなり壁に頭をぶつけた者もいるが、他の女性たちは気にも留めない。

 その異様な光景に、店にいた従業員やホステスはもちろん、ソイドファミリーのメンバーたちも驚きを隠せない。

 それがただの女性ならば、こうは驚かないが―――


「うへへ…へへ……」

「はは…あはは……はっ…へぁ…」

「あー、あー」


 その誰もが明らかに正気を失っているのだ。目は焦点が定まらず、口も開きっぱなしでよだれを垂らしている。

 そのわりに服はそれなりに立派なので、その対比が凄まじい。


「こ、これは…?」


 あまりのことにビッグでさえ、声が少し震えてしまったかもしれない。

 されど、一方のホワイトなる医師は、それはそれは楽しそうに語った。


「見ての通り【ラブスレイブ】の女たちだ」

「ラブスレイブ…?」

「それくらい知っているだろう?」

「え、ええ。存在自体は…」

「なんだ、見るのは初めてか。それじゃ、いいことを教えてやろう。ラブスレイブは、身体のどこかにそれを示す【印】がある。こいつらの場合は…ここだな」


 そう言って、ホワイトは女のドレスのスリットをめくり上げる。

 太ももの内側に―――薔薇の焼印があった。

 正確には薔薇に似た花であり、花言葉は「支配される愛」である。


「これは劣等ラブスレイブを示す印だ。等級が変われば焼印ではなく、また違った印になることもある。まあ、これも地方によって多少の差異があるがな。ともあれ、これがラブスレイブの証明だ」

「は、はぁ…」

「だが、これはいかん。本当はあまりやりたくはなかった。女性の肌の美しさが損なわれてしまう。焼印では触った時の感触も悪いしな。やるなら色素系のものとか、あるいは識別番号などがいいんだが…それではつまらないという意見にも頷ける。腕輪とかだと壊れてしまうかもしれんし、これはなかなか難しい問題だ。オレとしては、ジュエルを変えればいいと思うのだが、そっちのほうが難しいと言われてしまった。ほんと困るよな。だが、オレは諦めないぞ。ラブスレイブがラブスレイブらしく、もっと輝ける方法を探すつもりだ。うん、任せておけ。オレが来たからには、必ず新しい技術と概念を打ち立ててやろう!」


 喜々としてラブスレイブの説明をするホワイトは、ものすごく楽しそうだ。

 それはもう、その道のマニアが素人相手に熱弁するように、あれこれ嬉しそうに説明をしている。

 一方のビッグは、その温度差についていけず、ぽかんと状況を見つめるしかなかった。

 ホワイトが、それにようやく気がつく。


「ああ、そうだったな。君はまだまだ初心者だったね。重要なのは、もっと単純な部分だった。安心しろ。頭は壊れているが、身体が穢れているわけじゃない」

「頭が壊れている? 障害者…ですか?」

「いいや、普通の女たちだ。むしろ知力が高かった女もいるな」

「では、これはどういった状況で? 麻薬でも使われましたか?」

「ん? そんなものは必要ない。単に精神を破壊しただけだ」

「…は?」

「邪魔だろう? ラブスレイブに必要なものは身体だけだ。もちろん泣き叫んだりもするから楽しめるぞ。これがオレからのプレゼントだ」

「い、意味が…よくわからないのですが…」

「意味? 豚君は頭が悪いな。ラブスレイブは楽しむものだ。それ以上の意味なんてない。こいつらはもう自分では何もできないから、あとはお前たちが好きにして楽しめばいい。人間を飼うのは、なかなか楽しいぞ。おっ、豚君が人間を飼う…か。くくく、実にシュールで面白いじゃないか!! あはははは!! あの映画を思い出すなぁ。猿が人間を飼うやつをさ」

「………」

「どうした? 麻薬を取り扱っているなら、こういうやつも慣れたものだろう?」


 すでに自我すらなくなっている姿は、たしかに末期の麻薬中毒者を彷彿とさせる。

 ビッグも仕事柄、そういった人間を見てきたので、それ自体は珍しくはなかった。そういうものだと理解しているからだ。

 だが、それを楽しんでいるわけではない。あくまで仕事上において発生するマイナス要素であり、望んでいるわけではないのだ。

 むしろリンダによって他人に対する哀れみを知ったビッグにとっては、あまり見たくない光景だ。

 まるで自分の罪を見せられているかのようで、嫌気が差すことさえある。


 だが、目の前のホワイトは―――【愉しんでいる】。


 仮面で顔は見えないが、なんと楽しそうな声を出すのだろう。いったい何が愉しいというのか。どこに喜びを見いだすものなのか。まるで理解できない。


 そして、悟る。


(これがダディーの言っていた覚悟か。…厳しいな。ここまで痛いものかよ!)


 麻薬事業を引き継ぐということは、こういうマイナス面も受け入れるということである。

 プラスがあれば必ずマイナスも存在する。それを受け入れてこそのファミリーの長である。ダディーも長年、同じ痛みを受け入れてきたのだ。


「ほら、楽しめ。好きなようにしていいんだぞ」

「わ、私は…その…」

「なんだ、遠慮するな。こうやって尻を叩いて楽しむんだ。バンッとな」

「あー、あー」

「はははは! もっと鳴けよ! メス豚が!! バンバンッ」

「あーーあーー!」

「どうだ? いい声で鳴くだろう? こいつは同じ豚のメスだから、豚君は好物かもしれないな」


 ホワイトがラブスレイブの尻を叩いて笑っている。心底楽しそうだ。やはり何が楽しいのか理解できない。



 その狂気に―――思わず身震いした。



「くくく、はははははは!! いいね、すごくいい! お前たちみたいなクズには、ぴったりのプレゼントだ!! あははははははは!! まったくもって、お似合いだよ!! あーーーはっはっは!!」


(この男、わざとやっているのか!? だとしたら、とんでもないやつだ! 扱いやすいなんて思ったら大間違いだぞ!)


 ホワイト医師なる人物は、とても愉快そうに笑っている。これがわざとならば、自分たちに皮肉を叩きつけて笑っているのだ。

 「これがお前たちのやってきたことだ。オレはその手伝いをしてやるが、それでいいんだな?」と言っている。

 しかし、ホワイト自身が楽しんでいるのも間違いない。他人を馬鹿にして楽しんでいるのだ。

 ラブスレイブという【元人間】の女を使って。




113話 「豚君へのプレゼント 後編」


(この男、完全に壊れてやがる! くっ、こんな狂人といつまでも一緒にいられるか! 頭がおかしくなる! オレは帰るぞ!!)


 ホワイトに愛想笑いをしながら、ビッグはそっと場を離れ、同じく呆然としているジェイと接触する。


「あとは任せたぞ」

「えっ!? そんな! あれはどうすれば…」

「処理をしておけ。不要になった中毒者や売人を処分する場所があるだろう。そこでいい」

「よ、よろしいのですか?」

「よろしいも何も、あんな狂人に付き合っていられるか。あいつはまともじゃない。頭がおかしい。取引は終わった。あとはホステスの女を使って、適当に満足させておけばいい」

「わ、わかりました…」


 そう言うと、そそくさと入り口から帰ろうとする。

 胸はまだムカムカしており、酷い二日酔いになったような気分だ。吐き気がする。

 ビッグは今まで、人の命を軽く見る医者を大勢見てきた。しかし、それ自体を弄ぶタイプの人間には初めて出会った。

 医者だからこそそうなったのか、そんな男だからこそ命を左右できる医者になったのか。それはわからない。

 どちらにしても悪魔のような男である。仕事ならば仕方ないが、それ以上は見るのも不快である。


(はぁ、最低の日だ。だが、組織の上に立つと、こんなことも起こる。そもそも都市というものは綺麗事だけで成り立っているわけじゃない。それは覚悟していたことじゃないか。そう。裏があるから成り立つこともある。どんなつらい日々だって、リンダさえいれば…)


 裏社会の人間だって、人の子だ。人生は常に苦痛と苦悩に満ちている。麻薬を取り扱う罪についても知っている。

 そんな彼にとって唯一の希望は、リンダの純朴な笑顔である。彼女の笑顔があればがんばれる。



 それだけを想い、出て行こうとするビッグに―――投げつける。



「っ!」


 ビッグは反射的にそれを受け止める。鍛え上げた武人の肉体と反射神経が反応してしまったのだ。

 それを投げたのは、当然ながらホワイト。

 いつ動いたのか、ビッグのすぐ近くにまで移動していた。妹も一緒だ。


「いい反応だな」

「何を…」

「お前にはもう一つプレゼントがあるが…どうする?」

「申し訳ありません。私は用事が…」

「そうか。ならば、それは捨ててくれ。まあ、しょうがない。そういうこともある。それならば捨てるしかないな」

「何をおっしゃっているのか、よくわからな……っ!!」


 その時、ビッグは気がついた。

 その手に握ったもの、ホワイトが投げつけたものが何であるのか。

 大きいながらも敏感な手が、触覚だけで探るいつもの癖が、それが何であるかを教えてくれる。

 それは彼からすればとても小さなもので、丸い形状をしていた。感触は、ひんやりとして冷たく硬いものだ。

 屈みながら、恐る恐るそれを見る。


 そこにあったのは―――指輪。


 とてもとても見覚えのある指輪である。

 忘れるわけもないし、見間違えるわけもない。なぜならば自分が買ったから。買って渡したものだから。


(なんだ? なぜ、これがここにある? 似ているもの? いや、違う。イニシャルがある。これは…まさか!!)


「これっ―――!?」

「しー」


 思わず大声を出そうとしたビッグの口を、ホワイトが指で塞ぐ。

 簡単に振りほどけそうな指が、なぜかひどく重く感じられ、身動き一つ取れない。

 おそらくそれは、目の前の少年のような男から発せられる異様な威圧感が影響しているのだろう。動きたくても動けないのだ。

 そして、ビッグが指輪を大切そうに持っているのを見て、ホワイトは満足そうに笑う。


「どうやら君は、ラブスレイブは趣味じゃないらしい。申し訳ない。これはオレの選択ミスだ。このまま帰してしまっては、君たちとは友好的な関係を築けなくなる。これほどまでに、もてなしてくれたんだ。こちらも相応のものをプレゼントしないと悪いだろう? 心苦しくて、居ても立ってもいられなくなる。フェアじゃない」


 そして、半ば硬直しているビッグが持っていた指輪を取り上げてから、ゆっくりと撫でる。


「少し前に珍しい【鳥】を手に入れてね。調べてみたら、その鳥は豚が好物だっていうんだ。ははは、笑えるだろう? あんな綺麗な鳥が、豚が好きだなんてさ。まあ、そんな鳥だからこそ希少なんだがね」


 動悸が激しくなる。汗が滲んでいく。筋肉が硬直して動きが鈍くなっていくのを感じる。軽い目眩もする。

 これに似た状態を知っている。

 自分が「挨拶」をした相手が、いつもこのような状態になっていた。軽くほのめかすだけで、相手は面白いように動きを止めるのだ。冷や汗を流しながら。

 それを今、自分が感じているだけにすぎない。自分の番になったにすぎない。


 しかし、想像していたよりも―――遥かに苦しい。


 頭も身体も、ショックでまったく働かない。動かない。それが恐怖なのか、または違う感情なのかもわからない。

 ただただ苦しく、それでいて硬直する状況だけが続いている。まさに地獄である。

 そんなビッグの肩をぽんぽんと叩きながら、ホワイトは話を続ける。


「そんな時だ。豚である君と出会った。これは運命的だと思わないか? ちょうどそろそろ相手を見つけてやろうと思っていたところだ。君さえよければ、その鳥の結婚相手にでも……ああ、これはすまない。またミスを犯すところだったよ。まず最初に、君が鳥を好きかどうかを訊いていなかったね。これだとさっきのように、一方的なものになってしまう。そう、そこが知りたかったんだ。それが君を呼び止めた理由だよ」


 鳥が豚を好きなことは確認している。ホワイトには理解できずとも、それは間違いないようだ。

 しかし、はたして豚は鳥のことが好きなのか。

 そこがいまいちわからなかった。それによっては、今後の鳥の扱い方も変えねばならない。


「改めて訊こうか。君は鳥が好きかな?」

「無事…なのか」


 その言葉を発するまでが恐ろしく長い時間に感じられたが、実際はほんの数秒だったのかもしれない。

 まるで真夏のアスファルトの上。うだるような暑さの中で、歩いても歩いても辿り着けない「逃げ水」を追いかけているような絶望的な感覚に襲われている。

 無事なのか。生きているのか。

 すべてが真っ暗の世界において、唯一の光を探すように、その言葉だけをかろうじて搾り出す。


「それはもう元気さ。元気すぎて困ってしまうくらいだ。たまに大声で鳴くからね、叩いて、お仕置きしないといけないくらいだ。いい声で鳴くよ、あの鳥は。今度、遊びで翼をもぎ取ってみようかな。どんな声で鳴くかな? ぜひ君にも聴かせてあげたいね。君はそれで欲情するかな? はははは!」

「っ!!! ぐううっ!!!」

「おっと、こんなところで戦気を出さないでくれよ。誤解されてしまうだろう? オレと君は友達になろうとしている。今日招いてくれたのも、そういう意味だと解釈していいんだよな? それとも違うのかな? もし友達になりたいのならば、まずは気持ちを収めてくれないかな。そうじゃないと…鳥はどうなるかな? わかるだろう?」

「………」


 荒ぶる感情の戦気が、わずかに、本当にわずかに、少しずつ収まっていく。

 どちらに主導権があるのかは明白だ。それは声を聴けばわかる。

 ビッグの声は枯れたように弱々しく、まったく余裕はないが、ホワイトは自信に満ちた軽快な声で話している。


 すでに場は、ホワイトが支配していた。


 交渉を上手くまとめさせて緊張を緩和させたことも、ラブスレイブで困惑させ恐怖させたことも、鳥を使って絶望させてから怒らせたことも、そのすべてが計算によって行われたことだ。

 今こうしてビッグが戦気を放出できたのも、ホワイトがわざと「希望」を与えたからである。

 ビッグは、すでにホワイトの手中にある。彼を嘆かせることも怯えさせることも自由自在なのだ。



 ビッグから完全に―――抵抗の意思が消えた。



「…わかった……言うことを…聞く……」

「ああ、いいよ。素晴らしい態度だ。つまり君は、オレと友達になりたいということだね。ならば歓迎しよう。興味があるのならば、外に用意しているオレの馬車に乗ってくれ。ぜひ鳥と【お見合い】をさせたい。そうでないのならば、そのまま帰ってくれ。どちらにしても我々の友好関係は変わらない。強制はしないさ」

「…もし……帰ったら……」

「そうだなぁ。違う豚どもに売るとするかな。君も見ただろう? あんな感じにしてからね」


 そう言ってホワイトが指差したのは―――【壊れた人形】。

 さきほど店の中に放った、自我が壊れたラブスレイブたちである。

 豚どもに弄ばれるだけの哀れな鳥たち。ただ、哀れになったのは彼女たちにも責任がある。


「あの鳥たちは、オレのことを探ってきた馬鹿なやつらだ。その鳥の主人たちは、簡単にペットを見捨てたよ。あれは最初からそういうものだしな。今回オレが捕まえた鳥も、お前の組織とは関係ないのだろう? なら、問題はないよな。あんなふうにしてもさ」


 リンダの素性は、まだバレていないことになっている。組織としては、それを認めるわけにはいかない。

 ホワイトはただ、ホテルの従業員を確保しただけだ。たまたま好みだったのかもしれないし、何かが気に障ったのかもしれない。ただそれだけである。

 ソイドファミリーが、そのことに対して何かを言うことはない。まったくの無関係だからだ。

 だがそれは、あくまで組織としては、である。

 個人として、一人の男として、彼がどう判断するのかは別の話だ。


「三十分後、外に出る。それまでに決めてくれ。じゃあな」



 
 戻ったホワイトは、同類のモヒカンと仲良く談笑していた。


「いやー、旦那、大成功っすね。みんな、喜んでいるっすよ」

「本当だな。オレのアイデアはどうだ? 見事だろう?」

「最高っす。在庫整理もできたんで、こっちは大助かりっす」

「やっぱり、こいつらは売れなかったか?」

「がんばれば売れるっすが…劣等スレイブは、もともと安く買い叩かれるものっすからね。ラブスレイブにしても、反応がいつもあれだと飽きる客も多くて…」

「そうなのか? オレは楽しいと思うんだけどな…。こう、なんだ。エロゲーであるような、いつも発情している性奴隷をイメージしたんだが…ここでは受けないのかな? オレは個人的に一つくらいは欲しいんだが…」

「面白そうなアイデアっすね。常に発情していれば、余計な手間が嫌いな客には喜ばれるっす。ぜひ実現してもらいたいっす!」

「だろう? だが、常時発情は難しいらしいな。まだまだ実験が必要だ。また今度、違う女で試してみるよ」

「楽しみっすけど、機械を壊さないでくださいっすよー」

「大切に使っているさ。全部任せておけ。ははははは! オレについてくれば、お前も安泰だぞ」

「いやー、はっはっはっす! 今日は楽しいっすね! おっ、これは高い酒っすね。もらってもいいっすか?」

「タダ酒だ。飲め、飲め。浴びるほど飲め! おい、お前たちは歌え」


 ラブスレイブの尻を蹴ると、一斉に声を出す。


「あーーあーーー」

「あーーあーーー」

「ゲラゲラゲラ! 見ろよ! 合唱してやがる!! まるでカエルだな!!」

「旦那も鬼畜っすねー」


 笑っている。なぜか笑っている。

 他人の大切なものを踏みにじって、なぜか笑っている連中がいる。まったくもって信じられないし、神経が理解できない。

 殴ってやりたい。殺してやりたい。こんなやつらを生かしてはおけない。


 だが、そう思った時―――ビッグの目から涙が流れた。


 とめどなく涙だけが溢れ、身体が動かなくなる。殺してやりたいのに動けなかった。

 ホワイトにビビったわけではない。それ以上に哀しみだけが彼を支配していたからだ。

 走馬灯のようにリンダとの思い出が蘇る。一緒に歩いたこと、話したこと、楽しんだこと、愛し合ったこと。すべてが光り輝く思い出だ。

 しかし不思議なことである。人間というものは、常に悪いことばかりが記憶を占有する。

 ビッグの脳裏に浮かんだのは、今まで彼が人生を駄目にしてきた人間たちの顔。その怨嗟の声。自分に浴びせかけられる罵声と憤怒の声。


 そして、嗤っている声。


 目の前のホワイトのように、自分が不幸になったことを嘲笑している声が聴こえた。



―――「はははは! 今度はお前の番だ! せいぜい苦しめ!!」



 と。

 むろん、幻聴である。だが、それがビッグの心を削り取る。


(あぁ…ぁ……これが……【罰】か……。俺がやってきたことの…。だからこそ…俺はまだ……人間なんだ)


