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「欠番覇王の異世界スレイブサーガ」

作者  園島義船



□ 第二章 「ホワイト先生と太陽の子犬」 編


92話 ー 101話




92話 「シャイナ、吠える 後編」


(また…か。どうしてこいつはそう感情的になるんだろうな)


 シャイナがそうすることは、アンシュラオンの想定内であった。どうせそうするだろうとは思っていた。

 ただ、それを見越して冷たい態度に出たわけではない。彼女が止めなければ、そのまま帰すつもりだった。

 それはアンシュラオンの判断であり、逆にこうして止めることも彼女の判断であり、お互いに自由だ。

 その自由を行使して、シャイナは吠える。


「先生は間違っています! こんなの酷いです!」


 しかし、いつも通りの反応だが、今日はやたら声が強い。明らかに怒りの感情が滲んでいるのがわかる。

 若干涙ぐんでいるので、もしかしたら同情したのかもしれない。相変わらず単純な女である。

 本当ならば無視をしてもいいが、一応助手という立場である。仕方なく相手をしてやることにする。


「どうしてだ? オレが今言ったことに嘘があったか?」

「嘘はありません。でも、誰だって好きでこうなるわけじゃないですよ!」

「そうかもしれんな。では確かめよう」


 アンシュラオンは再び随伴の女性に向かう。


「お訊ねしますが、麻薬はどういった経緯で始めたのですか?」

「あっ、ええ、最初の動機はわかりませんけど…たぶん、つらかったんだと思います。いろいろと哀しいことが重なったので…」


 人間関係のいざこざで職を失い、その時にたまたま親を失い、そのつらさを紛らわすために麻薬に手を出す。

 薬に頼っている間は心が落ち着くので、次第にやめられなくなっていった。

 気の弱い人間が薬を使えば気が強くなる。普段は言えないことも言えるようになる。自分が強くなった気がするのだ。

 政治家に餅バッシングを行い、美談を求めるクソ野郎どもにハチミツをぶっかけ、子供にサンタが事故に遭ったことを伝えるなど、シラフの状態ではできない。

 それができる快感は、さぞや彼を楽しませただろう。

 だが、薬が切れればまた弱くなり、使わないといられなくなる。怖くなる。不安になる。だから使う。

 まさに典型的な依存症のパターンである。


 しかし、アンシュラオンは同情しない。


「ほら見ろ。最後に決めたのは自分じゃないか。ならば自分の責任だ」

「そ、そうですけど、あまりに厳しいですよ!」

「そうか? 強制的に打たれて中毒にされたならば同情するが、そうでないのならば自分の責任だろう。それならば自分で何とかするしかない」


 アンシュラオンが姉が欲しいと願って、もれなくパミエルキが与えられたのならば、姉から逃げる選択を下したのも自分自身の考えと決断である。

 簡単に逃げられたわけではない。それはもう決死の覚悟で挑んだのだ。そのために修行も真面目にやった。

 つまりは自分の責任を自分で取ったのである。その自負があるからこそ、その考えを貫くのだ。

 こうして常に「今も姉に追われているのではないか?」と不安を感じることも、当然の責任だと思って受け入れている。自分が求めたのだから仕方ないと割り切っている。

 それこそが責任。自分がやったことに対する結果を受け入れるのだ。

 だが、それで納得しないのがシャイナという女性である。


「そんな便利な力があるなら簡単でしょう!? すぐに治せます!」

「いつも言っているだろう。治せるのは身体だけだ」

「それでも治せるじゃないですか! 中毒が消えれば、新しくやり直すことだってできます!」

「それができれば苦労はないだろう。中毒は消えても依存は残り、また麻薬を欲しがる。元の精神力が弱いんだ。何をやっても駄目だ」

「そんなのわからないじゃないですか!」

「たしかに可能性はある。それを否定はしない。真面目に更生するやつもいるだろう。が、それ以前に医者は職業だ。つまりは仕事だ。対価があるからやっている。金がないなら治療はできないぞ」

「女性にはやるくせに!」

「それはオレの自由だ。力ある者の特権だな。そして、その分の対価ももらっている」


 たしかに女性はセクハラをされる代わりに治療を受けられる。

 それは相応の対価。

 アンシュラオンは女体を愛で満足し、一方の女性はそれだけ我慢しているということだ。立派な代償である。

 だが、男にはそれがない。ならば、あとは金か物、あるいはそれに見合うもので払うしかない。


「だから五十万出せばやると言っているだろう。それがそんなにおかしいか?」

「そんな! その力があれば……そんなことができるなら…」

「もっと多くの人を救ってもいい、か? お前の言う『人を救う』は、ずいぶんと簡単だな」

「先生ならできるでしょう!?」

「治療してもらいながらそれに感謝もせず、また中毒になる連中を、どうしてオレが無料で救わないといけない? こいつらは自分で選んだんだ。自分の道を自分で選び、その対価を受け取った。まさに平等じゃないか」


 彼らには、『それをしない』という選択肢もあった。それを忘れてはならない。

 いつだって人間には『選ぶ自由』が存在するのだ。それを『する』か『しないか』である。


 そして、アンシュラオンは『偽善』はしないと決めている。


(かつてオレも慈善はやったことがある。続けたこともある。自己満足としては悪くはない。だが、やはりオレには無理だな。特にこいつが求めるようなことはな)


 自分を犠牲にして他人を助ける。それが素晴らしい偉業であるのは言うまでもない。

 だが、人間は利益なしでは動けないのだ。どうやってもいつか限界がやってくる。それは神が与えた自己保存の法則によって、身を守るようにできているからだ。

 それなのに自分に嘘をついて、本当は見返りを求めているのに『いやいや、私は善行がしたいんです。見返りはいりません』などと言う人間こそ、まさに信用できない者たちだ。

 そんな人間にはなりたくないので、アンシュラオンは正直に生きることにしている。

 それが素直な自分だからだ。偽るよりは何倍もましであろう。


「お前がそうしたいなら勝手にやればいいが、オレはやらん。では、話は終わりだ」

「先生は最低です!」

「そんなに褒めるなよ。照れるじゃないか」

「だから、褒め言葉じゃないですよ!?」


 罵倒すれば、むしろ喜ぶ。どうしようもない。

 アンシュラオンに対抗することができるのは【力】のみ。純然たる力のみ。

 議論や理論ではない。それが可能な実行力。金や物、力や技という、より直接的な力だけである。

 安売りされた倫理観や性善説などアンシュラオンには通用しないのだ。それをまだシャイナは理解していない。


(だから面白いんだけどな。オレに堂々と逆らう女も珍しい)


 当然だが、アンシュラオンは従順な女が好きである。姉に束縛された影響があるので、イタ嬢のような上から目線の女性は好きではない。

 しかし、周囲を常にイエスマンだけで固めておくのがよくないことも知っている。

 サナをより楽しむために他の女性にセクハラをするように、従順な女性をさらに楽しむためには、シャイナのような女性も必要だと最近になって気がついた。

 イラッとする時もあるが、相手が弱い存在なので可愛くも見える。たとえるならば、力のない頭の悪い子犬が、筋肉ムキムキの格闘家の成人男性に吠えているようなものだ。

 その差を知っているから、さして頭にくることはないのである。強者の余裕だ。


「とりあえず今日は帰ってもらう。それでいいな」

「知りません!」


 自分で言い出したのに、答えが「知らない」というのは意味不明だ。

 だが、ヒステリックな女というのはそういうものだろう。


(オレの魅力に抵抗できるってのも珍しい。ある意味で希少かもな)


 魅力がAなので、どんな人間でも物事が上手く運ぶ。が、なぜかシャイナは対抗してくる。

 そういうレアケースも今後あるかもしれないので、さりげなく実験台にしている面もあった。




 その後、本日の診察が終わるまでシャイナは終始不機嫌であった。

 職場でこういう人間がいると、とても迷惑するものである。

 特にアンシュラオンは感情を制御できない女は嫌いだ。姉を思い出すからだ。

 ただし、姉とシャイナとでは決定的に異なっている点がある。


(姉ちゃんは快楽を与えてくれるけど、シャイナは何もしてくれない。実際のところ、オレが気を遣う理由はないんだよな)


 パミエルキはアンシュラオンを支配するが、その分だけ愛情と快楽を与えてくれる。すべてが溶けてしまいそうなほど、濃密で甘い時間を提供してくれる。

 支配されることを受け入れるのならば、かつて師匠が言ったようにそれ以上の幸せは存在しないだろう。


 が、シャイナは吠えるだけだ。


 それが可愛いと思えるならば十分な見返りだが、今日はやたらとたてついたので、相応の罰は必要だろうと判断。


「ほら、四万円だ」

「一万円少ないです!?」

「オレに文句を言った罰だ。なんならもっと引いてやってもいいんだぞ? んん? 一回文句を言うたびに千円減らしてやろうか? それとも二千円がいいか? お前の文句の量だったら毎回マイナスになるぞ。この程度で済んだことを感謝してもらわないとな」


 仮面で見えないが、きっと悪い顔をしているに違いない。


「ほんと、先生って最低ですね」

「お前も雇ってもらっているんだから反発するなよ。オレの国だったら即クビになるぞ。もっと和を大事にしろ」

「…べつに悪いと思ってませんから」

「そうか。じゃあ、オレも悪いと思わないことにする」

「きゃっ!? 股間に手を回さないでください!」

「悪いと思わないぞ!! お互い様だからな!!!」

「それは反省してください!!」


 謎の理論でセクハラ。


「明日までに機嫌を直しておけよ。気まずい職場ってのは、すぐセクハラだとか言う馬鹿女と同じくらい、オレが一番嫌いなものだからな」

「それって私のことですか!? 普通の主張ですよ!」

「オレの職場では、甘んじて受け入れるのが決まりだ。喜んで股を開け」

「もうっ! そんなことしていたら本当に天罰が下りますよ!」

「ならば天すら穿ってやろう、この拳でな」

「…駄目だ、この人。…もう帰ります。お疲れ様でした」

「今日は飲みに行かないのか? オレと一緒ならタダ飯だぞ」

「今日は…その、早く帰りたい気分なんです。疲れてますし」

「あまり無茶をするなよ。さすがのオレも妊娠だけは対処できないぞ。言っておくが、妊娠したら即座にクビだ。退職金などは出ない。むしろ賠償金を請求するから覚悟しておけ!」

「そっちで疲れているわけじゃないですから!? って、非人道的ですよ!」

「他人の精子を受け入れたやつなど、この職場にはいらん!! 気色悪いだけだ!! オレ以外の精子は認めん!」

「違うって言っているでしょう! もうっ! 帰ります!」


 プリプリと怒って帰ってしまった。

 そんなシャイナを見ながら、座っているサナに向かう。


「サナ、ああいう女になってはいけないぞ。力もないのに、あれこれと言っても無意味だからな。それなら黙っているほうが賢い。わかるな? それが処世術というものだぞ」

「…こくり」

「うむ。サナはお利口さんだな。よしよし」


 こうしてサナへの教育も忘れない。

 事実、アンシュラオンの言うことも正しい。シャイナの理論が通じるのは、日本のようにある程度成熟した社会だけだ。

 この荒れた大地においては、力以外に頼れるものはない。力がなければ、力ある人間に媚びなくてはならない。

 それができないで中途半端に反発しても、結局は潰されることになる。


(相変わらず、危なっかしいやつだよな。よくあれで生きてこられたもんだ。スレイブになっていないのが不思議だよ)


 アンシュラオンが女性に甘いためこの程度で済んでいるが、他の職場ならばシャイナは危うい立場になっている可能性が高い。

 まだグラス・ギースが比較的安全な都市なので、今まで無事でいられたのだろう。

 が、その幸運が続くかどうかは誰にもわからない。安全な日本でさえ、突発的な事件は起こるものなのだから。




 アンシュラオンは診察所を閉めて、外に出る。

 いつもならば酒場に行くかホテルに戻るのだが、今日は違う。


「サナ、今日は少し寄り道をするぞ」

「…こくり」

「さて、何か面白いものが見れるといいが…あまりいい予感はしないな」


 そう言うと、アンシュラオンはサナと一緒に夜の街に消えていった。




93話 「闇の中の子犬」


 労働者であるシャイナは、上級街の宿で寝泊りをしている。

 南西の商業街と北西の工業街の中間のスペースに労働者専用の安宿があり、一日数百円という格安の値段で泊まれるのだ。

 労働者はいつ辞めるかわからないので、宿代は日払いかつ、部屋自体もあまり質が良いものとはいえない安っぽい造りのワンルームだ。

 それでも何人かで共同生活する宿よりはましで、個人のプライバシーが確保できるだけ御の字といったところだろうか。


 一度宿に戻ったシャイナは、隠してあった金庫を確かめる。


 安宿なので空き巣が入る危険性もあるため、これを確認する時は心臓がドキドキするものだ。


 金庫は―――あった。


 とりあえず今日も無事だったことを喜ぶだけである。

 その中には今まで貯めたお金、主にホワイト診察所で働いて貯めた賃金が入っている。


 額は―――およそ百万円。


 下級市民でもない労働者が持つには高額な貯金である。

 仮にこの金を都市に寄付すれば、それだけで下級市民の資格がもらえるくらいの額だ。

 市民権はポイント制とは謳っているが、モヒカンのように金で買うこともできるのだ。個人都市なんて、そんなものである。


(先生には感謝しないと…。こんなお金、普通に働いていたら絶対に貯まらない)


 普通に生活していてもこれだけ貯まるのだから、いかにホワイトが太っ腹なのかがわかる。

 もしシャイナが違う場所で働くとすれば、やはり一ヶ月で四万くらいが関の山だろう。ホワイトが通っている酒場のホステスのように、多少身体を張ればもう少しいくだろうが、それは精神的に無理である。

 たかだかあの程度の仕事量でこれだけの金をくれるホワイトは、それだけ見れば仏のような人物である。

 それだけを見れば、だが。


(あのセクハラと強欲な性格さえなければだけど…)


 セクハラと性格の悪さをなくすと、それはもうアンシュラオンではないので仕方がない。

 いつの時代も英雄とは、横暴で自分勝手なものである。彼の目標が三国志で魏の上に立っていた感じの人なので、横暴なのはむしろ良いことなのだ。


「…行こう」


 シャイナはその金を手に取ると。ポシェットの中に入れ、さらにシャツで覆って隠す。

 これから行く場所のことを考えると心もとないが、強盗に遭えばどのみち抵抗できないので同じことだ。


 シャイナは安宿の扉を開けて、何度か周囲を見回して警戒をしながら、そっと闇の中に消えていった。

 現在、時間は夜の十時過ぎ。

 いくら城塞都市かつ比較的安全な上級街とはいえ、水商売以外の女性が軽々と外に出てよい時間帯ではない。

 そんな中、あえて出かけるのだから、それなりの理由があってしかるべきである。



 そして、そんな彼女に目を付けた野獣がいた。

 ギラギラと光る赤い瞳を闇に忍ばせ、舐めるように観察している。

 特に胸を凝視しているので、きっと「舐め回してやりたい」とでも思っているのだろう。まさに変態である。


 その獣は思った。


(シャイナのやつ、あんな薄着で出おって。胸を触ってくれと誘っているようなものじゃないか。けしからんやつだ! ついに本性を現したな! 色女め!)


