欠番覇王の異世界スレイブサーガ トップページ


「欠番覇王の異世界スレイブサーガ」

作者  園島義船



□ 第八章 「壊滅 ホワイト商会」 編


577話 ー 585話




577話 「交錯する陰謀 その6『絶体絶命の女たち』」


「敵です! 攻撃を!」


 自分たち以外は全員敵のホロロたちにとっては、この状況で迷うことなど何一つなかった。

 いつでも放てるように準備していた銃を発射。

 ボンボンッ

 真っ直ぐに飛んでいった爆炎弾が直撃し、JBが炎に包まれる。

 JBはまったくよけるそぶりがなかった。その必要がないからだ。

 当然、何事もなく無傷。


「これは…!」


 その光景にホロロの動きが止まる。

 等級が低いとはいえ裏スレイブたちにも効いていた銃弾である。それがまったく通じないことには驚きを隠せない。

 彼女が優れた状況判断力を持つ女性であっても、やはり戦いにおいては素人である。

 本物の武人を見極める目を持っていなかったため、対応が遅れてしまう。

 他方、彼女と比べて知能は低いが、この場でもっとも戦闘経験があるサリータはすでに動いていた。


「どけええええええ!!」


 ホロロを庇うように前に出ると、突っ込んでいって風斧をJBの頭に打ちつける!

 ブーーンッ! ガンッ

 だが、これも相手の身体に当たった瞬間に止まってしまった。

 戦闘状態ではないのでJBが放出している戦気は微量であるが、それでもダメージを与えることはできなかった。

 むしろ風斧がJBの戦気に浸食され、少しずつ磨耗していくほどだ。もしこれが普通の武器だったならば、叩きつけた瞬間に砕けていたかもしれない。

 JBにはシーバンたちでさえダメージを与えることができなかったことを思えば、これらは至極当然の結果であるといえる。

 そして、こちらの先制攻撃が不発に終われば、敵の反撃を許すことになる。

 シュルルッ ガシッ


「うっ!!」

「ぐあっ!」


 素早く展開された黒紐がホロロとサリータを捕まえ、宙に吊るし上げた。

 その速度はサリータにも見えないほど速かったため、自己の状態を確認するのに数秒かかったほどである。


「くっ! 放せ!!」


 ゴンッ ゴスッ!


「………」


 サリータの振り上げた足がJBの顔面に当たっても、まったくびくともしない。この程度の攻撃では不快感すら感じないようだ。

 その後も二人はじたばたと暴れるものの、人間に捕まった虫のごとく逃れることはできなかった。

 JBは、そんな女性二人をじっと観察する。表面ではなく、その中にある違和感を。


「この感覚…お前たちがホワイトの女だな? わかるぞ。下の連中と同じ臭いがする。…いや、やつらよりも遙かに上質で濃密かつ危険な気配だ。よほど大事にされていると見えるな」


 ホロロたちにはアンシュラオンから与えられた命気が宿されており、それはシーバンたちに付属していた監視用の命気とは格も質も違うものだった。

 戦罪者が宿していた微量の残りカスとも違う、とてもとても上質な命気だ。

 もしJBがホロロたちを絞め殺そうとすれば、命気は確実にこちらに攻撃を仕掛けてくるだろう。だからこそJBも迂闊に動けなかった。

 ここでJBは初めて、ホワイトという存在の危険性を強く認識する。

 彼の中にあるもう一つの意思が激しく反応しているのだ。好意的というよりは【恐怖】や【畏怖】に近い。


(このヒリつく感覚は何だ? エバーマインドすら畏れさせるとは…ネイジアに近い力を持っているのか? C級程度の戦罪者にあそこまで苦戦したのも、その人物の力によるものだ。いったい何者なのだ?)


「サリータさん!! わ、私が…じゅ、銃で…! で、できるんだ。や、やらなきゃ!」


 JBが濃密な魔人の気配に戸惑っている間に覚悟を決めたセノアが、銃を構えて近づいてきた。

 一人殺せば二人殺しても同じ。一度殺しに手を染めた人間は、指が軽くなるのが道理である。

 多少の躊躇いを見せつつも銃口をJBに向ける。

 だが、その行動を即座にサリータが制止。


「やめろ、セノア!! こいつは絶対に勝てない相手だ! お前たちだけで今すぐ逃げろ!!」

「で、でも、逃げるなんて…!! ホロロさんも捕まっているのに!」

「セノア、逃げなさい!! 一人でも多く助かることが重要ですよ! あなたが無事ならば、ご主人様もお許しになられます!」

「ほ、ホロロさんまで…!! わ、私にそんな価値なんて…」

「あなたの考えなど訊いてはいません! 主人の命令にのみ従うのです!」

「お前がラノアを守れ!! 逃げろ!」

「っ…!」


(そ、そうだ。私は守らないと…! ラノアもご主人様の命令も…! それが生きる覚悟なんだ!)


 ラノアという言葉にセノアが正気に戻り、正常な判断力を取り戻す。

 サリータでも敵わない相手に自分が敵うわけがない。ならば逃げるのが得策だろう。

 さらにいえば、ここで重要なのはセノアの意思や考え方ではない。主人であるアンシュラオンの命令だ。

 メイドあるいは従者の本質とは、主人への服従である。だからこそ生命と財産の保証が与えられる。

 その主人の代理であるホロロの指示ならば、セノアはいかなる命令にも従わねばならない。それが絶対序列制度の根幹といえる。


「早く行け!」

「は、はい! ラノア、行くよ!! 足を止めちゃ駄目だからね!」

「う、うん」


 サリータの怒声で意思をはっきりさせたセノアは、妹の手を引っ張って横を走り去ろうとする。

 が、目の前の男がそんな真似を許すわけがない。


「勝手に話を進めることは不快でしかないな。逃げられるはずもなかろう」

「あっ!」


 JBの黒紐がセノアたちの周囲に展開され、一瞬で逃げ道を封じられる。

 紐は細かく分かれて幾重にもなり、まるで蜘蛛の巣のように行く手を遮る。


「いやぁぁあ!」


 パンッ

 驚いたセノアが咄嗟に発砲。込められた貫通弾が黒紐に当たるが、もちろん何の意味も成さない。

 弾丸は黒紐に弾かれて一瞬で爆散する。

 シュルルッ ガシッ

 それからセノアとラノアも黒紐が余裕をもって捕縛。ついでにコソコソと後ろからついていったシャイナも捕縛とあいなった。


「うっ!! は、放して…!」

「ひ、ひぃいい! もう駄目だーーー! おしまいだーー! うぇーん、先生の馬鹿ぁあーーーー!」

「こら、シャイナ! お前が身を犠牲にしてセノアたちを逃がせ!!」

「無理ですよーーー!! こんなの、どうしようもないですって!」

「この役立たずが!!」


 シャイナの弁護をするわけではないが、これは相手が悪すぎた。現状では万に一つも勝ち目はない。



 こうしてホロロ一行は、JBに捕縛されてしまった。

 JBと出会った段階で結果は目に見えていた。こればかりは致し方がないだろう。


「ふん、惰弱という言葉すら使う必要もない。ただの女子供に私がかまうこと自体が不快だ。…さて、どうするか。お前たちに興味があるわけではないが…ワカマツという男の言うように餌として利用するか、それとも殺すか」

「ひぃいい! やっぱり殺されるーーー! 何でもするから助けてくださいーー! な、舐めます! 触手を舐めますからぁ!!」

「やれやれ、人間の本性というものは、いざというときに垣間見れるといわれますが…あなたはやはり最低ですね」


 すでに生殺与奪の権利はJBにあるので、シャイナが錯乱状態に陥るのもわかるが、ホロロの冷たい視線が向けられる。

 まあ、この駄犬に限っていえば、普段から低俗な本性が丸出しではあるのでいまさらなわけだが、紐を舐めて助かろうという発想がすごい。

 人類史において紐を舐めて助けてもらった例がいくつあったのか、ぜひ知りたいものである。


(シャイナを責めてばかりもいられません。この事態は非常にまずいです。これでは失敗とみなされるかもしれません…。ああ、アンシュラオン様の期待に応えられないとは…なんて恥ずかしい。メイド長失格です)


 一方のホロロは、こんな状態に陥っても命を惜しむことはなかった。

 自分の命はすでにアンシュラオンのもの。ならば彼の思惑によって失われることがあっても、それは必要な犠牲なのである。

 むしろ犠牲になることを望むような、敬虔な信徒が持つ一種の自己放棄の神聖さが見て取れた。

 これはアンシュラオンそのものが宗教に近い影響力を持っていることを意味する。


(少しでも動きがあれば自爆するしかない。それで逃げるチャンスが生まれるのならば…)


 サリータは身体を紐に縛られながらも、JBの様子をうかがっていた。

 彼女も荒野での経験があるので、ここで命を惜しむような真似はしない。ただ少しでも自分の生きる意味と価値を引き上げようとしている。

 彼女たちにとっては極めて危険な状況下。もう自爆しか残された手段がないのだ。


 そんな絶体絶命の時―――



「彼女たちに罪はない。無理に殺す必要はないでしょう」



 階段を上がってきたラブヘイアが、捕まったホロロたちを一瞥する。

 そう、この状況下において、この男だけが唯一どちらにも組みしていない存在であるといえた。

 となれば彼は、自分の【流儀と目的】に従って動くのみである。


「あなたの目的はホワイト殿のはずです。波動円で探ってみましたが、どうやら彼はここにはいない様子。ならば彼女たちを捕まえても意味はありません。所詮は愛玩用のスレイブです。放してあげればよいでしょう」

「ふん、貴様か。さきほどから何もせずに付いて回りおって。目障りだ。消えろ」

「どうしようとも私の自由ですよ。あなたに指図されるいわれはありません」

「口だけは達者だな。荒野の魔獣の時といい、随分と甘い考えを持っているようだ。実に不快だ」

「甘い? 私がですか?」

「そうではないのか? 貴様に魔獣やこの女たちを助ける義理はあるまい。それとも知り合いか?」

「いいえ、全員初対面です。それが現状で最善と思ったからこそ提案しているまでのことです。他意はありません」

「偽善者が。気に入らんな。……決めた。こいつらは殺す。どうせ生きていてもなぶりものにされるだけであろう。殺すことこそ慈悲となる」


 こう見えてJBは、一応は「聖職者」である。

 ネイジアという神に従う使徒であり、救済者の理想を体現するために存在する。

 死ぬ定めにある者には、痛みの無い死を。

 それもまたネイジアの思想の一つであり、彼が人を殺すのもそのためだ。

 痛みを感じない彼個人は、たまに拷問なども嗜むことはあるが、今はそんな気分ではないらしい。


 ゆえに、慈悲。


 ひと思いに殺すことこそが、彼女たちのためになることであり、善行なのである。

 思想とは怖いものだ。喉を掻っ切って殺すことが正しいと思っていれば、それを躊躇いなく実行してしまう。


「さあ、滅びよ」

「いやあああ! 助けてぇええーーー!」(シャイナの絶叫、いつもこいつである)

「JB、どうしても殺すのですか?」

「くどい男だ。貴様には関係のないことだ。傍観するだけならば黙っていろ」

「…そうですか」


 ギュギュギュギュッ!!

 JBの黒紐が、ホロロとサリータを殺そうと勢いよく締まっていく。

 ジワワワッ

 それと同時にアンシュラオンが与えた命気が反応を始める。

 衝撃を緩和し、痛みを和らげ、傷を修復しつつ外敵に対して警戒を強める。


「かはっ!!」


 二つの強い力の前では、サリータの覚悟なども簡単に押さえつけられる。

 身体をよじり、大納魔射津に結びつけられた起爆用の糸を口にくわえるまでは成功していたが、それ以上の動作は不可能だった。

 JBの前では彼女は虫のような存在。抵抗も虚しいものである。自爆すら許されない。


(なんとなさけない…ここまでか…)


 薄れゆく意識の中で、サリータが視線を動かすとーーー




―――ふと、目に捉えた




 無防備なJBの背後にいた若い男。

 おそらく彼の仲間であると思われる、枯れた草色の髪をした男。

 サリータは名前を知らないが、かなりの腕前だと思われる若い剣士が、極めて自然な動作で剣を抜いた。

 まるでそうすることが決まっていたかのように、黒い剣をJBに―――





―――突き刺す!!





 ズブッ!!


 背後から心臓に向かって、何の躊躇いもなく放たれた一撃が、JBを貫いた。




578話 「交錯する陰謀 その7『獣魔の真意』」


 ブスッ

 ラブヘイアの黒い剣が、JBの身体を貫いた。

 剣は背中から入り、心臓を抉って胸から剣先が突き出ている。

 トリックでもマジックでもない。正真正銘、突き刺したのだ。

 その証拠にJBの身体から、赤い血液が剣先を伝って滴り落ちる。


「おや、あなたの血も赤かったのですね」


 それを見たラブヘイアが、素直に驚いたという表情を浮かべていた。

 触手めいた謎の紐を生み出し、身体が吹っ飛んでも再生するような生体兵器である。常人とは血の色が違うと思っても不思議ではないだろうか。

 だが、武人が技を使うには血液の情報が必要なため、JBでも血は赤いのである。

 と、今はそんなことはどうでもいいだろう。

 今目の前では、誰もが予想だにしないことが起きているのだ。


(何を…しているのですか?)


