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「欠番覇王の異世界スレイブサーガ」

作者  園島義船



□ 第十一章 「スレイブ・ギアス」 編


615話 ー 622話




615話 「拠点探し その1『新たなる一歩』」


「んー! いい天気だ!!」


 アンシュラオンが、太陽を浴びて身体を伸ばす。

 白い服に白い髪の毛、白い肌。

 相変わらずの真っ白なので、強い日光に晒されるとかすんでしまいそうになるが、強い存在感だけは隠しようもなく鳥の一匹さえ彼には近寄らない。(もともと結界があるので鳥類はあまり来ないが)

 その隣には、自分とは正反対の真っ黒な服を着たサナがいた。


「少女服は最高だな!」


 ここ最近は戦闘を重視した黒装束や、鉄陣羽織等の準装が多かったが、久々にヒラヒラのフリルが付いたロリータ服を着ている。

 腰には革ベルトで刀を差しており、いざというときにも即座に対応が可能となっていた。

 最初は違和感があったが、今では刀がよく似合う。

 強くなってもサナの可愛さは何も変わらない。いや、強くなったことで愛らしさに磨きがかかったようでもある。


「随分と長居しちゃったな。もう一ヶ月か」


 二週間程度を考えていたルセーナ農場での滞在も、気づけば追加で二週間も延長してしまっていた。

 延長の意味は特にない。単純に目的を達成した充実感で、だらけていただけだ。

 もともとサナを手に入れてからも、ホテルでだらだら〜っと暮らしていた男だ。基本はニート根性なのである。


 そう、一ヶ月。


 ソイドファミリーを殲滅し、ソブカが下克上を果たしてから二週間が経っていた。

 ソブカはまだラングラスの長になったことを公表していない。名目上は復帰したツーバが率いていることになっている。

 いきなり分家が本家になると言われても混乱が起こるため、今は内部での地盤固めを優先しているのだろう。

 そのことは彼自身の問題なので自分には関係ない。


 大切なことは、これで一旦【契約満了】ということだ。


(ソブカはラングラス内で実権を握ることに成功した。あいつがどこまで求めるかはともかく、少なくともラングラスにはなれたから十分だろう。その見返りにオレは金をもらう。まさにウィンウィンだね)


 先日、ファレアスティが物凄く嫌そうな顔をして会いに来た。

 せめて愛想笑いくらいしてもいいのに、と思ったが、ひとまず手付け金として【二億円】持ってきたので気にしないでおく。

 この金は、毎月ソブカが自分に支払う「みかじめ料」だ。

 アンシュラオンとソブカの関係は、あくまで金による繋がりにすぎない。

 もし自分が他の誰かと新たに契約したら困るため、【ソブカの敵に加担しない契約】を新たに結んだのである。

 それだけで年間二十四億円。日本円でいえば百億近い値段にもなり、実にウハウハといえる。

 ファレアスティが自ら会いに来たことも他者への当てつけ。すでに隠す必要もないので、この行為自体が他派閥への牽制となる。

 これに加えて、『麻薬工場の利権』はすべて自分のものだ。

 すでに工場は再稼動しており、順調にコシノシンを生産している。


(幹部の二人の洗脳も成功したみたいだし、このまま金を生み出してくれるとありがたいものだ)


 尺の都合で省略したが、ソイドマミーとソイドリトルは生きている。

 あの後倉庫内では、リトルはマミーを守ろうと果敢にも向かってきたが、サナに首の骨を折られて瀕死に陥る。

 リトルの命を交渉材料にしつつソイドマミーを捕縛。スレイブ・ギアスの実験台にし、支配下に置くことに成功する。

 自己流なので多少上手くいかない部分があったが、ひとまず言うことは聞くので成功と呼んでも差し支えないだろう。


(いろいろ実験したおかげで、スレイブ・ギアスに対しても目処が立ってきたな。マザーの力を借りれば、さらに安定しそうだ。そろそろ本格的に研究してみるか)


 マミーの洗脳も、マザーがいればもっと上手くやれた自信はある。

 今後の目標は、サナ以外の女性にスレイブ・ギアスを付けることだ。

 ホロロたちがあまりに従順なので忘れそうだが、まだ彼女たちはギアスを付けていない一般人なのだ。

 魔人の影響力だけでも人を支配下に置くことは可能だが、サナを見てもわかるようにジュエルの効果は無視できない。

 自分が所有する特別な女性に相応しい、特別なギアスを見つけねばならないのだ。

 そこで問題となるのが【金《かね》】。


(女を養うには金がかかる。不思議なことに、いくらあっても不足するんだよなぁ…)


 独りで暮らすのならば、多少の不自由などは気にしないものだ。それこそ手取り月十数万でも食費を切り詰めれば生きていける。

 が、女性がいると話は大きく異なる。

 月給百万あろうとも、それに見合った生活になってしまうのだ。

 ケチれば女性は不満を感じ、その荒ぶる野性を解き放つ。そんな修羅場の世帯では、幸せなど永遠に手に入るわけがない。

 哀しいかな。結局、金がなければ生きてはいけず、オスはメスのために金を稼がねばならないのだ。

 たとえば、こうだ。


(サナの服は最高級の素材で特注したいな。色も黒を基調にしつつ、いろいろなバリエーションが欲しいぞ。普段着用、外出用、遠出用、みせびらかし用、最低でも二十着以上は必要だ。シャンプーも物足りない。あんな安物じゃ髪の毛が傷んでしまうぞ。西側諸国から輸入したもののほうがいいのかな? グラス・ギースの経済状態はまだまだ悪いからな…)


 という具合に、これだけで五百万は軽く飛ぶだろう。

 発展途上国で日本の最先端技術が使われた製品を求めるのと同じく、グラス・ギースではおのずと高級品の値段が割り増しになってしまう。

 サナの武器まで新調し始めたら、それこそ数千万は消えるはずだ。

 そして当然、女性は一人ではない。

 これからも増えることを考えたら、月二億(+麻薬代)でもギリギリやっていけるかどうかなのだ。



「アンシュラオン様、準備が整いました」


 そんなことを考えていると、ホロロがやってきた。

 その隣には一緒に頭を下げているメイドの二人、セノアとラノアもいる。

 だいぶメイドにも慣れたようで、仕草もそれなりに様になっていた。


(メイド服もホテルのものだから、もっと良いものに新調したいな。安全面を考えると戦闘用のメイド服も欲しいよね)


 メイドとはいえ、自分が扱うメイドは特別でなければいけない。

 このグラス・ギースで最高のメイドであるためには、中身だけは駄目である。

 その後ろにいるサリータも、まだ使い古された軽鎧を着ているので貧乏臭い。今後は装備の側面にも金をかけたいものだ。


「よし、みんなそろったな。今日は馬車で移動するぞ」


 農場の外にアンシュラオンの身内が集合する。

 そこには一台の白い大型馬車があった。

 数十人は乗れそうな大きなタイプで、装飾品もしっかりしているので高級馬車といえるだろう。


「師匠、どこに向かうのですか?」

「うむ、よい質問だ。ここも安全になったし、そろそろ独立しようと思っているんだ」

「独立でありますか?」

「前に少し言っていたと思うが、オレたちの【新しい拠点】を見つけるつもりだ。今日はその下見だな」

「拠点? ホテルでしょうか?」

「ああいう場所も嫌いじゃないけど、やっぱり落ち着かないよな。防衛面でも問題が多いし。それは身にしみただろう?」

「たしかに逃げ場がありませんでした。脱出の際は不利ですね」

「本物の金持ちっていうのは、逆に普通の場所に暮らしているもんさ。ああいうホテルに暮らす成金にはなりたくないもんだよ」


 ↑ 安直に高級ホテルに滞在しまくっていた男の台詞


「ところでシャイナの姿が見えませんが、また寝坊でしょうか? 叩き起こしてきます!」

「ああ、シャイナは置いておくから放っておいていいぞ」

「え? 今回の下見には連れていかない、ということですか?」

「そうじゃない。ここで一度、本格的に別れるつもりだ。身内は身内だが一緒には暮らさない」

「えええええええええっ!?」

「なんだサリータ、寂しいのか?」

「い、いえ、そうではありませんが…共に戦った仲間でもありますので…」

「もともと裏の世界とは無縁のやつだったんだ。馬鹿で間抜けで、とことんお人好しの人間は、オレたちとは一緒にいないほうがいい。住む世界が違うからな。あいつはあいつなりに違う道で役立とうと努力している最中だ。その邪魔をしたくない」

「そう…ですか」

「同じグラス・ギースの中にいるんだ。そんなに離れるわけじゃないさ。いつでも会える」

「…はい」


 サリータが目に見えて落ち込んでしまった。

 シャイナが抜けるとサリータが序列最下位になってしまうが、単純に後輩がいなくなった寂しさを感じているのだろう。仲間想いの女性である。


「サナもそれでいいか?」

「…こくり」


 サナも近くでシャイナの変化を見てきたため、あっさりと了承。

 どんなに親しいペットであっても、時には別れねばならないこともあるものだ。


(オレたちがいると甘えるからな。バイラルに徹底的に鍛えてもらうとしよう。まあ、こういう関係も悪くないか。スレイブにすることだけがすべてじゃない。…オレも大人になったもんだよ)


 今までは女性全員をスレイブにするつもりだったが、シャイナに至っては完全にタイミングを逸したこともあってか、その必要性を感じなかったのが本音だ。

 スレイブになれば、良くも悪くも主人に依存してしまう。そういう目的のために作られたのだから当然ともいえる。

 サリータのように自分で努力できる人間であればよいが、シャイナの場合は甘えてしまうタイプだ。それではせっかくのチャンスを失うかもしれない。

 これも一つの区切り。

 互いに新しい道への第一歩となる。


「じゃ、リリカナさん、よろしくね」

「はい! このたびはご指名、ありがとうございます!」


 御者台には日焼け肌に栗色の髪の女性、リリカナがいた。

 ホワイト時代によく利用していた御者だが、ハングラスに雇われた狐面に襲撃されて馬車を破壊されてから、しばらく休業していたようである。


「いやー、馬車を直したのはいいものの、なかなかお客さんがいなくて困っていたんですよね! 維持費も馬鹿にならなくて…ほら、ホテル街も立ち入り禁止になったでしょう? あれじゃ商売上がったりですよ!」

「それは大変だったね。でも、いきなり立ち入り禁止は酷いよね」

「本当ですよ! 偉い人たちの考えることはよくわかりませんね。ちょっと前までお得意様がいたんですけど、いつの間にか消えちゃいましたし……そうそう、お客さんと同じくらいの背丈でしたね」

「奇遇なこともあるもんだね」

「ほんと、偶然ってすごいですね。あはははは!」

「これから長い付き合いになるだろうから、気軽にアンシュラオンって呼んでね」

「アンシュラオンさん、ですね。わかりました! 私はリリカナです! よろしくお願いします!」


(最初は疑ったけど…この人、本当にわかってないんだよね。能天気というか天然というか…それはそれですごいな)


 リリカナを呼んだのは、ちょっとした罪悪感があったからだ。

 あれだけの悪事を重ねた悪党が、こんな小さなことを贖罪したいと思うとは不思議だが、一般人に迷惑をかけたことは気にしていたのだ。

 だが、彼女はまったく気づかない。

 こんなに似ているにもかかわらず、声さえも同じにもかかわらず、巷で流れている「ホワイトは死んだ」という噂を鵜呑みにしている。

 メディアが露骨な情報操作をしても、そこしか情報源がない高齢者はやすやすと信じてしまう光景に似ているだろうか。

 知らないことは怖いことだと改めて痛感するが、利権に関わらない一般人にとってはそんなものなのかもしれない。




 アンシュラオン一向は、馬車に乗って東門に向かう。

 さすが新調しただけあって馬力もかなりのものだ。すいすいと他の馬車を抜きながら三時間程度で到着。

 窓から門の近くを見ると、そこには長蛇の列があった。


「おせーよ! まだかよ!!」

「何時間待たせるんだよ!」

「うるせぇな! こっちは二日待ってんだ! 静かにしろ!!」

「あぁん! んだこら、やるのかてめぇ!!」

「んぁ? なんだぁ、こら!! やってやるよ!!」


 かなりの時間、並んでいるのだろう。

 不満が頂点に達した短気な男たちが、あちこちで喧嘩を始めている。

 それもまた見世物になって賭け事が始まる光景も相変わらずだ。

 ただし列はいつも以上に長く、なかなか進んでいないことは事実であった。


「混んでるね」

「あー、そうでした。検問が厳しくなったみたいで、通るまでに時間かかるんですよね」

「そうなんだ。ある意味ではこれが普通だけどね」


 今までのグラス・ギースがゆるゆるだっただけで、どこの誰かも知らない人間を入れるのだからチェックが厳しいのが普通であろう。

 これは治安維持を担当しているマングラスの方針である。

 少しでも違和感のある人物は、オビトメが十数分間かけてチェックするので、それが続くとどんどん渋滞していくのだ。

 通常はチェックの甘い商人に対しても行われる措置のため、東門は常に混雑している状況に陥っていた。


「けっこう待つかもしれないですね…」

「ああ、大丈夫、大丈夫。そのまま来客用のところに行ってよ」

「ええと…あそこは領主様に会いに来た要人さんとかが並ぶところですが…」

「知ってるよ。大丈夫だから行ってみなよ」

「はい、わかりました」


 リリカナは雇われ御者なので、多少疑問に思ったが言う通りに馬車を動かす。

 東門にはいくつか種類があり、長蛇の列が並んでいるところは昔アンシュラオンが並んだ一般用の通り道である。

 それとは別に商業用の通路があり、さらにもう一つ、要人用の通路がある。

 ここはガンプドルフ等の外部からやってきた来賓が通る場所で、軽いチェックだけで済むことが多いが、当然ながら一般人はまず近寄らないところだ。

 そこに白い馬車が近づくと、門から妙な緊張感が伝わってきた。

 それとは対照的にアンシュラオンは、窓から乗り出して手を振る。


「やっほー! マキさん!」

「あら、アンシュラオン君じゃない!」


 そこにはなぜかマキがいた。

 職務には真面目な彼女が、やることもなさそうに突っ立っていた。

 なかなか珍しい光景である。


「マキさんって、あっちが担当じゃなかった?」

「変なフードの連中がやってきて左遷されたのよ。まあ、青劉隊ってマングラスのカスどもなんだけどね。変質者の仲間のくせに偉そうにしちゃってさ」

「カスって……よほどストレス溜まっているんだね」

「ええ、暇すぎて何かを殴ってないと頭がおかしくなるほどよ!」


 ボゴーンッ!

 マキが八つ当たりで壁を殴ると、大きな音を立てて一瞬だけ門が揺れる。

 その音が鳴るたびに、喧嘩をしていた男連中の動きも止まっていた。

 壁にはいくつもの拳打の跡が残っているので、本当に暇そうである。


「それだけ暇なら、オレの家が出来たら遊びに来てよ!」

「え? 家を建てるの!?」

「これから土地を見に行くんだ。マキさんとオレ(たち)の家だよ!!」

「っ!! あ、アンシュラオン君…そんなに私とのことを…! 一生付いていくわ!!」

「うぐっ! 壊れる! 馬車が壊れるって!」


 武人のマキが窓越しに抱きついたため、それだけで馬車が大きく傾く。

 ドアが割れそうになったのを見てリリカナが青ざめるが、注意したらもっと酷い目に遭うと思ったのか必死に耐えていた。


「ここを通りたいんだけど、責任者ってマキさん?」

「残念ながら違うわ。私は変なやつらが来たら追い返すだけの役目。責任者は門の中にいるわ」

「じゃあ、そいつと話つけてくるね」

「大丈夫? 相手はマングラスよ。アンシュラオン君の敵よね?」

「オレの敵は私腹を肥やす上層部の連中だけだよ」

「私も力になってあげたいけど…」

「マキさんがここにいるだけで、マングラスの悪行を抑えることになるんだ。もっと自信を持ってよ!」

「アンシュラオン君…あなたって本当に素敵な人ね。そして勇気がある人よ! それに比べて、なんで私は衛士隊にいるのかしら…」

「マキさんが悪いんじゃない。領主が悪いんだよ」

「…そうね。そうなんだわ。マングラスと手を組んだ領主が悪いのよ!」

「そうそう。あいつらによって都市が牛耳られているんだから、マキさんは悪くないんだよ」

「ありがとう。君のおかげで目が覚めたわ!」

「うんうん、それはよかったよ」


 マキとはこの一ヶ月の間に一度会っているので、ある程度の事情は伝えてある。

 もちろん都合の悪いことは全部「マングラスor領主=悪」ということで片付けているが。

 ただ、実際に治安維持部隊が出てきて衛士隊の権威が下がったこともあり、それらの言葉には説得力があったようだ。


「ああ、そうだったわ。あなたに頼まれていた金髪の子、解放されたわ」

「へー、あの子が。どうりでいないと思ったよ。でも、よく衛士隊が解放したね」

「収監砦が壊れちゃったし、軽い罪の人たちは解放されたのよ。解放というか、【都市からの追放】なんだけどね。追放になると第三城壁内にも滞在できないの」

「要するに世話するのも面倒だから荒野に追い出した、ってことね」

「そうなるわね…。娘さんも一緒だったから心配だけど…」

「生きていればチャンスはあるよ。がんばってほしいものだね」

「そうね。無事だっただけでもよかったわね」


 これまたすっかり忘れていると思うが、シャイナの代わりに捕まったマドカのことである。

 もともと麻薬の不法所持という軽めの罪だったこともあり、ホワイトが死んだ今、もはや利用価値はなくなっていたのだ。


(子持ちの女が生きるには荒野は大変か。わざわざ殺す必要もなさそうだ。麻薬が没収されたのは損益だけど、しょうがないかな)


 都市にいるのならば排除対象だったが、追放されたのならばあえて追うこともない。

 自分の生活で必死だろうし、シャイナを売ったのは彼女のほうだ。自業自得といえる。

 工場に残っていたらサナに殺されていたので、むしろ感謝してほしいものである。

 ちなみにマドカが入手した麻薬は、かつてカスオが隠したものの一部なので回収したかったが、工場を制圧した今となってはたいした量ではないのでかまわないだろう。



「じゃあ、門を開けてもらえるかな。誠意をもって話し合えば通じるさ」

「気をつけてね。いざとなれば私も参戦するわ」

「ありがとう、マキさん! でも、たぶん大丈夫だよ」


 ゴゴゴゴッ

 マキが門を開けると、そこには一人の大男がいた。

 彼はセイリュウとも話をしていたマショウケツという人物だ。

 青劉隊の証である青い装束で頭まですっぽり覆っているので、顔は見えない。

 が、明らかにその表情は強張っていた。


「やぁ、初めまして」


 バリンッ


「…ひぃ」


 馬車から降りたアンシュラオンがマショウケツに近寄った瞬間、大男のわりには、あまりにか細い声がフードから漏れた。

 それも仕方ない。

 彼の近くには結界が張られており、普通の人間はもとより、武人でも簡単には近寄れないようにしてあったからだ。

 だが、アンシュラオンに『人が張った結界』などが通用するわけがない。


「通っていいよね?」

「…は、はい」

「これからもフリーパスでいいよね?」

「…は、はい。お願いしますから、もう近寄らないでください…」

「なんだよ。大きいわりにビビりだな。えいっ!」

「あうぅっ! ご、ごめんなさい…」


 バンッとアンシュラオンがマショウケツの脛を軽く蹴ると、哀れな声を出してうずくまる。

 そのまま震えて縮こまってしまい、動かなくなってしまった。嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のようだ。


「これからはオレが通るときは事前に開けておけよ。門の周囲を監視しているなら楽勝だよな?」

「…は、はい。わ、わかりました」

「暇なら、ちょっと遊んでやってもいいけど?」

「お、お許しを…」

「つまらないな。まあいいか。通っていいってー! 忙しいし、さっさと次に行こう!」


 あまりに無抵抗だったので興味を失ったアンシュラオンは、さっさと馬車に乗って行ってしまった。

 たしかにマショウケツはなさけないが、あの男への対応としてはもっとも賢いものといえる。

 平伏して逆らわない。これが一番なのだ。


「うう、結界が効かないなんて、あの人おかしいよ。もう関わりたくない…。オビトメ、大丈夫かな?」


 ちなみに一般通路で術式検査をしていたオビトメだが、アンシュラオンが近寄ってきた気配だけで失神。

 嘔吐までしたので、喉が詰まって窒息しそうになったそうだ。

 ただ通るだけで青劉隊が怯えるとは、歩く災害の名は伊達ではない。




616話 「新しい拠点 その2『アーパム商会設立』」



「小百合さん、元気にしてた?」

「―――っ!! アンシュラオン様!! 会いたかった!!」


 ドゴンッ


「いたーい!」


 我慢しきれずに飛び込んだので、受付の窓に頭をぶつける。


「興奮しすぎだって!」

「だって、全然会いに来てくれないじゃないですか!!」

「それはその…忙しくて…」

「忙しい!! 妻に対する言い訳ランキング、第二位の言葉ですよ!!」

「第一位は?」

「疲れているから勘弁して、です」

「どこでそんな情報を得てくるの?」

「職場で既婚者のイチャラブ話をよく聞くのです。あっ、この前離婚したので最近は静かですけどね。いい気味です」

「そ、そうなんだ」

「このまま私が三十路になったらどうするんですかーーー!! 早くー! 早く寿退社したいです!!」

「い、いや、その…時期ってものがあるからさ。もう少し待ってよ」

「いいんです。小百合はアンシュラオン様にすべてを捧げていますから。股間の記憶があれば生きていけます!!」

「声が大きいよ!!」


 だんだん小百合が壊れていくので本題にいこう。


「そろそろ家を買おうと思うんだ」

「マイスウィィィィィィットハウス!! 小百合との家ですね!!」

「ま、間違ってはいないかな。それで、まずは土地を探そうかなーと」

「わかりました! すぐに不動産屋を手配します!! では、行ってきます!!」

「あっ、小百合さん!!」


 止める間もなく、凄まじい勢いでハローワークを出て行った。

 その際に一般人を三人吹っ飛ばしたのも見えたが、気にしないでおこう。

 『結婚』、『マイホーム』という言葉は、女性をこれほどやる気にさせるものなのか。

 自身の生活がかかったときの女性のパワーは怖ろしいものである。



 数分後。



「ひぃひぃ、ふぅふぅっ! は、初めまして…ふぅふぅ、ディンフロン商会のアランモスと申します。ふぅふぅ」

「汗すごいけど、大丈夫?」

「これくらいは…はぁはぁ。大丈夫です。本気で走らないと刺されそうでしたので。あのような目のミナミノさんは初めて拝見しました。本当に殺されるかと思いましたよ」

「なにか…ごめん」


 やってきたのは不動産業を営む、ディンフロン商会の営業部長のアランモス。

 発言だけ見ると肥満に思えるかもしれないが、やや腹が出ているものの普通の体型の中年男性である。

 汗の理由は、小百合に急かされて全力で走ってきたからだ。

 最近は少し涼しくなってきたのだが、おかげでシャツは汗だくである。


(ディンフロン商会、か。領主の系列だな)


 不動産は領主の権益なので名前の通り、ディングラス家が経営する商会である。

 といっても領主が直接関与するわけではないため、普通の不動産屋だと思えば問題ない。


「土地をお探しだとか?」

「独立して家を建てようと思ってね。そこそこ大きいものを予定しているよ」

「それは素晴らしい! ぜひともお力になりたいものです。アンシュラオンさんは中級市民と伺っておりますので、中級街をご所望でしょうか?」

「中級街だけにこだわるわけじゃないから、それ以外の空き地も見せてもらえるかな? 急いでないからじっくり見たいね」

「わかりました。お任せください。ディンフロン商会の名にかけて素晴らしい土地を探してみせましょう!」

「ところで個人で買える土地には制限があるの? 買えない場所とかある?」

「そうですね…だいたいの場所は開放されておりますが、機密上どうしても一般の方には販売できない場所もあります。大きな土地となりますと、なおさらその傾向が強いかもしれません」

「そりゃそうだね。派閥間の争いが強いから、いいところは押さえられちゃうよね。どこか空いていればいいけど…うちは大所帯だから難しいかな」

「では、【商会】を作ってみてはどうでしょう? アンシュラオンさんほどの方ならば、簡単な手続きですぐに作れますよ。税金対策にもなりますし」


 ちらり、とアランモスが入り口で待っているホロロを見て提案する。

 彼はすでに駐車場にある白い大型馬車も確認しているので、自分がメイド持ちの金持ちということは一目でわかっただろう。

 商売をしている人間は、相手が金を持っているかどうかはすぐにわかるものなのだ。


(商会…か。何でも個人でやるより組織にしたほうが、節税に関しては楽ではあるな。前のは潰すために作ったけど、今度作るやつは普通に経営していくことなる。異世界で商売も悪くない。これも新しい一歩だと思えば楽しいかな)


 『ホワイト商会』は、あくまで他派閥の力を削ぎ、最後は潰れて終わるために作ったものだ。

 当然、愛着もまったくない。あんな汗臭い商会は二度と御免だ。

 だが、これからは自分たちの身内を食べさせていかねばならないし、だらだら何もしないで暮らすのは飽きてくるだろう。

 自分はともかく、他の者たちにやることを与えたいものである。

 また、どうせ監視対象になっているのだから商会という立場で動いたほうが楽だ。

 もし他の都市に行くことがあっても身分証明証代わりになるので、作っておいたほうがメリットは大きい。


「わかった。作ってくるから少し待ってもらえる?」

「もちろんです。私も休みたいと思っておりました」

「ホロロさん、扇いであげてよ」

「かしこまりました」

「こんな美人さんに扇いでもらえるとは、幸せですなぁ」


 こういう気遣いをするのも金持ちの嗜みである。(半分は見せつけ)




「小百合さん、商会を作れるかな? そのほうが得みたいだね」

「わかりました! では、こちらの書類にご記入ください」

「名前か。どうしようかな…」

「アンシュラオンと小百合の素敵な―――」

「『アーパム商会』でいいや」

「ずこーーー!」

「小百合さん、さすがにそれは長すぎるし無理があるって…」

「そうですよね。失礼いたしました」


(アーパム商会か。サナのために作るようなものだしな。これでいいだろう)


 小百合が暴走しそうになったので、咄嗟に思いついた名前を記入する。

 名前は単純に自分とサナの名前を繋げたものだ。面白みはないがストレートで悪くはない。


「ええと、商会のメンバーは…オレとサナとホロロさんと…あっ、あの子たちは市民権持ってないのか。ねえ、商会員になるのに市民権はなくても大丈夫だったっけ?」

「中級市民のアンシュラオン様が作った商会の従業員ならば、加入している間は庇護下に入るため『下級市民権』までは得ることができます」

「オレが身元保証人になるから、その下のランクまでは保証されるわけだね。なるほど。各派閥の商会で働きたい連中が多いわけだ」

「やはり都市内部では暮らしやすくなりますね。最近では都市に入るのも大変ですから、市民権があれば通行も楽になるはずです」

「オレはどっちでもいいけど、サリータたちだけで動く場合もあるからね。これは助かるかも。そういえば前にパーティーを作ったけど、商会やりながらハンターの仕事もできるのかな?」