 まだ自分は涙を流せることを知った。それを教えてくれた女性がいる。

 その女性を見殺しにすることは、ビッグにはできなかった。




114話 「ブタブタブータブーーター、ブータをのーせーてー」


 アンシュラオンが外に出ると、一台の馬車が停まっていた。

 モヒカンがラブスレイブを連れてきた馬車であり、大きさもやや小さめの一般的なものだ。


 その小さな馬車の中に―――大きな人影が見える。


 御者であるスレイブ館の傭兵に目を向けると、軽く頷く。


「どうやら釣れたようだな。オレは豚の世話をしてくる。お前は違う馬車で帰っていろ」

「旦那、相手はソイドファミリーっす。大丈夫っすか?」

「それがどうした?」

「麻薬の元締めっすよ。うちもブラックっすが、相手は武闘派っす」


 すでにモヒカンはアンシュラオンに忠誠を誓っている。ただ、相手が相手なので少し汗も掻いているようだ。

 なにせソイドファミリーは武闘派で有名。

 敵対する者たちには武力行使も厭わない。彼らのシマに手を出して、実際に潰されたギャングなども多いという。

 ビッグや戦闘構成員が、武人として認定されるだけの力を持っていることは間違いない。そうした人員が少しでもいれば、普通の武装組織くらいは簡単に倒すことができるだろう。

 しかし、所詮はその程度にすぎない。

 軍隊を相手にすることもできない【単なるマフィア】でしかない。


「お前はまだ、オレのことを理解していないようだな」

「い、いえ、そんなことはないっす。旦那が強いのは知っているっす」

「実感が湧かないなら、一度何かで見せてやろうか? そのほうが安心するだろうしな。そうだ、お前もこれから一緒に来るか? 面白いものを見せてやれるぞ」

「だ、大丈夫っす! おかまいなくっす!」

「ん? そうか? まあ、お前は使える男だ。この調子でオレに尽くしていればいい。オレに従う限り、たかだか麻薬組織程度で怯える必要はない。わかったな」

「はいっす」

「うむ。では、行ってくる。またそのうち顔を出す」

「お待ちしているっす」


 モヒカンが従順に頷くと、アンシュラオンは満足そうにサナと一緒に馬車に乗り込んだ。


 馬車が動き出すまでの間、モヒカンは改めて少年の恐ろしさを痛感する。

 ソイドファミリーを相手にしても、彼はまったく動じていない。身の危険など、万一にもありえないからだ。

 その理由は単純。アンシュラオンが強すぎるのだ。


(この人を怒らせたらいけないっす。何があっても逆らっちゃいけないっす。それが賢いってことっす)


 モヒカンも裏の情報網で、アンシュラオンが戦ったという剣士について調べていた。

 まだ詳細は秘せられているものの、一部で囁かれているその正体は驚くべきものであった。


(間違いなく西側の軍人っす。しかも噂が本当なら、この間まで【三面戦争】をしていた超武闘派っす)


 三面戦争。

 国境を面している三つの国家と同時に戦争をすることである。

 普通はそんな状況にはならないが、一つの国が戦端を開き、情勢が変化することによって、他の二国も介入を始めることで発生することがある。

 一国を三国が攻撃するので、当然ながら圧倒的に不利に決まっている。

 しかし、その国は四年に渡って三国の侵略を防いできたという。


 それを支えてきたのが―――噂の【戦術級魔剣士】たち。


 一人ひとりが戦術級破壊兵器に匹敵する魔剣を有する、その国屈指の武将たちである。

 それが計六人、二名ずつの艦隊で各戦線を維持してきたというのだから、恐るべき猛者たちだ。

 その情報を知った時は、モヒカンも相当驚いたものである。


 魔剣士に、ではない。それを圧倒したアンシュラオンに、だ。


 ソイドファミリーが知っていたように、イタ嬢を救出したのはガンプドルフということになっている。

 当然、それは事実だ。間違いはない。

 ただ、表向きでは「何事もなく救出した」とされているが、それを信じる者は誰もいない。

 戻ってきたガンプドルフは、とても勝者とは思えない姿であったという。顔は汚れ、骨は砕け、予備とはいえ剣まで折られていたのだ。

 世間一般で言うなれば、その姿は【敗者】であり、命からがら逃げてきた者である。彼の功績は変わらないが、何事もなく、という部分は嘘に決まっている。

 そして、モヒカンは詳細を知らされているので、彼らよりもアンシュラオンが危険なことをよく知っていた。

 そんなボロボロだった有名な剣豪に対し、白仮面なる存在は、満足した顔で楽しそうに戻ってきたのだから。

 食後のデザートを食べて、それなりに満足そうにしながら「まあまあ美味しかったよ」といった具合に。

 どちらが勝者かは、誰が見ても明白であろう。

 彼は西側の武将を相手にしても動じない。おそらく軍隊が相手でも同じだろう。戦艦だって生身で破壊できる。

 たかが麻薬組織、という言葉は事実なのだ。


(旦那に目をつけられたら終わりっすね。ソイドファミリーの若頭も哀れなもんっすよ…。せめて逆鱗に触れないようにしてくださいっすよ。巻き添えは御免っすからね…)


 馬車を見送るモヒカンは、ただただ同情の念を抱くしかなかった。






 アンシュラオンが馬車に乗ると、頭が天井に届きそうなほどの大男が乗っていた。

 彼こそが、ソイドビッグ。ソイドファミリーの若頭にして、リンダの婚約者である。

 ビッグは、乗ってきたアンシュラオンに鋭い視線を向ける。

 その目にはさきほどのような感傷的な輝きはなく、まさにマフィアの幹部という貫禄が滲み出ていた。

 ただし、必死に繕っていることがわかるので、アンシュラオンの余裕は消えないが。


「やあ、待たせたね。乗ってくれたということは、覚悟は決まったということかな?」

「…何が目的だ?」

「慌てるなよ。馬車を出してくれ」


 その質問には答えず、御者に命令を出し、馬車は動き出す。


 馬車は、ホテル街に向けてゆっくりと移動を開始。

 それから五分近く、両者ともに無言の時間が続く。

 モクモク パリパリ
 モクモク パリパリ

 サナがさきほどの店でもらったお菓子を食べる音以外は、何も聴こえない。

 ガタゴト ガタゴト

 馬車は静かに走っていく。


「意外だな。誰も尾行をしていない」


 先に口を開いたのはアンシュラオン。

 波動円で周囲を常時観測しているが、こちらを追ってくる者はいなかった。少なくとも半径五百メートルには、意識的かつ継続的に馬車に視線を向ける人間はいない。

 せいぜいが本当の歓楽街の客くらいで、それも数秒視線を向ける程度。敵と呼べる存在は見当たらない。


「何という口実で出てきたんだ?」

「医者とサシで酒を飲むと言ってきた。尾行も必要ないと言ってある」

「殊勝な心がけだ。素直なのは嫌いじゃない」


 すでに話がついたのは事実なので、そこまで疑わしい口実ではないだろう。

 店の従業員も口外は絶対にしないし、ソイドファミリーと表立って争う者たちなど、この街にはそうそういない。

 事情を少しだけ知っている戦闘構成員の中には、ホワイトと飲むという口実で、リンダに会いに行ったのではないかという勘繰りまであるくらいだ。

 唯一側近のジェイは急な心変わりに訝しんだが、「誘われたから断れない。仕事を完遂させるのがホスト役のオレの役目だ」と言ったら、納得はしなかっただろうが、食い下がることもなかった。

 誰もビッグが脅されているとは思わない。想像の範疇を超えているからだ。

 そう、当事者であるビッグでさえ、いまだに理由が理解できないのだ。


「もういいだろう。教えてくれ。あんたの呼びかけに応えて、こちらは接待をした。内容に不満があったのか? 何が理由だ?」

「接待自体はまったく問題ない。十分楽しませてもらったよ」

「では、なぜだ?」

「チンピラをふっかけておいて、よく言うな。あれは明確な敵対行為じゃないのかな」

「…知っていたのか。どうやって知った? 彼女が口を割ったのか?」

「いいや、逆だよ。その二人が来たから、オレは鳥を締め上げたにすぎない。どうやって知ったかというのは秘密だな。どうだ? 身に覚えはあるだろう?」

「………」


 ビッグは、そのことに対しては何も言えないし、ダディーを責めることもできない。

 もともと自分も、そうした荒っぽい手段を提案したのだ。それが引き金となったのならば、ある意味では自分の責任でもある。

 ホワイトは明らかな敵対行為を受けたのだ。そのうえ、そのことに対する謝罪もなく、何もなかったことにしたソイドファミリー側に非があるのは明白。それが理由だと言われてしまえば反論はできない。

 一応、最初に渡した五百万は詫び料でもあったのだが、それを明確にしていない以上、相手はどうとでも言えるだろう。目の前の男ならば、「オレほどの偉人が出向いてやったんだ。足代にしかならん」とか言いそうだ。

 これ以上、その件をつついてもやぶ蛇になりかねないので、話の内容を変える。


「どうやって彼女のことを?」

「それもチンピラを見破ったやり方と同じだ。オレには偽名は通用しない」

「それだけの情報網を持っているのか? 情報屋か?」

「質問ばかりだな、豚君。そんなに鳥のことが気になるかな? それとも、まだファミリーを裏切る決心はつかないかな?」

「裏切る…だと?」

「薄々気がついているんじゃないかな。君は選ばねばならないんだよ。ファミリーを取るか、鳥を取るかをね」

「ファミリーを裏切る選択肢は、絶対にありえない。知っているかどうかはわからないが、我々は血で繋がっている。それは絶対の絆だ。天秤にかけられるものじゃない」

「そうかな。もしそうだったならば、君はここに乗っていないと思うがね。じゃあ、今からでも見捨てるかい?」

「………」

「できないようだね。しかしまあ、あの犬もそうだが、君たちは血縁関係に執着しすぎだ。所詮、血の繋がりにすぎないというのにな…。そんなものよりも自分の大切なものを優先する君には、少しばかり好感が持てるよ。ぜひ、そのままの君でいてもらいたいものだ」


(この男、やはり最初からそれが目的か…)


 ビッグが比較的冷静でいられたのは、リンダのことをほのめかされた時から、そうではないかと薄々感じていたからだ。

 そうでなければ、彼がわざわざこんな真似をする意味がない。

 金を受け取り接待まで受けて、なおかつ交渉が終わったにもかかわらず、あえて敵対するような行動に出るのだ。それ以上の旨みがなければ、普通はできない。


「あんたにはどんなメリットがある?」

「メリットはたくさんあるさ」

「リスクのほうが大きいはずだ。ここは壁に囲まれた狭い世界だ。こんなことをすれば、中で生きることができなくなるぞ」

「それは楽しみだ。刺激がない生活も疲れると知ったからね。適度に血を見るのも悪くない」

「都市を敵に回してもか? あんたも見ただろう。衛士だってこちら側についているんだぞ」

「脅しにもならないなぁ。ん? 待てよ。そうなったら遠慮なく領主を殺していいってことか。それもいいな。相手からやってくるなら、あのおっさんとの約束には違反しないよな?」

「正気か? 刺激を得るなら違うものにしてくれ。強い刺激は身を滅ぼす」

「くくく、麻薬組織とは思えない台詞だな。そんなことにはならないさ」

「今ならまだ間に合う。無傷で返してくれれば、大事にはしないと約束する」

「そんな約束をオレが信用するとでも?」

「本当だ。頼む! 大切な婚約者なんだ!」

「ははは。脅しに泣き落としか。豚君は、なかなか多芸だ。思ったより面白い男だな。まあ、目的地に着くまで時間がある。ゆっくりと考えてくれたまえ」


 ホワイトはそれ以上は語らず、ワインを注いで飲み始めた。

 ビッグの前にも注がれたが、真っ赤な血の色のワインを飲む気分にもなれない。

 何より、目の前の仮面の男から感じる絶対的な自信の理由がわからず、困惑ばかりしていた。


(その自信はどこから来る? 俺たちを敵に回してもいいってことか!? くそっ、まるで聞く耳を持たない! 狂人だから、怖いものなんてないってのか!)


 何を言ってもホワイトは動じない。それどころか、こちらの反応を見て楽しんでいる。


(落ち着け。怒れば怒るほど、こいつのペースになる。前だって切り抜けられた。ならば、今回だってできるはずだ)


 少しずつ落ち着こうと努力を続け、結果としてある程度の平静を取り戻すことに成功する。

 誘拐は初めてではない。ビッグが幼い頃、他の都市からやってきた者たちによって、一度だけ誘拐されたことがあった。

 そいつらもファミリーを分裂させようと画策していた黒い連中である。


 しかし、結果はどうなったか。


 誘拐した連中は、その報いを受けることになった。どんなに裏切らせようとしても、ソイドファミリーの結束が揺らぐことはないからだ。

 家族想いは伊達ではない。どんなときも家族は絆を大切にする。けっして見捨てることはないし、かといって相手に屈することもない。

 ファミリーの絆は、血の絆なのだ。切ろうとして切れるものではない。


(まずはリンダの無事を確認する。可能ならば、その場で奪還するが、状況次第で我慢しなくてはならないかもしれない。しかし、最後には絶対に取り戻す。そして、こいつに報いを受けさせる。シンプルな話だ)


 裏の組織はなめられたら終わりである。

 誘拐ビジネスのように、一度でも支払ってしまえば終わりのない螺旋に引きずり込まれるのは明白。

 従っているふりをして状況を確認するべきだ。それが誘拐された際の鉄則である。


(今回もいつもと同じだ。落ち着け。落ち着くんだ。そのためにダディーは、オレに仕事を回したはずだ。これは試練だ。これを耐えてこそ、ファミリーを継ぐ資格が与えられる)


 皮肉にも、まさにダディーの思惑通りになっている。

 婚約者を誘拐されるなど、誰にとっても怒り心頭の出来事に違いない。だが、リンダが組織の【姐御】となれば、そういった自体だって起こる可能性がある。

 その時にいかに平静を保てるかによって、ファミリーの命運が左右される。


 これは試練。忍耐を試す試練。


 そう言い聞かせて、必死に口と身体を縮込ませる。余計なことをしないように、ぐっと両手を組んで自分の力で押さえつける。暴発しないように。




115話 「哀れなる弱き鳥と、無知なる豚の喜劇 前編」


 馬車が歓楽街を抜け、郊外の診察所を通り過ぎ、ホテル街に向かう。

 その間、ビッグは一言もしゃべらなかった。自分自身を抑えるだけで精一杯だったからだ。


「…じー」


 サナは、じっとビッグを見つめていた。

 仮面に隠れたエメラルドの瞳が、目の前の大男の激しく揺れ動く心境を観察している。

 それを見たアンシュラオンは、とても愛しそうにサナの背中を撫でた。


「珍しいかい?」

「…こくり」

「よく見ておくといい。これが人間の感情の一つだ」

「…こくり」


 彼女は観察している。人間というものを。ビッグが放つ焦りや不安、怒りや憎しみが入り混じった複雑な感情を。

 こんな大男が、あんな小さな鳥のために必死になっている。迷っている。葛藤している。

 意思無き黒き少女は、それをすべて見ているのだ。


(ああ、素晴らしい。こうした感情は、言葉で言い表せるものじゃない。サナにとっては極上の【餌】に違いない)


 サナは本当に少しずつであるが、意思や感情を出すようになってきた。

 しかしそれは、自分の中から出しているものではないことにも気がついていた。


 黒き少女は―――他人の感情を【吸収】する。


 何かに対するリアクションは、所詮神経の反射にすぎない。それでは生きているとは言えない。

 だから「人間とは何かを」こうして教えているのだ。実際にそれを見せることで学ばせていく。百聞は一見にしかず。それが一番わかりやすいからだ。


 すべてはサナの餌。


 シャイナに言ったことは真実である。アンシュラオンにとって、彼らは単なる餌にすぎない。

 そう、シャイナもサナにとっては珍しい存在。だからこそ価値があるのだ。


(楽しませてくれよ、豚君。この子に最高の人間劇を見せてくれ。それはすべての富に勝るものだからね)


 この様子ならば期待できそうだと、仮面の男は笑うのであった。






 そして、目的地のグラスハイランドに到着。

 入り口で出迎えたのは、ホロロ。


「ホワイト様、お帰りなさいませ」

「客を連れてきた。酒とツマミを頼むよ」

「かしこまりました」

「鳥の様子はどう?」

「問題ありません」

「鳴かなかった?」

「いいえ。おとなしいものです」

「そうか、そうか。それは結構。では、行こうか、豚君」


(この女もグルか)


 ビッグはリンダの報告書に記されていた、ホワイトが目をかけている従業員の顔を記憶する。

 かわいそうだが、ホワイトを制裁する際には彼女も巻き込まねばならないだろう。それが裏の世界のルールというものだ。


(だが、この女…嫌な笑い方をする。ホワイトの関係者ってのは、どいつもこいつも気味が悪いぜ。あの妹もそうだ。なんだ、あの視線は…反吐が出る)