 申し訳ないが、誰もがこの男とは同じ思考はしていない。

 薄着だからといってそんな解釈をされたら、世の女性たちは水着にもなれない。非常に迷惑な思考である。

 当然、こんな馬鹿なことを考えるのはこの男、ホワイトことアンシュラオンしかいない。

 その隣にはサナもいる。二人とも仮面はしたままだ。


「サナ、ごめんな。眠いだろうが、もう少し付き合ってくれ」

「…こくり」

「だが、オレたちの未来のためだ。それにこれも一つのイベントだと思えば面白い。ホテルと医者だけの暮らしも退屈だしな」


 平穏な日々を求めているが、そこはアンシュラオンも男である。ある程度刺激のあるイベントを求めている。


 そこで白羽の矢が立ったのが―――シャイナ。


 べつに彼女を尾行して楽しんでいるわけではない。それだったら本物の変態かつ犯罪者である。

 これには、れっきとした理由があるのだ。


「シャイナは怪しい。サナもそう思うだろう?」

「…こくり。ぎゅっ」

「そうだろう、そうだろう。怪しいよな」


 サナが拳まで握って頷く。相当怪しい証拠だ。

 サナにまで疑われていると知ったら彼女もショックを受けるだろうが、怪しいものは仕方がない。


 彼女を疑う理由はいくつかある。

 まず、得体の知れない仮面の医者に近づいたこと。今まで雇ってほしいと直談判に来たのは彼女だけである。

 そう、彼女を雇ったのはアンシュラオンからではない。相手からやってきたのだから疑わないほうがおかしいだろう。

 もう一つは金を使わないこと。若い女があれだけ稼げば、誘惑に負けてもっと遊んでもいいはずだ。

 単に将来の夢のために貯めている可能性もあるが、それならばはっきりと言ってもいいはずだ。言い淀む理由はない。そこに後ろめたい何かがあるのだろう。


 もう一つは―――【目】。


 彼女の視線である。


(あの目…。あいつの目が気に入らん。オレを見る時の目がな)


 シャイナはアンシュラオンを見るときに、さまざまな感情が入り混じった視線を向ける。

 それが彼女自身がいつも言っている軽蔑の感情ならまだいいが、含まれているのはそれだけではない。悔しさや嫉妬、羨望、それ以上の何か暗いものが隠れている。

 見た目や振る舞いが明るいから常人にはわかりにくいが、闇をよく知っているアンシュラオンにはわかるのだ。


 あの女はただの表側の人間ではない、と。


 そんな素性の知れない人間が近づいてきたのだ。サナの安全のためにも、そのまま黙って見過ごすわけにはいかない。

 よって、尾行の開始である。シャイナの正体を突き止めるのだ。


 今日を選んだことにも理由はある。

 シャイナは時々、様子がおかしい日がある。勤勉な彼女は仕事が好きなので、働く時はいつだって楽しそうにしている。

 それが、妙に疲れているような、ヒステリックな時がある。今日もそうだ。あんなに突っかかってくるのは異常である。

 アンシュラオンはそれが何かを知っていた。


(人間は、自分に不安があると他人に八つ当たりするものだ。なんやかんや言いがかりをつけて、自分の不安を他人のせいにするんだ。まったくもって迷惑だが、不安の裏返しというやつだな。わかりやすいやつめ。所詮凡人だな)


 人間の心理を学べば、さして難しい推測ではない。人間は余裕がなくなると自分のことで精一杯になるので、そうした防衛行動に出てしまうのだ。

 本当はそれを知っていれば「まあ、彼女も大変だな」程度で済ますのが大人の対応だが、この男は人間が出来ていない。

 徹底的にシャイナの弱味を握り、そこを追及してやろうかとも考えていた。うるさい時に黙らせたり、セクハラをする口実にするためだ。

 最低の上司であるが、毎度あの調子ではこちらもいい気分ではないのも事実である。

 あんなにわかりやすい態度に出たのだ。今日は何かがあると確信していた。ここはぜひとも調べておくべきだろう。





 シャイナはさらに工業街のほうに移動していく。


 人目につかないように顔を隠しながら歩くので、なんとなく商売女のようにさえ見えてくる。こんな夜道を一人で歩いていたら勘違いされそうだ。

 上級街の北西にあるこの工業街は、都市の中心部でもある。都市で流通する自前の生産品は、すべてここで作られているからだ。

 下級街あたりに工場を作ったほうが利便性は高く、実際に下町にも工場はあるものの、仮に西門が閉じられた場合に篭城できるように、食品類の生産はすべてここで行われている。

 六割以上を輸入でまかなっているが、上級街だけに限定すれば、ここでの生産量だけで数ヶ月は楽々生きながらえることができるだろう。


 その工業街の灯りは、すでに落とされている。


 ジュエル文明も電気と同じく、節約できるところはしなくてはならないので、明るい昼間に行動したほうが灯りのジュエルを消耗しないで済む。

 あえて夜に働く必要性はないため、工場の稼働時間は主に昼間である。この時間に輝くのは歓楽街のほうだ。


(ひと気がないところに進んでいるな。危ないやつめ)


 シャイナは武人ではないので戦闘力は皆無である。患者が暴れても武器がないと対応できないくらい弱い。

 そんな彼女が歩くには、ここはあまりに危険な場所だろう。いきなり痴漢が飛び出しても不思議ではないほどの暗闇である。

 それはそれで楽しいのでちょっと期待するも、結局出なかった。残念である。


(おっ、きょろきょろしているぞ。丸見えだが…あれで警戒しているつもりか? 酷いな。動物園の猿みたいだ)


 アンシュラオンからすれば、完全ド素人の警戒ぶりだが、あれでも一応がんばっているようだ。


 すると、シャイナに異変があった。


 周囲に人がいないことを確認すると、するっと「とある工場」の裏側に入っていき、そのまま裏口から中に入っていった。


(工場に入ったな。…何の工場だ?)


 みんな似たような外観をしているので、何の工場かまではわからない。

 目を強化して周囲を探っていくと、建物の一部に貼られた看板を見つけた。


(『ソイド商会管理工場。関係者以外立ち入り禁止』…か。商会が所有する工場ってことか? 商会…商会…。そういえば、モヒカンも商会とか言っていたな)


 単純に企業・会社のことを、ここでは商会と呼ぶにすぎない。

 モヒカンの八百人もスレイブ商会の一部であるので、立派な商会である。商会になると銃を持てると言っていたのを思い出す。


(スレイブ商会なんて思いきり真っ黒だけど、ああやって表通りに店を構えている。このソイド商会だって、まともな商会とは限らないな。どうする? 中に入るか? うーん、サナもいるし面倒だな。波動円で調べるか)


 侵入しようかとも思ったが、そこまでは面倒に感じたので波動円で済ませる。

 中の状況がわからないとサナに危険が及ぶ可能性があるからだ。

 波動円はガンプドルフに看破されてから少し控えていたが、それほどの武人がいるのならば、それこそ真っ黒に違いない。逆に知っておくべきだろう。


 波動円を展開。


 工場全域を覆っていくにつれて、少しずつ中の状況がわかってくる。


 最初に言うと、工場は生きていた。


 こんな真夜中にもかかわらず、一部が稼働中である。その段階で怪しさ満載だ。


(中で何人か作業を行っているな。おっ、シャイナの気配を発見したぞ。…緊張しているのか? 呼吸が不安定だな。…誰かと接触している。相手は…男!! あいつめ、まさか男と密会か? まったく、とんだ売女だぜ!!)


 と罵っているが、中ではそういった類のことは行われていない。勝手な妄想である。

 シャイナは男と会って何かを渡し、同じように何かを受け取った。その様子が3D画像のように脳内に鮮明に投影される。

 触覚で受け取った情報を、脳内で実際の映像として変換しているのだ。


(あの形状と感覚からして…紙のようなもの。渡したのは間違いなく【金】だな。そして、受け取ったのは…ケースか? 中身は何だ? いくつかに分かれた丸いもの…? なんだこれ? おっ、出てくるぞ。って、何を被ってんだ?)


 シャイナが工場裏から、こそこそ出てきたのはいい。最初からこそこそしていたので、そこに何ら問題はない。

 が、なにやらマスクのようなものを被っている。

 いわゆる覆面というやつであり、銀行強盗が使いそうなものだ。その覆面の上から帽子を被っているので、さらに怪しい人である。


(あいつ! 人のことを怪しげに見ていたわりに、お前のほうがよほど怪しいじゃねえか! くそっ、写真を撮っておきたいくらいだ。あとで笑いものにしてやるのに!)


 仮面を被っているアンシュラオンを訝しげに見ていたくせに、今のシャイナのほうが百倍怪しいやつだ。

 いや、そこまではいかない。やっぱりアンシュラオンも怪しいので、お互い様だ。




 それからさらに尾行を継続。

 シャイナは今度は歓楽街のほうに向かう。表通りではなく裏道を通って、より人通りの少ない道を選んで移動していく。


 そして、高級酒場が居並ぶ裏路地で止まった。


(ん? 眉毛じいさんの店があるエリアだな。止まったのは違う店だが…)


 その間もシャイナは挙動不審な様子で周囲をちらちら見ている。


 すると、何人かの男が彼女に接触してきた。


 一分か二分話し込み、会話が終わる。


 男は金を渡し、代わりにシャイナが―――【白い粉】を渡す。


 ケースの中に入っていたパックに詰まった白い粉を男に渡し、また何やら話したあとに別れる。

 その間、シャイナの心拍数は相当上がっており、激しく緊張していたことがうかがえた。

 個人的には、あんな怪しいシャイナと出会う相手のほうが心拍数が上がりそうだと思うが、相手はあまり気にしていなかったようである。慣れているようだ。


 しかしながらこれは―――あまりに危ない。


(おいおい、完全にヤバイシーンじゃないか。映画とか警察特番とかでよく見るやつだよ、これ。シャイナのやつ…ヤバイ仕事に手を付けてやがる。いつも人のことを最低とか言いながら、あいつこそ最低じゃないか)


 もしあれが【例のブツ】ならば、最低と名高いアンシュラオンより最低であることを証明してしまうだろう。

 それからしばらく見ていると、見覚えのある男女がやってきた。

 さきほどの男と同じように、シャイナに接触して白い粉をもらっている。


(あいつは昼間来た麻薬中毒のやつじゃないか。隣の女は付き添いのやつだ。…やっぱりあれは麻薬か。落ちぶれたやつは落ちぶれたまま…か。厳しい現実だな。だが、あんなやつらよりシャイナのほうが問題だ。あいつめ…落ちるところまで落ちたな。これなら中毒者になっていたほうがまだましだったよ)


 少しだけ残念である。

 自分が最低なのはよいが、シャイナには手を汚してほしくなかったという思いもあるからだ。

 それこそ彼女がアンシュラオンに求めるのと同じく、まさに自分勝手な意見や感情なのだが、シャイナの笑顔も知っている自分としては、やはり残念と言うしかない。


(さて、これはどうしたものかな。さっぱり状況が掴めんな。シャイナのこともあるし、あっちの件もある。二つはつながっているのか? だとしたら、そろそろこっちも動くべきかな)


 麻薬を売り続けるシャイナを少し寂しそうな目で見ながら、アンシュラオンとサナは闇に消えていった。

 そろそろ動く時が来たのかもしれないと感じながら。




94話 「人を救う、それは血の雨が降るということ」


「ふー、世間ってのは世知辛いもんだな。じいさんよ」

「なんじゃ、いきなり」

「いや、いろいろと思うことがあってね…。世の中に綺麗なものは少ないなって思っていたんだよ。真っ黒ばかりだ」

「ふむ、お前さんでもそんなことを思うのじゃな」

「真っ白なオレから見れば、世の中が汚いのは当然だけどな。ほんと、誰もがオレみたいになれば世の中はよくなるのにな…」

「誰もがお前さんみたいになったら、わしの店は三日ももたんよ」


 アンシュラオンの周りには、すでに酒の空ボトルがいくつも置かれている。

 酒に溺れているわけではない。毎回十本から二十本のボトルを空けるのだ。

 酔わないから味だけを楽しむので、なおさら消費が激しい。ほぼジュースである。

 だが、やはり気分を味わうために酒を飲むので、普通のジュースでは満足できないというワガママっぷりである。

 連日来られた日には、あっという間に酒が底をつく。少しは遠慮してもらいたいものだ。



「世の中は汚い。だからオレは純粋なものを求めるのかもしれないな。…この子みたいにね。ああ、可愛いなぁ。綺麗だなぁ。黒いけど真っ白だよ。ナデナデ。あいつとは大違いだ」


 隣にいるサナは、相変わらず静かに周囲を観察している。

 その純粋な彼女の目に、世界はどう映っているのだろうか。せめて真っ黒でないことを祈るしかない。


 ここはパックンドックン。眉毛じいさんの店である。

 ここ最近は頻繁に入り浸っている酒場なので、もう完全に顔馴染みになってしまった。


 シャイナは、あれからも普通に診察所に通っている。


 笑顔を見せたり、時々不機嫌になったり、アンシュラオンのことを最低呼ばわりする態度も変わらない。

 だが、すでに実態を知ってしまった自分にとっては、それが痛々しく見える。


(あいつが中毒者に反応していたのは、自分がその片棒を担いでいるからだろう。だが、一方でオレに対しては治せと迫ってくる。あの様子だと本気でそう言っているっぽいな。ならば、かなりの罪悪感を抱いているんだろう。馬鹿なやつだ。だったらやめればいいものを。オレの言うことをまったく理解していないな)


 常々『やらない』という選択肢を見せ付けているのに、シャイナはまったく理解しない。

 嫌々薬の売人をやって、苦しんで、やめたいけどやめられない。まさに中毒者と同じ状況である。

 彼女のあの反応は、自分自身を重ねて見ていたのかもしれない。


―――「そんな力があるなら、助けてくれてもいいじゃないですか! 助けて! 私も助けてくださいよ!」


 と言っているようにさえ聴こえる。

 どう考えても自分勝手な都合のよい言葉だが、それが弱者の限界なのかもしれない。

 誰もがアンシュラオンのように強いわけではない。腕力ではなく、その精神力が、だ。


 一説によれば、武人は心の強い人間がなるという。武人になるから心が強くなるわけではないのだ。

 武人に相応しい精神力を持つ魂が、自分に必要な肉体因子を求めて両親を選ぶ。自分の精神に相応しい肉体を得るのだ。

 シャイナは普通の人間である。そうであるのは心が弱いせいなのかもしれない。

 そう考えると、たしかに哀れだ。


(シャイナ…か。べつに何とも思っていなかったけどな。怪しいと思っていたから立ち入らないようにしていたし、相手も中途半端な距離だったし。そのうち尻尾を見せたら問い詰めるくらいはしただろうけど、それだけの関係だった。だが…こうもショックを受けるとは【犬】に情が移ったかな)


 アンシュラオンにとって、シャイナは犬のような存在である。

 笑ったり怒ったり、跳ねたり転んだり、見ているこっちが呆れるようなことをしでかす女だ。見ていると楽しいが、当然ながらそこに深い感情はなかった。

 アンシュラオンがスレイブにしようと思っているのは、従順な女である。

 ギアスで縛ることもできるが、基本的には従順であったほうがよい。ホロロのような人材ならば文句なしだ。

 だからこそシャイナのことは気にもかけていなかったが、一緒に働けば犬にも情が移るらしい。


 何よりも―――【似合わない】。


 シャイナのあの姿が、どうしても似合わないと思ってしまう。生来持っている美しさがまったく表現されない生き方である。

 金色の髪、青い瞳、太陽の下でこそもっとも輝くものが、暗くて深い闇の中に埋没していく勿体なさを感じる。

 素材はよいのに、世間の荒波に呑まれて消えていくアイドルと同じである。

 環境さえ整えてあげれば輝くのに。そう思えてならない。


(しょうがない。助けるか。あいつは素直じゃないから、助けてやっても文句を言いそうだけどな。だが、あいつは『人を救う』って意味を理解していない。そいつを救う代わりに、それだけ犠牲になるやつがいるってことをな)


 サナとて簡単に手に入れたわけではない。この子一人を救うために、どれだけの犠牲が出たか。

 下手をすれば、今頃は領主城自体が消えてなくなっていた可能性もある。たった一人のために、それだけの犠牲が出る可能性があるのだ。

 しかも今回の相手は麻薬絡み。どう考えても裏の組織が相手となる。犠牲は相当なものになるだろう。


(あいつはそれを背負うだけの覚悟があるかな? いや、一度救うと決めたら責任を負うのはオレだな。やるならば、サナに危険が及ばないためにも…【皆殺し】だ)