「特に問題ありません」

「両方同時に動くこともできるの? 積荷を守るための自衛行動を自分がハンターとして請け負うとか」

「商会自体で戦力を持つのはよくあることですし、紐付けしてやっているところも多いですね。それを経費として算出して節税します」

「そのあたりは緩くていいね。両方好きに使い分ければいいのか。これも助かるな」


 今後は荒野での活動も増えるので、ハンターとしての仕事も両立できるのならば非常にありがたい。

 グラス・ギースに限らず、ペーパーカンパニーであっても作っておいたほうが得であることがわかる。

 それにしても―――


(やばい。前にも商会の説明を聞いた気がするが…全然覚えてない。あのときはソブカに丸投げしたからな。他人に押し付けるのと自分がやるのは違うもんだな)


 ホワイト商会を作った時に一通りの説明は聞いた気がするが、これっぽっちも覚えていない。

 他人から物をもらうと雑に扱うのと同じ心理だろうか。


「事業内容はどういたしますか?」

「それについては考えていたものがあるんだ。【ジュエルの取り扱い】にしようかなって」

「ジュエル…鉱物ですか?」

「グラス・ギースの鉱物資源の取り扱いって、どうなっているの?」

「現在はハングラスが独占して【輸入】しております」

「輸入…か。どうしてハングラスは自前で調達しないの?」

「詳しい事情はわかりませんが、鉱山の探索に危険が付きまといますので輸入したほうが安く上がるようですね」

「第一警備商隊とかいたけど、あいつらがいても駄目だったの?」

「少し遠出すると魔獣も強力になりますし、彼らは交通ルート間の護衛が主な任務だったようです。もし遠出して大型魔獣と遭遇したら輸送船くらい簡単に沈んでしまいますからね。前に試したことはあるようですが、魔獣と遭遇して何度も全滅したそうです」

「なるほどね」


(グランハムでも厳しかったか。まあ、あの程度の実力じゃ無理もないかな)


 都市内部での戦いが続いたので感覚が麻痺しそうだが、いくら対人戦闘で強く見えても、マキでさえ外に出れば簡単に命を失う危険性がある地域だ。

 以前ラブヘイアと行った『魔獣の狩場』も、普通ならば三日はかけて慎重に接近するらしい。そんな状態で鉱山の探索などできるはずもない。

 そうでなければもっと開発が進められており、辺境の地とは呼ばれていないだろう。

 資源はあるかもしれない。が、危険すぎて誰も開発できない。それが北部の事情なのだ。


「ジュエルを管理する場合、ハングラスと関わるってこと?」

「拠点をグラス・ギースに置くのならば、そうなりますね」

「それは興味深いね。アーパム商会が、ハングラス派閥になるってことだよね?」

「一応そういう扱いになります。直営だと『ハン』の文字が与えられますが、相当なコネクションがないと無理ですね」

「名前が組織内部での序列にもなっているんだね。それは問題ないかな。あくまで外郭団体程度の扱いでいいしね」

「また、ジュエルの取り扱いには『免許』が必要となります。こちらはダマスカスの『国際ジュエル協会』への申請となりますので、グラス・ギースとは関係ありません」

「そこに加入すると何かあるの?」

「特殊なジュエルを入手した際、発見の届出が求められます。その代わり申請すれば、向こうが保有している膨大なジュエルデータの閲覧が可能となります」

「秘匿した時の罰則は?」

「特にありませんが、露見した場合は心象が悪くなるかもしれません。ジュエリストの認定を牛耳っている組織ですからね」


 ダマスカスの国際ジュエル協会は、【ジュエリスト認定】の権限を唯一持っている国際組織である。

 ジュエリストの公式認定を受けた者は社会的に大きなステータスを得ることになり、各国各機関から有能な人材と認識されるようになる。

 ジュエリストの存在価値はサナを見ればわかるように、極めて大きなものだ。

 より多くのジュエリストを手元に置くことができれば、他国に圧力をかけることができ、それだけで防衛手段となりえるので引く手あまたとなる。

 ただし、これらはあくまで対外的で社会的なステータスのため、そういったものを必要としなければまったく気にする必要はない。

 現にテロリストだからといって、認定されない世界最強のジュエリストも存在している。(未来の話)


「まあ、無理に逆らうこともないか。利用できるものは利用しよう。ジュエルについてはわからないことも多いから、データが欲しいしね。じゃあ、そっちも申請しておいてもらえるかな?」

「わかりました。一週間ほどで登録証が届くと思いますので、お知らせいたしますね」


 どうせここは辺境の地。

 いくらでも誤魔化すことはできるし、適当に珍しい魔獣の心臓を見繕って送っておけば、対価として貴重なジュエルデータを閲覧できる。

 正直、メリットのほうが遥かに大きいのだ。

 それより重要なことは、ハングラスと関わる点である。


(ハングラスか。地下ではお世話になったし、嫌いじゃないんだよね。それに、戦力が低下しているんだ。オレの力は欲しいはずだ。…金の匂いがするね)


 自分でハングラスの商隊を潰しておいて、今度は自身の戦力を売り込む。

 なんともあくどいが、より強い者にはいくらでも需要があるのが現実だ。

 現在のハングラスの立場を考えると、自衛手段は喉から手が出るほど欲しいに違いない。

 ソブカとの密約があるものの、ラングラスと敵対しなければよいだけのこと。そう難しい問題ではないはずだ。

 これはぜひとも一度、話し合いの場を設けたいものである。


「ところで商売品の追加はできるのかな? 業務内容に変更があった場合だね」

「売り物といっても、それぞれですからね。途中から増えても手続きは不要です。たとえば服飾で登録しておいて、兼業で八百屋をやる人もいますよ。あまり大きくやりすぎると派閥から是正勧告が来るので、そこで修正すれば大事にはなりません」

「そのあたりはどこも同じか。助かるよ」


 日本でも最初に申請した業務内容とは違っても問題ないケースが多い。

 これも言葉のマジックだが「ジュエルの卸売りや『その他』の仕入れ『等』」と書いておけば、それ以外はすべて『その他』『等』に含めてしまえばいいのである。

 とりあえず税金さえ払えば文句は言われないのは、どこの世界でも同じようだ。


「では、事務所が決まりましたら、追加情報として登録しますので教えてくださいね」

「わかったよ」

「一番に教えてくださいね」

「う、うん」


 念を押された。


(少し予定が早まったけど、新しい生活の基盤は作れそうだ。スレイブ調達はモヒカンに押し付けて、これからはまっとうな商売人にでもなるかな。オレは自由だ!! うおおおおおお!)


 こうして『アーパム商会』が設立されることになった。

 今後はこの商会が、自身の生活の中心になっていくに違いない。




617話 「新しい拠点 その3『お菓子と大樹と日陰と』」


「はい、これあげるね」

「これは?」

「商会の身分証。持ってるだけで下級市民と同じ権限が与えられるから、移動するときは無くさないように首からかけておくといいよ」

「これで下級市民と同じ…なのですか?」

「そうだよ。まあ、グラス・ギース程度の都市じゃ、下級市民権の価値なんてたかが知れてるけどさ、無いよりあったほうが便利だよね。それと『アーパム商会』は『白の27』と紐付けておいたから、変なやつに絡まれたらその名前を出してね」

「は、はい! わかりました! 大事にします!」


 アンシュラオンがあげた商会員用の身分証をセノアがまじまじと見つめる。

 自分にとってはさしたる価値もないものだが、モヒカンに捕まってスレイブにされてしまった移民の彼女にしてみれば、下級市民権でも夢のまた夢なのだろう。

 それをぱっと欲しいときに手に入れてしまう主人が、ますますよくわからなくなったに違いない。


「これで自分も商隊員なのですね!」

「そうだ。サリータの場合は警備員も兼ねているけどな」

「光栄であります!」


 サリータに渡したときも妙に感動していた。

 彼女は傭兵の仕事で商隊の警備を請け負っていたこともあるが、今度は自分がそちら側に立つとは思ってもいなかったのだろう。

 誰だって他人に雇われる人生は嫌なものだ。自分の富を自分で守るのならばやる気も出る。

 思ったより商会を作ったことが好評だったので、アンシュラオンも嬉しくなってしまう。


(それにしても『白の27』…か。もっといい名前を付ければよかったよな。まっ、なんでもいいか。オレがデアンカ・ギースを倒したことはハンターならば知っているし、小百合さんにもさりげなく宣伝しておくように言ったから、アーパム商会を敵に回したらどうなるかはすぐにわかるだろう)


 今まではハンターとしての知名度など、まったく気にしていなかった。

 しかし、この都市にとって四大悪獣は災厄の象徴であるため、それを倒したとなれば本物の【英雄】といえる。

 当人は裏社会での金儲けに必死だったが、収監砦の門番でさえ知っていたように『悪獣殺し』は表の世界では大きな話題であった。

 現にアランモスも「あなたがあの…! どうりで存在感が違うと思いましたよ。いやぁ、うちの娘がファンなんですよ。ぜひともサインをお願いいたします」と感動していたものだ。


(素直に好意を向けられるのって、なんか新鮮だな。お日様の下はあったかいなー。ほんと、裏社会と比べると雲泥の差だね)


 なにが悲しくてエセ医者の「ホワイト」を名乗らねばならなかったのだろう。

 そうだ。自分はあの悪獣を倒した英雄なのだ。

 使えるものは使う。今後はシャイナ同様、太陽の下で名誉ある人生を送りたいものである。


「それじゃ、近場から順番に見て回ろうかな」


 そうしてサナたち全員に商会証を渡したあと、さっそく不動産を見て回ることにする。




 まず最初に見たのは、ハローワークから北に行った物件だ。

 周りは各商会の工場や倉庫が多く、港町でよく見られる工業地帯に似ているかもしれない。


(ジュエルの卸売りをするのならば便利ではある。ただ、前にハングラスの倉庫を襲ったこともあるから、なんとなく居づらい雰囲気はあるな。殺風景だし、ここに暮らしても楽しいとは思えない)


 ここは軽く見ただけで、ほぼ素通り。

 今後の事業拡大を見越してあくまで確認しただけ、といった感じだ。


 次は南に下り、ハローワークを越えて「一般街」に入る。

 一般街に入ると途端に景色は変わった。労働者から買い出しの主婦まで多様な人々が入り交じり、町全体に活気が見えてきた。

 ここは一般街と呼ばれるように普通の町の光景、商店街が並ぶ都市の中心地ともいえる場所だ。

 東門に近いことからも保存が利く携帯食料店や、キャンプ用品店、裏側に行けば武器屋の「バランバラン」等、荒野で生き抜くための店も多く見受けられる。

 そして、一般の人々が増えるため『恒例のアレ』も発生。


「そこのお嬢さん、お菓子はどうだい?」

「可愛い子たちが一杯だね! どうだい、おひとつ!!」

「そんな安物を売りつけるんじゃないよ! こっちの高級なお菓子をどうぞ!」

「はんっ! 見てくれだけで菓子の良し悪しが決まるわけじゃないわ! 味で勝負よ! うちは手作りだからね! さあ、どうかしら?」


 馬車の周囲に、カゴに食べ物を入れた女性たちが集まってきた。


(ああ、懐かしいな)


 もうすっかり忘れていると思うが、サナを領主から取り戻した頃、こうして馬車を使って都市を回ったことがある。

 そのときも同じようにお菓子や果物を持った女性たちが集まり、売り子をしていたものだ。

 都市内部で抗争が起きて街でドンパチやることがあっても、一般人は生活して生きていかねばならない。

 彼女たちからは逞しさと、上級街には無い人々の温もりが感じられた。


「あの、どうしましょう? スピードを上げますか? 観光馬車ではないので付き合う必要はありませんが…」

「いやいや、ゆっくり走ってあげてよ。本当にゆっくりね」

「大丈夫ですか? けっこうしつこいですよ?」

「それがいいんだよ。この子たちにも普通の生き方の良さを教えてあげたいんだ。人と触れ合うことは本当に大事だからね。そうそう、窓と天井も開けていいよ。盛大に迎え入れてあげよう」

「わかりました! ありがとうございます!」


 リリカナも労働者だ。同じ労働者の売り子たちの気持ちもよくわかるので、心情的にはそうしたかったのだろう。

 アンシュラオンが許可を出すと、彼女は笑顔で馬車の窓を開けていく。

 さすが金をかけて改造しただけあり、馬車の天井はスライドしてオープン仕様にもできるため、せっかく晴れているのだからと一度止めて開いてみた。

 その隙を周囲の売り子が見逃すはずもなく、あっという間に囲まれてしまう。

 目の前には大量のカゴ、カゴカゴカゴ。


「お嬢さん、これなんかどうだい? 手作りのパンだよ。たっぷりお肉も入ってるからね。噛み締めると、じゅわーって肉汁が出て最高だよ!」

「こっちは出来立てのアップルパイだよ! 食べたら甘酸っぱい味が広がるからオススメだね!」

「このフルーツは森の中でしか採れない貴重なものなんだよ! 夫が命がけで採ってきたんだ! ぜひ食べてみておくれよ!!」

「す、すみません! そ、その…私はメイドなので…お金がなくて…」

「あっ、そうだった。はい、【お小遣い】の十万円」


 アンシュラオンが囲まれて困っているセノアに金を渡す。

 着飾ることは何もない。懐からお札を十枚取り出して手渡しだ。


「え…? これ全部…ですか?」

「ごめんよ、忘れてた。子供にはお小遣いが必要だよね。給料とは別に払うから好きに使いなよ」

「え? 給料? え? お小遣い十万円?」

「十万円じゃたいしたものは買えないだろうけど、値段についてはあとでまた考えるよ。とりあえずここはそれで何か買ってごらん。全部使ってもいいよ。またあげるから」

「じゅ、十万円なんて大金……ど、どうやって全部…」

「ギラッ!! お嬢ちゃん、これなんてどうだい! このあまーいお菓子は最高だよ!!」

「いやいやいやいやいや、こっちの果物なんて本当に珍しくて美味しいんだよ! グラス・ギースじゃまず手に入らないね!!」

「何言ってんのさ! 私のパンが最高に決まってるだろう! ほら、ほら! 食べてごらんよ!」

「えええ! えええええええ!?? こ、困ります、困りますうううう!」

「ほらほら、いいから口に入れて! 突っ込んじまいな!」

「うぐうううっ! うまーーーーーー!」


 目の前でアンシュラオンが十万円を「お小遣い」として渡したため、明らかに場の空気が変わった。

 十万といえば庶民には大金だ。一般男性の二か月分の給料に匹敵する。

 それをぽんと渡してしまうほどの金持ちを逃すはずが―――ない!

 セノアは売り子のおばちゃ…ご婦人たちのパワーに圧倒され、次から次へと食べ物を買わされる羽目になっていた。(口にパンを突っ込まれていた)


「ははは、これも経験だね。じゃあ、ラノアにもお小遣いをあげようかな」

「んー、おかね?」

「そうだよ。これを使って買い物するんだ。何でも好きなものを買ってごらん」

「んー、ねーねーとおんなじのでいい」

「うーん、そっか。まだ自分で決めるのは難しいかな。サナ、一緒に見てやってくれ」

「…こくり」


 サナにも同じく十万円を渡し、ラノアの世話を任せる。


(子供はこういう場を通じて社会性を学んでいくんだよ。それをさらりと促せるオレって教養があるよな)


 と、自画自賛していたのだが、この時はすっかりと忘れていた。

 サナが『大のお菓子好き』であることを。

 以前も彼女は菓子を好み、あげればあげただけ食べるという暴挙に出ていたものだ。

 そこにお金という「自由」を与えればどうなるのか。


 十数分後、アンシュラオンの目の前には【菓子の山】が生まれていた。


 サナとラノアの二十万円が、すべて菓子になったのだ。安物の菓子からグラス・ギースでは高級品として扱われている高級菓子まで、ほぼすべてを買い占めてしまう。

 普段売り子として働いているおばちゃんに加え、何やら金持ちが路上で買い物をしていると聞きつけた周囲の店からも出張販売が行われたため、予想以上の菓子が集まったようである。

 中には菓子のオマケと称してアクセサリー等の雑貨も交じっていたので、どさくさに紛れていろいろと売りつけられたようだ。

 だが、サナの目には菓子しか映っていないので全部受け入れてしまう。


(二十万全部…お菓子か。気持ちはわかるし、オレが自由に使えと言ったから何も言えないが……子供は際限がないんだな。次からは気をつけよう)


 子供は与えただけ食べてしまう。

 特にサナはその傾向が強いので注意が必要だ。

 結局ここで買ったものは馬車に載せきれなかったため、台車を使って牽引することになった。

 思わぬ買い物ではあったが、グラス・ギースにおける経済状況がそれなりに回復していることがわかる一幕でもあり、まずは一安心といったところだろうか。

 仮初の安定ではあっても、市井《しせい》の人々にとっては経済が回ることが最重要なのである。

 ちなみにサリータだが、「あんた胸が小さいね。これを食べれば大きくなるよ」などと「豊胸フルーツ」を勧められてショックを受けていた。

 たしかにコラーゲンを多く含む果物は美容に良いと聞くし、胸の大きな女性が多い国でよく食べられている特定のフルーツもあるらしいが、おっぱい博士としては胸の大きさがすべてではないと断言したい!!


(女性の胸は、胸であるだけで美しい。そこに貴賎などはないのだ!!)


 おっぱいはおっぱいであるだけで美しい。

 真実はいつも一つ!!



 で、肝心の物件は一般街の大通りにある空き地だった。

 道に面した商店街の空き店舗の一つで、大きさはなかなかのものだ。そこそこ広い日本のスーパーがそのまま入りそうなくらいの敷地である。

 隣には花屋と食堂が営業中だった。昼時のためか、食堂には多くの人が吸い込まれていく。

 東門のある一般街の大通りは、人通りもよく、何よりハローワークに近いという最大のメリットがある。

 東門からすぐに外に出られるので、商人にとっては立地も悪くないだろう。


「けっこう広めの敷地だね。もともとは何だったの?」

「大きな雑貨店でしたね。一般生活で使う燃料ジュエルや日用品を扱っておりましたが、ここ二ヶ月は赤字続きで負債を返済するために店仕舞いしてしまいました」

「建物も壊すんだね」

「耐用年数に近づいていましたので一緒に解体したようですね」

「グラス・ギースの建築様式は、骨組みを作ったあとに石や木材で補強して、術式で強化するやり方だよね。何年くらいもつの?」

「安全性を考えれば十年か二十年くらいでしょうか。ただし、衝撃には脆いですからね。よく壊れます」

「やっぱり鉄を使った技術は導入されないのかな?」

「そうですね…すぐ壊れて建て直したほうが経済が回る事情もありますので、西側の技術が入るのはまだまだ先になりそうですね。…これは内密の話ですが、ハングラスでは製鉄技術の研究を進めているそうです」

「へぇ、重い腰を上げたかな」


 今まで製鉄技術に関してグラス・ギースは明らかに遅れていた。

 人間が立ち入れる区域で採れる資源が、主に木材と岩石といったものなので、それをいかに活用するかに重きが置かれていたからだ。

 が、ここにきて製鉄を考えるようになったのは、DBD(六奏聖剣王国)からの兵器供与があったからだろう。

 衛士隊が入手した戦車などが最たる例で、彼らが提供するものの大半が鉄を使ったものであるため、修理の際にはどうしても製鉄技術が必要になる。

 今は輸入に頼っているようだが高くつくため、早い段階で自前の技術が欲しいのが本音なのだ。


「順調なの?」

「鉄の種類にもいろいろありますから難航しているようです。素材の厳選から始めないといけませんからね」


 アランモスが言っている鉄の種類とは、鉄や鋼の違いを示す炭素の含有量といったものではなく、一般的に「石以外のもの」を鉄と呼んでいることに注意が必要だ。

 この世界には「術式」という要素があり、素材自体を容易に強化したり弱体化させることができる。

 普通の状態で弱くても術式強化すれば、下手な鋼より硬くなるものも存在するため、そういった相性も重要な問題となるのだ。

 何よりもすでに述べた通り、鉱山自体の発見管理が極めて難しいので最初から難題だらけである。それで上手くいくほうが珍しいだろう。


「物によっては高炉も必要になるしね。技術的にも難しそうだ」

「そのあたりはハピ・クジュネの武器職人が得意なので、招致するのが一番だと思いますが…」

「なかなか辺境の地に来てくれる職人はいないか。メリットがないからね」

「そうですね。向こうも輸出が減ってしまうと利益が減りますし、わざわざ技術供与することはしないでしょう。おっと、すみません。物件の話でしたね」

「話題を振ったのはこっちだからね。気にしないでいいよ。うちの子らも楽しそうに見ているからね」


 サリータやセノアたちも敷地を見て、興味津々といった様子である。

 アンシュラオンが近寄ると、頬を赤らめて興奮した様子で話しかけてきた。

 特にセノアが顕著で声も弾んでいる。


「ここにお店を開くのですか?」

「将来的にそうなれば楽しそうだね。まあ、今は売るものがないからね。ここを買っても生かしきれるかどうか…」

「いい場所ですよね。みんな楽しそうにしています。お花屋さんも綺麗ですし…お店かぁ…楽しみです!」

「…アランモスさん、ここっていくらなの?」

「ここは大通りで立地も良いので、四千万円となっております」


(四千万か。たいした額ではないが…どうしようかな。商品がないのに先に店の敷地を買うのはリスキーなんだけど、なんだかセノアたちは嬉しそうだな)


 スレイブとして買われた以上、何があっても文句はないだろうが、いきなりホテルで人殺しを経験させられたりと少女にしては散々な扱いである。

 見れば、たまに商会身分証に触れたり眺めたりして、そのたびにニコニコしているではないか。

 普通の女の子であるセノアが、こんな素の感情を見せるのは珍しいことだ。


(そうだよな。女の子にとっては安定が一番の幸せだもんな。お花屋さんとかに憧れるもんだよな)


「サナはどうだい? ここが気に入ったか?」

「…こくり」


 サナはセノアと反対側、『食堂』を見ながら頷く。

 たしかに食事処が近くにあるのは従業員にとっては嬉しいものだ。

 が、サナが食べ物ばかりに興味を示すのは少し怖い。ここはセノアと同じく花屋を見てほしかったところだ。


(もっと女の子らしいものに興味を示してもらいたいが…しょうがない。さて、これから金なんていくらでも手に入る。このために汚ない裏社会の連中とも付き合ったんだ。店の一つや二つくらい気前良く買ってやるか)


「ここ、買うよ。しばらく更地のままにしとくけど、そのうち店を建てるからさ。それまで管理をよろしくね」

「お買い上げ、ありがとうございます!」

「ここはあくまで店舗として使うから、居住スペースは別のほうがよさそうだね。人通りが多くて落ち着かないかな」

「では、次の場所に参りましょう」



 次に見て回ったのは、下級街の一画。

 以前戦罪者たちを集める時にも通ったが、下級街には上層、中層、下層が存在する。

 貧困区の下層は論外なのでアランモスも最初から除外したため、今回紹介された場所は上層寄りの敷地だった。

 こちらも建物を解体したばかりの更地で、綺麗にぽっかりと大きな空き地が広がっている。


「へぇ、こんな場所があったんだね」

「商店街にも近くて治安も悪くありません。それでいて比較的静かな場所ですよ」

「もともとは何だったの?」

「こちらはジングラス系列の商会が保有するアパートでしたね。商会が潰れたので売りに出されました」

「ジングラスか。あの派閥の経営は大丈夫なのかな?」

「特に目立った悪い噂は聞きませんが…あそこも輸入が多いですからね。最近食料品の物価も値上がってきましたし、対外的には苦戦しているのかもしれません」


 ジングラスとハングラスは、アンシュラオンたちによって大打撃を受けた派閥である。

 さきほどの雑貨店もハングラスに手数料を支払っていた店だ。

 マングラスを表舞台に引き出すために意図的にソブカに狙われたのが災いし、両陣営とも経営状況はかなり悪いらしい。

 そして、そこを安く買い叩くのは、元凶となった男。

 なんとも皮肉、というよりは、弱肉強食の世界を如実に映し出しているともいえる。


(といっても、今ここを買う理由はないな。従業員やスレイブが山ほど増えれば考えなくもないが、住む場所としてはあまり好ましくはない。下層に行けばマフィアの事務所もあるしな)


 ということで、今回は見送りである。

 今後さらに経営が悪化して潰れる商会も出てくるだろうから、その時を狙えばいいだろう。

 その後も数件見て回るが、あまり大差はなかった。

 下級街の利点は、スレイブ館に近いことだろうか。徒歩で簡単に行くことができる。

 大通りからは定期馬車も出ているので、一般街のハローワークにも行きやすいことも利点だ。

 が、それだけである。

 おそらく都市で一番活気はあるが、活気があるだけ騒動も多い。ラノアのように小さな子供がいる場合は、あまり好ましい住処とはいえないだろう。


 次に向かったのは中級街。

 中級街に入れば、この都市では高級住宅と呼んでも差し支えない一般家屋が並んでいる。小百合の家(社宅)もその一つだ。

 中級街は基本的に中級市民が住む場所であるため、すべてにおいて今までの場所よりグレードが高い。

 建物は見た瞬間から豪華で最低でも二階建てになっているし、庭付きの屋敷と呼べるような家が多く見られる。

 大通りの店の数は少な目だが、高級感が増して厳選された印象を受けるので悪くはない。

 下級街同様に定期馬車も出ているため、足に関してもさして不便さは感じない。ここに居を構えるのは悪くない判断だ。

 ただし、中級街ともなると各派閥の有力者たちが居を構えており、プライリーラのように上級街に本邸を持っていながら別邸を持つ者もいる。

 商会資格を取ったので、そういった場所にも割り込めるのだが、できればグラス・ギースの派閥とはあまり関わりたくないのが本音だ。

 あくまでまったりと好き勝手に商売をやりたいのである。


(ふむ、土地を探すのも大変だな。どうせ暮らすのならばゆっくりしたいよなぁ。そういえば、ずっと気になっていたことがあるんだよね。訊いてみようか)


「ねぇ、この壁の向こう側にある『樹』って何?」

「樹ですか?」

「第二城壁の外側に張り付くようにして【大樹】があるよね。あれって何なの?」


 地図でいうと、ちょうど西門からまっすぐ西に進み、第二城壁の向こう側に張り付くようにして巨大な樹が存在する。

 しかし上部は、城壁と同じ高さあたりで切り裂かれたように割れており、枝葉もあまり付いていないので、大樹というより【大木】に近いだろうか。

 以前グラス・ギースを探索していたときに発見してから、ずっと気になっていたのである。


「ああ、あれですか。大災厄まではこの都市の【守り樹】として普通に立っていたらしいのですが、災厄時に破壊されてしまったようですね」

「四大悪獣に壊されたの?」

「昔のことなので記録はありませんが、おそらくそうなのでしょうね。その後に城壁を造ったそうですが、あの樹の高さに合わせたみたいです。本来はもっと高い樹だったようですね」