 ホロロも目を丸くして驚いていた。

 二人の間柄が好ましくないものだとは初見でもわかっていたが、まさかこれ程の直接的な暴力を振るうとは夢にも思っていなかった。

 それはサリータやシャイナも同じで、泣き叫ぶのも忘れて呆けて事態を見つめていた。

 そして、これが真に相手を殺すために行われていることを改めて証明する。

 ラブヘイアが突き刺した剣から風気を展開させると、身体の中からJBを破砕。


 ズバズバズバッ ブシャーー


 ボトボトボトッ

 体内から切り刻まれたJBは、上半身を細切れにされて吹き飛んだ。


「きゃっ!」


 背中が破壊されたため紐も根本から千切れ飛び、捕まっていたセノアたちが床に落ちる。


「さあ、今のうちです。早くお逃げなさい」


 ラブヘイアが紐の束縛を切り裂き、まだ呆けていたセノアを引っ張り起こす。


「え…? あれ…?」


 セノアの顔には、今しがた飛び散ったJBの赤い肉片がこびり付いていた。

 普通の女性ならば即座に絶叫しそうなものだが、幸いながらセノアは現状をまだ理解していないようだ。

 ラブヘイアは自身の身体で壁を作り、JBの破壊された身体を見せないようにした。ここでパニックに陥られても困るからだ。

 半ば強引にセノアの肩を押し、この場から遠ざかるように促す。


「すぐにホテルから脱出しなさい。死にたくないのならば、けっして戻ってきてはいけません」

「あ…は、はい。あの…どうして?」

「すべて私自身のために行ったことです。助けたわけではありませんよ」

「………」

「セノア、ラノアを連れてこっちに! 早くなさい!」

「っ! は、はい!」


 このあたりはさすがホロロである。解放された瞬間に即座に思考を切り替え、下の階に移動する準備を整えていた。


「セノア、今は何も考えるな! 逃げることだけを考えろ! 後ろは私が守る!」


 サリータはセノアたちを守ろうと、ラブヘイアの動きに注意を払いながら盾を構えている。

 どうあっても勝てない状態なのに、必死になって守ってくれる彼女には感謝の念しか浮かばない。

 セノアはラノアの手を握りしめながら、慌てて頭だけを下げる。


「あ、あの、ありがとうございました!!」

「………」


 その言葉にはラブヘイアは応えず、首だけを軽く振るにとどめる。


「ひ、ひぃ、置いていかないでくださいー!」


 シャイナも必死に後を追いかけ、階段下に消えていった。




 ホロロたちが降りたのを確認し、ラブヘイアは軽く安堵の表情を見せる。


(少しは借りを返せた…などとは言えない。彼は私の人生のすべてを変えてくれたのだ。その恩を簡単に返すことはできないし、するべきでもないだろう。まだ何も終わっていないのだ)


 その間もラブヘイアは、自身の剣から注意を逸らすことはなかった。目には強い警戒の色合いがまだ残っている。


 なぜならばーーー



 シュルルウウウウウウッ!!



 切り刻まれたJBの身体、その大きな破壊痕から細かい紐が大量に生まれると、一瞬にして元の肉体を【編み上げる】。

 紐はラブヘイアも取り込もうとしたため、飛び退いて距離を取った。


「…ふぅ」


 外套は飛び散ってしまったものの、JBの肉体は完全に再生していた。

 マキとの戦いでも起きたエバーマインドが与える驚異の回復能力だ。

 傀儡士が得たスパイラル・エメラルド〈生命の螺旋〉も恐るべき再生能力を持っているが、原理はだいぶ異なっている。


「よくもやってくれたな」


 素顔が露わになったJBが、細く鋭い目つきでラブヘイアを睨む。

 ただし、そこに怒りはあっても『戸惑い』はない。


「また服が破れてしまった。こう何度も裸にされるのは不快だ」

「普通ならば致命傷ですが…この程度では死にませんか。あなたを殺すには【思想を殺す】しかないのですね」


 エバーマインドが司るのは『思想』。想いがある限り何度でも蘇る。

 ラブヘイアもJBがこれくらいで死なないことを知っている。だからこそ警戒を怠らなかった。

 しかし、警戒を怠っていなかったのは彼だけではない。


「今の一撃、本気で殺すつもりでやったな?」

「その通りです。あなたにはここで死んでいただきます」

「もはや悪びれもしないか」

「あなたも私がこうすることを予期していたのでしょう? だからこそエバーマインドの力をすでに内部で展開していた。そうでなければ、これほどの短時間で再生はできないはずです」

「ふん、貴様を信用するほど甘くはないからな。この状況下ならば尻尾を出すと思っていたぞ」

「…なるほど。では、クロスライルと分かれたのは、【わざと】ですか」

「そうだ。やつがいない状況を貴様が見逃すはずはないからな。ずっと私が一人になる機会をうかがっていたはずだ。二人相手では分が悪いと考えたのだろうが、なんとも浅ましいことだ」


 JBがあえて背をラブヘイアに見せていたのは、『誘った』からである。

 そもそもJBがクロスライルと分かれることを選択したのも、こうしてラブヘイアの本心を確かめるためでもあった。

 クロスライルは護衛なので、普通ならば離れることはない。別行動をするにしても、こうして何十キロも離れることは実に稀といえる。


「そこまでお見通しとは、少しばかり侮っていたようですね」

「侮る? 笑止。貴様に侮られるほど落ちぶれてはいない。貴様が案内を買って出た段階から怪しいと思っていたのだ。おおかた私をこの都市に誘き出すのが狙いであったのだろうよ。辺境の都市、それも貴様のホームタウンならば地の利があるからな。【暗殺】もしやすい」

「さすがと言っておきましょう。それでこそ組織の武人です」

「我らに敵は多い。命を狙われることなどざらにある。それに対処できぬのならば死ぬだけのことよ。弱いことが罪なのだ」


 JBは人一倍警戒感が強く、けっして他人を信用しない。

 ラブヘイアに関しても最初から怪しいと考えていたし、今までの言動からも不快感を隠そうともしていないことがわかるだろう。

 では、そんな彼がなぜここまで手間をかけたのか。

 もしラブヘイアが怪しいと思っていたのならば、どうして今まで放置していたのか。

 その最大の理由は『組織内のルール』にある。


「メイジャ〈救徒《きゅうと》〉同士の殺し合いは御法度。貴様も知っているな?」

「ええ、知っております。どちらが生き残ってもファルネシオから制裁が下されるそうですね。力を奪われるとか」

「私の力はネイジアから頂戴したものだ。その力を私闘で使うことは許されない。それも当然のことよ」

「そうですか。やはりファルネシオは【石】を管理する力を有しているのですね。急速に勢力を拡大させている理由がわかります」

「随分と他人事に物を言う」

「でしょうね。私はメイジャではありませんから」

「言ったな。言い切ったな? そう、そうだ!! その言葉が聞きたかったのだ!! 貴様がメイジャでないのならば何の遠慮もいらぬ!!」


 メイジャ同士の争いは御法度。

 救済者の組織は人数が多いというわけではない。理念の共有のために少数精鋭で構成しているため、広大な東大陸を統治するにしては、あまりにも少ないといえる。

 そんな状況で同士討ちで貴重な戦力を減らすことは、まさに愚の骨頂である。内乱は絶対に避けねばならないという鉄の掟であった。

 また、多くの者がネイジアから力を与えられたこともあり、彼らは皆家族という間柄にある。

 だからこそJBは致し方なくラブヘイアを放置していたのだが、当人が大前提を否定した今、両者の決裂は決定的なものとなるだろう。


「貴様はネイジアに対し、虚偽の宣誓をしたことになる。その罪はあまりに重いぞ!」

「誤解があるようですので改めて申し上げますが、私はファルネシオに忠誠や忠義を誓ったことは一度もありません。単なる食客として参列しているにすぎませんし、彼もそれを認めているはずです」

「言うに事欠いて客人気取りとは…自惚れたものだ。貴様程度にどうして偉大なるネイジアが媚びねばならぬ!! それこそ冒涜よ!!」

「たしかに。私にそのような資格はないでしょう。しかしながら、私が【崇める神】に興味を抱いたのかもしれません」

「神だと?」

「私が忠誠を誓うのは、ただただその神のみ。この世界でもっとも強く、すべてを思いのままにできる【あの御方】のみ。であれば、なぜファルネシオに忠誠を誓う必要があるのでしょうか。自己が崇める神よりも【格下】の存在に媚びる必要性は感じません」

「………」


 JBはしばし、ラブヘイアを見つめていた。

 当然ながらその目は鋭く、睨み殺してやらんばかりの勢いだったが、今彼の中で起きている激情の嵐は、そんな表現ではまったくもって言葉不足である。

 ぐぐぐっ

 拳を強く握る。

 生まれたばかりの新しい肌に指が食い込み、突き破ると血が流れる。

 ガリリリッ

 太い歯同士がこすれ合い、ひたすら何度もこすれ合い、摩擦によって磨耗し、それによって口の中から煙が生まれる。

 仕舞いには、ボキンッと歯が折れる音が聴こえた。それだけ強く力を込めた証であろう。

 ゴゴッ ゴゴゴッ

 そしてそして、彼の心情をもっとも如実に表現しているのが、体表に生まれた白みがかった戦気である。

 戦気は次第に膨張を始め、五十センチから一メートル、一メートルから二メートル、二メートルから三メートルへと肥大化し、周囲の壁や床を飲み込んで消失させていく。

 膨大な戦気によって浮き上がった身体は、あまりの怒りのために赤に変化する。



「ネイジアをたばかり、ここまで愚弄したこと、けっして許してはおけぬ!! 許さぬ許さぬ、赦さぬ赦さぬユルサヌユルサヌ、ユルサヌユルサヌユルサヌユルサヌユルサヌユルサヌユルサヌユルサヌユルサヌユルサヌ!!!」



「神を冒涜した者には、死あるのみ!!! あるのみ!! アルノミ!!アルノミ!!アルノミ!!アルノミ!!アルノミ!!アルノミ!!アルノミ!!アルノミ!!アルノミ!!アルノミ!!アルノミ!!」



「シネシネシネシネ!!! シネシネシネシネ!!!シネシネシネシネ!!!シネシネシネシネ!!!シネシネシネシネ!!!シネシネシネシネ!!!シネシネシネシネ!!!シネシネシネシネ!!!シネシネシネシネ!!!シネシネシネシネ!!!シネシネシネシネ!!!シネシネシネシネ!!!」




「ここで貴様は、死ねぇえええええええええ!!!」




 JBが力を解放!!