 情報によっては柔軟に対応するが、基本路線は皆殺し。裏組織を相手取る時の基本である。

 禍根を残すと後で痛い目に遭う。ならば、一人残らず抹殺する。それが一番安全である。


 覚悟を―――決める。



「じいさん、このあたりの麻薬は誰が仕切っている?」

「いきなりとんでもない話題を振ってきたの」

「長くここで商売をやっているんだ。知っているだろう?」

「うむ…知っているが、あまり大声では言えんな」

「なら、小声で言いなよ。治療してやった恩を忘れたのか?」

「それは会員権で返したはずじゃがな」

「これからもケアして長生きさせてやる。店の女の子の性病も無料で治療してやるから、早く教えてくれ」

「だからそういう店ではないと言っておるじゃろうに…。しかしまあ、お前さんにしては大盤振る舞いじゃな。何があった?」

「うちの子犬が処分される前に助けようと思ってさ。余計なおせっかいかもしれないけど、見捨てるのも気分が悪い。一度拾った以上、面倒はみないとな」

「…そうか。なるほどな」


 眉毛じいさんは、それだけで事情を悟ったようだ。伊達に長生きはしていないようだ。

 そして、じいさんも覚悟を決める。

 どのみち目の前の少年がいなければ死ぬはずだったのだ。このふしだらな男が、自分から人助けをするというのならば、多少の手助けくらいはしてもいいだろう。


「このあたりの麻薬を取り扱っているのは、【ソイドファミリー】という連中じゃ」

「ソイド…。もしかして、ソイド商会ってところ?」

「なんじゃ、知っておるのか」

「夜に工場が動いているから変だと思っただけだよ。詳しくは知らない」

「そのソイド商会ってのが、ソイドファミリーが隠れ蓑にしておる商会じゃ。ただし、中身はマフィアのようなもんじゃがな」

「そいつらが麻薬を流しているのか。いつからやっている?」

「麻薬そのものは昔からあるよ。ここいらじゃ、普通の薬と同じように扱われていたものじゃ。医者自体が少ないからの。どうしても頼るしかない」


 アンシュラオンが想像していたように、グラス・ギースに限らず、このあたりでは痛み止めとして利用されることが多いようだ。

 どうせ死ぬなら痛みが少ないほうがいい。そう思うのは自然なことだろう。


「しかし、最近は流通が減っておるようじゃ」

「そうなの? どうして?」

「…お前さんがそれを言うのか? 身に覚えくらいあるじゃろう」


 そこでアンシュラオンは、はっと重大な事実に気がつく。


「もしかして…オレのせい? オレが治してるから?」

「その通りじゃ。かくいうわしも、一時期は麻薬を少し使っておったよ。じゃが、それでは意味がないと思っての。すぐにやめたわ。今にして思えば大正解じゃ。治せる医者が出てきたのじゃからな」


(当然だが、元気になれば麻薬はいらない。そうなれば売り上げは下がるか。実に簡単な理屈だな)


 アンシュラオンにその気はまったくないが、多くの末期患者を治したせいで、結果的に麻薬の販売量が落ちているとのことだ。

 そうなればソイドファミリーにとっては大きな痛手となる。むしろ最悪だろう。

 だからこそ一つ、納得できたこともある。


「オレの周りを嗅ぎ回っているやつらがいるのは、そのせいか」

「そうじゃろうな。商売敵じゃからな。それ以前に良い腕の医者ならば、単純にどの時代でも狙われるものじゃよ。抱え込めば大きな利益になる。脅しても…な」

「じいさんも気がついていたか」

「わしの店で暴れるような輩は、あまりおらん。こう見えても昔は、ブイブイ言わせておったからの」

「ブイブイって…また古い表現をするな」


 眉毛じいさんも昔は、若い衆を引き連れるような『やんちゃ者』だったようだ。


「最近は、歯止めが利かなくなっておるようじゃな。この都市も荒れてきたもんじゃ」

「じゃあ、潰してもいいんだ」

「もしそうなるのならば、それもまた時代の流れ。古きものは崩れ、新しいものが生まれるだけじゃな」

「そうか…。だが、子犬とのつながりがわからない。どうなっているんだ?」

「いい女にはいろいろと事情があるってのは、昔からの相場じゃよ」

「あいつがいい女になるには、まだ十年はかかるよ」

「ほっほっほ、手厳しいの。今でも十分いい女じゃがな」

「じいさんは年食っているくせに、ギャルが好きだからな。微妙に趣味が合わないよ」

「むしろ被っていたほうが面倒くさかろうて。…そういえばニャンプルが、ソイドファミリーの幹部と知り合いだった気がするぞ?」

「本当か?」

「たまに店に遊びに来て、あの子を指名するだけじゃよ。店がどうこうではなく、あの子が気に入っているようじゃ」

「どんなやつ?」

「わしも店にずっといるわけではないが…痩せた男じゃな。何度か見たことがある」


(これは面白い情報だな。利用する価値はありそうだ。…今の状況はあまりよくないからな)


 今はなかなか複雑な状況になっている。

 これでシャイナ(犬)がいなければ少しはすっきりするが、あれのせいで問題がややこしくなっているのだ。


(一度あいつを問い詰めないといけないな。事情を知らないと動きようがない。しかし、その間に相手が動かないとも限らない。手遅れになったら困る。それを防ぎつつ、まずは相手を油断させる必要がある)


 今の状況は危うい。特にシャイナは自分の危なさを理解していない。

 知っているのかもしれないが、本当の意味で理解はできていないだろう。

 ならば、まずは相手に餌をぶら下げる必要がある。


 自分が被っている仮面―――【ホワイト医師】という名の餌を。


「じいさん、ニャンプルちゃんにやつらとの仲介を頼めるかな?」

「ううむ…それは…。わしから言っておいてなんじゃが、大丈夫か?」

「危ない真似はさせないよ。ただ、相手側に伝えてもらうだけでいい。こっちに争う意思はないってね」


 こうすれば相手は必ず食いつく。それによって動きが制限できる。

 しかし、それはこちらも同じことだ。


「相手は必ず医療行為に制限を設けようとしてくるぞ。よいのか?」

「いいんじゃない? 医者に未練があるわけじゃないしね。じいさんの面倒は今後もみるから安心しなよ」

「ふむ、惜しいの。お前さんなら本当の意味で、世の中を救えるかもしれんのにな…」

「それはオレがやるんじゃないよ。各人が自分の責任をまっとうする中で生まれるんだ。自分で自分を救うのさ」

「まったくもってその通りじゃな。反論もできんわい」



 その夜は、じいさんと一緒に飲み明かした。

 じいさんはすぐに潰れてしまったが、アンシュラオンは寝ているサナを優しく撫でながら、一人酒を飲む。


(まったく、手のかかる犬だ。あのワンコロには、ちゃんとツケを支払わせてやるからな。それとソイドファミリーにも代償を支払わせてやろう。オレたちにちょっかいを出したんだ。覚悟しておけ。全部むしり取ってやる。くくく)


 白い魔人が動き出せば、そこには血の雨が降る。静かな夜は、しばらくお預けである。




95話 「剥がされた仮面 前編」


 その数日後、アンシュラオンは仕事帰りにシャイナをパックンドックンに誘った。

 どうやら今日は【あの日】ではないらしく、快諾してくれた。

 少しでも食費を浮かしたいシャイナは、どうせ帰り道なので案外誘いには乗るのである。

 餌には弱い。まさに犬だ。


 シャイナの目の前には豪華な食事が並んでいる。

 肉や野菜、普段は見ない魚の干物などもあり、一般の労働者ではまずお目にかかれない豪勢な食事だ。


 それに―――食いつく。


「うわー、すごい料理ですよ! こんなの見たことないです!」

「よだれを垂らすな。はしたない」

「垂らしていません! でも、どうしたんですか、これ?」 

「永久会員の特権だ。こんなものは珍しくもない。じいさんが奮発したんだろう」

「もう少し遠慮したほうがいいと思いますけどね…入り浸りじゃないですか」

「毎回同伴して、タダ飯を平然と食っているお前に言えた義理か」

「それはその…節約の知恵です」


 あざとい答えである。タダ飯と意味は同じだ。


「まあ、飲め。ガンガン飲め」

「い、いや、私はお酒は…ご飯だけで…」

「酒と飯はセットだろう。みんな、こいつに酒の楽しさを教えてやってくれ」

「はーい♪ ほらほら、一緒に飲もうよぉ〜」

「うわっ、また来た!! だ、駄目…駄目だか―――むっ!!?」

「きゃはは、また口付けだーーー!」

「ううう! また奪われたぁ〜! 前も初めてだったのにぃ〜〜!」

「うわっ、本当!? やった! ファーストキスだ! あははは! それじゃ、もっと飲まないと」

「何の関係もないですよ!?」


 と、女の子たちに絡まれながらシャイナに酒が注がれて、あっという間に真っ赤になっていった。

 しかし、酔う前に味だけは覚えておこうと、必死になって食事に喰らいついている。逞しいものである。


 それを横目で見ながら、アンシュラオンはニャンプルと接触する。


「ニャンプルちゃん、例の件はどうなった?」

「大丈夫ですー。昨日来たので、伝えておきましたよぉ〜」

「そうか。これで上手くいけば面白いことになる。ありがとう。これは取っておいて」

「わー、ありがとうございますー♪」


 スカートに札束を挟む。感情ではなく金で動く女は楽だ。


(これで今日、相手が直接動くことはないだろう。予定通りだ)


「ついでにハッスルしてあげるよ!! さあ、またがって!」

「あっ、駄目ですよぉ〜〜」

「オレだけ遊んでいないと変に思われるでしょう! ほら、さっさと乗りなさい!! ふんふんふんっ!!」

「あっ、ああああ! 駄目めぇ〜〜! またイッちゃうぅ〜〜〜」


 アンシュラオンは、ハッスルダンスでニャンプルを攻略。


「そうだ、これを使うともっと気持ちいいんだよ」

「ぶっ!?」


 アンシュラオンが懐から「白い粉」を出すと、それを見たシャイナがぎょっと身を乗り出す。

 食べていたものが口から飛び出たので、よほど驚いたのだろう。汚いやつだ。


「せ、先生! それは!?」

「んー、なんだ? 知っているのか?」

「あ、あの…そ、それはまさか……」

「うん、そうだぞ。使うとな、とっても気持ちよくなる粉だ。知り合いからもらったんだ。これをこうして、手にたっぷりとまぶしてな…」

「ああ、そんなに使ったら!! だ、駄目っ!! 死んじゃう!」

「ええーーーいっ!」

「きゃっーーー!」


 アンシュラオンがニャンプルの乳に、たっぷりと白い粉をまぶす。

 そして、押し込むように触ると、非常にすべすべした感触が楽しめる。


「おー、やっぱりいいなー! この【ベビーパウダー】は!! ただでさえ柔らかい乳が、もう掴めないほどプルプルだ!! がはははは! 最高だ!」

「いやぁああ―――って、ベビーパウダー!?」

「うむ、そうだ。ベビーパウダーだ」

「その…あの……アレじゃなくて?」

「なんだ、アレって? これはお肌がすべすべになる粉だぞ。何を勘違いしているんだ」

「い、いや、なんでもないです! はは、はははは…」

「おかしなやつだな」


 これはモヒカンからもらったパウダーである。

 地球にあるベビーパウダーに似ているもので、使い方もほぼ同じ。最近では(エロ)マッサージにも使われることでも有名である。

 だが当然、これはわざとだ。


(こいつの頭の中は、完全に白い粉で埋まっているようだな。やはり一度、厳しくしつけないといけないようだ)


 普段なら「そんなことに使うものじゃないです!」とか言いそうなのに、それすらもスルーしていることに気がついていない。

 それだけ動揺していた証拠だ。あまりにも無防備である。


 そして、その数時間後、シャイナは完全に酔い潰れて眠ってしまった。

 これも予定通りであった。






 馬車がホテルに止まり、アンシュラオンとサナが出てきた。

 それは普段の光景のように見えるが、出迎えたホロロには一つだけ見慣れないものが見える。


「ホワイト様、そちらの手荷物は?」

「ああ、潰れたからそのままってわけにもいかないし、一応持って帰ってきたんだ」


 アンシュラオンの左手はサナの可愛い手とつないでいるが、右手には何か大きなものを抱えていた。


 それは―――シャイナ。


 自分の身体よりも大きいものを軽々と片手で担いでいる。実際に軽いのだから何の問題もない。

 しかし、アンシュラオンが次に言った言葉は問題であった。


「ホロロさん、【八号室】を使うよ」

「…かしこまりました」


 一瞬の間があってから、ホロロが了承の意を示す。

 ただし、いつもの彼女と何ら変わらない綺麗なお辞儀であるが、毎日見ている人間にしかわからない微妙な差異があったのは事実。

 多少強張ったような、そんな仕草。

 だが、それに気がついた者はアンシュラオン以外にはいない。


「それと、そろそろネズミを捕まえようかな。一緒に連れてきてね」

「かしこまりました」

「飲み物はワインでよろしく」

「はい」

「それじゃ、先に行っているからね」


 アンシュラオンは仮面の下に笑顔を浮かべながら、楽しそうにホテルの中に入っていった。


 その後ろ姿を見て、ホロロは―――恍惚な笑みを浮かべた。






「んん…んー…」


 シャイナがベッドの上でごろごろ転がり、ごつんと頭が壁に当たって目が覚める。


「うう…気持ち……悪い…」


 うっすらと目を開けるも、ここがどこなのかを考える余裕がない。無理やり飲まされた酒のせいで死にそうである。

 胃がムカムカして、今すぐにでも吐きたい気分だ。


「起きたか、シャイナ」


 そんなシャイナを見下すようにホワイトが立っていた。

 部屋の灯りが逆光になって白い仮面が黒く見えたが、ホワイトなのは間違いない。少し離れた椅子には、同じく仮面を被った黒姫もいる。

 こんな怪しい仮面を被る人間など、このグラス・ギースでは二人しかいないのだから、間違えようがない。


「んん…あれ? 先生……? なんで…ここに? 私の家…ですよぉ?」

「よく見ろ。ここがお前の部屋か?」

「んー、ふかふか…柔らかい。ぐー、ぐー」

「おい、寝るな」

「きゃふっ!」


 シャイナの乳首を摘む。


「ううう、何するんですかー! やめてくださぁーい! セクハラ、痴漢ですよぉ!」

「この酔っ払いが。あの程度で酔うとはなさけない」

「おかしい。先生のほうが飲んでいたはずなのにぃ…」

「前も言っただろう。オレにとっちゃ水みたいなものだ」

「…やっぱり……先生って…ちょっとおかしい」

「オレよりおかしいやつはたくさんいるぞ。髪の毛の匂いで勃起する男とか、他人の泣き顔を見て興奮して下着を濡らす女とかな」

「レベルが高すぎる!? どんな変態ですか!?」

「実際に出会ったオレの苦労はわかるまい。あれが本物の変態だ」


 変態道は奥が深く、罪深い。関わらないのが一番である。


「先生…治療してくださいぃ…いつものあれで、ちょちょいのちょいでぇ〜。簡単でしょう〜?」

「金はあるのか?」

「助手からも金を請求!?」

「当然だ。金がないなら、毎日好きなだけ胸を揉む権利をよこせ!」

「それが乙女への仕打ちですか!?」

「うん? 処女なのか?」

「そうれすよぉー。処女です。乙女ですよぉー。興味湧きました?」

「酒場の女の子たちよりは湧くな。だが、その前に証拠を見せろ。下着を脱いで股を開け。処女膜を確認する」

「ストレートすぎる!?」

「オレは簡単に人間を信じないからな」

「…私のことも…ですか?」

「信じてほしいのか? お前はそれだけのことをしてきたか? 信じてもらえるように、オレに対して真摯に向かったか? そう断言できるか?」

「……ぐー、ぐー」

「寝たふりをするな。ぐいっ」

「ギャーーー! 股に手が入ったぁ!」

「入ったんじゃない。入れたんだ」


 意味は同じだ!