 仮面を被っている妹も、馬車の中でじっと自分を観察していた。

 感情を表には出さないように気をつけていたが、なんとも気持ち悪い視線であった。

 まるで人間が動物や虫を観察するような、その生態を確かめるような「上から目線」を感じた。

 そして、目の前の従業員も自分に対して礼をしたものの、その後の視線が気に入らない。


 餌がやってきた。そんな程度の扱いにさえ感じられる。


 調理にさして興味がない人間が、食材を見た時の感情。あれが大好きな料理の一部になることは知っていても、それ以上の感情が浮かばないことと同じだ。

 ここでは誰も自分のことを人間扱いしていない。それが何よりも恐ろしく感じた。


(リンダ…無事であってくれよ)


 ぎゅっと婚約指輪を握り締め、愛する者の無事を祈る。




 ロビーを抜け、奥のエレベーターで最上階に向かう。

 原理は地球のものと同じだが、一部にクルマにも使われる風のジュエルが使用されているので、浮き上がるような感覚はこちらの世界のほうが強く感じられるだろうか。

 浮遊感とともに、少しずつ目的地に近づいていくことに、ビッグは緊張感を高める。

 無事だとは思いたいが、なにせこのホワイトという男、相当な狂人である。そこに一抹の不安を感じてならない。

 進めば進むごとに、あの嫌な視線も絡みついてくるようだ。

 そう、どんどんホワイトという男の中心部に近づいていくような、とてもとても不気味な感覚だ。


(何を見ても心を乱すな。それだけは決める)


 動揺することが一番いけない。短気になることもいけない。相手がそれを待ち望んでいるからだ。

 誘拐する側にとっては、いかに相手を怯えさせるかが一つのポイントなのだ。

 そのために過剰な演出をすることがあり、それに惑わされると冷静な判断が下せなくなる。相手はそれを狙っているのだ。

 緊張を紛らわせるためか、ビッグは声を出す。


「…そちらの要求は呑む。だから会わせてくれ」

「もちろん、そのつもりだ。鳥も会いたいと思っているだろうからね」

「最初に言っておくが、五体満足でないと呑めない」

「またまた面白いことを言う。オレはどんな怪我や病気だって治せる医者だぞ。麻薬中毒だって治せる。知っているだろう?」

「…そうだった…な。医者だったな。だが医者ならば、こんなことをして心は痛まないのか?」

「なぜだ?」

「なぜって、医者は他人を救う人間のことだろう?」

「くくく…、あいつと同じようなことを言うな。それを言うならば、麻薬組織の人間はもっと悪人かと思っていたよ。婚約者など見捨てるような…ね」

「俺たちだって人間だ」

「自分の大切なものは大事にするか? なるほど、その点に関しては同意見だよ」

「あんたは麻薬に恨みでもあるのか?」

「ないな。道具にいちいち感情は向けない。使えるものは使うだけだ。まあ、最近飼った犬は嫌いだとうるさいがね」

「犬…か」


 ホワイトの笑いを見て、汗が滲むのがわかった。

 この男は、自分以外の存在を人間と認識していない。妹にはそれらしい感情を向けるので、おそらくは自分と妹以外に興味があまりないのだ。


 それ以外は【動物】と同じ。


 犬、豚、鳥。どれも人間に近しい生物だが、けっして対等ではない。彼から見れば下等な存在である。

 頭では考えないようにしているが、身体はそれに気がついたのか、さきほどから小刻みに震えている。


(ちくしょう。止まれよ! こんなんじゃ、なめられるだけだろう!)


 そう思って必死に止めようとするが、本能は今すぐにでも離れたいと訴えていた。だから震えが止まらないのだ。


(リンダ、リンダ、リンダ!! 見捨てない! 助ける!!)


 念仏のように彼女の名前を唱え、ひたすら我慢する。鳥が無事であるように耐える。


「…じー」


 それを後ろにいる黒き少女が見ていることなど、彼はもうわからない。そんな余裕がないからだ。





 エレベーターが最上階に着く。

 出て、左に向かう。


 その先にあるのは―――七号室。


 向かったのは、尋問部屋と呼ばれている八号室の隣の部屋。この部屋は捕まえた人間を隔離しておくための部屋である。同じように広いので、普通に暮らす分には不自由はしない。


「さあ、入りたまえ」


 ホワイトは鍵を開け、ビッグに促す。


「………」

「安心しろ。中には鳥しかいない」

「…ああ」


 いざ到着すると、さらに緊張感が増していく。心臓の音が大きくなり、脳内で反響している。

 だが、自分が動かねば事態は何一つ変わらない。

 やや軽い立ちくらみのような感覚の中、覚悟を決め、ビッグが扉を開ける。


 カチャッ


 何の軋みもなく開くドアは、さすが高級ホテルのVIPルームだといえるだろう。

 この部屋だけでも、普通に借りれば一泊十数万という大金がかかる。それをフロアごと借り切っているホワイトが、ただの一般人でないことは明白である。

 しかも彼は狂人。

 そんな人間の手に渡ったリンダのことが心配で、今にも心が張り裂けそうになる。

 だが、それを悟られるわけにはいかない。瞑っていた目を、ゆっくりと開ける。



 部屋は薄暗かった。



 ただ、小さな灯りは点いているので、状況を理解するのはたやすかった。

 目が徐々に部屋の輪郭を浮き上がらせ、揺れる瞳孔であっても、はっきりとその姿を捉える。




 それは―――リンダ。




 間違いない。見間違えるはずがない。

 自分が愛する女性であり、婚約者である。



 その婚約者は―――






―――裸で




―――檻の中に




―――入れられて




―――身体中に引っかき傷があった




 部屋には鉄製の檻が設置されていて、裸にされたリンダが中に入っていた。

 少しだけ痩せてしまったが、健康状態に著しい欠損があるようには見られない。


 身体中にある、生々しい引っかき傷以外は。


 抑えようと思っていた。我慢しようと思っていた。



 だが、その姿を見た瞬間には―――キレていた。




「リンダぁああぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」




 ビッグが、一気に檻に突進。


 ドガシャッーーーッ!


 その巨体がぶち当たると、鉄製の檻がひしゃげた。

 魔獣用の檻なので非常に頑丈な造りとなっているものだが、武人である彼にとってはたいしたものではない。

 その腕力を持ってすれば、これくらいは強引に破壊することができる。


「いやっ…いやぁああああ!!」


 リンダは悲鳴を上げる。いきなり巨体が突っ込んできたのだ。驚かないほうがおかしいだろう。

 それをなだめようと、ビッグは可能なかぎり怒りを抑えて、できるだけ優しい声を出す。


「リンダ。俺だ。もう大丈夫だぞ。今助けるからな」

「ぁぁあ…あぁああ!」

「どうした、リンダ?」

「ぁぁあ…いやぁああーーーーー!! 来ないでぇえええ!! いやああ!!!」

「なっ!?」


 リンダは頭を押さえながら泣き叫ぶ。

 檻に当たることも気にせず、必死に逃げようとする。涙を流し、髪の毛を振り回しながら。

 そのあまりの壮絶な絶叫に、荒事に慣れているビッグでさえ困惑してしまった。


 だが、一つだけわかったことがある。


(リンダは、俺を見ていない! 見ているのは―――)


 リンダの目にビッグは映っていなかった。



 映っていたのは―――入り口で笑いながら見ているホワイト。



 やはり不思議だ。仮面を被っているのに笑っていることがわかるなんて。

 リンダは、その姿を見て恐慌状態に陥っていたのだ。




116話 「哀れなる弱き鳥と、無知なる豚の喜劇 後編」


「いやいや、両者ともに素晴らしい反応だ。いい、いいぞ。これぞ劇だ! 恋人に無事出会えたのだから、やはり【喜劇】と呼ぶに相応しいな! はははは!」


 アンシュラオンは、ビッグとリンダの反応に大いに満足そうだ。

 彼も思ったよりビッグが我慢していたので、若干不安だったのだ。「もし反応が薄かったらどうしよう」と。

 その場合、何かしらのてこ入れが必要だと考えていたが、この様子ならば大丈夫だろう。

 見事にキレてくれた。劇の主役としては、そちらのほうが面白い。


「…じー」


 そして、それをサナがじっと見つめる。


「よく見ておくんだぞ。劇は集中して楽しむものだからな。その世界に没入して、あらゆる感情を共有するんだ。そうすると、まるで自分が同じ体験をしているような気分になる」

「…こくり、じー」

「そう、そうだ。それがエネルギーになる。お前の心を生み出す力となっていく。素晴らしい、素晴らしいよ」


 エメラルドの瞳が【喜劇】を見つめる。

 今彼女の瞳に映っているのは、激しい怒りに打ち震えた豚の姿。

 その怒りが、憤りが彼女の中を彩っていく。


「何をした! リンダに何を!!」

「たいしたことはしていない」

「これでよくそんなことが言えるな!!!」

「まあ、落ち着け。裸にしたが、それだけだ」

「なんだと!! それだけでもたいしたことだろう!」

「お前は鳥に服を着せるのか? 飼い犬に服を着せる馬鹿どもが大勢いるようだが、オレはあんな悪趣味じゃない。鳥は鳥のままが一番美しいだろう?」


 犬に服を着せ、あまつさえメガネなどを付ける大馬鹿者もいるようだが、まさにあれこそ人間の身勝手な自己満足である。

 アンシュラオンからすれば、りっぱな【動物虐待】でしかない。

 そんな趣味はない彼は、鳥を鳥のまま自由にさせた。それだけのことである。怒られる筋合いはないし、意味もわからない。むしろ心外である。


「感謝してくれよ? やろうと思えば、もっと酷いこともできたんだからな」


 実際、リンダにはたいしたことはしていない。

 本当ならば、エロゲーでよくありそうな酷いことをしてもよかったのだが、他人の【物】に興味がないアンシュラオンにとっては、何の感情も湧かないものである。

 檻は心理的にダメージを与えるために使用した。それだけのこと。

 人間が鳥を籠に入れるのと同じ。臨場感の問題だ。


「ならば、この傷は何だ!!」

「よく見ろ。それは自分でつけたものだ。【自傷】というやつだな」

「なんだと!! 彼女がそんなことをするわけが…」

「ぁぁ…ぁあああ!」

「り、リンダ! やめろ! 何をしている!」

「あああっ、あああ!!!」


 リンダは怯えながら、爪で自分の肌を引っかいている。

 彼女の身体にあった引っかき傷は、自分がやったもの。アンシュラオンがやったものではない。


「な? 自分でやっているだろう?」

「どうして止めない!!」

「オレは他人の自由を侵害しない。その中で何をするも、そいつの自由だ」

「クソがっ! てめぇが閉じ込めたからだろうが!」

「所有物をどうしようがオレの自由だ。で、オレにかまっている暇があるのか? 鳥が鳴いているぞ」

「あぁあ…ぁぁ」

「リンダ、大丈夫だ! すぐに助けるからな!」

「いや…駄目……だめっ」

「どうしてだ! リンダ!! こんなもの、今すぐ…」

「駄目ぇえええええええええぇえええええ!!」

「え?」


 檻をこじ開けようとしたビッグの左手が―――弾かれる。

 慌てて見ると、とても鋭い刃でスパッと切られたように、手の平に大きな傷が生まれていた。

 ただし、血は出ない。そのまま凍結したからだ。

 切断されなかったのは、彼の肉体が丈夫だったからだろう。常人ならば、間違いなく手を失っている。


「なんだこれは!? 水……氷!?」


 檻の鉄格子から噴出した水気が、手を切り刻んだ。

 これも停滞反応発動を使った技、トラップである。


「言い忘れていたが、檻にはセキュリティがあってね。触れると危ないぞ。まあ、最初にぶつかった時は意図的に発動させないようにしていたんだけどさ。はははは、悪い、悪い。ちょっとしたイタズラだ。どうだ? 驚いたか?」


 ビッグが突進した際に本当ならば発動していたものだが、驚かすために少し停止させておいたのだ。

 ほんのイタズラ。楽しいイタズラである。

 前にパッチンガムという、板ガムを引っ張るとバネが跳ねて親指を打つイタズラアイテムがあったが、あれをくらった時のような驚いた顔をしている。


「いい、いいぞ! いい顔をしているぞ! 君は男前だなぁ、豚君! すごくいいぞ!」


 パンパンパンッ

 見事ハマったことが楽しくて、手を叩く。

 そのすべてがビッグを苛立たせていく。


「貴様…!! どれだけ馬鹿にする!」

「そんなに怒るなよ。ちょっとしたイタズラじゃないか」

「これがイタズラで済むか!!」

「ふむ、なるほど。君の言いたいことも理解できる。オレの国では、人を驚かせて楽しむ番組が流行っていてね。他人を驚かせて楽しむなんて、趣味が悪い連中だと蔑んでいたものだが…ははは。やる側としては、たしかに面白いかもな。恋人同士を驚かせて楽しむ。いい趣味をしているぜ、あいつらは!!」


 地球時代、人を騙して驚かせる番組が流行っていたものだ。いわゆる「ドッキリ」である。

 その時は「人を驚かせて楽しむなんてゲスなやつらだ」と思っていたものだが、やってみるとたしかに面白い。


 今のビッグとリンダの顔なんて、まさに最高だ。


 リンダは恐れおののき、ビッグは怒りに満ちた顔をしている。これこそドッキリの醍醐味だろう。

 ただ、その番組には常々不満があったものだ。


「命がかかっていないドッキリはつまらないなぁ。失敗したら死ぬってほうが面白いのに。バレたら死ぬとか、爆弾を使うとか、実弾を使うとか、もっと面白いショーにできると思うのだが、どうしてやらないんだろうな。それに比べ、君たちの顔は最高だよ。とても美しい」


 本気でないものは、どんなものでもつまらない。これも本気だからこそ楽しいのだ。

 だが、これはやる側だから面白い。やられるほうは最悪で最低の気分だ。


 もう―――我慢の限界。


「リンダを解放しろ!! 今すぐだ!!」

「取引に応じるのかな?」

「ふざけるな! 応じると思うか!?」

「豚君、約束が違うなぁ。君は条件を呑むと言ったはずだ」

「具体的な条件はまだ提示されていなかった。タイムリミットだ」

「ははは、豚君はやっぱり面白いな。君は芸人の資質があるかもしれない。しかし、それはできない相談だ。解放したいなら、自分で勝手にやってみるといい」


 ジュワッとリンダの足元から水が染み出す。

 鉄格子がスカスカにもかかわらず、それは檻からは一滴も漏れずに徐々に上昇を始める。

 しかもそれは―――薄い硫酸。


「いやあああああ!! 痛い痛い痛い!!!」


 極限まで薄めているが、水気は水気である。前に実験でやったように、原液ならば一滴で動物が爆発するような代物。

 リンダは武人ではないので、触れるだけで皮膚が焼けていくのは仕方がないことだ。


「ひっ! ひっ!!」

「リンダ!! すぐに出してやるからな!!」


 グイグイッ ジュワッ
 グイグイッ ジュワッ
 グイグイッ ジュワッ

 だが、ビッグがこじ開けようとすればするほど、水の量は少しずつ増えていき、一気に膝まで浸かる。


「あっ、あっ!!! ああああ!!」

「リンダ!!」

「ほらほら、どうした。早くしないと大変なことになる。女性の肌はデリケートだからな。跡が残るとかわいそうだぞ。だが、気をつけろ。君が檻に触れている間、水は増え続ける。力の具合に応じて量も増えていく。慎重に、それでいて大胆に助けないと、あっという間に全身が包まれるぞ」

「………」


 ビッグが、立ち上がる。その目に、強い殺意を抱いて。


「どうした、豚君。怖い目をして。早く助けないのか?」

「助ける方法は一つじゃない」

「土下座でもしてくれるのかな? それよりは無条件で降伏したほうが話は早いがね」

「土下座もしない。条件も呑まない」

「ほぉ、ならば、どうやって助けるのかな?」

「こうするんだ!!」


 ビッグの身体から戦気が噴出する。

 今の彼の感情を示すように、真っ赤で燃え立つような戦気が身体を覆う。


「へぇ、それでどうするのかな?」

「お前を殺す」

「ん? よく聴こえなかったな? もう一度言ってくれないか?」

「お前を殺すぞ、ホワイト!!」

「んー? 間違いでなければ…『殺す』と聴こえたがね」

「ああ、そう言ったんだ」

「っ!!」


 それを聴いて、アンシュラオンの目が驚きに見開かれる。

 本当に驚いた、というような目をしている。仮面の中で。

 それから、とてもとても上機嫌な声を出す。


「ほぉ、ほぉほぉほぉ!!! あははははははははは!! あーーっはははははははははは!!」


 パンパンパンッ! パンパンパンッ! パンパンパンッ!