 荒野で戦った時とは違う、真なる殺意が場を満たす。

 だが、それを受けてもラブヘイアはいっさい動じるどころか、むしろ笑みを浮かべていた。


「あなたでノルマ達成となる十人目。そして、これが最初の一人となるでしょう。あなたの中にある【石】を頂戴いたします。それが私に与えられた使命なのですから」




579話 「ホテル脱出」


「サリータ、後ろはどうですか!?」

「追跡はありません!」

「このまま突っ走ります! あと少しです! セノアたちも足を止めないように!」

「は、はい!! ラーちゃん、転ばないようにね!」

「うん、んしょんしょ!」


 ラブヘイアの行動によってJBから逃げ延びたホロロたちは、急いで階段を駆け下り、エントランスホールまでやってくる。

 ただし、シーバンたちが死守していた入り口には向かわず、反対側にある職員専用の通路に入り込む。

 そうして裏口に向かうと思いきや、また方向を変えて狭い通路に入った。


「え!? 裏口から逃げるんじゃないんですか!?」

「あの死体をもう忘れたのですか? 裏口には敵がいるのですよ。出て行ったら殺されます」

「あっ! そ、そうでしたね。じゃあ、どこに向かっているんですか!? どこにも逃げ道なんてないじゃないですか!?」

「静かにしなさい。まだ敵がいるかもしれないのですよ。無駄に騒げば危険が増すだけです!」

「あううう…ごめんなさい…」

「ホロロ先輩、これからどうするのですか?」

「安心なさい。すでに準備は整っております」


 そう言ってホロロが向かったのは、職員専用通路をしばらく進んだところにあった『料理場』である。

 グラス・ギースで一番大きなホテルでもあるので、料理場もかなり立派で大きい。

 ホロロたちは料理場に入ると鍵をかけた。


「料理場…ですか? これだけ大きければ隠れるには隠れられるでしょうが…」

「このような状況下で隠れるなど自殺行為でしありません。一刻も早くこの場を離れますよ」

「ですが、ここからどうやって?」

「いいから付いてきなさい。警戒は怠らずに。ここが一番重要な局面ですよ」


 ホロロは料理場の奥にあった食品庫に向かい、扉をゆっくりと開く。

 料理場も大きければ倉庫もそれなりに大きいが、それでもやはり密閉された空間なのは同じだ。

 だが、ホロロが迷わず入った以上、皆も続くしかない。訝しげな表情を浮かべたまま全員が中に入る。

 殿のサリータがしっかり閉めた倉庫の入り口に、ホロロが一枚の術符を張り付けると淡い光を放って砕けた。

 核剛金の術符で強化したのだ。これでもし敵がやってきても時間稼ぎくらいにはなる。

 それから視線を部屋の奥に向ける。倉庫の隅には複数の木箱が積まれていた。


「シャイナ、そこの箱をどけなさい」

「えええ? 私がですか?」

「まだ戦いは終わっていません。サリータは疲弊していますから、あなたが代わりにやりなさい。ほら、早くなさい!」

「うう、わ、わかりましたよ…! あっ、おもっ!?」


 中身は砂糖やら塩やらの調味料であったが、だからこそ重かったりもする。

 シャイナは泣き言を呟きながらも、なんとか木箱をどけることに成功した。何だかんだ言いながらも労働者なので、最低限の体力はあるようだ。

 何もせずにホテルでぬくぬくしていたのだから、これくらいは働いてほしいものである。


「はぁはぁ、どけました」

「よろしい。では、そこをどきなさい」

「うう、がんばったのに…褒められもしない」

「生き残るために皆が苦労してがんばっているのです。あなたも我慢しなさい」

「あうう…」


 ホロロはシャイナをどけると床に軽く触れる。

 何の変哲もない木造の床だ。他の床と差異は見受けられないが、そこには窪んだ『取っ手』が存在した。

 ぐいっ ガゴンッ

 ホロロが取っ手を引っ張ると、床が音を立てて開く。


「床下収納ですか? 食品をしまうやつですよね?」


 セノアが、中に納められている袋などを見て確信する。

 よく一軒家のキッチンに備え付けられている床下収納庫、あるいはもっと大きめなものならば床下倉庫と呼ばれるものである。

 用途はもちろん、こうして食材の保存などに使われるだけのものだ。深さも大人の身長程度くらいしかなく、幅も広いとはいえない。


「ここが…目的地なのですか?」


 セノアの表情に不安が見える。

 必死になってたどり着いたにしては、あまりにも拙く頼りないからだ。この場所が小さな棺桶に見えても不思議ではないだろう。


「ええ、そうです。しかし、ここが私たちにとっての命綱なのです」


 このままではたしかに単なる収納庫だ。

 がしかし、ホロロが胸元から取り出したネックレス、そのトップにはめられたジュエルを押し当てると、収納庫の床にさらなる『取っ手』が出現した。

 ホロロが躊躇なく取っ手を引っ張る。

 ガコンッ

 開いた床下は暗く深い闇が広がっていた。どうやらさらに下に向かって穴が続いているようである。


「これはどういうことなのですか? 何もなかったはずなのに…」


 穴を覗き込んだサリータが、首を傾げる。


「いざというときのための『脱出路』です。『割符結界』と呼ばれるもので隠されていますので、従業員の中にも気づいた者はいないでしょう」

「こういったものは、ホテルに常備されているものなのでしょうか?」

「まさか。私たちの主、アンシュラオン様がご用意してくださったものです。普通のホテルにこのような代物はないでしょう」

「なんと!! 師匠が!! それはありがたい! しかし、どうやってこんなものを…いえ、師匠のお力をもってすれば簡単なことなのでしょうね」

「その通りです。さあ、早く行きますよ。まずは私、次にセノア、ラノア、サリータ、最後にシャイナが来なさい」

「また最後だ!!」

「当然です。銃も忘れないように」


 ここでも序列が最優先である。

 とはいえ、この順番は理に適ったものでもある。

 まずこの通路が完全には安全とはいえないので、大人であり事情を知っているホロロが先頭に立ったほうがいいだろう。

 その次に弱い子供が続き、後方のサリータが万一の追撃にそなえて護衛する。シャイナが最後尾になったのは完全なる囮ではあるものの、それもまた上の人間を助けるための大切な犠牲となるだろう。



 ホロロが食品庫に用意してあったランプを手に取り、穴に取り付けられた梯子をしばらく降りる。

 セノアは恐る恐る降りたものだが、ラノアなどは物怖じせずに梯子を掴んで降りていった。このあたりの性格の差異はなかなか面白い。

 サリータに続いてシャイナが入り、上部の床を閉めると再び割符結界が発動し、取っ手は消失した。

 上から見れば単なる床下収納庫なので、ここを発見するにはそれなりの術者の資質が必要となる。


「どうやらここは発見されていないようですね。安心してよさそうです」


 先頭を行くホロロが梯子を降りきると、周囲は木から剥き出しの土に変化していた。

 土は階段状に掘られているだけではなく、何らかの手段で固められているため、そのまま地上と同じように歩くことができた。

 滑ることもなく、しっかりと足にフィットするので、むしろ歩きやすいかもしれない。

 薄暗いという欠点はあるものの、そこからは地下トンネルを歩くような気分で一行は進んでいく。


「あの…これはどこにつながっているのでしょう? たぶん方角からすると、【壁】のほうに向かっている気がするのですけど…」


 セノアが銃を握り締め、こわばった表情で訊ねる。


「方角を覚えていたのですか?」

「は、はい。逃げるときはそうするようにって、前にお父さんが…」

「そうですか。そのことは忘れないように。良い習慣ですよ」

「あ、ありがとうございます」


(やはりアンシュラオン様は、人を見る目があられますね。このまま私の代理になれるように成長していってほしいものです)


 ホロロは、セノアの利発さに期待を寄せる。

 仮に先頭を歩く自分が犠牲になったとしても、多少なりとも経験を積んだセノアがいれば、【普通の選択】ができるに違いない。

 平時ならば誰にでもできることであっても、いざ混乱が生じた際に普通の考え方ができることは大きな才能の一つだ。

 もしそれが誰にでもできることならば、人々の中で戦争というものは根絶されるだろう。それだけの才能である。

 アンシュラオンには『情報公開』スキルがあるし、ああ見えてそれなりに人を見る目がある男だ。

 彼が付けた序列は、サナがいなくてもしっかりと機能するようになっているのである。

 そして、セノアの予測は見事的中する。


「あなたの言う通り、私たちが向かっているのは【城壁】です」


 ホロロたちが向かっているのは、ちょうどホテルから真南の方角である。

 この先にあるものといえば一つしかない。城壁だ。


「あのぉ…ふと思ったんですけど、城壁って下から通り抜けられるんですかね?」


 シャイナがそんな疑問を発する。

 彼女がそう思うのも当然だろうか。普通の人間が見る城壁は地上部のものだけであり、地下のことまで頭が回らないものだ。

 東京には巨大な地下空間が存在し、貯水槽や通路として利用されていることを普段は意識しないのと同じといえる。


「いいえ、どうやら城壁は地下にまで及んでいるようです。穴を掘って侵入されたら城塞の意味がありませんからね」

「じゃあ、迂回か何かして、どこか違う場所で上に出るんですか? それだと西門から出ないといけないし…大丈夫ですかね?」

「あ、そこで止まりなさい」

「え? ここですか?」

「動かないように」


 そう言ってホロロが近くの壁にあったボタンに触れる。


 するとーーー爆発


 ちょうどシャイナのすぐ近くにあった壁が破裂し、ガラガラと通路が壊れ、あっという間に背後が閉ざされてしまった。


「ひ、ひぃいい! 何をしたんですかぁぁあ!?」

「追っ手が来ないように封鎖しただけです」

「壊すなら壊すって言ってくださいよ!!」

「動くなと言ったでしょう? あなたは命令だけを聞けばよいのです」

「ううう…この人、怖い!!」

「ホロロ先輩、このような仕掛けがあるということは、だいぶ前から準備されていたのでしょうか? このような通路自体、簡単に掘れるとは思いません」

「あなたがホテルに派遣された直後から、この通路は造られたようです。私も詳しいことは知りませんが、そういうことを得意にしていた者が裏スレイブにおりました」

「はぁ、なるほど…すごい特技を持った人間がいるものですね…」


 と、サリータは感心して頷いているものの、おそらくは何も重要性を理解していないだろう。

 この地下通路を造ったのは、戦罪者のムジナシである。

 初めてソブカと出会い、ある程度の打ち合わせをした時から、すでにこの計画は始まっていた。

 ムジナシを表に出さなかったのは事務所の穴を掘らせていたからであるし、実はこうした地下通路をいくつか掘らせていた。

 アンシュラオンが秘密裏に都市を移動するための手段にもなっているので、ムジナシの貢献度は高いといえる。



 一行はさらに進む。


 若干の下り道になっているせいか、疲れた身体でも自然と歩が進むように計算されているようだ。

 そうして三十分ほど歩くと、城壁にたどり着いた。

 ホテルが南寄りにあったこと、下り坂で足が進んだこと、さらには恐怖からか急ぎ足になったことも相まって、通常よりも早く到達することができた。

 そして、本来ならばそこには巨大な岩(城壁の材料)が待ち受けているはずなのだがーーー



 待っていたのは、仮面を脱いだアンシュラオンとサナだった。



 白い髪の毛に赤い瞳、人並み外れた中性的な美貌を持つ底知れない魅力を持つ少年。

 そんな少年に愛された漆黒の髪と浅黒い肌、深く静かに輝くエメラルドの瞳を持つ少女。

 紛れもなく本物の二人がそこにいた。




580話 「訓練の終わりと総評」


「いやーー!! 痛みに耐えて、よくがんばった!! 感動した!!」


 待ち受けていたアンシュラオンは、興奮した面持ちで出迎える。

 まるで某総理大臣が、優勝した力士に投げかけた言葉を彷彿とさせるが、その言葉に偽りはないようだ。

 白い肌は少しばかり赤みがかっており、心底興奮している様子が見て取れる。

 それからホロロに近寄り、腰をポンポンと軽く叩きながら労った。


「ホロロさん、よくやってくれたね。見事な手並みだったよ!」

「予定より少々遅くなってしまいました。申し訳ありません」

「いやいや、十分だって。みんなが無事生還できたんだ。こんなに素晴らしいことはないよ!」

「そうおっしゃっていただければ嬉しい限りです。多少不測の事態はありましたが…」

「ああ、そのことはしょうがない。何事も滞りなくとはいかないものだからね。それを考慮しても十二分に合格だ。よくやってくれた!」

「ありがとうございます」


 褒められたホロロは、ここでようやく本当に安堵した表情を浮かべた。

 いくら冷静沈着であるとはいえ、このような緊迫した状況下で動くのは初めてのことだ。

 保険がかけられていたものの部下の安全を守らねばならないし、相当な緊張感があったに違いない。

 それでも無事こなせたのは、心の底から主人を信頼していたからだ。

 アンシュラオンにとっては、そのことが一番嬉しいのである。


「………」

「………」

「………」


 と、ホロロはさも当然にアンシュラオンと対話しているが、他の面々はそうはいかない。

 その光景に誰もがポカーンと口を開けて呆けていた。(ラノアは首を傾げるだけだった)


「おっと、こんな場所で立ち話もなんだな。まずは中でゆっくりしてくれ」


 その視線に気づいたアンシュラオンが、翻って手を背後に向ける。

 そこには【岩門】のようなものがあった。

 大きさはトンネルと同じ高さと幅で、完全に計算されて造られている印象を受ける。

 アンシュラオンが軽く手を押し当てると、ガゴゴゴと重厚な音を立てて門が開く。

 その先には磨かれたようにツルツルした床や壁が広がっていた。壁自体が光っているため、この距離からでも中が見通せる。


「…ととと、ぐい」

「あっ、サナ様…!!」

「…ぐいぐい」

「あ、はい! 今参ります!」


 呆けていたサリータにサナが駆け寄り、服の袖を引っ張って門の中に導く。


「さあ、入りましょう」

「は、はい…」


 それによって我に返ったセノアたちも、ホロロに促されて門の中に入る。

 まだ何が起きているのか理解していないらしく、人形のような無表情のままついてきた。




 一行は、門の中を進む。


 状況を理解していなくとも、その足取りは軽い。

 先頭を歩くアンシュラオンがいるだけで、どうしてこんなに心に余裕が生まれるのだろうか。

 絶対強者に守られている安心感が、彼女たちを包んでいた。


「サナ様…うう……よかった……またこうしてお会いできるとは…感激です!」


 サナに出会うのも久々である。無事再会できた喜びからか、サリータから涙がこぼれる。

 顔の一部は腫れており、身体中にも生々しい傷跡が残っている。彼女にとってはいかに激戦だったかを物語っていた。


「サリータ、がんばったな」

「はい……」

「…ぽんぽん」

「サナも褒めているぞ」

「はい…はい……」


 もう安心やら安堵やらで「はい」しか言えないサリータを見て、アンシュラオンも心に染み入るものがあった。


(いい緊張感だったようだな。本気で戦ったからこそ涙が出る。命がけの実戦でしか味わえないことだ)


 サリータは何も知らされていないので、本気の実戦だと思っているし、実際に殺される可能性があった正真正銘の実戦だったのだ。

 これはアンシュラオンや強くなったサナがいては味わえないものだ。

 ただ守られるだけではなく、自分で考え、自分で決断することが大切だ。

 さらに自分より年下の子供を守る責任を与えることで、彼女は多くのものを学んだに違いない。


(彼女の忠実さは信頼に値する。心から感謝するよ。戦闘力を与えることはそう難しくないが、素の忠誠心を生み出すことはできない。実に貴重な人材だ)


 改めて考えれば、サリータにはまだスレイブ・ギアスが施されていない。

 それにもかかわらず、ホロロ並みの忠誠を誓ってくれるのはありがたいことだ。

 心からの忠誠と自己犠牲の献身性。どの時代の支配者も臣下に求めてきたものであるが、誰もが簡単には手に入れられなかった貴重なものだ。

 それだけでも彼女がいる価値は大きいといえる。サリータも十二分に合格であろう。


 そうして歩くこと数分、通路の途中にあった部屋に到着する。


 そこにはーーー豪奢な部屋。


 まるでホテルの一室かと思わせるような、大きなリビングルームが存在した。

 ソファーにベッドはもちろん、木製のテーブルには料理も並んでいる。


「よくがんばってくれた。ひとまずここで休んでくれ。料理はオレの手作りだから、そこまで美味いかはわからないけどな。おっとそうだ。奥には風呂もあるぞ。女性は常に清潔であるべきだし、小さな怪我も処置を疎かにしてはいけないよ。雑菌が入って死に至ることもあるからね。まずは風呂に入りなさい」