「まあいい。さて、暑いから脱ぐか」

「ええ!? な、なんで脱ぐんですか!? はっ、まさか! 私をここに連れてきたのって…!」

「勘違いするな。脱ぐのはこれだ」




 ホワイトが―――仮面を脱ぐ。




「…え?」


 その姿にシャイナは目を疑う。



 予想以上に若い。そして―――美しい。



 白い髪の毛に完璧に似合う赤い瞳。整った顔立ち。その中に垣間見える未成熟な少年の魅力。

 そうでありながらも知性的で、人生の闇を知っているような陰を身にまとっている。


―――惹きつけられる


 シャイナは彼よりも年下なので魅了効果は発動していないが、補正がなくても十二分に目を奪われる容姿である。

 もしかしたら仮面を被っていると魅力が伝わりにくくなるのだろうか。

 こうして素顔のほうが何倍も魅力的だ。やはり人の情報は顔が大半を占めているのだろう。


 それ以前に、いかなるときでさえ仮面を脱がなかったホワイトだ。それがこうもあっさりと外すとは思わなかった。

 しかも今、簡単に人間を信じないと言ったばかりである。


 だから―――わからない。


「…どうし…て?」

「たかが仮面だろう。素顔を見られて困るものでもない。むしろ逆効果だったようだからな。まったくもって上手くいかないものだ。そんなに他人に興味があるなんて、暇なやつらが多いものだ。オレには理解できないな」


 仮面を被って逆に目立つとは皮肉である。

 おかげで諦めもついたので、こうしてホワイト先生から【いつものアンシュラオン】に戻ることができた。

 そう、今この場にいるのはホワイトではなく、アンシュラオン。

 これが重要なポイントだ。


「サナも暑かっただろう。ごめんな」


 仮面を取ると、黒髪の美しい少女が現れた。こちらの少女も負けず劣らず神秘的な美しさを放っている。

 アンシュラオンの浮き立ち目立つ白と、深く静かに滲み出る黒の対比が、とてもとても美しい。


 まさに美男美女の兄妹。


 シャイナは、目の前の光景が信じられないように二人を凝視している。



「顔が見たかったのだろう? どうだ? 感想は? ちなみにホワイトというのは偽名だ。オレはアンシュラオン、妹はサナ。まあ、知ったところで意味はないがな。もともとこの街には深く関わってはいない。オレも妹も外から来た人間だ」

「………」

「言葉も出ないほど感動したのか。それもいいだろう。お前の自由だ。オレは他人の自由ってのを尊重する主義でな。どうするもこうするもお前の自由なんだが…」


 アンシュラオンがシャイナの目を覗き込み―――



「害悪になるのならば話は別だ」



 真っ赤な宝石のような目が―――射抜く。



(っ―――!)


 その目は人間とは思えないほど綺麗で、とてもとても静かな色合いを放っていた。

 静かで、迷いなく、ただただ冷徹。

 そう、まるで他人の命など、どうでもいいような冷たさを持った視線である。


 その視線に晒され、思わず身体が竦む。


 自分よりも遥かに上位の存在から睨まれた一般人がする、とても自然な反応だ。


(これが…人を救う人間の目なの?)


 アンシュラオンは、まがりなりにも命気治療で大勢の命を救っている。

 それが金銭目的であろうと他意があろうと、救っていることは事実なのだ。感謝されて、まんざらでもない様子もたまに見かける。

 それが今はひどく無機質で、虫けらを見るような目になっている。



 そして―――確信。



「先生は……あなたは…酷い人……なんですか?」




96話 「剥がされた仮面 中編」


 冷たい視線に抵抗するように心を強く持ち、シャイナが必死に声を出す。

 その声は―――震えていた。


「酷い? どういう意味だ?」

「だって、女性やお金がある人は助けるけど、そうでない人は…」

「見捨てる、か?」

「………」

「それがどうかしたのか?」

「それがって…! 不公平でしょう!」

「なぜだ?」

「なぜって…助かる人とそうでない人がいて…それは…やっぱりその……」

「だから不公平か? ははは、思った以上に馬鹿だな、お前は」

「ば、馬鹿って…どうして!」


 アンシュラオンの声は、冗談ではなく本当に馬鹿と接するような声。

 つまりは、相手を馬鹿にした口調である。

 その声質に、シャイナの心がぎゅっと縮まったのがわかった。上位者からの圧力は、それだけで本当に心臓が縮む思いだ。

 それでも目の前の美形の少年が髪の毛をかき上げる仕草に、ついつい見惚れてしまう。

 魔性という言葉を男性に使うのは妙な感じだが、そう表現するのが適切なほど異性を惹きつける。


(先生相手に、そんなことを考えたこともないのに…。こ、これは間違い。何かの間違いよ! 美形だからって、美形だからって…性格が悪ければ……でも、なんて綺麗…)


 ドキドキする心を抑えるので必死だ。だが、心臓はさらに高鳴っていく。


 そんなシャイナの気持ちをまったく無視するように、アンシュラオンは話を続ける。


「この世界に不公平なんて存在しない。極めて正当な原因と結果の法則だけがある。もしオレが治療しないことで死んだやつがいたとしても、それはそいつの行動に原因があったんだ。一方、オレが治療しても死ぬやつはいる。それだけのことだろう」


 前にシャイナに語ったように、すべては自業自得の因果の中にある。

 最初の原因を生み出したのは、患者自身なのである。その責任は彼らにあろう。


「でも、助けることもできました!! 少なくとも、その瞬間だけは…」

「自分の身を削って、か。たいそうな犠牲的精神だ。じゃあ、お前がやるんだな。助けてやればいい」

「それは…私には……できないから…」

「自分の能力を伸ばそうとしていないだけだろう。それで他人に文句を言うのは筋違いだな。お前にはそれなりの看護の才能がある。それを伸ばせばいい」

「私には…無理です」

「偉人は言ったぞ。諦めたらそこで試合終了だってな」


 アンシュラオンとは違う、本物の先生の言葉は偉大だ。

 自分で自分を見放したら、そこで本当に終わってしまう。


「先生のあれは…術なんですか?」

「いや、あれは【技】だ。術士の素養がなくてもできる」

「私にもできますか?」

「わからん。少なくとも天性の資質はないようだ。後天的に水の属性に目覚めれば可能性はあるが…」


 今のところシャイナに属性は表示されていない。

 命気は、最低でも水の属性を得た人間でないと得られないものだ。

 しかも伝説的な最上位属性を得られる人間など、この世で一握りの者たちだけである。シャイナに覚えられるかは完全に未知数だ。


「そうですか…。やっぱり…駄目ですね。私には何も救えないんです…」

「比べれば比べるほど自分が惨めになるだけだぞ。今のお前は惨めだな。ずぶ濡れで真っ黒になっている。だが、誰も同情はしない。してくれない。そうしてくれるやつがいたら、逆に疑え。必ず下心を持っているからな」


 安易に同情する人間には気をつけねばならない。

 その人間は同情する「ふり」を修得した人間である。技術で弱った相手を支配できる者たちだ。

 それが善人ならばいいが、大半は正反対の者たちである。弱味を見せれば、そこに付け込む偽善者だ。

 何も知らないずぶ濡れの子犬は、あっという間に餌食になってしまうだろう。



(さて、こんな話をするために連れてきたわけではない。そろそろ核心に踏み込むか)


 こんな会話など、いつもしていることだ。


 だから、さらに―――踏み込む。


 自分とシャイナという存在を構成する根幹の部分へ。

 それはきっと痛みが伴うものだろう。だが、病気と同じく、その根源から逃げていては何も解決しない。

 ガン細胞を治療しても、それが生み出される生活そのものを変えねば意味がないのだ。


「オレがどうして、お前をここに連れてきたかわかるか?」

「…いえ」

「オレも気になっていたんだよ。お前がオレを見る時の目、あの【怒りの目】がな」

「っ―――!」


 シャイナは目を見開いて驚く。

 だが正直、あんなにあからさまに睨まれて気づかないほうがおかしい。

 仮面を被っているからわからないとでも思ったのだろうか。それも含めて困った女である。


「オレがお前を雇った理由を教えてやろう。最初の日、お前が診察所にやってきた時、オレを見た時の目が気に入らなかったからだ。放っておけば害悪になると思ったからだ。だからオレは、お前を近くにおいて監視していたんだ」


 それからシャイナの目を見て、はっきりと言う。


「オレは、お前のことを信用していない。今まで一度たりとも…な」

「そ、そんな……最初から……」


 さすがに正面切って言われると、それが誰であろうともショックを受けるものである。

 それがたとえ嫌いな相手でも、複雑な感情を抱いた人間からでも、誰かに敵対を宣言されることはつらいものだ。

 思わずシャイナの目にうっすらと涙が浮かぶ。

 これも弱い人間の特徴だ。やはり彼女は、麻薬の売人をやるような人間ではないのだろう。他人を不幸にして喜ぶようなゴロツキではない。

 だが、これは必然。


「仮面を被るような慎重なやつが、いきなり来た女を雇うと思うか? こっちから集めたならばともかく、相手からやってきたのならば他意があると思うのは自然だ。しかも敵意を持つようなやつだぞ。信用はできない」


 アンシュラオンが言った「信用されるようなことをお前はしてきたのか」という問いの意味が、ここに込められている。


 最初からシャイナを信用していない。


 その理由がないからだ。シャイナ自身が、そういう態度を取っていないからだ。


「忙しかったのは本当だ。雇ってよかったと思ったよ。それに、油断させれば少しは尻尾を出すと思っていた。まあ、お前は最初から最後まで変わらなかったがな。最初から最後まで、オレを観察していた。不満げな顔で」

「私、そんな顔…してました…か?」

「していたな。少なくとも尊敬の眼差しではない。お前を殺すことはいつでもできた。だが、それでは意味がない。その背後を洗わないとな。さあ、吐いてもらおうか。お前の目的は何だ? どうしてオレに近づいた」

「目的なんて…。ただ、お金が欲しかっただけです」

「嘘を言うもんじゃないな。そんな理由だけで怪しい医者に近づくわけがない。もう一度言うぞ。何が目的だ?」

「本当です。目的なんてない。看護術を学んでいたから勉強になると思って…。でも、あんなの知らないから、まったく参考にならなかったですけど…」


 シャイナは本当のことを言おうとしない。

 そもそも軽々しく他人に言えるものではないだろうから、それも仕方がない。

 むしろ、「私、売人やってまーす。超イケてる!」とか言われたら、アンシュラオンのほうが唖然としてしまう。

 まあ、そんなふざけた態度を取った場合は服をひん剥いて、楽しいお仕置きタイムが発動するわけだが。


「ふむ、強情だな。さて、どうしてくれようか―――と、先に先客か」

「え? 誰…ですか?」

「安心しろ。お前の【お仲間】だ」


 アンシュラオンが廊下を歩いてくる【二人の足音】に気がつく。

 波動円を使って常時周囲を監視しているから、領域内に入った存在は虫一匹たりとて見逃さない。

 一人は当然ながらホロロ。この最上階を担当するメイドなのだから、歩いていて不自然ではない。

 だが、もう一つの足音は、ここではまず聴くことができないものだ。

 二つの足音は並んで廊下を歩いており、八号室の前で止まった。それからノックの音が聴こえる。


「ホワイト様、ワインをお持ちいたしました」

「ああ、入っていいよ」

「失礼いたします」


 ホロロが、ワインとツマミ類が置かれたワゴンと一緒に入ってきた。


「あなたも入りなさい」


 続いてホロロに促されて、おどおどした様子で入ってきた者がいた。




 それは―――ミチル。




 前に出会ったホテルの新米従業員である。

 なぜ自分がこの場にいるのかが理解できず、周囲をきょろきょろ見回しながら警戒しているのがわかる。

 彼女が来た理由はとても簡単。アンシュラオンが呼んだからだ。


「ホロロさん、ご苦労様。ワゴンはそこに置いておいて」

「かしこまりました」

「それからミチルさん」

「は、はい! あっ!!!」

「どうしたの? 緊張しているみたいだけど」

「え、ええ!? そ、その…いえ、なんでもありません!」


 ミチルが驚いたのは、いつも仮面を被っているホワイトが素顔でいるからだろう。

 それが普通であるかのように平然と素顔を晒している。

 ホテルの自室内なのだから当たり前だが、普段最上階に来ない従業員にとっては逆に異様なのだろう。


「あの…私、どうして呼ばれたのでしょう?」


 ちらちらとアンシュラオンを見ていたミチルが、これまた当然の疑問を発する。

 彼女にしてみれば、それこそが一番大切な問題だろう。

 自分はホテルの新米従業員。ホロロのように信頼されている人間ではない。

 彼女自身が思いつく理由は一つしかない。


「す、すみません! 何かお気に障るようなことをしたならば謝ります! ごめんなさい!」

「謝る必要はないよ。君は何も悪いことはしていないからね」

「…ほっ、よかったです」


 ミチルは胸を撫で下ろす。

 もし彼の機嫌を損ねてしまったら一大事だ。この最上階を借り切るほどの金持ちを逃したとあれば、間違いなく自分はクビだろうから。


 しかし、次の言葉でミチルは凍りつく。





「君は悪いことをしていない。悪いのは―――君の【雇い主】だからね」




「っ―――!?」




 ミチルが何かを言う前に、その身体が地面に叩き伏せられた。

 いつの間にかアンシュラオンが、うつ伏せになったミチルの首根っこを押さえている。


「せ、先生! 何をするんですか! その人は女の人ですよ!!」


 思わずシャイナが叫ぶ。

 いつもは女性に優しいアンシュラオンが、まさか女性相手にこんな手荒な真似をするとは思わなかったのだろう。

 意外を通り越して驚愕の表情を浮かべている。

 だが、アンシュラオンの顔色はまったく変わらない。依然として冷たい目のままだ。


「たしかにオレは女性には優しいつもりだ。女性を大切にできない社会は間違っていると思うからな。しかしそれはあくまで、オレに逆らわない女性に限られる。敵対行動をするやつに情けは必要ない」