(プライリーラの馬とかが暮らすにはいい場所かもね。昔は放し飼いだったのかも)


「あの樹って、所有者はいるの?」

「所有者はおりません。強いて言えば領主様ですが、おそらく存在も忘れていると思われます」

「守り樹だったんでしょ? そんな扱いでいいの?」

「守り樹であったことも忘れられているくらいですからね。私も訊かれるまでは忘れておりました」

「じゃあ、あそこの土地は売りに出されているのかな?」

「少々お待ちください。ええと、第三城壁内部の…E8エリアは…ああ、ありますね。売りに出されております」

「そこの土地を買うと大樹も付いてくるの?」

「付くと申しますか、うちでは城壁の一部と認識していますね」

「面している城壁の一部も自由にしていいの?」

「特に決まりはありませんね。どのみち城壁上部には結界がありますから、みなさん好きに使っているようですよ」

「それはいいね。で、いくら?」

「あの周囲五百メートルで、五百万となっております」

「安いね」

「何もありませんからね」

「さらに三千万足すから、このあたり一帯ももらおうかな。ほら、こことここも」


 アンシュラオンが、アランモスが持っていた地図を見ながら場所を指定していく。


「は、はぁ…よろしいのですか? 多少の緑はありますが、耕作地にも向かないただの荒地ですが…」

「いいのいいの。そういう辺鄙なところも欲しいじゃん。別荘っていうのかな。金持ちの道楽だよ」

「なるほど。そういうものも悪くはありませんね」

「ついでに訊くけど、ここは空いてるのかな? 反対側のさ、ここ」

「え? そこは空いておりますが…特に何もない場所ですよ? 常時日陰ですし、人気もまったくありません」

「人気がないってことは安いってことだよね。ちょっと見に行ってみようか。ここから近いしね」


 アンシュラオン一向は、今度は大樹の裏側である第二城壁内部に移動する。

 そこは周囲に森があるものの、ぽっかりと空き地が生まれている場所だった。

 空き地といっても大きな工場が出来そうなくらいの大きさはあるのだが、アランモスが言っていたように完全に日陰となっていた。

 日が昇るのは、せいぜい太陽が真上に来るときくらいだろう。それも一時間も経たずに城壁の影に飲まれてしまうに違いない。

 本当に隅の隅、といった不毛の土地である。

 だが、それを見たアンシュラオンは―――


「いいね。実にいい。ここを買うよ」

「は、はぁ…お気に召されたのならば嬉しいのですが…候補地になっていなかったものでして値段が決まっておらず…」

「えーと、さっきまでの二つで七千五百万円だったね。全部まとめて一億出すから、あそこの森ごともらっていい?」

「ここは人気がないのでもっと安くても…」

「まぁまぁまぁまぁ、いいじゃない。ほら、残りはとっといて。お金はあって困らないからね」

「ああ、でもその…」

「これからもよろしくってことでさ。ね? ポケットにしまっちゃいなよ。ほらほら。領主なんかに仕えていても楽しいことないでしょ? これくらいの役得がないとさ。ほらほらほらー!」

「ああああ、そんなに捻じ込まれたら!! 惚れてまうやろーーー!! これからもよろしくお願いいたします!!」


 アランモス、陥落。

 金はいい。金があればたいていのことはできてしまう。

 純粋な暴力ほど崇高ではないが、金はお互いが笑顔になるから好きだ。

 ということで、今回アンシュラオンが買った土地はこの三つとなった。






618話 「新しい拠点 その4『目覚めし大樹』」


 アンシュラオンが買った土地は、三つ。

 一つは店舗用の空き地で、一般街の大通りの一画。

 こちらはまだ店を建てていないどころか、まだ商品すらないため、とりあえず買っただけのものだ。

 もしジュエルの安定供給が可能となれば他の品物も含めて、大型ホームセンターのような店となる予定だ。

 それはいい。この土地を買った判断は悪くない。

 問題はそれ以外の二つだ。


「よし、上手くいったな。あそこが手に入るとはラッキーだ」


 土地を買った翌日。

 馬車で第三城壁内部を移動中にもアンシュラオンは、満足そうに頷いていた。

 この笑みから察するに衝動買いではなく、意図的にあの場所を狙っていたことがうかがえる。


「アンシュラオン様、なぜあの土地を選ばれたのですか?」


 ここでホロロが、不可思議な表情を浮かべている他の者たちの代理として質問してきた。

 誰もが疑問でありながらも、なかなか言い出せなかったのだ。

 また、アンシュラオンが説明したそうな顔をしていたのを見逃さなかった。

 こういった主人の欲求をさりげなく満たせるからこそ、彼女は非力でありながらも一番信頼されるのである。

 そして、あの場所を選んだ理由が明かされる。


「まず最初に買った土地だが、店舗の場所はどこでもよかったんだ。手続きとかもあるし、ハローワークに近い場所なら問題はない。立地もいいし、周囲の店も繁盛していたから相乗効果もありそうだ。あそこは良い場所だよ」


 店自体は、正直どうでもよかった。

 アーパム商会はあくまで管理用であって、自分が欲しいものだけ用意できれば役割は果たせるからだ。

 ただし、余興として店を開くのも悪くはない。セノアが欲しがっていたこともあり、それもいいと思って買っただけだ。


「みんなが気になっているのは、あの日陰の土地だよね。べつにあそこに住むわけじゃないから安心していいよ。そうだな…『事務所』って感じかな。あそこが対外的なアーパム商会の窓口になるんだ」


 商会を作った以上、他の商会と話し合うこともあるだろう。また、在庫管理といった事務作業を行うスペースがほしい。

 一般街の店舗に併設してもよいのだが、中級街に居を構えること自体が中級市民である証拠であり、信頼につながるだろう。

 かといって中心部では他派閥もいるので、あの隅っこがちょうどよいのだ。


「オレたちが実際に住むのは第三城壁内部。つまりは、あの『大樹』があるところだね」

「あそこに住む場合、街までかなりの距離がありますね」

「そうだね。普通に行けば一般街まで六十キロ以上、事務所まで行くなら百キロ以上はあるよね。障害物や建造物があるから、もっと長いかもしれないな」

「ということは、誰かが事務所に寝泊りするのでしょうか? 一日で往復するには大変な距離ですし…」

「いやいや、そんなことはしないよ。オレたちは基本的にいつも一緒だ。そうでないと安全が確保できないし、寂しいだろう? そこはオレに考えがあるから楽しみにしておいてくれ。それよりは【位置】が重要だ。地図を見てみようか」


 アンシュラオンがグラス・ギースの地図を広げる。

 こちらは一般人が入手可能な簡易なものではなく、不動産屋が持っている詳細な地図である。

 防衛上、都市の区画図は重要なものなので、一部の人間にしか手に入らないのだ。(アランモスを買収した結果である)


「サリータ、どうしてここを選んだかわかるか?」

「えっ? あっ…ええと……農場に近いからですか?」

「なるほど。だいぶ距離があるが、同じ第三城壁内部にあるから近いには近いな。シャイナが住んでいるしバイラルもいるから、近ければ守りやすい面はあるだろう。だが、今回は違う理由だ。オレたち自身のことを考えれば、ここがベストだとわかるはずだ。位置をよく見てみるんだ。ここから一番近い場所はどこだ?」

「うーん…」

「言い方を変えようか。もし敵が攻めてきた場合、どこから逃げる?」

「敵ですか?」

「仮定の話さ。もしグラス・ギースが攻められたとき、軍隊でも魔獣の群れでもいいが、そうしたときはどこから逃げるのが妥当だ?」

「城塞都市ですから、逃げるには門を通るしかないですね」

「そうだな。あくまで城壁を登らないという前提で話せば、そうなる。じゃあ、どこの門から逃げる?」

「南門は遠いですから…【北西門】ですか?」

「正解だ。第三城壁内部において外に出る門は二つしかない。オレたちの住んでいる場所から一番近いのは当然、北西門となるな。北西門は貿易用の出入り口ではあるが、実際のところあまり使われていない。多くの商人は南門を使っているからな。なぜならば、輸入品の大半が南側の都市からやってくるからだ」

「単純に東門に近いという理由もありそうです」

「ああ、商人にとっては時間も重要になる。北西門を使っているのは北からやってくる商人くらいなものだが、そこまで数は多くないんだ。オレも北のほうから来たが、かろうじて村と呼べるような集落が複数あるくらいだった。村からの輸入品は木材とか珍しい果実とか、そういったものだな。それでも安全性を考慮するのならば、迂回して南門から入ったほうが安全だ。交通ルートに接するからな」

「北西門は微妙に荒野に接していますね。魔獣が出る可能性も高そうです」

「そうだ。リスクが高い場所には人は寄り付かないのが道理だ。では話を戻すが、この都市が攻められた場合、それを事前に察知したのならば、グラス・ギースはどのような戦術を取ると思う?」

「城塞都市ですし、門を閉めて守るのでしょうか? あまりそういった現場を見たことがないので想像するしかありませんが…」

「門は閉めるだろうな。しかし、最初に閉めるのは【東門】と【北西門】だ」

「え? 南門は閉めないのですか?」

「大型魔獣が来たら閉めるだろうが、普通の外敵だったら南門は閉めない。篭城するだけでは城塞都市に勝ち目はないからだ。交通ルートを押さえられたら終わりだ」


 篭城とは、援軍が来る前提で使われる戦術だ。

 ただむやみに閉じ篭っているだけでは自滅するしかない。

 戦国時代の日本でも、篭城している間に援軍を要請しに行くのが普通である。(来ないと悲惨だが)

 だが、グラス・ギースは単に篭城するだけではない。


「はっきり言ってグラス・ギースは【攻撃型の城塞都市】なんだ。砦が南門に集中しているのがわかるか? これは戦艦や輸送船、あるいは大型魔獣の突進を受け止めるために造られたものではあるが、そのまま南門で敵を迎え撃つことも想定しているんだ」


 グラス・ギースの地図を見ると、カタツムリの殻のように渦巻きになっていることがわかるだろう。

 地図上の黒い場所は『堀』なので、大勢の敵が一気に攻められないようにしてある。これは日本の城と同じく内部に敵を誘い込んで迎撃するためだ。


「南門から突入した敵は東門を目指す。都市への入り口がそこしかないからだ。それを南側の砦が防衛するが、そのまま突破されても東側の砦から衛士たちがやってきて食い止める。そして、西砦からの援軍が到着するまで耐える仕組みになっているようだ」

「敵が北西門から攻撃する可能性はないのでしょうか?」

「たしかにそれはある。挟まれることを嫌って、部隊を二手に分けて攻撃する可能性もあるな。ただその場合でも向かってくるのは主戦力ではないだろうし、もし主戦力であれば、それはそれでオレたちは南門を目指して逃げればいいだけだ。むしろ、そっちのほうがありがたいよな」

「どちらにせよ敵が来たら衛士隊が対応する、というわけですね。しかし、それならば第二城壁内部のほうが安全ではないのでしょうか?」

「ホテルの件を忘れたか? 逃げ道がないのはつらいぞ。一見すれば閉じられた第二城壁内部が安全に見えるが、最悪の場合、領主は第二城壁内部を見捨てて戦場にするはずだ。障害物が多い第二城壁内部こそ、一番迎撃しやすいエリアなんだ」


 建物の影に隠れて襲いかかる。または逃げ込む。

 市街地でゲリラ戦を仕掛けて敵を混乱に陥れることも、グラス・ギースは想定しているように見える。

 そして第一城壁内の衛士たちが、最後の砦である西門に全兵力を投入して攻撃を凌ぐのだ。


「グラス・ギースには十万人以上の人間がいる。それも甘い統計で、実際は二十万人に近いらしい。それだけの人数がパニックになって東門に集中すれば、一般人同士の共倒れは必至だな。であれば皮肉だが、できるだけ都市内部で暮らさないほうが安全といえる。もちろんそこまで敵が侵攻してくる可能性は低いだろうし、第三城壁内部のほうが日常的なトラブルが多いから、一般人が暮らすのならば中のほうがいいとは思うけどな」

「私たちはグラス・ギースに固執する必要はない。ここが重要ですね」


 ここでホロロが補足。

 一般の人間とアンシュラオンが違うのは、何度も言っているようにこの部分なのだ。


「そうだ。領主を助ける理由もないし、共倒れになるなんて御免だ。まあ、金づるのラングラスがピンチなら助けてやってもいいが、まずはオレたちの安全確保が最優先となる。もしグラス・ギースが襲われたときは北西門から脱出。その前提で考えると、この立地は悪くない。近くに森もあるし、逃げ込んでチャンスをうかがえる。待ち伏せもしやすいだろう」

「出口が近いのは安心しますね」

「ああ、何かあったらまずは都市から離れたほうがいい。仮にグラス・ギースを陥落させられるくらいの戦力が投入されれば、オレもそこまで余裕があるかわからない。日常的な面では魔獣が北西門から紛れ込む可能性もあるが、グラス・ギースの周囲にいる魔獣はハンターが常時監視しているからな。そこまで怖れることはないだろう。むろん逃げるルートは事前に複数作っておくよ」


 アンシュラオンの話を聞いて、皆の表情が困惑から安堵へと変わる。

 主人がいつも自分たちの身の安全を考えてくれていることは、従う者からすれば非常に重要な要素である。

 雇われた会社の社長が間抜けで、借金を背負って潰れる程度ならばよいが、荒野では命がかかっているのだ。常に身を案じるべきである。

 なるほど。場所はいい。意図はわかった。

 であれば今度は、実際どのような住み心地なのか、という点に興味が移る。



 馬車が農場を通り過ぎ、問題の大樹に到着。


 南北の少し離れたところに森が見えるが、ここだけぽっかりと五百メートル四方に荒地が広がっている。

 そこにはしなびながらも城壁にへばりついている大樹があった。裏側の三割は壁と一体化していると言ってもよいだろう。

 大樹の高さは城壁とほぼ同じなので、約五十メートル程度だ。

 だが、アンシュラオンがもっと気になったのは、その【直径】。


(でかいよな。どう見ても直径が百メートル以上ある。百五十メートルくらいか? こんな樹、地球ではお目にかかれないよ)


 オリンピックで使われるスタジアムのトラックと、ほぼ同じ長さと思えばわかりやすい。

 地球ではメキシコにある巨木の直径が約六十メートルなので、もはや比べるまでもないほど大きな樹だ。

 火怨山ではもっと大きな樹もあったので個人的に驚きはないが、荒野にぽつんと巨木があれば気になるものだろう。

 もし途中で折れていなければ、おそらく全高は今の三倍以上はあったに違いない。守り樹になるのも頷ける。

 しかしながら災厄時に破壊され、人々が混乱の中で存在を忘れてしまった悲しい樹でもあるのだ。


「さて、どんなもんかな」


 アンシュラオンが樹に近寄り、触ってみる。

 表面はつるっとしており、廊下に触れたような感覚だ。

 ぐっと指を押し込んでみたが、まったくびくともしない。


「おっ、なかなか堅いな。サリータ、ちょっと斧で叩いてみな」

「よろしいのですか?」

「もうオレのものだ。かまわないさ。全力でいけよ」

「わかりました! では、えーーーい!」


 ブーンッ! ガゴンッ!

 サリータが術式斧の突扇斧《とっせんぷ》で力一杯叩きつけたが、刃は樹皮に食い込むこともなく弾かれた。

 まさか樹木に弾かれるとは思っていなかったサリータは、まともに反動を受けてひっくり返る。


「いつつ!! なんですか、この感触は!? 手が…痺れて……いたた! うわっ、傷一つ付いていません!」

「ふむ、サリータ程度の攻撃では無傷か」


 サリータは戦気こそ使っていないが、一般成人男性よりも力は強い。

 その腕力で思いきり武器を叩きつけても無傷であれば、魔獣の攻撃にもそれなりに耐えることができるだろう。


「今度はサナがやってごらん。剣気を出してやるんだぞ」

「…こくり」


 サナが剣気を放出した刀を構え、振り抜く。

 ガシュンッ

 刃は樹皮を傷つけたが、軽く跡筋が残っただけで切れてはいない。


「今度は魔石を使ってごらん」

「…こくり」


 バチバチとサナが魔石を解放。

 雷爪を展開して、樹皮に叩きつける。

 ズバンッ

 多少抉れたものの、竹刀で樹を叩いた程度の損傷しか生まれていない。


「思った以上だな。こいつはいいぞ」


 サナの一撃は、レイオンでも大ダメージを受けるほどだ。

 それを受けても無事ならば、強度としては文句なく合格といえる。

 だが、サナは悔しかったのか何度も雷爪を叩きつけていた。(途中で力尽きてやめた)


「あの…この樹の近くに家を建てるのでしょうか?」


 セノアが周囲を見回しながら訊ねる。

 彼女にとっては樹の強度よりも住む家のほうが大事なのだろう。極めて普通の感覚だ。

 完全な空き地になっているので、たしかに家は建てやすそうではある。

 しかし、そう考えている段階でアンシュラオンの意図を理解していない。


「家はもうあるよ」

「ある? どこにですか?」

「これさ、これ」


 コンコンッと、拳で大樹を叩く。

 しばらくその意味がわからず、セノアがじっと枯れ木を見つめていたが、やはりわからずに首を傾げていた。

 アンシュラオンは、そんなセノアの表情に苦笑。


「さすがに荒野に暮らしていると、『木の中に住む』っていう概念が無いかな」


 アンシュラオンが戦気をまとわせた手を、ずぶりと木の中に突き入れる。


「ちょっと固めの粘土くらいか? 意外と掘りやすいな」


 さきほどサリータが簡単に弾かれた木を貫き、いとも簡単に木を掘り進めていく。

 ざくざくざくっ

 アンシュラオンが一回手を掻くだけで、地上から高さ二メートルほどの空間が一気に削れていく。

 そのたびに膨大な量の木屑が生まれていくが、当人は気にせず進んでいき、あっという間に姿が見えなくなる。


「おーい、どうした? 付いてきていいんだぞー」

「…こくり」

「は、はい!!」


 呆気に取られていたサリータたちも、サナがすたすた木の中に入っていくのを見て、慌てて付いていく。

 サリータにとっては強固でも、アンシュラオンからすればたいしたものではない。改めて主人の強さを痛感するのであった。



 そうしてしばらく進んでいくと、幹の中央部分に到達。


(幹の部分は、ほぼ死んでいる。活力が皆無だ。だがしかし、【根】はまだ生きている)


 よく根腐れで木が枯れる、という話を聞く。根が呼吸できなくなって死んでしまい、結果的に木全体が枯れる現象だ。

 ただ、この大樹の根は生きていた。

 あまりに弱々しく、生きているのが不思議なほどだが、奥底に生命の温もりを感じる。

 まだ大樹が生きている一つの要因には、遺跡から染み出した『水』の影響があるかもしれない。

 マングラスが管理する『生命の水』のかすかな波動が、この大樹の命を繋ぎ止めていたのだ。


(放っておけば完全に死んでしまうだろう。守り樹と呼ばれ、人々から崇敬されていた面影なんてまるでない。歴史の中に埋もれてしまった過去の栄光を見るようで切ないな。だが、オレがお前を見つけた。オレだけはお前を見ていたんだ。お前もオレのものになれ。オレは自分の所有物を見捨てない)


 アンシュラオンが木の根の一部に手を置くと、命気を放出。

 命気は大地に染み入り、根に広がる。

 少し吸わせた程度では大樹は何も変わらない。

 もっともっと出す。


 出す、出す、出す、出す、出す。

 吸う、吸う、吸う、吸う、吸う。


 与えれば与えるだけ吸っていく。

 この感覚は黒雷狼に似ていた。

 ちゅーちゅーと赤子が母乳を吸っている光景が目に浮かぶようだ。

 一度枯れた幹は二度と戻らない。死んでしまった部分は蘇らない。

 しかし、根が生きていれば倒れることはない。

 命気を与えたことで根に活力が戻ったことを確信する。


(根がしっかりしていれば地盤も強くなる。これだけ大きな樹なんだ。根も相当広がっているんだろうな。オレも植物は好きだから長生きしてほしいもんだ)


 守り樹の根は、南北に広がった森にまで広がっていると思われた。

 日本でも木を神聖なものとして扱うのは、その根ががっしりと大地を支えることで、地震から家屋を守ることにもつながるからだ。

 この守り樹も同じ。

 しっかりと大きな根が残っていれば、城壁が吹っ飛んでも樹自体が倒れることはないだろう。

 【彼】は多くの人々から忘れられたが、もっと強大な一人の男に救われた。

 きっとこれからは自分が住む場所を支えてくれるに違いない。


 アンシュラオンは根を強化すると、さらに掘り進む。

 が、その途中、セノアが声を上げた。


「ひゃっ! 何か動いています!?」

「ん? なんだ、このでかい芋虫は?」


 枯れた樹の中に空洞があり、そこに六十センチ程度の大きさの『芋虫』がいた。

 その口には強靭な大顎(牙)が付いており、がっしりと樹に噛み付いている。

 どうやらこの空洞は、この幼虫が自ら噛み砕いて掘ったものと推測できる。


「へぇ、この幹を壊せるだけの力はあるみたいだな。はは、なんか可愛いぞ。ほら、見てみろよ」

「ひぃいいいっ!! さ、さわって大丈夫ですか!?」

「セノアは虫が苦手か? 成虫はともかく、幼虫なら可愛いと思うけどな」

「し、師匠、さすがに魔獣にそういう感情は…」

「こいつって魔獣なのかな? おっ、口から糸を吐いたぞ。おお、出る出る。すごいぞ。どんどん出る」

「ひぃいいいいいいい!」


 口から出た糸を手で引っ張ると、引っ張れば引っ張るだけ出てきた。

 子供の頃は大きな蜘蛛がそこらじゅうにおり、よくこうやって糸を引っ張って遊んだものである。


(火怨山には虫型魔獣もたくさんいたけど…女の子は苦手かもな。じゃあ、姉ちゃんはなんなんだって話になるが、あの人は規格外だから女じゃないのかもしれないな…。サリータも若干苦手そうにしているから、やっぱり女の子なんだよな。サナやホロロさん、ラノアは平気そうだ。これはメンタルの違いかな?)


 サナは特に感情を示さず、遠慮なく幼虫の柔らかい腹を触っている。ラノアも不思議そうに見ているくらいだ。

 今後のことを考えれば虫への耐性も付けておきたいものであるが、まずはこれが何かを調べよう。


―――――――――――――――――――――――
名前 :バイネスパピー〈古樹翼糸虫〉

レベル:20/90
HP :300/300
BP :100/100

統率:E   体力: D
知力:E   精神: F
魔力:D   攻撃: F
魅力:D   防御: E
工作:F   命中: F
隠密:F   回避: F

☆総合: 第四級 根絶級魔獣

異名:お隠れ大樹の紡ぎ幼虫
種族:魔獣
属性:土、樹
異能:樹木強化、繭化、糸吐き
―――――――――――――――――――――――


(うーん、特に害はなさそうだな。むしろ『樹木強化』というスキルがあるから、この大樹が今まで生き延びていたのはこいつのおかげかな。虫と樹も共生関係にあるんだ。自然ってのはすごいもんだよ)


 このバイネスパピーは、食した部分の幹の内部を糸で補強する習性があるようだ。

 この樹はすでに枯れてしまっているが、今まで壊れたり砕けたりしなかったのは、彼らが中から支えていたからであろう。


(魔獣は人間と違って有益な存在が多い。この糸も何かに使えるかもしれないし、まずはこのままにしておこう。それより普通に魔獣が住んでいるほうが問題な気もするが…まあいいか。ずっと前からいるのかもしれないしね)


 さりげなく第三城壁内部に魔獣、しかも根絶級魔獣が入り込んでいたりする。

 昼間は門を開けているので魔獣が入らないわけではないが、ハンターが見回っていることもあり、基本的に侵入はほぼ皆無だ。

 となれば、かなり前から大樹の中に潜んでいた可能性も考えられる。もしかしたら災厄後、城壁が建造される前に入り込んだのかもしれない。

 とりあえず無害なので放置。

 今のアンシュラオンの目的は、大樹ではないからだ。


 ガッ


 そしてついに大樹を貫通し、城壁にまで至る。

 そこからは少し真下に向かって掘り進め、ある程度到達したところで止まる。


「ここまで来たら、少し音が出ても大丈夫かな。ふんっ!」


 掌を城壁に当てて、発気。


 ビシッ ビシシシッ ボシュンッ


 発せられた衝撃が浸透し、破壊された城壁が細かい塵となって霧散。

 大樹の時と同じく、これを繰り返しながら城壁の内部に入っていくと、綺麗な円状のトンネルが生まれていった。


「グラス・ギースの城壁は、表面からおよそ五百メートルまではただの岩石だが、場所によっては空洞があったりする。これは城壁自体を『砦』として扱うためだ。だが、これもあまり使われてはいないようだな。そもそもの問題として、城壁をここまで破壊できる人間が少ないからだ」


 グラス・ギースの城壁は、狭いところでも二千五百メートルの『厚さ』を誇っている。領主城の北側などは六キロに及ぶほどだ。

 こうなれば、もはや城壁というよりも大きな岸壁だ。それを破壊することは戦車を使ったとしても極めて困難。戦艦の通常砲撃でも厳しいだろう。

 それゆえに城壁は強固な砦として扱うことができる。結界が張られている位置にもよるが、第三城壁内部に誘い込んだ敵を城壁の上から攻撃することも可能だ。

 ただし、衛士隊の銃火器の貧弱さを考えれば、あまり現実的な戦術ではない。城壁の内部を使うにしても、だいたいは武器や備品の管理に扱うくらいである。

 誰が造ったのかは知らないが、グラス・ギースの城壁は上手く設計されている。されてはいるが、それを扱いきれてないだけだ。

 なんという宝の持ち腐れ。

 もったいないので自分が使ってあげよう。あげるべきだ。

 特に自分は自力で岩を破壊できるので、内部を自在に加工することができる。


「さて、もうわかったかな。オレがこのまま掘り進めれば、どこに到着する?」

「これはまさか…ホテル脱出の時と同じ…」

「そうだ。城壁を貫通させれば、およそ二キロ半で第二城壁内部にたどり着くことができる。そして出た先には、オレたちの事務所がある」


 一般人ならば百キロ以上の道程を移動しなければならないが、こうやって城壁に穴をあけてしまえば、直線距離にして二キロ半程度。

 足腰が鍛えられたこの都市の人間ならば、徒歩でも楽々行ける距離となる。


「城壁の中に新しく部屋を作れば、商品の管理にも金がかからないで済む。かなり広いからな。まず保管場所に困ることはないだろう」

「師匠、あの…そんなに簡単に穴をあけてもよいのでしょうか? グラス・ギースは城塞都市なので、穴から敵が入り込む可能性も…」

「普段は閉じておくから大丈夫さ。どうせ誰も城壁に穴があるなんて思わないだろうしな」

「そ、そうです…ね。城壁に穴があるなんて想像しません…ね」

「この都市の連中は、どうやら城壁無敵神話を信じているらしい。逆にその自信がどこからくるのか知りたいよ。ここの壁は第三階級の討滅級までならば対応可能だが、肝心の悪獣レベルに通用するとは思えない。おそらくは時間を稼いでいる間に地下に逃げることを想定しているんだ。最初から地上は捨て駒というわけだな」


 住人が城壁無敵神話を信じていれば、パニックになって逃げ出すことはないだろう。

 そして、彼らが悪獣の犠牲になっている間に領主たち首脳陣は逃げる。もし意図的に誇張しているのならば、なかなかにあくどいやり口である。

 実際はその間に戦獣乙女やマングラスたちが迎撃準備を整えるのだろうが、犠牲が出ることを想定しているのは間違いない。


「ならば、こちらも遠慮することはない。オレたちの大切なものを守るために必要なら、穴くらいあけてもいいだろう。そのほうが多くの人を助けることができるかもしれないぞ」

「なるほど! さすが師匠です! 尊敬します!」


 一般市民を助けるとは一言も言っていない。

 単純に自分の資産や、小百合たちを逃がすのに便利だから穴をあけたにすぎない。


(まあ、気に入ったやつなら助けてやってもいいけどね。滅多にいないよね、そんなやつ。術具屋の子や武器屋のおっさんくらいかな?)