 部屋の奥からは湯気が漂ってきていた。

 どうやらバスルームも設置されているようだ。


「し、師匠…ここは地下…ですよね?」

「そうだ」

「このあたりは城壁だと聞いておりますが…」

「それも正解だ」

「ではその…」

「城壁を削って造ってみたのさ」

「削った? 削れるものなのですか?」

「うん、削った。削っちゃいけないって言われてないしな」

「はぁ…なるほど」


 削っていけないとは誰も言っていないが、削っていいとも言われてはいない。

 が、もう削ってしまったのだから時効だろう。

 そう、ここには城壁があったが、アンシュラオンが削岩して勝手に通路を造ってしまっていた。

 あの岩門も、元は城壁だった岩を削って整えたものである。


「そんなにおかしくはないぞ。もともとこの城壁の一部は切り抜かれて武器庫としても使われているからな。まあ、ちょっと貫通しちゃったけど…便利だからいいよね」


 この通路であるが、見事に第一城壁を貫通して第二城壁内側にまでつながっている。

 城壁の一部は、地下遺跡の壁をそのまま使っているところもあり極めて強固であるも、地上部にある城壁自体はあとから増築したものなので、造られた年代も違えば強度も脆い。

 現にマキと戦罪者が戦った際、アンシュラオンが撃った弾丸が城壁内部にまで届いている。

 これくらいの強度ならば、さしたる音も立てずに穿つことが可能である。この男からすれば造作もないだろう。

 ただし城壁の厚さ自体が、場所によっては三キロ以上の箇所もあるので、穴をあけようと思ってもあけられないのが常識というものである。

 それを簡単に覆すアンシュラオンのほうがおかしいといえる。

 ちなみにこの穴が、のちのち大きな問題を引き起こすのだが、それはまた違うお話である。

 ともかく、ここは誰にも知られていない安全な場所であることは間違いない。


「セノアもお風呂に入って休むといい。ほら、銃はもう手放してもいいよ。ここは安全だ」

「………」

「もう終わったんだよ」


 セノアは、まだ銃を強く握り締めていた。強く、ただただ固く。

 その指をアンシュラオンが、優しくゆっくりと解いてあげるとーーー

 ガランッ

 銃が床に落ちた。

 彼女はあまりの現実感のなさからか、自分が銃を持っていることすら忘れていたようだ。

 落ちた銃をただただ見つめている。


「君もよくがんばった。妹を守るために銃を扱うことができた。そんな君をオレは誇り高く思う」

「じゅ、じゅう……」

「ああ、君がこれを撃ったんだ」

「こ、ころし……ころし……」

「一人殺したね。見事だった」

「はぁはぁ……はぁ!! あ……く……わ、わたし……わたし、なんてこと…を……わたし……はぁはぁ!! あぁっ!!」


 今になって自分が人を殺した事実を思い知る。

 目を見開き、瞳孔が大きく揺れ動くさまは、いかに狼狽しているかがよくわかる。

 十二歳の少女が人を殺したのだ。これくらいは普通の反応といえるだろう。


「人を殺した罪悪感は誰にでもある。それが愛たる霊の本質だからだ。しかし、君は守るために銃を撃てた。立派だ。とても素晴らしい!」

「はぁはぁ…!!」

「いいかい、セノア。どんなに綺麗事を言っても、力がなければ誰も守れないんだ。論説だけでは物事は変わらない。実際に行動する覚悟がなければ何も成し得ない。だから君は正しいんだよ」

「はぁはぁ! わ、わたし……あああ」


 セノアは全身の力が一気に抜けたのか、そのまま床に倒れ込んだ。


「やれやれ、どうやらショックが大きくて言葉が耳に入らないようだね。それも仕方ないか。初めて人を殺したらこうなるのが普通だもんな。サナが特別なんだ。やっぱりサナはいいなぁ」


 サナが初めて人を殺した時など、まったくの無表情で淡々としていたものだ。

 さすがサナであり、そちらのほうが好みではあるが、セノアの反応も初々しくて悪くない。

 それはかつての自分の姿を彷彿させるからだ。


(オレも初めて人を殺したときは、さすがにちょっと思い悩んだこともあったな。まあ、前の人生での話だけどさ。これも慣れだね)


 アンシュラオンがこうも殺すことに抵抗がないのは、この星に転生したからだけではない。

 何かを成すため、守るためにかつての人生でも殺す必要があったからだ。

 たとえば日本にしても、今この平和な瞬間が存在するのも、かつて多くの外敵を殺して治安を守った者たちがいたからである。

 多くの人々はそうした重荷を背負わず、与えられた幸せだけを教授したいと思うものであるが、人生はそこまで甘くはない。

 自分が得ているものが、どのようにして守られてきたのかを把握し、その事実を受け入れ、協力しなくてはいけないのだ。

 その覚悟がなければ国は滅び、再び混沌とした無法地帯が生まれてしまうだろう。


(そこを乗り越え、セノアはしっかりと撃つことができた。善悪含めて行動の意味をすべて理解している。ただ感情面が追いつかないだけだ。問題はない。セノアは十分使える。合格だ)


「ホロロさん、動揺しているようだから、彼女たちを風呂に入れてあげてくれるかな。それで少し落ち着くはずだよ」

「はい、かしこまりました」

「さぁ、風呂だ。風呂。まずはゆっくりしてくれ。傷にも効くから好きなだけ入りなさい」




 セノアとラノアは、ホロロに連れられて浴場に向かう。サリータもサナに引っ張られて向かった。

 まだ困惑しているようだが、身体が落ち着けば心も落ち着くものである。

 それを考慮して自分はあえて一緒に入らず、その場にとどまっていたのだがーーー


「どうした、シャイナ? お前は入らないのか?」

「………」

「一番臭いんだから入ったほうがいいぞ」

「むぅう! 先生、私に何か言うことはないんですか!?」

「言うこと?」

「そうですよ! 一番大事な時にいなかったじゃないですか!」

「全部見てはいたぞ。厳密には目で見ていたわけじゃないが、一部始終を把握しているつもりだ」

「いなかったら同じなんですよ! いったいどれだけ怖かったか…!! 本当に死にそうになっていたんですからね! ううう、本当に…死んじゃうかと思って…ううう……うわぁーーーん! 先生の馬鹿ぁああ!」


 思えばシャイナも相当危ない目に遭っている。

 麻薬工場でも身の危険があったし、今回に至っては正真正銘の命の危機であった。

 そうした今までの感情が爆発し、怒っているのか泣いているのかわからない様子であった。


「何を怒っているんだ? 相変わらず、よくわからないやつだな。だが、そうだな…たしかにお前にはすまないと思っている」

「…え?」

「オレはずっと自分のことばかり考えて、お前のことを後回しにしてきた。お前に対してちゃんと向き合ってやることができなかった」

「え? え? 先生、どうしちゃったんですか? なんでいきなり…」

「すべてオレの責任だ。オレが全部悪い」

「せ、先生が…謝った!!? しかも頭を下げるなんて!! し、信じられない!!」


 なんと、アンシュラオンが頭を下げて謝っている。

 この唯我独尊を地で行くような自己中心的な男が、シャイナごときに謝っているのだ。普通ならば絶対にありえない。

 だが、この謝罪は本心からである。


「本当にすまなかった。お前への配慮が足りていなかった。主人として、とても反省している。許せとは言わない。これから自らの行いで正していこうと考えている。それで納得してもらえるか?」

「そ、そういうふうに思ってくれるなら…ゆ、許してあげなくもないですけど…」

「そうか…。だが、オレ自身がオレを許しきれないんだ。どうしてもっとお前のことを想ってやれなかったのか、自分で自分が恥ずかしいよ」

「ま、まあ、それなりに長い付き合いですしね。先生には私がいないと駄目でしょうし…」

「こうして離れてみて、改めて本当のことに気づいたんだ。オレはずっと…お前のことを……」


 アンシュラオンがシャイナに近寄る。

 そこには今まで見たこともない慈愛の表情を浮かべたアンシュラオンがいた。

 自分のことを心から想ってくれる異性の顔である。


「せ、先生…そんないきなり……え!? これってまさか…!! だ、駄目ですよ! まだ心の準備が!!!」

「オレの準備は整っている。安心してくれ」

「そんな…私!! ああでも、もうすでに先生と私はそういうことをしているし、全然かまわないですけど、こんな場所でなんて…!」

「今すぐにオレはお前への気持ちを行動で表現したいんだ! この溢れ出る熱い気持ちは誰にも止められない!」

「そ、そこまで私のことを…! そんなふうに言われたら…そんな…ああ!」

「シャイナ…」

「先生…」


 見つめ合う二人。


 今ならば本心を伝えられるかもしれない。


 アンシュラオンも、これを言うことには若干の躊躇いがあった。


 だが、主人としてどうしても言わねばならないことがある。



 それは―――






「お前の尻の穴が黒いのは、全部オレのせいだ!!」






「シリノーーーアナ!!!?」





「そうだ、尻の穴だ!! お前の尻の穴が黒いことを、ずっとオレは気に病んでいた。単純にお前自身のせいかと思っていたが、やはりこれは飼い主の責任だ!!」

「えええええええええええええ!? いきなりなんてこと言い出すんですか!!!? え? なに!? それが言いたかったことなんですか!?」

「うん」

「ウン!?」

「いやー、プライリーラの尻は綺麗だったから、あまりの差に愕然としてな。犬だからいいかなとは思っていても、そこは衛生面ってものがあるだろう? 小さな子もいるし、教育上も良くないかなって」

「教育上!? 私のお尻が教育に悪影響を及ぼすんですか!?」

「うん」

「ウン!?」

「さっきからいちいち片仮名にするなよ。違う意味に捉えられるだろうが」

「うううう!! 先生は最低です!! もっとほかに言うべきことはないんですか!?」

「お前の尻の穴の問題以上に重要なことはない!!」

「本気だ、この人!!」

「ほら、尻を出せ。白くしてやるから!」

「結構です!!」

「馬鹿者! 尻が黒くて恥ずかしくないのか!!」

「恥ずかしくないですよ!!」

「オレは恥ずかしいんだ!! いいから脱げ!!」

「ぎゃーーーー! やめてくださいーーーー!」

「なんだこの尻穴は! ちゃんと洗っているのか! けしからん!! オレは入らないでおこうと思っていたが、これは見過ごせん!! 風呂場に強制連行だ!!」

「ひーーー! 助けてぇえええええ!!」


 その後、サナたちが風呂に入っている横でひたすら尻を洗われ、泣き叫ぶシャイナがいたとかいないとか。

 やはりこうなってしまうのは、シャイナがシャイナだからだろう。

 そこに理由はいらないのだ。




581話 「弛緩と休息、そして」


「どうだ。真っ白になったぞ!」

「ひぃいい! 私のお尻に何をしたんですかー!」

「色素が沈着していたからな。皮膚ごと削り取って再生させただけだ」

「ひー! なんかすごいこと言った!!」


 デリケートゾーンのケアは「アナルブリーチング」とも呼ばれ、色ムラで悩む女性たち(あるいは男性)の中では比較的メジャーなものである。

 日本でも専用のジェルなどが通販サイトで普通に売っているので、そう珍しいものではない。

 ただアンシュラオンの場合は命気があるため、直接皮膚を削り取った瞬間に細胞の活性化によって再生させる手法によって、一気に改善することが可能だ。

 カサブタの下から綺麗な新しい皮膚が生まれるのと同じである。


「うう、酷い目にあった…もうお嫁に行けない……」


 が、やられる側としては相当ショックである。

 シャイナはぐったりと浴室の隅で崩れ落ちた。しばらくは起き上がってこられないだろう。


「まったく、綺麗にしてやったのに感謝の言葉一つないのか。恩知らずなやつめ。まあいいや。それよりサリータの傷も治ったようだな」

「はい! ありがとうございます!」


 命気水で生み出した風呂なので、浸かっているだけでサリータの怪我もあっという間に治ってしまう。

 やはり女性にとって顔は命。綺麗に治ったのが嬉しいのか、サリータも安堵しているようだ。


「サリータ、いい仕事だったぞ。守りながらも攻撃ができた。お前の最大の長所は防御だが、防御だけでは勝てない。サナがいるときならばいいが、単独で行動する場合や戦力が乏しい場合は、攻撃も仕掛けなければならないからな。といっても、まだまだだ。セノアがいなければ危なかった」

「はい! 身に染みております! 師匠、質問をよろしいでしょうか!」

「何だ?」

「あの…まるで見ていたかのようなお言葉ですが……もしかして近くにおられたのですか?」

「うむ、見ていたぞ。だが、オレが直接いたわけじゃない。こいつが見張っていたんだ」

「わっ、なんですか!? これは!?」

「オレが命気で作った媒体で、名前をモグマウスという。こいつが常時、近くにいて監視していたのさ」


 浴槽の中からモグラのようなラットのような、どちらともいえない不思議な生き物が顔を出す。

 プライリーラとの戦いでも役立ったモグマウスと同種のものであり、これを媒体にして情報を得ることができる優れものだ。

 言ってしまえば『無線中継器』である。離れれば離れるほど精度は落ちるものの、この程度の距離ならば問題はない。


「さすがは師匠! すべてを把握なされているとは…感服です!」

「うむうむ、そうだろう。お前たちは常にオレの管理下にあるから安全なのだ」

「ではやはり、これは試練だったのでしょうか?」

「飲み込みが早くて結構なことだ。一応言っておくが、お前が自爆しようとしたら止めるつもりではいたぞ。そんなもったいないことはしたくないからな。お前にはまだまだ明るい未来がある。無駄に散らすことはない」

「し、師匠…そこまで評価していただけるとは…感動です!!」

「うんまあ…感動してくれるなら、ありがたいけどさ」


(このあたりは体育会系だよな。素直に受け入れちゃうからなぁ)


