684話 「クルマと駆逐艇」
アンシュラオンが第八階層を駆け抜けている頃、ガンプドルフたちは第一階層から第二階層へと進み、制圧戦を開始していた。
今回の作戦は、いくつかの段階に分かれている。
まず、アンシュラオンが先行して鬼怒獣たちが負けないように誘導援護しつつ、第十五階層にまで突入させる。
これに続くことによってゼイヴァーも比較的安全に戦艦まで到着できるはずだ。実際にトラップの援護があったおかげで犠牲なく進めている。
その後、ラノアと戦艦を救出して脱出するわけだが、退路を確保する必要がある。それを主力部隊が行っているのだ。
第二階層の制圧も魔人機や爆薬を使うことで完了。かなりいいペースだが、ここからが本番である。
「これより先は、私のミーゼイアと一部の主力部隊だけで進む! 残りは退路の維持に務めろ!」
完全制圧するのは第二階層までとなった。
あわよくば第四階層くらいまで行けると思っていたが、あまりに広すぎるために、これ以上の制圧戦は物量的に不可能なのだ。
すでにDBD隊は物資の大半を使ってしまっている。残りは維持に回さねば、一番大事な退路すら守れないからである。
「行くぞ! ミーゼイアで蹴散らす。打ちこぼしを的確に叩け!」
「第二突入部隊は、閣下に続け!」
ガンプドルフと重装甲兵三十人が、第三階層に移動を開始する。
残った騎士と兵士、およそ百二十人は、第一と第二階層の維持に回される。数だけはいるように見えるが、この大空洞内部ではこじんまりとした集団でしかない。
残りの弾薬をすべて使っても制圧した階層を守りきるのが精一杯だろう。万一外から援軍がやってきたら全滅する可能性もある。
「サナ様、私たちも参りましょう」
「…こくり」
「運転は任せてくださいね!」
「準備できました! もし何か飛んできても盾で防ぎます」
「こっちも準備万端です。ラノアを助けるためなら何でもします!」
今回は運転を小百合に任せ、サナとサリータ、ホロロが屋根の上に出ている。
ホロロは主砲を撃つ役割と同時に、その目を生かして状況を把握する。彼女は剛徹守護の腕輪も持っているので、奇襲を受けても数秒なら攻撃を防げるのが強みだ。
サリータは一番前に立ち、飛んでくるものからクルマ全体を守る役目だ。攻撃されずとも蜘蛛の死骸やら残骸が飛んでくるので、それを防ぐのである。
サナは最大戦力なので、いつでも動けるように外にいるのがベストだろう。
セノアは爆発矢をセットしたボウガンを持って車内にいる。窓から援護射撃するだけでも十分役立つし、物理障壁も使えるため比較的安全だ。
ただし、あくまでガンプドルフのオマケ。主力は騎士団である。
「サナ様、今は我慢です。彼らの事情で巻き込まれているのですから、とことん彼らを利用すればよいのです。先陣は任せましょう」
「…こくり」
「小百合様、お願いします!」
「飛ばしますよ! しっかり掴まっていてくださいね!」
クルマが移動開始。
すでに出立したガンプドルフを追って、フルスロットルで突っ込む。
「おい! あいつら、行ってしまったぞ!」
それを見ていたリッタスが叫ぶ。
なぜならば彼らは、第二階層を維持する隊に入っていたからだ。
「エノス、我々は行かぬのか!?」
「仕方ありません。バルドロス様がいないと維持が難しいのです」
リッタスがここにいるのは、単にお荷物ということもあるが、最大の目的はバルドロスにある。
最初の制圧戦でも苦労したように、この大空洞には多数の横穴が存在している。そこから蜘蛛が這い出てくると奇襲される形になってしまうため、できうる限り埋めておかねばならない。
それに最適なのがバルドロスのジュエルだ。
彼が魔石の力で岩盤を圧縮してずらし、こうした穴を塞ぐことで階層を安全に保つのである。
こうして考えると、まさに適材適所。この作戦においてバルドロスが担う役割は極めて大きい。
だが当然、リッタスは不満である。
「くっ! 足手まといになるために来たわけではないのだぞ!! そうであろう、バルドロス!」
「殿下、人にはそれぞれ役割がございます。目的のために連携して動くことが肝要です。聖剣長もその役割を果たそうとしております」
ガンプドルフは場合によっては、ここから第十五階層まで突破しなくてはならない。
最深部の作戦が上手くいき、戦艦が自ら動くことができれば、途中で合流して護衛しながら脱出も可能だろう。が、あの女王蜘蛛が戦艦を手放さないときは、ガンプドルフの魔人機の力が必要不可欠である。
こうなると深部に向かった主力部隊は、ボスに置いていかれた鬼怒獣のように、身を挺してガンプドルフを先に送り出す必要がある。
「この数と圧力です。少しでも不測の事態が起きれば、魔人機に乗っている閣下以外はほぼ間違いなく死ぬでしょう。自ら死地に赴く騎士たちを想えば、ワガママを言っている場合ではありませんぞ。殿下もまた彼らの死を背負い、生き延びる責任があるのです。それが王室の役割ですぞ」
「ぐっ…そうだが……では、あいつらはいいのか!? 女たちが戦っているのに、我々だけ様子見でいいのか!?」
「彼女たちだけで生き延びられるとは思えません。ですが、彼がおります。あの少年の庇護があれば窮地も脱することができるのでしょう」
「くそっ! いつもいつも、あいつか! ずるいではないか、あいつばかり! なぜ我々には…私には力が無いのだ!」
「殿下…」
「バルドロス! 私は戦うために来たのだ! もう二度と女に任せてはいけない! そう思ったから決断したのだ! 違うのか! それとも『あいつ』に国を任せておくつもりなのか!」
「………」
「国を売り、媚びへつらう。そんな売国奴どものために我々は戦うのか! 違う。そうではない! 男がやらなければならないんだ。女では国は狂う! なんと言われようと聖剣王国は男が導くべきだ! 頼む、バルドロス! 俺に力を貸してくれ!」
「…エノス、わしは殿下の援護に回る。お前はここで待て」
「バルドロス様! 危険すぎます! ここは皆で待つべきです! それが一番良い方法ではありませんか! 行ってどうされます!」
「その通りだ。反論の余地もないほどの正論よ。しかし、道理だけでは人は動かぬ。もし道理だけで世界が動いているのならば、なぜ我らはルシアに負けた。あの少年と少女たちは誰が見ても馬鹿げたことをしておる。そうにもかかわらず、なぜこうも活力に満ち溢れておるのか」
アンシュラオンだけではなく、サナやサリータを見ていても魅力と活力に満ちていた。端から見れば何の根拠もなく動いているのに、どうしても目が向いてしまう。
合理的な判断は素晴らしいが、それだけで計れるほど人は小さくはない。その複雑な人と人が集まって社会と国家が生まれる以上、道理だけで成功したためしはない。
「わしは今にして気づいた。時代の変化が迫っているのだ。誰が見ても勝ち目のない戦いであっても、天が味方すれば勝ててしまうことがある。その一つの出来事からすべてが動き出し、大きな力となって歴史を生み出す。聖剣王国が戦争で負けたことは正しかったのだ。だが、ここで新しい力を生み出さねば、ただの無駄死にになってしまう」
「バルドロス様…」
彼も戦争で戦い、敗北を喫した。この東大陸に渡るまでは、いや、渡ってからも絶望の中にいた。
多くの屈辱を味わった彼だからこそ、「戦争で負けたことは正しかった」という言葉はあまりに重い。
しかし、それはけっして諦めではなく、新しい希望が見えたからだ。
「殿下はあの少年にも負けぬ光になる。少なくとも聖剣王国にとって無くてはならぬ存在となる。わしにはその確信がある。ならば、最後まで信じるのみよ」
「当然だ。任せておけ!」
「なんて…なんて……根拠のない自信ですか…殿下」
「エノス、お前もそろそろ気づけ。東大陸に渡った段階で、俺たちはもう大馬鹿者なんだぞ。本国にいる連中は、俺たちが成し遂げるなんて誰も本気で信じちゃいない。だが、それでいい。こちらも見返すつもりなんてない。ただ力をつけて、力づくで取り戻すだけだ!」
「殿下…」
「俺は行くぞ! とことん行く! ついてこい、エノス!」
「くうぅ……わ、わかりましたよ! もう腐れ縁です! 死んだって恨みはしません! わたくしも殿下を信じます!」
「よくぞ言った! それでこそ俺の兄弟だ!」
「ですが、走って行くのでしょうか? さすがにそれでは不安ですよ」
「む、むぅ、それは……」
勢いよく宣言したものの、足がなくては追いつけない。
バルドロスだけならばともかく、リッタスとエノスでは不安が残る。途中で打ちこぼした敵と遭遇したら危険である。
そんなふうに騒いでいるものだから、兵士たちが集まってきた。
「ったく、お前はほんとに馬鹿殿下だな! こんなときでも命令違反かよ」
「な、なんだと!」
「退路を維持するのも大切な役割だろうが。ほんと、でしゃばりな野郎だぜ」
「そんなことはわかっている! だが、私は!」
「ここは俺たちがなんとかするから、さっさと行ってこい!」
「なっ…」
「こいつを使え。輸送船に付いていた『駆逐艇《くちくてい》』だ」
そこにはクルマと同じような大きさの駆逐艇があった。
駆逐艇とは、駆逐艦や巡洋艦に付属している揚陸艇、あるいは揚陸艦の一種で、敵の基地や戦艦に人員を運ぶために造られた船である。
物によっては何の兵器も装備されていないこともあるが、敵戦艦に接舷《せつげん》することを想定しているため、非常に強固な装甲をしていることが多い。
今回の駆逐艇は先端がドリルのようになっており、そのまま戦艦に突き刺して乗り込むこともできるタイプのものだ。
戻ってこられるかはともかく、突き進むだけならば十分活躍することができるだろう。
「お前ら…どういう風の吹き回しだ?」
「べつにお前のことは好きじゃねえよ。好き勝手やってるし、それで怪我したやつもいるしよ。だが、それもすべては国のためだってことはわかる。まあ、一緒にボコボコにされた仲だ。今回だけは応援してやるよ」
「おう、お嬢ちゃんたちに負けるなよ! 俺たちだって本当は行きたいんだからよ! 仕方なく後方支援に回ってやるから絶対に失敗するんじゃねえぞ!」
「…礼は言わんぞ。俺はいつだって結果で示してみせる」
「お前、結果出したことあるのか?」
「ぬぐっ…こ、これから出すのだ!」
「皆さん…ありがとうございます! 殿下の代わりに御礼申し上げます!」
「あんたも大変だな。そいつに付き合っていたら命がいくつあっても足りないぞ」
「ふん、言っていろ。百光長、エノス、行くぞ! 運転は任せる! 私はできないからな!」
「やっぱりお前はポンコツ殿下だよ!」
兵士たちの野次に囲まれながら、リッタスとエノスが駆逐艇に乗り込む。
「…いい人たちですね」
「国を想い、ここまで来た人間に悪者などいるものか。まあ、一緒に戦ったよしみだ。面白い土産話でも持って帰ってやろう。やつらが悔しがるほど活躍してな」
「そうですね。絶対に生きて戻りましょう」
「エノス、運転はできるな? わしは蜘蛛たちが出てきた場合にそなえて外に張り付く。道も綺麗ではないからな」
「わかりました。お願いいたします」
「では、行ってくれ」
駆逐艇が発進。
アンシュラオンのクルマも術式反発システムが組み込まれているが、こちらも軍事用だ。同じくブースターに点火して、猛スピードで移動開始。
蜘蛛の死骸で埋もれている悪路や、岩盤が脆そうな場所は強引にドリルで突き破り、曲がり角やデコボコした道はバルドロスの魔石で舗装しながら進む。
道幅も広く、視界も狭いために同じ道を進むのは難しいのだ。
それでも飛ばした甲斐はあり、数分後にはサナたちのクルマに追いつく。
「あっ、後ろから何か黒いのが来ました! はぁはぁ、う、撃たないと!!」
「待て、こちらは敵ではない」
「セノア、撃っては駄目ですよ。バルドロス様です」
「は、はい!」
「やれやれ、またあのメイドか。相変わらず怖いな」
リッタスもハッチを開け、外に出てきた。
そんな彼にサリータが話しかける。
「なんだ、お前も来たのか。今回は本当に危険だぞ」
「お前に言われる筋合いはない。もともと我らの戦いだ。女に任せていられるか。それより聖剣長はどうした?」
「もっと先に進んでいるようだ。あの魔人機というものは凄まじい戦闘力だな」
「最大戦力の一つだからな。だが、あまり飛ばすとエネルギーがもたない。負担は少しでも減らしておくべきだ。我々も前に出るぞ」
「お前にやれるのか?」
「見くびるな。我が家も王室の末席だ。家宝くらいはある」
リッタスが一振りの剣を取り出す。
見た目は素朴で、特に装飾は施されていないが、その刀身はギラリと輝いていた。
「我が家に伝わる宝剣だ。といっても聖剣のような強力なものではない。せいぜい他の剣よりも少しは斬れる程度の代物だが、普通の剣よりはましだろう」
「そんなものがあるなら、もっと早く使えばよかったんじゃないか?」
「家宝の剣だぞ。最後の切り札に使うものだ」
「どのような優れた剣とて、使い手が悪ければ真価を発揮できぬもの。殿下は自らの剣技を鍛えるために、あえて普通の剣を使っていたのだ。貴殿と戦った時も使おうと思えば使えたが、プライドが許さなかったのであろう」
「百光長、余計なことは言わないでいい。ふん、どうせ『おこぼれ』だ。そんなものを大勢の前でひけらかしては、マッケンドー家がまた侮られるだけだからな」
聖剣王国は、鍛冶の国でもある。多くの優れた鍛冶師が日々さまざまな剣を作っては、軍や王室に売り込んでくる。
それはまさに玉石混交。買う側も試されているわけだ。
これもその中の一つで、三代前のマッケンドー家の当主が買い上げたものだ。叩いた鍛冶師は有名な者ではなかったが、その刀身に宿った執念に惹かれて買ったという。
リッタスもその逸話は印象的で覚えており、この剣だけは持ってきていたのだ。
(そう、執念しかない。気持ちしかない。あの男のように強い力もない。ならばせめて、気持ちでは負けるものか!)
「…っ!」
「サナ様?」
「敵です! 横穴から出てきますよ!」
ゼイヴァーがかかったトラップが、ここにもあったようだ。
術士の因子が1覚醒しているサナは、この場にいる誰よりも素早く感知したが、クルマで移動しているので避けることは難しい。
聴こえない警報によって蜘蛛が集まってきた。
「このまま突っ走れ! 右側はわしが防ぐ! エノス、端に寄れ!」
「はい!」
「殿下はそちらに乗り移ってくだされ」
「なっ…こんなクルマに乗れというのか!?」
「こんなクルマとは失礼な! 師匠の愛車だぞ! いいから、さっさと来い!」
「ぐおっ!!」
サリータがリッタスをクルマに引っ張り込む。
次の瞬間には駆逐艇が離れ、壁側に寄っていくと、バルドロスが壁に両手を叩きつける。
今も駆逐艇は走り続けているので、両手もまた凄まじい圧力にさらされるが、逆に圧縮されたのは壁のほう。
前の階層でもやったように魔石の力で壁を強引に圧縮。横穴を塞ぎ、蜘蛛の出現を強制的に抑える。
「やった! さすが百光長だ!」
「感心している場合か! こちらも来るぞ!」
右はバルドロスがなんとか防いでいるが、左側の横穴からぞろぞろと蜘蛛が這い出てきている。
クルマは止まらない。止まっていたら囲まれるので突き進むしかない。
しかし、真上からカーモスイットが降ってきた。横穴といっても大空洞だ。かなり高い場所にあいていることもある。
「サナ様、自分が防ぎます! 追撃を!」
「…こくり!」
サリータが盾を使ってカーモスイットを弾く。
そして吹き飛ばされて無防備な腹を、サナが横薙ぎの一閃。切り裂く。
蜘蛛は転がっていったが切断までは至らなかった。まだ生きているはずだ。
「おい、中途半端に傷つけたら進化するのではないのか!?」
「倒していたらキリがない。それより時間を稼ぐほうが重要だ。お前も手伝え! その剣はナマクラか!」
「いちいち命令するな! 早くこちらにも飛ばしてこい!!」
「じゃあ、遠慮なく!!」
サリータが今度はリッタスのほうに飛ばす。
「遠いぞ!! このっ!」
やや遠めに飛ばされた蜘蛛に上段斬りを見舞う。
ズパンッ!!