「今日の穴堀りはここまでだな。さすがに城壁を貫通させると周囲にバレるから、続きは向こう側の事務所の工事が始まってからにしよう。それじゃ、一度戻って【間取り】を考えようか」

「間取り…でありますか?」

「設計図がないと何もできないからね。アランモスさんに一般的な家屋の見取り図をいくつか用意してもらっているから、それを基礎にして間取りを決めよう。そうだな。この作業はホロロさんたちに任せるよ。セノアとラノア、サナも加わって意見を出し合ってくれ」

「かしこまりました」

「オレとサリータは、外に出て『境界標』を打ちにいくぞ。どこからが私有地かはっきりさせないと、知らないやつらが好き勝手入ってくるかもしれないからな。ちゃんと決めておいたほうがいい。ここは何も目印がないからな」

「はい、お手伝いいたします!!」




 こうして役割分担が決まれば行動は早い。


 まずは近くの森から木をいくつか伐採してきて、それを使って簡単な小屋を作る。

 大樹を居住空間として改造するまでは、しばらくはここが自分たちの住処となるので、ある程度大きめにして隙間はしっかりと命気水晶で固める。

 適当に作った小屋ではあるも、命気水晶自体が強固なので、まず倒壊する心配はないだろう。

 その中でホロロたちが間取りを考える。

 アンシュラオンは住居にあまり興味がないし、メイドであるホロロたちが使いやすいほうがよいと思って提案しただけにすぎない。

 が、これが思わぬ白熱を見せる。

 やはり女性は自分の住処にはこだわるものだ。寝室はもちろん、台所や入浴施設の場所等々、ホロロとセノアの間でかなりの議論が交わされたようである。

 互いに譲らない場所については、サナが決断することで丸く収まる。

 そういう意図でサナを配置したわけではないのだが、結果的には上手くいったようだ。

 一方の外での作業は、とても快適で順調であった。


「ええと、そのあたりかな」

「ここですか?」

「もうちょい先でもいいかも」

「このあたりでしょうか?」

「もっと行ってもいいんじゃないか?」

「地図を見ると、このあたりのような…」

「まぁまぁ、大丈夫だろう。もうちょい勝負してみよう」


 サリータが地図を見ながら杭を打とうとするのだが、そのたびにアンシュラオンが先のほうを指示する。


(こんなもん、だいたいでいいのさ。どうせ土地なんて余りまくっているんだ。少しくらい延長してもいいだろう)


 大樹のある城壁を中心として直径一キロが買ったエリアであるが、少し少しと言いながら結局、百メートル近くオーバーしていた。

 といっても市民の大半は賃貸契約なので、こうして丸々買い上げるブルジョワは極めて少なく、人気のない土地はかなり余っているのが現状である。

 また、領主がその気になればいつでも取り上げることができるため、真面目にルールを守るのも馬鹿らしい。これくらいは許容範囲のはずだ。


「あとは杭同士を縄で結ぶぞ」


 こちらもアランモスからもらった長い縄を使って、明確な境界線を生み出す。

 こうしてみると、かなり広い土地である。

 さすがに大量の家畜を飼うことは無理だろうが、小さな牧場くらいは作れそうだ。


(森もあるし、畑を作ってみるのもいいかもな。ただ、耕作地には向かない土壌だとか言ってたな。誰も手を付けていないところをみると、本当に普通の植物じゃ駄目なんだろうな。何か適したものがあればいいが…)


 ルセーナ農場では小麦が生産されているので、乾燥に強い麦類ならば栽培が可能なことは証明されている。

 しかしながらこの一帯は災厄時の影響が強いのか、大地は乾燥しヒビ割れ、見ただけで活力がないことがわかる。

 単に外から水を持ってくればいい、という話ではないのだ。大地から生命力が抜けている状態では、何も育つことができないのである。

 大災厄が起こる前は、この都市も緑に覆われた美しい都市だったらしい。それがこの有様ならば、その衝撃がいかに強かったかがうかがえる。


「少しずつ整えていこう。焦ることはないさ。これから始まるんだしな」


 今日の作業は、これで終わり。

 日が暮れてからは狭い小屋の中で、みんなで一緒に眠った。

 ホロロもホテル勤めではあったが元は下級市民だったこともあり、こうした生活空間にも慣れているようで特に不満はないようだ。

 セノアもホテル生活よりはこちらのほうが馴染むらしく、普段以上に寝つきがよかったので安心したものである。

 誰もがわくわくしていた。

 命の危険に晒されながらも、アンシュラオンといるとなぜか心が躍るのだ。

 それこそ圧倒的な魅力が成せる業。

 この男が単なるゲスでクズでない証なのだ。

 それはすぐに証明されることになる。



 翌日。



 大樹に大きな変化が起こっていた。

 すでに枯れた場所は戻らない。幹は枯れたまま変化はない。

 がしかし、根元からは大量の枝が伸び、枝先は緑の輝きに満ちていた。

 まだ生まれたばかりの初々しい葉っぱ。弱々しい産声。

 だが、生きている。

 その姿は、死んだ老人の中から赤子が出てきたような、人々の心を魅了する、とてもとても神秘的な光景だった。



 命気を吸った大樹が―――目覚めた



 新たなる主人を迎えたことで、彼も新しい活力を得たのである。

 それを見たアンシュラオンはテンションが上がって、やる気満々!!


「よーーーし!! 今日は間取り図に沿って大樹の中を掘り進めるぞ!! 自分たちの家は自分で作るんだ!! いくぞ、サナ!! DIYってやつを教えてやる!」

「…こくり。ぐっ!!」


 意気揚々と白い少年と黒い少女が、大樹の幹を削っていく。

 少年は素手で乱雑に。少女は刀で乱暴に。

 ちょっとしたズレも気にしない。間違いも気にしない。

 なにせ当人そのものが日々間違いを犯し続け、報いを受けたり与えたりしながら、それでもなお楽しんで前に進んでいるのだ。

 やること為すことが、すべて奇想天外。破天荒。

 だからこそ一緒にいて飽きない。

 壁で太陽が見えないのならば、太陽が出る場所まで昇ればいい。

 いや、その必要もない。

 彼こそが太陽。彼がいる場所が常に光り輝くのだから。



 こうして三日が経過し、【白樹の館】が完成したのであった。




619話 「白樹の館」


 グラス・ギース第二城壁と、ほぼ合体している大樹を改造したアンシュラオンの新拠点、【白樹《はくじゅ》の館】。

 べつに外観が白いわけではないが、持ち主の容姿が白に染まっていることもあり、いつしかそう呼ばれることになる場所である。

 アンシュラオンの命気と活力により、大樹は新しい生命を宿した。

 壁に枝葉がまとわりつき、気づけば小さな虫や鳥も集まってきている。

 何気ない光景に思えるかもしれないが、グラス・ギースにおいては極めて貴重な現象といえる。

 土地が汚染された場所では虫がいなくなる。地球でも放射能汚染された大地では、まず虫が消えるのだ。

 虫が消えれば大地は循環を止め、次第に疲弊して何も育たなくなる。まさに虫も寄り付かない死の大地になる。

 グラス・ギースの土地も災厄によって生命を失い、満足に農作物が育たなくなっていた。だからこそ他の都市からの輸入に頼っていた。

 それが、わずかではあっても改善の兆しが見えた。

 この『希望』に気づいた人間は、そう多くはないだろう。

 いつだってこの男は何もない場所から動き出す。

 スレイブという最下層の存在に目を付け、彼女たちを引っ張っていく。

 ラングラスという落ちぶれた派閥に組し、再度のチャンスを与える。

 そもそもグラス・ギース自体が忘れられた辺境の都市なのだ。

 アンシュラオンのいる場所からすべてが生まれていく。

 のちに最強の覇王でありながらも歴史から消された『欠番覇王』の伝説は、ここから本格的に始まるのであった。




「まー、こんなもんか!! 細かいところは素人だからしょうがないよな! 十分十分! これでいいよ!」


 拠点改造から三日。

 間取り図に沿って大樹の幹を掘り進めた結果、一応ながら居住空間と呼べるものが完成。

 切りすぎたところは命気で接着もできるので、少しずつ修正して素人ながら悪くない出来に仕上がった。

 外から見ると大樹の形を残しつつも各場所に窓があり、ファンタジーならばエルフが住んでいそうな外観だ。


(樹の匂いがいいよな。なんか火怨山を思い出すよ。あそこの家もオレが作り直したりしたし、建築って難しいけど面白いよな。まあ、主に壊すのは姉ちゃんとかゼブ兄だけどね)


 家でゴロゴロしていると、たまに巨大な戦弾が飛んできたりして破壊されることがよくあった。

 壊した当人たちは野宿でもまったく困らない頑強な者たちなので、家がなくてもあまり気にしないから困ったものだ。そのためいつも自分が直していたものである。

 幸いながら、ここにはそんな化け物たちはいない。まず壊れる心配はないだろう。


 では、軽く間取りの説明だ。


 まず樹の根元部分はあまりいじらず、地上部分に門付きの階段を作り、上った先の高さ五メートル程の箇所が入り口となっている。

 玄関周辺は少し削って床と手すりを作り、一定のスペースを生み出した。

 このあたりは高床式ログハウスを想像してくれればわかりやすいだろう。造りはほぼ同じで、規模が違うので高くなっているだけだ。

 こうして高さを設けたのは地盤をしっかりさせるためと、『敵からの攻撃』を想定してのことである。

 そう、この白樹の館は『防衛を想定』した造りになっているのだ。

 門は今後強化するし結界も張る予定なので、そこで敵を食い止めている間に上から銃撃、といったことも考えている。

 それ以前に大樹の周囲も厳重に管理防衛する予定なので、この館まで攻め入れる者がどれだけいるかは疑問であるが。


 内部の話に移ろう。

 玄関から中に入ると、大きなエントランスがある。

 一般的な館にあるものと同じだが階段は一箇所しかないので、迎撃する際は周囲から攻撃がしやすい構造になっている。

 まだ素の木材の状態であるため防備は薄いが、そのうち何かで補強する予定だ。

 本格的な居住空間は、この階段上からである。

 ただしホテルと違い、料理場や使用人部屋が並んでいるわけではない。

 むしろメイドたちの部屋は最上部にある。これは城壁があるため、万一の際は上に逃げられるからだ。

 ならば何があるかといえば、この階の部屋は倉庫として使うことが決まっている。

 主に農具や迎撃用の武器、冒険中に手に入れた珍しい物を飾る部屋になるだろう。

 特筆すべき点は、その中の一つに『アンシュラオンの別室』があることだ。

 来客用の客間と呼んでもよいのだが、アンシュラオンが独りでだらけるためのスペースでもある。

 これは防衛面でも極めて重要な要素だ。

 玄関開けたら、いきなりラスボス。

 他の防衛設備などいらないレベルで凶悪である。


 白樹の館は、五階層で構成されている。


 一階のエリアは、エントランスと倉庫および来客スペース。

 二階は、体育館レベルの大きな部屋が三つ。周囲を命気結晶で覆えば、室内でもさまざまな鍛錬が可能となる『訓練場』でもある。

 訓練場には小さな部屋もいくつか併設したので、そこで寝泊りするくらいはできるだろう。

 逆に外でやると危険な鍛錬などは、ここで試すのもいい。

 三階からはようやく居住スペースとなり、十二の部屋が用意されている。

 ここに住むのは主に戦闘力に優れた女性、おそらくはマキやサリータの部屋となる予定だ。

 下で何かあれば、彼女たちが即座に対応することもできるからだ。

 四階も同じく十二の部屋が用意されており、アンシュラオンとサナの部屋がある階でもある。

 サナとは同じ部屋でもよいのだが、やはり女性として成長してもらいたいこともあり自分の部屋を与えてみた。

 もちろん部屋は廊下を挟んで対面なので、会おうと思えばすぐに会える。

 四階は主要メンバーが集まる階層であり、マザーやホロロの部屋もここに設置されている。

 五階は、メイドの部屋および食堂やお風呂場等、生活で必要なスペースが設けられている。セノアとラノアの部屋もここに用意されることになるだろう。

 この樹は耐燃性にも優れているものの、火を使って煙が出ることを考えると上のほうが良い、という判断からだ。


 これらに加え、屋上も存在している。

 破裂したように割れていた樹の上部を綺麗にならして平坦にし、ホテルのように太陽を好きなだけ満喫できるようにしたのだ。

 今は日向ぼっこや洗濯物を干すくらいしか使い道がないが、そのうちプールなども作ってみたいものである。

 また、大樹の中にいたバイネスパピー〈古樹翼糸虫〉だが、彼らの生活スペースもしっかり残してある。

 どれくらい必要か不明だったため相当アバウトだが、大樹の一部は先住者である彼らに渡し、共存の道を選んだ。

 そのバイネスパピーだが、時折屋上にやってきては枝に掴まり、じっと日光を浴びている光景がよく見られるようになった。

 しかも形状が若干変化している気がする。

 芋虫というより毛虫みたいに体毛が増え、大きさも肥大化しているが、無害なので放置することにしている。

 ラノアなどは、たまに大樹の木屑で作った固形燃料を食べさせて餌付けしているようなので、もともと温和な魔獣であることがうかがえる。


 こうして内部は最低限整えたが、今は人数も少ないため全員が四階で暮らすことになっていた。

 休憩スペースや簡易調理場などは各階にも設置されているため、どの階に住んでいても不便がないような造りにしてあるが、できるだけ近くにいたいものである。


 そして一番重要な点は―――


(城壁が使いたい放題なのは嬉しいな。いくらでも拡張できるぞ)


 大樹の一部は城壁と重なっているため、裏側と接している城壁は好きに使っていいのである。

 この城壁だが、造られてから一度も外敵の攻撃を受けておらず、衛士隊も常駐するようなことはしていない。その発想もない。

 よって使いたい放題であり、城壁に穴をあけようが上で騒ごうが、まったく気にする者はいない。

 城壁を掘っていると、以前領主城の宝物庫で見つけた結界宝珠の予備など、過去の遺物を発見することが稀にあるが、そういったものもすべて自分のものにできる。



 四日目。



 白樹の館が最低限出来たので、今度は中級街側の工事が始まった。

 建てるものは普通の家屋。アーパム商会の事務所なので多少大きなものだが、ちょっと豪華なプレハブ程度だ。

 あまり大きなものを建てると目立つし、何かあると思われてしまう。出来たばかりの商会ならば、これくらいが妥当であろう。

 事務所の建設を請け負ったのはゴウダ・ノブ。

 以前にホワイト商会の事務所を建てた腕利きの大工である。

 彼は面会時にアンシュラオンがホワイトであることを悟ったようであったが、深く追求することはなかった。

 というよりは、実際に会った人間ならばわからないほうがおかしいので、彼の反応のほうが普通といえる。

 あえてゴウダに依頼したことには理由がある。

 まずは単純に腕が良いこと。たまたま知り合ったが、彼以上の大工はグラス・ギースにはいないと聞いている。(領主は別の専属大工を使っているらしいが、腕の程は微妙らしい)

 二つ目は下級街の業者に依頼することで、商会としての実績作りをするためだ。

 アーパム商会が正規の商会であり、富を都市に落とすことを示すのが狙いだ。

 どこの世界の都市もそうだが、自分たちの利益になるのならば誰でも歓迎されるものだ。地方が企業の誘致に必死なのも頷ける。


 もう一つは、またもや『細工』を頼むためである。

 今回は事務所ほど大掛かりではなく、城壁にあけた『トンネル』へ行き来するための扉と道を整備、舗装してもらうのだ。(トンネル内部ではなく、そこまでに至る通路)

 事務所の工事が始まった段階で、大樹から城壁まではほぼ貫通していた。

 自分が命気等で舗装してもいいのだが、建築に精通した者ならば小屋を造る段階で怪しい仕様に気づいてしまうだろう。

 どうせ怪しまれるのならば、いっそのこと信頼できる(懐柔した)者に任せるほうが安心と考えてのことだ。

 当然全部を話したわけではないが、アンシュラオンは城壁の一部を掘ったことを正直に伝えた。職人に嘘をつくのは逆効果だと知っているからだ。

 それが実ったのかゴウダは快諾し、何も言わずに作業に取り掛かってくれた。

 参加した他の大工連中も、以前ホワイト商会の事務所を建てた者たちだけで構成されている気の配りようだ。

 彼らの顔には信頼の二文字がしっかりと見て取れる。

 うっかり『先生』と呼んでしまうことも、その信頼の表れであろうか。

 ホワイトはマフィアから憎まれていたが、一般市民からは親しまれていたことも事実である。

 そうでなければ、あんなカルト団体まがいの信者など生まれないだろう。

 その意味では、ゴウダもアンシュラオン信者なのだ。

 こうして事務所は一週間で完成することになった。



 その間にアンシュラオンがやっていたことがある。

 まずは白樹の館から地下トンネルに移動する特別通路を設置した。

 この通路には二階から降りねば行けない造りにしてある。多少面倒だが安全面を考慮してのことだ。

 多少長めの階段を下りて地下に降りると、そこには大きな『扉』が用意されていた。

 扉は木製だが、もともとは大樹の素材で出来ており、さらに核剛金で強化されているため強度は文句なしである。

 ここには割符結界を張って、対となる鍵を持っていなければ開かない仕組みにした。

 鍵は三つ。普段はアンシュラオンとホロロが持ち、一つは予備として白樹館の秘密部屋に隠した。

 アンシュラオンはその気になれば自力で破壊できるため、主にメイド用といったところだろうか。

 その扉を開けて進むと、三十メートル四方の大きな部屋があり、その部屋にも大小さまざまな小部屋が用意されていた。

 単純に倉庫として使うこともできるし、いざというときは避難する可能性もあるため、さまざまな備蓄品を置くために利用できるだろう。

 その先からようやく長いトンネルが始まっているのだ。

 そして、そこにアンシュラオンとサリータがいた。


「これで動くはずだが…」

「これは…トロッコでしょうか?」

「そうだ。トンネルに線路を作ってみたんだ。やはり毎日のことだから歩くのは大変だろう。場合によっては往復する必要もあるし、緊急の際にも使えるようにしたいんだ」

「なるほど。セノアたちが移動するときは便利そうですね」


 ゴウダが持ってきた木材を使って線路を作り、命気で補強。

 あえて木材を使ったのは誰でも修理や補修を可能にするためだ。

 今は自分が全部やっているが、人手が増えてきたら任せることも多くなるだろう。そのときに備えてのことである。


 「よし、乗ってみるか」


 アンシュラオンとサリータは、線路に設置したトロッコに乗る。

 ロックを外すと何もしないでトロッコが動き出した。

 これはトンネルを掘る際に『傾斜』を設けたからだ。

 トロッコは単に箱型ではなく、立ちながらハンドルを握るタイプのもので、これを前後に動かすことで車輪を加速させることができるようにしてある。

 同様にロックブレーキも準備してあるので、線路の途中で止まることも容易だ。

 こちらも素人が作ったものなので多少ガコガコしていたが、その都度削ったり補強したりして修正し、なんとか使えることが確認される。

 トンネル内は真っ暗なので、ゆっくり移動しながらサリータには光源ジュエルを配置してもらう。

 街でよく使われている一般的な外灯用のもので、値段もそこまで高くはない。トンネル内がわずかに見えればよいため、出力を弱めれば長持ちもすると聞いている。

 移動中は時々降りて、トンネルの脇に穴を作る作業も行った。

 それなりに大きく削ることもあるが、小さな窪みもいくつか作ってみる。


「師匠、それは何でしょう?」

「これから作る倉庫の目印でもあるけど、いざというときに隠れる場所だな。光の加減で暗くなるところを狙って配置してあるから、隠れれば簡単には見つからないだろう。まあ、波動円を使われると厳しいが、じっとしていればよほどの使い手でなければ大丈夫だ。うちは子供が多いから安全には気を遣うよ」

「いつもセノアたちのことを考えておられるのですね」

「オレの可愛い子供たちだからな。大事にするのは当然だ。そして、お前のこともいつも考えているぞ」

「それは…嬉しいです! えへへ」


 サリータも戦士である前に女性だ。こうして主人に愛情を向けられると嬉しいものである。


(シャイナがいないせいもあるだろうが、素に近い表情をするようになったな。後輩がいると見栄を張るものだからね。まあ、多少の寂しさはあるけど、このほうがいいだろう)


 シャイナがいないと馬鹿なことも起こらないのでつまらないが、それはそれで普通の状態に戻っただけなのかもしれない。

 これからはシャイナ無しの生活にも慣れていかねばならないだろう。


 と、思っていた矢先である。


 トロッコで反対側に到着し、扉を開いて事務所側に出てみる。

 事務所は壁と合体しているので、こうした出入りは誰にも見られずに行うことができる。

 が、事務所から出たところに―――



「お待ちしておりました!! あなたの小百合です!」



 小百合がいた。


「え? 小百合さん? 今の時間ってまだ仕事中じゃ…」

「有給を取りました!! 今日はお休みです!」

「そうなんだ。いつもがんばって働いているからね。休んでもいいよね。…で、その荷物は?」


 小百合がいるのは不思議ではない。

 事務所の土地を買った際には一番に知らせているので、場所はすでに知っているだろうし、彼女の家もここからかなり近い。

 がしかし、なぜか彼女は台車に大量の荷物を載せているではないか。

 若干嫌な予感がしたので訊いてみると―――



「本日、社宅を出てきました!!」



 笑顔でそう言った。


「えええええ!? ハローワークの社宅を!?」

「はい!! もうあなただけの小百合ですよ!!」

「いやあの…けっこういい物件だったんじゃ?」

「女の独り身で住むには広すぎますし、ただ寂しいだけです! 家賃は安いですけど、これからは無料になりますから、そっちのほうがいいです!」

「これからってことは…つまり?」

「やだなー、マイスウィイイイイイイトホゥウウウムッ!!! ですよ! スウィイイイイイイットッ!!! ホーーーム!! あっち側に作っているんですよね?」

「う、うん…知ってるんだね」

「もちのロンです!!」

「古い!! もう死語だよ、それ! って、どうして知ってるの?」

「お父さんがよく使っていました!」


 昭和の文化が異世界で生きているとは、まったくもって不思議なものである。


(小百合さんの故郷は、日本文化がかなり浸透しているみたいだしな。誰かが使ったのが広まったんだろうが…変なものが伝わっていそうで怖いな。それよりもう社宅を出たのか。早い。早すぎるよ…)


「小百合さん、まだあっちの家は装飾もないし補強作業も残ってるし、かなり不便だよ? だからまだ教えなかったんだけど…」

「水臭いことを言わないでください! それもまたスィイイイイイイイトホゥウゥウムッ!の醍醐味です! 一緒に作業を手伝わせてください!」


 スイートホームの言い方で、猛烈なやる気がうかがえる。

 ここはもう逆らわないほうがいいだろう。


「そ、それじゃ、せっかくだし一緒に行ってみようか」

「よろしくお願いします!!」

「小百合先輩、歓迎いたします!」

「サリータさん、可愛い!! ぎゅっ!! これからは一緒に生活ですね!」

「はい! 嬉しいです!」


(小百合さんの序列はホロロさんと同じかな。なんか同列ばかりになってきたけど、一夫多妻制ってこれが難しいんだよな…。スレイブ・ギアスの導入を急がねば。何かトラブルがあってからじゃ困るぞ)


 この問題を唯一解決できるものがあるとすれば、まさに自分が望んでいたスレイブ・ギアスそのものだ。

 今までは争い事に首を突っ込んでいたので気にならなかったが、これからは最優先課題となる。忘れては身を滅ぼすかもしれないと戒めるのであった。



 小百合はバイクを持っているので、それは事務所側に置くことにする。

 まだスペースは余っているし、来客用の駐車場も作る予定なので問題はないだろう。バイク通いならば通勤にも支障は出ない。


「わー! すごいですね! トロッコですか!!! 新鮮です!」


 小百合を事務所の隠し通路から城壁の中に案内。

 彼女には概要を伝えてあるので、それについての驚きはないが、トロッコ自体は珍しいのだろう。じろじろと見ていた。


「ちょうどいいや。小百合さんの荷物を載せて、ちゃんと移動できるか見てみようか」

「いいですね! 楽しみです!」

「師匠、帰りはどうするのですか? 傾斜があると戻るときは大変そうですが…」

「安心しろ。それも考えてある」


 小百合の荷物をトロッコに載せると、トロッコの後部を指し示す。

 そこには二つの排気口のようなものが付いていた。


「これは…?」

「これってバイクと同じ仕組みのやつですね。風のジュエルの力で動かすのです」

「さすが小百合さん。すごいね」


 坂の上に住んでいる人は、行きは楽ちんでも帰りは地獄、といった経験を毎日のようにしていることだろう。

 ただ、最近では電動自転車も流行っているので、技術の力でカバーすることは可能だ。

 そして導入したのが、小百合のバイクを参考にして作った風力移動である。

 機構は単純。風のジュエルを組み込んで一定方向に放出するだけだ。


「それじゃ、試してみよう!!」


 三人はトロッコに乗り、風のジュエルを起動。

 ハンドル近くにボタンがあり、それを押すだけで加速が可能だ。


 トロッコは順調に移動を開始。


 ハローワークの社宅は家具の大半が備え付けで、小百合が持ってきたものはそう多くはない。

 とはいえ、女性は荷物が多いのが特徴でもあるので、やたら重いトランクがあったりと重量はそれなりのものだ。

 しかし、トロッコは問題なく進む。パワーを上げればもっと速くなるかもしれない。

 今の時速は二十キロくらい。これならば移動時間は十分以内で収まるだろう。

 あまりスピードが速すぎてもホロロたちには危ないので、これくらいが妥当といえる。


(うん、快適だな。これなら大量の鉱物を運んでも動きそうだ。もしかしたらもっと重い商品を扱うかもしれないから、これくらいのパワーはないとな)