 普通、あのような状況で自分が試されていたら、シャイナ同様「なんで助けてくれないんですか!」と激怒しそうなものである。

 しかしそこは体育会系のサリータ。強くなるためにはスパルタ教育が当然であると理解しているらしい。

 むしろ期待されていると感じたのか、顔には興奮の色合いが見て取れる。若干マゾ気があるのかもしれないが、鍛える側としてはありがたいものだ。

 ただし、こうした人材は貴重で稀だ。

 普通の少女はといえば―――


「………」


 セノアは湯船に浸かりながら、いまだにぼーっとしていた。

 彼女の身体には少しの擦り傷と、捕まった際の内出血くらいしかなかったので、傷はすでに完治しており肉体的には健康だ。

 問題は、彼女の心のほうであろう。


「落ち着いたかい」

「…はい」

「そうか。ここは安全だから、ゆっくり休むといい」

「…はい」

「………」


(少し刺激が強かったかな。銃で人を殺せたんだから打たれ弱いとは思わないが…やはりこちらが普通の反応だよな)


 セノアが何度もショックを受けたり狼狽する様子を見て、面倒臭いやら打たれ弱いと思うのは早計だ。

 たとえば普通の人間が仕事で失敗をした場合、何日も、あるいは何ヶ月も思い悩むことがあるだろう。

 これがもし人を殺すという衝撃的な体験ならば、一生引きずって暮らす人間もいるのだ。ならば、セノアの反応こそ普通といえる。

 がしかし、単に普通の人間ならば人は殺せない。

 ここが資質を見極めるための重要なポイントである。

 彼女は殺せたのだ。誰かを守るためならば人が殺せる人間なのだ。


「改めて言うが、君は正しい行動を取った。オレが認めるから安心していいよ」

「ご主人様は…ずっと……見ていたのですか?」

「そうだよ」

「どうして…ですか? なんでこんな…」

「君たちが、より安全になるためだ」

「安全?」

「オレは君たちに安全を保証するが、それは守ってやるという意味だけではない。君たちを強くしてあげることも含まれる。君自身が強くならなければ、いつまでも怯え続けることになるからね。だからオレは、君が強くなるためなら何でもやるよ。試練だって与えるし、時には痛みも与える。すべては強くなるためさ」

「…強く……。強ければ…怯えないで済む…」

「そうだ。大切なものを失わなくて済む。君自身とラノアが幸せになれるんだ」

「でも、そのたびに…あんな思いを……ルアン君みたいに……あ、ルアン君…! か、彼は…その…」

「ん? ルアン?」

「ルアン君……あんな怖い人がいるなら、もう死んじゃったかも……」


 ルアンがJBに勝てないことくらいはセノアにもわかるらしく、泣きそうな顔になる。

 ルアンの姿こそ、まさに弱者のあがき。

 どんな手段を使ってでも強くなろうとした、惨めで愚かで、なおかつ愛らしい存在である。

 そこでこの男も思い出す。


「あ、忘れてた。ルアンならそこにいるぞ」

「…へ?」

「そうだった、そうだった。ほんと、すっかり忘れてたな」


 アンシュラオンは浴槽から出ると部屋に戻り、そこから幅が二メートルはありそうな大きな水瓶を持ってきた。

 それをどすんと床に置く。


「あ、あの…何を…」

「はい、どうぞ」


 アンシュラオンが水瓶の中に手を入れて、ズルンッと何かを引き出した。


 それはまるで―――昆布


 真っ黒になった大きな海草のようなものだった。


「…?」


 セノアは、まじまじとそれを見つめるが、何かわからずに首を傾げる。

 それこそが彼女が求めるものとは知らずに。


「これがルアンだよ」

「…え?」

「まあ、わからないよね。なら、ちょっと待ってね。命気を満たして―――」


 アンシュラオンが命気を昆布に注ぎ込むと、見る見る間に膨れ上がって人型になっていく。

 その様子はまるで、干物が一気に潤って元の魚に戻るような光景であった。


「ええええええええ!?」

「はい、これで元通り」

「ほ、本当にルアン君…なんですか!?」

「うん、そうだよ。ほら、顔はそのままだろう?」

「…見た目がその……随分と変わったような……」

「それはしょうがないね。勇者君の炎竜拳を受けて燃え尽きたし、咄嗟の防御で身体中の生体磁気をすべて使ったからね」


 復活したルアンの姿は、【ガリガリ】だった。

 薬で筋肉モリモリだった身体は見る影もなく、骨と皮だけの痩せこけた老人のような姿になっていた。

 これは生体磁気が『水』のようなものだからだろう。

 生体磁気は細胞の活力を維持するものであるため、不足すると老化を早めるとは以前述べた通りだ。

 ルアンの場合は、それが薬物によって一時的に強化されたものであり、なおかつアンシュラオンが渡した命気水によって結合していただけなので、ビッグの攻撃によってすべて吹き飛んでしまったと思われる。

 逆に言えば、それによってルアンは死なずに済んだのだ。

 最初昆布のように黒かったのも、炎竜拳によって焼け焦げたからであるが、最後の最後でかろうじて生き延びることに成功していた。


「オレがルアンを殺すわけがないだろう? こいつの父親と約束したんだ。約束を守るのがオレの流儀だからね」

「…でもその…そのままじゃ……」

「大丈夫、大丈夫。すぐ戻るからさ」


 アンシュラオンは水瓶の中を命気で満たすと、ガリガリに痩せこけたルアンを放り投げる。

 ゴポゴポッ ジュワワワッ

 まるで炭酸水のように細かい泡が包み込み、身体中の細胞に命気が浸透していくにつれて、ルアンの肌が少しずつ弾力を帯びてきた。


「しばらくこうしていれば火傷も裂傷も治るさ。まあ、完全に元通りってわけにはいかないかもしれないが、それもこいつが望んだことだからね。これもルアンとの約束を守っているにすぎないんだ。才能もないのに強くなりたいって言うからさ、それならこれくらいのことはしないとね」

「そこまで…強くならないといけないんですか?」

「君も見ただろう? こんな都市内部にいても、弱い者は簡単に殺されてしまう。まずは殺されないだけの力を身に付けることが重要なんだ。間違っているかな?」

「…そう…ですね。仕方ない…ですよね」

「望むのならば力を与えよう。でも、望まないのならば無理をすることはない。君はどうする?」

「………」


 その問いにセノアは何も答えられなかったが、彼女の目はじっと水瓶の中のルアンを凝視していた。

 表面上はどう思っていようが、彼女の本能はアンシュラオンという存在の強大さをしっかりと理解している。

 目の前にチャンスが転がっているのに断るのは愚か者である。どのみち彼女自身に行き場などはないのだ。


「私は…ご主人様と一緒にいます」

「そうか。ならば君に力を与えよう。だが、君はまだ子供だ。そんなに急ぐことはない。ルアンを反面教師にするといいさ」

「…はい」


(セノアはデリケートだけど、それもまたいいか。他人だったら面倒だけど、自分のものならば多様性の一つだしな。それにしても…ルアンか。最後はオレが助けようと思ったが、自力であれを防ぐとは面白いやつだ)


 ルアンは殺すつもりがなかったので、最悪は自分が影ながら助けようと思ってはいたが、自力でビッグの攻撃を防ぐことに成功していた。

 もちろん放っておけば死んでいたものの、あれだけの実力差がある中で、ギリギリで生き残ったことは賞賛に値するだろう。

 ちなみに勇者ことビッグが発見した死体は、あらかじめ用意していたものである。(豚からまさかの勇者に格上げである)

 ホワイト商会制裁において同年代の少年の死体が手に入ったので、状況を見極めながら細工をしてすり替えたのだ。

 ルアンにはまだまだ利用価値があるし、影武者として責務を全うしたことを考えれば、彼にも及第点をあげてもいいだろう。


(薬の効果はそれなりにあったようだな。ルアンには、またいろいろやらせて実験してみよう。あのハンター連中もまだ生きているから、ソブカにでも与えればいいかな。今回の一件で領主への恨みをさらに募らせただろうしな)


 ここでは話題になっていないが、実はライアジンズの面々も回収を終えてある。(全員気絶させてある)

 クワディ・ヤオなどは真っ二つにされたが、その程度で武人は即死しないし、密かに付着させておいた命気が炎をかろうじて防いだようだ。

 最初は彼らを見捨てておこうかと思ったのだが、契約通りに命をかけて守っていた様子に心打たれて助けることにした。

 全員重傷であり、後遺症が多少残るかもしれないが、それもまた彼らの怒りを助長させるに違いない。

 アンシュラオンはしばらく姿を隠すつもりなので、彼らの処遇は戦力の足りないソブカに任せるつもりでいる。


「ラノアもがんばったな」

「うん! なでなでして!」

「よしよし、なでなで」

「きゅっきゅっ♪」


 ラノアを撫でてやると小動物のように喜んだ。

 なかなか愛らしいが、容姿や性格以外でも彼女を好む理由が生まれていた。


(ラノアだけはモグマウスの存在に気付いたようだな。あいつらでさえ気付かなかったのにな)


 上質の武人であるラブヘイアやJBも、モグマウスの存在には気付かなかったことからも、アンシュラオンの隠蔽技術が優れていることを示している。

 その中で唯一ラノアは、時々意識をモグマウスに向けていた。完全に探知はできていないようだったが、なんとなく違和感を感じていたようだ。

 これは明らかに【術者の資質】が影響している。

 危機的な状況下において、彼女も無意識のうちに才能を開花させたのだ。これも大きな収穫である。


(もうすぐしたら落ち着けるから、サリータやラノアたちの特訓もしてやろう。楽しみだなぁ。おっと、そうだった。まずはあれを見せてやらねば)


「サナ、サリータに戦気を見せてあげな」

「…こくり」


 サナが浴槽から出て、意識を集中。

 ボッ ボボッ

 浅黒い美しい肌の表面に、視認できるほどの赤い戦気がはっきりと生まれた。


「な、なんと!! サナ様!! この短期間で戦気をマスターされたのですか!?」

「…こくり」

「す、素晴らしい! さすがサナ様です! ううう、本当に…すごい!! 私とは才能が違いすぎる!」


 それを見たサリータが驚愕し、涙を流す。

 そこに羨望はあっても嫉妬はない。心の底から畏怖と尊敬の念に満ちていた。

 仕える主人が、自分を超えてあっさりと戦気を習得する。その才能に単純に感動しているのだ。


(うんうん、いいぞ。いい反応だ)


 媚びも嫉妬もない素直な賞賛。これこそアンシュラオンが求めた反応である。

 これもまたサリータの徳性であり、彼女の存在価値が大きいことを示している。

 何事も素直なことは美徳なのだろう。才能はなくても実直さで上司に好かれるタイプといえる。


「シャイナも触ってみな」

「え? 触っていいんですか?」

「面白いから触ってみな」

「へー、これがセンキってやつ―――あっつぅううううう!?」

「ゲラゲラゲラッ!! 指が焼かれやがった!! ゲラゲラゲラ!」

「なんで触らせたんですかああああ! あっつ! あつうううう! ぎゃー、指紋がなくなったーー!」

「な? 言った通り、面白かっただろう?」

「ほんと先生って最低です!! 人間失格ですよ!!」

「ありがとう」

「だからなんで感謝されるんですか!?」

「さあみんな、風呂のあとは食事だ。遠慮なく食べてくれ」

「無視された!?」




 という「いつものネタ」を披露したあと、彼女たちはゆっくりと食事を楽しんだ。

 疲れきったのか、サリータたちはすぐさま眠りに落ちた。やはり精神的疲労が大きかったのだろう。


「サナ、ここは任せる。やれるな?」

「…こくり」

「よし、いい子だ。すぐに戻るよ」

「…こくり」


 そんな自分の所有物たちを愛しそうに見つめながら、アンシュラオンはそっと扉から出て行った。

 そして扉を出た直後、その優しい顔が真顔になる。


(オレがこの世界でもっとも大切にするのは、オレ自身で選んだものだけだ。サナが一番大切だが、それ以外の彼女たちも重要だ。それを脅かすものは…絶対に見逃してはおけない)


 そう心に誓い、アンシュラオンは闇に消えていった。




582話 「組紐の神獣 その1『魔獣を喰らう者』」


 ホロロたち一行が、秘密の地下道を通って逃げている頃。

 ホテルでは激闘が繰り広げられていた。

 今現在、ホテル内部で生き残っている人間は、たったの【二人】しかいない。

 その両者は互いを殺すべき敵と定めている。ならば、両者のどちらかが死ぬまで戦いは終わらない。


 ヒュンヒュンッ!!


 ラブヘイアに向かって数十本の黒紐が向かってくる。

 ラブヘイアは壁を走りながら距離を取って回避。

 逃げる逃げる逃げる。


 ドゴンッ! ドドドドドドッ!!


 黒紐は、たやすく壁を破壊しながら追尾。執拗に追いかける。

 ラブヘイアは、風衝・三閃で迎撃。

 黒紐を切り裂きながらさらに距離を取るが、斬ったはずの黒紐から新たな紐が生まれて追尾を再開する。

 その勢いはまったく衰えない。ラブヘイアが階段を駆け上がったり、落ちるように下に逃げても追い続けてくる。


(今までとはレベルが違う。これが彼の…いや、『救徒』の本気。簡単にはいかないものだ)


 黒紐の量、質、どれも今までの戦いとは比べ物にならない。

 真なる殺意を抱いたJBは、本気の本気で自分を殺しにきていた!!