微妙な出来の紙鉄砲でも鳴らしたような音が響き、蜘蛛が切り裂かれる。
斬られた蜘蛛は地面に叩きつけられ、後方に転がっていき、すぐに見えなくなった。
そのうちカーバラモになるかもしれないが、たしかにそんなことを言っている場合ではない。降りかかる火の粉は払わねば、今この瞬間を生きていけないのだ。
(ふぅ、一応は家宝といったところか。これならば少しはやれる)
この剣には、間合いをわずかに伸ばす効果、剣気を強化する力がある。刀身自体も立派な出来なので、まさによく斬れる剣であろうか。
一番の特徴は、けっして折れず、錆びない頑強さだ。倒れても何度でも起き上がるリッタスにはお似合いすぎる剣であった。
「悪くない剣じゃないか。お前にはもったいないな」
「うるさい。お前のほうこそ恵まれているのだ。泣き言は言うなよ」
「自分がいつ弱音を吐いた!?」
「工場で泣いていただろう!」
「なっ…昔のことを!」
「まだ十日くらい前だろうが!」
「二人とも、黙って集中しなさい! 一寸先は闇ですよ!」
「は、はい!」
「うっ…」
ホロロに叱られ、二人とも背筋を正す。
なぜかリッタスも反応していたので、やはり女性が苦手らしい。
しかしながらサリータのことは女と思っていないのか、あるいは決闘をしたからか、近い距離にいても問題はないようだ。
一応先に述べておくが、この二人の間に恋愛要素は絶対にないので安心してほしい。仮にあったとしてもリッタスの片思いに終わるだろう。
DBDの殿下が出会った不思議な女騎士。彼女との出会いをきっかけに彼が成長していく物語なのだ。それはそれで歴史的に重要なお話であるが、今の二人には知る由もないことだ。
彼女たちは、今を生きるだけで精一杯。その一瞬一瞬の輝きが歴史を作るのだから。
685話 「超越者の守護者」
(そろそろおっさんが詰めている頃だが、まだ遠いな)
アンシュラオンが第十階層を通り過ぎながら、戦況を見極める。
本来ならば術式を配置して味方の位置を特定するのだが、蜘蛛の性質上それができない。ならばガンプドルフ同様に戦いの感覚と気配で探るしかない。
幾万、幾十万と魔獣と戦い続けてきた経験が、大空洞の全体像を映し出す。
そこに蜘蛛の数、鬼怒獣の突進力、魔人機の強さ、騎士の機動力、サナたちの戦力の情報も加えて、より詳細な現在地を割り出すのだ。
(ガンプドルフの力なら強引に突破も可能だ。もう第三を過ぎて第四に入っている頃か。ゼイヴァーはすでに第八には到達しているだろう。まだ鬼怒獣たちも健在。サナたちが無茶をしても問題ない。あとは戦艦側がどう動くか。こればかりはわからないが…おっさんのお墨付きならば信用してみるか。そして、あの女王蜘蛛との戦いがあると想定して―――【二時間】が山場だ)
だらだら過ごせばあっという間でも、この大空洞に二時間もいるのは地獄である。
一分一分が果てしなく長く、いるだけで精神力が削られていく。人間が暮らす場所ではないので臭いも酷い。蜘蛛の死臭もあるので最悪の気分だ。
だが、この時間をどう使うかですべてが変わってくる。
アンシュラオンは、さらに深部に移動。
どんどん進み、第十二階層でナムタムオーガ・グァルタ〈鬼怒天獣〉と、お供の親衛隊十三頭を発見する。
BPはそこそこ減ってきているようだが、まだまだ健在。圧倒的なパワーで突き進んでいた。
(まだまだ使えそうだな。ただ、これだと少し時間が押す。援護してやるか)
アンシュラオンはモグマウスを十数匹生み出すと、目立たないように蜘蛛の死骸に紛れ込ませながら操作。
鬼怒獣に襲いかかろうとしているカーバラモ、またはカーネジルたちを背後から攻撃。完全に倒しはせず、触肢を切り落とすだけにとどめて離脱させる。
これくらいのダメージならば蜘蛛はまだ繭にならない。武器だけ奪ってしまえばたいした脅威ではないため、あとは鬼怒獣が勝手に蹴散らしてくれるだろう。
鬼怒獣は見た目通りに大雑把な性格で、探知能力はかなり低いため、モグマウスたちの動きにはまったく気づかない。
それでよく赤子を追えるな、と思うかもしれないが、今のところ巣穴が一本道なのが幸いしているようだ。
ただし、その点はいまだに疑問が残る。
(うーん、本当に一本道なのかな? こんなに広い巣穴なんだ。もっと別の入り口があってもよさそうだけど…)
魔獣の種類によって巣の構造はさまざまだ。出入り口をいくつも作るタイプもいるが、逆に敵に侵入されるリスクが増えるので、どちらがよいとは言い切れない。
今のところ巣穴の出入り口は一つだけだが、その入り口自体が一番の問題だ。
(【亀裂】の存在が気になる。オレが調べた分には、あれは何かが強引に力ずくで破壊したものだ。では、それまで蜘蛛はどうしていた? 亀裂が出来てから住処を作ったのか? こんなに大きな空洞を二年で作った? 女王のサイズなら不可能ではないが…本当にそうなのか? もし蜘蛛が最初からここにいて、亀裂によって表に出てきただけだとすれば、話はだいぶ異なるぞ)
蜘蛛が以前からここに住んでいたと考えると、全部がひっくり返る。
もしそうならば、他に出入り口がある可能性が極めて高い。単純に逃げ道が増えるのはありがたいのだが、何の情報もないルートだ。そこに戦力が隠されていたら作戦の成否に関わる。
しかし、今はそれを考えている余裕はない。グァルタが蜘蛛を蹴散らし、十三階層にまで突入したからだ。
(優先順位を決めろ。ラノアの救出とサナたちの安全が第一だ。次にガンプドルフと魔人機、その次に戦艦だ)
迷いは人を殺す。非情だが失敗したときのことも考えねばならない。
すでにやれることはやったのだ。あとは突き進むしかない。
アンシュラオンは目に付いた厄介そうな蜘蛛を排除しつつ、グァルタを誘導しながら、ついに最深部にまで到着。
最深部の第十五階層は、今まで以上に巨大な空間が広がっていた。ここが『女王の間』であり、同時に産卵場所なので巣の中心部といえる。
アンシュラオンは鬼怒獣と蜘蛛で渋滞する地面を避けて、天井を走って内部に侵入し、状況を確認する。
「フーーーフーーーーーッ!!」
さすがのグァルタも消耗したのか息が荒い。しかし、最愛の子供を見つけようと常に周囲をぎょろぎょろ見回している。
そして―――発見
赤子付きの通信機は、ラノアに近いエリアに無造作に置かれていた。
見れば、そこにはいろいろな人工物が山積みになっており、カラスがとりあえず光ったものを集めた状況に似ていた。
輸送船らしき残骸もあるため、やはり産卵のために大型の苗床を集める習性があるようだ。
「ビィイイーーー、ビーーーーー!」
「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!!」
子供の声を聴けば、グァルタも元気百倍。今まで以上の咆哮を上げ、蜘蛛の群れに突っ込んでいく。
ただし簡単ではない。この階層にいる蜘蛛はカーネジルが多かったのだ。中には最終進化を遂げた個体もいる。
どうやら進化した個体は巣穴の奥に集まる習性があるらしく、そこで最期を迎えると穴に埋められるようだった。
普通に考えれば、より強い個体が女王を守るために集まるのかもしれないし、より人間的に考えれば、最期を女王の近くで過ごしたい欲求があるのかもしれない。
敵でなければ、なかなか興味深い魔獣だといえる。
(あれが女王か。久々に大型魔獣を見たな)
階層の右奥には、戦艦と共に女王蜘蛛がいた。白く美しい蜘蛛で、全長は二百メートルを超える。
印象的なのはたくさんの眼が付いていることだろうか。大きな三つの眼と、それを補佐する小さな眼が八十以上連なっており、ああやって鎮座しているだけでも全方位が見渡せるに違いない。
胴体や足の造詣も見事であり、顔周辺もすっきりしているため、蜘蛛の基準でいえば超絶美人である可能性もある。
そして、直接見たことによって『情報公開』が使用可能となった。
―――――――――――――――――――――――
名前 :ハイクイーン・バラ〈古代女王白蜘蛛〉
レベル:175/175
HP :47800/47800
BP :4580/4580
統率:SSS 体力: A
知力:AA 精神: SSS
魔力:AA 攻撃: S
魅力:AA 防御: A
工作:S 命中: S
隠密:D 回避: D
☆総合: 第二級 殲滅級魔獣
異名:白き古の意思喰い女王蜘蛛
種族:魔獣
属性:土、岩、毒
異能:集団支配、眷属支配、眷属融合、全方位攻撃、支配糸放出、強化思念糸、鉱物喰らい、外殻鉱物化、奥の手、術耐性、即死無効、毒無効、完全自己修復、自動充填、超越者の守護者
―――――――――――――――――――――――
(ギリギリ殲滅級ってところか。HPが五万を超えたら撃滅級に認定されていたかもしれないな)
このステータスを見てもアンシュラオンは驚かない。
なにせ火怨山では「SSS」が並ぶことも珍しくはないし、姉自体が「オールSSS」という化け物なので、それに見慣れてしまったのである。
(そこそこ強いが、生粋の戦闘タイプというわけじゃなさそうだ。こいつの能力の本質はスキルを見る限り、おそらく『精神支配』だろうな)
もともとカーモスイットは探知型の魔獣である。精神媒体である思念糸を使うことから、鬼怒獣のようにゴリゴリの物理型ではない。
その女王であるハイクイーン・バラ〈古代女王白蜘蛛〉も、どちらかといえば戦闘重視ではなく、スキルを見ればわかるように精神系の魔獣であろう。その能力を使って眷属の蜘蛛を支配しているのだ。
よって、単体では良い意味でギリギリ殲滅級、【群れならば文句なく撃滅級】といった評価が適切だろう。
(気になるのが最後のスキル『超越者の守護者』だ。超越者…か。たしか前文明の支配階級の人間だよな。ということは、こいつはそれくらい昔から生きている個体なのか? まあ、火怨山の魔獣も軽く一万年くらい生きていそうな連中ばかりだけどね)
魔獣の寿命については、いまだよくわかっていないところがある。
低級ならばいざ知らず、殲滅級以上になると捕獲も危険すぎるために研究も進んでいない。下手をすれば情報公開を持っているアンシュラオンが、世界で一番魔獣に詳しい可能性すらある。
そのうち気が向いたら魔獣図鑑でも販売してみるのも面白いかもしれない。意外と売れそうだ。
(ふーむ、もしこの女王が前文明から生きているのならば、この巣穴が前文明と関連している可能性も一気に浮上するな。それと同時に、オレの懸念も的中してしまうわけだが…今考えても仕方ない。まずはラノアの確保だ)
まだ女王は動いていない。
戦艦をがっしり捕まえて鎮座しており、表情一つ変えていなかった。蜘蛛の感情はわからないので、まだ危機感を抱いていないという意味だ。
(まだ余裕か。じゃあ、少し焦らせてやろうか)
アンシュラオンが、モグマウスを使って赤子付き通信機を持ち上げると、女王蜘蛛の近くにまで走らせる。
「………」
女王は少しだけぎょろっと視線を向けただけで、それ以上の動きはしない。
彼女にしてみれば、いくら電波を発していても小物すぎるのだろう。戦艦のほうが大事らしい。
しかし、女王にとっては価値がないものでも、グァルタにとっては違う。
「ビーーーーッ! ビーーーーッ!」
「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!」
目論見通り、グァルタが声がする方向に突進。戦艦のほうに軌道修正する。
極力戦艦にダメージを与えないで脱出させることが重要だが、完全に女王が張り付いているので、まずは切り離す必要があった。
特に苗床になっているのならば簡単には離れないだろうし、あの状態で暴れたら大きな損害を受けることになるだろう。何かで注意を逸らす必要がある。
(しばらくそっちで時間を稼いでもらおうか。ラノアは…いた、あそこだ)
ラノアを発見。
彼女は巨大ジュエルの近くの台座に、ちょこんと座っていた。突入してからも何度か話しかけていたので、彼女自身はまったく怯えておらず、いつも通りにのほほんとしていた。
天井を走りながらラノアの真上まできたら、ジャンプ。隣に一気に着地する。
「ラノア、迎えに来たよ。無事か? なんともないか?」
「うん、だいじょうぶ!」
「夢太郎も無事か?」
「ちゃんとごはんあげたから、げんきだよ」
「そうかそうか、それはよかったよ」
「…ギョロリ」
しかし、ラノアに触れた瞬間、初めて女王蜘蛛が強い意思をもってこちらを見た。さきほどの赤子付き無線機とは明らかに違う対応だ。
アンシュラオンと女王が、じっと見つめ合う。
(今回のことで、もう一つ謎がある。蜘蛛がラノアを狙った理由だ。念話や念糸を使えるから狙ったにしても、どうしてラノアだけ『特別待遇』なんだ? ラノアは女王と会話したと言っていたが…)
女王蜘蛛から、こちらを探るように思念糸が伸びる。
彼女のものは『強化思念糸』と呼ばれるもので、通常よりも感度が高く、その分だけ干渉する力も強い。これを使えば人間を操ることも容易だろう。
(ここは一つ試してみるか。ラノアにできたのならば、オレにだってできるはずだ)
それに応えるように、アンシュラオンも念糸を伸ばす。
たいした考えもなく軽い気持ちでの行動であったが
二つの糸が接触すると―――光が弾けた
(ぐっ……なんだ…!? これは…サナにスレイブ・ギアスをはめた時に似ている。だが、指向性が反対だ…)
サナの時に起こった現象は、現在から未来への流れ。
一方のこの光は、現在から過去へ光が遡っていく。
あまりに膨大な量のため、見えたのは鮮烈なイメージが残っている部分のみだ。
産まれたばかりの白い蜘蛛の目の前に、【一人の女の子】が現れた。
全身が光り輝いているのは、その膨大な魔素が周囲に干渉しているからだろう。
彼女はまだ小さかった蜘蛛を抱き上げると優しく撫でた。蜘蛛自体は撫でられることに特段の感情は抱かなかったが、彼女から溢れる愛情は理解できた。
女の子から『糸』が出てくる。蜘蛛も糸を出して、絡み合う。
―――〈今日からあなたが、わたしを守るのよ。みんなはあなたたちのことを弱い魔獣だって言うけど、わたしはそうは思わない。きっと立派な『守護者』になるわ〉
蜘蛛は、その願いを受け入れた。
ほとんどの魔獣は強制的な支配を受けて、自我を失いながら淡々と役目を全うするが、彼女は違った。魔獣との共生を願っていた。
『彼ら』の中では、そうした考えを持つ者は多くはなかった。ただ、女の子の地位が高かったから好きなようにさせていただけだ。
この蜘蛛も、そんな戯れの中で選ばれた存在。しかし、少しだけ幸運な存在。
蜘蛛は女の子から力を与えられ、より強大な存在となり、この地の守護を命じられた。
すべては順調だった。巨大な都市がたくさん生まれ、首都を頂点として完全な支配を成し遂げていた。ここには繁栄しかなかった。
蜘蛛は幸せだった。彼女を守れることが誇りだった。約束したから。
光はそこで消えた。
幸せな記憶を守るように、壊さないように儚く消える。
「…お前…ラノアを守ろうとしていたのか? その子と…同じだから?」
「………」
「それが超越者? かつての人間は、すべてを思念で会話していたということか? テレパシー能力が進化していたんだな」
ラノアだけ特別待遇されていたのは、かつての超越者たちに似ていたからだ。
彼らは言葉を話すこともあったようだが、ほとんどのことは念糸や念話を媒介して意思疎通を行っていた。それはまさにロゼ姉妹とまったく同じだ。
(待てよ。逆にこうした能力があるってことは、セノアたちは超越者たちと何か関係があるのかもしれない。さすがに時間が経っているから、直接的ではなく【遺伝的】にだ)
たとえばアンシュラオンは念話を再現できるが、スキルとして持っているわけではない。あくまで技術として使っている。
しかし、セノアたちは生まれ持った能力として、ごくごく当たり前に使うことができる。ここに大きな差があるのだ。
(前文明が滅びたのは間違いない。遺跡もあるし、それを証明できる遺物もある。では、人間はどこに行った? 超越者たち全員が滅びたとは思えない。中には生き延びた連中がいたんじゃないのか? その末裔がセノアやラノアってことは十分考えられるな。遠いおとぎ話みたいなものだけどさ)
日本人がどこから来たのか、という話題にしても、さまざまな説がある。遺伝子的にそれを追った研究もよく見られるだろう。
この世界では最終的に女神に行き着くのであろうが、それまでの間は人それぞれ違うルーツを持っている。彼女たちが超越者の末裔である可能性は無いとは言い切れない。
(ともあれ、ラノアに対して敵意はないようだ。だが、逆にこのまま逃がしてもらえるのかどうかも怪しいな。戦艦は完全に奪われているし、このまま仲良くお別れってわけにもいかない。やはり倒すしかないか。オレには関係ないしね)
いくらドラマチックで感動的な逸話を知ったところで、所詮は他人事だ。しかも蜘蛛の思い出に浸るほどナイーブでもない。
相手が戦艦を無条件で解放し、安全に巣穴から出す気がなければ、どのみち戦うしかないのだ。
(ひとまずゼイヴァーたちがやってくるまで、この場を維持して―――)
と考えていた時だ。
キュィイイインッ
突如、巨大ジュエルが紫に輝いたと思ったら―――光が奔る!!
女王蜘蛛とのやり取りですっかり忘れていたが、目の前には例の巨大なジュエルがある。
明らかに異様なものだが、侵入した段階では起動しておらず、ただの鉱石と同じ。全部が終わってから調査すればいいとも思っていたくらいに雑な扱いであった。
それが光を放ち始め、弾けるように爆発的に広がる。
地面を伝う『波』は、振動しながら巣穴中に広がっていった。
―――〈人を排除しろ〉
―――〈人間を見つけたら殺せ〉
―――〈滅ぼし尽くせ〉
その声は、さきほど聴いた超越者の女の子とはまるで違う、怖ろしい怨嗟の感情に満ちていた。
「―――ッ!!」
「グググッ……グガガガッ!!!」
周囲の魔獣の様子がおかしい。蜘蛛は身体をびくびくさせて痙攣しているし、鬼怒獣のほうは明らかに苦しんでいる。
暴れ回り、自分自身の身体を叩き、大地に転がって、のた打ち回る。
それはボスのグァルタも例外ではない。
「ゴゴゴゴッ―――オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!!」
身体中から激しい赤黒いオーラを噴き出し、目から理性が消えていく。
代わりに宿ったものは、ただただ【憎悪】。
人間に対する憎しみだけである。
(これは…まさか! 間違いない! このジュエルが術式の核だ!)
アンシュラオンが西方の荒野に出てから、ずっと違和感を感じ続けてきた大地の術式の正体、その核となるものが目の前にあった。
686話 「引き裂かれる作戦」
巨大なジュエルが、美しい紫に輝いている。
その美しい色合いとは対照的にドス黒い術式が展開され、周囲の魔獣たちに干渉を開始。次々と支配下に置いていく。
それはあまりに複雑で巨大。何万といった情報術式の数列が表示され、その上から大地の精霊を使った元素術式の紋様が絡まり、『魔方陣』が形成されていく。
近くで視るとなおさら圧巻。凄まじい量のプログラムが走っているのがわかる。
(これが術式の核。オレがずっと探していたものか。だが、こいつは今まで起動していなかった。…こうして見るとけっこう媒体が破損しているな。この一帯が安全だったのは『接触不良』があったからだ)
荒野で出会った魔獣たちには『人間憎悪』があったが、この亀裂一帯の蜘蛛や鬼怒獣にはなかった。
その理由は、この術式が何らかの理由で【一時停止状態】にあったからだ。
停止自体の理由は謎だ。考えられるのは媒体の破損だが、かなり前に構築された術式だったので、劣化してエラーが出た可能性もある。もしかしたら亀裂が生まれた衝撃も影響を与えたのかもしれない。
どちらにせよ術式が復活してしまったのは事実。こうなると今までのプランが裏目に出てしまう。
蜘蛛たちがアンシュラオンに対して強い敵意を見せる。三つ目が赤黒く輝いているので術式の支配下に置かれたのだろう。
鬼怒獣たちも蜘蛛との戦いをやめ、こちらに対して憎しみの形相を向ける。グァルタも真っ赤な瞳でこちらを睨んでいた。すでに子供を助けに来たことも忘れているようだ。
精神術式は、親子の情すら簡単に断ち切るほど強い。強制的な支配なのだから当然なのだが、それだけ怖ろしさを感じさせる。
魔獣が―――殺到
密集、密着した群れが怒涛の勢いでこちらに流れてくる。
「ちっ、面倒なことになったな」
アンシュラオンが自身とラノアの周囲、直径二十メートルを命気結晶で覆う。
ガンガンッ ガンガンッ
魔獣たちが壁を叩くが、さすがに命気結晶は硬い。こうしておけば敵が入ってくることはないだろう。
(困った事態ではあるが、これは逆にチャンスかもしれない。敵がこっちに集中すれば戦艦の周囲が空く…はずなんだが、女王は動かないか。あの様子は、もしかして術式に抵抗しているのか?)