「アンシュラオン様、これはもしかして『リミッター解除ボタン』ですか?」

「そうだね。前に輸送船に乗ったときに見かけたから付けてみたんだ。【緊急用ブースター】ってやつだね」


 小百合が違うスイッチを発見。

 これはプライリーラからもらった輸送船にも付いていたもので、雷と風のジュエルを反発させて、より強いエネルギーを生み出すものだ。


「では、これを使えばもっと速く移動できるのですね!」

「あくまで緊急用だけどね。まだ試したことないからどうなるか―――」

「えい!! ぽちっ!!」

「え?」

「さあ、マイスィイイイイイイトホゥウウウウムッへ!! レッツゴオオオオオオオオオ!!」


 何を思ったか、小百合がブースターのスイッチをオン。

 緊急用なので誤って押さないように木製のカバーで覆っていたのだが、それを破壊してまでオンにする。


 次の瞬間―――超加速


 トロッコの前輪が持ち上がり、後輪だけで線路を突き進む。


「あーーーーーーっ!!!」


 その速度と衝撃でサリータが落下。

 線路に頭を強打したのが見えたが、そのまま闇の中に置いていかれて見えなくなった。


「サリーーーーーーータァアアアアアア!」

「いけえええええええええええ!!」


 後輩が落下したことにも気付かず、小百合は速度に大歓喜。

 一秒でも早くマイホームにたどり着きたい欲求が、彼女を狂気に駆り立てる。

 だが、あくまでテスト用で付けた機能だ。まったく準備が整っていないこともあり、これには大きな欠陥があった。


 ブレーキが―――無い


 ただ単に加速させることしか考えていなかったため、止める手段がまったくなかったのだ。

 付属のロックブレーキなど、まったく役に立たず一瞬で破壊。

 そのままトロッコは白樹の館まで一気に到達したが、車庫を突破して浮き上がり、扉に激突。


 ドゴーーーーーンッ バギャンッ


 半壊。

 小百合も吹っ飛ばされたが、アンシュラオンが空中で保護して着地する。


「はぁはぁっ! はーーー! 着いたのですか!? ここが私のマイホーム!?」

「着いたけど…小百合さんの荷物も吹っ飛んじゃったね」

「も、申し訳ありません! つい嬉しくて興奮してしまって…! ああ、トロッコも壊れてしまいました! なんとお詫びすればよいのか…!」

「気にしないでいいよ。いい実験になったもの。ほんと、ホロロさんたちが乗っている時でなくてよかった。速度を落とせるように調整しないと駄目だね。それに線路もトロッコも複数あったほうがいいよね」


 失敗は成功の母である。

 小百合の暴走のおかげでトロッコの致命的欠陥にも気付いたので、むしろありがたいといえるだろう。

 誰も怪我をしなくてほっとしていたが、サリータが落とされたことはすっかり忘れていた。(その後、自力で戻ってきて泣いていた)




「わー、すごいです! 天然の家って感じがしますね! 思ったより日も入ってきますし、いいですねー!!」

「…こくり」

「サナ様もお元気そうで何よりです! これからもよろしくお願いいたします!」

「…こくり。ぐっ」


 さっそく小百合を部屋に案内する。

 小百合の部屋はサナの部屋の隣に用意したため、日当たりも良いのが特徴だ。

 大樹の中を掘り進めて部屋を作ったのだから、当然ながら表側の外縁部分のほうに日が当たる造りになっている。

 屋上の一部を開けて内部にも光を取り入れるように吹き抜けは用意してあるものの、やはり外縁のほうが日当たりは良いのだ。

 そういった環境が整った部屋は全部、女性に与えてしまっていた。


(女性には豊かさが必要だ。女性が満足することが男の満足につながる。オレはべつに日が当たらなくてもいいしね)


 よく結婚した男が妻のわがままに悩まされるが、女性とはそもそもそういう存在だ。むしろそれに応えてやるのが男の甲斐性である。

 世の中を平和にしたいのならば、まずは女性を満足させるべきだ。

 これが自分の矜持であり、今まで人間社会を見てきて出した結論である。

 なぜならば、生命を宿せるのは女性だけなのだ。この事実はどうあがいても受け入れるしかない。

 女性を支配しつつも、女性に一番配慮する。

 どっちが支配されているのかわからない構図だが、お互いが納得しているのならば問題はない。

 そして、その中でも小百合は重要な存在だった。

 サナの隣の部屋といった待遇を見るだけで、彼女の評価が高いことがわかるだろう。


(サナの周囲には信頼できる者を置きたい。部屋割りもそれを考えているんだよな)


 小百合は戦闘力が皆無の完全な事務系だが、何よりも明るい性格が魅力的だ。いるだけで周囲に花が咲くようである。

 今も彼女は、サナを抱っこして窓から外を眺めている最中だ。

 サナも小百合が来てからはずっと傍にいるので、関係は良好といえる。

 シャイナがいなくなった代わりに小百合が来てくれたことは、サナの教育上にも大きなプラス材料になるだろう。

 ちなみにもう片方の隣の部屋には、マザーが入る予定である。

 サナの魔石に異常が出た時、仮に黒雷狼が暴走するようなことがあっても、彼女が近くにいれば抑えることができるという判断からだ


 こうして小百合も白樹の館で暮らすことになった。




620話 「災厄都市の錬金術師」


「セノアさん! セノアさーん! こっちの飾り付け、手伝ってくださいー!」

「はい! 今行きます!」

「これ、持ってきたよ」

「ラノアちゃんも、お手伝いありがとうございます! あとで一緒にお勉強しましょうね!」

「うん、ありがとー」

「あの…小百合さんはハローワークの職員さんなんですよね? ああいうところって、どうやって入るのですか?」

「私は普通に募集に応募して、面接を受けて入りましたよ。といっても親のコネもちょこっとあったりします。ハローワークは全世界にある組織ですが、機密も多いので職員の関係者のほうが入りやすいのです。セノアさんも職員になりたいのですか?」

「あっ、いえ…私はメイドで本当に満足しています。単純に興味があっただけで…」

「そうですよね!! アンシュラオン様のメイドなんて、なりたくてなれるものじゃないですからね!! 本当に憧れます! あんな脂ぎった中年上司の下で働くことを思ったら天国ですよ!! 私も早く寿退社したい!!」

「で、ですよね。ところで、ご両親はどちらに? ご存命なのですか?」

「南の都市にいますよ。かなり離れているので、なかなか会えませんけどね」

「寂しくはありませんか?」

「嫁いだ娘は、その『家』に生涯尽くすものです。私もその覚悟で異動を受け入れ、グラス・ギースに来たのです! そして、大当たりを引きました!! やったーーーー! 勝ち組だーーーーー!」

「は、はぁ…す、すごい…ですね」

「いいですか、セノアさん。女は男性と結婚することで幸せになるのです! 愛される喜び、それこそ女のヨロコビ!!! あなたも好きな男性を見つけたら逃がさないことですよ!」

「は、はい! あ、でも…私はメイドなので…そのような自由は…」

「安心してください! アンシュラオン様はそんなに心が狭くはありませんよ! それに夫の夜の相手は、妻である私のお仕事! 心配はしないで自由に過ごしてくださいね!!」

「は…はい。ありがとうございます」


 小百合が白樹の館に来た効果は、すぐに表れた。

 彼女は誰に対しても飾らずに素直に自分を表現する。やや内容が脱線することはあるものの、話すだけで楽しいのだ。

 また、レマール王国という西側中堅国家の生まれかつ、一般家庭で育ったためにシャイナと違ってスレてもいない。

 セノアやラノアのような子供に対しても礼節を保ちつつ、歳相応の対応をしてくれるので、『優しいお姉さん』といった立場が確立していった。

 これは上司役であるホロロにはできないことだ。彼女の場合はメイド長の立場から、常に序列を意識した発言をしなければならないため緊張が伴う。

 まだ子供の二人にとっては心休まらないだろう。それを小百合が癒してくれるのだ。


(いい傾向だな。小百合さんが来てから家が明るくなったし、セノアたちの表情も晴れやかになってきた。セノアは特に神経質な面があるからな。もともと影武者として用意した子とはいえ、精神面でも充実してほしいと思うのが親心だ。それを埋めてくれるだけでも小百合さんには心から感謝したいね)


 小百合がもたらしたのは明るさだけではない。

 やたらケースが重いと思っていたら、実家から持ってきた『古美術品』が詰まっていたのだ。

 両親が東大陸に移住する際に一緒に持ってきたもので『お嫁に行くときに持参しなさい』と託されていたようだ。

 その中にはサムライの国、レマールらしく刀剣類も含まれていた。

 当然サムライが持つといえば日本刀である。小百合が持ってきたものの中にもそれがあった。

 ただし、どちらかといえば見て楽しむ『美術刀』としての色合いが強く、実戦で使うことを想定していないものであった。


(使えなくはないんだろうが、そこまで必要としていないしな。あくまで美術品として飾らせてもらおう。着物も綺麗で素敵だし、やはり素晴らしいな)


 久々に触れる日本文化に心が癒されてたまらない。

 どんな世界に転生したとて自分は日本人なのだ。かつての祖国への誇りを忘れたことは一度たりともない。


(さて、中は女性たちに任せて、オレはトロッコだな。独りで工作も楽しいものだ)


 サナも小百合にべったりなので若干の寂しさを感じたものの、ああいう日曜大工は自分の世界に没頭できるので嫌いではない。

 こうして互いの分野で白樹の館の改装は進んでいく。



 その後、トロッコも無事改修が終わった。

 前部にも同じように噴出口を作ったことで、自由に加減速できるようにしたのだ。ブレーキも壊れないように頑丈にセッティング。

 予備の線路も増設し、ラノアでも動かせることを確認した。(彼女独りで行かせることはないが念のため)

 これによって事務所への交通の便は明らかに改善したといえるだろう。

 内装に関しては前述した通り、小百合たちが奮闘したことで、あっという間に進んでいった。

 外部は後回しになっているが、住み心地としては中級街にも負けないレベルになってきた。


「うわー、なんだこりゃ」

「すごい…大きいね」


 そんなある日、トットとニーニアがやってくる。

 彼らはあまりに家らしくない家に驚き、しばらく大樹を眺めていた。

 遠くから見ればただの樹なので、知らなければ誰も気づかないで素通りしてしまうが、近づくと明らかに手が加わっていることがわかる。


「やぁ、いらっしゃい。よく来たね。どうだい、オレの家は?」


 アンシュラオンが二人を出迎える。

 彼らは勝手にやってきたのではなく、そろそろよいかと思って自分が呼んだのだ。

 もちろん自慢するために、である。


「アンシュラオンさん! すごいですね!! こんな家、初めて見ました!! スケッチしてみてもいいですか!?」


 さすがニーニア。期待を裏切らない反応だ。

 自分の家を褒められて嬉しくない者はいない。アンシュラオンもにんまりである。


「ああ、いいとも。中もそこそこ充実してきたから自由に入っていいよ。ホロロさんには伝えてあるから、お茶でも飲んできなよ」

「ありがとうございます!! これはじっくり見て日記に記録しないといけないわ! ほらトット、早く行きましょう!」

「う、うん、でも…」

「なんだ? お前は入らないのか?」

「え? いいのか? てっきり何か言われると…」

「トット、前にも言っただろう? オレはお前のことを一番信頼している。遠慮なく入れよ」

「っ!? そ、そんなにおいらのことを…なんだか照れちまうよ」

「顔を赤らめるな。違う意味に思われるだろう。ほら、さっさと行ってこい。茶菓子くらい好きなだけ食べていいぞ」

「お、おう! それはありがてぇ!」

「トット、すごいわ! アンシュラオンさんに信頼されるなんて、よほどのことよ! 光栄に思っていいわ!」

「そ、そうだな。素直に受け取らないとな」


 トットは嬉しそうだが、真相はこうだ。


(この家はオレの『後宮』のようなものだ。普通の男ならば入れるのは躊躇うが、女に興味がないゲイなら安心だよな)


 昔中国にいた宦官《かんがん》は、中にはまだ性欲を持っている者もいたが、ゲイという本質的に性癖が違う存在はそれを上回る。

 トットは真性なので、まず間違いの心配はない。

 これほどゲイが信用できる日が来ようとは、人生とはわからないものである。

 そして、こうやって手懐けておけば、いずれまた『自爆要員』として使えるので貴重な人材といえる。


 二人が白樹の館に入ったのを見て、今度は彼らの引率兼護衛としてやってきたマザー・エンジャミナを迎える。

 第三城壁内部は都市の一部ではあるが、外部から自由に人が入れる仕様なので治安はよろしくない。子供の二人歩きなどは論外である。

 ただ、衛士も見回ってはいるし、ソイドファミリーのようにマフィアが管理する畑も多いので、揉め事があれば彼らが対応することも多い。

 この近くにも衛士の砦があるので、比較的治安は良いといえるだろう。


「マザーも元気そうでよかった。あっちはどう?」

「問題はないわ。子供たちも馴染んでいるし、食事も十分にいただいているもの。太陽があって食事があって仕事がある。それだけで人は生きていけるわ」

「それはよかった。で、ルセーナさんは何か言ってた?」

「彼女は善い人ね。全員引き受けてもいい、と言っていたわ。子供もいないし、お年寄りも自分の親みたいだから大人数でも平気だと。むしろ賑やかで楽しいと言ってるくらいよ」

「出来た人の言葉は違うね。カスオは大丈夫?」

「ええ、普段はふらふらしているけど、悪さはしていないわね」

「敵が来たらあいつの後頭部をバットで殴ってね。それで不死身の肉壁になるように仕組んであるからさ」

「そのあたりはルセーナさんがいつもバットを持っているから安心ね。やる気満々だったわよ」

「それならよかった」


 カスオは地下闘技場でもやったように、いざとなれば耐久力抜群の壁になることができる。

 そのトリガーは、なぜかバットで殴るにしてあるのだが、ルセーナはその日を待ちわびているとかいないとか。


「でも、やっぱりこのままってわけにはいかないよね。シャイナの身内ってだけで、これ以上甘えるわけにはいかないよ。レイオンとかもいつまでもいるわけじゃないだろうしね」


 レイオンもいるのでしばらくは警備は安心だが、それも長く続くわけではない。

 マングラスとの戦いが終わればバイラルも安心だろうが、今の都市の様子を見ている限りでは、それまだ先になりそうだ。

 都市は完全に膠着状態であり、いっときの平和の時期を迎えているのだ。


「ルセーナさんも財政的に楽なわけじゃないし…全員この大樹の中に住めるかな?」

「無理をしなくていいのよ。ここはあなただけの城だもの。あの子たちを全員受け入れる必要はないわ」

「そうはいかない。オレが背負うと決めたものは必ず背負う。あの子たちはオレが守るよ」

「そこまで言うのならば…小さな小屋があれば、それで十分よ。あそこにあるものでもいいわ」

「最初に適当に建てた小屋だよ? あんなのでいいの?」

「移民街では、あれでも上等よ」

「移民街…貧困街か。収監砦の北のほうにあるやつだよね?」

「北西門の先にも少し住んでいるわ。あそこは水場が近いから多少は便利そうだけど、その分だけ入り込んだ魔獣も近寄る危険性も高いし、劣悪な環境は変わらないようね。水もそこまで綺麗ではないと聞くわ」

「街では水が売られているくらいだ。外にある水は農業用なんだろうね。まともに管理しているとは思えないし、寄生虫もいそうだね」

「あそこでは、あの子たちと同じく親を亡くした子がたくさんいるわ。地下に逃れられただけ私たちはましだったの。せめて安心して暮らせる家があれば…子供たちだけでも何とかなればよいのだけれど…チラッ」


 チラッとこちらを見た。


「あんな小屋がいくつかあるだけで、助かる人も多いのに…チラッ」


 また見た。これは確定だ。


「マザーはオレに、その子たちを救えって言ってるの?」

「そんなことを言える立場じゃないわ。ただ、根本的な解決にならないと言ってるだけよ。もしあなたがまた意図せずに子供たちを背負った場合、同じような問題が出てくるものね」

「貧困を無くさない限り、疫病は無くならない、か。その通りではあるけど、全員を救うのは無理だよ。理想論だけじゃ生きてはいけない。金も人手も足りなくなる」

「そうかもしれないわね。でも私は、女神様にお祈りするだけじゃ何も解決しないことを知っているわ。あなたが許してくれるのならば、そういう場所にも炊き出しに行きたいの。もし自由な時間があればだけど…」

「あまり試される物言いは好きじゃないな。それにそういう場所なら、なおさらマザーだけを行かせるわけにもいかないよ。危険だし、何があるかわからないしね」

「じゃあ、はっきり言うわ。困ってる人を助けてあげて。あなたの手が空いているときに少しでもいいから」

「最初に言っておくけど、オレは善人でも良人でもないよ。むしろ悪人のカテゴリーだろうね」

「知っているわ。そして、善人では世界を救えないこともね」

「何か期待してるよね?」

「そうかしら? そう思うのならば、あなたの心の中にそういった衝動がある証拠よ」

「宗教家らしい言葉遣いだね。その手には乗らないよ。マザーはもうオレのものなんだから、変なものを信仰する必要はないよ。女神様ならいいけど、カーリスとかは捨てていいよ」

「ふふふ、そうね。もう私はカーリスの司祭ではないものね。私の次の神は、あなただもの」

「おだてても何も出ないよ」

「あなたは、あなたが思っているより大きな人よ。この大樹よりも、もっと大きな太陽みたいな人だもの。その光を求めている人は、案外近くにいるのかもしれないわ。ああ、お腹が空いたうえに寒空の下で眠るのは、さぞつらいことでしょうに…ううう。どこかに強い力を持った人がいないかしら…チラッ」

「…やれやれ、困ったな」


(これって明らかな圧力だよね。なんて汚いやり口だ。が、頭が良い女性は嫌いじゃないし、マザーにはマザーの役割があるからね。代えの利かない貴重な人材なのは確かだ)


 彼女には『危険察知』というスキルがあるため、サナの傍にいるだけで保険になるのだ。当然、魔石の調整も彼女にしかできない重要な仕事だ。

 そして、自分の意思を完璧に受け入れるホロロと違い、彼女は『忠言』あるいは『提言』をしてくれる存在なのだ。ここが大きな違いである。

 その彼女は、貧困街にいる子供たちの救済を求めている。

 アンシュラオンの懐の深さは、それくらいなら簡単に呑み込んでしまえると。

 実にシスターらしい自己犠牲と慈愛に満ちた提言であるが、さすがにこれは難しい問題だ。


「そのことについては考えておくよ。オレにも都合ってものがあるからね」

「ええ、考えてくれるだけありがたいわ。農場の子供たちについては本当にあの小屋でも大丈夫よ」

「それはいけない。オレと関わった以上、特別でなければならないんだ。誰もが羨むような生活をさせてやらないと気が済まない。せめて専用の家を建てさせてほしい」

「わかったわ。無理がない程度でお願いね」

「無理なんてしなくてもできるよ。そのために汚い金をたくさん手に入れたんだからね。ただ、この問題はルセーナさんを交えて、また話し合ったほうがよさそうだね。彼女も人手が欲しいのは本当だろうし、世話になったから言い分はできるだけ聞いてあげたいんだ」

「…そうね。子供たちの意思もあるものね。農業を生業として生きられるのならば、ここでは幸せよね」

「ルセーナ農場は本当にいい場所だよ。ああいう場所がもっと増えればいいんだけどね…領主があれじゃな」


 アンシュラオンがマザーの提言を保留した最大の理由は、領主がムカつくから、である。

 ソブカの戦略との兼ね合いもあるが、それが一番の理由だろう。

 自分が都市のために動けば、それだけ領主の利になる。それが嫌なのだ。

 結局子供たちがどこに住むかについては、改めてルセーナとの協議の場を設けることで落ち着いた。

 ルセーナもルセーナで、シャイナとカスオといった居候が増えた以上、人手が欲しいのは事実だ。特に子供は教え込めば将来は重要な労働力となる。

 一方の子供は子供で、貧困街より遥かにましな生活を送ることができることは大きなメリットだ。

 子供の労働や丁稚奉公《でっちぼうこう》と聞くと悪いイメージがあるが、東大陸では仕事があって働けることは豊かさの証だ。

 自分の食い扶持は自分で稼ぐ。それが誇りになる。



 ということで、マザーの提言を一応聞いたのだから、次はこちらの番だ。

 改めて彼女を呼んだことには意味がある。


「話は変わるけど、術式ジュエルって『どうやって作るの』? ほら、こういうやつ」

「灯り用のジュエルかしら? 一般的に売られているものね」

「これってどうやって作ってるの? 知ってる?」

「こういう売り物は、業者が専用の機械を使って術式を刻んでいるようね」

「街に燃料ジュエルの回収ボックスがあるけど、使い終わったらリサイクルできるんだよね?」

「物によるけれど、ジュエルの耐久度が持つ限りはそうしているわね。それも専用の機械でやると聞いたけれど…」

「その機械は売ってる?」

「どうかしら? 私はそっちの専門じゃないから…。ところで自分で術式ジュエルを作りたいのかしら? 自分で作らずとも、スレイブ・ギアスにも専用の機器があるわよね?」

「だからこそだよ。機械というのは、その工程を簡略化したもののはずだ。最初は手でやっていたものを、より効率的に多く作るために自動化するものだ。たしかに下手な人間がやるよりは効率が良いけど、何事も上級の職人がやったほうが質が高くなるのは当たり前だよね」


 モヒカンのところにあった予備の機械を一つぶんどり、忍び込んだ密偵やソイドマミー等、さまざまな女性に人体実験を繰り返してみた。

 その結果、たしかにスレイブ・ギアスは成立するが、型にはまったものしかできないことがわかってきた。


「普通のスレイブにはそれでいいかもしれない。でも、オレが作るスレイブ・ギアスは、その人間に合わせてカスタマイズしたいのさ。より強力に、より柔軟性があるものとしてね」

「あなたが私に求めている役割こそ、それではないの?」

「もちろんそうだね。サナにやってくれたように、マザーにはさまざまな調整をお願いしたい。マザーはそっちが専門なんだよね?」

「ええ、そうね。調整には自信があるけれど…この話が出るということは、私では不足と思われているのかしら? それともまだ信用がない?」

「信用しているよ。期待もしている。ただ、あの機械が無ければできない、という事態があったら困るんだよね。これから数多くのジュエルを扱うのならば、もっと根本的な製造方法を学ばないといけないと思っているのさ」

「………」

「マザーは再設定ができるんだろうけど、かなり大変そうだったよね? そりゃそうだ。強いジュエルであればあるほど調整が面倒だもの。それは機械でもプログラムでも同じことさ。だったら、最初からカスタマイズの幅があったほうが便利だ。…うん、ちょっと言い方が面倒だな。もっとはっきり言えば―――」




―――「あの機械の【リミッターが邪魔】なんだ」




 今までの経験上、スレイブ・ギアスは『精神がD以下』の人間にしか使えない。

 しかし、姉の精神術式を見ていた分には、そのような制限があるようには見えない。

 以前も述べたが、本来は「術にかかるか、抵抗するか」の二者択一なのである。であれば、機械が意図的にリミッターを設けていることを意味する。


「オレがサナにスレイブ・ギアスを付けたときは、まだ精神が弱い状態だった。それならば問題はないけど、もしかしたら最初から精神が強い子がいるかもしれない。あるいは大人を支配する場合は制限が邪魔になる。強引にやろうとすれば、リミッターが発動して精神崩壊を起こすかもしれない。それでは困るのさ」

「………」

「悪用するつもりはないさ。あくまで相手側の安全を考慮してのことだ。サリータもホロロさんも大人だし、それに対応したやり方を知りたいんだよ」

「………」

「オレが信用できない?」


 ニヤニヤと笑うその顔の、いったいどこを信用すればよいのだろう。

 これにはマザーも少し考える様子を見せた。

 精神術式の危険性を考えれば当たり前であるし、『君たちを支配するためにそれが必要』と言っているようなものだ。

 自分が望んだこととはいえ、そう言われて即答できる人間のほうが珍しいだろう。

 そして、こうして思慮深く動けるからこそ、彼女は貴重な人材なのである。


 しばらくマザーは沈黙を保っていたが、何度か頷くとようやく口を開く。


「そろそろ時期なのかもしれないわね…」

「時期? 何が?」

「あなたの言う通り、ジュエルに術式を刻むことはできるわ。術符がその代表例ね。特殊な紙に特殊なインクで術式を刻んで『符』にする。主に【符術士】と呼ばれる人たちがやっていることね」

「よく術士がアルバイトでやるって聞いたけど?」

「誰にでもできるものじゃないわ。特定の能力が必要ね。たとえば私も術士の端くれだけど、適性がないから符術は無理なの。これはジュエルも同じね」

「その言い方だと、ジュエルに術式を刻む能力と、術符を作る能力は別なの?」

「ええ、そうね。ジュエルに術式を刻むことは簡単そうで難しいの。さっき言った専用の機械は『術具』なのよ。そして、術具を作る能力を持つ術士こそが、ジュエルに直接術式を刻むことが可能なの。それを『錬成』と呼ぶわ」

「錬成ってどこかで聞いた……あっ、『錬金術』か!!」

「ええ、ジュエルを作る能力は、本来【錬金術師】の領分なの。大きく区分すればジュエルも術具の一つよ」

「なるほど。たしかにそうだ。スレイブ商人からも聞いたよ。スレイブ・ギアスに使う思念液は錬金術師から仕入れている、とね。…ということは」

「そうよ。この都市にいる錬金術師に会うといいわ。私よりも専門家のほうが詳しいもの」

「錬金術師か。一度会ってみたいと思っていたんだ。どこにいるか知ってる?」

「いいえ、私は知らないわね。そのスレイブ商人に訊いてみたらどうかしら?」

「ありがとう、マザー! そうするよ! そうか、錬金術師か! どうして気づかなかったんだ! これは大きな収穫になりそうだぞ! よしよし、これで本格的にスレイブ・ギアスを作れるぞ!! それじゃ、オレはモヒカンのところに行ってくるから、あとは好きにしてね!!」

「ええ、いってらっしゃい」


 歓喜して走り出すアンシュラオンの背中を見つめながら、マザーは静かに思案する。


(魔石ならば私の手に負えるけれど、【アレ】は無理。おそらくカーリスの神官が数十人がかりでも無理ね。聖女様でも無理かもしれない。でも、この都市の錬金術師が噂通りの人なら、あるいは…)





 こうしてアンシュラオンは希望を胸に、錬金術師を探すことになった。

 が、ここで思わぬ足止めをくらうことになる。


「はぁ? 知らないだと!!」

「ひぃいい! 怒らないでくださいっす!!」


 スレイブ館「八百人」にて、モヒカンがアンシュラオンに詰め寄られていた。

 マザーたちに見せる温和な表情とは違い、クズどもに遠慮はいらない。強烈な威圧感を与えて問い詰める。


「お前はスレイブ商だろうが! 知らないとは、どういう了見だ!!」

「うぐぐぐっ! 首を絞めないで…ほしいっす……本当に知らないっす……おごごごごっ…ぢ、ぢぬううう」

「ちっ!! クズが!!」

「げほげほっ! なんなんすか! 久しぶりに会ったと思ったらこれっす。横暴すぎるっす!」

「うるさい! 出番があるだけありがたいと思え!」


 言われてみれば、モヒカンの台詞自体はかなり久々である。

 誰が好き好んで、こんなモヒカンとしゃべりたいだろうか。身の程をわきまえてもらいたいものだ。

 そんなことよりも、モヒカンが錬金術師の居場所を知らないことが問題だ。


「お前、仕入先の相手の場所も知らないのか?」

「いつも向こうから送られてくるっす。支払いはハロワーク経由で口座に入れるっす。だから面識はないっすよ」

「発注はどうしている?」

「ハローワークに申し込むと、そのうち送ってくるっす」

「それじゃ手間がかかるだろうに。緊急の場合の仕入れはどうする?」

「貴重なものっすからね。時間がかかるのは仕方ないっす。そこは先延ばしっす」

「どうしてお前はそこに疑問を抱かない!! そんな馬鹿だから、いつまでも下っ端のスレイブ商なんだ!! このモヒカンが!! もうモヒカンをやめろ!! モヒカンに失礼だ!」

「痛っーーーー! ハゲるっす!! 自分なんて、こんなもんっす!! 許してくださいっす!!」

「くそが!! 使えないやつめ! 仕方ない。ハローワーク経由で調べるか」

「それは無理っすよ。教えてくれないっす」

「職員でもわからないのか?」

「国際的な組織っすから、あまり不正はしないほうがいいと思うっす。セキュリティも万全っすよ」

「ふむ、たしかにな…」


(小百合さんに頼んで、もし不正がばれたら…)


 小百合、無職になる。

 家にずっといる。

 嬉々としてハイテンションで常時付きまとわれる(子作りをせがまれる)

 ホロロと対立し、険悪になる。

 揉める。修羅場になる。対応に追われる。

 実に怖ろしいイメージがありありと浮かんできた。

 スレイブ・ギアスが無い現状で、これは困る。


(それはそれでつらい…な。やめておこう。これくらいは自分でやらないとな。うん、そうだよ。そうしよう)


「本当に知らないのか? 領主はどうだ? 前に腕輪製作を頼んだそうじゃないか」

「領主も発注だけして居場所は知らないと思うっす。というか裏の情報網でも、錬金術師に関してはタブーにされてるっす」

「派閥の長でもか?」

「さすがに知ってるかもしれないっすが…代償は高くつくっす。そこまでのメリットはないっすよ」

「ふむ…ソブカにばかり頼るのも癪だ。また嫌な顔をしたファレアスティさんに会うのも気が進まない。まあ、いいだろう」

「ふぅ、わかってくれたっすか。旦那もけっこう派手にやったっすから、少しは落ち着いて―――」

「おい、モヒカン。これから錬金術師に大量の発注を出せ。大急ぎだ」

「え? 在庫はあるっすよ? 特に必要ないっすが…」

「必要なのはオレだ。余ったら買い取ってやるから、さっさと言う通りにしろ!! 早くしないと尻の穴にゲイの思念を捻じ込んでやるぞ!!」

「ひーーー! いきなり来るときは、ろくなことがないっす! わかったっす! やるっすよ!」

「早くしろ! 愚図が!」


 ゲイの思念を捻じ込む?