「どうした! 逃げ回るばかりか!! 臆病者め!!」


 JB自身も巨体に似合わない速度で追いかけ、今度は赤い紐を生み出して火炎を噴き出してきた。

 ボオオオッ ドロオオッ

 ラブヘイアは間一髪のところで回避するも、火炎に触れた壁は、燃えるという段階を超えて一瞬で溶解する。

 現在の炎の威力も桁違いに上がっており、これを受ければ衛士隊が使っていた戦車であっても、あっという間に溶解するに違いない。

 やはりメイジャ〈救徒〉と呼ばれる者は、普通の武人とは明らかに違う。

 ラブヘイアも挑発には乗らず、安全に距離を取って戦うしかなかった。

 がしかし、それを許してくれる相手ではない。

 ゾワワワワワワッ!!!

 JBの身体から、百を超える紐が出現。


「ここを戦場に選んだのは、貴様の油断と慢心よ!!」


 一瞬広域爆破かと警戒したラブヘイアだが、JBにその必要はなかった。

 蠢く紐が重なり合って濁流と化し、通路をすべて塞いで襲い掛かってきた。

 ここは建物の中。逃げ場が少なく、中距離戦闘を得意とする彼には不利な戦場であった。

 ラブヘイアは咄嗟に天井を破壊して上に逃げる。

 だが、紐の勢いは凄まじく、いともたやすくラブヘイアに追いつく。


(勢いを止めねば、ただでは済まない。この状況下で最適な『スキル』は―――)


 ラブヘイアが左手を濁流に向けると、コールタール状の黒い塊が変形を始め、爬虫類に似た頭部を形成。

 その【蛇】の口が開くと、透明の液体を放射。

 ブシャーーーッ

 半分霧状に変化した液体が濁流に降り注ぐ。

 その直後、ラブヘイアが大量の紐に呑み込まれた。


 濁流の中は―――もう滅茶苦茶。


 細かい紐が身体中に絡み付いて、締め付けたり突き刺そうとしてくる。

 このままでは身動きが取れずに圧死の可能性さえありうる。


「はぁああああああ!!」


 ラブヘイアの発気。

 戦気を強く展開し、爆発させることで紐を吹き飛ばす。

 さすがに全部を駆除することはできなかったが、自由になった右腕と剣を使って剣王技、風雲刃を展開。

 ズバズバズバッ!!!

 発気の勢いを利用しながら身体を回転させ、竜巻を生み出して紐を蹴散らす。


(やつめ、あれから抜け出すとは…何かやったな?)


 黒紐の威力も数段上がっているのだ。そのパワーも強度も桁違いである。

 いくらラブヘイアの風雲刃が強くとも、風の力は素早さによる鋭さが最大の武器であるため、間合いを詰められると真価を発揮できないことが多い。

 あれだけ密着した状態では技の威力も半減しているはずだ。それにもかかわらず、自分が出した紐を細切れにすることには違和感がある。

 となれば、呑み込まれる前に放射した液体が怪しい。

 ただ、熟考している暇はない。

 ラブヘイアはそのまま天井を蹴ると、今度は下にいるJBに向かって突撃していく。

 風気を身にまとっているため、その速度は疾風そのもの。一瞬でJBの懐に入り込むと、蹴り一閃。

 バキィイイッ!

 押し出すように放った一撃が、JBの側頭部に直撃し、首がガゴンと曲がる。

 筋肉が断裂し、骨にまでダメージは伝わったようだ。

 通常の剣士は格闘技をあまり交えないが、戦士因子もある彼は肉体能力も高い。ガンプドルフ同様、こうした接近戦もできるのは強みだ。


「愚か者が。格闘で勝てると思ったか!!」


 が、JBはもともと戦士だった男である。単純な格闘で負けるはずがない。

 首が曲がったままラブヘイアの足を掴むと、床に思いきり叩き付けた。

 ドーーーンッ!

 身体が床に叩きつけられ、大きな亀裂が走る。

 これがどれだけの衝撃かといえば、この叩きつけられた力で大型トラックが吹き飛ぶくらいのものだ。

 しかも攻撃はそれで終わらない。


「ぬんっ!!」


 JBは、倒れたラブヘイアに向かって拳打を打ち込む。

 ドドドドドドゴンッ!!


「ごふっ!!」


 見た目に反して攻撃の速度に優れるJBの技は、非常によく切れる。

 ラブヘイアは防御の戦気を出すが、すべてを吸収しきれずダメージが浸透。吐血する。

 ここで幸いだったのが、床が脆かったことだ。

 あくまで一般人が暮らすホテルであるため、武人の戦いに耐えられるようにはできていない。

 身体に深刻なダメージが蓄積する前に、床のほうがもたずに崩落。それがクッションとなり致命傷には至らなかった。

 ラブヘイアが下の階に落ちる。

 そこにJBの黄色い紐が追撃。雷撃で仕留めようとする。


「死ね!!」

「くっ!」


 ラブヘイアが左手を突き出すと、今度は違う獣の頭部を生み出す。

 それと同時にJBが放った雷撃が曲がり、ラブヘイアから逸れていった。

 ラブヘイアは下の階の床に着地。左手を床に突き立てると、床の一部が左手の中に吸い込まれる。


 それを―――射出


 バババババンッ!!


「豆鉄砲など!!」


 撃ち出された弾丸のようなものをJBが黒紐で迎撃。

 これは以前にも見た技であるが、どうやら壁の材料を弾丸に変質させて撃ち出しているようだ。

 材料を補充するタイムロスと隙があるものの、残弾を気にしないで済むのは大きな利点であろう。

 しかし、その間にJBは赤紐をラブヘイアの背後に移動させており、彼が銃撃している間に爆炎を放つ。


「っ!」


 虚をつかれたラブヘイアは、よけられない。

 ボオオオオオオッ!

 爆炎に包まれたラブヘイアは、身体を丸めて防御の姿勢で受け、火達磨になりながらも走って距離を取る。


(直撃だ。これは耐えられまい)


 ラブヘイアは防御に長けた武人ではない。


 そんな彼がこの爆炎をくらえば、一瞬で消し炭―――にはならなかった。


 ラブヘイアは、火達磨になりながらも走っている。

 そもそもこの爆炎は、火が付くという段階を超えて溶解させるものだ。あのような火達磨の状態にはならない。

 ならばその炎は、JBの攻撃によるものではないのだ。


(なんだあれは? 【鱗】…か?)


 不審に感じてよくよく見れば、ラブヘイアの頬には鱗のようなものが生まれていた。まるでコウリュウが龍人化した時に似ている。

 だが、身体全体が龍人になったわけではなく、あくまで人体に鱗が付与された程度の代物なので、人間のままであることが大きな違いといえる。


(さきほどの液体といい、何か秘密があるな。あの左手が怪しい)


 JBが違和感を覚えたのが、ラブヘイアが多様な技を使うことである。

 それが剣王技ならば「剣術」なので問題はないが、どれも左手を介した特殊な技ばかりを使っているのだ。




 そうしてしばしの間、両者の攻防は続いた。



 戦いの様相は主に、JBが攻撃してラブヘイアが防ぐ、といった形である。

 どうしてこうなっているのかといえば、地形がJBに有利ということも大きな要因だろう。

 ラブヘイアが距離を取るにも、いちいち壁を破壊しなくてはいけないため、わずかな隙が生まれる。これがなかなか痛いのだ。

 その間にJBは紐を自在に展開し、上下左右から襲いかかってくるので、たまったものではない。

 接近してもJBは頑強で耐久力が高いため、簡単に倒すことはできない。ラブヘイアの苦戦も当然だ。


 ただ、現状が生まれている最大の理由は、これが【実力通り】だからである。


 本気を出したJBの力は、彼自身が豪語していた通りのものだった。

 身体能力ではマキを凌駕し、紐という特殊武装を持ち、なおかつ再生することができる生体兵器である。

 その実力は、この都市にいる武人を数段凌駕する。せいぜい守護者を伴った本気のプライリーラくらいでしか対抗できないだろう。

 風龍馬に乗ったプライリーラの実力は、セイリュウとコウリュウに匹敵する。となれば、JBの実力がいかに高いかがわかるというものだ。


(強い。私の実力では到底及ばない。ついこの前まで半人前だったのだから仕方ないことだ)


 一方のラブヘイアは、アンシュラオンと出会った頃はブルーハンターだった男だ。

 それなりに腕は立つが、同ランクのシーバンたちが秒殺されたことを思えば、ブルーハンターなどJBの敵ではない。

 むしろこの短期間で、ここまで成長したことが驚異なのである。

 ではなぜ、こうもJBと渡り合えているかといえば―――


「なるほどな。貴様の能力の見当がついたぞ。その力、【魔獣のもの】だな。どうやったのかは知らぬが、その左手を介して魔獣の技を扱えるらしい」


 ラブヘイアを追い詰めたJBは、ついにその能力を看破する。

 直接戦った者だからこそ感じる違和感。不審な挙動を見ていれば推測は可能である。

 そして彼の予想は、おおむね正解であった。


「たった二回の戦闘で見破るとは…さすがですね。そうです。私の力は【魔獣の能力をコピー】するものです」


 ラブヘイアのユニークスキル、『毛髪能力吸収』。

 魔獣の体毛を左手が喰らうことにより、相手のスキルをコピーすることができるレアな能力である。

 レクタウニードスの『磁界操作』もそうであるし、素材を吸って固め、弾丸のように吐き出す技も魔獣が持っていたものだ。

 あの蛇の頭部が吐き出した液体は強力な『腐食液』で、それによって弱らせた紐だったからこそ、あの状況でも簡単に打ち破ることができた。

 爆炎を防いだ鱗も『発火鱗』というスキルで、コウリュウの『炎龍鱗』のダメージカットを省いた下位互換に相当するものである。

 下位互換とはいえ、火属性の攻撃を半減させる効果はありがたい。こうしてJBの爆炎すら防ぐことができる優れものだ。


「長年ハンターとして魔獣と接していたからでしょうか。私にこのような才能があったとは驚きです」


 そう、ラブヘイアのユニークスキルは、アンシュラオンと別れてから得たものだ。

 ユニークスキルは、その当人の性質や傾向性に大きく左右される特徴を持っている。

 髪の毛に異常なまでの興味を示す彼にとって、こうした異色のスキルを得ることは不思議ではない。

 今でこそクールな印象があるが、もともとは変態であることを忘れてはいけない。

 が、簡単に得たわけではない。現にホロロたちが死を伴う実戦の中で成長したように、彼も地獄のような修練の末に手に入れたのだ。

 この力があるからこそ、ラブヘイアはJBと戦えるのである。


「自分から白状するとは余裕だな」

「どのみち結果が変わることはありませんからね」

「ふん、つくづく気に入らない男だ。他人から奪った力で強くなったつもりでいるとはな」

「あなたには言われたくはありませんね。お互い様でしょう?」

「ネイジアの気高い思想と、貴様の小賢しい下賎な欲求を一緒にするな。貴様は小汚いコソ泥と同じだ。さきほどの物言いから察するに、私の力も狙っているようだな。だが、私をそこらの魔獣と同じに考えるとは不快よ!」

「あなたがまだ、ご自分の本当の力を知らないだけのことです」

「ほざけ! いい気になっているようだが、貴様の欠点はすでに見切った!」


 JBが赤と黄色の紐を同時に展開。

 ボオオオッ バチバチバチッ!!

 雷と炎が同時に迫ってくる。

 ラブヘイアは雷を回避するも、炎はよけられなかった。再び爆炎に包まれるが発火鱗を使って防御。

 だがこれは、JBにとっては想定の範囲内である。

 一気に間合いを詰めるとラブヘイアの顔面に拳を叩き込む。

 ゴンッ ミシィイイイッ


「ぐふっ!!」


 一瞬、視界が真っ暗になるほどの衝撃。ラブヘイアは後退しながらダメージの回復を図る。

 ここで頼りになるのは左手なのだが、そうはさせじとJBは間断なく攻め込む。

 自身が炎や雷撃に巻き込まれても気にせず、三種類の攻撃を同時に繰り出していく。

 ラブヘイアが炎を防ごうとすれば、雷で。

 雷を防ごうとすれば、炎で。

 両者から逃げようとすれば、黒紐と打撃で。

 この連携にラブヘイアはまったく対応できず、ますます劣勢に陥る。


「貴様の弱点! それは能力を同時には扱えないことよ!! 所詮借り物だな!!」


 JBは戦いの中で、ラブヘイアの左手の能力の欠点に気付いていた。

 彼が力を使うときは、必ず左手が変形して魔獣を模した頭部を生み出す必要があるらしい。

 人間の身でありながら魔獣のスキルを使えるのは、極めて大きなメリットであろう。

 しかしながら違う種類のスキルを使うためには、頭部を切り替えねばならないという最大のデメリットがある。

 また、左手を使っている間は剣撃も満足に繰り出せない。これでは多様な場面に対応できるかもしれないが、結局のところ【器用貧乏】になってしまう。

 これはアンシュラオンも気付いたポイントなので、ラブヘイアの弱点といってもいいだろう。長所が短所にもなる良い事例である。


(この短期間で見抜かれるとは…熟練の武人とは怖ろしい。対人戦闘は難しいものだ)


 ラブヘイアは対魔獣戦の経験は豊富でも、対人戦闘の経験はそこまで豊かではない。

 人間の最大の武器は知能だ。戦いながら考える能力こそがもっとも偉大で、もっとも厄介なのだ。

 左手の能力もいまだ不完全である。このままではJBには勝てない。

 しかし、彼もただ逃げ回っていたわけではない。



 すでに準備は―――整った!!