大地一帯に術式が展開されているのだから、女王蜘蛛だって影響を受けるはずだ。現に他の蜘蛛と同じように身体をびくびくさせている。
しかし女王蜘蛛は、術式が発動した直後から強化思念糸を展開し、大地の術式の干渉を防ぐフィールドを生み出していた。
時折目が赤くなったり黒くなったりするのは、人間でいえば歯を食いしばる行為と同じなのだろう。ギリギリのところで理性を保っているようだ。
そのせいで逆に戦艦にしがみつく形になっているので、ますますアンシュラオンたちの思い通りにはさせてくれないらしい。人生とは厳しいものである。
(よくこんな化け物みたいな術式に抵抗できるな。さすが精神系の魔獣といったところか。…ふむ、女王からも同じ波動が出て相殺している。そうか。あの女王がこのジュエルを喰らっていたのか。強制支配という毒を取り入れることで抗体を作り出したんだ)
生物には免疫機能が存在し、一度受けた毒素や病原菌に対して抗体が生まれる仕組みがある。それによって再度同じ症状になりにくくなるのだ。
それと同じく、女王蜘蛛は自ら『汚染されたジュエル』を体内に蓄積することで防御術式を構築し、この大地の術式に対抗しているらしい。
(もし意図的なら、かなり知能が高い魔獣だ。しかし、女王も今まで操られていたとしたら、いろいろとややこしい問題が出てくるぞ。あいつが『超越者の守護者』だとすれば、この術式を作ったのは超越者以外の存在だということだ)
前文明の人間が超越者であり、蜘蛛がその配下にあったとすれば、それを妨害し、違う理で支配する術式は前文明のものではないことを示す。
あるいはソブカのようにクーデターを企んだ裏切り者の超越者がいて、権力を奪うために魔獣たちをけしかけた可能性も十分あるが、それでは自身も殺される危険があるのでリスクが高すぎる。
いまだこうして術式が発動していることから、超越者以外の者が作ったと考えるべきだろう。
「……! ……!」
女王蜘蛛は苦しみながらも、こちらに対して思念糸を伸ばしてくる。かつての主を思い出し、ラノアを助けようとしているのだろうか。
「ラノアはオレが守る。お前は抵抗を続けていろ。出ろ、クシャマーベ!」
ラノアがキラキラと光ると、彼女の身体が大きな命気球に包まれる。
その一部が形を変え、大きな『車輪型の盾』を構えた美麗な人型の存在を生み出す。
闘人クシャマーベ。闘人操術で生み出した防御型の闘人だ。
見た目はアーシュラとはまったく違い、女性的な流線系のフォルムで、氷の女神をイメージしてデザインしている。
「クシャマーベ、事前に出した命令通り、ラノアを中心に絶対防御を展開しろ。一匹たりとも近寄らせるな」
「イエス・マイマスター」
クシャマーベが命気壁をすり抜けて外に出ると、車輪盾を回転させる。
それに触れた魔獣が―――凍結
一瞬でカチコチに固まり、回転を続ける盾によって粉々に粉砕されて塵と化した。鬼怒獣も蜘蛛も、死ぬ際は粉雪のように綺麗に輝いているのが神秘的だ。
「フフフフフフ」
クシャマーベは氷の冷笑を浮かべると、いくつもの車輪盾を生み出して絶対防御陣を展開。近寄る魔獣をすべて凍結させ、死の塵に変えていく。
盾が車輪型なのは、回転させることで凍気を拡大放射するためである。やっていることは拡盾と同じと思っていい。
ちなみに喋っているが、これは擬似声帯を生み出したことによる『機械音声』と同じものだ。命令に対してはイエスと答え、敵を排除したときには笑うように作ってある。
ただ、たまに命令なしでも笑うときがあるので、アーシュラ同様に生み出した瞬間から世界のデータに登録されて『一つの個性』となったようである。
思えばこの段階から、アンシュラオンは新しい技を生み出していたのだ。(陽禅公は十二神将を生み出したが)
「ラノア、あいつは君の守護者だ。ちょっと怖いけど、絶対に守ってくれるから安心してくれ」
「うん。でも、あのおおきなくもさん…へいき? くるしそう」
「ラノアはあの蜘蛛が好きかい?」
「うん、きれい」
「そうか。助かるといいな」
と言いながら、本心では別のことを考えていた。
(これだけの術式に抵抗していること自体が奇跡みたいなもんだ。どれだけもつかな。長年支配されていた痕跡は精神に残る。中毒症状と同じで、長ければ長いほど抵抗することはひどく難しい。おそらくは…もう駄目だろう)
このままでは白い蜘蛛が自我を失うのも時間の問題だ。
かといって、今すぐ目の前のジュエルを破壊することはできない。
(たまたま上手く止まっていたからいいものの、下手に刺激したら術式事故が起こるかもしれない。こんなものが爆発したら戦艦ごとオレも消し飛ぶぞ。しかもすでに漏電が起きているようなものだ。解除には慎重を期さないといけない。クシャマーベに防御は任せて、オレはこいつの解析を急ごう)
接触不良の場所を特定し、もう一度停止させるのが現実的なのだろうが、この膨大な術式から破損個所を見つけるのはアンシュラオンであっても時間がかかる。まるで時限爆弾の起爆コードをいじる気分だ。
(おっさん、サナ、なんとか耐えてくれよ)
∞†∞†∞
この変化の影響を受けたのは、当然ながらアンシュラオンだけではない。
戦艦に向かっていたゼイヴァー隊も蜘蛛と交戦状態に入っていた。
厄介なカーエッジたちに捕捉され、苦戦を強いられる。そこに他の蜘蛛も群がってくるものだから事態は最悪だ。
「隊長! この数では…!」
「すべての爆薬を使ってもかまわない! 強引に突破する!」
ゼイヴァーたちは、ありったけの爆弾をばら撒いて対応するが、明らかに人間をターゲットにした蜘蛛たちに追い回される。
前から後ろから、左右から上から蜘蛛が無限に湧いて出てくる。
(突然蜘蛛が好戦的になった! このままではまずい!)
アンシュラオンが仕掛けたトラップを頼りに突破を続けるが、ゼイヴァーの脳裏に『最悪の事態』が浮かぶ。
今回の作戦は、アンシュラオン、ゼイヴァー、ガンプドルフの三つの部隊による同時進行作戦だ。それぞれが混乱に乗じて別々の階層を移動している。
これは魔獣同士を争わせ、人間に意識を向けさせないことで成立する作戦である。逆に人間だけが標的になった場合、分断されて各個撃破される可能性が一気に高まることを意味した。
なまじ巣穴の奥に侵入しているものだから、もう戻る選択肢はない。このままでは絶対に死ぬとわかっていても前に突き進むしかない。
「走れ! 走り抜け! 今生き残るには、アンシュラオン殿と合流するしかないぞ! 後ろを振り向かずに走れ!」
この命令が非情なものであることをゼイヴァーは知っていた。
最後尾の騎士が蜘蛛に囲まれたのが見えたが、今は振り返らない。残された騎士もここが死に場所と全力で戦い、少しでも時間を稼いでから死ぬだろう。
(すまない! 必ず戦艦は取り戻す!)
ゼイヴァーは最深部を目指して駆ける。
こうなるとガンプドルフ率いる部隊も敵の攻勢に晒される。
「なんだこいつら! 急に争いをやめたぞ!」
「こっちに向かってくるぞ!」
「壁を作れ! 通すな! こんなものに呑まれたら全滅だ!」
「押せ押せ押せ!!」
重装甲兵たちも敵の攻撃を凌ぐので精一杯。
ゼイヴァーたちより防御力に優れているため損害は少ないが、死ぬことも厭わずに突っ込んでくる蜘蛛や鬼怒獣に対して防戦一方だ。
(これはまさか…最悪の事態が起こってしまったのか! なんて不運だ! 自分の運の無さが憎らしい!)
ガンプドルフも事態の深刻さに気が付く。
作戦を立てた身である。一番最悪なことも熟知していて当然だ。しかし、やはり起こってほしくなかったのが本音であろう。
いつだって困難ばかりが降りかかる。吐き気がするほど最悪な気分だが、司令官である以上、思考を放棄するわけにはいかない。
(ここまで来て全面撤退はありえない。作戦だけは遂行する必要がある。そろそろ少年が最深部に着いた頃合だ。彼ならばこの状況を打開できるはずだ)
「私以外の全部隊は、第二階層まで引いて全兵力で場を死守しろ! 場合によっては亀裂にまで後退してもかまわん! 私はこのまま突き進む!」
「閣下だけではエネルギーがもちませんぞ!」
「やれるだけはやってみる。少年と合流できれば可能性はあるはずだ。必ずナージェイミアを連れて戻る」
「…閣下。わかりました。一時後退します」
「任せたぞ。サナ、お前たちも撤退だ」
「…ふるふる」
「ガンプドルフ様、サナ様はラノアちゃんを助けに行きたいのです! 一緒に行かせてください!」
「…こくり」
「ワガママを言わんでくれ。緊急事態なのだ。今は撤退が優先だ。君たちに何かあったら少年に合わせる顔がない」
「…ふるふる」
「そんなに首を振っても駄目なものは駄目だ」
「…ふるふる」
「いや、だからそんなに首を振っても…」
「…ふるふる」
「なんて頑固な娘だ!」
サナは絶対に首を縦に振らない。ラノアを助けるまで動かないつもりだ。
「聖剣長、この娘の説得は無理だ。甘やかされて育てられているからな。だが、私も引くつもりはない」
「殿下、君もか」
「今ここで戻っても距離が開きすぎている。ならば全戦力をもって突き進むべきだ。それが合理的な判断だと思うが、違うか?」
「奥は危険だ。そちらのほうが多くの犠牲が出る」
「犠牲を気にするあまり勝負に勝つことを諦めてどうする! 勝負に勝てば全部が手に入る! 聖剣長、あなたが連れてきたあの男だってそう言っていたではないか! おこぼれで三割を掠め取りに来たわけじゃない。十割、全部を奪いにきたのだ! すべてを得るためにはすべてを賭けるのが道理だ!」
「………」
「聖剣長、わしからもお願いいたします。ここにいる全戦力を投入すれば、ゴールドナイトのエネルギーは節約できます。先行したゼイヴァーと合流することも可能。そのほうが生存率が高いと考えます」
「貴殿まで……わかった、進もう。ここで話している暇も惜しいからな」
ここでガンプドルフは決断。
当初の予定通り、ここにいる全戦力で最深部に進む。危険だが、さらに戦力が分散するほうが危ないという考えもある。
ただ、それを提示したのがリッタスなのが面白い。
(ふっ、あの殿下が随分と言ってくれるようになった。彼も成長しているということか)
ガンプドルフもリッタスの変化に気づいていた。以前のような自分の殻に閉じこもった刺々しさはなくなっており、いつの間にか人を導こうする気概が見え始めた。
血筋的に本命はソフィア王女だが、彼という存在が今後のDBDに新しい風を吹き込むかもしれない。そんな予感がする。
「では、行くぞ! ここからは強行突破だ!」
ガンプドルフたちは宣言通りに力を惜しまず、一気に速度を上げ、魔人機を中心に魔獣たちを蹴散らす。
エネルギーの消費を最小限にするために、最初に魔人機が一撃を繰り出して敵陣を崩すと、あとは騎士たちに任せる。
基本はバルドロスの魔石で地面を操作して分断。敵を寄せ付けなくする。もし進行方向に残っていたら騎士が敵を押し出し、サナたちが各個撃破を担当する。
相手の攻撃は苛烈だったが、操られている分だけ統率が取れておらず、動きはバラバラ。これならば術式がないほうが怖いかもしれない。
こうして順調に第十一階層にまで到着。
「思ったよりいけるではないか! どうだ、やってよかっただろう! 聖剣王国の騎士が蜘蛛ごときに負けてたまるか!」
「そんなにボロボロで余裕ぶっている場合か」
「ふん、お前だってボロボロだろうが」
すでにリッタスはボロボロ。サリータも鎧と盾を三回取り替えている。
それでも確実に最深部に近づいている感覚が、彼らの気持ちを支えていた。
いける。なんとかやれる。そんな精神力だけでがんばっているのだ。
だが、ここで異変が起きる。
「サナ様? どうされました?」
「…じー」
サナの目が、新たに出てきた蜘蛛を観察している。
蜘蛛などそこらじゅうにいるので珍しくはない。彼女があえて注目した理由があるはずだ。
色が―――違う
その蜘蛛は、カーモスイットのような焦げ茶色ではなく、やや赤みがかった色をしていた。見れば、形も少し違う。鋏角や触肢は大きく鋭いが、身体自体はカーモスイットより小柄である。
アンシュラオンがいないので詳しい情報はわからないが、おそらくは【違う種類の蜘蛛】だ。
そして、ここで最大級の災難が発生。
ドゴーーーーンッ!!
突如、ガンプドルフが乗っているゴールドナイトの足場が崩れる。
「な―――にっ!?」
下から―――巨大な触肢が出現!
それがガシッとゴールドナイトを捕まえて、地面に引きずり込む。
魔人機の大きさは十二メートルはあるので、それを簡単に抱えられるほどの長さの脚。
「くっ! 引き剥がせん! なんてパワーだ! 魔人機を上回るのか!」
しかも抵抗も許さないほどの超パワーを持った
深紅の―――蜘蛛
崩れた岩盤からちらっと見えた蜘蛛の目は、軽く五メートルはあった。
そこから換算するに、この蜘蛛の大きさは百メートル以上はあるに違いない。もしくは女王に匹敵する大きさの可能性もある。
ここでガンプドルフは一つの【盲点】に気づく。
(もう一匹…いたのか。雌がいれば【雄】がいるのは当たり前だが…ここでか! 私の不運もついに極まったな!)
ゴールドナイトが地面の中に引きずり込まれていく。全力で雷を放出しているが相手は物ともしない。
大地がアースの役割をして雷を放散させているのだ。この地層には金属も多く含まれるために、より電気を流しやすい。
「閣下!」
「私のことは気にするな!! 自分たちのことだけ考えろ!! いいか、お前たちは先に行け! 必ず少年がなんとかして―――」
ゴゴゴゴゴゴッ ズザザザザザッ!!
言葉も途中に、完全に地中に呑まれていった。
たった一つの術式によって、作戦のすべてが切り刻まれ、反転してしまう。
これもまた荒野の怖ろしさであった。
687話 「サナの想い、犠牲を越えて」
「な、なんだ今のは…!」
「ゴールドナイトは…閣下はどうなったのだ!」
この異変はあまりに致命的だった。
ガンプドルフ隊の支えは、その名前の通り聖剣長であるガンプドルフ自身である。最大戦力かつ最大の心の支えであり、まさに中心だ。
それがこの敵だらけのど真ん中でいなくなる。これほど絶望的なことがあるだろうか。さすがの騎士も動揺を隠せないでパニックに陥る。
(最悪だ。このままでは全滅する)
バルドロスに嫌な記憶が蘇る。
どこの軍隊でもそうなのだが、とりわけDBDにおいて聖剣長の存在は大きい。聖剣があればなんとかなる、という意識が幼い頃から童話などで刷り込まれているからだ。
たしかに聖剣と魔人機は最大戦力であるが、そうであるからこそ狙われる危険性が高くなる。ルシアとの戦争の終盤では、魔剣士たちを分断する作戦が基本戦術とされ、それによって艦隊が壊滅した事例もある。
バルドロス自身がいた部隊も、その混乱の中で各個撃破されて、ほぼ全滅の憂き目に遭ったのだ。まさにトラウマである。
今も同じ。頼りのガンプドルフが分断されれば部隊として機能しなくなる。リーダーというのはそれだけ重要なのだ。
(だが、諦めぬ。諦めてはいかん。今この場で一番階級が上なのはわしだ。なんとかまとめねば―――)
正直、バルドロスには部隊指揮はできても、それを導くことはできない。単純に適切な命令を出すことと、困難の中で希望を与える力は違うのだ。
それでも何かしなければ終わってしまう。
そんな焦りが彼を包んだ時だ。
「走れぇえええええええええええええええええ!!」
「っ―――!」
バルドロスの背後から大声が響く。
若干裏返った声だが、全身から必死に搾り出した力強いものだった。
声の主は―――リッタス
彼は剣を真上に突き上げ、まるで英雄像かのようなポーズで立っていた。
汗だくで鎧はボロボロ。転んで傷だらけの顔ではまったく似合っていないが、自分自身を鼓舞するためにも叫ぶ。
「聖剣長の声を聴いただろう! 今は前に走れ! 迷っている暇などないぞ!」
「だが、閣下がいなければ…」
「お前たち、聖剣を信じないのかぁああああああああ!」
「っ!!」
「俺は信じる! 聖剣の力を信じる! それだけを夢見て、支えにして俺たちは生きてきた! がんばってきた! 違うか!? それがたかが蜘蛛ごときにやられると思っているのか! ゴールドナイトだぞ! 雷の聖剣だぞ! ありえない! 絶対にありえない!」
―――「聖剣は、必ず勝つ!」
声は震えていた。彼だってきっと不安だったはずだ。
されど、聖剣を信じると言った言葉に偽りは何一つない。
その真摯で真っ直ぐな感情は、騎士たちの心の琴線に触れる。彼らも幼い頃から聖剣に憧れ、できれば自分も選ばれたいと思ってがんばってきたのだ。
つらい訓練だって聖剣を夢見てきたからこそ耐えられた。今も聖剣の近くにいられるだけで誇り高い気持ちになれた。
自分が聖剣のために、国のために戦っているという自負があるからだ。
「そうだ…閣下なら…! 必ずや戻ってきてくださる!」
「雷の聖剣に選ばれたのだ。負けるわけがない!」
「聖剣が負けるものか! ルシアでも聖剣は折れなかったのだ!」
「そうだ、どんなときも聖剣があれば負けない! 今は前に進むぞ! まだ作戦の途中だ! 俺たちの目標は戦艦ナージェイミアだ! 行くぞぉおおおおおおおおおおおお!」
リッタスが走り出す。
その行動は東大陸に渡ってから何度も見てきた。彼の独断でいつも連携が乱れ、誰かが怪我をして迷惑ばかりをかけていた。誰もついてはこなかった。
だが、今は違う。その後ろに騎士たちが続く。
というより、あっという間に追い抜かれて最後尾になってしまう。能力が高いわけでもないので当然だ。
「俺は…俺は走るぞ! 絶対に諦めるものか! 這いつくばってでも生きてやるんだ!」
それでも彼は走ることをやめない。がむしゃらに前に向かって駆ける。
その姿にバルドロスの心が奮える。
(殿下…! そうだ、これだ。これこそ殿下の持ち味よ。もともと殿下には、絶対に諦めない不屈の心があった。それがあの少年に出会って『歯車が合った』のだ)
リッタスは完全に誰とも噛み合わない歯車だったが、破天荒なアンシュラオンと出会い、部隊全体がひっちゃかめっちゃかに掻き回され、なぜそうなったのかわからないが、どこかでカチッと噛み合った。
一度噛み合えば、ハムスターの回し車のようにひたすら走る男だ。その強い心は他に伝播し、アンシュラオンとは違う方向性の活力を与える。
これもマイナスとマイナスが合わさった効果なのかもしれない。本来の無鉄砲さが、ここにきて皆に勇気を与える結果になったのだ。
「殿下に続くぞ。殿はわしが受け持つ。後ろを気にすることはない。クルマで突っ走れ」
「…こくり」
「行きますよぉおおおおお! ほら、そこの殿下も掴まってください!」
「はぁはぁ、オマケみたいに言うな!」
「もうっ、置いていっちゃいますよ!」
「くっ! 仕方ない!」
リッタスをクルマに乗せてアクセル全開。
幸いながらさきほどの大穴で敵陣も崩れているため、強行突破は可能である。
「エノスはクルマの前に出ろ。敵がいても突っ込むのだ」
「は、はい! わかりました! バルドロス様、これが殿下ですよ!」
「ああ、わかっておる。この気勢ならいけるぞ!」
「殿下…! 殿下が一番聖剣を信じているんです! やれますよ!」
エノスもアクセルを全開にして、けっして緩めることはなかった。
ガンプドルフ隊…いや、今はもうリッタス隊と呼ぶべきだろうか。そのリッタス隊は、怒涛の勢いで階層を突き進む。
主力の重装甲部隊がいまだ健在であるとはいえ、蜘蛛は積極的に向かってくる。鬼怒獣も傷ついているとはいえ強力な魔獣だ。その両方を敵に回すなど、まさに地獄でしかない。
しかし、不思議なことにまったく怖くない。絶望的なのに『やる気』しか出てこない。
「いけぇええ! つっこめぇえええ! 今だ、いけ!」
「ええい、後ろからうるさい!」
「うるさいとはなんだ! 指示してやっているのだぞ! よし、私が援護してやる!」
「弱いんだからおとなしく下がっていろ! 足手まといだ!」
「なんだと!?」
などと、リッタスと騎士が言い合いになることもあるが、敵と戦いながらなので問題はない。むしろそれが力になる。
この落ちこぼれ殿下が諦めない限り、恥ずかしくて誰も最初に弱音を吐けないからだ。
こうして重装甲部隊が魔獣たちを押し込んでいる間に、サナが魔石を全開にして駆け抜け、次々と魔獣たちを切り裂いていく。
倒す必要はない。感電させて動きを鈍らせるだけでいい。その間に駆逐艇の突撃で蹴散らし、バルドロスが魔石を使って追撃を受けないように防護壁を生み出していく。
「前だ、前に進めぇええええええ!」
相変わらずリッタスは声を張り上げる。甲子園に出られなかった部員がスタンドから声を振り絞るように、ただただ叫ぶことしかできない。
だが、それでいい。
彼に求められているのは武力ではない。全員をやる気にさせるための目に見えない力だ。
それを持つ者を―――【王】
と呼ぶ。
「あの殿下、やるじゃないですか。アンシュラオン様には全然及ばないですけど、少しは許してあげてもいいかもしれないですね」
「はい、私もなぜか安心します。どうしてでしょう?」
「一番下の人に野心や出世欲があると盛り上がるものなのです。上がいつだって絶好調でいることは少ないですからね。うちも課長にやる気がなくて、そのうえ同僚たちも出世欲がないですから全然盛り上がってないんですよ。支店長も今のままで満足しちゃってますしね。その意味だとDBDのほうが目的がある分だけましですね」
「は、はぁ、大人の社会は大変なんですね…」
「あっ、セノアさん、左前で密集してますよ! 一発かましちゃってください!」
「わ、わかりました! 爆発矢、いきまーす! 皆さん、よけてください!」
そんな会話を小百合とセノアがするほど心に余裕があった。
冷静に考えてみれば普通の公務員とメイドの少女である。それがこんな魔獣の巣穴にいるにもかかわらず、平然としているのだ。それ自体がまさに驚異的である。
しかもこのピンチでまったく絶望していない。アンシュラオンの庇護があるとはいえ、やはりリッタスの気概が与える影響は大きいといえる。
まあ、詰まるところそれは、小百合たちもリッタスを一番下だと見下していることを意味するのだが。
それは次のサリータの発言でも証明される。
「お前を見ていると後輩を思い出す」
「後輩? 誰だ?」
「馬鹿で間抜けな麻薬の売人だった女だ。いつもドジばかりで迷惑をかけていたが、強運でなぜかいつも助かるやつだ」
「そんな女と私を一緒にするな! いいではないか、運だって実力だ!」
「お前を見ていると、本当にそう思う」
「いちいち引っかかるやつだな! だが、いいのか? お前はあの少女の隣で戦いたいのではないのか?」
「このレベルの戦場では、今の自分ではサナ様の動きについてはいけない。悔しいが、熟練した騎士たちに任せるのが一番だろう」
サリータは、ぐっと歯を食いしばる。
あの場所は本来ならば自分がいるポジションだ。あんなに人数をかけなくても、サナの癖を知っている自分ならば、もっと的確に、もっとやりやすくサポートできるはずだった。
だが、肉体能力が足りない。全力を出したサナには対応できない。
(もっとサナ様に追いつけるだけの脚力があれば…。もっとサナ様を敵の攻撃から守れるだけの腕力があれば…。それを何度も繰り返せるだけの体力があれば…。サナ様が輝きを増すごとに自分は置いていかれるのか)
サリータが強くなれば、サナはさらに上をいく。結局のところ差は縮まっていないのだ。それがこの戦いで露見している。
しかし、現状で上手くいっているのならば、あえて自分がしゃしゃり出ることはしない。最大の目的は生き残ることであり、最深部に到着することである。
そして、まさに奇跡が起こった。
猛烈な突撃によって、ついに第十四階層までたどり着いたのだ。
「あと一層! ここさえ突破すれば、もう最深部だぞ!」
ゼイヴァーたちの姿は見えない。おそらくすでに突破して最深部に向かったと思われる。
しかし、まだ解決していない不安要素があった。
地面から―――赤い蜘蛛
あの深紅の蜘蛛ではない。同じ色で小型の蜘蛛が這い出てきた。
まだ未確定だが、おそらくは雄の個体だと思われる。とすると、この巣穴にいるのは全員が『メス』であることを意味する。カーモスイットたちは全員が雌の個体であったのだ。
カマキリなどがわかりやすいが、自然界では産卵する雌のほうが大きく、強いことが往々にしてある。この蜘蛛も同様の理由で体格差が生まれているのだろう。
そして、この雄蜘蛛たちは『土蜘蛛』(朝廷の敵の意味ではなく、土の中で暮らす蜘蛛)らしく、地面の下には雄蜘蛛たちの生活エリアがあるようだ。
それが術式の影響によって凶暴化。今までは横穴からだけだったが、今度は下穴からも敵が出現するようになったというわけだ。
いまさら数が増えるのは、もうどうでもいい。そんなことで驚かない。
だが、この下ではゴールドナイトを咥えた【紅蜘蛛】が縦横無尽に動き回っているので、地盤に多大なダメージが蓄積。
ついに―――崩落を開始
ガラガラと地面が崩れ始め、所々に大きな地割れや穴が生まれる。
「きゃあああ! クルマが落ちますよ!」
小百合たちのクルマも斜めに傾いて、穴に転落しそうになる。運が悪いことに後ろ半分が宙吊りになってしまった。
ホロロは主砲にしがみついているが、このままでは一緒に落ちかねない。
「地盤を補強する!」
バルドロスの両手が肥大化し、周囲の岩を圧縮して固定する。
(ぐっ、魔石の力が落ちているか! こうも連続して使えば致し方ない)
バルドロスの力も無制限ではない。もともと老齢であるし、魔石の力も枯渇しつつあるため、足場の確保が精一杯だった。
すでにギリギリ。あらゆる面で限界に達しつつあるのだ。
「自分が支えます!」
「私も行く!」
ここでサリータとリッタスがクルマを支え、必死に押す。
クルマも風を噴き出すが、ぬかるみにタイヤがはまったように、なかなか抜け出せない。
「パワーが落ちています! ジュエルを交換しないと!」
「小百合先輩、急いでください!」
「あと五秒待ってください!」
クルマのジュエル交換はガソリンの補充のようなものだ。小百合も必死に交換作業を急ぐ。
その間、サナや騎士たちは蜘蛛を寄せ付けないように戦っているので援護には来られない。
(自分が…自分がやるんだ! もう前回のような失敗はしない!)