 なかなか珍しい脅し文句だが、想像すると怖いので一応成立するのかもしれない。

 あとでモヒカンも「あれは何だったのか?」と思い悩むことになるが、流れで言ったことなので意味はない。


(くそっ! 気分良くやってきたら、これか! いいだろう。絶対に見つけ出してやるからな!! オレから逃げられると思うなよ!)




 それから四日後。


 アンシュラオンは、一つの店の前に来ていた。


「黄金女学園…ここか」


 下級街の商店街が終わり、さらにその先にある裏路地。ちょうど中層と下層の中間の位置に、その店はあった。

 古ぼけた石造りの店は、下級街の店としてはそう珍しいものではない。周囲の家々とも近い造りなので、ぱっと見たら景色に溶け込んでしまいそうだ。

 もし看板が出ていなければ、まず店とは気づかないだろう。


(それはいい。いいんだが―――)


 名前が怪しい。

 正しく表記すれば、【妖しい】。

 何よりもガラスケースの中の商品は、もっと危ない。


(なにかセーラー服みたいなのが飾ってあるんだけど…って、使用済み!? ブルマーもあるぞ!? …どうなっているんだ!? おいおい、まさかブルセラショップじゃないよな)


 当然だが『ブルセラ症(マルタ熱)』のことではない。

 ブルマーとセーラー服を合わせた『あのブルセラ』のことである。

 女性に長年愛用されたブルマーも、時代の流れによって完全に衰退してしまったので、元号が変わった今、若い人は知らない人もいるだろうか。


(オレの学生時代はブルマーが普通にあったが…そもそもあんなものの何がいいんだ? 中身があってこそだと思うがな。ところでオレは本当にここに入るのか? 周囲の視線が怖いな)


 こんな店に入っていくところを誰かに見られたら、それこそ切腹しかない。

 前世でもアダルトショップくらいは入ったことはあるが、さすがにブルセラはない。入ってはいけない。

 だが、ここで迷っていても埒が明かないため、勇気を振り絞って中に入る。



 チリンチリン



(く、屈辱だ! こんな屈辱を味わわされるとは!! ま、負けた!!)



 ドアに付けられた呼び鈴とともに、敗北の鐘が鳴ったようだ。

 よもやこのような場所で、この都市初めての敗北を味わうとは思わなかった。

 絶望感に押し潰されながら店内を見る。

 店内にも商品が並べられているものの、やはりどれも妖しい。ある種の嫌悪感すら感じるので相当なものだろう。

 性癖が違うことは、これほどまでに嫌悪の対象になるのだと知る。(だからゲイは信用できる)


(サナたちを連れてこなくてよかったよ、ほんと。立ち直れないところだった)


 野生の本能が危険を察したのか、今日は単独行動だ。

 特に教育上、セノアには見せられないし、小百合さんに見られても駄目だ。後者の場合はブルマーで迫ってきそうで怖い。

 サナはサナで何も思わないだろうが、兄兼父親として考えれば絶対に触れさせたくない領域だ。性癖面に関しては普通に育ってもらいたいのである。

 そうしてほっと胸を撫で下ろしていると―――


「あら、お客さん?」


 ようやく店主らしき人物が出てきた。

 妖しい店なので店主も妖しいかと思ったが、普通に美人のお姉さんであった。

 年齢は三十過ぎくらいに見えるが、歳とは関係ない妖艶さが滲み出ている。その意味では十二分に妖しいものの、思っていたほどではない。

 ただ、着ているものは占い師に似た真っ赤な装束で、所々にジュエルが大量に付いた装飾品が見えた。


「ええと、ここは…」

「買取? 使用済みパンツは一万円からよ。直で脱げばさらに…」

「………」

「………」

「………」

「じゃあ、二万円から」

「値段じゃないから!! って、ここは本当にブルセラショップか!?」

「失礼ね。私が趣味で買い取るのよ」

「そっちのほうが怖いよ!! 何に使うんだ!?」

「そりゃまあ…触ったり………」

「触ったり、の後は?」

「…いろいろね」

「もっと怖い!! じゃあ、ここにある商品は何? 買い取ったものを売っているんじゃないの?」

「これは私が買い取ったあとに『使ったもの』を売っているのよ」

「何を言っているのかわからない!?」


 久々に「やばいやつ」に出会ったものである。

 レベルもかなり高いので危険だ。


「で、売れているの?」

「失礼ね。売れているわよ」

「おっさんが買いに来るの? それとも青臭い性に飢えた少年?」

「女性だって買いに来るわ」

「なぜ!?」

「そんなに驚くことはないでしょう。人の趣味はそれぞれじゃない」

「驚くと思うけどね。…でもまあ、これが『術具』ならば買い手もあるかな」


 セーラー服やブルマー自体が珍しいので、その面では需要はあるだろう。

 がしかし、これらの主な使用目的は性的なものではない。


 ここにあるすべてが―――【術具】


 どれも特殊な能力を秘めたものである。

 こんなことができる者は極めて稀。なればこそ、答えは一つだ。


「ようやく見つけたよ、錬金術師さん」

「何のこと?」

「しらばっくれても駄目さ。そのためにモヒカンに大量の発注を出させて、物流を探っていたんだからね。特殊な物品だから追跡はしやすかったよ」

「何を言っているのかわからないけど、それがここだという証拠でもあるのかしら? 勘違いじゃなくて?」

「あなたが直接流しているわけじゃない。いくつかの運び屋を経由しているね。かなりまどろっこしいけど正体を隠すには、これくらいは普通なのかな。疑うなら誰を経由したか全部教えようか? リストはもう作ってあるよ」


 アンシュラオンは囮のため、モヒカンを使って大量に思念液を注文。

 この四日間の大半を費やし、その流れを追っていたのだ。

 そして、ついに見つけたというわけだ。


「あなたのやっていることのほうが、よほどまどろっこしいわね」

「仕方ない。錬金術師を見つけるためだもの」

「…で、仮にそれが本当だとしても、私が錬金術師である証拠にはならないわよね?」

「いや、お姉さんが錬金術師だ」

「どうしてわかるの?」

「オレにはそういう『能力』があるんだ」

「…へぇ」

「どう? 認める? 認めなくても、もうバレてるけどね」

「ねぇ、その髪の毛ちょうだい。全部」

「突然なに!? 全部取ったらハゲるじゃん! 嫌だよ」

「ケチねぇ」

「いやいや、そういう問題じゃないだろうに。ラブヘイアみたいなこと言わないでよ」

「じゃあ、パンツちょうだい」

「だから何に使うの?」

「……錬成」

「間があった!! 目も逸らした!」

「いいじゃない。減るもんじゃないし」

「オレの誇りが減るよ!」

「売らないなら何をしに来たの? 買う側?」

「そっちの話は終わりにしてよ。錬金術師に頼みたいことがあるんだ」

「頼みねぇ…」


 お姉さんは水タバコのようなものを取り出し、いきなり吸い始めた。

 吸うたびに植え付けられたジュエルが光っているのが気になる。


「それ何?」

「水タバコ」

「そのジュエルのほう」

「精神安定の効果を付与したジュエルよ。心が乱れた時に吸うと落ち着くようになるわ」

「心が乱れたの? 正体がバレたから?」

「あなたの香りで興奮したから。噛み付きたくなる衝動を抑えるためよ」

「その衝動はおかしい!」


(なにこの人、怖い。なかなかペースが握れないな)


 これだけ圧力をかければ、いつもならばこちらが上に立てるのだが、正体が見破られたことにまったく動じていないどころか、あまりにマイペースすぎる。

 さらには自分が持っている『姉魅了』も効いている様子はない。


(小手先じゃ駄目そうだな。仕方ない。直接切り込んでみるか)


 ここでアンシュラオンは直球勝負に出ることにした。

 こういう相手に付き合っていると時間を浪費するだけでなく、何も得られないことが多いからだ。

 よって、いきなりとっておきの【切り札】を使う。


「エメラーダ、それがお姉さんの名前だ。でも、おかしなことがある」

「…何?」

「初対面でこう言うのは失礼だけど、お姉さんって―――」





「【人造人間】なんだね」





 アンシュラオンの『情報公開』。

 記されてあった情報には、その文言がしっかりと記載されていた。

 それを聞いたエメラーダは、楽しそうに笑い出す。



「…ふふ、ふふふふふ」



 さすがにこれは効いた。


 そう思ったのだが―――



「どう? これでオレのことを認めてくれたかな? オレが言っていることが本当―――」

「あなた、自分が呼ばれたとは思わなかったの?」

「え?」

「こんな場所に店があって、どうして誰も錬金術師の場所を知らないのか。おかしいとは思わない? それはね、私が【餌を撒いて】いるからよ」

「っ―――!!」


 アンシュラオンでさえ反応する間もなかった。

 エメラーダが、まったくのノーモーションで術式を展開。

 一瞬で周囲を封印結界が包み込むと、身体が一気に重くなった。

 まるで重力が数百倍になったかのように、強い圧力がかかって動けない。


(ちっ、これだから術式ってやつは面倒だ! 戦気と違って見分けがつかないから反応が遅れる!! いや、この人の腕が良いんだ。術式展開速度が姉ちゃん並みとはやるじゃないか)


 青劉隊の結界程度ならば触れただけで破壊できるのに対して、こちらの術式はレベルが違う。

 何よりも展開速度が、とても見慣れたものだったのだ。



 パミエルキに―――匹敵



 あくまで術具込みの術式限定だけだが、それだけでも恐るべき実力といえる。




621話 「錬金術師の正体」


「…なるほどね。あまりに簡単に見つかりすぎると思ったよ」

「あら、まだ動けるのね」

「こういうものは初めてじゃないからね」

「ふふふ、さすがは白い王子様というわけかしら。いいわぁ、素材としては申し分ないわね」

「オレのことを知っているんだね」

「もちろん。この都市の情報はすべて仕入れているわ」

「オレがここに来ることも?」

「あの守銭奴のスレイブ商が、わざわざこんなことはしないものね。あなたが裏にいることくらいはわかっていたわ。ただ、それ以前からあなたをずっとトレースしていたのだけれど、気づかなかったかしら?」

「逆に泳がされていたってことか。やるね」


 アンシュラオンは時折、いくつかの視線を感じることがあった。

 敵が多い身の上なのであまり気にしていなかったが、その中に紛れてエメラーダの監視の目もあったようだ。

 そして彼女の言動から察するに、これらは最初から用意された【罠】だ。

 考えてみれば当然だ。こんなにあからさまに店があるのに、なぜ誰も知らないのだろう。


 それは彼女が―――【狩り】をしているからにほかならない



「オレの前にここに来た連中は、どうなったの?」

「使用済みのブルマーを買っていったわよ。お目が高いわ」

「普通の客じゃなくてさ!? こうやって探りに来たやつらだよ」

「久しくそんな連中はいなかったけど…そうね。取るに足らない人間には記憶を消して、そのままお帰りいただいたわね」

「取るに足る相手は?」

「ふふふ…不安なの? 大丈夫。優しくするから」

「タダじゃ済まない感じだね。お姉さんの実験材料ってところかな?」

「命まで取ることはしないわ。少し力をもらうだけよ」

「力をもらう? 興味深い言葉だ。でも、あまりオレを刺激しないほうがいいと思うよ。全力を出せば、これくらいの術式は破壊できるからね。ここで力を出すと家屋まで破壊しちゃうから抑えているだけさ」

「術式に囚われたわりに随分と自信があるのねぇ。いいわ。試してごらんなさい」


(オレの正体には気づいているはずだ。それでいながら臨戦態勢を解かない。それだけ自信があるということか。こうなったらもう、やるしかないな)


 もはや戦いは避けられない状況らしい。

 アンシュラオンは精神を集中。あらゆる状況に対応できるように準備を整える。

 次の瞬間、封印結界がさらに圧力を増した。エメラーダがこちらを拘束しようと攻めてきたのだ。

 こんな危ない女性に捕まったら、何をされるかわかったものではない。全力で抵抗したいものである。


(術式の核を狙って―――そこだ!)


 アンシュラオンも術士の因子が5あるので、高レベル帯の術式にも対応は可能だ。

 術式には必ず『核』があり、それを中心にして特定の現象を維持している。

 いわば家屋を支える『大黒柱』のようなものだ。テントの支柱と思えばわかりやすいだろうか。

 そこを高出力の戦気をまとった拳で、打ち抜く!!


 ドゴンッ! バリンッ!


 結界を破壊するときに「バリンッ」という擬音をよく使っているが、これはアンシュラオン自身が感じるイメージであり、実際に音が出ているわけではない。

 昔のアニメのバリアーがガラスのように砕けていたので、その印象が強いのだろう。


 核を失った封印結界は崩壊を開始。


 【対術三倍防御の法則】の通り、三倍以上の戦気を放出すれば術式を相殺することは可能だ。

 がしかし逆に言えば、術者相手には三倍の力を出さないと対等に戦えないのである。

 今まで出会った平凡な者たちならばいざ知らず、目の前にいるのは明らかにプロフェッショナル。これだけで終わるわけがなかった。

 術式が崩壊すると同時に周囲に舞い散った破片が集まり、アンシュラオンの四肢にまとわりついて動きを封じる。


(二重術式。崩壊をトリガーに設定してあったか。かなりの凄腕だぞ)


 術式が一つとは限らない。高位の術者ともなれば、好きなようにカスタマイズできるのだ。

 皮肉にも目の前の錬金術師が、術式を改変できる能力を持っていることが証明される。

 ただ、これに対してもアンシュラオンは冷静に対応。

 身体に戦気を展開させて、強引に術式を振りほどく。


「あらあら、脳筋なのね。見た目とはイメージが違うのも嫌いじゃないわ」

「店を壊したくはないんだ。早く終わりにしよう」

「ふふふ、力づくで私を取り押さえるつもり? いいわね。そういう粋が良い子は久々よ。ますます欲しくなる」

「悪いけど、プライドまで捨てるつもりはないからね!!」


 アンシュラオンが、宙を駆けた。

 宙に軽く跳んだと思ったら、そこから恐るべき速さで宙を駆け、エメラーダの背後に回り込む。

 本当に宙を飛んだのではなく、戦気を操って空間移動を行う戦気術の一つだ。

 クロスライルとの戦いでは特に説明なく使っていたが、他の下界人に使うのは初めてである。

 これを使ったことで、エメラーダがクロスライル並みの強敵であることがわかる。


(高レベル帯の術者は時間を与えると危険だ。それは姉ちゃんや師匠でよく知っている。一気に制圧する!)


 アンシュラオンの手がエメラーダの後ろ首に迫る。

 ここを掴んで命気を体内に浸透させれば、身体の自由を完全に奪うことができる。

 目的は錬金術師の力を借りることであり、倒すことではない。まずは動きを封じることが先決である。

 バリバリバリンッ

 エメラーダが防御用に張った物理障壁を破壊し―――


 がしっ!


 首を掴んだ。

 本気を出したアンシュラオンの速度とパワーを考えれば、極めて当然の結果だ。


 がしかし―――


 ぽろっ

 エメラーダの首が取れた。

 その様子はまるで「だるま落とし」で首の部分が、すっぽりと取れたようである。


(なんだ? 人造人間だから首が取れても大丈夫なのか!? まさか殺したわけじゃないよな!?)


 逆に情報を知っているからこそ、そんなことも考える。

 力を入れすぎたのかと思って軽く動揺するが、そんな間もなくエメラーダ自体がぼろぼろと崩れて霧散。

 彼女の肉片が粒子となって眩い光を生み出すと、空間そのものが変質。



 こじんまりとした店内が、突如【巨大な奈落】となった。



 アンシュラオンに強い浮遊感。

 落ちても落ちても底が見えない真っ黒な世界に、ただただ胸を押し潰す圧迫感だけが満ちる。


(これは…『幻術』か? どこで引っかかった? いや、そんな場合じゃない。これはやばいぞ)


 いわゆる『幻術』には、二種類存在する。

 一つは実際に映像を生み出したり分身(術式版)を作ったりして、相手を惑わすものだ。

 だが、今回は店の中なので、いくら幻術といってもこのような真似は難しい。

 となれば、もう一つの可能性。

 こちらは極めて危険で、もっとも陥ってはいけない状態のものだ。


(【精神に干渉】されたんだ。オレの脳神経に虚像を送り込んで幻を見せているんだろう。ってことは、本体のオレの肉体は無防備な状態か? くそ、これがあるから術式は面倒なんだ!)


 さきほどエメラーダの首を引きちぎったのも幻影に違いない。

 このことから、だいぶ前に精神に干渉されていたと考えるべきだ。

 おそらくは最初の封印術式の時。あえて目立つ術を使って精神に指向性を与えておいて、油断させた隙に潜り込んだと思われる。

 自分もよくフェイントをやるが、術式も駆け引きは同じなのだ。

 ただし、圧倒的に術能力においては向こうが上。演算処理も効率も段違いで、対応がすべて後手に回っている。

 相手の『攻撃が見えない』のは致命的に不利だ。


「ふふふ、素敵な部屋にご招待ね。気に入ってもらえた?」


 奈落に七色の蝶が大量に出現し、融合すると同時にエメラーダが現れた。

 エメラーダ自身も虹色が複雑に絡まった芸術性の高い色合いをしている。


「本体じゃないな。偽者か」

「精神世界において本物も偽者もないわ。私は私よ」

「たしかにその通りだ。物質世界のオレの肉体はどうなっている?」

「すごいのね。まったく近寄れないわ。腕一本、持っていかれちゃった」

「護身術を叩き込まれているからね。身体が勝手に動くんだよ。もう一本の腕が惜しいのならば、これ以上触れないことだね」

「まるで野獣ね。可愛いわ」


 現実世界のアンシュラオンは直立不動で止まっていた。

 実は店に入った瞬間には、すでに術式にかかっていたのである。

 扉の鈴の音には強力な催眠作用が施されていたし、あの水タバコの煙にも同様の効果があった。効きが悪かったので、そうやって少しずつ作用を深めていったのだ。

 しかし、そこはさすがの殺戮マシーン。害意を持って一定範囲内に入ろうとすると、身体が勝手に動いて攻撃を仕掛けてくる。

 それによってエメラーダは腕一本を奪われてしまった。呆れるばかりの戦闘能力である。


「にしても、お姉さんも凄いね。ここまでコケにされたのは久しぶりだよ」

「これくらいでなければ錬金術師なんてやっていられないわ」

「先に訊いておくけど、マングラスと組んでるの?」

「マングラス? ああ、盗人君たちのことね」

「盗人?」

「私は中立よ。人の世のいかなる移ろいにも干渉はしないわ。特に私のような特殊な『メラキ〈知者〉』はね」

「メラキ? 知らない話ばかりが出てくるね」

「あなた、白賢人《しろけんじん》の派閥じゃないの?」

「どれも初めて聞く言葉だよ」

「…本当に噛み合ってなさそうね。まあいいわ。どうせ私の支配下に置くだけだもの。あとでゆっくり訊かせてもらうわ」


 エメラーダが再び蝶になって消えると、奈落の底から呻き声。



―――ウォオオオォオオオオ



 無数の黒くて大きな手が奈落から這い出てきて、アンシュラオンに掴みかかる。

 下を見れば、魑魅魍魎の群れ。

 平安時代のおとぎ話で出てきそうな妖怪たちが、恨めしそうにこちらを睨んでいる。


 魔王技、『百式悪鬼奈落』。


 術士因子7で使うことが出来る高レベル精神術式の一つで、名前の通り百体の悪鬼が襲いかかり、精神をズタズタに引き裂く危険なものだ。

 あまりに高レベルの術式なので、まさに抵抗する術もなくアンシュラオンは奈落に引きずり込まれ、もみくちゃにされ、腐敗した手や爪が次々と身体に突き刺さっていく。

 戦気を発しようにも生体磁気が存在しない精神世界であるため、そのまま一方的に蹂躙される。


 これは現実ではない。幻術である。

 しかしながら感覚はリアルで、知覚も現実世界とまったく変わらない。

 悪夢とて、もし目覚めなければ現実になる。現実と夢の区別がなくなる。

 そうして精神を病めば日常生活に支障が出て、自殺すら考えるようになる。

 麻薬で神経がズタボロになれば、ミミズが這いずる幻覚に転げ回るのと同じだ。

 精神術式とは本当に恐ろしいものなのだ。

 いや、本当に恐ろしいのはアンシュラオンかもしれない。

 こうして身体中を切り刻まれ、痛みや不快感があっても眉一つ動かさない。

 幻覚だという絶対の自信があるのだ。裏返せば、それだけ自己の武力に自信があるのである。

 何より、これは【布石】だ。


(これだけの相手だ。こんなものでは済まないはずだ。オレの精神を弱らせてから、その次に本命がくる。そこを迎え撃つ)


 エメラーダがこちらに術式回線を接続してイメージを送っているのならば、それを辿って相手に逆ハッキングを仕掛ければいい。

 自分は術士ではないためハッキングは難しいが、強いショックを与えて回線を断絶させることは可能だ。

 一瞬でも現実に戻れれば、圧倒的武力によって制圧できる。次はヘマはしない。

 では、その手段はどうするかといえば―――


「ウウウウウウウッ!! うううううううぅううっ!!!」


 怒り、怒り、怒り。

 もともと他人に触れられることも嫌な男だ。

 不快なものに対する嫌悪は、すぐさま憎悪となり、怒りとなる。



(オレに触れるやつは許さない!!! 支配しようとするやつは―――ユルサナイ!!)



 ぞわ、ゾワゾワッ

 身体の奥底、魂の奥底から真っ黒な感情が渦巻いてくる。

 感情が高まるにつれて『黒い力』も満ちていく。

 それは紛い物の黒さではなく、サナの精神世界で見たような完全な漆黒。

 ただし、サナの無垢な漆黒と違い、彼の黒は破壊の色。


 ただただ、破壊。


 ただただ、殺戮。


 怒りと嫌悪だけで世界のすべてを破壊する者こそが、魔人。

 精神が剥き出しになる場所だからこそ、魂の中に眠る魔人の素子が急速に目覚めていく。

 それを知らずに巨大な鬼がやってきて、アンシュラオンを掴んで喰らおうとする。


「オマエガ、シネ」


 ぐいっ バキンッ!!

 だが、アンシュラオンは逆に鬼の口に手を突っ込むと、大きな歯を引っこ抜く。

 いきなりの反撃に怯んだ鬼の手から抜け出し、今度は殴る!!

 ドゴンッ! ボゴンッ!!