 狂ったように手を叩き、仕舞いには腹を抱えて笑う。

 その様子に演技はまったくない。本当に面白くてどうしようもなくて、腹を抱えているのだ。


「なんだ! 何がおかしい!! そんなに可笑しいのか!!! ここまでやったんだ! 当然だろう!!」

「いや…いやいやいや……すまん、すまん。そうじゃない。はー、腹が痛い」

「馬鹿にするのもいい加減にしろ! この狂人が!! 自分が死ぬ時まで狂ってやがるのか!!」

「ふー、ふー、ふー。ふー。とても面白かったよ。君はほんと、役者だな。個人的に君を雇いたくなってきた。そうだ。劇団を作ろう!! 役者を集めて、楽しい劇を催すんだ。今回みたいな楽しいショーは、オレだけが見るのは勿体ない。もっと多くの人間に見せたいよな。おっと、見世物小屋!! そう、見世物小屋だ!!」


 ホテルに閉じこもっていると、娯楽が少ないことに気がつく。

 いや、そもそも都市内部に娯楽自体が少ないのだ。あるとしても酒場や娼館程度。そんなものでは誰もが飽きてしまうのは当然だ。

 これほどの役者が眠っているのならば、劇団を作ってもいいかもしれない。

 この迫真の鬼気迫る劇場を見れば、誰もが心を動かされるに違いない。

 そう、今こうして、じっと見ているサナのように。


 サナの目は―――光っていた。


 輝いている。燃えている。今までのように淡々と見ているわけではない。

 がっつり食いついて見ている。興味を引いたということ。そこに本物の人間の心の動きがある、ということ。

 いつだって人間を動かすものは、本気の生。

 ドッキリのような嘘偽りではなく、今のビッグやリンダのような本気の感情である。


「劇は楽しいか?」

「…こくり、ぎゅっ」


 サナが、自分の服をぎゅっと握る。興奮の意思表示である。


「そうかそうか! そんなに楽しんでくれているか! お兄ちゃんが、がんばってセッティングした甲斐があったな!! 素晴らしい!」


 アンシュラオンの心の中に、じんわりと絡みつく快感が広がる。

 女性にプレゼントを贈る時は、いつだって緊張する。それが映画や劇だと、その成否はほぼ運に任せるしかない。

 だからこそ、だろうか。だからこそ、成功した時は嬉しいのだ。

 サナのために用意した劇である。喜んでくれれば、それはもう最高の気分になるのは当然なのだ。


「劇…だと?」

「ああ、そうだ。楽しい劇だよ。さしずめ君は、囚われの姫を助けに来た勇敢な騎士かな。ツラの良さなんて価値はない。役者にとって重要なのは、本気でやれるかどうかだよ。だから君が豚であっても…いや、豚だからこそ引き立つ。美しい鳥を助けに来た醜い豚。この対比が素晴らしいよ!!」

「貴様…どこまで…どこまで!!」

「そうそう、そういう台詞もいいね。まるで正義の味方みたいだ。だが、君は反吐が出るような偽善者とは違う。明確な意思をもって、明確な報酬を期待してやってきている。当然、報酬はその鳥との幸せな未来だ」


 アンシュラオンが手を伸ばす。

 そう、これはどこかで見たような光景。

 どこだったか。ああ、そうだ。

 たとえば、勇者に対して魔王が「世界の半分をやろう」と言ったゲームに似ているだろうか。

 条件を呑めば、彼は姫を取り戻し、幸せな暮らしができる。

 ただし、人類を裏切らねばならない。残るのは、勇者と姫だけ。

 だが、生物である以上、男女が一人ずついれば生き残る。残った半分の世界を、自分たちの子孫で埋めればいいだけだ。悪い話ではない。


「さあ、選びたまえ。オレに服従し、その女と一緒に幸せになるか、あるいは…」

「あああ!! いやあああ!! 痛い痛い痛いっぁあああああ!!!」

「リンダ、落ち着け!!」

「やれやれ、せっかく決めのいい場面なのに…これだから鳥ってやつは。犬もうるさいが、鳥も性には合わないな。静かな鳥ならいいけどさ」

「ふざけるな!! 今すぐ殺してやる!!」

「おっと、動かないほうがいいな。君はオレには絶対に勝てない。忠告だ。勝てない勝負はしないほうがいい。オレだって勝てない勝負はしないからな」


 今、目の前にパミエルキがいる。

 しかも、相手がアンシュラオンではないので、ひどく機嫌が悪く、激しい嗜虐心が湧き上がっている。

 そう言えば、これがどれだけ絶望的な状況かがわかるだろう。

 もし自分が豚の立場だったならば、即座に逃げるか、それができないのならば服従を誓うだろう。


 しかし―――無知。


 無知とは罪ではないと言う。しかし、本当にそうだろうか。

 無知こそ、もっとも罪深いのかもしれないと思わせる一言を、彼が言うのだ。



「死ね、ホワイト!!!」



 喜劇はさらに加速して、狂劇となる。

 場外乱闘も、劇場ならではの一つの見せ場だろう。観客は、予想外のハプニングに喜ぶに違いない。

 これはサナという、たった一人の観客のために用意された劇なのだから。




117話 「白と豚の狂劇 前編」


 ビッグの敵意を受けても、アンシュラオンは何も感じない。

 生まれてまもない小豚にブヒブヒ言われて怯む大人がいたら、そのほうが珍しいだろう。

 ただし、相手がそう言うことは想定内であった。


「お前はオレの波動円にも気がつかなかった。きっとこうなると思っていたよ」


 パチンッ

 指を鳴らすと、リンダの足を浸していた水が消えていく。


「ひっ、ひっ…! ひっ!!」

「焼けた跡は、あとで治してやる。それより少し黙っていろ」

「は、はひっ!」


 リンダは、力なくうな垂れる。

 そこには恐怖に怯え、ただただ疲れきった鳥の姿があった。


「なんだ? 降参するつもりか?」


 ビッグはそう受け取ったようだが、事実はまったくの逆である。


「これじゃ戦いにすらならないから、少しでも憂いをなくしてやろうと思っただけだ」

「…どういう意味だ?」

「お前は武人かもしれないが、何の知識もない素人だってことさ」


 ガンプドルフは、アンシュラオンの波動円を感じただけで畏怖すら感じていた。


 そう、あれこそが強者である証拠。


 波動円が使えるからといって強いわけではないが、軽々と数百メートルも伸ばせる相手を警戒しないわけがない。

 それはもう達人レベル。歴史に名を遺せるような武術の達人レベルなのだ。

 だが、ビッグは波動円を発したことにすら気づいていないので、そもそも波動円を知っているかすら疑わしい。


「オレが使った技がわかったか?」

「…何のことだ? さっきの水のことか? 何の術だ! どうせ術具だろう!」

「やはり…か。術と技の違いすらわからないとは…」


 術は法則を操るものであり、あくまで自然現象である。

 一方の技は、戦気を使った攻撃的なスキルのことだ。そこには根源的な違いが存在する。

 技を使えば必ず戦気の痕跡が残る。ガンプドルフが覇王流星掌の痕跡に気づいたように、術と技は明らかに違うものなのだ。

 強者ならば、それくらいは一瞬でわかる。戦気の流れを辿るのは戦いの基本だ。強ければ強いほど、その扱いに長ける傾向にある。

 しかし、ビッグはあまりに未成熟。戦気を辿ろうとする習慣すらない。


(さすがに心配だな。ちょっと見てみるか)


 相手に興味が湧いたので情報公開を使ってみる。

 ただし、未熟すぎて心配になって見るというのは、今までで初めてのことだが。


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名前 :ソイドビッグ

レベル:13/60
HP :600/600
BP :80/80

統率:F   体力: D
知力:F   精神: E
魔力:E   攻撃: D
魅力:E   防御: E
工作:F   命中: F
隠密:F   回避: F

【覚醒値】
戦士:1/2 剣士:0/0 術士:0/0

☆総合:第九階級 中鳴(ちゅうめい)級 戦士

異名:ソイドファミリーの若頭
種族:人間
属性:火
異能:物理耐性、即死耐性、恐喝、家族想い、リンダへの愛情、リンダとの誓い
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(うーん……微妙だ)


 正直、微妙だ。誰と比べていいのかも、よくわからない。

 前に領主城で見たイタ嬢の七騎士の一人、ペーグ・ザターに若干似ているといえば似ている。

 彼も同じ戦士なので、そういった共通点しか見いだせないのが実情であるが。


(弱すぎて、よくわからん。レベルと能力値が低いのは、単純に修行不足だ。因子の覚醒限界は低いが、レベルの上限は高いほうだ。才能はある。素質もそこそこある。…が、圧倒的に鍛えていない)


 ソイドビッグは、素質的には恵まれた男だといえるだろう。

 一般人のレベル上限は30〜40、高いほうで50。これは武人でもあまり変わらない。

 それがビッグは、60。10でも上がれば、それだけ強くなれる可能性があるということであり、当然有利である。

 しかし、それもまた修行と鍛練によって引き上げるものだ。


(レベルが低いわりにHPは高い。となれば、鍛えれば相当な耐久値を得るはず。前衛の壁役にはなれそうだな)


 アンシュラオンがレベル100オーバーで、HPが一万に達していないことを考えれば、HPに関していえばおそらくビッグのほうが上だろう。

 ただ、レベルが60までなので、上がっても3000〜4000程度で収まると思われるが、それだけあれば十分一流の武人である。

 戦いにおいて前衛の壁役は、いくらいても足りない貴重な存在。個人でも使えるし、集団戦闘においても必要とされる人材になれる。


 が、これもまた修行不足。


 彼は自分の腕に自信があるのだろうが、素質だけに頼って戦ってきたことがわかる。

 ダディーから受け継いだ肉体能力だけで戦っても、もともとが強いので、さして苦労なく相手を倒せたことだろう。

 その慢心が、彼の成長を止めているのだ。


(一番問題なのは、まったく戦いの知識がないことだ。ここには教えてくれるやつはいないのか? そういえば、ラブヘイアは南の都市の道場で技を習ったと言っていたが…この都市では、そんなものは見かけないな…)


 基本的な技は、道場に行けば教えてくれる。これは全世界共通の認識である。

 因子が覚醒すれば、自然と技が身につく人間もいるが、技には一定の動作が必要なものもあるので、できれば道場に行ったほうが正しい知識を得ることができる。

 こうした道場は一般人にも武術を教えているので、武人の就職先として国の支援がある立派な公的機関である。

 西側では各都市に必ずこうした道場があり、若い騎士候補や傭兵志願者が修練に励む姿が見受けられるだろう。

 しかし、この東大陸においては明確な国家が存在しないため、各人が好き勝手道場を開いているようである。


 そして、このグラス・ギースに道場は―――ない。


 アンシュラオンとて、陽禅公という世界中の武人がよだれを垂らして羨ましがる超絶道場に通っていたのだ。

 そこで基礎と知識を叩き込まれたおかげで、今日の強さがある。

 おそらく道場の存在すら知らないビッグが、技を知らないのは致し方がない。


 浅い。浅すぎる。


 武人の強さは腕力や速度だけではない。知識もまた大切な力なのである。知識があれば、相手の行動を先読みすることもできるのだから。

 これではあまりにもレベルに差がありすぎる。


「豚君、君はあまりに弱すぎる。役者は舞台でしか輝けない。舞台に戻りなさい。そうすれば、もう一度だけチャンスを与えよう」

「いいかげん、お前にはうんざりだ!! その口調も、他人を馬鹿にした態度も、このやり方も!! お前は殺す!」

「言っても通じないか。言葉のわからない豚と話すのは疲れるな」

「なめるなっ!!」


 ビッグから、さらに戦気が噴き上がる。

 それは店で放ったものとは比べ物にならないもの。あの時は完全な戦闘態勢ではなかったので、抑えていたのだ。本気を出せばこれくらいのことはできる。

 しかし、目の前の仮面の男は、さらに呆れることになる。


(練気が遅い。こんなにちんたらしていたら、その前に攻撃されて終わりだぞ。練った力が分散している。戦気への変換量が少ない。力任せにやろうとするからだ。ああ、イラつくな!)


 アンシュラオンから見れば、まさに児戯(じぎ)。修行を始めたばかりの子供程度にも満たない。

 明らかに修行をしていない武人、それも悪いほうの例である。

 修行をしていなくても素で強い武人はいる。因子が高かったりセンスがあると、生まれ持って戦い方がわかるのだ。

 練気のやり方も自然と感覚でわかるので、何の修行をしていなくても強くなる。それは魔獣のようなもの。鍛練せずとも生まれ持って強いのと同じだ。


 だが、やはり壁を超えるには、より強い人間の補佐があったほうが有利である。

 少し考えてみればわかることだ。あの最高の資質を持ったパミエルキでさえ、修行を必要としたのだ。

 最強になるため、という目的があったのかもしれないが、あのパミエルキが、あの恐るべき女性が、一応は陽禅公に頭を下げたのである。

 生まれ持った才能だけでは限界があるという、これ以上ない一例であろう。


「お前は誰に戦い方を習った」

「ダディーだ!」

「ダディー。父親という意味だが…組織のコードネームでもあったな」


 ソイドファミリーの中核メンバーは、そうしたコードネームでお互いを呼び合う。

 より正しく述べれば、ファミリーになった時から本名がなくなるのだ。コードネームが本名となり、それ以後はずっとその名で呼ばれる。

 よって、ダディーもマミーも本名であり、最初からファミリーの一員だったビッグは、生まれた時からビッグである。

 そこでふと疑問も生まれる。


(リンダが結婚したら何になるんだ? ワイフやハニーとかじゃないだろうな? それはそれで笑えるが、大勢から呼ばれるのは嫌だな)


 「ハニーの姐さん、おはようございます!」なんて言われた日には、リンダは正直恥ずかしくて耐えられないだろう。慣れてしまえば、単なる記号になるのかもしれないが。


 と、それよりはビッグである。


「お前がその程度だとすれば、ダディーってやつの強さも、たかが知れているな。まいったな。普通に戦ってもつまらないぞ。何か別の趣向でいかないと一瞬で終わってしまうな…これは困った」

「っ!! ―――死ねっ!!」


 それを挑発と受け取ったのだろう。ビッグが殴ろうと駆けてくる。

 見た目に反して肉食獣のような瞬発力を持っているので、その速度はかなりのものである。

 この巨体が突進してくるのならば、そこらの武装した衛士が何人いても相手にならないだろう。

 戦気で肉体を強化した武人は、それ一つで、もはや兵器である。銃弾でも止められない。


 が、そうするにもまずは足を地面にかけねばならない。

 踏みしめて、押し込まねばならない。



 その足が―――滑った。



「なっ!」


 勢いよくダッシュしようとしたのはいいが、肝心の足が滑って大きな身体が一回転した。

 床が弱すぎて陥没したとかならば、まだなんとなくカッコイイが、その原因は【氷】。

 アンシュラオンが水気を凍らせて生み出した氷に滑ったのだ。

 普通の氷くらいならば簡単に踏み砕くが、彼が生み出したものは格が違う。

 踏み砕くことなどはできず、目の前しか見ていなかったビッグは見事にすっ転ぶ。


「はっ!」


 しかしそこはさすが武人。素早い反射神経で、片腕をついて受身を取る。


 そのまま全体重を預けた瞬間―――再び氷。


 凍ったのは床だけではない。彼の手も凍った。

 床も凍り、手も凍れば、もはやそこに摩擦というものは生まれない。


 さらに一回転をして、背中を床に強打。


 ドスーンッ!! という音とともに部屋が揺れる。


「ぐっ!」


 自身の加速力が全部跳ね返ったので、ダメージはないが息が詰まった。

 それによって戦気が乱れる。呼吸ができずに練気が乱れたからだ。

 それもまた鍛練不足である。


「おいおい、うるさいぞ。いくらこのホテルが頑丈で防音だとしても、お前みたいな豚君がウルトラ前方受身をしたら、下に響くだろうが。まあ、下の階にも誰もいないけどな」


 ちなみに下の階も無人である。

 二十五階がVIPルームなので、防犯上のことも兼ねてである。そこが埋まるほど繁盛していれば、ホテル街も安泰だったのだろうが、現在では万年空き部屋となっている。

 それはそれで心配だが、この程度で二つ下の階に音が漏れることはないだろう。


「足元には注意しろよ。危ないからな」


 実は、さきほどリンダに使った水を少し残しておき、会話の間に足元に忍ばせておいたのだ。

 案の定ビッグはそれに気づかず、あっさりと罠にかかった。わかってはいたことだが、さすがになさけない。


「歩くときだって足元は見るだろう。それともお前は下を見ないで歩くのか? いけないなぁ。蟻さんがいたらどうする。虫でも生き物は大切にするべきだと習わなかったか?」

「ぐっ…この野郎…! 小細工をしやがって…! 正々堂々打ち合え!」

「ふぅ。お前な、今何が起こったのかわかっているか? わかっていないだろうな。だからそこに寝転がっているんだよ」


 アンシュラオンがやったことが、いかに優れているのか。

 まず、凍気を使っていることに驚かないといけない。ラブヘイアが驚いたように、水の属性に特化した武人でないと扱えない上位属性である。

 さらに水気を移動させたことも驚愕だ。これは遠隔操作系の武人にしかできないことである。そこでまた驚くか、警戒を強めねばならない。

 加えて練気が異様に速い。ビッグのように時間をまったくかけない。

 きっとビッグには、アンシュラオンが戦気を使っていないようにさえ見えることだろう。切り替えが速すぎて見えないのだ。




118話 「白と豚の狂劇 後編」


「戦いってのは殴り合いだ!」

「どこの格闘馬鹿だ、お前は。見た目を裏切らないやつだな…。ある意味で貴重だぞ。否定はしないが、それが許されるのは、オレが知っているだけで世界で二人だけだな」


 おそらくゼブラエスとパミエルキだけが、それが許される領域にいるだろう。有り余るパワーとスピード、技の多様さで圧倒することが許される。

 しかし、二人だけだ。許されるのは、その二人のみ。

 アンシュラオンでさえも、そんなことは許されない。もしあの二人相手にそんな無謀なことをしたら、一瞬で殺されてしまうだろう。

 また、陽禅公は頭を使って戦うタイプなので、どちらかといえばアンシュラオンの戦い方に近い。

 むしろ今のアンシュラオンの戦い方は、性根が悪い陽禅公のスタイルに倣ったものだ。

 お互いに意地が悪いので、アンシュラオンにとって陽禅公の戦い方は、とても参考になったものである。


「ほれ、油断するな」

「ぎゃっ!! な、なんだ!!!」


 突如、ビッグの背中に刺激が走り、思わず飛び退く。


「お前の背中に水気を這わせて凍らせたんだ。今言っただろう。足元には気をつけろって」

「なんだ、これは! 術なのか!?」

「あー、頭が悪いな。うちのワンコロ並みじゃないか。そういえばソイドファミリーってのは、ジャガーが家紋だったか? ジャガーは…ネコ科か。犬も猫も困ったもんだな」


 無知な人間には、それが術にさえ見える。だが、これは立派な『技』である。


(やはり相手にはならない。しょうがない。こいつ、ラブヘイアより数段以上弱いし)


 アンシュラオンに触れることすらも困難なラブヘイアだが、実戦経験はビッグの百倍以上はあるに違いない。

 毎日狩りに出かけるハンターは、相手が魔獣とはいえ戦闘を繰り返している。

 敵の動きがいつも同じとは限らない。怪我をすることもある。そうした積み重ねがハンターを強くしていく。

 情報には表示されない「経験」がラブヘイアには確実に存在する。同じ中鳴級であっても間違いなくビッグを圧倒できるだろう。

 よって、これは必然。

 ラブヘイアに劣るビッグが、アンシュラオンに敵うわけがないのだ。


(だが、せっかくの劇だ。もう少し延長してもいいだろう。サナも見ているしな)


 サナは相変わらずビッグを見ていた。その無知も愚かさも含めて人間なのだ。

 前のチンピラの時は弱いうえに劇的ではなかったので、彼女の興味すら引かなかった。

 しかし、リンダという要素が加わったこの劇の主人公は、とてもとても必死だ。それがサナを惹きつける。

 特筆すべきは、ここまで実力差を見せ付けながらも、まったくと言っていいほど戦意喪失をしていないこと。

 これは驚くべきことだ。無知なのだからしょうがないとはいえ、その意味でも貴重な人材である。


「そんなに殴りたいなら、殴っていいぞ」

「俺の拳は、鉄の鎧だって破壊するぞ!!!」

「あっ、うん。鉄って柔らかいからな」

「このっ!!」


 ビッグが再びダッシュ。今度は邪魔されず、一気に襲いかかる。

 アンシュラオンは、よけない。


「うおおおおお!!」


 ドンッ!!