脳裏には最初の蜘蛛の襲撃でラノアを守れなかった負い目。今度は絶対に守らねばならない。
「サリータさん、交換しました! タイミングを合わせてください!」
「わかりました! うおおおおおおお!!」
小百合がエンジンを噴かす瞬間を狙って、サリータが全身全霊の力で押す。
その結果―――ぐぐぐっ バタンッ
ようやく安定した地盤に押し出すことができた。
「や、やった! やりました!」
「サリータ! 下から蜘蛛が来ますよ!」
「―――っ!」
ホロロの声で足元を見ると、崩れた地盤、その暗闇から蜘蛛が這い出てクルマにしがみつこうとしていた。
彼らにはクルマが食料にでも見えているのだろうか。それとも単純に人間への憎悪が原因だろうか。
「おいしいとでも言うのかああああああ!! 蜘蛛がああああああああ」
サリータの突盾。渾身の力で赤蜘蛛を突き刺し、かち上げる。
クルマに掴まっていたためボムハンマーではなく、切り落とすために突盾を採用したが、これが見事に成功。蜘蛛が穴に落ちていく。
こうして今では状況に合わせ、少しずつ盾技を使えるようになってきた。それは喜ばしいことだ。
しかしながら強く踏ん張ったせいか、もともと崩れかけていた足元が耐えきれずに―――ボゴンッ
がくんとサリータの身体が宙に浮き、重力によって穴に引っ張られる。
「あっ―――」
「ケサセリア!」
その手をリッタスが掴まえる。
が、彼も他の蜘蛛が来るのを牽制していたので、手を握ったことで体勢を崩し、支えきれずに一緒に引きずられる。
「くっ…! 重い!」
「重いとはなんだ! 鎧と盾のせいだ!」
「それが重いと言っているのだ! だ、駄目だ…落ちる!」
「もっと踏ん張れ!」
「その足元が崩れて―――うわぁあああっ!」
ついにリッタスの足元も崩れ、二人が宙に舞った。
「サリータさん!」
セノアも助けようと、思わず手を出すが―――
「セノア! サナ様を頼む!」
スカッ 空を切る。
差し出された手を、あえて取らなかった。
「サリータさぁあああああああああんっ!」
サリータとリッタスが闇に呑まれて、地下に落ちていく。
穴は底が見えないほど真っ暗。かなり深いことがうかがえる。
「殿下! エノス、わしは殿下を追う!」
「バルドロス様、わたくしも!」
「お前が行っても役には立つまい。それより駆逐艇が必要だ! 自爆させてもかまわん! それを使って最深部まで突破しろ! 我々もなんとか自力でたどり着く! これでも百光長よ、聖剣王国の武人を信じよ!」
「わ、わかりました! バルドロス様! 殿下を頼みます!」
バルドロスがリッタスを追って、穴に飛び込む。
彼がいなくなるのは戦力的に痛いが、殿下を守るのが守護騎士の役目。その行動に迷いはなかった。
が、こちらはそうもいかない。
「…!」
「サナ様、いけません!」
異変に気づき、サリータを追いかけようとしたサナをホロロが止める。
「もう駄目です! 今からでは間に合いません!」
「…ふるふる!」
「彼女は正しい判断をしました!! アンシュラオン様の言いつけを守ったのです!」
セノアが助けようとした手は、サリータが盾を捨てれば間に合ったかもしれない。
だが、非力な彼女では支えきれないため、どちらにせよ防げないどころか、腕が折れる可能性すらあった。だからこそ、あえて落ちることを受け入れたのである。
巻き添えよりも自己犠牲。
アンシュラオンがいつも言っているように【序列】に従って行動したのだ。厳しいようだが、それは正しい判断だ。
「サナ様のお力は雷です! ガンプドルフ様のように地中では不利となります! 追ってはなりません!」
「………」
「バルドロス様がおります! どうかどうか、我慢なさってください! サナ様がおられなければ我々は全滅です!」
「………」
ホロロの切羽詰った声を聴くのは珍しいだろうか。
しかし、保身のために言っているわけではない。すべてはサナのため。彼女を守るためである。そのためならば自らを出しに使うことも厭わない。
「…ぐぐ」
サナが拳を強く握り、歯を食いしばる。
今、彼女の中では『感情』が渦巻いていた。自分でも理解できない強い何かが込み上げてくるのを感じている。
サナはぐっと再び刀を握ると、周囲の魔獣たちと戦い始める。今はクルマを守ることが最優先と判断したのだ。
「………」
だが、サナはサリータを見捨てたわけではない。
トクン トクン トクン
心臓の高鳴る音を聴きながら、彼女の心の中に強い想いが宿りつつある。
―――信じる
―――わたしは信じる
―――自分の【騎士】を信じる
彼女は絶対に死なない。自分が選んだ騎士なのだから
こんな場所で死んでたまるか!!
信頼、友愛、期待、なんと呼んでもかまわない。
声には出せないが、サナの中にサリータを強く信じる気持ちが芽生えつつあった。
だから自分はここで戦うと決めたのだ。
688話 「『影』なる者」
最深部では引き続きアンシュラオンが、ラノアを守りながら術式の解析を行っていた。
相変わらずラノアに向かって魔獣たちは襲いかかっているが、クシャマーベによってすべて撃退。塵にされている。
だが、数が多いのでまったく減っていないようにも見える。さりげなく赤蜘蛛も増援でやってきているので相対的に変化はないのだ。
(それにしてもオレよりラノアのほうが敵視が強い気がするな。この場所が原因なのか、それとも『ラノアは超越者の末裔説』が正しいのか? もし対超越者用に作られた術式ならば、最優先ターゲットには超越者が設定されているはずだ。思えば今まで戦った魔獣たちも後方部隊を狙っていたな)
魔獣が現れるとガンプドルフたち主力部隊が叩いてしまうので、あまり意識はしていなかったものの、挟撃された際は彼らは輸送船あたりを狙っていた覚えがある。
憎悪に狂った魔獣が、敵の兵站を狙うといった高度な戦術を考えるわけもないので、やはり引きつける要素があったのだろう。そうなるとラノアたちを狙っていた可能性もゼロではない。
今もアンシュラオンよりもラノアを優先して狙っているのが、その大きな根拠である。
(まさに『囮役』に最適だったってわけか。仮にラノアたちが何者であれ、オレ自身が人のことを言えた義理じゃないからな。そんなことは気にしないけど、オレの可愛いラノアを狙うとは許せんやつらだ。あとで皆殺しだな。それより術式の対応が先か。だいぶ慣れてきたけど、やっぱりすごいな、これは)
アンシュラオンがエメラーダにもらった術式の本は、初級から中級までだ。たとえるならば小学校から高校程度の内容だろうか。
それと比べて目の前の術式は、数学の専門家でさえ頭を悩ませるレベルのものだ。それが大量に絡み合っているため、解析には数十年、あるいは百年以上の時間が必要になる。
そんなものを術式を習い始めて数ヶ月も経っていないアンシュラオンが、簡単に解析できるわけがない。残念ながらこの男の才能をもってしても無理だ。
がしかし、唯一の勝機があるとすれば実物が目の前にあることだ。
(こんな高度な術式に【直接触れる】機会があるのはありがたいな。オレの術士の因子がフル回転しているのがわかる。核を通せばオレでも中身が見えるぞ)
普通、術式の核は隠されていることが多い。そこに全データが埋め込まれているので、知識ある者ならば解析や改竄が可能になるからだ。
アンシュラオンがゼイヴァーから無線機の技術を盗んだように、直接核となるものを見て触れることができれば、より具体的に理解できる。
ずっと大地の術式の核について言及してきたのは、核さえ見つけてしまえば停止できる可能性があったからだ。
しかし、問題もある。
(うーん、やっぱり普通のやり方じゃ駄目だな。このレベルの術式に本格的に干渉するには【ダイブ】するしかないぞ)
ダイブとは、物的次元を超えた精神領域を介して術式を構築、またはハッキングすることである。
たとえばこのような膨大な術式は、普段表面化している人間の意識下だけでは対応できないことが多い。そのため精神媒体を侵入させて『感覚で演算処理』を行う必要が出てくるのだ。
エメラーダがアンシュラオンに侵入した際も、ダイブを使ってハッキングを仕掛けていた。人間の潜在意識も膨大な量の情報が詰まっているため、ダイブのほうが効率が良いのである。
これを専門とする術士を【ダイバー〈深き者〉】と呼ぶ。
より深い場所に潜るためには専用の術具が必要らしいが、回線を上手く繋いでしまえば遠距離からでもハッキングが可能なので、腕利きのダイバーは世界各国の情報戦で引っ張りだこと聞く。そのあたりはインターネットに似ているだろうか。
その代わり、これまたエメラーダが危険な状態に陥ったように、何かあれば直接精神にダメージを受けるため、できれば安全な環境下でやるのが一般的だ。
(ただでさえダイブは初めてなんだが…この状況では贅沢は言えないな。まだ女王蜘蛛が耐えている間にさっさとやるか。何事もやってみれば簡単なもんだ)
アンシュラオンは目の前の巨大なジュエルに念糸を接続し、精神媒体を術式の海に送り込む。
これは『直接ダイブ』と呼ばれる形式で、理屈は以前ラノアに教えたものの上位版と思えばいい。
補助術具がいらないのが最大のメリットだが、目の前のものにしかハッキングできないので、用途はかなり限定的といえるだろう。
まずはプロテクトを外して、内部に侵入。
(なかなかに面白い。まるで剥き出しの感覚の中にいるようだ。まあ、精神媒体なんだから当たり前か。ほぼ幽体だからな)
術式の世界は、言葉で表現するのが極めて難しい。より生命の実相に近づくことを意味するため、あらゆるものが地上とは違う。
人間が曖昧に感じている、愛や勇気、希望といった要素も、言ってしまえば構築された情報の一つにすぎない。それが目に見える世界なのだから無駄なものは何一つなく、すべてが繋がっているがゆえに複雑だ。
ただし、そうでいながら全体はシンプル。
複雑な配線を綺麗に整えたパソコンのように、見た目は美しくまとまっているのである。今からやる作業は、中身を開いてそのコードを引きずり出し、内部のCPUを分析するのに似ている。
(浸っている場合じゃないな。意識が加速しているから外の世界より作業量は増やせるが、その分だけやることは山積みだ。さっさと行こう)
中に入ると膨大な術式が浮かんでいる。
なぜこれだけの量が必要なのかといえば、あらゆる精神構造をした魔獣に対応するためである。知能が高い魔獣から何も考えていないアメーバのような魔獣まで、すべてを網羅していることが最大の特徴だ。
たしかにこれならば、比較的生理反応が鈍い植物系の魔獣すら操ることができるだろう。食人森で人が襲われるのは、この術式のせいかもしれない。
(人間だけでも大変なのに、全種類の魔獣のデータが蓄積されているってありえないよ。『種《しゅ》』の起源を知らないとそんなことは不可能だ。前文明の技術を転用した可能性は十分あるな。もともと使役していた魔獣たちのデータを流用したのかもしれない。…おっと、排除プログラムに見つかったか)
これだけの術式だ。その中には侵入者を攻撃するアンチウィルスプログラムも存在し、アンシュラオンを排除しようと動く。
精神媒体は剥き出しの心と同じなので、受けたダメージは直接精神に損傷を与えることになる。良くて廃人、悪くてショック死、もっと最悪な場合は潜在意識にダメージを受けて霊の昏睡状態に陥る。
(勝てば問題ない。こっちも術式で対抗すればいい)
アンシュラオンは、通常の戦いと同じように相手を拳でぶん殴って破壊していく。
これはあくまでイメージであるが、相手への破壊衝動がそのままプログラムの破壊に繋がるので、次々と免疫プログラムを壊していく。
(術式を停止するプログラムはどこだ? どんなものにでも保護機能が必ずある。最初に出来た破壊の痕跡を辿っていけば、その先にあるはずだ)
術式は事故が起こると大惨事になるため、必ず途中で止まるような保護機能がある。
サナの魔石にも『精神保護』があったと思うが、あれは外部からの精神攻撃を防ぐのと同時に、精神が大きな負担を受けた際に強制的に保護するものでもある。逆説的にいえば、そうした保護機能によって外部からの精神攻撃をシャットアウトできるのである。
そして、この術式においても、しばらく止まっていたのはその保護機能が発動していたからだ。すでに一度止まっているため、そのエラー記録を辿ればいい。
しばらく進むと、ひときわ巨大な術式プログラムを発見。
(でかい。まるで宇宙空間だ。あれが中央プログラムか)
まるで宇宙のような、なんとも美しく荘厳な光景が広がっていた。
真っ暗な空間に球体状のメイン術式核が存在し、その周囲を土星の環の如く大量の補助術式が覆っている。その規模を考えれば、これが中央プログラムだと思われる。
(とんでもない演算処理を行っているな。これを作ったやつは間違いなく【天才】だ)
走っている術式の内容は凶悪だが、技術的には最高峰のものだ。術式自体に罪はない。それを操る側の意思次第で善にも悪にもなる。
そして、アンシュラオンが近寄ろうとすると、声が響く。
―――〈やぁ、どうも。こんな場所まで何の用かな?〉
中央プログラムの前に、人影。
顔はない。身体も見えない。ただ真っ黒な人影だ。
だが、明らかなる意思をもってこちらを見据えていた。
声は中性的だが、やや女性のような高いトーンであった。
(これは疑似人格か? …いや、違うな。もっと人間味のある意思だ)
AIと人間の違いは、やはり自らの意思があるかどうかだ。
意思とは単純な思考回路のことではなく、霊から出る知的な波動を指す。進化し続ける知的生命体としての意思の力。それこそが真なる意思である。
この人影からも完全ではないが人間と同じ波動を感じる。といっても、本当に人間かはまだわからないが。
アンシュラオンは警戒しつつ、探りを入れるように対話を開始。
「誰だ、お前は。この術式を作ったやつか?」
―――〈キミこそ、誰だい? ボクの作った領域に干渉するなんて……ああ、そうか。もうそんな時期か。外の時間が流れるのは早いね〉
「質問に答えろ。お前は誰だ?」
―――〈ボクに名前なんて無いよ。だからボクを定義するものはボクじゃない。観測する側のキミさ。そういう存在なんだ。ごめんね〉
「やれやれ、そんな面倒くさい問答をするために来たわけじゃないんだ。術式が止まればそれでいい。お前が管理者なら、さっさとやってもらおうか」
―――〈ははは、居直り強盗かな? ここはボクの場所なのに勝手に入ってきて命令するなんて、キミは面白いやつだね。でも、ボクだって好きでやっているわけじゃないからね。これが仕事なんだ〉
「仕事? この術式を維持することがか?」
―――〈へぇ、アンシュラオンっていうんだ。いい名前だね。いいなぁ、名前か。ボクも欲しかったな〉
「っ…オレの中に入ろうとしたな! 気持ち悪いことをしやがって! どっちが強盗だ!」
―――〈ナイーブな女の子みたいなことを言うんだね。意外と繊細だ。お互いに精神媒体なんだから、見えちゃっても仕方ないよね。でも、ボクの干渉を防ぐなんてやるね。ますます気になっちゃう〉
「穏便に済ましてやろうと思ったが、もう許さん! オレはオレを支配するやつを許さない! 消えろ!」
アンシュラオンが即席で破壊プログラムを構築。相手に叩き込む。
だが、黒い影も即座に解除コードを見つけると、一瞬で自壊させた。
(演算処理は向こうのほうが上か。しかも手際がいい。相当な使い手だぞ)
エメラーダと同等。いや、それ以上の相手かもしれない。
さきほど侵入されそうになった時も、彼女との一戦の経験がなければ乗っ取られていた可能性もある。それだけの強敵だ。
警戒を強めるアンシュラオンとは対照的に、黒い影は楽しそうに笑う。
―――〈乱暴だなぁ。わかったよ。じゃあ、ボクのことも見せちゃおうかな。ちょっとだけだよ? あんまり見たら恥ずかしいから、少しだけね?〉
「ふざけやがっ―――うっ! なんだこれは…! この【記憶】はいったい?」
―――〈『大日本帝国』の記憶は懐かしかったかい? あの時代も楽しかったよね〉
アンシュラオンが再生前に暮らしていた地球と呼ばれる惑星、その中の国家の一つ。
世界最大の軍事国家であり、十年戦争という激しい大戦を戦い抜いた英雄たちが住まう場所。
激しく、美しく、燃えるような熱い情感がアンシュラオンの脳裏を?き乱す。
そして一番の疑念は、これは自身の記憶ではないこと。まったくの他人の記憶であった。
そこから導き出される答えは一つ。
「お前もまさか―――【転生者】なのか!?」
―――〈うーん、当たりでもあり外れでもあるね。ボクは影の一つにすぎない。一部の記憶にすぎないってことさ。インディビジュアリティーの中のパーソナリティーでしかないんだ。キミなら意味がわかるだろう?〉
「ちっ、答えになっていないだろうが。お前は何者だ? なぜここにいる? お前がこの術式を作ったのか?」
―――〈最初の質問に戻っちゃったね。関わったかと問われれば、答えはイエスだ〉
「何のために?」
―――〈そんなことは自明の理じゃない? 結果から原因を探ればいいだけだよね。あまり人間に来てほしくないだけさ〉
「お前も超越者なのか?」
―――〈超越者か。たしかに彼らは優れた力を持っていたけれど、ただそれだけの人間でしかなかった。彼らはやりすぎた。傲慢な種が滅びるのは自然の摂理だろう?〉
「やはり術式を作ったのは超越者じゃないんだな」
―――〈キミは考古学者? そんなことを知ってどうするの? 本にでも書いてみるのかな?〉
「それもそうだな。お前を捕まえて標本にしたほうが高く売れそうだ」
―――〈あははは、キミは本当に楽しいやつだね。ボクを前にして怖れない存在は貴重だよ。…そうだな。ここはもういらないや。キミにあげるね〉
「っ…何をした!? 術式が崩壊を始めているぞ!」
―――〈1200秒あげるよ。もし止められたら【お友達】になってあげてもいいよ?〉
「イタ嬢じゃあるまいし! オレは友達は選ぶ主義なんだ。お前なんてお断りだ」
―――〈拒絶されると抱きしめたくなるよね。愛してあげたくなる。でも、そろそろ戻らないと。パミエルキなら30秒もいらないだろうけど、キミは何秒かかるかな?〉
「―――っ! 姉ちゃんのことを知っているのか!?」
―――〈今回の災厄の魔人だもの。知っているに決まっているよ。じゃあ、またね〉
「この状況で放置するのかよ! こんなものが崩壊したら術式事故が起きるぞ!」
―――〈そんなに焦らないでよ。ちゃんとできたら、ご褒美に『やらせて』あげるから。ボクの初めて、あげちゃうね。ふふ、楽しみだよ〉
「待て、無責任だぞ! お前の手垢のついたものなんぞ、いるか! 勝手に置いていくな!」
―――〈ごめんね、本当に忙しいんだ。言っただろう? ボクは影なんだ。本体に戻らないといけない。安心して。ボクは君の敵じゃない。味方でもないけどね。だから友達さ。それじゃ、いつか会う日を楽しみにしているよ。バイバイ〉
そんなものは友達じゃないだろう!と言いたかったが、すでに影は消えていた。
(なんだあいつは? 『影』…か。たしかに文字通り、そこにいる実感がなかった。それにあの記憶は…あいつも転生者なのか? いや、そんなことより早く対処しないと本当にやばい! 覚えていろよ! 次会ったら絶対にぶん殴る!)