 鬼の顔面を拳打で破壊。

 当然これはイメージの世界。幻影に近いものだが、破壊のイメージがあまりに強すぎて―――鬼が泣き叫ぶ。


「ギャォオオオオオオオオオオオオオッ!!!」


 術式で生み出された鬼が、殴られて逃げ惑うとは不思議な光景だ。


「シネ、シネ、シネッ!!!」


 鬼が泣き叫んでも魔人は殴ることをやめない。

 むしろ相手が死なないのならば好都合。永遠の痛みを与え続けて苦しめてやる。

 殴る、殴る、殴る。

 引き裂く、引き裂く、引き裂く。

 目玉をくり貫き、腕を引き千切り、足をへし折り、心臓を粉々にする。


「アハハハハハッ!!! 苦しめ!! 泣き叫べ!! オレを愉しませろ!!」


 愉悦、愉悦、愉悦。

 誰かを攻撃することは、とても気持ちが良いことだ。心地好いことだ。

 普通の人間ならば肉体的、精神的、社会的限界があるので途中で罪悪感を感じるものだが、この男はクロスライルから『怖い』と言われるほどの精神力を持っている。

 殴るたびにどんどん力が増していき、快楽も増していき、次から次へと鬼たちを薙ぎ払っていく。

 大悪党が地獄に落ちても逆に地獄の鬼たちを蹴散らしてしまう、という描写が某漫画であったが、なるほどと頷いてしまう光景だ。


「ウオオオオオオオオオオオオオッ!!!」


 アンシュラオンから激しい黒い波動が迸る。

 これだけの強い圧力を受ければ、通常の術者ならばショック死してしまうだろう。


 しかしながら、エメラーダはすでにそこにはいなかった。


 逆流を想定してバイパスを増やし、黒い波動を分散させてやり過ごしていた。

 術式の戦いにおいては残念ながら、エメラーダのほうが一枚も二枚も上手であった。


(なるほどね。これは凶悪だわ。たしかに少し前から魔人の気配を感じてはいたから、グラス・ギースを騒がした男は『魔人種』だとは思っていたわ。…でも、違う。臭いはするけど、どこか違う。魔人であって魔人ではない。【コレ】は何?)


 アンシュラオンから感じる波動は、間違いなく魔人のものだ。

 本来は身体すべてが黒に染まり、理性すら失い、人間に対する無機質な殺意に囚われて破壊の限りを尽くす。

 しかし、彼は白い姿のまま黒い力を操っている。穢れなく純粋のまま破壊の力を行使している。このようなものは初めて見た。


(盗人の坊やは、彼を『災厄の魔人』だと思っているようだけど、『裏』がありそうね。何かの意思が隠れているわ。ふふふ、【赤き賢影《けんえい》】の名にかけて、隠れているものを引きずり出してあげるわ)


 すでに忍ばせておいた本命の精神術式を、そっと発動させる。

 使役術、『嘯魂弄靂《しょうこんろうれき》』。

 相手の精神を掌握し、下僕に変える精神術式の一つである。

 これがスレイブ・ギアスと違うのは、短期的なものかつ、相手の同意が必要ないことであろうか。

 強制的に強い者が弱い者を支配する、という単純な図式だ。

 ただし効果が強力な反面、相手の精神に大きなダメージを残してしまうため、常人ならば廃人確定となる禁術である。

 百式悪鬼奈落に耐えられる男ならば、これくらいは問題ないだろうという判断から一番危険な術を選んでみた。

 そして、現在のアンシュラオンのレベルでは、まだこの術式を探知することはできない。



(さぁ、あなたのすべてをさらけ出して、私の支配下に入りなさい!!! あなたが何者なのか、私に教えて!!)



 エメラーダの術式が完成。

 アンシュラオンの精神、その奥にある潜在意識、いわゆる霊的な要素にまで侵入する。

 ここには『大我』と呼ばれる霊の情報が蓄積されており、前世の記憶やら趣味や性癖その他、その人物のあらゆる情報が格納されている。

 当然、罪や罰といった人に知られたくない情報も山ほどある。

 現代でも古代でもそうだが、戦いにおいて相手の情報を得ることは勝利への第一歩。常に情報を得たほうが勝つのが道理だ。

 精神術式を完全に成功させるためには、こうした情報戦で優位に立つ必要がある。

 圧倒的上位に立ったエメラーダは、アンシュラオンを支配しようと、どんどん深部に潜っていった。


 がしかし、この時の彼女はまだ何も知らなかった。


 その裏側に、アンシュラオンという魔人の裏側に、もっと怖ろしい存在がいることを。




―――ウフフフフフッ




「―――っ!?!!」



 ソワッ ゾワワワワッ

 エメラーダがアンシュラオンの前世の記憶の中で、他愛もない情報を閲覧していた頃だ。

 突如世界が真っ暗になり、天から女性の笑い声が聴こえた。

 しかし、それは身の毛がよだつほどの強烈な圧力を秘めたもので、声を聴いただけでエメラーダが動けなくなってしまう。



―――ワタシノ モノ


―――コレハ ワタシノ


―――ダレニモ ワタサナイ



 声は美しいが、その中身は見通せないほどの奈落。

 いまだ人間には未知のブラックホールが真上に出現したような、絶望と恐怖が世界を席巻し、すべてを吸い尽くそうとする。

 明らかに様相が異なる。今まで触れていた世界とは別次元のものだ。


(―――はぁはぁっ!! はぁはぁっ!! なに、これ? こんなものがどうして…!! 早く逃げないと…!!)


 直感的に危険を感じ、エメラーダは即座に回線を切ろうとする。

 だが、遅い。

 天から雷が落ちると、彼女を串刺し。



 バチーーーーーーンッ!!



「きゃはああああっ!!!!」


 雷には、強い強い排他性が宿っていた。

 人間であることを悔いるような、恥じるような、低俗な存在であることが恨めしくなるような敗北感を与えてくる。

 抵抗しようにも抵抗しきれない。

 屈強な男性に赤子が勝てるわけがない。虫かごに入れた矮小な生命体を殺すことなど、いとも簡単なのだ。

 水を入れて溺死させることも、硫酸を入れて溶かしてみることも、圧倒的知性と力を持った『上位種』ならばたやすいのである。

 女神は、愛をもって世界を維持する。

 しかし、この存在は悪意をもって人を罰する。



「違う、違う!! これは…!! 今までの災厄の魔人じゃ―――」



 ドドドドドーーーーーンッ


 断末魔の悲鳴を上げる間もなく、エメラーダが大量の雷に串刺しにされ、存在を掻き消される。

 塵一つ残らない完全な黒だけが、そこにあった。

 すべてを包摂し、すべてを排除し、すべてを奪う恐るべき意思だ。



―――フフフ ワタシノ カワイイ


―――カワイイカワイイカワイイカワイイ


―――ワタシノ モノ


―――ワタシハ ワタシダケヲ


―――アイスル





 ブツンッ





「…え? ここは…」


 アンシュラオンの意識が戻ると、あのブルセラショップの中にいた。

 その段階で敗北を悟る。


(しまった! あれも罠だったか! くそっ、あまりに心地好くて酔っちまった。 はっ!? 何かされていないか!? パンツはあるか!?)


 最初に下着の心配をしなければならないとは屈辱だが、とりあえず無事を確認する。

 そうこうして視線を下に向けたときだ。

 倒れているエメラーダを発見。

 しばらく見ていたが動き出す様子はなかったため、調べてみた。


「…死んでる」


 彼女は白目をむいて、硬直したまま死んでいた。

 呼吸もしていない。心臓に手をやってみたが完全に止まっていた。(ついでに胸も揉んでみた。柔らかくて大きいので評価はAランクだろう。シャイナに近い乳質だ)


「まさかオレが殺した? でも、片腕が千切れているけど、これは致命傷じゃないよな。ほかに目立った外傷もないし…」


 本気の自分が殴れば、人間の肉体など簡単に吹き飛ぶだろう。

 彼女の言った通り片腕は千切られているものの、これほどの人物がそれでショック死するとは思えない。

 原因がわからず、ただただ呆然と立ち尽くすこと数十秒。


「いったい何が―――うわっ!!!」


 ぐるんっ ガクガクッ

 突如エメラーダが、ガクンガクンと身体を震わせると、黒目が戻って息を吹き返す。


「はぁはぁ…!! はぁはぁっ…!!!」


 彼女は床に倒れ込み、憔悴した様子で荒い呼吸を繰り返す。

 身体全体から汗が噴き出しているのが見えたので、相当なショック状態にあったのだろう。

 ひとまず生きていたことを知り、胸を撫で下ろす。


「気絶していたの? よかった。死んでいなかったんだね。どうしようかと思ったよ」

「はぁはぁ…死んだわ。本当に死んだ。…殺されたわ。擬似人格じゃなかったら終わっていたもの…」

「擬似人格?」

「あなたの中、とんでもないわね…」

「中って言われても…何があったの?」

「………」


 エメラーダは首を振り続け、その問いには答えてくれなかった。

 その顔は真面目で真剣。

 今までの様子とは明らかに違うので、こっちが面食らってしまうほどだ。


「…そこに座って」

「ようやく話をする気になったのかな?」

「話…ね。いろいろ訊きたいことはあるけれど、まずはあなた自身が何も知らないことが問題ね」

「まあね。自慢じゃないけど、オレはこの世界については無知に等しい。ずっと山奥で暮らしていたからね」

「無知ほど怖ろしいことはないわね」

「同感だね。だからお姉さんの力を借りたいと思っているんだ」

「頼みがあると言っていたわね。内容は?」

「スレイブ・ギアスを完成させたいんだ。機械を使ったものじゃなくて、自分自身でカスタマイズしたいのさ。そのやり方を教えてもらいたいのと、素養のある子に術も教えてあげてほしいかな」

「……は?」

「そりゃ、こういうのは危ないって知ってるよ。だから専門家に―――」

「ちょっと待って。そんなどうでもいいことが頼みなの?」

「どうでもいいって…失礼だな。オレにとっちゃ大事なことだよ」

「…はぁ、無知って怖ろしいわ」

「んん?」

「本当に何も知らないのね。私も中を覗いたから、それが嘘じゃないとはわかるけれど…もう少し知識を得ないと危ないわよ」

「じゃあ、お姉さんが教えてよ」

「できることはするわ。私自身のためにもね。ところであなたの頼み事だけど、自分でやればいいんじゃないかしら」

「自分でやれれば苦労はないよ。何度やってもできなかったし、もしかしたら素養がないのかな? 一応数値ではあるようだけど、使えないんじゃ意味ないよね」

「いいえ、違うわ。あなたの術士の因子が【封印】されているだけよ」

「封印? え?」

「あなたには封印、言い換えれば【リミッター】がいくつかかけられているわ。それが邪魔をしているのよ。問題は、それをかけた人物ね。心当たりはある?」

「心当たりと言われても、オレはずっと山奥で四人で暮らしていたから…」

「その人物の中で、怖ろしいほど強い術士の力を持った人間はいた? 凶悪で強大で傲慢で、神すら怖れないような存在よ」

「………」


 真っ先に頭に浮かぶ人物が、一人だけいる。

 その沈黙だけで十分伝わったようで、エメラーダが頷く。

 彼女もアンシュラオンの記憶を見ているので『あの女性』のことはすぐにわかるのだ。


「じゃあ、姉ちゃんがオレに封印を仕掛けたの? なんで?」

「わからないわ。でも、かなり強い術式よ。迂闊に触れるとまた反撃されそうだから、明日また来なさい。準備を万端にしてから、あなたの封印の一部を解くわ。それで術が使えるようになるはずよ」

「えと…どういう流れでそうなったの? 急に協力的になったけど、どうして?」

「それも明日話すわ。私の正体も話してあげる。だから一つだけ約束して。あなたは世界を滅ぼさないでちょうだい」

「いやいや、そんなことしないって。というか、できないでしょ?」

「約束は?」

「…わかったよ。約束するよ。そんなんで協力してくれるなら安いものだけど…なんか居心地悪いな」


 機械のリミッターを外しに来たのに、なぜか自分のリミッター解除の話になる。

 しかも術式戦闘でボロ負けだ。専門外とはいえ、若干ショックである。

 そうして釈然としないまま今日はお開きとなるのであった。



 翌日。



 黄金女学園の扉を開けて入ると、肌も見えないほど全身に煌びやかな装飾品を身に付けたエメラーダがいた。

 宝石まみれのエジプトの女王みたいで、ものすごく怪しい。


「あの…どうすればいいのかな?」

「そこに座っていればいいわ。ただ、その前に少し話をしましょう」

「知識を与えてくれるのならば、むしろありがたいね」

「あなたは異星からの転生者ね。『異邦人』とも呼ばれるけれど」

「…そこまでわかるんだ。お姉さんは何者なの?」

「あなたの能力で私の情報は見える?」

「今は見えない。全部『?』だ」

「でしょうね。その能力は完全ではないのよ。もともと『透視』や『解析』系の能力は術式の一種だもの。こうやって『妨害』してしまえば簡単に防げるわ」

「前にその経験があるよ。術符で作られた包帯みたいなものがあって、情報が見れなかったんだ」

「それだけじゃないわ。こんなこともできるのよ。もう一度見てみて」

「っ!! 名前が…変わった?」

「ふふふ、ダミー情報よ」

「これは…教えてもらってよかったよ。わかってはいたけど、絶対じゃないんだね」

「上位の術者はこうして身分を偽ることが多いから、注意しないと騙されてしまうわ。ちなみに私があなたに見せていたものも、名前以外はダミーよ」

「じゃあ、『人造人間』ってやつも?」

「そうね。ただ、半分は正解よ。私は特異な因子を保存するために生み出された人間なの。あなたの知識にあった『クローン』と同じような存在ね。保存用の複製体と呼んでもいいわ」

「クローンと因子の保存か。まるでマングラスみたいだね」

「それはそうよ。だって彼らの技術は【私が管理していたもの】だもの」

「…え? それってまさか…」

「最初から話そうかしら。この都市の地下に遺跡があるのは知っている?」

「収監砦にいた時に見たよ。マングラスの聖域もそこにあったね」

「私があの遺跡の本当の管理人なの。私たちメラキ〈知者〉には、そういった役割が与えられているのよ」

「なるほど。だから秘匿性が異様に高かったんだ。じゃあ昨日、盗人って言ったことは…」

「ええ、今は『傀儡士』と呼ばれているらしいけど、彼が私から技術を盗んだのよ。複製体の技術も因子の技術もね」

「女性にこれを訊くのは気が引けるけど、お姉さんって何歳なの?」

「さて、何歳かしらね。何度か媒体を更新しているから忘れたわ。ただ、私を造ったのは【赤の賢者様】よ。【赤賢人《あかけんじん》】とも呼ばれているわ。正確に言えば、赤賢人の一番弟子である『賢影のエメルダーナ』のコピー体が私ね」

「その賢人とは?」

「やっぱり、あなたにはギアスも通じないのね。昔は賢人という言葉自体に『言論統制〈スペル・ギアス〉』がかかっていたの。それが弱まったならば、そろそろ時代に大きな変化が訪れる兆候かしらね」

「言葉自体にギアスがかけられるの?」

「星そのものを包む強大な術式よ。人間には不可能ね。でも、それが可能な存在もいるわ。…まあ、この話はいいわ。話が大きすぎるもの」

「そういえば『白賢人《しろけんじん》』がうんたら言ってたけど、お仲間なの?」

「元は同門だったけれど、今は分裂してしまっているわ。各派閥がそれぞれに得意分野を研究維持しつつ、不干渉を貫いている関係ね。時には協力したり、時には争うこともあるから注意が必要よ」

「オレが白いから、そう思ったの?」

「…あなたと私に『似た感覚』を覚えたからよ」

「オレも造られた存在ってこと? …グマシカも似たようなことを言っていたな。最初から強く作られた、みたいな」

「そもそも魔人自体が人工的な存在なのよ。魔人は一つのシステム、【賢人の遺産】だもの。あれは因子改造によって生まれたの。因子を専門に研究する赤賢人様の手によってね。赤に連なる私がここを管理しているのは、そういった関連性もあるわ」

「ふーん、そうなんだ」

「あまり驚かないのね」

「容器にはあまり興味がないんだ。何事も中身が重要だからね。もともと転生者ってこともあるけど」

「ふふふ、そうね。ただ、あなたの場合は中身も問題ね」

「変質者みたいに言わないでほしいな。これでも常識人のつもりなんだけど」

「そういう表面的なものではないわ。あなたの内面の奥…その先にあるものは、もっともっと深くて怖いものだった。表面をなぞっただけで、私が分解消滅してしまうほどにね」

「昨日の状態は何なの? 何があったの?」

「あなたの霊的な要素、潜在意識の部分には強力な封印が施されていたわ。前世の記憶程度なら見られるけれど、さらに奥の情報を見ようとしたら―――消されたわ」

「お姉さんは生きているけど?」

「侵入させたのは『分体』よ。私は因子を管理保存する能力があるから、人格や記憶領域を複数持っているの。その一つが壊れただけ。それだけでも大きな損害だけど、消失を免れただけ運が良かったわね」

「まるでパソコンのハードディスクみたいだね。で、マングラスとは具体的にどこまで関わっていたの?」

「彼らだけじゃないわ。この都市に残っている人間の祖先とも付き合いがあったのよ。そうね…もう千年以上前だけど、どこからか移民団がやってきたの。かなり弱っていたから、国を失ったか追われていたのね。それで下手に放置して遺跡を荒らされたら困るから、私がしばらく面倒を見てあげていたのよ。ふふふ、懐かしいわね」

「でも、盗まれたんだよね? さすが領主の先祖だ。恩知らずなやつらだよ」

「あの子は例外。【天才】だったわ。だからついつい傀儡の術も教えたんだけど、それ以上のものまで奪っていったわ。ほんと、たいした子よ。今では遺跡の制御システムもあの子が握っているはずよ。まあ、本物の管理人じゃないから、全部は掌握できないでしょうけどね」


 賢者の石である『スパイラル・エメラルド〈生命の螺旋〉』もまた、エメラーダが管理していたものである。

 それを奪おうとした傀儡士であったが、あの聖域にいた姉が野心を悟り、先に融合を果たすことになる。

 これもまたこの都市に残る伝説の一幕であり、紛れもなく真実である。


「一度目は、あの子が災厄を引き起こしたのよ。いろいろと悪さもしたからね。賢人の遺産を悪用すると危ないってわかっていたのに…いたずらっ子よね」

「お姉さんはそれでいいの? 権限を取り戻したいんじゃないの?」

「これ以上、悪用されなければ問題はないわ。代わりに管理してもらえるのならば楽だしね」

「オレから見ると、けっこう悪用しているような気がするけどね。この都市を牛耳っているよね」

「その程度、悪用のうちに入らないわ。あの子も一回しくじって、少しは反省したんじゃないかしら。あれからはおとなしいもの」

「寛容というかなんというか…そう思えるのがすごいね。あれ? 三百年前に大災厄が起きたんだよね? あれも傀儡士のせい?」

「あれは違うみたいね。詳細はよくわからないわ」

「お姉さんでも知らないことがあるんだね」

「あの時は特殊な事例だったみたいね。…あなたは魔人について、どれだけ知っているのかしら?」

「ほとんど何も。姉ちゃんが『災厄の魔人』の異名を持っていることくらいで、今お姉さんが言ったことは全部初耳だよ。グマシカがちょろっと何か言ってたけど、よくわからなかったしね」

「すでに言ったけれど、『魔人制度』は一つのシステムなの。設定された危険度をオーバーしたら、自動的に生成されるようになっているわ。免疫機能の白血球と同じことよ」

「異質なものに対する抗体だね。…ん? そうなると異常なのは人間のほうなのかな? 罰的なことをグマシカが言っていたけど」

「単純な罪と罰の話ではないわね。【循環と進化の問題】よ」

「それはまた複雑だ」

「この星の事情は特殊なのよ。一般的な惑星とは進化の具合が異なるから悪感情が溜まりやすく、さらに具現化しやすいの。放っておけば無知な人間の愚かしい行動によって、生物が住めない場所になるわ。だから私たち賢人の一派、メラキ〈知者〉が必要になるのよ」

「知者…か。世界の中枢を知る者たちって意味だね。納得だ」

「それにも驚かないのね」

「オレがいた星、地球でもそういうやつらはいたしね。人類は全体の1%の人間が管理しているのは常識さ。それが正しいかはともかく、牛耳っている連中がいるのは事実だ」

「私たちの役割は、あくまで人間が正しい進化を遂げることよ。強すぎる力を間違えて使わないように、時期が来るまで管理しておくだけ。それが傲慢なのも知っているけれど、知者でなければできないことだわ」

「で、魔人は勝手に生まれるの?」

「『魔人種』と私たちは呼んでいるけれど、これは人間の因子の一つなの。亜種と言っていいかはわからないけど、人間の因子の中に植え付けられているのよ」

「人類全員?」

「厳密に言えば全員ではないわ。今から一万年以上前に、人類は一度滅びかかったの。その時にストッパーの一つとして生まれたのが魔人ね。もともとは【種が生存するための抗体】だったのよ。悪性を排除するための…ね」

「面白い話だね。そうなると、誰でも魔人になる可能性はあるってことだよね?」

「理論的にはね。でも、まず無理ね。それに相応しい肉体がなければ、魔人因子が覚醒しても自壊しちゃうわ。あなたが使役した戦罪者たち、下位の魔人もどきみたいにね」

「うーん、なんだかウィルス保持者みたいで嫌だな」

「あながち間違ってはいないわ。人は感化される生き物だもの。それによって進化できるのは強みよ。それが動物と人間の違いね」

「まあ、姉ちゃんが魔人ならオレも魔人なのは仕方ないかもね。それは認めるよ。なら、オレは誰に造られたの? あんたらの誰かが造ったの?」

「さぁ、わからないわ。ただ、白賢人は【肉体改造】を得意としているから、その一派かと思ったのよ」

「なるほど、白いしね。じゃあ、姉ちゃんもオレも、そいつらに…」

「違うわ」

「えええ!? そういう話だったじゃん!!」

「最初はそうだと思っただけよ。でも、違う。今までの魔人ならばその可能性もあっただろうけど、あなたの内面を見て違うと確信したわ。もっともっと【大きな意思】を感じるもの。もっと言えば、野望…あるいは野心ね。何か大きなことが裏で動いているのよ。私程度じゃ手に負えないレベルでね」

「そっちのほうが、もっとやばそうだけどね。普通に考えて、もしオレや姉ちゃんを造った存在がいるとすれば、もはやそれは【神】だよ。星の守護者たる女神様じゃないとすれば、話はさらに危なくなる」

「心当たりはあるわ…信じたくはないけど。いや、信じられないと言ったほうが
正しいかしら」

「問題は手段より【目的】じゃないかな? 何か嫌な感じだな。操られているようで気分が悪い」

「そうね。だから、あなたには力が必要だわ。今のままでは、あまりに無防備すぎるもの。それで暴走されたら困るわ」

「これでも相当警戒しているけど…うん、そうだよね。術式に対してまったく無防備なのは痛感したよ」

「まずはあなた自身が強くなること。今よりも、もっともっと。そうでなければ、あんなものと対峙できるわけがないわ」

「姉ちゃんのこと?」

「それもあるけれど、もしすべてが因果の流れの中にあるのならば、これからもっと危ないことが起きるわ。誰かがそれを意図しているのだとしたら、ね」

「姉ちゃんだけじゃないってことか…。なるほど、それならば回りくどいやり方をしていることにも納得がいくな。でも、オレは自分のこと以外はあまり興味ないよ。今だってオレが愛する女性たちのことしか考えていないからね」

「それでいいのよ。あなたが他者を愛することができる人間ならば、それは価値あることよ。もしかしたら、それが鍵なのかもしれないわ」

「お姉さんの急な変化にまだついていけない…」

「あとでパンツちょうだい」

「やっぱりそのままでいてください」

「では、これからあなたの封印を解くわ。解くのはあくまで、あなたにかけられている術士の因子を阻害するリミッターだけよ。また潜るけど、私を信頼できるかしら?」

「信頼もなにも…もう負けてるからね。好きにしていいよ。それに術士の因子が戻れば傀儡士のこともわかりそうだしね」

「そうね。もしあの子と戦うのならば、強力な武器になるでしょうね。でも、簡単にはいかないわよ。だって、私の弟子だもの」

「いろいろ盗まれたのに、あんまり嫌ってはいないんだね」

「人の世に生きる者は、儚い者。だからこそ間違えるし、情熱も吐き出す。それは私たちメラキが失った感情の一つなの。何かに夢中になれるだけ、まだあの子のほうが人間らしいわ」


 エメラーダの表情は、達観した老人のようであった。

 実際に何千年も生きているのだろうから、それも仕方がないだろうか。


 その後、エメラーダはあらゆる術具に加え、支配者たちが生み出した『呪具』や『魔具』と呼ばれる上位の道具を使い、アンシュラオンの封印の一つを解除することに成功する。

 終わった頃には、身に付けていた宝石がすべて粉々に砕けていたので、いかに激しい作業であったかがうかがえる。

 そして、それによって術士の因子が本来の力を発揮し始めた。



 その日から―――世界が変わった



 見るものすべてが、まったく違う様相を呈していたのである。




622話 「花開く法則の世界」


「ふぅ…疲れた」


 身に付けた術具がすべて破壊され、薄着一枚になったエメラーダが机に突っ伏す。


「終わったの?」

「ええ、あなたの封印は解除されたわ」

「…特に何も変化はないけど?」

「私が保護膜を張ったの。今まで封じられていたのよ。いきなり解放したら目がおかしくなっちゃうわ」

「まあ、海に入るときも準備運動はするしね。解いた封印は一つだけだよね? 全部でいくつあるの?」

「私が把握したのは四つね。その中の一つを解いたの。強い封印術式は最大級で『五つ』か『六つ』の封印で成り立つから、それ以外にもあと一つか二つはありそうね。ただ、詳しいことはわからないわ。近寄れないほどの暗黒が奥に広がっていたもの」

「暗黒って…そんなこと言われたら怖くなるよ」

「事実だもの。仕方ないわ」

「そもそもさ、どうして封印なんてされたのかな? そんなにやばかったの?」

「簡単な話よ。着実にゆっくり【育てようとした】のでしょうね。どんなに強い力も使いこなせなければ意味はないもの。この術の封印も、あなたがその時期になれば解かれた可能性は高いと思うわ」

「うーん、逆に言えば、姉ちゃんからすればオレはまだ赤子同然ってことか。いやいや、べつにあんな化け物になりたいとは思わないけどね」

「あなたはそうでも、彼女はそう思っていないのよ」

「まったくもって迷惑な話だよ。それで、これからどうすればいいの?」

「そうね…。あなたの術士因子は現状でもかなり高いわ。人間が到達できる中でも上位レベルよ。でも、術の経験はないのよね?」

「まったくないね。教えてもらえなかったし」

「それなら、まずはこれね」


 辞書のように分厚い本が六冊、どさっと机に置かれた。


「本?」

「術式の基礎を学ぶ書物よ。基礎とはいっても、お店では売られていない貴重なものね。術式も武術も学び方は同じ。師匠が弟子に伝達するの。だから『錬金術師』なのよ」


 言葉の話になるが、同じ「じゅつし」でも「術師」と「術士」があり、「師=教え導く」が付くかどうかで意味合いが変わってくる。

 錬金術師も名前の通り、弟子に伝達することで技術を後世まで残すことが目的の一つとなっているのだ。


「そうなると、オレはお姉さんの【弟子】になるの?」

「術式は『理《ことわり》』に干渉する危ない技術よ。弟子以外に教えることはできないわ。当然そうなるわね」

「たしかに。悪用される危険性があるよね。だから武人の道場とかも少ないんだろうね」

「あなただって陽禅公に選ばれたのよ。ちょっと人柄に問題があるけど、歴代最強と呼ばれる覇王の弟子であるだけすごいことね」

「いまいちあのハゲのじいさんが、そんなにすごいとは思えないんだよね…。というかオレの師匠になる人は、だいたい変な人が多いな」

「失礼ね。メラキの継承は一子相伝なんだから、ありがたいと思いなさい」

「術式の教授はありがたいけど、そのメラキの役目はオレには関係ないよね? あんな領主を見守るなんて最悪の罰ゲームだよ」

「じゃあ、子作りでもする? 精子を提供してくれれば試験管で…」

「お断りいたします。それなら普通に作ったほうがいいじゃん」

「私の身体は特殊な造りだから、子供を産むようには出来ていないのよ。卵子なら提供できるかもしれないけど、あまり適していないと思うわ。使わない機能は廃れるのが自然の摂理だもの」