「て、敵対行動…? その人は何も…」

「お前はこの女を知らないのか?」

「え…?」

「知らないようだな。まあいい」


 間抜けな顔でぼけっとしている。これは知らない顔である。

 シャイナに嘘発見器はいらない。その顔を見ればすぐにわかるからだ。


 ならば、こう言えばわかるだろう。


「こいつは【偽名】を使って近寄るようなやつだ。信用はできない」

「っ!」

「ぎ、偽名? その人が?」


 ミチルの身体が明らかに強張った。こちらも案外わかりやすい。


「ミチルという名前は偽名だな?」

「そ、そんな…わ、わたし…は……そんなこと…」

「ほぉ? 違うのか? なら、どんな言い訳を聞かせてくれるんだ?」

「言い訳じゃ…。わたしは……ミチル…です……うっ!」


 アンシュラオンが力を入れると、首がさらに圧迫される。

 ただ首を押さえられているだけなのに、それだけでまったく動けない。


「つまらないなぁ。もっと面白い言い訳をしてくれないと、こっちも興醒めだ」

「はっ、はっ、はっ! わ、わたし…わたしは…!」


 ミチルは緊張からか、明らかに過呼吸気味である。

 押し付けられているので、肺が圧迫されて苦しいのかもしれない。胸自体はあまり大きくないが。

 だが、それを緩めるつもりはない。さらに少しずつ強く押し付けて、相手に強い圧力をかけていく。

 この段階でミチルは悟ったはずだ。


 相手は自分よりも遥かに遥かに強いと。そして、迸る殺気は本物であると。


 さらに恐ろしいことに、自分を押し付けている人物は、ひどく嗜虐(しぎゃく)心に満ちている。相手を傷つけて楽しめる人間であることもわかるのだ。


 それが―――怖い。


「そんなに緊張するなよ。ああ、そうだ。ワインを飲めば少しはリラックスできるかな。ホロロさん、ワインをもらえるかな。コルクはそのままでいいよ」

「かしこまりました」


 ホロロがワインボトルを持ってくる。血の色をした赤いワインだ。

 これはブドウで作られているものではなく、このあたりでよく採れる「カフサベリー」と呼ばれる木の実から作られている。

 味としては酸味よりも、イチジクのような強い甘みを感じるタイプの酒である。

 そのボトルの先を指で弾くと、空手の瓶切りのようにスパッと切れた。ただ、わざと粗く切ったので、尖端は多少トゲトゲになっている。


 それを―――ミチルの口に突っ込む。




97話 「剥がされた仮面 後編」


「んぐっ―――んっ―――!!!」

「遠慮するな。たっぷり飲めよ。女の子にも人気の酒だぞ」

「ぐっ…げほっ…ぶっ―――んんっ!! げほげほげほっ―――んぐっ!!」


 倒れた状態で強引に注がれているので、気管支にでも入ったのだろう。激しく咳き込む。

 これは苦しいし、痛い。

 が、それに逆らうことはできず、首を少しずつ傾けられて強制的に飲まされる。


「ほら、どうした。まだ半分だぞ。遠慮するな」

「がぼっ、げぼっ…んんっ……!」

「汚い音だな。女の子なんだから、もっと綺麗な音で飲んでくれよ」

「んーーー! んっ!! んぐっ!」


 それを一分間続けた後、ボトルを離してやると―――嘔吐。


 鼻からもワインが溢れ出し、涙を流して吐いている。



「げほっ…おえええ……ぇぇぇ……!!」



 吐き出された真っ赤なワインで床が赤く染まる。

 まだ食べていなかったのか吐瀉(としゃ)物はほぼなく、胃液を含めた液体だけが丸ごと吐き出された感じだ。

 この赤の中には、粗いボトルの切り口によって切れた口内の血も混じっているだろう。そう思うと、なかなか美しい色である。


「げほげほっ…ううっ…げほ……」

「あーあ、勿体ないな。飲まないで出すなんて無駄にも程がある。オレは無駄が嫌いでな。こんな粗相をしたやつを許すわけにはいかないぞ。さて、おかわりはあるかな?」

「白ワインもお持ちしております。赤と白を二本ずつです」

「さすがホロロさんだ。よくわかっている。それじゃ、あと三回挑戦できるぞ。次は飲み干せよ」

「た、たすけ…て……。ゆるして…げほっ……ください……本当に…知らな……」

「さすがに簡単に口を割らないか。それとも割れないのかな? そうだよな。嘘だったら、これからどんなことが行われるか、怖くて怖くてしょうがないもんな。くくく、これよりもっと酷いことが起こるのは間違いないぞ。楽しみだなぁ」

「ひっ…! 本当です! 許してください! わ、私はミチルで……入ったばかりなんです……」

「入ったばかりなのは間違っていないが、最初の発言は嘘だな」

「そんな…どうし……」


 ミチルが涙目になって必死に無実を訴えるが、アンシュラオンにまったく揺らぎが見られない。



 なぜならば―――





「リンダ・イーフィーン。ちゃんと綺麗な名前があるじゃないか。どうして使わないんだ?」




「っ―――!!」




 アンシュラオンがミチルという名前を知ったのは、ロビーのカウンターで会った時が初めてである。

 今まで何回かすれ違って挨拶はしたことがあるが、わざわざ従業員が名乗る必要もないだろう。ただすれ違って終わりである。

 だがあの時、名前を知った時に強烈な違和感を覚えた。



―――名前が違うから



 情報公開で見た彼女と名前が違う。

 源氏名ならばわかるが、ここはホテルだ。客でもない従業員が、わざわざ偽名を使う理由がない。

 ただ、それだけでアンシュラオンがこのような行動に出るわけがない。リスクがありすぎる。

 それも情報公開を見ればすぐにわかる。


「特技は『諜報』と『侵入』か。なかなか便利そうなものを持っている。欲しいくらいだよ」



―――――――――――――――――――――――
名前 :リンダ・イーフィーン

レベル:21/40
HP :120/120
BP :75/75

統率:E   体力: F
知力:E   精神: F
魔力:E   攻撃: F
魅力:E   防御: F
工作:C   命中: F
隠密:C   回避: F

【覚醒値】
戦士:0/0 剣士:0/0 術士:0/0

☆総合: 第十階級 下扇(かせん)級 忍者

異名:ソイドファミリーの密偵
種族:人間
属性:
異能:諜報、侵入、素人臭、対男性庇護欲増大
―――――――――――――――――――――――


(全然強くないけど、一応は第十階級に分類されるんだな。能力は完全に密偵向けだな)


 戦闘タイプではないので、その点に関しては怖れる必要はまったくない。

 しかし逆に強くないからこそ、こうして潜り込んでいても警戒されないのだ。

 『素人臭』というスキルでもわかるように、弱いことを隠しているわけではないので違和感がないからだ。


 そして、もう一つ重要な点がある。異名のところだ。


 しっかりと『ソイドファミリー』の名前がある。


「お前の正体は知っているぞ。ソイドファミリーが送り込んだ間者だな」

「っ…」

「もう隠す必要はないぞ。最初から知っていたからな。オレに偽名は通じない。そういった能力があるんだよ」


 最初は確証が持てなかったのと実害がないので放置していたが、ここ最近の出来事ですべてが理解できた。

 相手の素性はもうすでにわかっているが、シャイナに聞かせるためにわざとこう言う。


「ホロロさん、ソイドファミリーって知ってる?」

「医療品を取り扱う商会の中に、そういった名前があったように記憶しています」

「商会? マフィアっぽい名前だけどね」

「家族経営の商会ですので、そういった名前かと。ただし、実際に荒っぽいこともしているという噂です。裏では麻薬も取り扱っているとも聞きます」

「ふーん、なるほどね。麻薬か。じゃあ、最近麻薬中毒者が多いのは、こいつらががんばっているからなんだね」

「おっしゃる通りです。私の母も、この者たちにお金を搾り取られていました。弱い人間を狙う、いわゆる人間のクズどもです」

「ははは、ホロロさんも容赦ないな。オレが言うのもなんだけど、まあそうだね。駄目な人間を食い物にしているんだから、もっと悪いやつらだ。ほら、シャイナ、お前の大嫌いな人間がここにいるぞ。こいつらが麻薬を扱っているクズどもだ。よく見ておけ」


 そして案の定、シャイナが驚きの表情でリンダを見ていた。


「う…そ……なんで……」


 まさかソイドファミリーの手の者が、ホワイト医師の近くに潜り込んでいたとは思わなかったのだろう。本当に驚いている顔である。


(ほんと、こいつは自分の感情を隠すってことを知らないな。こんなにシナリオ通りにいくと逆に笑えないぞ)


 シャイナの反応が予想通りすぎて、さすがに心配になるレベルである。

 やはり犬だ。

 アンシュラオンは再度そう評価する。犬は犬にしかなれない。これからもずっとあのままだろう。



 さて、問題のリンダである。

 彼女がソイドファミリーの間者であることは間違いのない事実だ。情報公開が間違えることはない。


(ソイドファミリーは、かなり早い段階からこちらの動きを探っていた。そりゃ売り上げが減るのは死活問題だからな。すぐに反応するに決まっている。オレのほうは医者に興味がなかったから、少し出遅れたけどね)


 裏社会のネットワークは実に優れている。自分のテリトリーに異物が入ってくれば即座にわかるのだ。

 ただ、アンシュラオンも黙って放置していたわけではない。

 リンダには一つ罠を仕掛けていた。


「しかしまあ、リンダちゃんは真面目だな。オレがホロロさんに頼んで伝えてもらったことを、律儀にそのまま伝えるなんてさ。あまりに単純だったから、逆に罠じゃないかと疑ったくらいだよ」

「な、なんのこと…ですか?」

「まだしらばっくれるの? ホロロさんから聞いたでしょう? オレが眉毛じいさんの店『パックンドックン』に行くっていう話をさ」

「っ…まさか…あれは……」

「君も密偵のわりに顔に出すぎだね。そんなところが逆に使えるんだろうけど。いやー、あのチンピラどもを見たときは、競馬が当たったような気分だったよ」


 アンシュラオンが店で倒した二人組のチンピラ。

 彼らもまたソイドファミリーの構成員であった。異名にそう出ているので簡単にわかってしまうのだ。

 ミチルへの違和感を感じた日の夜、ホロロに会ってミチルが偽名であり、ソイドファミリーの一員であることを教えていた。

 そのうえでミチルに「ホワイト様が明日、パックンドックンという店に行くらしい」という話を伝えておいたのだ。

 それを調理の手伝いをしているミチルにも、不自然にならないように伝えた。明日の夕飯の用意はいらないという感じで。


 ミチルことリンダは、その情報に食いついた。


 すぐに情報を送ったのだろう。初めて酒場に行った時には、すでにソイドファミリーの関係者が何人かいた。

 あの二人以外にも一人、違うテーブルで酒を飲んでいた男。それもまたやつらの仲間だ。

 三人目は参加してこなかったので監視要員だと思われる。その男は二人がやられてしばらくしてから、静かに店を出ていったのを確認している。


「騒動を起こしたのは、こっちを痛めつけるのが目的だったのかな? それとも人となりを見極めるため? どちらにしても、あのやり方は失敗だったね。あまり友好的とは言えなかった。まあ、オレ個人は楽しかったからいいけどさ」


 実はあの二人、少しは腕っ節の強い男たちであった。

 第五階級の赤鱗(せきりん)級狩人、レッドハンター程度の実力はあったに違いない。普通の医者が相手ならば、簡単に捻じ伏せることができただろう。

 よって、あの騒動はすべて計画されたもの。相手の言動が安っぽかったのは、演技だったからだ。


(パターンは二つ。そのまま脅すか、あるいはその後に『守ってやるからこれからもよろしく』とか言うパターンかな)


 裏の人間がやることなど、どの時代、どの世界でも決まっている。

 しかし相手もまさか、医者があんなに強いとは思わなかっただろう。見事返り討ちである。

 そして、それを見ていた男が、ホワイトは危険だということを教えたのだろう。それ以後、そういったチンピラがまったくやってこなかったのが何よりの証拠だ。


「そろそろ認めたほうがいいんじゃない?」

「………」

「どうした? 今度はだんまりか? じゃあ、いっそのこと…止めてみるか?」

「っ!?」


 アンシュラオンがリンダの首を押さえながら、さらに膝を背中に押し付ける。



 リンダの呼吸が―――止まった。



 気道を塞ぎつつ、肺を完全に圧迫したのだ。呼吸したくてもできない状況である。


「かはっ―――はっ―――!!」

「苦しいのか? 呼吸がしたいのか? だが、駄目だな。お前たちの目的を吐くまでは許してはやらんぞ」

「かっ! かっ―――!!」

「ほら、もっと必死に吸えよ。窒息死するぞ。ほらほら、がんばれ。虫なら虫らしくあがけよ。はははは!!」

「がっ、はっーーー! っ―――!」

「虫というか、魚みたいになっちゃったな」


 口をパクパクさせている姿は、まるで魚。虫よりは的確な表現だと思い直す。


「せん…せい……酷い…」


 リンダに厳しい態度に出ているアンシュラオンに、シャイナは絶句する。

 まさかここまでするとは思わなかったのだろう。顔が青ざめている。

 そして思わず、近くにいたホロロに声をかける。


「先生を止めて…! やめさせてください!」

「なぜですか?」

「な、なぜって…こんな酷いこと…」

「偽名を使ってホワイト様に近寄ったのです。当然の報いでしょう。この御方に逆らうとは罪深いことです」

「あ、あなたは…!? そんな! たったそれだけで…」

「見た目に騙されているようですが、この女は麻薬組織の一員です。末期患者に麻薬は必要ですから、薬そのものは必要悪でしょう。しかしながら、それを治せるホワイト様を狙うなどと…言語道断です」

「そ、それは…でも、こんな…」

「まるで他人事ですね。ですが、あなたも同じですよ。彼女を見て、ここにいる意味が少しはおわかりになったのではありませんか? それともまだ理解していないとすれば、本物のお馬鹿さんですね」

「っ!」


 ホロロはアンシュラオンがこうした行動に出ても、まったく驚いた様子はなく、むしろ恍惚とした表情でいる。


 これが初めてではないからだ。


 アンシュラオンが最上階を全部借りている理由は、安全のためもあるが、それ以上にさまざまな用途に使うためでもある。


 この八号室は―――【尋問部屋】。


 これまでに四名ほど、アンシュラオンたちに近寄ってきたリンダのような害虫を尋問、処分してきた場所である。


 ホロロはそのすべてに加担している。


 ホロロにとって母親を一瞬で癒したアンシュラオンは、もはや神に等しい存在。敬愛を通り越して崇拝に近い感情を抱いてる。

 その神がやることが間違っているわけがない。現に今、愚かな欲望塗れの人間を排除しようとしている。

 末期ガンの母を助け、中毒者を癒し、さらに悪を排除する力を持つ。これこそ彼女が求めていた存在だ。


「ああ、ホワイト様…。なんて美しい…。私の…神。私のすべて」


 ホワイトに信頼されているホロロを見て、シャイナは改めて自分の現状を痛感する。


(私は信用されていなかった…。それも当然。私自身が信用していなかったから…。次は私の番なんだ)


 尋問されているリンダの姿が自分と重なる。自分もまた同じ側の人間であるから。




98話 「お仕置きタイム、恐怖の叫び再び 前編」


「うううっ―――がっ!」


 ボキンッという鈍い音を立てて、背中側の肋骨、胸郭が折れる。

 その痛みで呼吸がさらに乱れたが、まだ吸い込むことは許されない。


「あう…あっ…」

「いやいや、オレも意地が悪かったな。お前の目的など、とっくにわかっているさ。それにこうしていたら、しゃべるどころか呼吸もできない。ほら、放してやろう」

「っ―――! かはっ! はーーー! はーーー!! げほげほっ!!」


 アンシュラオンが放すと、リンダが転がるように呼吸を貪る。

 背中には鈍い痛み。軽く床に体重をかけるだけで激痛が走った。

 だが、これでも密偵である。

 なんとか脱出しようとドアに向かうが―――


「ああ、そっちは危ないぞ」

「えっ―――っ!!」


 リンダが這いずりながらも立ち上がり、ドアに向かって駆けた瞬間―――水が飛んできた。

 扉から水が染み出すと同時に、形状をツララ状に変えながら飛んでくる。


 それが両肩両腿に突き刺さり、肉を抉り―――さらに凍結。


 リンダの両手足が凍りつき、すっ転ぶ。


「ぁぁあぁあ…ああああ!!」


 凍っているので出血はない。しかし、痛みよりも凍結したことに恐怖を覚えたのか、必死に動かそうとする。

 が、まったく動かない。

 次第に両手足の感覚がなくなり、そのまま床に倒れていることしかできなくなる。


「だから危ないと言ったんだ。人の言うことを聞かないと、こういうことになる。よく覚えておけ」


 覇王技、水槍凍穴(すいそうとうけつ)。文字通り水気の槍を放ち、当たった部位を凍結させる放出技である。

 水気と凍気の複合技なので、因子レベル3ではあるが非常に高度な部類に属するものだ。

 しかも事前に技をとどめておきトラップとして活用する、遠隔操作の中でも『停滞反応発動』という超高等テクニックを使っている。

 停滞発動で発した技はストックされ、効果範囲内で特定の行動を取った対象に反応して一気に発動する。まさに罠である。

 発した箇所に戦気はとどまるので、知っていれば見破ることはできるが、この技を使える武人はそうそういないため、初見で防ぐことは不可能に近い。

 当然、アンシュラオンが逃亡を予期していないわけがない。あらかじめドアにはトラップを仕掛けてあったのだ。

 トラップなどなくても簡単に捕らえられるが、これも一つの余興である。


(逃げられるかも、って思ったところを潰すのが面白いんだよな。我ながら悪趣味ではあるけどね)


 デアンカ・ギースにも同じように希望を持たせ、それを打ち砕いている。

 しかも魔獣よりも人間のほうが効果は覿面。リンダの顔は、絶望に塗れていた。これが見たかったのだ。


「逃げたならば罰を与えないとな。ホロロさん、あれを持ってきて」

「かしこまりました」

「リンダちゃん、お楽しみはこれからだよ」

「はっ、はっ…はっ…! ゆる…して……なんでも…言うから……」

「今逃げようとしたばかりだろう? 信じられるわけがないな。オレは嘘をつく女は嫌いでな。そんな君にはお仕置きが必要だ。まあ、焦ることはない。楽しみに待っていなさい」