黒い影が管理をこちらに丸投げしたため、すでに中央プログラムが勝手に動き出している。ただでさえ損傷しているのだ。そのうち暴走して爆発自壊に至るだろう。
そのせいでアンシュラオンは術式が崩壊するのを防ぎながら、強制停止コードを探すという高度なことをやらねばならなかった。
失敗すれば、死。
さきほど述べたように精神が死ぬだけではなく、霊の昏睡状態にまで陥る可能性があった。
∞†∞†∞
その頃、物質世界ではゼイヴァー隊が最深部に到着していた。
「はぁはぁっ! 突破できたか! 何人残った!?」
「十三人です!」
「十分だ! よく耐えた!」
遊撃隊から七名の犠牲を出してしまったが、あの猛攻を凌ぎつつ、突破まで可能としたのだ。彼らはまさに精鋭といえた。
すぐさま内部の状況を確認。
(あれはアンシュラオン殿か。見事に敵を引き付けてくれている。しかし、巨大なジュエルが光っているのはなぜだ? やはり何か異変があったのか)
ゼイヴァーにも事前に術式のことは説明されていたが、専門外のために援護はできそうもない。
それよりは、今がチャンス。
この術式は魔獣をひどく盲目にさせる。よほどのことがなければ最初にターゲットにした相手から敵視が外れることはないだろう。
変な例だが、MMOでタンク職に敵がひたすら攻撃する光景に似ている。真後ろから攻撃されても特定の敵しか攻撃しない違和感が、そこにはあった。
(だが、ナージェイミアにはまだ女王蜘蛛がいる。ここはどう動く? …迷っている暇はないか。あれが我々の目標なのだ)
「ナージェイミアに接近する! できるだけ隠密で動くぞ!」
ゼイヴァー隊が魔獣の群れの背後を通り抜ける。
いくらアンシュラオンたちが敵視を集めているとはいえ、いつこちらに牙を剥くかわかったものではない。しかも目の前には女王蜘蛛までいる。その恐怖と圧迫感は想像を絶するものである。
(頼む、気づくなよ)
今のところ、女王蜘蛛が動く気配はなかった。もぞもぞ動いてはいるが、こちらに注意を向けていない。
そのおかげでゼイヴァー隊は戦艦ナージェイミアに接近することができた。
あと少し。もう少し。それで報われる。
そんなときに地面から―――蜘蛛
あの赤い蜘蛛が何十、何百と這い出てきた。
(くっ、あと少しだというのに! ここまで苦しいものか!)
「全員、踏ん張れ! ここを突破すれば、我々の勝利だ!」
部下を奮い立たせるために何度も叫んだ言葉だ。何の根拠もない精神論を振りかざすことほどつらいことはない。そのたびに部下が死んでいく。
今回もそんな苦しみを味わうのか、とゼイヴァーが嘆いた時である。
頭上から振ってきた大きな刃が―――切り裂く!
ずばっと赤い蜘蛛が真っ二つに引き裂かれ、続けて振るわれた一撃で四つに分かれて絶命。
蜘蛛の体液が舞い散る中、そこにいたのは大剣を持った鎧姿の男だった。
「よぉ、ゼイヴァー。こんな陰気臭いところまでよく来たな!」
「あっ…ああ! デュークス百光長…! ご無事でありましたか!」
「ああ、俺だけじゃないぞ!」
周りを見れば、赤い蜘蛛が次々と切り裂かれ、叩き潰され、排除されていく光景が見えた。
特に両手に小剣を持った男が圧倒的で、瞬く間に五匹の蜘蛛を倒した。
その手際は最小限かつ最大効率。蜘蛛の胴体にある心臓部だけを狙って貫き、回転しながら抉ることで絶命させている。
「マルズレン百光長も!」
「挨拶はいいから早く来い! こんなところにいたら囲まれちまうぞ! おい、マルズレン、撤収だ! 甲板に戻るぞ」
「了解した。だが、殿はお前がやれ」
「俺かよ!」
「何のための大きな剣だ。そのほうが効率的だろう」
「まったく、効率効率ってよ。人生がそんなに上手くいっていたら、俺たちは最初からこんな場所にいねぇよ!」
そう文句を言いながらも、デュークスが殿を務めて敵を薙ぎ払う。
さすが百光長。その戦闘力は極めて高いレベルにあった。
ゼイヴァーたちは、デュークスとマルズレンたちの援護を受けながら、戦艦に到着。
甲板に引き上げられ―――ついにゴール!
フルマラソンを走り抜いた選手が倒れるように、息も絶え絶えのゼイヴァーたちが周りの騎士たちに支えられる。
そこにはメーネザーもいた。異変を察知した彼が騎士たちを戦艦の下で待機させていたのだ。
「よく来てくれた、ゼイヴァー百光長」
「メーネザー千光長…遅くなりまして申し訳ありません」
「それはこちらの台詞だ。迷惑をかけてしまったな。さっそくそちらの状況を教えてくれ」
ゼイヴァーはメーネザーに状況を説明。
事前にガンプドルフから渡された記録ジュエルもあったため、大雑把ながら巣穴の地形図が入手できたことも大きい。
「これはありがたい。閣下には手間をかけさせた」
「そちらの状況はどうなのですか?」
「一部に破損や廃棄したブロックがあるが、艦自体に大きなダメージはない。現在動ける騎士は、約百五十名だ」
(ああ、報われた)
それを聞いたゼイヴァーは、初めて安堵感を覚えた。
ここにいる騎士は誰もが精鋭。それが百五十人おり、中にはデュークスやマルズレンといった猛者もいる。彼らの力もあれば脱出は十分可能だ。
「千光長、いつ動きます? こっちはいつでもいけますよ」
デュークスが武器を肩に担いだまま、うずうずした様子で訊ねる。
彼らも今までの鬱憤が溜まっている。反撃したくて仕方ないのだろう。
だが、メーネザーはまだ動かない。
「まだだ。今動いても女王蜘蛛の反撃に遭ってやられるだけだ。必ず隙が生まれるはずだ。そこを狙う」
「まだ待機ですか。しんどいですな」
「力とは一気に集中して放たねば意味がない。もう少し待て。閣下もそう考えておられるはずだ」
「了解です。まあ、千光長が言うのならば、それが正しいんでしょうな」
「脳筋は黙って命令通り動け、ということをおっしゃっているのだ。馬鹿は少し黙っていろ」
「うるせぇよ、マルズレン。お前こそ黙ってろ!」
(まあ、頼もしいと思っておこう)
こうした二人のやり取りを見て、騎士たちの士気が上がっていることを喜ぶべきだろう。
だが、ここで焦らないのがメーネザーという男だ。慎重すぎると言われるかもしれないが、常に結果を出してきたからこそ部下たちもおとなしく従うのである。
そんな彼の目に映るのは、白い少年。
(あの少年が、閣下がおっしゃっていた太陽か。今は彼にかけるしかないな)
戦艦に張り付いた女王蜘蛛の存在。いまだ大量にいる魔獣の群れ。紅蜘蛛に捕まったガンプドルフ。穴に落ちたサリータとリッタス。
そして、妖しい光を放つ巨大ジュエル。
アンシュラオンがこのジュエルを制御しなければ、どのみち全滅だ。
場は異様な緊張感に包まれていた。
689話 「魔人の騎士 その1『眠れる資源』」
「うひいいいいっ―――!!」
サリータが暗闇の中に落ちていく。
落ちる、落ちる、落ちる。
浮遊時間から考えるに、かなり深い穴に落ちたようだ。
不幸中の幸いだったのが、戦気を使えることで防御力が格段に上がっていたことと、完全な垂直ではなかったことだ。
時々坂が存在しているので、そこに激突するおかげで衝撃が緩和されていった。
そして、最後の落下。
ひゅーーー ドサッ
サリータの身体が、何か柔らかいものに当たり、吸い込まれるようにして五メートルほど沈んだ。
(くっ…ううっ……生きて…いるのか?)
目の前は真っ暗だが、身体の感触はしっかり感じることができた。多少痛むところはあるものの骨折といった致命的な負傷はないようだ。
それもこれも柔らかい地層に当たったせいだろう。逆に柔らかすぎて這い上がるのが難しかったくらいだ。
なんとか登り、また転げ落ちるようにして着地。
(こんな穴に落ちるとはなさけない。だが、生きているだけましか)
周囲は完全な真っ暗。上の巣穴部分のほうがまだ明るかったと思えるほどだ。
(どこに敵がいるかわからない。警戒しなければ)
と、立ち上がろうとした時、手に柔らかい感触。
(そういえばマッケンドーも一緒に落ちたのだったな)
こういうときはだいたい男が女の下敷きになって「おい、重いぞ!」となるのが定石だ。
サリータはそんな漫画的なベタ展開のことは知らないので、単純に一緒に落ちたのだから目の前にいて当然と思ったにすぎない。
が、妙にフカフカしている。もっといえば毛深い。
「あいつはこんなに毛深かったか? それに妙に筋肉質だな…って、うわわっ!」
目が慣れ、うっすら見えたものは鬼の顔。サリータが乗っているのは鬼怒獣であった。
だが、まったく動かない。どうやら死んでいるようだ。
周囲をさらに見回すと所々に蜘蛛の死骸がある。今死んだようには見えないので、サリータよりも先に落ちていたことから、少し前にここで戦って死んだ個体だと思われる。
慎重に調べてみたが、やはり生きている個体はいない。それを知って落ち着いたサリータは壁を触って現状を確認する。
ここはどうやらカマボコ型のトンネルのような場所で、ちょうどクルマが一台通れるくらいの横幅があった。空気は重いが、そこまで息苦しさは感じないのが救いだろう。
(あの赤い蜘蛛は地面から這い出てきた。普通に考えれば、あいつらが掘ったのだろうな。だが、困った。ここから登るのは大変そうだ)
サリータが落ちた場所は、トンネルを作る際に掻き分けた土が集まってできた塚らしき場所であった。よくよく見れば、穴の下には同じような塚がいくつかある。
何のために存在しているのかは不明だが、そのおかげで怪我をしなかったのだからありがたい。
ただし、天井にあいた穴を登れるかは怪しい。上までかなり距離があるだろうし、体力的にもギリギリだ。重装備であることも懸念材料だった。
(鎧と盾を捨てれば登れるか? 最悪はそうしてもいいが、これが最後の装備だ。予備はもうない。武具がない状態で蜘蛛と遭遇したら、それこそお陀仏かもしれない。しばらく様子を見るか)
今までのサリータならばパニックに陥っていたかもしれないが、一度死を覚悟したがゆえに思ったより落ち着いていた。
生き延びるためにはどうすればいいのかを冷静に考える。
(周囲に敵はいない。まずは体力の回復だ。師匠からもらった治療水で消毒しよう)
サリータはポケット倉庫から命気水を取り出して、ガーゼに浸してから痛む箇所に押し付ける。
スラウキンが現在開発中の回復薬の原液なので、その効果は抜群。細かい傷が治り、細胞に活力が戻っていく。
そのまま飲んでも良いとのことなので、ごくごくと飲んで一息つく。ついでに携帯食料で軽く胃を満たす。
「ふぅ…しみ入るな」
身体が楽になれば思考も楽になる。また戦おうという気持ちが湧く。人間とは強いものである。
これからどうしようかと迷っていると、遠くに光が見えた。光は少しずつこちらに近づいてくる。
(敵? いや、魔獣がこのような光を発するとは思えないな)
静かに光が来るのを待ち、サリータの足元が照らされた時、やや上から聞き慣れた声が響く。
「なんだ、飯まで食っているとは随分と余裕だな」
「遅いぞ、マッケンドー。どこに行っていた」
「私はお前の従者ではない。甘えるな」
そこにいたのはリッタス。
かなり鎧が凹んでいるが五体満足のようである。相変わらず頑丈な男だ。
あの光は彼が持っていた携帯用ランタンだったようだ。DBDの標準装備であり、キャンプではそこらに転がっているので珍しいものではない。
「お前は違う穴に落ちたのか?」
サリータがリッタスに訊ねる。
その声はいつもより穏やかだった。どんな相手であれ、ここでは同じ人間がいるだけで安心感を覚えるものだ。
「そうだ。ここは穴だらけだからな。途中で分岐している違う穴に落ちたのだ。まったく、とんだ災難だ」
「お前が踏ん張れなかったのが悪い。おかげでサナ様とはぐれてしまった」
「それが手を差し伸べてやった者への台詞か!? だんだんあの男に似てきているぞ」
「師匠に似るのならば光栄だ」
「ふん、無駄口を叩いている暇はない。さっさと来い」
「どこに行くつもりだ?」
「上に戻るに決まっているだろう。出口を探す」
「落ちてきた穴から登ればよいのではないのか?」
「やめておけ。蜘蛛の死骸に埋もれたくなければな。まだ生きている個体もいるだろう。私は蜘蛛と戯れる趣味はないぞ」
その言葉に、サリータが天井の穴を見つめる。
サリータたちでさえ落ちたのだ。大量にいる蜘蛛が落ちていないわけがない。それが死んだものならばまだいいが、蜘蛛の生命力は高いので、途中でカーバラモやカーネジルになっている可能性もある。
そんな蜘蛛と狭い穴で遭遇することを想像するだけで、思わず背筋が寒くなる。
「行くぞ。早く来い」
「おい、待て! 勝手に行くな! 暗くなるだろう!」
「戦気を出せば周囲は明るくなるぞ。お前はもう使えるだろう」
「…あっ、なるほど」
「だが、力は温存しておけ」
「どっちだ! それを早く言え!」
サリータは、歩き出したリッタスを慌てて追いかける。
(なるほど。戦気は一応明かりにもなるのだな。だが、逆に目立つか)
戦気は生体磁気を燃やした化合物なので光を発する。夜の戦いともなれば目立つので、隠密行動をする際は気をつけねばならない。
二人は暗いトンネルを歩き、いくつかの分岐点となる横穴を通過。
しばらく歩くと、大きい空洞に出る。
そこにはバルドロスが壁にもたれていた。が、一目見てすぐにわかるほど負傷していた。
「っ! 百光長、大丈夫ですか!?」
「よかった。貴殿も無事だったのだな」
「あなたも落ちたのですか?」
「いや、貴殿らを追いかけたのだ。といっても殿下を優先した。すまぬな」
「…いえ、自分が同じ立場ならばサナ様を優先します。当然のことです」
「騎士らしい顔つきになってきたな。わしは殿下を追いかけたが、落ちた場所が悪かった。こちらは蜘蛛だらけだった。貴殿のほうはどうだ? その様子では大丈夫だったようだな」
「はい。幸いながら鬼の魔獣が先に落ちていたようで、それが代わりに戦ってくれたようです。生きた蜘蛛とはまだ遭遇しておりません」
「なんだ、お前のほうが運がよいではないか」
リッタスの言葉も頷ける。たしかに運がよかったのだ。
(もし逆の立場だったら自分は死んでいたかもしれないな)
バルドロスの怪我は落ちた衝撃ではなく、大量の蜘蛛と交戦して負ったものだ。
それを物語るように、周囲には蜘蛛の死骸がたくさん転がっている。もしサリータだったならば、単独でこれだけの蜘蛛は倒せなかっただろう。
落ちた個所も場所もよかった。まさに運が味方したのだ。
「朗報かどうかはわからぬが、この赤い蜘蛛は『脱皮進化』はしないようだ。傷つけても繭にはならぬ。その代わり単純なパワーは上だ。気を付けるといい」
「種類が違うのでしょうか?」
「かもしれぬな。どのみちこんな場所に長居は無用だ。貴殿も必ず上まで戻すと約束する。そのために来たのだからな」
「あ、ありがとうございます!」
「バルドロス、無理をするな。魔石の回復までには時間がかかるのだろう? さっきの戦いでも、いつもの力は出ていなかった。かなり消耗しているはずだぞ」
「一回だけならば、なんとかしてみせます」
「その一回が中途半端では困るし、お前が倒れたら終わりだ。ここには三人しかいないのだからな。この状況下では援軍は望めないだろう」
「三人…か」
サリータは周囲を見回すが、いるのはこの三人だけだ。リッタスの言う通り、この中でもっとも頼れるのはバルドロスである。
援軍が来るなどと期待してはいけない。上も生きるだけで精一杯。わざわざ危険な地下に人員を派遣する余裕はない。
当然、身内の仲間もいない。サリータは知らないが、今現在アンシュラオンも苦労している。助けに来ることは難しい。
(独り…なのか。独り……独り。独りがこれほど心細いとは…)
アンシュラオンがいない。サナがいない。ホロロや小百合もセノアもラノアもいない。シャイナもいない。
改めて自分が独りだと感じると、地底の冷たさもあって身震いする。
「先の様子を見てくる。バルドロスはここで休んでいろ」
「殿下、危険ですぞ」
「ここにいても危険なのは同じだ。いくら百光長が強くとも独りでは限界がある。残念ながら私では役に立たないからな。それにやつらが突然、攻撃的になったことも違和感がある。早く合流したほうがいい。まずは安全に上がれそうな穴を見つける。一緒に来る、などと言うなよ。その穴を登るためのパワーを確保してもらいたいのだ。そうでなければ一生ここで暮らすことになるぞ」
「…わかりました。危なくなったらすぐに戻ってきてくだされ」
「ああ、そうさせてもらう。ケサセリアはバルドロスと一緒にここに残れ」
「自分も行くぞ。お前だけで行って蜘蛛に出会ったらどうするつもりだ」
「土下座が通じない以上、全力で逃げる」
「…潔い言葉だな。だが、その時間を稼ぐためにも自分が必要だ。せっかく調べても、お前がやられて情報が遮断されたら意味がない。それこそ時間の無駄だろう?」
「ふん、邪魔はするなよ」
「それはこちらの台詞だ」
本来ならばバルドロスと一緒にいるほうが安全ではある。しかし、逆に自分がいることで足を引っ張る可能性があった。
実際、彼が怪我をしたのもリッタスがいたからだ。サナと交戦した際も守る戦いだったから足元をすくわれたのだ。
ふと、サナのことを思い出す。彼女と一緒に戦いたいが、レベルが釣り合っていなければ邪魔になる。それを見せつけられているようで心苦しい。
しかし、リッタスならばレベル的にも大きな差はない。その点は安心だ。
(こいつに死なれても後味が悪い。少しくらいは守ってやるか)
決闘で勝った側としての余裕もある。それくらいの度量を見せてもいいだろう。
というのは口実で、実際は光が遠ざかっていくのが心細かったにすぎない。あれを見逃したら、もう二度と見つけられないような気がしたのだ。