 ビッグの拳が、アンシュラオンに命中。

 まったくよけなかったので仮面に直撃。当人いわく、鉄をも破壊する拳である。仮面くらいならば最低でも陥没は間違いない。


「どうだ!!」

「…何が?」

「なっ!!」

「いや、届いてないし。それくらい感じろよ」


 が―――何も起こらない。


 それもそのはず。戦硬気によって周囲をガードしているのだ。彼の拳は当人に届く前に、戦気の防御膜によって弾かれる。

 しかも、揺らぎもしない。

 そんな攻撃では、一ミリたりともアンシュラオンを動かすことができない。触れることもできない。


「どうした。せめて殴ってみせろよ。触れていないパンチは、殴るって言わないぞ」

「こ、このおおおお! うおおおお!!」


 ラッシュ、ラッシュ、ラッシュ。

 熊のような大男が少年に向かって必死に殴っている姿は、一瞬で通報されそうなレベルで危ない光景だが、力の差を知っている者ならば何の緊張感もない退屈な映像でしかない。


「あっ、ホロロさん、いらっしゃい。ちょっと待っててね」

「かしこまりました」


 事実、酒とツマミを持ってきたホロロが、事が終わるまで通路で待っている状況である。

 扉は開けっ放しなので丸見えであるが、彼女にまったく不安な様子はない。「神を心配するなど不敬」とさえ思っているので、ただ黙って見ている。

 ただ少々、恍惚な視線で見ているのが気になるが。それもビッグを苛立たせる。


「くそっくそっ、くそっ!!!」


 当たる。弾かれる。当たる。弾かれる。


(なんでだ!! なんでだ!! どうして拳が届かない!! これは何だ!?)


 ビッグは戦硬気のことも知らないようだ。

 これも弱い相手とばかり戦っていたので、そういった機会がなかったせいだろう。

 大人になってからはダディーと模擬戦をすることもなく、麻薬の仕事に従事していたし、抗争も久しくなかった。

 城塞都市では、組織間の争いの激化は都市全体の衰退を招くため、なるべく揉め事は起こさないようにしてきた結果でもある。


 が、それこそが武人を弱くしている。


 現状のハンターの制度もそうだ。都市の周囲の魔獣しか倒さないため、強い相手と戦う機会がない。

 だから「ラブヘイアごとき」が、トップハンターになっている。非常に由々しき問題である。

 だが、アンシュラオンという劇薬が投下されれば、黙っているわけにはいかなくなる。ビッグのように必死にならないといけなくなる。

 彼という存在が、グラス・ギースに激震を与える。

 古いものは、より強く新しいものに壊されていく運命なのだから。


「拳とはいえ、ムサい男が近くにいるのは気持ち悪いな」


 触るのも気持ち悪いので、代わりに水気を放出。

 手で放出したのではなく、戦硬気としてまとっていた気質を水気に変質し、ビッグが殴ると同時に反発するように弾けさせたのだ。

 水気はビッグの腕を焼き、そのまま水は激しい水流となって、どてっ腹にぶち当たる。


「―――げぼっっ!?」


 カウンターのように当たっただけではなく、水気そのものが砲弾のような威力を持っている。

 そのままアッパーカットのように天井にまで叩きつけられ―――激しい衝撃が身体を突き抜ける。

 水気が消失。


 ドッゴーンッ


 重力に引かれ、無防備のまま床に叩きつけられる。


「ふーーっ! ふーーーー! がはっ!!」


 受身ができないほどダメージが大きいようで、まだ立ち上がれない。

 アンシュラオンも、それは手応えでわかっていた。


「手加減はしたが、今ので胃が破裂したようだな。内臓もかなり痛めたようだ。まあ、体力があるから大丈夫だろう。一応、武人の端くれだしな。若いんだ。それくらいで死にはしない」

「くうっ…そがっ! なんだ…これは……よ。なんなんだよ…」

「知っているだろう。これが現実だ。舞台から降りた役者の現実さ」


 勇ましい豚は、舞台の上では踊ることができる。

 しかし、一度でも降りてしまえば彼は家畜にすらなれない。なんとも残酷な現実である。


「もしかして勝てると思っていたのか? あのチンピラ二人が何もできずに負けたのに、たいした自信だな」

「ありえ…ねぇ…!! 今まで…こんなことは…!! ずっと勝って…!」

「なるほどな。それはダディーってやつの心遣いじゃないのか? お前は勝てるように仕組まれてきたんだよ」

「なに!」

「家族想いってのは、こういうときは足を引っ張るな。お前が傷つくのが怖くて、強い相手とぶつけるのが怖かったんだろう。あるいは単純に強いやつがいなかったか…。いや、ファテロナさんもいたんだ。やはり前者かな」


 ダディーが望めば、もっと強い相手と戦うこともできたはずだ。

 あるいはダディーがビッグより弱いことはないはずなので、彼がもっと厳しく鍛えればよかった。

 しかし城塞都市ゆえの事情か、彼らが軍隊ではないせいか、そこまで武に対しての欲求がなかったのだろう。

 そう、これこそが【武闘者】とマフィアの違い。

 マフィアにとって武は手段だが、武闘者にとっては目的なのだ。強くなること自体が目的の人間と比べれば、彼らはあまりに弱い生き物である。


「こんな…馬鹿な……」


 ここまでくれば、いくらビッグでも理解できる。

 間違いなく目の前の男は自分より強い。その気になれば殺すことも容易であると。


「さて、そろそろ諦めてくれると助かるな。では、もう一度だけ訊こうか。君はファミリーを裏切るかね? それとも、ここで死ぬかな?」

「俺を裏切らせて…どうするつもりだ…」

「君とリンダ以外は殺すさ。特に必要ないからね。君が内通者になってくれれば、もっとスマートに事が進められるだろう。今のままだと少しばかり面倒な事案があってね。協力してくれると助かるよ」

「そんなこと…認められるわけがねぇ」

「認める必要はないさ。受け入れるか、死ぬか。どちらかしか選べない」

「うちと戦争して…勝つつもりか?」

「は? 戦争?」

「そうだ…! このままじゃ終わらないぞ…絶対にだ! 俺が死んだら…ダディーが黙っているわけが…」

「はぁ…まいったな」


 アンシュラオンは、心底困ったという溜息を吐く。

 しょうがないので、はっきりと言うしかないようだ。


「豚君、君はまだ勘違いしているようだな。オレとお前たちとでは戦争にすらならん。そうだな…言うなれば【屠殺(とさつ)】だ」

「屠殺…?」

「そうだ。豚を殺すのだから屠殺だろうな」


 家畜を殺す行為を屠殺と呼ぶ。普段食べている肉や革製品は、動物を殺して得たものである。

 虐殺はあくまで同類を殺す行為。相手を人間と認めている行為だ。そこには対等性が存在する。


 だが、アンシュラオンとビッグたちとでは、そもそもの【種族】が違う。


 仮に彼らの言う戦争が起こればどうなるか。その結果は、見るも無残なことになるだろう。

 人間が無抵抗な家畜を殺すのと同じように、屠殺と呼ばれる現象が発生する。

 ビッグを倒した力も、彼にとっては軽く撫でるにも及ばないものだ。吐息に等しい。

 その彼が本気で力を振るえば、彼らは一瞬で肉塊と化してしまう。それは戦争とは言わない。一方的な屠殺だ。


「君たちは家畜と同じだ。選択の権利なんてないのさ。人間に服従して飼われるか、はては無残に死ぬか。どちらか一つだよ」

「くうう!! うううっ!!!」

「悔しいのか? 悔しがる権利くらいは与えてやるぞ」

「なめやがって…絶対に…絶対に報復してやる!!」

「ああ、そう。がんばってな。その格好でよく言えるもんだよ」


 アンシュラオンがビッグを見下す。

 それは人間として自然の行為である。強者として当然の行為である。


 だが、次の瞬間、あってはならないことが起こる。

 アンシュラオンでさえ予期していなかったことが。


 それは、この一言から始まった。





「お前がリンダにしたように…【その娘】も同じようにしてやる…」





「…あ?」





「お前の妹…も、ただじゃ済まない」





 その言葉は、ビッグにとって唯一の【武器】だったのだろう。

 仮面をつけた妹を、彼はとても大事そうにしていた。とてもとても、大事に。

 だからこそ、それこそが彼の弱点であると…ああ、弱点であると……




 そう思って



 しまったのだ。








「ははは。そうだ! その娘もあの女たちのように、ラブスレイブにして―――っ!!?!」







 ビッグは、やってはいけないことをした。

 ああ、なんてことを言ってしまったのだ。それは絶対に口に出してはいけないことなのだ。

 もしモヒカンがこの場所にいたら、ショック死していたかもしれない。


 それは―――爪。


 とてもとても小さな爪。この豚がもっていた、丸くて武器と呼ぶにも弱々しい爪。

 しかし、圧倒的な力を持つ人間に対して、動物がほんのちょっぴり爪を立てただけで、彼らは何をすると思う?



 あああああ、想像するだけでも恐ろしい。



 この【魔人】の前で、あろうことか黒き少女に意識を向け、さらに敵意を向けるなど―――






 絶対にやってはいけないぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!!!!!!!







119話 「魔人の逆鱗」


 豚は、その言葉を最後まで言うことができなかった。


「っ……っ―――っっっっ!!」


 言葉を発するための空気が流れない。振動させることができないからだ。


 アンシュラオンが―――ビッグの喉を左手で掴まえている。


 いつ動いたのか、いつ彼を起こしたのか、いつ腕を伸ばしたのか。その動作の何一つ、この場にいた人間には見えなかった。

 その速度はデアンカ・ギースと打ち合っていた時よりも速い。

 そう、あの時でさえ、この男は本気ではなかったのだ。

 だからこんな小さな豚に対して、彼がこれほどの力を行使するなど誰も思わなかった。彼自身でさえも。


 だが、豚は発してしまった―――禁忌の言葉を。


 それだけは言ってはいけなかったのに…!!!


「今…なんと言った」


 静かな。とても静かな声が響く。

 少年のようなボーイソプラノだった声が、妙に低く感じられたのは、けっして仮面でくぐもったことだけが理由ではないだろう。

 彼の言葉には、明らかな変化があった。


 【温度】が―――下がった。


 不思議だが、言葉にはしっかりと温度がある。

 温かい言葉には人を癒す力、励ます力が宿っている。同じ言葉でも心がこもっていれば温かく感じられ、その中に秘められた好意によって喜びに満たされるだろう。


 では、その反対になれば?


 空気が妙に冷たい。

 ここには冷房などないのに、まるで突然冷凍庫になってしまったかのように、強烈な冷気が満ちてきた。


「っ…」


 その肌寒さに通路にいたホロロが身震いする。

 吐く息すら真っ白になったかのように、世界のすべてが凍結したような感覚に襲われる。

 それは彼が凍気を発したからではない。彼は何もしていない。

 ただ、彼の気配が変わっただけ。


 人間から―――【魔人】へと変わっただけ。



「てめぇの薄汚れた目で、汚い口で、オレのサナに触れたな? てめぇが、お前ごときが、オレの所有物に触れたな?」

「っっ…っ」

「なぁ、何とか言えよ。なぁ、豚でもしゃべるくらいはできるだろう?」

「っ―――!! っっ!!」


 自分よりも遥かに細い腕に触れることもできない。

 戦気ではない。彼は戦気を放出してもいない。

 そうにもかかわらず何か見えない力が邪魔をして、ビッグの腕が、その身体自体が動くことができない。

 ぞわぞわと這い上がる【何かの力】が間違いなく存在している。しかし、それを形容する言葉が見当たらない。

 それに触れただけで人間は動きが取れなくなる。存在そのものが否定されたように、震えることしかできなくなる。

 これはどこかで見たような…。

 ああ、たしか【彼の姉】が使っていた技に似ている。竜神機でさえ動きが封じられたという、あの【災厄障壁】と呼ばれるものに。


 ぎょろり。


「―――っ!!」


 仮面の隙間から、普段は絶対に見えない赤い瞳が見えた。


 冷たいのに―――熱い。


 恐ろしく冷たい目なのに、燃えるように熱い。いや、赤いのに青い、と言うべきだろうか。

 殺気と呼ぶにも生温い何かが、ある日突然、太陽が二度と昇らないことを知った時のような、「ヒト」にとって最悪の日が訪れたような絶望感を与えてくる。

 これを形容することができない。人類には、これを翻訳する機能が備わっていないのだ。

 同じだとでも思っていたのだろうか? 同じ存在だとでも勘違いしていたのだろうか?

 ならば、もう絶望するしかない。


 この姿を見た人間という種にとって、それはまさに【天敵】。


 諺に反して蛇を食べる蛙がいる。カエルという種でありながら、彼はヘビを食べて満足そうに優越感に浸るだろう。

 だが、それは覆らない。けっして、二度と、永遠に。

 結局その蛙は、より大きな蛇に食べられる運命にあるからだ。


 そして、目の前にいる蛇は、この世界でもっとも強大な力を持つ白蛇という希少種。


 唯一対抗できるとすれば―――【同じ存在】だけ。


 同じく頂点に君臨する種族だけ。

 もし今の彼をパミエルキが見ていたとしたら、きっとニンマリと笑ったに違いない。


「ほぉら、アーシュ。よくわかったでしょう? あなたは私と同じなのよ。同一で、一緒で、この世界に二人しかいない貴重な存在なの。そして、私たち以外はすべて【家畜】なの。私たちに食べられるためだけに生きている、とっても愛らしい動物なのよ。殺してあげると鳴いて喜ぶの。奪ってあげると鳴いて喜ぶの。ねぇ? 可愛いでしょう? だからほら、あなたの好きにしていいのよ。不快なら殺してあげなさい。きっと喜ぶから」


 パミエルキの甘い、とても甘い声が聴こえる。

 この世界で唯一の同類であり、仲間の声は、とても甘美なものに思えた。


 その瞬間―――アンシュラオンは人間ではなくなった。


 全人類を搾取するためだけに生み出された恐るべき系譜、この世界でただ二人しかいない人間ではない何かになったのだ。



―――【魔人】



 『災厄の魔人』と『白き魔人』。

 それを見た人間が取る行動は、いつだって同じだ。





「ひいいい! い、いやああ!! いやあああああああああああああああああああああああああああああああ!!! いやっいやっ!」






「いや嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼ああああああああ亜嗚呼嗚呼ああああああああああああああああああああああああああああああ亜ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ亜ああああああああああああああああああ亜嗚呼嗚呼ああああああああああああああ亜あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ亜嗚呼嗚呼あああああああああああああああ亜嗚呼嗚呼ああああああああああああああああ」






 その気配を察したリンダが悲鳴を上げる。


「いやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよ。助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて」


 涙を流し、助けを請う。

 もうビッグのことに意識を向けることもできない。

 ただただ恐ろしく、何も考えられないのだ。


 ガンガンガンガンガンッ!!
 ガンガンガンガンガンッ!!
 ガンガンガンガンガンッ!!


 彼女は、必死に頭を地面に打ち付けている。

 額から血が流れても、鉄床に押し付けた爪が剥がれそうになっても、やめる気配がない。


 端から見れば奇異なる行動であるが―――これは【土下座】。


 身体を震わせ、激しい混濁の意識に襲われながらも、必死に許しを請おうとしている【家畜】の姿。

 そこにはプライドなどは存在しない。してはいけない。

 これからベルトコンベアで運ばれ、機械的に細切れにされる肉片に、何のプライドが必要なのだろうか。


「ああっ…あああ!!」


 涙を流し、失禁しても、けっして頭を上げることはない。

 彼女を責めるのは酷だ。誰だってこうなる。

 どんなに心が強い人間でも、異なる存在と出会えばこうなるのだ。



 それはビッグも同じ。

 彼はその瞬間、自分の認識が大きく間違っていたことを知った。


(人間じゃ…ない)


 その時、彼が唯一心に浮かべられた言葉である。

 それを思えただけでも褒めるべきかもしれないほどに、目の前にいる存在は異質であった。

 だから彼は土下座をすべきだった。這いつくばった時、ただただ許しを請うべきだった。

 泣きじゃくって「どうか愚かで無知で醜いこの豚を、あなた様のお好きに使ってください」と言うべきだった。


 しかし、彼は【逆鱗】に触れた。


 絶対に、絶対に、絶対に、絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に―――




 触れてはいけないものに―――!!!!!






 触れたのだ!!!!!!!!!