 再び過呼吸気味になったリンダの怯えた顔を観賞しながら待つ。


 もう少し見ていたかったが、用意はすぐに整った。


「お持ちいたしました」

「うん、ありがとう」


 ホロロが奥の部屋から持ってきたものは、筒が付いた箱状のもの。


「これを知っているか? これはスレイブ・ギアスを生み出す機械だ。非売品で貴重品だが、オレくらいになれば手に入れることができる」


 モヒカンの店にあった予備を献上させた(奪った)ものである。

 それで何をするのか、という問いは、実に愚かだろう。スレイブ・ギアスを使って何をするのかなど、決まりきっているではないか。

 それを知っているであろうリンダの顔が恐怖で歪む。


「ひっ…!」

「いい顔をするじゃないか。そうそう、捕虜ってのはそういう顔をしないと面白くない。知性がある生き物ってのは、これだから面白い。魔獣は頭が悪いから拷問なんて意味もないしね」


 本性を現したアンシュラオンは残忍な笑顔を浮かべる。


 彼には三つの側面がある。

 一つは、普段の気軽な能天気な姿。少年のふりをしながらお姉さんの乳を堪能する形態だ。

 もう一つは、英雄としての側面。強者との戦いを楽しみ、時には弱者を引っ張り勇気付けることもする王の側面である。

 そして最後に、暴力を楽しむ側面。支配欲と残忍性が増した状態の形態だ。

 その姿はまさに人間。良いこともすれば悪いこともする。複雑な要素がいくつも絡まった存在がそこにいる。

 これからアンシュラオンは、とても酷いことをするだろう。その気配をリンダも感じ取っているに違いない。


 その証拠に―――失禁。


 殺処分される前の犬が、あまりの恐ろしさに垂れ流す尿と同じように、彼女も震え、出してしまった。


「上からも下からも出すとは…この犬はしつけがなっていないようだな。言っておくが、オレのしつけは厳しいぞ。今からそんな様子で耐えられるのか?」

「ま、待って…何でも……言うから!! 本当に言いますから!!」

「密偵は死んでも秘密を守るんじゃないのか? その点でお前は失格だな」

「お願いします! ゆ、許してください! た、助けて…ください…!!」

「ずいぶんと必死だな。何か理由があるのか?」

「ううっ…うううっ……」


 アンシュラオンが涙を流して怯えているリンダをじっくりと観察。


 そこに何か情報がないかと探すと―――指輪を発見。


 質素な銀色のものだが、金属製なのである程度の値段はするだろう。問題は、それをはめている指だ。


「左手の薬指…か。お前は結婚しているのか?」

「はぁはぁ…こ、これから……する……予定で……」

「なるほど。では、婚約指輪だな。それが許しを請う理由か」

「は、はい…」

「吐いて漏らすような犬を欲しがるやつもいるんだな」

「ううっ…」


 リンダの頬を軽く叩くと、羞恥からか赤面する。

 吐くところも漏らすところも、普通の女性ならば誰にも見られたくないだろう。

 だが、それこそ彼女が密偵として半端な存在であることを示している。


(熟練した密偵ならば、怯えることもなく死んでいくはずだ。だが、こいつには【覚悟】がない。まったくもって弱いな。…しかし、もっと気になるのは、ソイドファミリーがこいつを送ってきたことだ。まさかオレの好きにしてもいいという意味でもあるまい。単に人材不足なのか?)


 正直、密偵としては微妙な実力であるが、そう思えるのもアンシュラオンの能力が異端だからだ。

 もし情報公開がなければ、自分だって気がつかなかったに違いない。それほど自然な素人っぷりであったからだ。


「では、知っていることをすべて答えてもらおう。オレの性格は理解したはずだな。少しでも嘘を言ったらどうなるか…わかるな?」

「は、はい…!! 言います!! 全部言います!!」

「では、質問を開始する。お前はソイドファミリーの密偵で間違いないな?」

「は、はい」

「目的は?」

「ホワイトさんの…監視です。逐一情報を送れと…言われています」

「ホロロさんの情報を流したか? あのチンピラはお前たちの仲間だな?」

「はい…そうです。ダディーさんの…命令です」

「ダディー? 誰だ」

「ソイドダディー。ファミリーの…組長です」

「お前を含めて構成員は何人いる? そのダディーってやつも含めてだ」

「三十二人…です」

「麻薬の売人を含めてか?」

「…いいえ。そういう人たちは…ファミリーの販売担当の構成員が、別途雇っている人たちです。切り捨てて…いいような人を…選びます」

「っ…」


 その言葉に反応したのはシャイナ。明らかに動揺しているのがわかる。


(シャイナのやつ、やはり理解はしていなかったようだな)


 危なくなったら切り捨てる。そんなことは常識である。


「ソイドファミリーはどこまで掴んでいる? オレの素性は知っているのか?」

「…そこまでは。素顔を見たのも今日が初めてですし…。ただ、疑ってはいます」

「何を疑っている? まさか…あの子のことじゃないだろうな!!!」

「ひっ、ひぃいい…」


 アンシュラオンの視線が強まる。

 もしここでサナの話題が出たら、怒ったアンシュラオンがリンダを殺していたかもしれない。予定を前倒しにして、ソイドファミリー全員を肉片残さず抹消していた可能性すらある。

 その場合は情報が不確定なので、関係ない人間も大勢殺していただろう。だが、それでも躊躇はしない。

 サナを守る時、アンシュラオンは悪魔以上の存在となるのだから。


「ひっ、ひっ…」

「おい、さっさと言え」

「はっ、はっ……前に…領主様に……危害を加えようとした……人に……にに、似てる…と…」

「なんだ、そんなことか。くだらない」


 一気にアンシュラオンの圧力が減り、リンダが少しだけ解放される。

 しかし、まったく生きた心地がしない。またいつあの恐ろしい視線に晒されるかわからないのだ。

 徐々に精神が磨り減っていき、身体がひどくだるい。


「ふーん、で、オレがそいつと同一人物だったらどうするって? 捕まえるのか?」

「い、いいえ!! 危ないから…様子を見る…って!!」

「なるほど。だから警戒レベルが上がって干渉がなくなったんだな。そっちのことはすっかり忘れていたよ」


 レッドハンター級の構成員二名を倒し、なおかつ危険人物に似ている男。たしかに警戒するのも自然だ。


「お前たちの根城は?」

「工業街にある…倉庫区。…その郊外にある…専用倉庫……です」

「お前は全構成員の顔を知っているか? それと、その顔写真は用意できるか?」

「…し、知っています。ただ写真は…簡単には……」

「それをなんとかするのがお前の仕事だ。できなければ、どうなるかわかるな?」

「ひうっ!!」


 倒れているリンダの耳を引っ張る。耳の感度は良いらしい。


「そうそう、大切なことを訊かないとな。お前の婚約者は誰だ? 一般人ってことはないよな。普通に考えれば構成員の誰かだ」

「な、なんで…それを」

「お前のような情報を知っている人間を、一般人や他の組織の人間とくっつけるわけがない。ああいう組織は結束を固めるのが基本だからな。で、誰だ?」

「そ、それは……」

「言ったほうがいいぞ。ファミリーの人間ならば、お前ともども助けてやらんこともない」

「え?」

「本当はな、お前たちを皆殺しにしようと思っていたんだが…。そうか。結婚か。めでたいことだ。女性にとっては人生で一番大切なことだろう。オレは従順なやつには慈悲深い男だ。本当のことを言って協力するなら、お前も婚約者も見逃してやろう」

「…で、でも……」

「なんだ、不満か? そんなに死にたいか?」

「ち、違います…。で、でも…だ、ダディーさんたちは…やっぱり売れません!!」

「ほぉ、勇気を出したじゃないか。どこが気に障った? 皆殺しのところか? お前たちだけが生き延びるのは忍びないか? だが、お前はまだ理解していないな。本当の意味でわかっていない。恐怖ってものを知らない」


 アンシュラオンが立ち上がり、機械の調整に入る。

 やることは前と同じだ。空のジュエルを思念液に浮かべ、媒介の精神術式のジュエルをはめる。


「前に誰かが言っていたが、人間は拷問には耐えられない。いつか限界がやってくる。まあ、オレにそんな趣味はないんでな。そこまで非道なことをするつもりはないが…これくらいはする」




99話 「お仕置きタイム、恐怖の叫び再び 後編」


 スレイブ・ギアス。スレイブに付けられる反抗防止用の鎖である。

 もともと精神術式自体が高等術式なので、付与できるのは簡単なものに限られる。

 たとえば「服従しやすくなる」「逃げようと考えにくくする」といった程度の軽いもので、言ってしまえば【暗示】のようなもの。絶対強制はできない。

 しかも基本的に、相手側がそれを納得して受け入れねばならない。

 スレイブは自らの要望を申し出、雇い主が受け入れる。お互いに納得したうえで成立する【契約】である。

 互いの協力があるからこそ、軽度な暗示でも効果が発揮されるのだ。もちろん、それは脅迫でも構わない。相手に従う意思があれば問題はない。

 捕らえられて強制的にスレイブになる劣等スレイブなどは、脅しや拷問によって肉体的、精神的ダメージを受けて、最終的に契約に合意する。まるで、さきほどのリンダのように。


 しかし、目の前のものは少し違う。


 契約は契約でも、より凶悪なものを目指したものなのだ。

 それをリンダに説明してやる。そのほうが自分の状況がよくわかるだろう。


「これは普通のスレイブ・ギアスのような合意形式ではなく、【強制的】にギアスをかけようとするものだ。その意味がわかるか?」

「え!? そ、そんなことが…」

「まだ実験中で改良中だが、理論的にはできる。というより普通にできる。むしろ現在のスレイブ・ギアスのほうが、本来とは違う使い方をしているものだ。支配を契約というものに落とし込むことで、より一般向けに調整したにすぎない」


 精神術式には、そもそも相手側の承認などいらない。抵抗する力がなければ、そのまま勝手に支配下に置かれるだけである。

 アンシュラオンが領主城で手に入れた宝珠もそうだ。当人の知らないところで相手が攻撃を仕掛けてきていた。もし負けていれば、今頃は珠に精神を乗っ取られていた可能性がある。

 そのように本来の精神術式には、『支配する』か『支配されるか』の二択しかない。


(その意味でも、この機械を作ったやつは天才だ。相手に同意させることによって、一般のレベルにまで落とし込む。かけやすくする。そいつは精神術式を知り尽くしている。まったく、オレでさえ恐ろしいと思うな。まるで姉ちゃん並みだ)


 姉と対等という言葉は、アンシュラオンにとって最大限の賛辞である。彼が恐ろしいと思うのは姉だけなので、この機械を作った人間も同じく畏怖に値する非常に希少な存在だといえる。

 同時に、感謝もしている。

 自分に支配の手段を与えてくれたのだ。スレイブという制度ともども、これまた最大限の賛辞を与えたいものだ。


「理解したか? だからお前の同意は必要ないし、あらがってくれたほうがいい実験になる」

「そんな! まっ―――がはっ!」


 リンダの後頭部を持って、顔面を機械に押し付ける。

 相手は抵抗したいが両手足が動かないので、端から見れば無抵抗の人間にさえ見える。しかし、まだ屈服していない。彼女の心は折れていない。

 アンシュラオンがスレイブ・ギアスに関して煩わしいと思っていたのは、相手の合意が必要なことだ。

 今までスレイブを増やさなかった理由の一つが、そこにある。

 自分の好きにギアスをかけられないのが不満だったので、まずはその問題をクリアできないかを探っていたのだ。


(白スレイブが子供なのは、精神構造が柔らかくて脆いからだ。その段階ならば抵抗感なく術式を刻める。しかし、成人になると固定観念などが生まれて、それが邪魔になって上手くいかないんだ。これをなんとかしたい)


 それがクリアできれば、アンシュラオンは自分の好きにスレイブを増やすことができる。

 サナのような白スレイブに限定すればなんら問題はないが、それだと妹しかできなくなってしまう。

 アンシュラオンは【姉】も欲しいのだ。

 マキや小百合、ホロロのようにすべての女性が魅了されるのならば問題ないが、シャイナのような人間が出てくる可能性もある。

 また、リンダのように敵対する勢力の女性を入手することもあるだろう。

 支配するにせよ懐柔するにせよ、あるいは利用するにせよ、そういったときのために対策は必要だ。そのための実験でもある。


「逆にありがとうな。自分から進んで実験台になってくれるなんて、本当に嬉しいよ。やっぱりオレから強制するのは悪い気がするしさ。逆らってくれてよかったよ」


 さすがに従順な女性にこれをやるのは心苦しいので、逆らってくれて大助かりである

 逆らった相手ならば、遠慮せずに実験することができる。気分もいい。後味も悪くならない。


「これはオレとお前の精神の勝負だ。お前が強ければ耐えることができるだろう。さっきみたいにオレに逆らってみせろ。それができればだがな」

「ひっ、ひっ!! や、やめっ、がっ!!」

「さあ、楽しもうぜ」


 アンシュラオンが強いイメージ波を送る。

 サナに送った時とはまるで違う支配的で暴力的なものであり、ただ使役されるためだけに生きている【道具】としてのイメージ。



 それはまさに―――【奴隷】。



 そのイメージを強く、強く増幅させ、リンダに向かって放り込む。


「あああ、ああっ!!! あーーーーー!!」


 婚約者の顔が見える。粗暴な面もあるが、自分には優しい笑顔を向けてくれる人。

 一緒に婚約指輪を買いに行って、結婚も誓い合った大切な人。



―――破壊



 白い力が拡大して、濁流となって掻き回し、今までの記憶すら埋没させて粉々にしていく。

 叩き伏せ、叩きのめし、殴りつけ、何度も何度もシェイクしていく。そのたびに婚約者の顔が、古ぼけた映画のフィルムのようにノイズが入って見えにくくなっていく。

 リンダは必死に抵抗するが、魔人と人間が対等なわけがない。この男と精神力で勝負するなど最初から不可能なのだ。

 混濁した意識が正常な思考を奪っていくと同時に、奴隷としてのイメージを送り込む。

 あらゆる命令に従う道具としての自分、という精神構造を植えつけていく。



 ガンガンガンッ バキバキバキッ (壊す音)

 ジージーージーーーー (白いノイズの音)

 ギリギリリギリギリ (イメージを力づくで押し込む音)


 ガンガンガンッ バキバキバキッ

 ジージーージーーーー

 ギリギリリギリギリ


 ガンガンガンッ バキバキバキッ

 ジージーージーーーー

 ギリギリリギリギリ


 ガンガンガンッ バキバキバキッ

 ジージーージーーーー

 ギリギリリギリギリ



 そして―――あっさりと屈服。


 リンダの精神が圧倒的な力によって強引に削られていく。

 一番つらいのは、大切な思い出が消えていくこと。浅い眠りの中で見る夢のように、それが現実か夢かもわからなくなり、次第に古ぼけていく。

 それを削岩機のようなものが、ガリガリと砕いていくのだ。強く意識を保っていなければ、徐々に自分のことすらも思い出せなくなりそうだ。


 人が、人でなくなっていく感覚。


 人が人足りえるのは知性があるからだ。それが失われれば、もはや動物にさえ劣ってしまう。

 人間の知性の根源である霊、それを表現する精神、媒体である肉体。霊は不滅なので壊せないが、その中間にある精神を操作することで、霊からの情報を遮断し、物的な奴隷に変えることができる。