彼女が臆病者なのではない。誰だってこんな絶望的な場所にいたら心細くなるものだ。
サリータとリッタスは、二人で偵察に出る。
ここは複雑に入り乱れており、穴と穴が途中で繋がってまったく違う方向に出ることも珍しくはない。
迷わないように壁に夜光塗料スプレーで色を付けて進んでいく。こちらもDBD製の軍事用品である。
しかしその都度、リッタスが不思議な行動をしていた。
小さなハンマーを取り出し、ガンガンと壁を叩くのだ。それから叩いた場所を撫でたり、砕いた岩盤を噛んだり舐めたりしている。
「何をしているんだ? いくら腹が減ったとはいえ、さすがに石を食べるのはどうかと思うぞ。どうしてもというのならば、食料くらい恵んでやらないでもないが…」
「蜘蛛ではないのだ。石など喰うか。見てわからないのか? 調べているのだ」
「我々が今求めているのは出口だろう?」
「その出口を探るのにも地層を調べる必要がある。やつらもあえて硬い地盤を掘ることはしないだろう。うむ…やはりか。このあたりは『鉄鉱床』のようだな」
「何だそれは?」
「名前の通り、このあたり一帯の岩盤には【鉄】が含まれているということだ。考えてみれば当然だ。あの蜘蛛は金属を食べるらしいからな。誰だって食料がある場所に住みたいと思うだろうさ」
そう言って、リッタスが砕いた岩盤の欠片を見せる。
暗いのでよく見えないが、もともと知識がないサリータにはただの石にしか見えない。
「話には聞いたことがあるが、それが鉄なのか?」
「この石自体を使っているわけではない。これに鉄が含まれているのだ。本格的に利用するのならば、まずは還元剤を使って高炉で不純物を取り除く必要がある。それに、鉄と一言でいってもさまざまな品質がある。この鉄が何に向いているのか実際に試してみないとわからんな。どちらにせよ量自体はかなりのものになるはずだ。これを見つけただけでも来た価値はあるぞ」
「鉱山…という認識でいいのか?」
「意味は同じだ。我々からすれば宝の山だ」
これだけの蜘蛛が生活するには莫大な量の食料が必要となる。そもそも生物は食料が豊富な場所に住み着くものだ。
ならば石や金属を食べる蜘蛛の近くには、こういった場所があってしかるべきだ。実際に戦艦の高炉を使って鉄を生み出していたので、この一帯が鉄鉱床なのは間違いないだろう。
そう、ここは宝の山なのだ。
蜘蛛にとってはただの食料でも、DBDにとっては貴重な資源が眠る場所だ。アンシュラオンからしても鉱山確保が一つの目的でもあるため、お互いにとって価値ある場所といえた。
実は蜘蛛打倒を決めた背景にはこうした目算もあったわけだ。
690話 「魔人の騎士 その2『本質の理解』」
(鉱山か。師匠が探していたものだな。だが、求めていたのはギアス用の媒体と聞いていたが…)
「鉄は魔石とは違うのか?」
「魔石とは、力を持った石全般を指す。鉄も特殊な力を宿せば魔石になることもあるが…あまり聞かない話だな。どちらかといえば鉄鋼にして、一般的な武器や建築資材にするのに向いている」
「我々の鎧に使っている素材も鉄か?」
「これはクリスタル製だが高純度のものは貴重だ。そちらは百光長以上の優れた武人に回し、一般騎士が使っているものは他の金属を混ぜ合わせた合金の場合がほとんどだ。この盾だって補強には鉄鋼を使っているしな」
「なるほど。かさ増しにも使えるのだな」
「そうだ。何をするにも鉄資源は必要になる。仮に低品質であっても量が重要なんだ。東大陸では石工技術が盛んのようだが、当然ながら鉄鋼のほうが強固だ。建物を作るのならば鉄筋のほうが長持ちする。ほぅ、こっちの岩盤は磁気を帯びているな。鉄をよく含んでいそうだ」
「………」
「なんだその目は?」
「いや、詳しいと思ってな。意外だった」
「私とてそれくらいの知識はある。実際に鍛冶場や建築現場で働いていたこともあるからな」
「殿下なのにか? ああ、そういえば元民間人だったな」
「民間人の何が悪い。上でふんぞり返っている間に国を奪われるほうが笑い話にもならん。私からすれば王室の連中は全員失格の無能だ」
「国を守るのは軍部の役割なのだろう? 王室はふんぞり返るのが仕事ではないのか?」
「お前な、王室をなんだと思っているのだ」
「貴重な血を残すのが仕事だと聞いているが…違うのか?」
「…間違いではないが、その間に血が廃れる可能性だってあるだろう。現に今の王室はまるで役立っていないどころか、逆に軍部の足を引っ張る連中もいる。これだけの戦争だ。『内通者』がいなかったと思うか?」
「なっ…それは裏切り者ということか?」
「当然の話だ。国家といっても大きな組織と大差はない。庇護が危うくなれば裏切る連中もいるし、平時でも当たり前のように国の利益を売り飛ばす輩もいるものだ」
この世界には、厳密な意味で人種が存在しない。すべてが女神の子だからだ。
日本人ならば日本のために尽くすのが当たり前に思えるだろうが、そもそもそういった国籍や人種的な考え方が希薄なので、国家といえども最大規模の組織という扱いでしかないのだ。
そうなれば裏切り者が出るのは致し方が無いことだ。リンダやシミトテッカーのように理由が何であれ、組織を売る人間は後を絶たない。
ただし、その一方で『郷土愛』は強い傾向にあり、国家の歴史が長ければ長いほど愛国心が芽生えていくのは地球と何も変わらない。
「お前の言い方だと、王室からも裏切り者が出たのか?」
「…そうだ。それを知ったのは戦後だったがな。俺は国を売った連中を許しはしない。ましてや、そんなやつらのために死に物狂いで生きているわけでもない。俗物のために犠牲にされてたまるか!」
リッタスは作業を続けながら、吐き捨てるように嫌悪の感情を露わにする。
サリータもDBDが戦争で負けたことは教えてもらった。キャンプにいる騎士や兵士たちは明るく振舞っていたが、その根底にあるのは強烈な怒りと憎悪だ。
それはまるで操られている魔獣たちと同じであった。
「ふん、お前には興味がない話だったな。あの男…お前の主人もDBDの末路になど興味はなかろう。だから言ったのだ。所詮はその程度の間柄だとな」
「キャンプでの話か?」
「人は利益でしか動かない。それをあの男はよく知っている。そんな男がお前を身内にしていることも不思議だな」
「蒸し返すつもりか? どうやら盾の味が恋しいらしいな」
「挑発しているわけではない。単純に疑問なだけだ。お前はあいつに何を提供している? 利益でしか動かない男に、いったい何を提供すれば身内になれる? 美しさか? 若々しい肉体か? それとも女特有の媚か?」
「おい、無礼が過ぎるぞ。やはり挑発しているんじゃないのか?」
「そう思うのは、お前があいつの【本質】を理解していないからだ」
「本質?」
「…俺はあいつが怖いぞ」
「…え? 師匠のことか? たしかに他人から見れば怖いかもしれないが、優しい人だぞ? 修行もつけてくれるしな」
「お前が利益を提供できている間はそうだろう。だが、それができなくなったらどうなるんだ? 捨てられないと言い切れるのか? 現にお前は切り捨てられたではないか」
「…序列に従っただけだ。後悔はない」
「たいした『犬』だな。よく訓練されている。軍人よりも軍人らしいやつだ」
「それは明らかに皮肉だな? よし、殴ろう」
「全部が終わったら好きなだけ殴ればいい。だが、俺は事実を述べているだけだぞ。お前はあいつのことを理解していない。あいつは偽善者であろうともしない怖い男だ。平然と人を裏切り、平然と人を殺す。そういう強さを持っているんだ。まるでこの世界の裏側にいる連中と同じだな」
「…そんなことを聞かせて自分にどうしろと言うのだ?」
「どうするもお前の勝手だ。ただ、それを理解しない限り、何度でもこのような状況に放り込まれることになるだろうな。それによって誰かが巻き添えになることもある。それだけのことだ」
「暗に落ちたことを責めているだろう?」
「それくらいの愚痴はかまわんだろう。バルドロスがお前の命を守ってやっているのだからな。まあ、これも取引だ。お前を守ればあの男の力が手に入ると思えば安いものだな。聖剣長もそのあたりは割り切っているはずだ」
「一緒に戦っていてもわかりあえない、ということか? こうして同じ場所にいても…」
「志が違うのだ。仕方がない」
「………」
リッタスの言葉は無遠慮であるものの、相変わらず間違っていない。客観的に見ればすべてが正しい。
それは戦争を経験したがゆえに、ドライな目で環境を観察する癖がついたからだろう。お互いに仲良さそうに笑って「俺たちは友達だ」と言っていた者たちが、ある日を境に当たり前のように裏切る姿を見れば、誰だって人間不信に陥るに違いない。
その言葉は単なる愚痴であっても妙にサリータに突き刺さる。
(…自分は何なのだろうか)
死んでもサナを守ると決めた誓いに嘘はない。実際にそのために命を投げ出したからこそ自分はここにいる。
だが、生き残ってしまったがゆえに思考だけが冴えていく。
(自分は何も知らないな…。師匠のことも。サナ様のことも。仲間のことも。…知る。知ることは大事なのだ。盲目的に信じることが正しいのではない。知ったうえで信じたほうが良いに決まっている)
ある種、アンシュラオンへの信頼や忠義といったものは、ホロロを見ていればわかるように宗教に近い。あの圧倒的な強さと存在感を見れば魅入られるのは当然だろう。
しかし、妄信は人を狂わす。
それはまさに『ホワイト教』の信者のようだ。彼らはアンシュラオンからすれば価値はないので、完全なる使い捨ての道具にされていた。裏スレイブたちもそうだろう。
その代わりにほぼ無料で病気を治してもいたし、彼らが求めていた死に場所も与えた。それはそれでお互いに納得していればよいのだが、サリータが求めるものはもっと違うものだ。
リッタスの言葉をきっかけに、それが何かを知りたいと強く思った。
知らなければ何も始まらない。
どんなに小さなことでも、知ろうとしなければ想いが生じない。
(知る…か。知らないことばかりならば、知ることから始めてもよいのかもしれないな…)
世の中の真実に迫る、といったような大きな話ならばともかく、身近にいる者たちに対して興味を抱くことくらいは誰にでもできる。
それが彼女を変えていく。
「お前は……」
「ん?」
「お前は、誰だ?」
「…寝ぼけているのか?」
サリータの問いにリッタスが困惑する。
だが、彼女は真剣だ。
「お前が言った『本質』の話だ。私はお前の名前しか知らない。生い立ちは知らない。どんな人間かを知らないんだ」
「そんなことを知ってどうする。お前には関係ないことだろう」
「知りたいと思ったのだ。悪いことか?」
「ふん、冥土の土産にでもするつもりか? 俺の話など聞いても面白いことは何もないぞ」
「それでもかまわない。どうせ暇だろう。話してくれ」
「何のつもりかは知らないが…まあいい。バルドロスが回復するまで時間がかかるしな。少しだけ付き合ってやる」
普段話を聞いてもらえない人間は、いつだって心の中に話したい欲求を持っているものだ。
なんだかんだ言いながらリッタスも何か話したかったのだろう。彼もまた『不安』だからだ。
(そうか。こいつも怖かったのか。こんな場所にいれば当然だな)
平然としていたから気づかなかったが、リッタスだって怖くないわけがない。それに気づけたことこそ他人を知る最初の一歩といえる。
急ぐ探索でもないため、リッタスは地面に腰を下ろす。
「何が訊きたいんだ?」
「ここに来る前のことだ」
「もう俺の記憶は戦争で埋まっている。それまでは父と母がいて、俺とエノスと妹がいる普通の家庭だった。本当の一般人と同じだ。昼間は鍛冶場や建築現場で働いて、夜になったら家に戻る。その繰り返しさ。王室らしいといえば、たまに守護騎士のバルドロスがやってくることくらいか」
「王室といってもそんなものなのだな」
「血のストックという意味では、そのほうが暗殺されにくいからな。マッケンドー家は少しだけ裕福な一般家庭と変わらない。だから俺が事実を知ったのは戦後だ。【葬儀の日】の夜、聖剣長の……これはプロフラスという風の聖剣を持つ男のほうだが、彼の部下がやってきて教えてくれたのだ」
「葬儀?」
「…家族の葬儀だ。ルシア戦艦の砲撃は街まで届いた。外に出ていた俺とエノス以外は死んだよ」
「…そうか。街への攻撃はよくあることなのか?」
「目的によるな。相手がその土地や住人をどうしたいかだが、今回の戦争では珍しいことではなかった。ここに来ている騎士や兵士たちも、程度は違うが家族を失った者が大勢いる。俺だけではない。哀しんでもいられない」
「…つらいな」
「…戦争など、そんなものさ」
「そのプロフラスという聖剣長は何者なのだ?」
「プロフラス卿は、密偵部隊を率いる諜報機関の長でもある。彼が知らない情報は国内にはないだろう。彼は実に多様な顔を持つ人物だ。貴族だったり、配管工だったり、土建屋だったり、たまに乞食もしているらしい」
「…聖剣長なのに、それでいいのか?」
「それが仕事でもあるし、だからこそルシアも行動を把握できないのだ。はっきり言ってしまえば、彼こそが反政府運動の首謀者といえるだろう」
「責任者はガンプドルフ殿ではないのか?」
「彼は軍人であり、戦争屋だ。あくまで計画通り動く実行部隊の指揮者にすぎない。東大陸に来たこの部隊とて、雷の艦隊だけで編成されているわけではない。戦艦にいるデュークス百光長は火の艦隊、マルズレン百光長は風の艦隊から編入された混成部隊だ」
ガンプドルフが率いているので勘違いしそうだが、実際は各艦隊からバラバラに人員が集められている。
一人の騎士を逃がすだけでも大変なのだ。同じ部隊から大勢逃げ出すことは難しい。プロフラスの情報網を使って監視の目を誤魔化し、少しずつ集めたのである。
物資に関しては雷の艦隊から持ち出したため、武具はロングソードが多く、得物が違う騎士にとってはやや使いにくいのがつらいところだ。
「俺はその時に東大陸に行かないかと誘われた。まったくもって突然だった。血筋的に王室の遠縁であることは知っていたが…百十五位とはな。せめて五十位とかならば誇りが持てたのだがな」
「それまで順位は知らされてなかったのか?」
「さすがに上位の者は公開されているが、末端は秘密にされている。下手に順位を教えてしまうと振る舞いに出るからな。高くても低くても知らないほうがよいこともある」
「お前はいつも偉そうに振舞っているじゃないか」
「百十五位だぞ? そうでもしないと侮られるだけだ。…言いたいことはわかる。もっと謙虚にしていれば話を聞いてもらえるのに、とか思っただろう?」
「よ、よくわかったな」
「お前は感情が顔に出やすい。それでは戦闘で裏をかかれるぞ」
「お前だってそうだろう!」
「俺はあえてそうしているからいいんだ。馬鹿を演じていたほうが、まだ兵士たちからは信頼される。俺より下はそうそういないから逆に付き合ってくれるのさ。エノスには迷惑をかけるが仕方ない」
「…あれは演技だったのか?」
「当たり前だ。そんなに馬鹿に見えていたのならば…まあ、よかったか。味方を化かさないと敵は騙せないからな。ルシアは狡猾だぞ。俺みたいな馬鹿でなければ国外には出られなかったはずだ。それほど監視は甘くない」
リッタスは戦争をきっかけに、意図的に馬鹿な振る舞いを心がけるようになった。それこそ戦争で気が触れる人間は多いので、その変化もあまり目立たなかったようだ。
だからこそ、ほぼノーマークで国外に出ることができた。すべてはプロフラスの計画通りでもある。
「だが、来年にはソフィア王女が来ると聞いているが…」
「そうらしいな。おおかた婿探しといったところだろう。…ああ、そうか。だからか。お前のご主人様でもあてがうつもりだったのか。どうりで輝光長の階級まで与えるはずだ。読めてきたな」
「もしかして、これは言わないほうがよかった…のか?」
「どうせ隠しきれることではない。ソフィア王女が来ることはすでに部隊内でも噂されているからな。公然の秘密というわけだ。これも聖剣長の計画だろう。そうしないと士気が落ちる」
「そ、そうか。それはよかった。しかしそうなれば、お前の役割も終わりなのだろう? 馬鹿を演じる必要もなくなるな」
「…お前、やっぱり馬鹿だな」
「なんだと! 気休めを言ってやったのに!」
「気休めを言われて喜ぶやつがいるか? …だが、当然か。ソフィア王女が来ることの意味を、よそ者のお前たちはまだ理解していない。聖剣長も隠そうとしているからな」
「何か問題なのか? ルシアの追っ手がかかる可能性は知っているが…」
「あの女が来たら、きっと【戦争】が起こるぞ」
「…へ? 戦争?」
「ここには国がないから実感が湧かないか? そうだ、戦争だ。しかも、もっともっと激しい戦いになる。それと比べたら強欲のルシアのほうがまだ常識的かもしれないな。まあ、どちらも真っ黒だ。たいした違いはないさ」
「どういうことだ? ソフィア王女とは何者なのだ?」
「俺は一度だけ、あの女に出会った。『王室の証』をもらうためにな。…だが、身震いしたよ。あいつは…人間じゃない」
「まさか魔獣か?」
「馬鹿。そういう意味じゃない。お前の主人と同じだってことさ」
「お前、人のことを馬鹿馬鹿と……って、師匠と同じ? どういう意味だ?」
「あの女の本質は『悪』だ。だからこそ、お前の主人とお似合いかもしれない」
「なぜ、そう思ったんだ? なかなか人を悪とは思わないだろうに」
「俺が弱者だからだ。知っているか? 弱い人間ほど強い者がわかるんだ。生物が持つ根源的恐怖心が刺激されるからな」
「痛烈な理由だな」
「お前は気づいていないようだな。お前も弱いからこそ、あの男の庇護下に入ろうと思ったんだぞ。それこそ本能的な欲求だ」
「…師匠も悪なのか?」