「その汚い腕で…サナに触れる…だと!」


 逆鱗に触れられた魔人は、右手でビッグの左腕を掴み、握り潰す。

 ぐちゃっと肉が潰れ、骨が砕け、さらに握り続けるので―――切断。

 握り引きちぎる、とでも言えばいいのだろうか。

 ゼリーで出来た腕を握ったように、ぶちゅっと引きちぎられた。


 ポイッ ぐちゃっ


 それを壁に投げ捨てると、ぐちゃぐちゃの肉片となる。


「この目で…サナを見るだと!!!」


 ズブッ! ズブズブズブッ!!

 左目に指を突き刺す。眼球を破壊し、そのまま眼窩(がんか)に手をかけ――――――引きちぎる。


「っっっ!!!」


 骨が砕け、肉ごと引きちぎる。

 ぶちぶちと繊維が千切れる音がして、強引に剥ぎ取る。

 激しい衝撃と熱く鈍い痛みが襲った後、左半分の視界が真っ暗になる。目を失ったのだから当然だ。


「その汚い口で…何と言った?」


 口の中に指を突っ込み、戦気を放出して焼いていく。


「がっ、がっ!!」

「どうした? なんとか言えよ。言ってみろよ!!」


 ジュージュー ジュージュー
 ジュージュー ジュージュー
 ジュージュー ジュージュー


 ああ、この音は知っている。あれはどこかで…ああ、そうだ。

 牛タンを焼く音だ。

 地球では、牛の舌を焼いて美味しそうに食べている者たちがいたが、あれを焼く音に似ている。

 いや、相手は豚なので豚タンだろうか。


「ふざけたことを抜かすとな、閻魔様に舌を抜かれるんだってよ」


 ブチャッ

 焼けた舌を引っ張ると、途中で千切れて抜けた。


「あ? 嘘をついたらだったかな? まあいい。それよりなんだよ。ずいぶんと脆いな。根元から抜けなかったじゃないか」

「がっっ…っっ…」

「なんだ? 聴こえないな。言いたいことでもあるか? だが、舌がないから話せない? なるほど、なるほど」


 引きちぎった舌を持ち―――


「じゃあ、返してやるよ」

「っ!!!」


 そのまま喉に突っ込み、食道に捻じ込んだ。同時に水気を使って胃に流し込んでやる。

 食道に胃酸が逆流した時のような焼けるような痛みが走り、何かの塊が落ちていくのがわかる。

 が、胃はすでに破裂していたので、収まることなく体内に流れ出る。


「ごがっっ…っっ!!」

「くくくく、あははははは!!! どうだ? 自分の舌の味は? 美味いか? と、舌がなかったら味もわからないのか? …なら、もう口はいらないな」


 ぐいっ ぐちゃっ


 下顎に手を引っかけ―――引きちぎる。


 強引に力づくで、それでいて軽々と下顎が顔面から切り離される。

 顎を失った人間とは、これほど見た目が変わってしまうのかと思えるほど、かなりグロテスクな光景である。


「もっと男前になったじゃないか、豚君。このまま【解体】を続けてもいいんだが…これ以上、オスに触れていると思うと気持ち悪くてしょうがないな」


 これは処刑でも殺人でもない。


 ただの―――屠殺。


 手慣れた職人が、魚を調理するかの如く極めて自然に行われる行為。

 だからこそ何も感じないし、いちいち感じていたら料理なんて作れないだろう。


「っ…っ……」


 舌が無いので何もしゃべることはできないが、ビッグの様子からすべてを知ることができる。


 失禁していた。


 それは身体が正常に働いていたことを示す現象。彼の肉体が、まだ正常さを保っている証拠である。


「はぁ…いい気分だよ。ひどく頭にきているのに、とても冷静だ。なるほど、本当に怒るってのはこういうことか。ここまでオレを怒らせるやつも珍しいな。今ならば何をやっても心地よくなりそうだ」


 身体中の因子が燃えるように熱い。

 リミッターが外れたように、一気に全因子が覚醒していくのがわかる。

 当人は気がついていないが、普段の彼は「人間」として振舞って力を使っている。

 彼のステータスにある因子レベルは、あくまで人間としてのものである。


 だが、魔人となった瞬間、すべては解放される。


 もはや人間というカテゴリーではなくなるのだ。

 おそらく陽禅公もゼブラエスも、この状態のアンシュラオンには対抗できない。

 どんなに強くても人間だからだ。魔人とは種族が違う。根源が違う。

 メーターが振り切れたように、因子の限界も【無限】になる。合計して30などと、そんなみみっちいものではない。

 無限だ。際限がないから無限だ。

 100でも200でも、10000000でも、高まれば高まるほど力となっていく。


 同じことができるのは唯一、パミエルキのみ。


 だから彼女は言ったのだ。「あなたと私は同じだ」と。

 その彼女がいない今、彼を止めるものは存在しない。



「皆殺し…それでも生温い。お前たちには徹底的に痛みを与え続けてやる」

「っ…ッッ……」

「触れているのも気色悪い。豚、お前は廃棄処分だ。鳴き声すら耳障りのゴミが!」


 ゴギンッ!!

 視界が百八十度以上傾き、世界が揺れる。

 次の瞬間、ビッグの意識は完全に闇に包まれた。



 首を―――折ったのだ。



 捻じ切るように、適当に力任せに。






「いっ、いやああぁああああああああああああああああああああ!!!」








120話 「その目が見ているから 前編」


 その音に、リンダが絶叫。

 婚約者が首を折られたのだから叫ぶのは当然だろう。

 ただしそれはビッグの身を案じたというよりは、次に自分に降りかかる災いに対して恐怖したのだろう。

 人間は極限の恐慌状態に陥ると、他人のことなど気にしている余裕はなくなるものだ。


 そして、叫ぶべきではなかった。


 今の魔人は、街のチンピラよりも、自意識が高いキャリアウーマンよりも、自尊心が強い政治家よりも沸点が低い。

 その赤い目がリンダに向く。


「床から口を離すとは…抵抗の意思があるということだな?」

「ち、ちがっ!! 違います!! ゆるっゆるして…ゆるゆるryるるるrrrrrrrrrrrr」

「望み通り、お前も解体してやろう」


 一歩、一歩、ゆっくりとリンダのもとに向かう。


 ガンガンガンッ ガンガンガンッ
 ガンガンガンッ ガンガンガンッ
 ガンガンガンッ ガンガンガンッ


 檻の中にいるので逃げ場などない。そもそも逃げられるわけがない。

 魔人に敵対した段階で、人間に抵抗する手段などなくなるのだ。


「っっっっ!!! やぁっっっ!!! あぁああああ!!!」

「お前の婚約者は使えないやつだったな。不快な思いをさせやがって」

「あぁっぁぁぁぁあ!!!!! 許して、許してえぇえええええ!! お願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いしますううう!!!」

「豚の声は醜いが、鳥の声は悪くないようだ。まずは舌と喉を残して、それ以外の全身を焼いてやる」


 ジュワッ

 再び足元から水気が発生し、徐々に上昇していく。


「やぁああああああああ! やあぁあああああああああああああああああああ!!!」


 焼ける、焼ける、焼ける。

 足が焼けていく。


「いたいいたいいたいいたい!!!」

「ああ、ムカつくな。また苛立ってきた」


 ジュワジュワジュワ ゴポゴポゴポ

 水が増える。焼ける。


「キャぁあああああああああああ!!」

「どうしてオレが、こんな馬鹿なやつらのためにここまでやらないといけない。こんな面倒な手間をかけて!!! こんな豚や鳥どもを!!! 飼い慣らさないといけない!!!!!」


 ジュワジュワジュワ ゴポゴポゴポ

 増える。焼ける。

 ジュワジュワジュワ ゴポゴポゴポ

 増える。焼ける。

 ジュワジュワジュワ ゴポゴポゴポ

 増える。焼ける。


「ひっ、ひっ!!! ひぁあああ!!」

「うるさいな…。一発屋芸人じゃあるまいし、同じことしか言えないのか」


 鳥の声すら苛立たしく思えてきた。

 鳴くことしか取り柄がない弱い鳥だ。最初は物珍しかったが、もともと他人のものなので興味が薄い。

 すでに情報はもらった。飼い主があの豚だと思うと、特に生かしておく理由が思い浮かばなかった。


「ならば、こいつもいらないか」

「っ!!」


 ジュワジュワジュワ ゴポゴポゴポ
 ジュワジュワジュワ ゴポゴポゴポ
 ジュワジュワジュワ ゴポゴポゴポ


 増える焼ける増える焼ける増える焼ける増える焼ける増える焼ける増える焼ける増える焼ける増える焼ける増える焼ける増える焼ける増える焼ける増える焼ける増える焼ける増える焼ける。


 水気が一気にリンダを覆い尽くした。


「こぼっごっ…っっ―――!!! っっ―――! っっ―――!」


 全身に痛みが走り、少し吸い込んだだけで口内が焼けていく。鼻も焼けていく。

 目を開けようものならば失明は間違いない。

 しかし、目を瞑っていたところで目蓋が焼けてしまえば、その抵抗も無意味になってしまうだろう。

 まさに溺れた鳥。自力では絶対に浮上することはできず、このまま死に絶えるだけの運命。


 そんな鳥の姿を、魔人はつまらなそうに見つめる。


「面倒になってきたな……全部壊すか? どいつもこいつもムカつくしな。どうしてここにはまともな連中がいないんだ? 愚かで馬鹿で使えないやつらばかりだ。…いや、思えば地球でもそうだったか。どこの世界も一緒ってことだな」


 地球でも愚かで無能な人間ほど上にいるものだ。時々ニュースになるたびに「なぜ、あんなやつが?」などと思うことも多いだろう。

 それはこの都市も同じことである。

 あんな駄目領主に無能なイタ嬢。それを放置している民衆。街にはびこる麻薬、部屋の中にまで臭ってくるほどの腐敗の温床。

 反吐が出る。うざい。気持ち悪い。ムカつく。イラつく。


 ならば、排除すればいい。


 地球でもそうだ。どうして彼らはそういったものを野放しにしておくのか。

 不快なら殺して肉片にすればいいのだ。とても簡単な理屈である。それでスッキリする。綺麗になる。


「こんな豚どもはいらん。それに飼われている鳥もいらん。クズでゴミどもめ…! 従えば呼吸するくらいは許してやったものを…!! このオレに反抗し、あまつさえ所有物に手を出すとは…絶対に許してはおけん!!!!!」


 それはもともと自分の中にあった感情だが、出会ったお姉さんたちやガンプドルフのこともあり、しぶしぶ抑えてきた考えでもある。



 それが豚の一言で―――キレた。



 この男の中には、まだまだ怒りや憎しみ、反発する感情が多分に多大に残っている。

 魂の力が強すぎるゆえに、姉という存在に与えられたストレスが大きかったがゆえに、それは簡単に発火してしまう。

 まるで引火しやすい爆弾。超大型爆弾。

 爆発すれば、この星を焼き尽くすまで止まらない恐ろしい力。


「そうだ…そう!! くくく、破壊、破壊してやる!! 引き裂いて、すり潰して、晒してやろう!! くくく、ははははははは!! 簡単じゃないか!!! あああーーーー!! 楽しみだなぁあああああ!」


 領主は、なぶったあとに殺そう。イタ嬢は奴隷にして豚どもに食わせよう。

 ガンプドルフが立ち塞がったら殺そう。剣は珍しそうだから奪おう。

 ソイドファミリーやその他のクズどもは、魔獣を連れてきて一人ひとり食わせるのも面白い。

 人間はたくさんいる。足りなくなったら次の都市に行って確保すればいい。

 遊び道具には事欠かない。なにせ八十億人もいるし、現在進行形で増えていくのだから。


「いいなぁ、人間は。勝手に増えるから楽でいい。一度絶滅寸前にまで追い込むのも面白い。そうすれば少しは強いやつも生まれるかもしれない。遊び相手にはなるだろう」


 次から次へと楽しそうなことを思いつく。頭がスッキリして、とても愉快な気分だ。

 今ならば何でもできる。

 姉すら怖くない。むしろ、どうしてあんなに逃げ出そうとしたのか不思議に思えてくる。

 あれは唯一の同類。仲間。身内であり、家族であり、自分の【妻】でもある。

 魔人因子の覚醒とともに、そのことがよくわかってきた。


「姉ちゃんだけがオレを受け止められる。姉ちゃんは壊れない。潰れない。引き裂けない。相手も同じだ。オレを殺せない! 潰せない!! だから同じなんだ!!」


 パミエルキが言っていたことは、すべて事実であり真実。

 彼女だけが、アンシュラオンが唯一本気で触れられる生物である。

 それ以外は簡単に崩れて死んでしまう。リンダに触れれば、きっと一瞬で燃え尽きてしまうのだから。


 頭の整理がついたのならば、次は行動である。

 おそらく彼は、この都市を破壊してしまうだろう。

 一度目覚めた魔人の血は簡単には消えない。手当たり次第に破壊と殺戮を繰り返すに違いない。

 いや、仮にこの都市が消えたところで、それで少し気が済めば御の字だ。

 世界が、大陸が、国が生き残るならば、たったそれだけの被害だといえる。

 助かった。ぜひそうしてほしいと願う人間も大勢いるだろう。


「さあ、手始めに鳥を処分するか。本当は余興で豚の死骸でも食わせてやろうかとも思ったが、それすら面倒だ」

「っ―――っ―――っっっ!?!!!!!」


 リンダは、もう声が出せない状態に陥っている。目も開けられず、耳も聴こえない。

 だが、その魔人の気配を悟った瞬間―――


 バリン バリンッ


 ギアスなど使わずとも、彼女の精神が壊れていく音が聴こえる。

 こんな恐ろしい存在と対峙したのだ。心が壊れないほうがおかしい。


 そして、精神の安全装置が働き―――気絶。


 力が抜け、一切の抵抗をやめる。諦めたのだ。生きることを諦めた。

 生きていても、なぶり殺されるだけのこと。だから心が絶望して情報を遮断したのだ。

 人間は便利だ。自らの意思で気絶できる。


「つまらん。こんなやつより外の連中のほうが面白いか」


 もはやソイドファミリーなど関係ない。自分の視界に入る存在、すべてを蹂躙する。

 それは彼にとって最高の快楽だろう。

 今までの束縛から解放され、この世界を自由にできるのだ。誰もが憧れる「最強」を味わえる。



 その甘美な誘惑に駆られ、出て行こうとした時―――





 目が―――触れた。





 その背に、恐ろしく強大な魔人の背に【視線】が触れた。


「っ!」


 思わず後ろを振り返ると―――エメラルドの瞳があった。


 その目が、じっと自分を見ている。


 それはまだ本当に小さく、誰かが守ってあげなければ、すぐに死んでしまうような弱々しいもの。


 この魔人に比べれば、本当に小さく弱い存在。


 これほど大事にして、今も彼女のために怒ったはずなのに、なぜかその存在を忘れていた。

 獲物を追いかけ回すのに夢中で、うっかりと草花を踏み荒らすように完全に視界から消えていた。

 だが、少女は見ていた。

 アンシュラオンの行動すべてを見ていた。その声も、思考も、すべてを見つめていた。


「…じー」


 彼女は魔人の双眸を見つめている。

 誰もが怖れ、恐怖する赤い目を、そのエメラルドの瞳で見ていた。


 裏側にある【黒いもの】が―――見ていた。


 その黒い力は、魔人の光を受けても怯えることはなかった。

 それは当然だ。彼女には【恐怖】という感情が存在しない。怯えるということすら知らない。

 だから目の前のものを【観察】している。それが何かを知ろうとしている。




 世界が―――黒に染まる。






121話 「その目が見ているから 後編」


 あの時とは正反対のように、魔人の白を打ち消すように、奪い取るように、黒き少女の深淵の黒が世界を覆っていく。

 それは何の黒なのだろう。拒絶なのか、否定なのか、無関心なのか、それすらもわからない。

 だが、黒は白を包み込んでいく。それを覆すことはできない。




―――サナ



―――サナ・パム




「サ………ナ………」


 ようやく、その名を口に出す。

 サナ。サナ・パム。それが彼女の名前。彼が呼んで、応えた名前。

 彼が最高の女性にすると約束し、【契約】した相手の名前。


 契約は、単なる口約束ではない。


 魂と魂が結合するに等しく、その身を賭して、精神を賭して、霊を賭して守らねばならない。

 それだけの力を持っているのだから、それだけの責任と義務があるのだ。

 少なくとも目の前の少女を立派に育て上げるという責務がある。それは自ら望んだことだ。



 しばらく見つめあい―――人に戻る。



 アンシュラオンの中から魔人の因子が消えていく。引っ込んでいく。

 それは許したからではない。怒りは怒りとして中にまだ残っている。

 では、なぜ戻ったかといえば―――



 サナが―――つまらなそうにしていたから。



 その目が「もう終わりなのか?」「これが見せたかったものなのか?」「こんなものなのか?」という、静かで冷たい瞳に見えたからだ。

 サナは何も言わない。だが同時に目で訴える。


 これは―――【劇】


 サナのために用意した劇である。喜劇も狂劇も悲劇もすべて、サナのためになるからやったことだ。餌になるからやったことだ。

 この面倒な手間も、そもそもシャイナを助けようとしたことも、すべてはサナの栄養のためである。


 彼女が―――人間になるための。



「…サナ」

「…じー」


(そうだな…。サナは他人を【視る】。観察する。それによって自分を形成していく。ならば、オレという存在も同じように見られているんだ。面倒になったからここでキレる、ってのはルール違反だよな。パズルがちょっと上手くいかないからって、すべてを破壊するのは遊びとして根本的に間違っている。これはオレが自分で望んだことなんだ)