「男の場合でもそうなの?」

「そうね。所詮は複製体。限界はあるわ」


(マングラスが、バイラルに精子の提供を迫った理由がそれか。エメラーダの技術があれば、クローンベビーを生み出すことも可能なのだろう。いや、グマシカたちを見ていれば、それを改良した『デザイナーベビー』を造っている可能性も高いな。だから精子と卵子の確保のために、定期的に人間を入手しているんだ)


 以前ファレアスティと初めて出会った時、グマシカたちが毎年何十人にも及ぶ人間を確保していると言っていた。

 公然の秘密でこれだけの量なので、裏ではもっと仕入れているかもしれない。

 その人間たちは、おそらく実験材料に使われるのだろう。単なる精子や卵子の提供だけで済めば特に被害はないが、青劉隊のように素養があれば改造される者もいるはずだ。

 特に傀儡士の人間性を考えると最悪のことも考えてしまう。


(ミャンメイが心配だな。早めに救出しなければ)


「ねぇ、お姉さんならマングラスの聖域の入り方を知ってるよね? 案内してもらえるかな。助けたい子がいるんだ」

「あなたの記憶領域で見た子ね。だいたいの事情は把握しているわ」

「頭を覗かれるのは気持ち悪いけど、話が早くていいね」

「でも、無理よ。さっきも言ったけれど、今の遺跡の管理システムはあの子が握っているもの」

「抜け穴くらいはあるんじゃない? 本物の管理者にしか使えないパスコードとかさ」

「………」

「あるんだね」

「あるけど、あなたの目的には使えないわね。その場所はあの子たちが自ら造ったものであって、私が管理していたのはもっと下のものだもの」

「マングラスの聖域が遺跡の中枢じゃないってこと?」

「ええ、あんなものは単なる因子の保存庫に過ぎないわ。『箱舟』と呼んでいるようだけど、せいぜい千年単位の種の移ろいを記録したものよ。たいしたものじゃないわね」

「なるほど、価値観そのものが違うんだね。賢人たちって、そんなに古くからいるの?」

「厳密に言えば、賢人という言葉は『一つのもの』を指すの。それはこの星が再生される前からずっとあった『叡智そのもの』だけれど、そこから知識を受けた人間が賢者となっていったの。実際に赤賢人様が人間として地上にいた時間は、数千年前ってところね」

「魔人を生み出した話と時期が食い違うね」

「そのあたりは一般人には理解できないわ。再生とも転生とも違う『概念』と『思想』のお話だもの。でも、概念は空想上のものではなく、実体を持った存在なの。賢人という『概念』はしっかりと存在していて、【旧時代】から活動しているわ」

「霊的な話と同じか。そりゃ難しいね」


 「赤賢人が魔人因子を作った」と聞くと、研究室で誰かが実験しているイメージを思い浮かべるだろうが、【創造】の世界はそんなに小さなものではない。

 この世界にもともと無かったもの、あるいは眠っていた概念を生み出すのだ。恐るべき力と叡智がなくては不可能である。

 それほどのものが一個体の人間に実現可能なわけがないので、あくまで言葉にするとそうなる、としか言いようがない。世界は常に創造の道を歩んでいるのである。

 霊的な話もこれと同じで、精神世界や霊的世界の事象を言葉で表すのは難しいものだ。

 だが、存在する以上は認めて受け入れねば話が進まない。


「あの子たちの世代が造ったものに関しては、私はノータッチ。聖域を守ることが遺跡の中枢を守ることにつながるのなら、お互いの利益になるってことね」

「傀儡士が、さらに地下に潜ることはないの?」

「ないわ」

「その根拠は?」

「これもすでに言ったけど、あの子が『人間』だからよ。【人の理】の中で生きている者には無用で無縁の代物ね」

「うーん、気になるような気にならないような…」

「魔人因子という意味で、あなたには多少関連はあるけれど、もう不要になって廃れたものよ。触れないほうがいいわね」

「でも、監視は必要なんだね」

「いつの時代か、それが役立つ日が来るかもしれない。でも、今は役立たずで邪魔にしかならないのよ。かといって勝手に持っていかれたら困るものなの。あの子たちが使っている『玩具』くらいは好きにしていいけどね」


 地球でいえば、高レベル放射性廃棄物のようなものだ。

 さまざまな実験が繰り返されて有用なものも見つかったが、その反面、現在の技術では対処できない危険なものも生み出されてしまった。

 それを封印しているのが地下の遺跡。

 たとえば一般人が、ガラス固化体となった廃棄物を掘り出したところで、いったいどうするというのだろうか。

 何かに使う技術がなければ、単なる置物である。邪魔でしかなく、放置するか結局再び地下に埋めるしかなくなる。


「そういう遺跡は、いろいろな場所にあるの?」

「人類の歴史もそこそこ長いから世界中にあるわ。程度の差はあるけれど、危ない場所にはだいたいメラキがいて守っているの。特に東大陸は『かつての中心地』だったから遺跡はかなり多いほうね」

「サナのペンダントトップも遺跡から見つけたものとか言ってたな。メラキがいなければ勝手に漁ってもいいんだよね?」

「ええ、かまわないわ。どうせガラクタばかりだもの。…まあ、メラキを駆逐して貴重な遺物を集めている不届き者もいるそうだけどね」

「駆逐? …それってもしかして、あいつらのことかな? 【救済者】だっけ? 危ないカルト団体だよね。クロスライルに提出させた資料で見たよ。各地で遺跡の盗掘を繰り返して戦力を増しているみたいだ」

「そんな名前だったかしら。ほんと、荒んだ時代になったものね」

「他のメラキとは交流があるの?」

「少しはね。ただ、秘匿性が高い担当者ほど、あまり連絡は取らないわ。場合によっては、その場所に住む人間たちと交わって、見分けがつかないほど順化していることもあるわね」

「やつらにメラキを駆逐できるだけの力があることが問題かも。オレがお姉さんに負けたように、メラキって強そうだしね」

「メラキ全員が強いわけじゃないわ。あくまで知識を持つ者だから戦闘は苦手。大半が一般人と大差ないから簡単に殺せる者も多いわよ。私のように強い術者もいるけれど数は少ないわね」

「…そっか。順化するのも身を守るためなんだね。メラキも大変だ」

「だから、あなたのようなボディーガードが必要なのよ」

「え? オレってそんなこともするの?」

「あなたは弟子で、私は師匠よ」

「そりゃまあ、そう言われるとつらいんだけどね。サリータにも偉そうに命令してるし…」

「紙、見た?」

「紙? 何の話?」

「それ」


 エメラーダが「基礎から学ぶ術式の世界 第一巻」を指差す。

 そこには一枚の紙が挟まれていた。

 嫌な予感がしながら、そっと抜き出してみると―――


「…ん? …え?」

「ボディーガードが嫌だったら、全額払ってね」

「………」

「安いものよね」

「あの……何これ?」

「何事もタダじゃないのよ。封印解除に使った術具は壊れちゃったし、貴重な呪具や魔具も使ったのだもの。それでも格安にしておいたわ。感謝してね」

「おかしいな。カンマがない」

「全額【3825億円】となります」

「………」

「一括払いでお願いね」


 エメラーダが笑う。

 とても嫌な顔で笑っている。

 よく自分がやる類の笑顔だが、他人にやられると最悪の気分だ。


「ぼったくりじゃん!! 高すぎる!」

「『破邪』関連の術具は貴重なの。人間の社会では滅多に手に入らないものばかりよ」

「破邪って…オレにかけられていたものは『呪い』なの?」

「似たようなものね。怨念というか妄執というか、とても強烈なものだったわ。下手をしたらこちらが死ぬかもしれないのだから、当然の対価よ」

「普通はいくらかかると事前に教えるよね? 同意はしてないけど…」

「じゃあ、スレイブ・ギアスは諦めなさい」

「それは…うーん。でも、額が酷いよ。この都市の年間事業費を超えてるよね? 発展具合からすると、せいぜい百億でしょ」

「新規事業に力を入れていないから、そんなものかもしれないわね。今年はあなたが暴れたから、もっとかさんだかもしれないけど」

「グラス・ギースの約四十年分の予算…ぼったくりだ……」


 この値段は、主に領主が都市開発にかける公的事業費、土地の開墾、維持費、人件費、建築物の補修や建て直しその他、都市管理で運用される資金のことだ。

 土地は領主の管轄なので、ディングラスが保有する商会の収益及び、各派閥からの上納金の中から予算が算出されている。

 百億と聞けば大金に思えるものの、日本の大きめの都市では「環境整備費」や「港湾整備費」で百億を超える地域もあるので、国家レベルで考えれば微々たるものといえるだろう。

 しかも最近はDBDから武器を買っているため資金は常時枯渇気味で、年々都市開発にかける金が減っている状況だ。


「踏み倒したりしたら、どうなるの?」

「そういう不届き者の情報は、瞬く間に全世界のメラキに伝達されるわね」

「お姉さんが告げ口するんでしょ?」

「近くにいるメラキは特殊な事例を除いて、誰か死ぬとすぐにわかるシステムが導入されているのよ。互いに監視し合っていないと危険だものね。私を殺しても他のメラキ全員が敵になるわよ。世界規模でね」

「知者たちからハブられるってことか。一般の連中相手なら気にしないけど、こっちはやばそうだな。静かに暮らすことが最大の目的だしね。敵を作らないことが一番だ」


 武力が通じるマフィア相手ならば、いくら恨まれても怖くはないが、メラキは特殊な能力や術具を有する存在である。

 知らないところで何か仕掛けられると困るし、味方にすれば便利で貴重な存在であるため、無駄に敵にする必要はない。

 が、あまりに高すぎる。

 ソブカから毎年二十四億手に入っても全然足りない。


「なんとかならないでしょうか」


 こうなれば必殺の土下座である。

 むさ苦しい男にならば絶対にしないが、相手が綺麗な女性ならば我慢できる。

 ここはプライドを捨てて譲歩を引き出すしかない(パンツは死守)


「条件が二つ。一つは術関連の修練については、私の指導の下で行うこと。許可が出るまで自分で能力の開発をしてはいけないわ。他人に教える場合も同じね。どこまで教えていいかも私が決める。いい?」

「そこは問題ないよ。自己流は怖いってことでしょう?」

「そうよ。戦気だって暴発することがあるけど、術式の場合はもっと周囲に大きなダメージをもたらすからね。術式崩壊が起これば、その場にいる人間はほぼ即死ね」

「爆発と原理は一緒かな?」

「そんなものね。崩壊した理を修復するために、さらに大きな自然の理が発動するの。その過程で爆発や消失に似た現象が起こって、巻き込まれて死んだ術士は大勢いるわね。大規模なものならば都市ごと吹っ飛ぶわ。物理面だけでも被害は酷いけど、他の側面にもダメージを与えるから損害は甚大よ」

「わかった。師に従うよ。うっかり事故が起きたら最悪だしね。もう一つは? ボディーガードの件?」

「意味合いは同じね。この都市の子がもし何か大きなことをしでかしても、見逃してあげてちょうだい」

「ん? どういうこと?」

「マフィア同士の抗争くらいならいいわ。あなたがマングラスと揉めてもかまわない。でも、都市そのものを破壊するようなことはやめてほしいの。それは私の身の安全にも関わることだし、遺跡の監視者として見過ごせないわ」

「それはそうだね。逆説的にいえば、壊れないように守れって意味?」

「そこまでは求めないわ。ただ、この都市の子たちは、私の子供のようなもの。せっかく発展してきたのだから人の手に任せておきたいのよ。仮に滅びるのならば、彼ら自身が愚かだっただけのこと。それもまた人の移ろいよ」

「まるでオレが人じゃないみたいな発言だけど…」

「今は半々かしら? それも今後のあなた次第ね」

「…わかったよ。マングラスの出方次第だけど、自分から積極的に破壊するようなことはしないさ。オレも自分の食い扶持を減らすような真似はしたくないしね。それを守れば、ちゃんとジュエルに術式を刻む方法とかも教えてくれるんだよね?」

「ええ、もちろんよ。『錬成』まで使えるようにしてみせるわ」

「それは楽しみだ。自分でいろいろ作れるようになったら便利だよね」

「では、契約成立ね。ちゃんと書類にサインしてもらうから。はい、ここに名前書いてね」

「この書類…絶対術式かかってるよね?」

「当然ね。最後にちゃんと血判も押すのよ。それで呪詛がかかるから」

「…不安しかない」


 大丈夫だとは思うが、怖いので書類内容に目を通す。

 そこには簡潔に「両名は師弟関係を結ぶ」とあった。


「あぶると文字が浮き出る仕掛けは?」

「そんなチャチなものは仕掛けないわ。書いてあることが事実よ」

「逆にシンプルすぎて怖いんだよな。弟子の権利とか人権とかも追加してよ」

「あってもなくても変わらないでしょ。そんなものは」


 すごい発言である。権利権利と騒ぎ立てる圧力団体の皆様方への説法をお願いしたいものだ。


「しょうがない。覚悟を決めるか。術を習うほうが優先だ」


 もし何かあれば、それを口実に借金を踏み倒せるので、お互いにリスクを受け入れることにする。


 それによって―――【契約】


 両者は術式の絆で結ばれることになった。


(せっかく金を手に入れて悠々自適と思っていたのに、いきなり負債を背負うなんて最悪だ。気が滅入るよ。だが、これだけの知識を持った人間とコネクションを築けたのは大きいな)


 ただの知識人ではない。世界の中枢の一部を知る本物の「支配者層」だ。

 情報を知る者こそ一番強い。彼女の存在は今後も役立ってくれるはずだ。


「そうだ。最後に一つ、気になっていたことがあるんだ」

「何?」

「グマシカが『災厄の魔人は一人しかいない』と言ってたけど、どういう意味? そもそも【災厄の魔人と魔人種の違い】は何なの?」

「定義でいえば、災厄の魔人は魔人種の最上位。その時代で魔人因子を一番覚醒させた者に付けられる異名ね。そして、その者だけに【災厄を起こす力】が与えられると聞くわ。今のところ、あなたの姉である可能性が極めて高いわね」

「じゃあ、どうしてグマシカたちは、オレを災厄の魔人だと誤認するの? あいつの言葉からは妙な確信を感じるんだよね。初対面なんだから、そう思うほうがおかしいはずなんだけど…もしかして情報とか見られてるのかな?」

「あなたの情報もプロテクトされているから、一定のレベル以上でないと見抜けないと思うわ。私は『ダイブ』して直接情報を参照したからわかるけど、魔人種であることはわかっても災厄の魔人であるかを見抜くのは難しいわね」

「うーん、そっか。やっぱりあいつの勘違いかな。まぁ、オレにはどうでもいいことだけどね。好き勝手暮らせれば、それでいいし」

「………」


(災厄の魔人は、姉のパミエルキという人物。記憶を覗いた限りではそう。でも、本当に記憶がすべて正しいとは限らない。【記憶を操作する術式】だってあるわ。あの子たちがそう思うのならば、それなりの確信と根拠があるはずよ)


 大災厄は、今までと規模が違った。

 この緑溢れる広大な大地が、七日間でほぼ壊滅したのだ。火怨山の魔獣でさえ巣穴に引きこもって動かなかったほどだ。

 唯一覚えているのは、【天竜】が見回りに来ていたこと。

 ゼブラエスでさえ倒せないどころか、満足に傷を与えられない『天災級』と呼ばれる規格外の生物が【三体】も出現したのだ。

 それだけでメラキたちは、事の重大さを知るものである。


(天竜は『世界の監視者』。『魔人』や『蛇』と同じく、世界の理と深い関わりを持つ存在。…妙な胸騒ぎがする。次の災厄は、もっと酷いことになりそうな予感がするわ。そのためにも彼から目を離すわけにはいかない)


 アンシュラオンは、それ自体が宝石。

 輝く光に導かれ集う者。

 移ろう輝きに危うさを感じて、見守る者、監視する者。

 幸か不幸か、さまざまな者たちが自然と集まっていくのであった。




 エメラーダと別れて、今日は終わった。




 戻ってからはサナたちとの交流もそこそこに、借りた術式の書籍を夜通し読み耽る。

 術式の書籍は、それ自体が術式で出来ているから面白かった。

 単に文字で書かれているわけではなく、一見すれば白紙のページが並ぶ謎の本なのだが、術士の因子が覚醒していると理解できるようになるのだ。

 アンシュラオンは契約の際、読解のための文字コードをエメラーダから移植されていたため、それを参照して少しずつ読んでいく。

 これがなければ、どんなに素養があっても解読できない二重のロック付きである。

 さらにコードにも制限がかけられているため、いきなり後半から読んだり、読み飛ばしたりすることはできなくなっていた。

 一つ一つの公式を理解して、それから応用問題に挑むように、一歩ずつ進んでいくように作られているのだ。

 術式も武術も同じ。

 エメラーダが語った言葉は真実だ。

 自分がサナたちに対して、無理をさせずに少しずつ教え込んでいくように、まずは基礎。ひたすら基礎を身に付けることが肝要なのである。



 ただし、一つだけ他者と異なることがあった。



 変化が起きたのは翌朝。

 気分転換に屋上に出て、空を見上げた時だ。


「あれ…? 目がおかしくなったのかな?」


 思わず目をこすってみるが、開いた目は同じ光景を何度も映し出す。


 世界が―――輝いている


 画像編集ソフトで彩度を一気に上げた時のように、世界の色合いが変化した。

 まず見えたのが、空に広がる緑色の膜のようなもの。これは城壁に張られた防護結界であり、今までも多少ながら視認できたものだ。

 それが細部まではっきりと見えているだけにとどまらず、なにやら【数式】のようなものまで見える。

 言葉で表現するのが難しいが、パズルのような数式がしっかりと見えるのだ。さらに目を凝らすと、内部でも違う複雑な方程式が見て取れた。

 すでに科学が証明していることであるが、人間の身体一つ、そこらにある物質一つにしても、構成している元素が存在し、原子、分子、中性子、陽子、電子と、挙げればきりがないほど細かい要素で成り立っている。

 人間には物質が固く感じられるが、実際はスカスカなのである。その中には、目に見えない『本質』が躍動しているが、肉眼で見ることは不可能だ。


 そして、これらの事象すべてが【自然法則】によって管理され、維持されている。


 人間が奇跡や神秘と呼んでいる現象すら、自然法則の範囲の中で起こっているものだ。

 ただ単に人間の知識不足によって、それが奇跡的に見えるだけにすぎない。

 術士とは、そうした『自然の理《ことわり》』を実際に目で見て感じ取り、干渉することで任意の事象を引き起こす存在を指す。

 それもまた干渉するための法則が存在するので、この世界あるいは宇宙は、幾多の無限ともいえる法則が絡み合い、維持されているといえるだろう。

 今度は空だけではなく、周囲の物体を見てみるが、やはり同様の現象が起こる。

 その結果―――


「目がチカチカして気持ち悪い…頭が痛くなる」


 見るものすべてが数式に変化するのだ。これは生物を見ても同じなので、たまったものではない。

 仕舞いには、周囲にさまざまな色合いの粒子がまとわり付いてくる始末。視界が制限されて何も手が付かない。


 すぐにエメラーダのところに赴き、相談すると―――


「才能がありすぎるのも困るわね」


 と、笑われた。

 この現象は術士には稀に起きるもので、サナが引き起こしたグランド・リズリーン〈偉大因子共鳴〉に近いものらしい。

 一気に術士因子が覚醒したので、感覚が敏感になりすぎたようだ。それもまた才覚がなければできないことである。

 また、周囲にまとわり付く粒子は、原始精霊の一種とのこと。

 覚えているだろうか。プライリーラと戦った時、彼女とギロードの周囲に風の原始精霊が集まっていたが、それと同じことが自分に起きているのだ。

 当然ながら集まった精霊は『水色』が多い。

 プライリーラが風に愛されたように、アンシュラオンは水に愛されていた。

 だが、大地が死んで乾燥したグラス・ギースでは非常に珍しいことといえる。


「水の原始精霊がいるのなら、ちょうどいいわ。水玉を作ってごらんなさい」

「水玉…水の術式の基礎術だよね。んと…こうかな」


 アンシュラオンが手の平の上で術式を書き込む。

 いくつかの数字によって構成された方式が完成し、ソフトボール程度の水の塊が生まれた。

 空気中の水分を吸い出して具現化する基礎術で、術士が最初に練習する課題の一つだ。

 水気と違って自らの生体磁気で生み出しているわけではないため、集中力以外の要素は必要ない。(BPは使う)

 がしかし、アンシュラオンの顔に余裕はなかった。


「発動に手間取っているようね」

「数字は苦手なんだ。細かい話になると面倒くさくなる」

「理屈が好きだからといって数式が好きとは限らないものね。では、そうね…ちょっと待ってて」


 エメラーダがアンシュラオンと回線を接続。

 師匠と弟子になった今、専用の回線を開くことができるようになったのだ。あの契約書には、そうした効果があるらしい。


 数秒後―――世界が【花開く】


 至る所に花びらが舞い、豊かな色彩の輝きに満ち溢れた。

 見るものすべてが芸術。生命の光がはっきりと見え、エメラーダが輝いて見える。

 彼女の色合いは緑。

 同じ緑の中でも濃いものや淡いものが絡み合い、独特な風味を表現していた。


「これは…色?」

「数式を色彩に変化させたのよ」

「そんなことしていいの? 術式は壊れない?」

「所詮は認識過程の問題だもの。各人の好きなようにしていいのよ。結果が同じなら何でもいいわ。もう一度やってみて」

「えーと、どうやるのかな?」

「イメージでいいのよ。あなたがそうしたいと思ったことを『表現』してみて」

「アーティストじゃないんだ。そんなに簡単に―――」


 アンシュラオンが、何気なく水玉のイメージを練り上げる。

 それは「ねぇねぇ、水の玉描いて」「こんな感じ?」と子供にせがまれて、適当に紙の上に書き殴るようなもの。


 そんなものでさえ―――具現化


 手の平の上で、先ほどよりも大きく瑞々しく、光輝く水玉が出現する。


「え? こんな簡単でいいの?」

「そのまま維持しながら動かしてごらんなさい」

「動かす? それもイメージ? こう…か?」


 動かすイメージを浮かべると色彩も変化し、水玉の形も変わっていく。

 しばらく続けると自在に動かせるようになった。


「乾かない絵の具みたいだ。これは面白い!!」

「…ふぅ、呆れるほどの処理能力ね。初めてやるにもかかわらず、ほとんど遅延がないわ」

「これって、内部では数式が形成されているんだよね?」

「そうよ。意識すれば見えるわ。自分の意思で見え方は調整できるはずよ」


 言われた通りに視覚にイメージを送ると、色彩からパズルのような数式に変化した。

 単純に色で表現されていても、内部では周囲の法則に手を加えている様子が見て取れる。

 プログラムでいえば、自然法則という基礎エンジンがあり、そこにスクリプトを追加する様子を思い浮かべるとわかりやすい。

 基礎がしっかり出来上がっているから、その数式を利用して別ファイルで任意の現象を上書きしていくのだ。

 エメラーダが言った術式崩壊とは、追加した数式が乱雑もしくは間違っており、負荷が強まることで自然の基礎エンジンが「エラー」を吐き出す事象に似ている。


「なるほどね。やり方はわかったよ。でも、色のほうが綺麗でいいから戻そう。こっちのほうが簡単そうだ」

「それができるのも、あなたの才能があるからよ。それだけ演算処理能力が高いの。おそらく因子管理専用に造られた私と同等か、それ以上ね。現段階でそれだもの。さすがとしか言いようがないわ」


 パソコンや携帯端末で見るデジタルデータも、人間が親しんでいる十進数とは異なり、「0」と「1」の二進数で表現されている。

 このほうが原理が簡単で、電磁機械にとっては処理しやすいのだ。

 ただし、これを可能にするためには膨大な演算速度が求められる。人間の頭脳でちんたら計算していれば、一行の文章を表現するだけでも数分はかかるだろう。

 一般的な術士も自分なりにさまざまに改良するものの、術の発動速度はお世辞にも速いとはいえない。演算処理に時間がかかるからだ。

 だから術士が戦場に出ることは少ない。それならば術符を使えばよい、と考えるのが効率的だ。

 そうやって術士は次第に廃れていったのである。

 だがしかし、高速の演算処理ができればどうだろう?

 それがあればアンシュラオンが今やっているように、数式を感性で、色彩で表現することも可能となる。

 この過程で膨大な処理が行われているが、それを行うだけの回路が存在するのだ。

 
「そのスキルは、あまりに強力ね。噂には聞いたことがあったけれど…怖ろしいわ」


 この世界で姉と弟の二人だけが持っているスキル、『デルタ・ブライト〈完全なる光〉』。

 戦士、剣士、術士の因子を最大限まで、一切のロスなく表現することができる【超越スキル】。

 その力が三つすべて輝いた時、人は【神】になる。

 人類の最終目標とは、【人のまま神になる】ことなのだ。


「白賢人でさえ、『現人神《あらひとがみ》』を生み出すことはできなかった。求めても求めても、けっして届かない人類の最終到達地点。あなたの中には、その胚芽が眠っている。まさに人はミニチュアの神ね。だからこそ白賢人の仕業ではないと確信できるの」

「オレのスキルは、人工的には造れないってこと?」

「今のところはね。自然発生でしか確認されていないから、女神様ならご存知かもしれないけれど…」

「神の領域に手を出すものじゃない。それはオレが学んだ一つの結論さ。人はそれぞれの身の丈に合った生き方でいいんだよ」

「あなたが言うと、なんだか複雑ね。でも、それが真理なのでしょうね」


 こうしてアンシュラオンは、エメラーダの指導の下で急速に術士としての力を覚醒させていった。



 それから、たった三日。



 男子、三日会わざれば刮目して見よ、とは言うが、まさにその通り。

 すでに一通りの術式をマスターし、『錬成』にまで挑戦を始めたのである。

 そして、その最初の実験台として選んだものに誰もが驚いた。





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