「JB、あなたの本当の姿を見せてあげましょう」

「戯言を―――」

「代行者、獣魔の名において命ずる! 解!!」


 ラブヘイアの漆黒の左手が振動した瞬間―――世界が変わった。

 今まであったホテルの景色が消し飛び、空間が一気に拡大し、先が見通せないほどの巨大な場所に放り込まれる。

 あるのは、ただ地面だけ。

 上は無窮の空、左右には延々と広がる地平線という、某漫画の精神と時の部屋を彷彿させる場所が生まれた。

 これにはさすがのJBも驚愕。


「何をした!! ここはどこだ!?」

「あなたを安全に確実に殺すための場所を用意したにすぎません。広域破壊でもされては困りますからね。何よりも他に気付かれては困ります」

「馬鹿な。人間にこのような真似が…っ! いや、この気配……この力はまさか!!」

「どうやら気付いたようですね。ですが、もう遅い」


 ズズッ ズズズズズッ

 左半身のコールタール状の黒い鎧が、ラブヘイアの全身を覆っていく。

 これは単に覆うだけのものではない。身体を侵食し、細胞一つ一つを作り変える狂気の力だ。

 そして、全身が真っ黒なスーツ型の鎧と、獣の顔をした異形の戦士が生まれる。

 マタゾーを殺した時にも使った獣魔の本性である。

 普通の人間には何が起こったのか理解できないが、JBは一瞬で理解した。



「貴様…その力は人間のものではないな。支配者の―――【マスター】の力か!!」



 ラブヘイアが使った術は『空間系』のもので、通常の術体系からは外れたものである。

 世間一般では、押入れ君のような空間格納術も存在するが、人間が扱える空間術式などその程度のものだ。

 せいぜい結界を生み出して外敵からの侵入を防ぐのが関の山で、このように空間そのものを入れ替えることなどできるわけがない。

 唯一それができるとすれば、歴史に名を遺すほどの超絶級の術士か、あるいは支配者〈マスター〉と呼ばれる『神』に近しい存在だけである。

 自然を司る彼らは、人間とは異なる進化の道を歩む者たちである。その力を借りれば、このような芸当もできるに違いない。

 が、それ自体が異常。

 人間が支配者と関わることなど、歴史の中でもそう多いことではない。

 がしかし、さらにさらに異常なことがあった。



「【魔王様】のご依頼により、あなた方を討伐いたします。お覚悟あれ!」




583話 「組紐の神獣 その2『人の理を守る者』」


 ラブヘイアが逃げ回っていたのは、空間を切り替えるための術式を構築していたためである。

 全力の両者が戦えば、都市が内部から破壊されてしまう。これから起こる戦いの余波を考慮して防御結界を張ったのだ。

 これはプライリーラも考慮したことで、わざわざアンシュラオンと外で戦った理由と同じである。(彼女の場合は広い地形が必要だったこともある)

 ただし、その結界があまりに異常。異端。異様。

 それを如実に物語る単語がラブヘイアから出た。


「魔王…だと?」


 普段なかなか発する機会がない単語である。JBも思わず反芻して確認してしまうのは仕方がない。


「そうです。あなたもご存知でしょう?」

「無知な者ほど自分が知者だと思うものよ。貴様の物言いにはうんざりだ。【三王】のことを知らぬわけがない」


 この星には、『世界三大権威』と呼ばれる三人の【王】がいる。


 武を司る者、覇王。

 その肉体は世界最強、意思は強大にして、あらゆる人間の可能性を示す者なり。


 剣を司る者、剣王。

 人類の守護者にして、代を重ねるほど強くなり、世界の危機に立ち向かう者なり。


 理《ことわり》を司る者、魔王。

 世界の観測者であり、法則を管理し、星の進化を見守る者なり。


 以前荒野でサリータも感嘆していたが、よほどの無知でない限り、この三王を知らぬ者はいない。

 かといって三王と関わりを持つ者は少なく、関係者というだけで相当希少な存在といえるだろう。

 覇王の弟子にしても、せいぜい数人から数十人程度であるため、アンシュラオンがいかに貴重な人材かがうかがいしれる。

 剣王は、『剣王評議会』という独自の組織が存在するので比較的メジャーだが、それでも直接関われる者は珍しい。

 その中でも魔王は、見た者すらいないといわれるほどの存在である。疑い深い者は実在すら疑問視するほどだ。

 本来ならば、ラブヘイアが嘘を言っていると訝しがるだろうが、JBはその言葉を真実と考えていた。

 なぜならば―――


「臭う。臭う。支配者の臭いだ。間違いない。その力は支配者のものだ!!」


 ラブヘイア、獣魔という存在からはマスター特有の気配が漂っている。

 通常、それを感じることはできないのだが、彼の中にある【石】が強く反応しているのだ。


「貴様の余裕の源泉がわかったぞ。支配者にへりくだって力をもらったのか! 獣臭いやつめ! 恥を知れ!!」

「なぜそうもマスターたちを嫌うのですか」

「当然だ! やつらは【人の理】に干渉する部外者だからだ! 余所者が我らの星に関与しおって!! 何様のつもりだ!」

「その言葉を聞く限り、やはりあなた方は毒されているのですね。支配者は自然の管理者。敵対するほうが異常なのです」

「偽りの神であろうに!」

「彼らは女神との契約によって存在しています。ならば姿かたちは違えど、私たちの同志のはずです」

「貴様のほうこそ、その思想を誰に植え付けられた! この星は我ら人間のもの! 人が自ら歩み、新たに生み出そうとしたもの! けっして穢させはせぬ!」

「JB・ゴーン…いや、救徒。あなたたちがその力を使って大地を支配しようとすれば、それに対して自然の反発が起こります。魔王様がわざわざご依頼なさるほどの異常な事態なのです」

「それが貴様の神か? ならば相容れることはなし!! 人は自らの力で理想郷を生み出せる! 干渉は許さん!」

「あなたの言葉は、本当にあなたのものなのですか?」

「笑止! 当然よ!」

「いいえ、違います。あなたはもう『取り込まれている』のです。それを証明いたしましょう」

「論議など不要! ここで殺―――うぐっ!!」


 ドクンッ!!!

 獣魔に攻撃を仕掛けようとした救徒の身体が、突如として跳ね上がった。


 ドクンドクンッ!!

 ドクンドクンッ!! ドクンドクンッ!!

 ドクンドクンッ!! ドクンドクンッ!! ドクンドクンッ!!


 特定のどこかが跳ねるわけではなく、全身が脈動するように鼓動を始める。


「な、何が…うぐうううっ!! 何が起こって…! 貴様、何をした!!」

「何もしていません。ここ自体が『本性をさらけ出す法則』に満ちているにすぎません。そうした場所なのです」

「ぐううう、怪しげな…術を! これも支配者の…うううっ! 魔王め!! がはっ! 人の理に干渉…ううぐううううう!!」


 ズルルウウウッ

 JBの身体から大量の、大小色とりどりの紐が出現する。

 百、二百、三百、それはどんどん増えていき、次第に肉体そのものが幾多、幾重の紐となって空中に弾け飛んだ!!

 見た目としては、シュレッダーで裁断された書類のようなものだろうか。

 JBの身体そのものが完全に紐と化し、バラバラになった細切れの紐が空中に散乱している。

 だがこれは、彼が死んだことを意味するものではない。


 彼の本性―――『ストリング・エバーマインド〈救済思想の組紐〉』が真の姿を見せているのだ。



(なんと強く大きな思想だろうか。一本一本に相応の思念が宿っている)


 いまや数万にも及ぶ数になった紐は、単なる道具として存在しているのではない。

 この一本一本が―――【人の思想】によって生み出されている。



―――〈うおおおおお! 苦しい!! 苦しい!!〉

―――〈誰か助けて!! 熱い、熱い!! 水を!!〉

―――〈救済を…安らぎを!! 我らに平穏を!!〉

―――〈救世主!! 私たちの救世主を!! 人を守る者よ!〉



 かつて人間として生きていた紐は、叫ぶ。

 その中には非業の死を遂げた者が多く、誰もが苦しんでいた。

 助けて、救って、正して、解放して。

 JBが操っていた紐には、そんな願いが込められていたのだ。

 これは実際の人間が物理的に紐になったのではなく、その思念、残留した強い想いが磁気的なエネルギーとして残っているのである。

 だが、それだけでは力になりえない。人の感情がいかに強くても、この地上に大きな影響力を及ぼすためには【媒体】あるいは【媒介】が必要である。

 では、その媒介とは何か。


 それすなわち―――



―――〈ああ、かわいそうに。そんなに泣かないで〉


―――〈私があなたたちを守るから〉


―――〈人の理を作るから〉


―――〈救世主となって、人を守るから〉



 万の紐に包まれた中心部には、白く輝く【石】。

 姿かたちは、はっきりとは見えず、淡い光を放っている【意思ある光源】だ。

 それでも確実に存在している。人々の意思を束ねている。


「あれが…【賢者の石】。なんと美しく儚い。それでいて惹きつけられるような魅惑がある」


 獣魔も実物を見るのは初めてであった。

 賢者の石。

 かつて【黒賢人《くろけんじん》】が生み出したといわれる力の結晶体である。

 アンシュラオンがマングラスの聖域で見た、スパイラル・エメラルドとはまた違う輝きであるが、その本質は【愛】だった。

 愛はすべてを引き付ける。

 愛は磁力と同じだ。求めるものを引き入れる。

 母たる慈愛が、そこにはあった。



―――「獣魔、気を抜くんじゃないのだー! 出るぞーー!!」



「っ!」


 一瞬、その魅力に取り込まれそうになった獣魔だったが、自分の役目を思い出す。

 あれは単なる力ではない。すでに多くの嘆きを取り込んで、意思ある思想となった存在である。

 それを証明するように、紐が急速に絡まりあい、編み上げられる。


 しゅるしゅるしゅるしゅるしゅるっ!!!

 しゅるしゅるしゅるしゅるしゅるっ!!!

 しゅるしゅるしゅるしゅるしゅるっ!!!


 編まれる、編まれる、編まれる。

 人の意思とは、一本の紐のようなものだ。紐が集まって面となり、面が集まって形と成す。

 そうして生まれたのが―――




「ワタシは…誰? そう、ワタシ、わたし、私は―――救済者!! 魔を滅し、災厄を滅し、人の理を取り戻す者なり!!」




 『ヒト』の形をした、さまざまな色合いの紐で編まれた十五メートル大の【獣】。

 顔は存在せず、代わりに七色に光って激しく明滅しており、泣いているのか怒っているのかもわからない。

 背中には光が広がって翼のようなものが生えており、その中に救済者が求める理想が顕現している。

 この獣の中で理が形成されているのだ。彼らだけが求める理想郷が。

 もはやこれは人間が扱うべきものではない。そんなことは一目見た瞬間に理解できるだろう。



―――「データ照合完了! 【組紐の神獣】なのだー!! 出力は第三支配者階級に該当するのだー!」


「あれが…本体。賢者の石の本性なのですか?」


―――「石そのものには本性なんてないのだー。単なる残りカスにすぎないのだー。それが人間の思想を吸って肥大化したにすぎないのだー! 人間が馬鹿なことをするから、こっちにしわ寄せがくるのだー!!」


「致し方がありません。我々はそこまで優れた存在ではありません」


―――「言い訳はいいのだー! さっさと殺すのだー! この空間なら思想も殺せるのだー!」


「あれを…ですか。今になって自信がなくなってきました」


―――「こっちのほうがとばっちりなのだー! 魔王のやつ! くそめんどい仕事を押し付けて!! マジでぷんぷんなのだー!!!」


「いや、それはあなたに問題が―――」

「ヒトに救済を」

「っ!!」


 肥大化した組紐の神獣が輝くと、紐同士が共振を始める。

 それによって強大な圧力が発生。

 光が閃となって獣魔を呑み込もうと迫ってきた。


「はぁああああ!!」


 獣魔は右手に剣を生み出し、一閃。

 ズバーーーーーッ!!

 放たれた思念波を破壊し、かろうじて影響を受けずに済んだ。

 だが、その余波のせいか、耳元で誰かが囁く声が聴こえる。



―――〈救済を〉

―――〈ヒトに自由を〉

―――〈あなたも仲間になって〉



―――「気をつけるのだー! 『精神感応波』なのだー! 心を制御しないと汚染されるのだー! 思想系の石が得意とする攻撃なのだー!」


 賢者の石には、その傾向性に応じていくつかのカテゴリーが存在する。

 ストリング・エバーマインド〈救済思想の組紐〉は、その名の通り「思想」に属する石で、人々の物の考え方を吸収することで生まれた存在である。

 怨念や怒りで生まれたものなどは「感情」、物理的な波動によって生まれたものは「物理」等々、多様な形態が存在する。

 グラス・ギースに眠っているスパイラル・エメラルドは、もともとは物理系に属していたが、それを「願い」によって昇華したものなので、「祈り」というカテゴリーに属している。


 「思想」と「祈り」は似ているが違う。


 後者は純粋な願望や自己犠牲の心によって成り立つが、前者の思想は物事を強制的に促す性質を持っている。

 多くの宗教の目的は、特定の考え方を是とし、自らが望む世界を生み出すことにある。

 問題は、それ以外を排斥する点だ。自らが正しいと思ったことだけが正義であり、他は必要ないという危険な思想によって成り立つ。

 宗教のレベルを見極めるにあたって、ここが重要だ。他を排除しようとするものは、総じて危険で劣った思想といえる。

 そして、そんな思想ほどたちが悪く、仲間を増やすために【洗脳】を開始する。

 この精神感応波には、他人を自分の支配下に置くといった【術式】が編み込まれていた。

 これが普通の人間だったら即座に精神崩壊を起こし、肉体ごと相手に取り込まれるだろう。

 ラブヘイアも獣魔になっていなければ、今の攻撃で紐の一つにされていたかもしれない。

 気をしっかり保ち、戦意を高める。


(今は獣魔としての力がある。やることは同じ! あの御方の期待に応えねば!! 私は少しでも近づく!!)