 このルールを作ったのもアンシュラオン自身だ。

 遊びはいつだってルールがあるから面白い。ルールを無視して、相手を殺して勝ってもつまらない。

 それならば一瞬でできること。

 領主を殺すこともソイドファミリーを即座に排除することも、アンシュラオンならば造作もないこと。


 それをやらないのは、サナのためだ。


 サナを成長させるという自身の最高の目的のためにすべてがある。そのサナが楽しくないのならば、やっても意味がないのだ。

 アンシュラオンは、サナのもとに向かい、軽く背を屈めて顔を覗きこむ。


「オレは…悪いお兄ちゃんだったか? 自分でルールを曲げるなんて最低だよな」

「…こくり」

「ははは、サナは容赦ないな。…怖かったか?」

「…ふるふる」

「そうか。怖くないか。サナは魔人だって怖くないんだな。…悪いお兄ちゃんより、今のお兄ちゃんのほうが好きか?」

「…こくり」

「…そうか。…そうだな。サナは…人間……だもんな。これから人間になるんだもんな…。なら、オレも人間のままでいないとな」


 アンシュラオンが仮面を外す。サナのも外してあげる。

 ふわりと舞ったサナの黒い髪の毛を撫でる。

 とても柔らかくしっとりしていて、自分の白い肌に一番映える黒。

 サナは少しだけ汗を掻いていた。怖れていたからではない。単に長く被り続けて暑かったからだ。


 そんなことで、汗を掻く。


 たったそれだけの存在。それが人間である。

 だが、それが愛しいと思えた。ならば、今の自分は人間なのだ。

 人間には人間の兄が必要だ。魔人ではいけない。それでは愛は教えられない。


「おかげでやりすぎないで済んだ。ありがとうな」

「…こくり。ぎゅっ」

「わかっている。約束は守るよ。オレはお前に面白いものを見せてやる。楽しいことをさせてやる。そのためにいろいろと約束しているからな。それも含めての劇だ」


 サナとの約束は当然、リンダも殺さないと約束している。

 それは人間である時に交わしたもの。人間として生きるのならば守るべきものだろう。


 バシャーー ゴロン


 リンダを覆っていた水気がなくなり、鉄床に転げ落ちる。

 かなり皮膚の表面が焼けているが、なぶっていたおかげでまだ致命傷にはなっていない。

 今すぐに命気で修復を開始すれば簡単に治るだろう。


「それと、こいつもまだ間に合うな」


 アンシュラオンが倒れているビッグに向かう。

 腕がちぎれ、目と顎を失い、首が完全に折れるという無残な光景だが、息の根を止めたわけではない。

 魔人になっていた時の嗜虐心が幸いしてか、ギリギリ殺す寸前で止めていたおかげだ。武人の生命力は凄まじいので、首が折れたくらいでは簡単に死なない。


 死は、肉体と霊体を繋いでいる【シルバーコード〈玉の緒〉】が切れた瞬間に確定する。


 逆に言えばシルバーコードが切れていなければ、まだ死んでいないということだ。

 アンシュラオンにシルバーコードは完全には見えないが、術士の因子があるので、ものすごーく目を凝らせば、切れているか切れていないかくらいは判断できる。

 ビッグは、ダディーから受け継いだ強靭な身体のおかげで、まだかろうじて生きていたようだ。

 もしうっかり心臓を潰していたらさすがに死んでいたので、少しだけ冷や汗ものである。


(サナのおかげで助かった。ちょっとしたイライラで、もっと多くの利益を失うところだったよ。目的はサナの教育と金。それを忘れちゃいけないな)


 人間として生きるのならば金が必要である。

 ホテルを借りる金、サナに贅沢をさせるための金、自分自身が好き勝手するための金。どれも大事なものだ。

 ここは火怨山ではないのだ。人間の世界では、金があればたいていのことは叶う。


 目的は、相手の組織を乗っ取ること。


 ただ潰すのではなく、麻薬の栽培および製造方法、販売ルートそのものを奪うことである。

 そのために内通者の存在は必須。仮に協力されられなくても、生かしておくだけで人質の価値はあるのだ。

 家族想いの彼らのことだ。それなりに使い道はあるだろう。


(力を持ちすぎるのも危険かもな。昔は我慢できたことも歯止めが利かなくなる。まあ、まずは金だ。それを忘れないようにしよう。金のためにラブヘイアとも組んだじゃないか。あれを思い出そう)


 地球時代は、よく我慢をしていた。取引先の人間のちょっとした言葉に苛立って殴るのは簡単だが、それによって多大な利益を失うからだ。

 我慢すれば金が手に入るのは、地球もここもあまり変わらない。

 しかも今回のことは自分が計画したこと。自分とサナのためにやっていることだ。それを忘れないように心に留める。


 命気水槽を発動。リンダともども、水槽のような命気のプールにビッグが浮かぶ。

 それと同時に、引きちぎった腕やら目やら下顎やらを一緒に入れていくと、急速に修復が開始される。

 これでようやく一安心である。


「完全に破壊しなくてよかった。命気だけだと、一から再生させるのは難しいんだよな…」


 命気も完全に万能ではない。破壊箇所が大きいと、それが自分の細胞になるまでには相当な時間がかかってしまう。

 場合によっては手遅れになることもあるので、特に部位の欠損には弱いのが弱点だ。

 事実アンシュラオンも、「昔失くした腕の再生をしてくれ」という患者の願いには、完全には応えられていない。

 やれなくはないが自分以外だとオーラの調整が面倒であるし、代金は最低でも五千万くらいもらわないと割に合わない。

 その間は手が離せないので、最悪は数日間も同じ体勢でいなければならなくなる。正直、やりたくない治療法である。


 ただし、ビッグのように元の部位が少しでも残っており、破壊されたばかりならば新鮮なので修復も容易となる。

 もちろん時間はかかるので手間であるが、最初から生み出すよりは遥かに効率的で楽である。


「はぁ…キレたオレが悪いとはいえ…面倒くさいな。姉ちゃんの術式だったら話は別だけどさ…」


 一方、パミエルキが使う術式は、強制的に細胞分裂を促して自己修復させるものなので、失われた箇所の再生に適している。

 その反面、細胞の寿命を減らすことになるので、簡単な傷の修復には向かないのが欠点だ。

 武人ならばともかく、一般人に使い続けると細胞分裂の限界がやってきて、それ以上分裂ができなくなって死ぬことになる非常に危険なものだ。

 ただそれも、魔人という特殊な因子を持っていれば問題ない。

 パミエルキがアンシュラオンを平然と攻撃していたのは、こうした理由があるからだ。


 魔人は―――人間とは違う。


(姉ちゃん…。これが姉ちゃんが言っていたことか。わかるよ。オレの中にも姉ちゃんと同じ力が眠っている。同じ存在なんだ。いつだって姉ちゃんのことを考えている。姉ちゃんと繋がりたいと思っている。でも、オレは人間として生きていくんだ)


 自分が魔人になったら、姉としか生きていくことはできない。

 何もない世界で姉と二人きり。

 それは自ら望んだことでもあるが、今こうして新しい世界に来てサナと出会った以上、そんな生き方をしていてはいけない。

 激情に任せて都市を破壊するのは楽しいかもしれないが、その後には【退屈】が残る。退屈こそ人生において最大の敵だ。

 だから、姉と同じにはならない。


「ごめんね。ホロロさんも怖かったでしょう?」

「…は、はい。で、ですが……美しい……あまりにも………か、神よ……」


 廊下でへたり込んでいるホロロにも声をかける。

 彼女も震えており、失禁間近という状態であったが、その顔は泣きながらも笑っていた。


「オレは神様じゃないよ。この世界には、ちゃんとした女神様がいるんだからね」

「それでも…私の……すべてです」

「…そう。…それもいいかな。そうであれば、オレもまだ人間でいられると思うしね」


 魔人を見て笑えるとは、ホロロも相当ぶっ飛んでいる女性である。

 リンダとは違う意味で心が壊れているのかもしれない。

 そして、そんな人間と一緒ならば自分も人間であろうと思える。


 彼女たちの【視線】があれば、自分は人間として振舞うことができるだろう。


 サナの観察する視線、シャイナのうるさい視線、ホロロの崇拝の視線。時には面倒だと思えることは、案外自分にとって必要なものなのだ。


「さて…こいつらが目覚めるまでは……どうしようかな」


 周囲を見回すと、部屋は盛大に散らかり、血に塗れていた。

 ソイドビッグが失禁した跡まである。最悪だ。臭いも酷い。


「まずは掃除かな…。ホロロさんだけに任せるのは心苦しいしね」

「…こくり」


 それにはサナも同意である。




122話 「ビッグの提案 前編」


「…うう……ぁっ…っ……」


 まるで死人のような淀んだ瞳が周囲を見回す。

 ぎょろぎょろ。
 ぎょろぎょろ。

 まだ左半分の視界は白く濁っていて完全ではないが、現状を把握しようと脳は情報を集め始める。


 まず見えたのが、すべてが清浄に包まれている青い世界。命気によって覆われた世界である。

 次に見えたのが、四角い世界。部屋の世界。人が生活するための空間が広がっている無機質なもの。

 さらに目を動かして見えたのが、有機的なもの。ベッドに横たわっている黒い少女。

 人間がまず着目するのが同じ生命であり、動いているものである。

 だから同じ人間である少女を観察しようとするが、脳はさらに能動的なものを反射で捉えていた。


 たとえば、その隣にいる―――白い影。


 少女の隣には、白髪白服の少年がいた。現在は仮面を被っておらず素顔なので、その白さもかなり際立っている。

 その少年は、その目が動きを捉える以前から、こちらを見ていたようだ。


「よぅ、気がついたか。オレのことがわかるか?」


 アンシュラオンがビッグの顔の前で手を振る。

 思えば素顔を晒すのは初めてなので、もしかしたらわからないかな、という気持ちがあったからだ。


「………」


 ビッグはしばらく呆けたように、その光景を見つめていた。

 左目はもちろん右目の調子もまだよくないので、まだはっきりとは見えないのだろう。


 が、その赤い目を見た瞬間―――理解。



「っ!! ぁっあああ!! ああああああああああ!!!」


 突如、発狂したように大声を上げる。

 この大男が出す声にしては、あまりにも弱々しく哀れみに満ちたものだ。


「ああああ! あぁああああああっ!!! っっっ!!!!」


 まるで天敵を発見した小動物のように必死に両手足を動かして、この場から去ろうとする。

 だが、彼はまだ命気水槽の中にいるので、その動きも惨めなまでに無意味。

 強いエネルギーである命気を掻き混ぜることもできず、ビクビクと痙攣しているようにしか見えない。


「おい、あまり動くな。まだ左腕は完全に治ってないんだ。暴れると、もげるぞ。叫ぶのもやめろ。顎も取れるからな」

「あっーーーっっ!!」

「ふぅ、豚の世話は大変だな…」

「おぶおぶっっーーー」


 仕方ないので命気を回転させ、洗濯機のようにぐるぐる回してビッグの口を封じる。

 しばらく続けると再びぐったりして、おとなしくなった。

 そんなビッグをつまらなそうに見つめながら、眠そうにしているサナの頭を撫でる。


「動くなと言っただろう。文字通り半殺しだったんだ。あと一分も遅ければ、お前は死んでいただろうな。ここまで治すのは大変だったぞ。三時間もかかった」


 実際のところビッグは死ぬ寸前であった。虫の息とは、まさにこのことである。


 現在の時刻は、すでに深夜。午前二時過ぎといったところだろうか。

 ビッグは特に怪我が酷かったので治すのに三時間も費やした。それでもまだ完全に治ってはいない。

 血管や細胞少しならばともかく、ちぎれた部位の再生はとても面倒なのだ。折れた骨や無酸素状態で損傷した脳細胞の修復にも時間がかかった。

 自分ならば簡単にできることも、他人の身体を治すのはやはり難しい。

 が、なんとか再生には成功。こうして無事蘇ったわけである。


「さて、役者もそろったことだ。話をしようか」

「ひっ…」


 椅子に座っているリンダを見る。

 顔色は最低に悪く、今すぐにも死にそうだが健康状態に異常はない。彼女の肌もすでに治っている。


「そんなに怯えるな。殺すつもりはない」

「っ……はっ、はっ、はっ…!! はっ、はっ、はっ!! っ…っっ!」

「また過呼吸か。鳥のメンタルは弱いな」


 が、精神は―――ズタボロ


 リンダは目を見開きながら、荒い呼吸を繰り返す。時々息が詰まるので非常に苦しそうだ。

 しかし、これでもまともになったほうだ。

 さきほど気がついた時など、狂人のように叫び狂ったかと思ったら、床に倒れて身体を痙攣させて失神。それが二回ほど続いて、今ようやくここまでに回復したのだ。

 ちなみに現在は服を着ており、檻にも入っていない。ここは八号室だからだ。

 七号室の掃除はしたのだが、リンダの精神状態が芳しくないので部屋を移動したのだ。

 おそらく今の状態だと、七号室の間取りを見ただけでも恐慌状態に陥るに違いない。



 リンダの呼吸が整うのを待つこと二十分、ただ時間だけが流れた。

 怯えた動物と一緒で、力で無理強いしても仕方ない。これ以上強硬な手段に出たら、リンダは本当に壊れてしまうだろう。

 非常に嫌々だが、鳥の具合に合わせるしかない。その間にビッグの治療も進んだ。


「もう話を聞くくらいはできるだろう?」

「…はっ……はっ……は…い……」

「豚君もいいな?」

「……こくり」


 水槽の中のビッグも、リンダのあまりの怯えっぷりに我に返ったのか、その言葉に頷いた。

 その顔には強い疲労感が滲んでいるので、彼もリンダに近い状況なのだろう。

 ただ、婚約者の前であり、男である以上は恥ずかしいところは見せられないので、なんとか気を保っているにすぎない。

 どちらにせよ両者ともども、身も心もズタボロである。


「最初に言っておくぞ。お前たちの選択肢は二つだ。オレに完全屈服して言うことを聞くか、さきほどのようになるかだ」

「っ…」


 その言葉だけで、ビッグもリンダも身体を硬直させる。

 これに関しては男か女かはまったく関係ない。人間ならば、あの姿に怯えない者はいないだろう。

 あれを見たうえで立ち向かえるとすれば、その者こそ真の英雄である。


「わ……わ、わた……し……な、な……なな…何を……すす……す、すれ…ば……」

「何もする必要はない。お前の役目はほぼ終わっている。そのまま『特に異常なし』と報告を送ればいいだけだ。…にしても、その様子じゃ普通に会話もできないな。ほら、さっさとこれを使え」


 アンシュラオンが【白い粉】とパッチを渡す。


「はぁはぁ…」


 リンダは水の入った専用のパッチに粉を入れ、軽く掻き混ぜてから腕に刺す。

 ジュワワと体内に成分が染み渡り、少しずつ呼吸が落ち着いていくのがわかる。


「ごぼっ…ぼごっ……!」


 ビッグが信じられないというような目でリンダを見て、何かをしゃべっている。

 ごぼごぼやられても気色悪いだけなので、再び命気水槽から顔を出してやる。


「そ、それは……ま、まさ…か……」


 どうやら舌は完全にくっついたようだ。

 まだ微妙に呂律が回っていないようだが、自然治癒力もあるのでそのうち治るだろう。

 それより、なぜビッグが驚いているかのほうが不思議である。


「どうしてお前が驚く? たかが麻薬だろう? お前たちにとっては当たり前のものじゃないのか?」

「…リンダ…は、や、やらない…」

「…私…だけでは……ありません。ファミリーの皆さんは……誰もやりません」


 麻薬を打って少し落ち着いたのか、リンダの様子が正常に戻ってきた。


 そう、今のは―――【麻薬】。


 シャイナが売っていた「コシノシン」という医療麻薬で、非常に高い鎮痛作用と鎮静効果を持った薬である。

 これは初めてリンダを捕まえた時、ショックが大きすぎたのか、あまりに怯えて話にならないので裏ルートで入手したものだ。

 コシノシンは依存性が高いものの、調整して打てば少し手が震える程度の後遺症で済む。

 しかし、もはやリンダは麻薬なしでは正常の状態に戻ることができなくなってしまっていた。

 こうしている今も焦点が微妙に定まっていない。中毒者というより、恐怖が染み付いていて脳裏から離れないのだろう。

 あんなことをされれば当然であるが。


「リン…ダ……」


 ビッグは婚約者のくたびれた顔を見て、沈痛な面持ちを浮かべる。

 ただ、同時に生きていてくれたことに感謝もしていた。哀しいことでも、生きているから感じられるのだ。


「麻薬組織だから全員がラリっているのかと思っていたが…単なるイメージにすぎないか。しかしまあ、他人を麻薬漬けにしておいて自分たちは真っ白のままとは、なかなかあくどいな。まあ、これでおあいこだ。立派な中毒者になれてよかったな。少なくとも一人は常連客が増えたわけだし、利益は増えるぞ」


 そんな二人のことなど気にもせず、アンシュラオンは素直な感想を述べる。

 言われてみたらその通りなのだが、二人もこの男には言われたくないだろう。

 ここにシャイナがいたら確実に「絶対に先生のほうがあくどいですよ!」と言うに違いない。誰も止める人間がいないので言いたい放題である。


「話を戻すぞ。いいか、同じことを言わせるなよ。実質的に、お前たちの選択肢は一つしかない。もうわかるな?」


 これで駄目ならば、もう単純に人質として使う以外の道はない。廃棄処分よりは有意義な使い方だろう。


「ホワイトさんに協力すれば…許して…くれますか?」


 もともと屈しているリンダが、当然ながらそう言う。

 ビッグの言葉がなければ、とばっちりを受けることもなかったので、なんとも哀れな薄幸少女にさえ見えてくる。


「ああ、いいぞ。お前だけじゃない。そこの男にも手は出さない。二人仲良く一緒だ。よかったな」

「り、リンダ…!」


 かなりまともな口調に戻ったビッグが、またまた驚きの声を上げる。彼にとっても意外だったのだろう。

 だが、リンダの精神はもう限界だ。


「私…もう無理。…耐えられない。怖いの…怖くて…しょうがなくて…やめたい。もう終わりにしたいの…」

「リンダ…それはファミリーを…抜けたいってことなのか? 見捨てる…ってこと…なのか?」

「ファミリーは好き。大好き。ダディーさんもマミーさんも……好き。助けて大事にしてくれたから…好き。でも…誰かの恨みを買って…当たり前のように……仕返しされて……こんな目に遭うなんて……耐えられない……」


 リンダにとってファミリーは恩人でもある。


 だが、同時に憎むべきものでもある。


 ビッグのように生まれながら裏の住人ではない彼女にとって、やはり裏社会は普通ではない場所なのだ。

 目的のためならば非道なこともする。自分たちが幸せになるために他人を不幸にしなくてはいけない。

 そして、その復讐で攻撃され、また報復して、再び復讐される。麻薬は必要悪だとしても、そのことに心が耐え切れないのだ。

 これはアンシュラオンに強要されたからではない。恐怖が引き金になったものの、それはむしろ彼女の中の【本音】を引き出すことになったのだ。

 コシノシンも劣等麻薬ほどではないが気が大きくなるので、今まで言えなかったことが言えるようになる。

 だからこれは、すべて本心である。それは身近な存在であるビッグが一番わかることだろう。


「ビーくん、いつかこんな日が来るって思ってた。こんなことしていたら、駄目になる日が来るって考えていたの。…終わりにしなきゃ…終わりに……そうじゃないと……もう…」

「リーたん、でも…それは裏切るって…家族を裏切ることなんだ。俺にとってはそんなこと…」


(ぶっ! ビーくん!? リーたん!? ちょっ、マジかよ! くくく、ここで笑ったら駄目なんだよな? きっついわー、これ! 我慢できるかな? それにしても、ビーくんはないだろう! 笑い死にさせて殺す気か!?)