 脳が欠損すれば精神が表現されないように、精神への攻撃は霊にとっても非常に危険なのだ。



 リンダが―――絶叫。



 自分の精神が滅茶苦茶にされる恐怖が、彼女から人間の体裁というものを捨てさせる。

 泣き叫び、再び失禁し、吠えるように懇願する。


「ひーーーーひぃいいいい!!! た、助けてええええ! イヤだ、イヤだ、イヤだぁあああああ!! もう嫌ぁああああああ!」

「うーん、やっぱり抵抗が強いな。お前、余計な倫理観とか考えていないか? そんなくだらないものは、さっさと捨てろ。散々他人の人生を貪ってきたんだ。お前にそんな資格はない。それと婚約者への未練も捨てろ。それが邪魔をしている。捨てないと人格の部分まで壊れるぞ」

「むりむりむり!! 無理ぃいいい! いやああああああ!! やなのおお! これは嫌なのおおおお!」

「指輪は没収する。さっさと未練を捨てろ」


 指輪は没収。こんなものがあるから未練が残るのだ。

 だが、逆効果だったのか、リンダの抵抗は強まるばかりだ。


「やだ! 返して!!! ゆびわぁあ!! かえしっ…あああーーー!!」

「言っておくが、あと数分この状態が続いたら【廃人】だからな」

「ひっ!?」

「実はな、前にお前みたいな密偵の女を捕まえて四人ほど試したんだが…【全員失敗】している。自我が崩壊して、ただの壊れた人形みたいになっちまった。そいつらはどうなったと思う? なあ、どうなったと思う?」


 リンダの股間に、ぐいっと手を入れる。それも優しくではなく、少し強めに押し上げる。

 女性の大切な部分に触れられ、リンダがビクンッと弾ける。だが、頭を押さえられているので動けない。


「ひっ、ひっ、ひっ!!」

「売ったよ。【ラブスレイブ】としてな」

「っ!!」

「お前も、もうすぐそうなる。そうなったら婚約指輪は返してやろう。そのほうが興奮する変態もいるだろうしな」


 その女たちは、モヒカンの管理するラブスレイブ専門の館に売り払った。

 実験失敗は非常に残念だが、もう自分の世話すら満足にできないので、他人に飼われるしかないのだ。

 世の中には、女性を犬のように扱って楽しむ変態もいる。そういう客には喜ばれるだろう。

 このままではリンダも、もうすぐ仲間入りである。


「やっ!! やだあぁあああ!! いやああああああああああああああ!」

「そんなことを言われてもな。オレだって失敗したくてしているわけじゃない。お前たちが反抗するからだぞ。自業自得だ。力もないのに反抗して、そんなことをしたらどうなるか…わかるだろう? お前たちがいつもやっていることだからな」


 こうしているとかわいそうに見えなくもないが、リンダは麻薬組織の一員である。

 彼らがやっていることを忘れてはいけない。力の流儀に従って、相手を支配しようとしているのは同じである。

 ただ、アンシュラオンのほうが強いにすぎない。圧倒的に強いにすぎない。


「オレのほうがお前より強いってことだ。ならば、オレにはお前を好きにする権利がある。だが、うーむ。また失敗か…さすがにショックだな。やっぱりやり方が間違っているのかもしれん。どうやっても機械の安全装置が解除できない。やっぱり自分で術を学ぶしかないのかな…」

「許して!! 許してえぇええええ!! お願いですぅううう! お願いぃいいいいいいいい!!!」


 アンシュラオンの興味が自分から離れていくのを感じ、リンダは叫ぶ。

 それはつまり、もうどうでもいい存在になりつつあるということ。自分が何の価値もない廃人になることを意味していた。

 目の前の少年は、それでもいいと思っている。

 どうせ皆殺しなのだ。また誰かを捕まえて情報を訊き出せばいいと思っている。仮に誰もしゃべらなくても、あと三十一回、それを繰り返せばファミリーは全滅だろう。

 たったそれだけのこと。

 男も女も婚約者も関係ない。彼には理由なんて必要ない。殺すことに動機は必要ないのだ。


 そのことを悟り―――ひたすら懇願。


「お願い、お願い、お願いしますううううう!!!! お願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いぃいいいい!!」


 その言葉は心の奥底から出たもの。魂から搾り出した声。

 それを聴き、少しだけアンシュラオンに興味が戻ってくる。


「しょうがないな、最後のチャンスをやろう。今後オレの言うことはすべて聞け。少しでも逆らったら廃人にして売り飛ばす」

「ひいい…ひぃいいい。うぇえええええええ!!」

「返事はどうした? オレはあまり気が長くないぞ」

「はいいいっ!!! はい、はい、はいっ!!! 聞きます!!! 聞きますからぁああ!!」

「なんだ、その言い方は。喜んで聞くのが筋だろうが!! 『はい』は一度だ。言い直せ!」


 股間に入れた手をぎゅっと握る。その気になれば女性器ごと抉り取ることも簡単だ。

 その圧力に、涙でぐしゃぐしゃのリンダの顔がさらに歪む。もうどんな表情なのかわからないほどだ。


「やぁああああああああああ!!! はい! 聞きます! 喜んで聞きます!! だからお願いします!! お願い…しますぅうう」

「ふん、まだまだしつけがなっていないが…いいだろう。手がお前の小便塗れになっちまった。…舐めろ」

「は、はひぃっ! ぺろぺろ…ぺろぺろ」

「しゃぶりつけ」

「は、はい!! んっんっ…ちゅっ、ちゅぱっ…んっ…」

「案外上手いじゃないか。そっちのほうは仕込まれているようだな。このメス犬が」

「ううっ…」


 リンダを床に放り投げ―――命令。


「オレがもういいと言うまで、床に口付けをしていろ。少しでも口が離れたら続きを行う」

「はひっ! はひっ!!」


 リンダは口を床に押し付けて、声が漏れないように必死に口を塞ぐ。

 その頭に足を乗せ、さらに押し付けるが抵抗するそぶりはない。

 完全に心が折れたようだ。

 少し物足りないが仕方ない。すでに屈した相手を潰す理由もないだろう。


「もっと抵抗してくれたら、半分くらい自我を壊してやってもよかったんだがな…。そいつをお前の婚約者に見せ付ける楽しみがなくなったよ。残念だが、違う余興にしよう」


 なかなか楽しそうな再会シーンが見られると思ったが、案外根性がなかったようだ。他の密偵は最後までがんばったというのに。

 ただ、最後のほうは命乞いをしていた気もするが、よく聴こえなかったのでしょうがない。誰につくかを見誤った段階で、彼女たちの人生は終わっていたのだ。

 この男は敵を絶対に許さない。これは彼に敵対行動をした当然の罰である。




100話 「シャイナの事情 前編」


 それから、完全に怯えきっているシャイナに向かう。

 目の前でこれほどの暴力行為が行われれば、誰だって怯えるに違いない。

 なぜならば、次は自分なのだから。


「っ…」


 アンシュラオンの歩みに反応して、シャイナが震えた。


「どうした? 怖いのか?」

「こ、怖い……そりゃ怖いですよ」

「そんな感情は初めて見せたな。仕事中はずっと一緒にいただろう」

「で、でも、こんなに……非道で残虐で最悪じゃなかったです」

「ははは、オレの評価もずいぶんとパワーアップしたな。それ以上の言葉は、なかなか見当たらないぞ。だが、これも本当のオレだ」


 ホワイトという仮面を脱いだアンシュラオンの顔。

 人も救うし助けるし、脅すし支配するし、躊躇いなく殺すこともある。表と裏合わせて一つの存在である。

 どれか一つでも欠けたら自分ではなくなる。


「次はお前が見せる番だ。本当の自分を…な」

「本当の自分って…私はいつだって……」

「言っておくが、お前がソイドファミリーとつながっていることは知っている。麻薬を売りさばいていたな。あんな変な覆面まで被ってさ。正直、目を疑ったぞ」

「つ、つけていたんですか!?」

「そりゃまあ、助手が挙動不審だったら普通はそうするだろう。これも上司の仕事だ」

「普通はしないですよ!? ストーカーじゃないですか!」

「実際、後ろ暗いことがあったんだ。つけておいてよかったよ。それにしても、まさかお前がな…。それでよくオレに偉そうな口が利けたもんだよ」

「あ、あれは…パウダーです! マッサージ用の白い粉です!」

「そんなに言うならお前にも塗ってやろう。腹を出せ!」

「きゃっ! や、やめてください!! くすぐったい!!」

「あっ、これは本物だった」

「ぎゃーーー!!」


 うっかり調査用に手に入れた本物をまぶしてしまった。

 肌に塗る分には『少ししか』問題ないので大丈夫だろう。どうせこいつは頭の中まで粉塗れだ。いまさら気にする必要はない。


「どうせつくなら、もっと面白い嘘にしろって。お前もああなりたいのか?」

「ひっ…まだ土下座してる!!」


 リンダはまだ土下座のような格好でいる。アンシュラオンから解除の命令がないので、ひたすら動かないように我慢しているのだ。

 涙を流し、口から血を流し、恐怖で震えている。ついでに下も漏らしている。

 アンシュラオンにとっては最高の眺めだが、シャイナからすれば非日常の恐ろしい光景に違いない。


「お前はオレを怖れているようだが、あいつが言っていたように売人の末路も似たようなものだぞ。裏に一歩でも足を踏み入れれば、力の流儀に従わねばならないからな」

「………」

「さて、一つ一つ順を追って訊こうか。オレに近づいた目的は何だ?」

「そ、それは、本当に興味本位で…名医がいると聞いたから…」

「運が良かったな。もしまだ実験中だったら、今の発言でお前も廃人になっていたところだ」

「厳しすぎる!?」

「当然だ。オレとサナの生活の邪魔になるのならば、女であっても容赦はしない。ほら、本音を言え。さっさと言え。言わないとどうなるか、頭の悪いお前でもわかったはずだぞ」

「やっぱり先生は…最低です!」

「麻薬中毒者を増やしているお前に言えた義理か?」

「っ!! そ、それは…」


 シャイナが一気に泣きそうな顔になる。自分でもその罪の重さを痛感しているのだろう。

 だが、やめられない理由があるのだ。やる理由があるのだ。

 普通なら「そんなの知るか」で終わらせるところだが、関わってしまった以上は仕方ない。関わろうと思ったのだから例外である。


「はっきり言うぞ。お前にあんな姿は似合わない。あんな恥ずかしい覆面を被って何をしている。それでお前は満足なのか?」

「そんなわけ…ないです。誰があんなこと…好き好んで……あんなのは最低です。先生よりも最低です。自分でも最低の気分です」

「若干気になる言い方だが、最低であることは理解しているようだな。どうやら根本の原因がそこにありそうだ。さっさと吐け」

「い、嫌です。ぷ、プライバシーの問題です」

「そうか。それならばそれでもいい。ただ、一つだけお前に言っていこう」

「な、何ですか? 脅すんですか? いいですよ! 私はべつに怖いものなんてもうないですからね!」


 とうそぶく姿が、すでに子犬そのものである。弱いからキャンキャンと吠えるのだ。

 本当の恐怖を知った人間は、今のリンダのように震えて動けなくなる。吠えることもできない。

 それを知らない彼女は幼い。その豊かな身体に似合わず、頭がまだまだ子供である。


(ここまできても、まだ【甘える】か。それもまた可愛いといえば可愛いけどな)


 彼女はまだアンシュラオンを信じている。心のどこかでは頼っている。自分には酷いことはしないと思っている。

 そうした甘える姿が、少しだけ愛らしく思えることもある。あくまで犬として、ではあるが。

 だが、次のアンシュラオンの台詞は、シャイナにとってあまりに意外なものであった。



「オレはソイドファミリーと手を組む」



「…え!?」


 その言葉にシャイナが目を丸くして驚く。

 ホロロもわずかに表情を動かしたが、すぐに戻る。アンシュラオンのやることにメイドが何かを言うわけもない。

 リンダは恐怖のほうが強いらしく、耳に入っていないようだ。

 少しずつその言葉の意味を理解したシャイナが、恐る恐る訊ねる。


「ど、どうして…? 麻薬組織ですよ? 危ない連中ですよ?」

「それがどうした? オレにとってはべつに危なくない。お前も酒場のチンピラをボコッたのを見ただろう。オレは強い。問題はない」

「そんなのおかしいですよ!!」

「何がおかしい?」

「せ、先生は麻薬中毒を治せるんです!! だから、あんなのと一緒になったらいけないんです!」

「言っていることが滅茶苦茶だな。オレはたしかに治せる。そのオレに対して、お前は治すことを希望している。だが一方で、お前は中毒者を増やしている。この矛盾をどう説明するんだ?」

「そ、それは……。でも、だからこそ先生がいないと駄目なんです…」

「なるほど、『医者と麻薬組織がグルになる』ことを希望しているのか? それならばオレと同じ意見だな」

「え? な、なんですか、それは!?」

「わからないのか? 警察と犯罪組織がつながるのと同じだよ。オレは治療を適度に制御しつつ治らないように調整する。あるいは麻薬を併用した治療を行う。もしくは、オレが治してまた中毒にして、また治してまた中毒にするを繰り返し、金を貪り続けるのも悪くない。お前が言うのはそういうことだろう? ならば、オレと同じ意見だ」


 アンシュラオンは身体を治すが、精神はまだ治っていないので再び中毒になる。誘惑してやれば、そういった人間は簡単に戻っていくだろう。

 なまじ身体が健康なので、しっかりと働いて金を稼ぐこともできる。彼らは懸命に働くだろう。麻薬のために。

 当然再び中毒になるので、頃合を見て治してやり、また中毒にさせる。この繰り返しならば医者も麻薬組織も両方とも儲かる仕組みだ。どちらも損はしない協力関係が築ける。


「そうなればお前も儲かるよな。だからこの前、麻薬中毒者を治療しないことに怒ったんだろう? なるほど、筋が通っている。納得したよ。あいつがあのままじゃ、自力で金も稼げないからな。それより治したほうがいいもんな」

「な、なんですか…!! そんなわけないじゃないですか! 私はただ、純粋に治ってほしいからああ言って…」

「だったらどうして、あいつらに麻薬を売った? 中毒が酷くなるだけだろう」

「あれは…先生が治療をしなかったから、せめて少しでも良いものをと…」

「何か面白いことを言ったな。どういうことだ?」


 アンシュラオンの追及に心が疲弊してきたのか、それとも言ってしまったほうが楽になるのか、シャイナがようやく重い口を開いた。


「私が配っていたのは…【コシノシン】です」

「コシノシン…二等麻薬だったか?」

「麻薬じゃありません。作用は似ていますが、昔からある【鎮痛剤】です」

「もともとは同じものだろう?」

「原材料は同じです。でも、抽出した成分が上質なので、副作用が少ないんです。快楽成分はコーシン粉ほどではありませんが、鎮静効果が強くて同じように気持ちが落ち着きますから、安い麻薬を使うよりは遥かに身体にはいいんです。…もちろん、使わないのが一番ですけど」

「詳しいな」

「勉強しましたから…」


 三等麻薬のコーシン粉を、さらに特殊な水や酢酸などに浸して合成していくと、二等麻薬である「コシノシン」が出来る。

 これは麻薬といえば麻薬であるが、鎮痛、鎮静剤としての効用が高い【医療麻薬】になる。副作用が比較的少ないので、二等麻薬に認定されているものだ。

 昔からグラス・ギースで使われているのは、このコシノシンなのだ。痛みをかなり抑制できるので末期患者には常用されることもある。

 ただ、その分だけ値段が高い。


「いつからかは知りませんが…たぶん私が生まれるよりも前からですけど、安い麻薬…鎮痛剤になる前のものが流通を始めたんです。コシノシンに合成すると量が半分以下になるんです。だから、その前のものが流行ったんだと思います。手間も少なく値段も安いですし…」