「善悪など見る側の人間によって変わる代物だ。絶対の区切りはない。しかし、対比による善悪は確実に存在する。俺から見れば、ソフィアという女は悪だ。お前の主人のことはお前が判断すればいいことだが、俺から見れば悪には違いない。毒をもって毒を制する…か。その理論も正しいが、より強い悪だけが残った世界は地獄と大差ないかもしれないな」
「………」
「俺は母国を愛している。自分の国が好きだ。だから絶対に守りたい。その気持ちが無い人間に国の統治を任せるつもりなどはない。百十五位? いいじゃないか。上等だ。それでも俺にとってはすがるべき力だ! 無いよりましだ!」
(…そうか。この男は『本気』なのだ。本気だから馬鹿にされても我慢できる。無力でも耐えられる。それはすごいことだ)
サリータは無力さに嘆いていた。悔しいのは誰もが同じだが、そこで止まっていた。そんな彼女ゆえにリッタスの気持ちがわかるし、少しだけ尊敬の気持ちが芽生える。
馬鹿にされることは演技でも耐え難い。誰にだって自尊心があり、認められたいと願うからだ。それをこの男は耐え忍んでいる。
少しでも国を良くするために。
リッタスは力無き者。弱者だ。彼が何を言おうとも何も変わらないし、変えられない。
しかし、こうして話すことで彼の本質が理解できた。
691話 「魔人の騎士 その3『共感視』」
(真面目な男だな)
サリータはリッタスの本質を理解して、そんな印象を受けた。
思えば今までもやっていることは愚直なだけで、特段おかしなことはしていない。明らかに無謀なことも意図してやっていたのならば馬鹿でもない。
彼は力が無いことを知っているがゆえに、気持ちで勝負するしかなかったのだ。
ただ真面目。ただただ真面目。
たしかにアンシュラオンやソブカのような頭の良い者たちからすれば、要領の悪い男だが、そうすることしかできないのならば仕方ない。
「俺は力を手に入れる。結果を出す。そうしないと何も変わらない。聖剣とは悪を切り裂く正義のはずなんだ。そうでないと死んだやつらが報われないだろう」
そして、夢見る少年のまま大人になった者。
聖剣王国の騎士全般に共通することかもしれないが、おとぎ話や神話を聞かされて成長してきたため、心の中には聖剣への憧れが強く残っている。
世間一般からすれば「単なる強い剣」だが、ここまで信仰を集めれば『象徴』になる。
人は無意識のうちに象徴を求める。その下に集い、それを守るために死ぬことすら厭わない。
(自分に似ているのかもしれないな…)
立場や状況は違えど、不器用に生きている点において二人は似ていた。
「ならば、絶対に上に戻るしかないな。まずはそれからだ」
「…笑わないのだな」
「他人の志を笑うほど、たいした人間じゃないからな」
「お前の…ほうはどうなのだ。その、どこで生まれたとか…」
「生まれも育ちも東大陸で、中南部の小さな開拓村の生まれだ。貧しい土地だったからな。そこでは村人全員が出稼ぎに出ていた。私も幼い頃から両親と一緒に街に出て働いていたものだ」
「なぜ傭兵になったんだ? 女の傭兵は珍しいだろう?」
「ある日、一人の【女傭兵】に出会ったんだ。それがきっかけだった」
サリータが八歳の頃。
両親が雇われていた商隊と一緒に長旅をしていた。商人は貿易商で、より遠くの都市に行けば行くほど利益が出るため、サリータ自身もこうした旅は何度か経験していた。
当然、商隊は護衛として傭兵を雇う。
中南部は北部ほど強い魔獣はいないが、弱い魔獣でも一般人からすれば脅威だ。また、野盗もよく出るため未開拓地域は非常に危険であった。
その日は、まさにそんな災難の日だった。
交通ルートを張っていた盗賊団に襲われ、商隊は大きな被害を受けた。
盗賊団の数は多く、雇っていた傭兵の大半は殺されてしまった。もう駄目かと思った時、一人の女傭兵が飛び出していくのが見えた。
彼女の名前は知らないが、女の傭兵は珍しいので顔は覚えている。
赤い服と赤い髪が特徴的で、サリータたち子供の相手もよくしてくれた気立ての良い女性だった。
彼女は女だてらに大きな剣を振り回し、数の劣勢を物ともせずに盗賊団を撃退。頭目は逃がしたが、こちらの死者の倍以上の敵を殺すことができた。
だが女傭兵は、その怪我が元で死んでしまった。
「傭兵など所詮は金で雇われた者たちだ。中には逃げ出す連中もいる。まあ、そういった者たちは悪評が出回って仕事にありつけなくなるから、最終的には上手くできているんだが、その人は命をかけて戦ってくれた。守ってくれたんだ」
盗賊に襲われているのに、彼女の背中を見ているだけで安心できた。
それは彼女が、絶対に背中を見せないで前だけに向かっていったからだ。実際、身体の前面部は傷だらけだった。
その姿が―――素敵だった
逃げれば命は助かったかもしれないが、その代わり商隊は全滅していただろう。サリータも連れ去られていたかもしれない。
「あの時が私の人生の分かれ道だった気がする。眩しかったんだろうな。…あんな光景を見れば憧れないわけがないな」
「…だから傭兵になったのか。だが、それならば普通は、その傭兵と同じ武器を選ぶのではないのか? 大剣だったか?」
「そう…だな。普通はそうだろう。でもやっぱり…死んでしまったからな。できれば死にたくはないな。だから盾を選んだのだ」
ベ・ヴェルと出会った時、ふとその女傭兵を思い出した。彼女もあんなふうに大きな剣を振り回していたからだ。
だから気が合ったのかもしれない。互いに珍しい女傭兵同士でもあり、しばらく一緒に旅をしていた。
グラス・ギースに来た直後に別れる結果になってしまったが、これも傭兵ではよくあることだ。後悔もなく、名残惜しさもない。
自分は守るために『盾』を選んだ。その盾に相応しい場所を見つけたのだから。
「死にたくないから盾を選ぶか。思っていたより臆病なんだな」
「こう見えても女だぞ?」
「いやまあ…そうだが」
「女はやはり臆病な生き物だ。逆にそれだけ生き残りたい気持ちが強いんだろうな。お前が言うことも間違ってはいない。女はすぐに裏切る。嫌いになることもあるだろう」
「…お前は…あいつらとは違う。怖くても逃げない。媚びたりもしない」
「逆だ。怖いから逃げないんだ。一度でも逃げたら、もう立ち向かえないからな」
「お前も不器用なやつだな」
「それはお互い様だ」
「ケサセリア、死んだら負けだ。俺たちはこんなところでは死ねないぞ」
「ああ、わかっている。無駄に死ぬつもりはない。命ある限り、サナ様を守らねばならない」
「相変わらず忠誠心は変わっていないんだな」
「当然だ。誓いを立てたからな」
「そこがわからんな。それならば騎士のほうが向いていると思うが…」
「何を言う。すでに私はサナ様の騎士だ」
「…そうだな。ここまで貫ければ見事だ。お前は立派な騎士だよ」
アンシュラオンに拾われ、サナに誓いを捧げた。
死んでも彼女を守り抜くと決めた。守って死ぬと決めた。
それは―――騎士の宣誓
DBDの騎士たちが国家に捧げる忠誠と何も変わらない。
むしろ個人に捧げられる分だけ、より濃く、より強いとさえいえるだろう。
(ああ、そうだ。他の誰かに認められる必要はないのだ。命を捧げる者に認められれば、それで満足なのだ)
それがわかった瞬間、妙にすっきりした。
本物の騎士団と出会って自己の在り方に迷ったこともあったが、騎士の本領は主従関係にある。サナと自分の関係こそが一番大事なのだと悟った。
「さあ、そろそろ行く―――」
そう言って前方を見た時、遠くでゆらりと動く赤い輝きが三つ。
一歩一歩、迷いなくこちらに近づいてくる。
この印象的な光を忘れることはできない。けっしてランタンなどではない。
―――蜘蛛
目に赤い光を携え、人間への憎悪を滾らせた紛れもない敵である。
しかも最悪なことに普通のカーモスイットではなく、第三形態のカーネジル・スパイダーだ。
「こんなところで…!」
「お前はバルドロスを呼んでこい!!」
すでにリッタスも立ち上がり、戦闘態勢に入っていた。
「この蜘蛛の種類からして、おそらく上から落ちてきた蜘蛛だろう。俺たちが進んだ距離と方角を計算すると、最深部近くに出来た穴の可能性が高い。合流するには好都合だ」
「だが、こいつを倒さないと進めないぞ」
「ああ、通常の蜘蛛ならばともかく、どう考えても勝ち目はないな」
「ならば、さっさと逃げるぞ!」
「二人で後ろを見せたら、それこそ二人とも死ぬぞ。俺が時間を稼いでいる間に早く行け!」
リッタスが戦気を放出。
それによって周囲が明るくなり、状況がより把握できる。
敵の数は一匹。単独で動いている蜘蛛のようだ。
「一匹か。こいつらは仲間と連携して動くのがセオリーだ。やはり下の階層とは指揮系統が違うようだな。バルドロスがいれば十分勝てる相手だ」
蜘蛛は思念糸によって互いに結びついており、連携し合っている。これこそが一番厄介な点であり、ここまで苦戦する原因にもなっていた。
がしかし、上と下とは蜘蛛の種類が違う。近親種なのは間違いないが、別々に動いているようだ。
「さぁ、どうした。こい!」
リッタスが挑発。剣をカンカンと壁に叩きつけて注意を引く。
この蜘蛛は術式によって興奮状態にあるため、いとも簡単に食いつく。
問題は、その速度。
猛烈な勢いでランス状になった触肢が伸び、身体を貫こうとする。
普通ならばリッタス程度の武人にはかわすことも難しいが、最初からよけるつもりならば話は別。
飛び込むように跳ね、触肢を回避。
髪の毛を掠めていったものの、上手く敵の真下に滑り込むことに成功。
そして、口に向かって剣を突き刺す。
「生物ならば口の中は弱点だろう! 渾身の剣気をくらえ!」
リッタスが剣気を放出し、蜘蛛の口内を切り裂こうとする。
が―――バリンッ
力を込めた瞬間、蜘蛛の鋏角にあっさりと破壊される。
しかもそのままボリボリと食べてしまった。
たしかに「くらえ」とは言ったが、本当に食べてしまうとは想定外だ。
「か、家宝の剣が!」
これは哀しい。家宝を出した時の逸話はいったい何だったのか、と問いたくなるほどだ。
しかし、これが現実。どんなに根性があろうが気合がこもっていようが、より強い直接的な力の前には無力なのだ。
「ええい、なにが家宝だ! だから三流宮家などと言われるのだ!」
「マッケンドー、どけっ!」
「っ!」
リッタスが、反射的に横に飛び退く。
そこに盾を構えたサリータが突っ込み、顔面に体当たり。盾で押し込む。
「な、何をしている! 逃げろと言っただろう!」
「馬鹿かお前は! 自分より弱いやつに守られるつもりはない! そもそも前に出て敵を防ぐのが重装甲兵の役割だ!」
「くっ!」
「マッケンドー、お前が走れ! 剣もないから身軽だろう! 早く百光長を呼んできてくれ! 長くはもたないぞ!」
「くそっ! わかった! 待っていろ! すぐに連れてくる!」
「ああ、待っている!」
さすがに剣を食われてしまえば、本当に無力だ。
リッタスもそのほうが生存率が高いと思ったのだろう。全力で走っていく。
(聞き分けがよいというか、このあたりの判断力はしっかりしているな。しかし、それこそ生きるということ。生きることを諦めないということだ! 自分も諦めないぞ!)
ジュウウッとサリータが戦盾で相手を押す。
蜘蛛がちょうど食べている時に突っ込んだので、相手も面食らったようで動きが鈍いのが幸いしている。
(ボムハンマーは…装填済み! いける!)
休んだ時に準備していたため、爆破杭は補充済みだ。
相手が面食らっている隙にボムハンマーを頭部に叩き込む!
炸裂。
杭が突き刺さり、爆発して頭部の一部が破損。
その衝撃で大きな眼が一つ、どろりと落ちた。
カーモスイットたちも地球にいる蜘蛛のように目の数は多いが、それらは思念糸の送受信に使っているいるため、主体はやはり大きな三つ眼である。その眼を一つ奪ったことは大きい。
が、だからこそ相手の反撃も大きくなる。
触肢が―――薙ぎ払う
目を潰されたことに驚いたのか、反射で外敵を思わず振り払った。
サリータは当然、戦気を放出しているが―――ドゴンッ!
「が―――はっ!!」
吹き飛ばされ、壁に激突して呼吸が止まる。
見れば、盾には大きな亀裂が入っていた。カーネジルの攻撃が「B」で強いこともあるが、今までのダメージの蓄積も大きい。盾もかなり限界に近かった。
だが、もう予備ない。亀裂が入っても壊れるまで使い続けるしかない。
(もう一度ボムハンマーを叩き込めば、かなり弱らせることができる。倒す必要はない。バルドロス百光長が来るまで耐えればいいのだ。ならば―――)
再度接近することは危険と判断し、ピストルグレネードを取り出し、発射。
相手は動いていなかったので直撃。
鋏角と触肢の一部を破損させる。
「やった! これならもう一発で―――っ!!」
そうして盾の裏にある爆破杭を装填しようとした際、何かが飛んできた。
カーネジルの触肢から発せられた糸がサリータに絡みつく。
「しまった! 普通の糸も出せるのか!?」
思念糸とは違い、こちらは普通の蜘蛛と同じ移動用の粘着糸である。
糸は放射状に撒き散らされ、盾や鎧にしっかりと付着している。非常に強靭な糸のため、押しても引いてもびくともしなかった。
サリータはボムハンマーを諦め、術式ダガーを取り出して焼き切ろうとする。
が、その前に―――突進!
この糸は視力が落ちた蜘蛛が、相手の場所を見定めるための手段の一つでもあった。
糸で相手の動きがすべてわかるため、まともに直撃!
虫型でもあり、壁を登るカーネジルは重くはないが、それでも魔獣だ。人間とはそもそもの膂力が違いすぎる。
その威力に盾が割れ、ビシビシッと鎧にまで亀裂が入った。
「こ―――のぉおお!!」
強く圧迫されながらも、サリータは術式ダガーを突き刺す。
狙ったのは、眼。
もう一つの眼をダガーで潰す。この土壇場でも、こうした冷静な判断ができることは彼女の成長といえるだろう。
だが、やはり単独戦闘は厳しい。もしここにサナがいれば、とどめの一撃を見舞ってくれただろうが、今は誰も追撃をしてくれない。
蜘蛛の反撃。
ガンガンガンッ ガンガンガンッ!!
ダメージを与えたにもかかわらず淡々と攻撃を続けてくる。その無機質さこそ、以前感じた魔獣の気配そのものだ。
サリータは何もできない。盾が完全に破壊され、鎧が壊れ、腕や腹、太ももが裂かれていく。
唯一幸いなのが、この蜘蛛が人を食べないことだろうか。ならば死体はそのまま朽ちるまで放置されるのだろうか。埋める習性があるようなので、あるいは蜘蛛と一緒に埋められるのだろうか。
(何を馬鹿なことを考えているのだ! 蜘蛛と一緒に心中など御免だ!)
いくらそう思っても現実は変わらない。蜘蛛は無機質に攻撃を続けてくる。
アンシュラオンもサナもいない状態では何もできない。
(どうすれば…いい! 何ができる! 何を…したらいい。私はどうして……戦っている……のだ)
死が迫り、サリータの戦気が萎《しぼ》んでいく。
戦気とは、生体磁気だけで成り立っているのではない。もう一つの触媒である神の粒子を引き寄せるのは、当人の心だ。
されど、この意思の力は制御が極めて難しい。
不安、恐怖、失望、落胆。
そういった考えが少しでも浮かぶと一気に神の粒子が離れていき、戦気の維持が難しくなっていく。
だからこそ武人には闘争本能が必要なのである。ピンチになればなるほど魂を燃やす力が必要なのだ。
(騎士に…なる。サナ様の……戦友に…! だが、どうして……そう思ったのだ。なぜ、そこまでできる……そこまでしようと……どうしてあなたは…それができたのだ?)
ふと脳裏に浮かぶのは、自分たちを守って死んだ女傭兵。
彼女は死んで満足だったのだろうか。なぜ戦ったのだろうか。後味が悪いからか。仕事を成し遂げたかったのか。単に戦いが好きだったのか。
どちらにせよ彼女が助けてくれた命だ。無駄にはしたくなかった。
自分も充実感が欲しかった。生きている証が欲しかった。自分にも何かできることがあると信じたかった。
だからここまでがんばれた。リッタスが言ったように、女が傭兵をやるのは大変なことだ。セクハラだって受けたし、いつだって男と比べられてきた。
そんな自分だからこそ、アンシュラオンに拾われた時は嬉しかった。
彼は自分を見捨てなかった。不器用な自分に戦い方を教えてくれた。何度も何度も丁寧に教えてくれた。
サナも言葉こそしゃべらないが、自分を信頼してくれているのがわかった。
なぜ彼女が自分を選んだのかはわからない。そして、なぜ自分が彼女を求めたのかもわからない。
しかし、それが正しいと思った。
(サナ様……さな……様……さ……な………さま)
次第に視界が暗くなっていく。これはまずい。このままでは本当に死んでしまう。
視界の片隅に人影が見えた。リッタスとバルドロスだ。彼らはちゃんと駆けつけてくれたのだ。
しかし他の蜘蛛と交戦しているようで、こちらにまでたどり着けないようだった。こんなに派手に戦えば、地下にいる蜘蛛たちも刺激してしまうのは当然だろうか。
「―――ケサセリア!!」
リッタスが叫ぶ。
あいつは思ったよりいいやつだ。人は表面だけではわからないと知った。
だが、馬鹿だ。蜘蛛の尻を折れた剣で叩いているが、まったく効かない。馬鹿のふりをした馬鹿は、なかなかレアである。
彼が戻ってきてくれたことは嬉しいが、やはり届かない。時間の経過とともに死が近づいていく。
(師匠……アンシュラオン……さま……)
無意識にアンシュラオンを捜す。まだスレイブ・ギアスがかかっていないのに、まるで忠犬のように付き従う。
それはやはり、好きだからだ。
単純な異性としてだけの好意ではない。彼女の魂の渇望が、アンシュラオンという存在を欲するのだろう。
それに気づいた瞬間―――感じる
(…?)