 いきなりの恋人モードにアンシュラオンが吹き出しそうになるが、さすがにここで笑うのはやめておいた。

 せっかく話が進みそうなのだ。これ以上の面倒は御免である。

 もしこれが「ブヒくん」とかいう呼び方だったら、まず耐えられなかっただろう。その点においては感謝しなければならない。


「でも、このままじゃ…ファミリーが…潰れちゃう。みんな、死んじゃう。殺されちゃうから…それなら少しでも…残るほうが……いい」

「俺たちだけ生き残っても……いや、待ってくれ。それが前提…なのか?」

「…こくり」


 握り締めた手を震わせたリンダが、アンシュラオンの要求を代弁してくれる。

 あそこでビッグがキレなければ、最初からこうする予定だったので実にスムーズな展開だ。


「ど、どうして…全員を…?」


 ビッグは勇気を出して、アンシュラオンに声をかける。

 どうやらそれが規定路線のようなので、黙っていたら実際にそうなってしまう。

 あの魔人の恐ろしさを痛感した直後なのだ。嘘とは思えない。


「残しておいたら恨みを買うだろう? 厄介事は面倒だからな。それにお前たちに存続されると困ることがある。それだけだ」


 シャイナを完全に抜けさせるには、ソイドファミリーを全滅させるのが一番である。綺麗さっぱり、すべて真っ白にするのだ。

 だがビッグにとっては、その部分を簡単に了承できない。

 ようやく少し頭が回ってきたので、打開策を見つけようと必死になる。


「ま、待って……家族は…どうか……」

「お前の家族を残したら意味がないだろう。オレの目的は、お前たちの利権をすべて奪うことだからな。納得するわけがないし、オレはもう今回のことみたいに面倒くさいのは嫌なんだよ。動物の調教がここまで大変とは…動物園やサーカスの調教師を尊敬するよ」


 他の家族まで力で脅して屈服させるのは面倒くさい。

 簡単に言うことを聞くならばいいが、ソイドダディーが納得するとも思えない。殺すほうが楽だ。


「そ、それなら…協力……する。絶対に協力…させる! それに弟は…麻薬を作れる……!」

「知識をいただけば生かしておく必要はないだろう?」

「役に立つ…男だ…。頭が…いい」

「たしかお前の弟ってのは、ニャンプルちゃんにご執心のやつだろう? 頭がいいとは思えないがな。それ以前に、男を生かす理由が見当たらないな」


(だ、駄目…なのか? なんて男だ!)


 目の前のホワイトという男は、実に冷淡な人物である。

 自分に役立たない存在に慈悲は一切ない。しかも男に対してはそれが顕著なので、その段階で打開策が封じられたように思えた。

 しかし、諦めるわけにはいかない。家族の命がかかっているのだ。頭が悪いながらも必死に考える。


(何かないか。何か…! このままじゃ家族が殺される…! そ、そうだ! たしかホワイトは…年上の女が好きだったな……)


 一つだけ思い出したのが、ホワイトが年上好きだということ。年上の女ならば、多少の慈悲くらいはかけてくれるかもしれない。

 で、ファミリーの中で年上女性といえば、この人物しかいない。

 非常に駄目元であるが、いちるの望みをかけて言葉を紡ぐ。もうこれしか思いつかない。


「ま、マミーは……いい女だ」


 若干声が震えたのは、自分でも「無理があるかな?」と思ったからだが、自由に動けるのは口しかないので、今度ばかりはこれに頼るしかなかった。

 ソイドビッグ、一世一代の賭けである。




123話 「ビッグの提案 後編」


「マミー? お前の母親だな?」

「そ、そうだ。まだ現役で……美貌を保っている……胸も大きい……」

「お前は何が言いたい?」

「…年上好きなら……たまらない…はずだ」

「本気か? オレを何だと思っている? どんなにいい女でも、お前の母親に欲情するほど腐ってはいないぞ。さすがに母親は…ないわぁ」

「そ、そう…か……そうだな……むしろそのほうが…よかったが」


(こいつ、自分の母親を売るつもりか? やっべぇ、いくらオレでもそれだけはできないぞ。想像するだけで吐き気がする。こいつ…ある意味でオレよりも鬼畜だな。ちょっと見直したぞ)


 見直すポイントが若干ズレているが、さすがのアンシュラオンにもその発想はなかったので、怒るというより呆れてしまう。

 シャイナも自分のことを好き勝手言ってくるが、いったい何だと思われているのだろうか。

 たしかに母親系のエロゲーも嫌いではなかった。なかったが、やはり姉には敵わない。敵ってはいけない気がする。


 されど、次に苦し紛れに放ったビッグの言葉が、思わぬ進展を見せる。


「マミーは……ラングラスの孫娘で…生かす価値が…ある!」

「ラングラス? たしかお前たちの組織のトップだったな」


 その名前はリンダから聞いていた。

 グラス・マンサーという特別な上級市民であり、ソイドファミリーの上にいる黒幕である。

 がしかし、孫娘というのは初めて聞いたフレーズであった。


「マミーはラングラスの孫娘…。そんな話は初耳だな。リンダからも聞いていない」

「っ……わ、わたしは……し、知らな……」

「リンダは…知らない。ファミリーの幹部クラスだけが…知っている」


 リンダはマミーがラングラスの血縁者であることは知らされていない。

 各組織の幹部だけが知っていることであり、あまり口外されてはいない情報なのだ。

 五年前に裏社会に入ったばかりの娘に、そこまで重要な情報は渡されない。こうして捕まった場合、知らなければ白状することもできないからだ。


「ということは、お前もラングラスの血族ってことか?」

「…そうだ」

「ラングラスはどんな男だ? 孫娘やお前たちに甘いのか?」

「俺らからすれば…気の好い曾じいちゃん…だ。優しくしてくれる…」

「ふむ…そうか。ならば使い道はあるか…」


(黒幕をどう脅すかは問題点の一つだった。力で屈するような人間ならばいいが、どうやらそいつはかなりの高齢のようだ。歳を取ると命にこだわらなくなる傾向にあるし…孫娘ならば人質になるかな?)


 アンシュラオンはリンダからラングラスの話を聞いた時、力で脅せばいいと考えていた。

 ただ、それが簡単にいかない場合がある。

 相手がすでに達観していた場合、自分の命などいらないと考える傾向にあるからだ。歳を取れば必然的に死が近づくので、そこへの恐怖心が薄くなる。

 この場合に有効なのは、やはり【人質】だろう。

 領主がイタ嬢に対して見せた動揺のように、自分が大切にしている者を盾にすれば話も簡単になる。

 実際に接触してみないと性格がわからないが、孫娘と聞いたならば無理に殺す必要はない。


(ビッグも曾孫ってことか。これは交渉材料になりそうだな。…しかしまあ、人質ビジネスみたいな感じになってきたが、このほうが効率的なんだからしょうがないよな…アフリカの海賊みたいだけどさ)


 アンシュラオンも好きで人質を取るわけではない。

 相手が素直に言うことを聞けば、その必要性はないのだが、いかんせん言うことを聞かない動物ばかりである。

 動物なので家族間のつながりばかりを気にするため、仕方なくこの手段を取るわけだ。

 実際こうして管理する手間があるので、人質はかなり面倒である。正直スマートなやり方とはいえないが、有効なので受け入れるしかないだろう。


「それに…いきなり俺たちがいなくなったら…他の組織が……黙っていない」


 食いついたのを見て、ビッグはさらに話を進める。

 実際、それらの情報は新しい側面を浮き彫りにしてくれるので、アンシュラオンも興味が湧いた。


「他の組織とは?」

「俺たちソイドファミリーと並ぶ…【ラングラス一派】だ。俺たちは麻薬だが…それ以外のものを…取り扱っている組織…だ」

「仮にオレが麻薬事業を奪ったら、そいつらはどうする?」

「…締め出すのは間違いない。結束が強い…からな」

「ラングラスを押さえてもか? トップの号令があれば逆らえないだろう?」

「曾じいちゃん…ツーバ・ラングラスは、すでに事業を分散して…各組長に任せている。それは…こういう場合のためにだ。一つがやられたら…ルートを切る。全体が生き延びるために…」

「ほぉ、切れる男だな。領主より頭が良さそうだ」


 ラングラスが管理する組織はソイドファミリーだけではない。他にも、いくつも組織を持っている。

 高齢になったこともあるが、ツーバは事業を分散して各組織ごとで管理させている。

 今回のようにどこかの組織が寝返ったり奪われたりしても、全体に対する影響を少なくするためだ。

 たとえるならば、財産を複数の口座で管理するようなものだ。一つ盗まれたからといって死活問題にはならないようにする予防策である。

 危機管理は案外難しいもの。常時そのような態勢が整っているとしたら、ツーバはかなりの切れ者である。領主と同じだと思って侮ってはいけないようだ。


(シャイナのことがあったから麻薬ばかりに気を取られていたが…ラングラスはもっと規模が大きい。領主の親戚という話だし、思ったより権力を持っていそうだな。こうなると他の組織を巻き込まないと駄目か…。面倒になってきたが、それだけ実入りも多くなるということだ)


 単純にソイドファミリーを壊滅させて自分が入れ替わるだけでは、他の組織が認めるわけがない。

 いきなり「ソイド商会を潰したから、今日からうちをご贔屓に」と言っても、一族単位でまとまっている者たちが簡単になびくとは思えない。

 当然武力を使って脅すが、ここもスマートにやらないと利益が少なくなる可能性は否めない。従っているふりをして爪を研ぐのは、この業界では当たり前にあることだからだ。

 かといって、一人ひとりを今回のように調教するのは非常に手間がかかる。物分りがよい人間など、そうそういるものではないからだ。

 一方、殺すのは楽だが、それによって生産力が落ち、流通ルートが衰退してしまっては意味がない。ラングラス一派が完全に潰れてしまえば、また最初からやり直しである。


「他の組織はいくつある? 雑魚はいい。ラングラス一派で発言力がある組織だ」

「うちを入れて…六つ。それぞれにラングラスの血が…分かれて入っている…」

「なるほど、まさに血族か。その中の組長で、オレに絶対に従わないようなやつはいるか?」

「…イイシ商会のイニジャーンの叔父貴は…間違いなく抵抗する。昔かたぎの人だからな…。モゴナッツ商会のモゴナオンガさんも……筋道に厳しい人だ。よほど上手くやらないと…無理だ」

「お前の親父、ダディーは?」

「力を見せれば……いや、じいちゃんの許しがあれば…ダディーは逆らえない」

「逆に従いそうなやつはいるか? 可能性だけでもいい」

「キブカ商会のソブカの野郎は…合理主義者だ……リレア商会のストレアの姐さんは…争いを好まない商人肌………医師連合のスラウキンは……あんたと同じ医者だ。この三人は…可能性がある」


(さすが幹部だ。情報の質が違う。生かしておいて大正解だ。むしろこの情報がなかったら、作戦は失敗していた可能性が高い)


 正直、リンダの情報だけでは半分にも満たないところであった。

 それも仕方がない。情報が不完全なうえにソイドファミリー内部に限られるので、今回のようなことは幹部でなければ知らないものばかりだ。


「お前の情報も裏付けを取るぞ」

「…問題ない。嘘は言わねぇ…」


 嘘を言っている様子はない。あったとしても調べればわかることだ。

 となればソイドファミリーの幹部連中、つまりはビッグを含めた四人の価値は一気に上がってくる。

 彼らを操れるのならば、もっと都合よく物事が運ぶ。そのままソイド商会を使えばいいからだ。

 それ自体が隠れ蓑になり、アンシュラオンことホワイトは甘い汁だけを吸うことができる。

 何かあればそのまま見捨てるか、自分の手で葬り去ればいいので証拠隠滅も簡単だ。


(シャイナの一件はソイドファミリー内部で片がつく問題だ。こいつら幹部は徹底的に脅し、直接面識がある販売担当のやつは殺しておけばいいだろう。それより優先すべきはラングラス一派のほうだ。金を得るためには相手の懐に入り込まねばならない。ならば、こいつらを利用したほうが効率的だな。…うむ、悪くない流れだ。ただ殺すよりも旨みが多い。これにサナが欲する【劇】を加えれば、面白いショーになるだろうな)


「お前の提案は、リンダを含めた家族を生かすこと。そうすれば全面的に協力するということでいいか?」

「…そうだ。もちろん俺らに選択の権利なんてないが……あんたの利益になるように…積極的に動く……約束する」

「そりゃオレだって、自分の意思でやってくれるのならば大助かりだがな。ギアスを使うのも危険だし。で、家族ってのはええと…お前とリンダ、ダディーとマミーに…何だっけ?」

「弟の…リトル…だ」

「弟は麻薬製造技術を持っていて、母親はラングラスの孫娘で、父親はラングラスの言うことには従う…か。いいだろう。チャンスだけはくれてやろう。裏切ればどうせ、さっきみたいなことになるだけだからな。それがお前の家族に降り注ぐだけだ」

「っ…わ、わかって…いる! それは…理解した」

「そうか。理解してくれて何よりだ。ただしマミーはともかく、全員を生かすかどうかはまだわからないぞ。これからのお前の働きがよければ考えてやろう。それで納得できるか?」


 この中で必須なのは、ラングラスとの交渉で使えるマミーだけだ。ダディーとリトルは絶対に生かす必要性はない。

 もともと男なので死んでもかまわない、というのが本音であるが。


「…しょうが…ない。可能性があるなら…しょうがない」


 ビッグは頷き、自分を納得させる。

 ホワイトの恐ろしさは身にしみている。今こうして話せているのが奇跡であるくらい、心の奥底には恐怖が宿っている。

 あれを知ってしまえば、もう逆らうという気力すらなくなる。


(あのモヒカンの男が従っていた理由が…わかったな。もっと早く知っていれば…いや、それでも俺は納得しなかっただろうな)


 ダディーが言っていたように、自分は単細胞と呼ばれてもいいような男だ。他人が言った言葉などは信用せず、おそらく同じ末路を辿っていただろう。

 こうして実際に叩きのめされない限り理解できないのだ。


 だが、一度理解してしまえば―――忘れない。


(家族は…守る。守らないと…! 俺が…何を捨てても…!)


 『家族想い』のスキルのせいか、単なる愛情なのかはわからないが、ビッグが一番守るべきものは家族の命である。

 リンダは何をもってしても守り、家族も一人でも多く守る。


 そのために必要なものは―――裏切り。


 今まで自分が大切にしてきたものをすべて裏切らねばならない。それはいったい、どれほどの苦痛だろうか。いっそ死んだほうが楽なのは間違いない。

 しかし、生き残るにはもうそれしかない。


「俺には…何をしろと?」

「内通者らしく情報の提供と誘導だな」

「あまり…うまくない…ぞ」

「お前に期待しているのは従順さだけだ。普段はいつも通り振舞ってくれればいいさ。場はオレが用意するから命令があったら従え。それだけだ。命令はリンダを通じて行う。そのほうがお前も気が引き締まるだろう」

「…わかった」

「改めて言うことではないが馬鹿なことは考えるなよ。次は…加減できないからな」

「…わ、わかった」


 あれで加減していたことに驚きを隠しきれないが、目の前の男がそう言うのならば事実なのだろう。



「ビーくん…ごめんね」


 リンダが涙を流しながら謝罪する。

 自分が捕まらなければこんなことにはならなかった、という思いがあるのだろう。

 だが、裏の社会に長く生きるビッグには、起こるべくして起こったことにしか思えなかった。


「リーたん、しょうがない。弱い者が強い者に喰われる。これが裏の世界のルールなんだ。俺たちだって、ずっとそうやって生きてきた。たまたまファミリーが強かったから、勝つ側にいただけだ」

「もう…疲れたわ……」

「ああ、そうだな。でも今は…生き残ろう。未来のために」

「ビーくん…ごめんね……ごめんね」

「そんなに謝るなよ……俺はお前を見捨てない。そう約束しただろう?」

「うん…うん……」


(なんか場違いだな。早く治療が終わらないかな…)


 二人だけの世界が目の前で展開されているので、なんとも居心地が悪い。


(今は恋人ごっこをしているが、さっきなんて相手のことを忘れるくらい動転していたくせにな。ふん、これだから恋愛ものは嫌いなんだ。…まあ、使えるならいい。我慢だ。それにサナも興味がありそうだし…)


「…じー」


 悪態をつきながらもサナを見ると、じっと二人の様子をうかがっていた。

 思えばカップルのやり取りを見るのは初めてなので、そういう意味でもサナにとっては栄養になるのだろう。


 こうしてソイドビッグとリンダは、アンシュラオンに服従することになった。

 最初はシャイナから始まった麻薬事件であったが、事はさらに大きくなっていくのだった。





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