「それがコッコシ粉とコーシン粉か」

「…はい。それで中毒者が増えて…治安も悪くなったことがあったようです。今は少し取り締まりもありますが…あまり徹底はされていません」

「酒と同じく、金のないやつらの捌け口だからな。簡単になくすわけにもいかないんだろう。が、相変わらず病んでいるな。この都市は」


 グラス・ギースの経済が進化しなくなり、失業者や貧困者が増えれば増えるほど、こういった闇の部分は増えていくことになる。

 それをどうにかしようにも打開する術がないので、停滞を続けるしかない。それによってまた不満は溜まり、麻薬の需要も増えていく。

 まさに負の螺旋。抜け出せない泥沼だ。


「だが、お前が売人をやることにはつながらないな。中毒者を治したいなら、普通は医者になるだろう」

「だから目指しているんです。それは本当です」

「ならば、なぜ売人をやっている」

「それは…その……」

「まさかさっき言ったように『治せないならばせめて、少しでもましな良い麻薬をくれてやりたいから』じゃないだろうな」

「そ、それもありますけれど…」

「あるのか!!」

「ひゃっ、な、なんですか、いきなり」


(こいつは…思った以上の馬鹿かもしれん。だが、馬鹿に馬鹿と言ったところで意味はない。せっかく話し始めたんだ。我慢するか)


 その発想は、放っておくと外で借金をするから、仕方なく親が貸すのと同じパターンだ。

 結局何も変わらないどころか、相手は甘え続けるので死ぬまで抜け出せなくなる。根本の問題が解決されていないからだ。

 シャイナもそれと同じ。甘い、甘すぎる。間違った方向に甘さが出ている。

 それを馬鹿だと罵るのは簡単だ。だが、その人間の行動には、自分なりの理屈があるはずだ。

 今はそれを尊重しておこう。また話が滞るのは面倒だ。


「しかし、それはあくまで自分を納得させるための口実だろう。実態は何だ? その根幹部分だ」

「借金があって…」

「このあばずれが! やっぱり遊んでやがったな! あとで調教してやるから覚悟しろ!」

「思いやりの言葉がまったくない!? 違いますよ! 私のじゃありません! …その……お父さんので……」

「父親の借金をお前が返す義務はないだろう。と、この都市での法律は知らんがな」


 日本では相続をしない限りは、親の借金を子供が返す義務はない。相手は心情に訴えて迫ってくるが、義務はないので払う必要はない。

 そんなやつには焼いた木を尻につっこんであげよう。「超気持ちいい!」と泣いて喜ぶに違いない。

 が、それは普通の債権者の場合である。


「相手は麻薬組織ですよ。そんなの通じません」

「それで肩代わりか? 父親はなんで借金を負った? ギャンブルか? 女か?」

「…麻薬…です」

「終わったな。負の連鎖とはこのことだ。借金はいくらだ?」

「五百万です」

「うむ、多いな。利子で増えたか?」

「…それもありますけど、お父さんが麻薬を持ち逃げして…。その代金が大半です」

「持ち逃げか…。どんだけ駄目なんだ、お前の父親は」

「最低ですよ。先生よりも」

「その言い方はやめないか?」


 どうあってもアンシュラオンと比べたいようだ。そんなに自分は最低だろうか?




101話 「シャイナの事情 後編」


(これでシャイナが、麻薬中毒者に対して大きな反応をする理由がわかったな。父親が麻薬に溺れて借金を作って、その負債を肩代わりしている。となれば過剰反応して当然だろう)


 しかも皮肉なことに、自分が麻薬を売って相手をさらに中毒の螺旋に引きずり込んでいる。まさに泥沼だ。

 だが、まだ疑問がある。麻薬を売っていた点だ。それほど憎むのならば普通はやらないだろう。


「売人をやっているのはなぜだ? 脅されたからか?」

「はい。父親は…売人だったんです。その代わりをやれと言われて…」

「なるほど。だから持ち逃げができたか。しかし、お前は女だ。売人じゃなくても娼婦の選択肢もあっただろう?」

「ひどい!? それは…無理です。ああいうのは…無理です」

「自分の身を汚すより、相手が不幸になるほうが楽だもんな。責めはしないさ」

「それって責めてません!?」


 地味にさっきの仕返しをしたりする。


「父親はソイドファミリーの一員か?」

「…いいえ。そのさらに下です」

「お前の立場と同じ…ということか。皮肉なものだな」


 人生とは不思議なものである。なぜか忌み嫌うものと関わることになる。

 ただ、それもまた彼女の弱さ。父親への甘さが招いたことだ。


「父親はどこにいる?」

「都市にはいません」

「ん? 逃げたのか? ならば借金など無視してもよさそうだが…」

「捕まって収監されているんです。都市内部ではなく、第三城壁の【収監砦】の一つにいます」

「捕まっているならちょうどいい。そのまま見捨てればいい。そこならやつらも手は出せないだろう」

「そんなこと…できませんよ。囚人には同じように捕まった売人がいて、そういう人たちに監視されているんです。お前の父親なんていつでも殺せるって…」

「やれやれ…だな。そこまで真っ黒か」


(ソイドファミリーは、どうやら収監砦の衛士たちとつながりがあるようだ。当然だな。麻薬は都市に必要なもの。おそらく背後には大物がいるんだろう。領主の可能性もあるが…最終的にはそこを押さえないと駄目だな)


 グラス・ギースの収監所、正しく言えば北東の砦の一つを使っているので【収監砦】だが、そんな施設を私的に使える以上、都市の中枢にかなり近い人物が裏にいると思われる。

 ソイドファミリーを壊滅するだけではなく、その人物を押さえないと螺旋は止まらないようだ。

 それが領主ならば今度こそ遠慮なく殺すが、それ以外の可能性もある。リンダが知っていればいいが、知らないとまた調査の必要がある。


 まとめるとこうなる。


 元売人のシャイナの父親は麻薬を持ち逃げして捕まり、収監され監視もされ、その駄目な父親の借金で脅され娘も売人稼業にまっしぐら。

 娘は甘いので父親を見捨てられない。それどころか治せないなら麻薬中毒者にもう少しましな薬を、とか言う始末。

 仮に借金を返しても、売人であった事実は変わらない。今度はそれをネタに脅されるだろう。

 足を洗って新しい職場に就職しても「そいつは昔、売人だったんだ」と吹聴され、上司などが襲われて怪我をさせられれば居場所がなくなる。

 末路は再び売人か、シャイナならばやはり娼婦といったところ。相手は死ぬまで搾り取ろうとしてくるはずだ。

 覚悟を決めたアンシュラオンでさえ、嫌気が差すような現状である。


「まだ疑問がある」

「…もう疲れましたよ」

「お前が疲れているのは自分の人生にだろう。やっていることに矛盾があって、それに満足していないからだ」

「自分勝手な先生には、私の苦悩はわからないですよ!」

「たしかにわからんな。お前のことはまったく理解できん。イタ嬢と同じくらい理解に苦しむ」


 強い人間には、弱い人間のことはわからない。それもまた事実だろうが、実態は違う。

 強い人間も最初から強かったわけではない。さまざまな人生を経験して強くなったのだ。強くなれることを知っているからこそ、弱い人間に強く言うのだ。

 ただ、そこに至っていない弱い人間には、それを理解できないにすぎない。つらい道の途中で、がんばればその先に明るい世界が待っていると言っても、見たことがない人間には信じられないので歩みを止めてしまう。

 今のシャイナに何を言っても理解はできないだろう。それは仕方がない。

 だが、疑問は解決しておかねばならない。


「結局、お前がオレに近づいた目的は何だ? ソイドファミリーに言われたからか?」

「自分の意思です。先生が麻薬中毒者を治したと聞いて、もしかしたら治す方法がわかるかもしれないと思ったんです。でも、全然駄目。あんなの無理です」


 シャイナは、アンシュラオンから治療方法を学ぼうと思った。将来はそれを生かして罪滅ぼしをしたいと考えていた。その前にまず、自分の父親を治せれば光が見えるかもしれないと思ったのだ。

 だが、命気という馬鹿げた治療法の前に、その希望も潰えた。

 なまじ希望が見えただけに、それは彼女の心をズタボロに切り刻んだ。


「私には何もできないんです…ほんと……最低」

「うむ、最低だな。そのイライラをオレにぶつけていたとは、あとで全部払ってもらうから覚悟しろ」

「慰めてくれないんですか?」

「じゃあ、尻を出せ」

「そっちじゃないですよ!!!」

「それが一番だと思うけどな」


(あらかた聞き終えたか。今の精神状態では、これ以上は無理だな。あとはおいおい問いただせばいい)


 シャイナの事情はだいたい理解できた。予想以上のこともあったが、概ね想定内である。

 イレギュラーもあったので計画に多少の変更は必要であるものの、やること自体は変わらない。


「さて、さっきの話に戻るぞ。昨晩、ソイドファミリーにメッセージを送った。近いうちに相手から接触してくるだろう」

「そ、そんな…そんな……駄目ですよ…」

「お前とオレはお仲間になった、ということだ。これからもよろしくな。一緒に儲けようぜ。弱いやつらを食い物にしてな。はははははは!! 弱いやつをいたぶるのは最高の気分だもんな!!」

「っ!!」


 パンッ!

 シャイナがアンシュラオンの顔を殴った。

 素顔だったので、思わず手が出てしまったのだろう。仮面の時はバットだったし。


「―――つっ!!」


 しかし、逆に自分の手を痛めてしまったようである。肉体そのものが違うから当然の結果だ。


「お前な、女の子なんだからグーじゃなくて、せめてビンタにしろよ。拳を痛めただろう? 慣れていないと拳で殴るのは難しいんだぞ。馬鹿なやつだ」

「先生は最低です!!」

「お前もな。悪党ぶりはオレ以上だよ。いやはや、お前には負けた。偽善者ってのは、まさにお前のことを言うんだな。いや、実に見事だ。オレより非道なやつが、こうも目の前にいるとはな。オレもまだまだ修行不足だな」

「違います! 私は…私は……お父さんが…麻薬で…なったから……ううう!」

「シャイナ。泣いても誰も助けてはくれないぞ。ここはそういう世界だろう?」

「そんなの、そんなの、ううう、うわぁあああああ〜〜〜んっ」


 ついに犬が泣いた。

 溜まっていたものが全部出たのだろう、子供のように大泣きだ。


「ニヤニヤ、哀しいのか? ううん? つらいのか? あん? ほれほれ、もっと泣けよ。つんつん」

「うぇえええ〜〜〜! 先生の馬鹿ぁああ〜〜〜! 最低だぁあ〜〜〜!」

「うん、ありがとう。泣いているやつを見ると、もっと虐めたくなるんだ」

「人間として最低ですよぉお! うわーーーーんっ!」


(うむ、ファテロナさんの気持ちもわかるな。虐めたくなるというのは、こういう心境か。楽しくてしょうがない)


 もともとアンシュラオンもドSなので、ファテロナとは気が合うのだろう。

 もっと言ってしまえば、パミエルキもドSである。残念ながらドSとドSが出会うと、より強いドSが上位に君臨するので、他の者が必然的に受けに回らざるをえない。

 アンシュラオンはそういうストレスも抱えていたので、今自分が上位のドSになったことに快感を感じているのだ。

 彼が弱者をいたぶって楽しむのは、こういうことも要因である。実に楽しい。


「………」

「…サナ?」


 そんな時、今までずっと見ていたサナが椅子から降りて、トコトコ歩いてきた。

 そのまま一直線にシャイナに向かっていく。



 そして、目の前まで行くと―――頭に手を置いた。



「…ナデナデ」

「うえぇ〜〜んっ」

「…ナデナデ」

「ひっく、ひっくっ……」

「…ナデナデ」

「…くろひめ……ちゃん?」


 サナはシャイナの頭を撫でる。その姿は、まるで彼女のほうが年上に見えるほどに穏やかで深みがある佇まいだ。

 深く、とても深い黒が、その罪さえも吸収してしまう。

 闇はいつだって優しい。どんなに真っ黒になった者さえも受け入れる。


「…じー」


 それからアンシュラオンを見た。

 その目に非難はない。ただただ純粋な瞳だけがそこにあった。


「…サナ、シャイナを許すのか?」

「…こくり」

「こいつは売人で、言ってしまえば敵側に加担しているやつだぞ? 最低のクズだ」

「…ふるふる」

「違うって?」

「…じー」

「………」


 サナがアンシュラオンを見つめる。見つめ続ける。


 それで―――折れる。


「わかったよ。あまり意地悪するなってことだろう。子犬みたいだからな、つい遊んでやりたくなっちまう」


 遊び方がおかしいことには触れないでおく。

 それからサナと同じように、アンシュラオンもシャイナの頭に手を置く。


「安心しろ、とは言わないが、お前が想像しているようなことにはならん。ソイドファミリーは潰す予定だ」

「…え?」

「偵察程度ならば放置してもよかったが、オレに直接喧嘩を売った以上、許すわけにはいかん。皆殺しにする」

「っ!」


 それに反応したのは、シャイナではなくリンダである。

 ようやく少し落ち着いたのか、アンシュラオンが言っていたことを思い出したのだ。

 アンシュラオンはリンダのところに行き、髪の毛を引っ張って顔を引き上げる。


「うぁっ…」

「リンダ、もう一度だけチャンスをやるぞ。さっきも言ったがオレに全面的に協力しろ。まあ、お前に選択肢などはないが、従順な女は嫌いじゃない。もし条件を呑むなら、お前と婚約者だけは見逃してやろう。これが最後のチャンスだ」

 さきほどは一度抵抗したが、今のリンダにそんな力は残っていなかった。

 ただ頷くことしかできない。


「わかり…ました。でも…あの人が納得するか……」

「するさ。オレがそうさせてやる。ただ、相手がお前を見捨てるかもしれん。その場合、男は殺すしかないな」

「………」

「要するにお前たちの愛次第ってわけだ。従っていれば悪いようにはしない。それで納得しろ」

「…はい」


 こうしてリンダは落ちた。

 あとは婚約者のほうだが、そこは愛次第だろう。そこまではどうにもできない。

 そもそも男を生かすのだ。出血大サービスである。チャンスをあげたこと自体に感謝してもらいたいものだ。


「私のこと…どうするんですか? その人みたいに…」


 それを見たシャイナが、ようやく自分の身を心配する。

 少しはまともな思考力が戻ってきたらしい。まったく面倒な女である。


「してほしいならするが、お前にそこまでの価値はないだろう。オレに付きまとった理由も、あまりにくだらないものだったしな」

「そんな! 私にとっては大事ですよ!」

「お前にとってはな。だが、オレには興味がないことだ。正直に言えば、お前自身にもあまり興味がない」

「女性が好きじゃないんですか? それとも私は好みじゃないんですか?」

「そうだな、見た目は嫌いじゃない。金髪生乳モンスターもコレクションには加えたいが…オレが好きなのは『従順な女』だ。ホロロさんのようにな。ぐにぐに」

「あっ! ホワイト様!!」


 ホロロの股に手をつっこむ。いい感触である。

 恥じらいながらも我慢している感じがいい。アンシュラオンの嗜虐心と支配欲を刺激してくれる。


「ほら、ホロロさん。こういうときは何て言うの? 教えたでしょう?」

「はぁはぁ…いい、気持ちいいです。好き! 触られるの、大好きです!!」

「よしよし、いい子だ」


 ご褒美にもっと股間を撫でてあげる。そのたびに顔を真っ赤にさせて身体を震わせる。


「舌を出して」

「は、はい」

「指を舐めて」

「んっ、んっ…ちゅぱっ、んちゅっ…はぁはぁ! 早く、早く奪って! 私の処女を奪ってください!」

「まだ駄目だよ。もっと焦らしてからね。熟れたほうが美味しいからさ」

「はぁはぁ!! あああ!」


 ガクガクと痙攣して―――達する。

 立っていられなくなったのか、床に膝をつくも、それでもまだ指を舐めている。

 その光景にアンシュラオンは大満足だ。まさに従順な女である。


「こんな感じだ。お前にできるか?」

「無理です!」

「そうか。それも個性だな」

「個性というか…普通だと思いますけど…。先生って、本当に人間として駄目すぎる気がします…」

「オレからすれば、自分の意思や信念を貫けないほうが駄目な人間だと思うがな。お前は、自分を利用しているやつらを潰そうとは思わないのか?」

「そんなこと…できたらしています」

「負け犬だな。その根性を少し叩き直してやる。ほら、股を開け。気持ちよくしてやる」




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