ふわりと抱かれている感覚がした。
何か大きく強いものに包まれているような安心する感覚だ。
そして、その場に【もう一人】いることに気づく。
白く輝く太陽のような輝き。その力強い魂の波動。
「そう……か。そうだった……のか」
自分は独りではなかった。
なぜ、アンシュラオンがここに来ないのか。いないのか。
いる必要が、ないのか。
それは、いつだって傍にいるからだ。
「僕はいつだって傍にいるよ」などという、カップルの浮ついた言葉ではない。
実際にアンシュラオンはサリータの中にいる。これだけ攻撃されてもまだ死なないのは命気があるからだ。
しかし、それだけではない。
―――繋がっている
アンシュラオンという【王】とサリータは、魂によって結びついていた。
なぜ、ガンプドルフが王気にあそこまで強く固執するのだろうか。
王は単に物質的に人を導く存在ではない。人と人の魂を結びつけ、新たなる進化を遂げる【霊的指導者】だからだ。
王と彼女は一つの線で繋がっている。身体と心が繋がっている。
だから、視える。
今アンシュラオンは術式の解除を行っていた。彼にしては珍しく必死な顔つきだ。戦闘面ならばともかく術式は学んで日が浅い。遅れを取るのも致し方がないだろう。
そんな彼の波動が、魂の絆を通じて伝わってきた。
(これは…アンシュラオン様の気持ち? 感情? 【記憶】なのか?)
リッタスは、アンシュラオンを悪と評した。
それは間違いない事実だろう。彼を構成する要素の中には、人間不信の負の要素が多分にして含まれている。大勢の人々に災難を与える者でもある。
しかし、その根底にあるのは【哀しみ】だ。
(なぜ哀しいのですか? どうして? そんなに力を持っているのに―――あっ)
サリータの中に『記憶』の一部が流れてきた。
どこか知らない世界の戦争の記憶。空爆。銃撃。艦隊戦。多くの武人たちが何かのために戦う光景。中には竹槍を投げつけて戦闘機を落とす強者さえいた。
この世界と似ているが、少しだけ違う世界の夢物語。
そこでも多くの者たちが死んでいった。苦しみながら死ぬ者。嘆きながら死ぬ者。笑いながら死んでいく者。
それを看取りながら、一人の男が激しく怒っていた。
―――フザケルナ!
「うぐっ!!」
強い感情にサリータが押し潰されそうになる。
まるで心臓を鷲掴みにされたような、激しい激しい感情の荒波だ。
男は不条理に怒り狂っていた。怒りのままに敵を殺め続けた。だが、それでも満たされない。何も変わらない。
―――力が無ければ何も変えられない
―――力が欲しい
それは一匹の獣。
ソブカやプライリーラの中に潜んでいたものと同種の存在であった。
692話 「魔人の騎士 その4『魔人との同調』」
獣は地の底で咆哮を上げていた。
理不尽な理由で死んでいく者たちへの哀しみ。虐げられ、騙されている者たちへの哀れみで心が引き裂かれそうだった。
彼の行動力の源は、あらゆる面で『哀しさ』であった。人一倍優秀で他者よりも周りが見えるからこそ、その哀しみがわかる。
しかし、それ以上に【憤怒】が強かった
獣は戦いを扇動する者たちのことを知っていた。裏ですべてを操り、国や民族を分断し、憎しみを植え付け、自らの利権だけを追及する者たちへの怒りに満ちていた。
彼は力を欲した。あらがうために強引な手段を使って正そうとした。その詳細までは断片的な映像のため理解できなかったが、暗殺や拷問を含めた激しいものだったことがうかがえる。
しかし、失敗した。
多くの者たちは獣の行動を理解できなかった。彼が何のために戦い、誰のために血の涙を流したのか、まったくわからなかったのだ。
それどころか歪められた情報操作によって、人々は簡単に流され、手の平を返し、怠惰となって尊厳を失い、国のために戦った英雄たちを罵倒さえするようになった。
彼らが何のために戦ったのかを忘れてしまったのだ。いや、知っていたが認めるのが怖かったのかもしれない。
守るためには手を血で穢さねばならない。それと同じことができない自分たちを弁護するために、守った者たちを罵倒することで自己肯定を図ったのだ。
―――愚かだ
―――救う価値もない
獣がそう思ったのも当然のことだろう。
人々はあまりに愚かすぎた。無知すぎた。無学すぎた。弱すぎた。吐き気を催すほどに邪悪で、脆かった。
獣はもう彼らのために血を流すことはしなかった。見限ったからだ。そんな連中のために力を使うことを嫌った。
獣はその後、静かに暮らした。
彼が犯した罪も混乱期のドサクサに紛れて闇に葬ったため、誰もそのことを知らない。むしろ誰もが自分の愚かさを思い出したくないから、その時代のことは世間の話題にも上らなかった。
そして、戦いを終えて国はさらに豊かになった。もともと強国だったがゆえに物に不足することはなくなった。
だが、誇りは失った。
規律を失い、目的を失い、さまざまな悪に蝕まれ、夢遊病者のように当てもなくフラフラする病人に成り下がった。善人であるほど報われない世界ができてしまった。
武人の誇りであった刀さえ『廃刀令』によって失ってしまった。自身を守ることもできなくなった国家に未来はない。
それはすべて『予定通り』。
あの世界を牛耳っている者たちの目論見通りであった。
―――力があれば
―――他の何物にも支配されない力があれば
友が死なずに済んだ。自分も翻弄されないで済んだ。人々も不幸にならずに済んだ。
ただし、怒りは友を罵倒した愚かな者たちにも向いている。
―――愚者め
―――無能な人間こそ害悪だ
そんな世界を選んだのは、ほかならぬ無知な人々自身であった。
ならば自業自得。苦しみと痛みを味わって死んでいけばいいと吐き捨てた。
すべてが馬鹿らしくなったまま、誰にも看取られずに獣は静かに死んでいった。
彼の墓に残ったものは、ただ一本の刀だけ。銘も無い刃だけだ。されど、大勢の悪の血が染み付いた正義の刃であった。
こうして彼は歴史から完全に消えていった。
(なんだこれは……夢でも見ているのか?)
サリータは、あまりのことに言葉が出なかった。
映画の宣伝のように一気に再生された『記憶』は、他人事のように見えながらも、まるで自分自身が体験したことのようにリアルだ。
だから―――涙を流した
その男の人生があまりにも『哀しみ』に満ちていたからだ。
他人の哀しみを断ち切るために身を削って戦った彼の人生は、そのものが彼自身の哀しみで彩られていた。
(これほど他者にすべて捧げた人に対して、周りは何一つ応えなかった。これではあまりに報われない…。かわいそうだ)
彼自身、誰かに何かを求めていたわけではないだろう。だが、誰からも理解されないことはあまりに『哀れ』だ。
サリータは、獣のために涙を流し続ける。
その想い、その強い共感が、さらに深い繋がりを生み出していく。
獣の姿が―――重なる
姿かたちはまったく似ていないのに、なぜかアンシュラオンとだぶったのだ。
(っ…なぜ…アンシュラオン様と? …いや、似ている……かもしれない。完全に同じではないけれど……色が似ている?)
アンシュラオンの行動は獣とは正反対。真逆といってもよい。似ても似つかない。
しかし、その根底にある魂の色があまりに似ていた。ただし、やはり同一ではない。その要素を持ったまま何か大きなものと混じり合ったような印象を受ける。
それはまるで、溶けたアイスクリーム同士が分離できないほどに混じり合い、新しい一つのアイスクリームになったかのように。
―――〈記憶の粒子を辿ってみれば、こんなところに落ちていたのか〉
ふと、声が聴こえた。
いつの間にか目の前に誰かいる。
(誰…だ?)
―――〈ボクに名前はないんだ。って、また同じ説明をするのは嫌だな。通りすがりの『影』だと思ってくれていいよ〉
(影…? たしかに…黒いが…)
サリータの前に『黒い影』が出現。
あのまま去ったと思ったが、まだ残っていたようだ。
もちろん、それには理由がある。
―――〈キミが見たものは、ボクが【管理している記憶】だよ〉
(幻…ではなく?)
―――〈そうだよ。実際に生きた人間の人生そのものだ。あれは現実に起こったことだよ。この星でのことではないけどね〉
(記憶の管理? そんなことが…できるのか?)
―――〈人の移ろいを記憶する者、それがボクという存在なんだ。人が進化するためにはボクみたいな存在も必要ってことだね〉
(言っている…意味がわからない)
―――〈うん、わからなくていいよ。キミは関係…なくもないか。だって、ここまで深く繋がってしまったんだからね。でも、驚いたよ。キミは他人のために涙を流せる人間なんだね。そんなに哀しいのかい?〉
(ああ、哀れ…じゃないか)
―――〈そうか。それも人間の美徳だね。キミみたいな人ばかりなら、もっと世の中は綺麗になるんだろうけどね。そうもいかないから『彼』も泣いていたんだ〉
(あの人は…誰だ? もしかして……)
―――〈同一人物じゃないよ。キミたちは知らないだろうけど【転生する魂は、以前の魂と同一ではない】んだ。だって、それだったら転生する意味がないだろう? でも、同じ霊の一部分ではある。インディビジュアリティーの中のパーソナリティーと呼ばれる存在さ〉
(…?)
―――〈簡単にいえば、彼であって彼でない者。ただし【本質】は同じ者。霊は巨大な意識の総体なんだ。その中の一部分が他の要素を取り入れて形になったもの、それが地上の人間だね。でも、それぞれに意識がある。本体の影であるボクに個性があるようにね)
(…??)
―――〈ふふ、困惑しているみたいだね。まあ、せっかく出会った縁だ。ボクに何かできることはあるかな? 何でも言ってごらんよ〉
(アンシュラオン様のもとに……サナ様のもとに……戻りたい)
―――〈そんな簡単なことでいいのかい?〉
(簡単…なのか?)
―――〈もちろんだ。だって、キミの中にはもう【力】があるじゃないか。彼と同じ力がね〉
(彼…? アンシュラオン様…と?)
―――〈さぁ、その心ともっと同調してごらん。彼とどうなりたい?〉
(わたしは…あの人を……助けたい。守りたい…)
彼のほうが圧倒的に強いことは知っている。自尊心の強い彼は誰かに守られたいとは思わないだろう。
しかし、それを含めて守りたいと思ったのだ。
傷ついて倒れた獣を哀れむ心は、母性に近い感情だった。
―――〈【偉大なる母】の感情…か。ずるいなぁ、その愛を表現されたらボクは協力するしかないよ。いいだろう、その心があれば受け入れることができるはずだよ〉
―――〈その【魔人の力】を〉
「うっ!! がはっ!! ぐぼっ……ごぼっ……」
サリータの意識が、ここで急速に回復。
目覚めると同時に血を吐き出す。
目の前には蜘蛛がおり、やはり自分を壁に押し付けていた。
(なんだった……のだ? 今のは…夢か?)
すでに『影』は消えていた。記憶も曖昧で、すべてが夢幻のようにさえ思える。
しかし、そんな目覚めの混濁すら許さないほどの強烈な熱量が、身体全体を突き抜ける。
「ううううっ!! ごぼっ!! がはっ!! あ…熱い!! 熱い、熱い、熱い、熱いぃいいいいい!! 身体がぁあああああ!! 熱いっ!!」
まるで灼熱。自分の弱い部分すべてが溶かされ、燃やされ、燃焼していく感覚に満たされる。
ドバドバと大量の血が、蜘蛛から付けられた傷から出ていく。
それでも足りないと言わんばかりに、さらに皮膚がひび割れ、至る所から血液が外に噴き出していく。
「ケサ…セリア!? なんだ、どうなったのだ!」
蜘蛛と戦っていたリッタスも、あまりの異変に目が釘付けになる。
彼にそんな余裕があったのは、急に蜘蛛が止まり、意識をサリータの方向に向け始めたからだ。
おそらくは魔獣の本能なのだろう。蜘蛛も異変を感じている。
(身体が…バラバラになりそうだ! 燃える! 燃えるうううう!)
戦気を初めて出した時にも熱量が溢れる感覚があったが、それとはまったく異なる凶悪な性質のものだった。
奪われ、侵食され、徹底的にズタズタに引き裂かれるような強いショックがサリータを襲う。
まるで自分のすべてを否定するような感覚。人であることを忌み嫌う拒絶感が内部で暴れ回る。
(この感情は……あの人と…同じだ!)
愚かな者を侮蔑の目で見つめる獣。
世界を守れなかった者の怒りと失望、そこから生まれる圧倒的な暴力衝動。獣が叫び、求め続けた究極の破壊の力そのものだ。
あまりの痛みと苦しみに全部を投げ出したくなる。耐えられない。痛い。苦しい。早く楽になりたいと思う。
仕方ない。それが当然の反応だろう。こんな凶悪な感情は誰にも受け止めることはできない。痛いものは自然の摂理に背いている。すぐに捨てるべきだ。
だが、彼女は決死の覚悟で踏みとどまる。
(駄目だ…拒絶したら……また独りになる…! 私は…あの人を放ってはおけない!)
なぜそんなことを思ったのかは、わからない。
単純に同情心かもしれないし、世の儚さと醜さに共感したのかもしれない。いつだって哀しみと痛みが溢れる世界に失望し、嘆いてきた。その心はサリータも同じだ。
ならば―――【愛】
もはやそう呼ぶしかない感情が、彼女の中に溢れた瞬間。
世界が―――反転!
外に力が出るのではなく内側に集まり、急速に新たなる細胞が培われていく。
成り代わっていく。乗っ取られていく。
自分自身が、破壊そのものになっていく!
「アアアアアアアア―――っっ!!!!」
サリータから激しく禍々しい【黒いオーラ】が吹き上がる。
血が止まった。傷が恐るべき速度で塞がっていく。筋肉が収縮し、再び身体が動くための力が与えられる。
ぐぐっ ぐぐぐぐぐ ボギッンッ!
黒いオーラに染まった彼女の手が、カーネジルの触肢を掴み―――へし折る!
普段から石や金属を食べて体内に取り入れているため、この触肢は非常に硬い。
そんな触肢をいとも容易くもぎ取ると、今度はそれを握って最後に残った眼に突き刺す!
単に眼に突き刺しただけにとどまらず、頭ごと貫いて地面に縫い付けてしまう。
カーネジルはびくびくと痙攣して動けない。
「わたしに…触れるな」
蜘蛛に触れられているという激しい不快感が、サリータの中に満ちる。
これは普段アンシュラオンが感じる他者への不信感と拒絶感だ。それがさらに増幅された状態なのだから、その嫌悪感は極限。
鬱陶しそうに絡まった糸を引きちぎり―――
「どけっ!! 蜘蛛ごときがぁああああ!!」
拳を握り―――ぶん殴る!
今までならばたいしたダメージを与えられなかっただろう。それが拳ならば当然だ。
が―――ボゴォオオオオオンッッ!!!
放たれた拳は、さきほど突き刺した触肢ごと頭部を完全に破壊。
押し出されたエネルギーはあまりに強大で、蜘蛛の身体の中を駆け巡り―――爆発!
たった一撃でカーネジル・スパイダーが粉々に砕け散った。
「フゥウウッ…フゥウウウウッ! …アンシュラオン様…の……サナ様……のところに……」
ぐちゃぐちゃになった蜘蛛を踏みつけながら、サリータがのそりと動き出す。
それに反応したのか、止まっていた他の蜘蛛が一斉にこちらに向かってきた。
そんな蜘蛛たちを不快そうに『赤い瞳』が睨み付ける。
「邪魔…を……するのか? この気持ちが…わからない…のか! あの人の気持ちが……ワカラナイノカァアアアアアアア!」
向かってきた蜘蛛に対して、今度は蹴り。
ドゴンンンンッ!! ぐちゃっ
下から強く蹴り上げた足は、蜘蛛を突き抜けて綺麗に真上に上がる。
こちらの蜘蛛は地下にいる赤いほうだが、バルドロスいわく「パワーならばこっちが上」の物理戦闘特化型だ。そんな魔獣を一撃で突き破る威力は明らかに異常である。
しかし、異常で当然。強くて当たり前だ。
今サリータの身体の中に巡っている力こそ、アンシュラオンの【魔人の力】。
人類の最上位に君臨し、支配し、罰を与えるために用意された最強の破壊の権化。それこそが魔人なのである。
その力を体内に取り入れた彼女は、かつての【戦罪者】と同じ状態にあった。
魔人に力を与えられ、道具となった者が引き起こす現象の一つ、【魔人化】だ。その証拠に戦罪者が発した黒いオーラを身にまとっているではないか。
がしかし、彼らとは決定的に違うことがある。
【寵愛の度合い】だ。
サリータは身内の中では序列最下位だが、アンシュラオンから直接の寵愛を受けている。他人から見れば『愛人』に等しい扱いを受けているのだ。
そんな深い付き合いをしている者が、たかだか戦罪者と同格だろうか?
否。
この愛が同じであるはずがない! あろうはずがない!
サリータの黒いオーラはどんどん膨れ上がり、彼女に力を与え続ける。
「どけぇええええええ!!」
その力の前に、蜘蛛などただの雑魚。拳や蹴りで面白いように砕いていく。
だが、これだけの激しい戦いをすれば続々と蜘蛛が増援でやってくる。蜘蛛の脅威は数の暴力だ。次々と襲いかかってくる。
さすがにこの数が相手では、無手では不利である。
「盾が…欲しい。守るための…盾が」
そう思った瞬間、彼女の左手に黒いオーラが集まって『黒滅盾』が生まれた。
原理としてはアンシュラオンが日々使っている『戦硬気』であり、特段たいしたものではない。戦気を圧縮しただけの基本技だ。
しかし、この黒い力こそが問題。
盾に触れた蜘蛛の部位が、ごっそりと存在を掻き消される。最初から存在しなかったかのように消滅するのだ。
サリータは盾を前に押し出し、突進。
この状態になっても今までの鍛錬は忘れていない。逆に狭い通路が幸いし、猛烈な勢いで蜘蛛を蹴散らしていく。
彼女が過ぎ去ったあとに残ったものは、かつて蜘蛛であった肉塊のみ。圧倒的な力で潰された魔獣の死骸だけだった。
「サナ…様……サナ様……さなさまのところに…行かねば。あの御方がもっとも愛されている…わが主のところへ…!」
突き進むサリータが考えることは、ただただ主人の下に馳せ参じることだけ。
なぜならば彼女は―――魔人の騎士
魔人に愛された少女を守るために生まれた存在だからだ。
―――――――――――――――――――――――
名前 :サリータ・ケサセリア(魔人化)
レベル:?/?
HP :12880/12880
BP :2530/2530
統率:D 体力: AA
知力:E 精神: AA
魔力:A 攻撃: A
魅力:B 防御: S
工作:B 命中: B
隠密:E 回避: C
【覚醒値】
戦士:5/2 剣士:5/2 術士:0/0
☆総合:第五階級 王竜《おうりゅう》級 魔人
異名:魔人の騎士
種族:人間
属性:滅
異能:絶対忠誠心、身代わり、物理耐性、銃耐性、術耐性、即死無効、毒無効、自己修復、精神耐性、魔人の騎士、暴走
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