 その後、獣魔は決死の戦いを挑んだ。


 神獣の攻撃は精神感応波だけではない。紐を使った攻撃は健在で、獣魔を取り込もうと襲いかかってくる。

 剣で斬り、肉体で殴り、蹴り、時には強化された魔獣のスキルを使って迎撃する。

 両者が激突するたびに、空間が揺れんばかりの衝撃が起きる。



 そうして二十分あまりの激闘が続くが、最初に悲鳴を上げたのは、脳裏に響く『謎の声』だった。


―――「ぎゃーー! 空間がもたないのだー! あと五分で崩壊するのだー!」


「がんばってください!! ここで力が漏れたら都市が吹っ飛びます!!」


 JBは、神獣の力を使って広域爆破をしていたのだ。

 ならばあれの中には、直径百キロを一瞬で破壊する戦術核レベルの力が眠っていることになる。

 それと対峙して互角に戦っている獣魔も恐るべき存在であるが、賢者の石を相手に決定打を与えられないでいる。


「ここで失敗したら魔王様に折檻されますよ! あと八分はもたせてください!!」


―――「わ、わかったのだー! くそー! 本体さえ封じられてなければ!! 全部魔王が悪いのだーー! というか、八分で勝てるのかー!?」


「私とて、遊びで来ているわけではないのです。仕留めます。しかし、あれを相手にするには獣魔の力では不足です」


―――「なにー!? あたちの身体じゃ不足だって言うのかーー! せっかく分け与えてやったのに! 恩知らずなのだー!」


「致し方ありません。最後の手段ですが、あれをやります」


―――「まさか…まさかまさか!! それだけはやめるのだーーー!」


「私もあなたも、後先など考えていられる立場ではありません。あなたは贖罪のために、私は…自らの理想のために!!」


 そう言うと、獣魔は自身の胸に指を突っ込む。

 ブスッ ずるる

 そこから取り出したのは、【一本の長い髪の毛】。

 髪の毛は白く、ただただ白く、この世のものとは思えないほど美麗に輝いていた。

 この髪の毛は、どうやっても燃やすことができない。腐って朽ちることもない。存在そのものが違うのだ。


「はぁはぁはぁ!! わ、私は! 私は―――ガブッ!!」


 見つめるだけで夢見心地になるそれを、ずっと愛でていたい気持ちを抑え込み、ほんの一ミリだけかじった。

 傍目から見れば、まったく意味がわからない行動だ。

 頭がおかしくなったのかと疑いたくなる。

 が、謎の声はさらなる悲鳴を上げる。



―――「ヒイイイイイイイ!! やっちまったのだーーーー!! お前は本当にヤバイやつなのだーーー! 人間ってコエーーーーー!! そんなもん、よく取り込めるのだーー!!」



「はぁはぁはぁ…うぐっ!!! ううううううううっ!!」



 ドクン!!! ドクンッ!!

 髪の毛をかじった獣魔に変化が訪れた。

 光さえ反射しない全身真っ黒だった身体、その頭部から―――


 ゾゾゾゾゾッ ブワーーーーッ!!!


 白い髪の毛が、生えた。

 髪の毛は伸び続け、どんどん伸びて足先に達する。

 何にも侵されない絶対なる白。無限の白。純潔の白。

 だがそれは―――



「うううっ、ウガアアアアアアアアアアアアア!!!!」



 劇薬!!!

 この世のすべてに染まらない、完全なる白とは、この世界でもっとも恐るべき毒薬なのだ。

 人の理を壊すほどの世界のシステムが、こんな小さなものの中に凝縮されている。

 それを飲み込んだ者は、どうなるのだろうか。

 ただ肉体に取り入れただけならば、さほど影響はないかもしれない。それは単なる物質にすぎないからだ。

 しかしながら、彼のユニークスキルを使えばどうなるだろうか。

 『毛髪能力吸収』は、魔獣だけに効果を及ぼすものではない。むしろ魔獣のスキルを奪う効果は、獣魔になったことで得た副産物にすぎない。

 このスキルの最大の力は―――


「ううううう!!! ううううううううう!! 私は、ワタシ…はあああ! なるのだ!! あの御方に……白き……英雄に!! あの人に近づくために―――ワタシはああああ!!!!」


 ブワワッ!!!

 歌舞伎の連獅子のように長く伸びた白い髪が、波打ち、震えた。

 そこから出る波動は、まさにまさにまさに。


 彼は求めた。


 彼は欲した。


 自らが憧れと【同化】することを。


 それそのものになることを。




「最強の力! 災厄の―――魔人!!!」





584話 「組紐の神獣 その3『廻る因果』」


 そこには黒い顔はそのままに、後頭部から白く長い髪の毛を放出した獣魔がいた。

 この鎧は支配者から分け与えられたものであるが、白い力はすでにそれすら浸食を開始している。


(なんという強い力…!! すべてを否定されながら、すべてを与えられるような全能感!! 私は今、世界を垣間見ている!!)


 獣魔が喰らったのは、【魔人の髪の毛】。

 そのたった一ミリを体内に取り入れただけで、身体全体から力が溢れていくのを感じる。

 自分が世界そのものになったように意識が拡大していく。

 この瞬間、今この時間、自分に勝るものは存在しないと確信する。

 自信がまったく持てなかった気弱な男にとって、この全能感は至福であろう。

 そしてこの力は、目の前の相手を屠るために使わねばならない。



「思想を殺す!! この魔人の力で!!! あの御方から与えられた力で!! 私の神こそが最強だと示すのだ!! 過った神を喰らって、殺して!!」



 獣魔、いや、この状態をそのままの名前で呼ぶのは失礼だろう。

 【獣魔人】は、組紐の神獣に向かって突進。

 もはや音すら発しない。

 意識と同じ速度で、彼は一瞬にして神獣の眼前に出現する。

 そこで拳を繰り出した。

 思うままに自由に繰り出した一撃が、神獣の顔面に直撃。


 ボンッ


 拳が当たった瞬間、その衝撃に耐えきれず、頭部が吹っ飛ぶ。

 この現象だけならば、何度か打ち合った中でも発生しているのだが、今回は決定的に違う結果が訪れる。

 ジュウウウウウッ


「ッ!!! グウウウウッ!! ガアアアアアア!!」


 神獣の顔は、失われたまま【再生しなかった】。

 エバーマインドの最大の特徴は、思想がある限りは絶対に死なない、というものである。

 JBを狙う輩は今までも何人かいたが、誰もがこの再生を止められずに敗北を喫している。

 たとえば宗教が一度広まると、それを根絶するのは極めて困難だ。

 間違いを正そうとしても、一度植え付けられた思想は消えず、あまつさえ増えていく。

 友人から友人に、親から子供に、教師から学生に。

 そうして広まった思想をすべて焼き払うのは、本当に難しいことなのだ。だからこそ思想教育はとても重要なのである。

 がしかし、この思想を殺すための手段が存在しないわけではない。

 それはいくつかあるが、もっとも簡単なことは―――



「【魔人の思想】が、あなたを殺す!!」



 獣魔人の体表の戦気が肥大化し、新たな思想を生み出していく。

 白い世界。

 完全なる白の世界であり、誰もが平等を約束された完璧な世界である。

 汚れ一つ、染み一つない完全なる白い世界に、欠点など何一つない。

 なぜならば、その頂点に君臨する者が『絶対強者』だからだ。

 魔人という完全なる存在の前に人々は抵抗できない。支配され、すべての自由は魔人から与えられたものでしかない。

 しかしながら、それこそが幸せ。

 朽ちることもなく、滅びることもない絶対的な存在に支配される世界は、支配される側からすれば平等で幸福である。

 逆らう者はすべて消滅するだけなので、反乱する者もいなければ、そんなことを考える不逞の輩もいない。

 ある種、完全なる隷属が確立された世界といえる。


「グウウッ!! 人の理を…!! 守る!!」


 だがそれは、人の理とは異なったものだ。

 神獣は人を守ろうとして決死に立ち上がる。

 がしかし。


「無駄ぁあああ!!」


 獣魔人が神獣の背に取り付くと、翼の根元に手をかけ―――引きちぎる!!

 バリバリバリッ!!



―――〈ぎゃああああああああ!〉

―――〈私たちの救済者があああああ!!〉

―――〈やめて! 理を壊さないで!!〉



「弱いものは、強いものによって淘汰される! それはあなたたちが求めたこと!! ならば従うのです!! より強き存在に!!」



―――〈嫌だ!! 従うものか!!〉

―――〈人以外の存在に従うものか!!〉

―――〈人外は滅びろ!!〉



「それこそ傲慢矛盾!! 世の理に従えぬのならば―――死あるのみ!!」



 獣魔人が引きちぎった翼を放り投げ、そこに風雲刃を展開。

 ズバズバズバッ!! ばらばらばら



―――〈ぎいっやあああああああああああ!!〉

―――〈なに!? なんなの!? この白い力は!!〉

―――〈消える! 私たちが…消える!?〉

―――〈ば、ばけもの…!! ひぃいいいい!〉



 思想を殺すのは、思想のみ。

 この空間では、より強い思想が力を持つ法則に満ちている。

 思想が、思想に喰われて砕けていく。

 一度喰われた場所は、二度と再生することがない。

 人の思念、怨念と呼べるものが浄化―――否、【破壊】されていくのだ。

 災厄の魔人の力は、人の理を破壊するシステムの一つである。

 この力をもってすれば、救済思想を砕くことは難しくない。


 獣魔人は、この魔人思想を使って神獣を切り刻んでいく。


 ズバッ!!


―――〈ぎゃああああああああ!〉


 ザクッ!!


―――〈ひいいいいいいいいい!〉



 斬られ、抉られた箇所から断末魔の声が聴こえる。

 強大な魔獣に人間がゴミのように殺されるように、圧倒的な暴力の前になすすべがない。


「はぁはぁ!! ふふふ、ハハハハハハッ!!! なんという―――快感!! これが、これが、これがこれがこれが!! 白い力なのか!!」


 獣魔がこの力を使うのは、二度目だ。

 一度目は実験として投与されたものだが、あまりの力の強さに獣魔でさえ昏倒してしまった。

 それを使いこなすには、獣魔の【核】となるラブヘイアが強くなる必要があった。

 数々の戦いを経て、ようやく拒絶反応に耐えられるようになったので使ったわけだが、そのあまりの強さに酔いしれていた。


「はぁはぁ! た、たまらない!! く、癖に…クセになるぅううううう!」


 暴力を振るうたびに快感が走る。

 相手が痛がるのを見るたびに愉悦が滲む。

 かなり陰惨な感情ではあるが、いじめが楽しいと思えるのは、そうした嗜虐的な性癖によるものである。

 彼の中にも、血を求める感情が眠っている。武人という戦うための存在には、多かれ少なかれ痛みを楽しむ感情がある。

 それが魔人因子によって急速拡大し、血を好む破壊の権化へと変質させていくのだ。

 極めて危険。極めて悪辣。

 こんなものを使うなど狂気の沙汰であり、マスターと呼ばれる支配者たちからすれば、常軌を逸したものでしかない。


―――(こんなやばいものを使うなんて、魔王はマジなのだー。何を企んでいるのかわからないけど、歴史の転換期ってことなのだー。くっ、ちょっと面白いかもしれないのだー!)


 『彼女』自身も、けっして好き好んで魔王に従っているわけではない。半ば懲罰として助力することを命令されている。

 それには屈辱感と復讐心を抱くが、今は自分も人間側についている身である。

 獣魔人と『接続』していることもあり、彼の感情が伝わってくる。

 人間とは、なんと醜いのか。

 人間とは、なんと愚かなのか。

 人間とは、なんと粗暴なのか。


 だが、それがいい。


 血に酔う感情すら甘美で情熱に溢れ、官能的だ。

 これは肉の身体を持つ人間だからこその未熟性であり、未熟だからこそ無限の可能性を感じさせる。


―――「獣魔! 核が出てくるのだー!! 核を仕留めないと終わらないのだー!」


 獣魔人が、組紐の神獣をバラバラに引き裂く。

 だが、これでもまだ思想は滅びない。その中心となっている存在を破壊しなくてはいけないのだ。

 その核こそ―――



「ぐううう! 貴様…!! キサマァアアアアアア!!」



 すべての思想が剥がされ、剥き出しの石と同化したJB・ゴーンがいた。

 彼からは、もう紐は出ていない。

 その思念を、根こそぎ削《そ》いでしまったからだ。


「このような…! 貴様のようないびつな存在に、救済者が負けてたまるか! 救済者こそ、すべての人々の希望! 我らが道標なのだ!!」

「JB・ゴーン、あなた方は禁忌に手を染めた。だから粛清されるのです」

「どちらが禁忌だ…!! 今の貴様は…まるでケダモノだ!! 血に飢え、破壊することを悦ぶような痴れ者め!!」

「力によって動く理もある。あなたがやっていたことと同じです」

「その根幹に思想があってこそよ!! 貴様の行く先に未来など、無い!!」

「なんと言われようと終わりです。ここであなたは死ぬ」

「貴様のような輩に!! 魔王の下僕などに崇高な思想は渡さぬ!! 滅びよ!!」


 JBが、強く強く自身の身体を抱きしめる。

 何かを必死に守るように、そこに宝があるように、わが子がいるように、ぎゅっと抱きしめる。

 ボゴンッ!!

 それと同時にJBという存在が消えた。

 残ったのは光の塊。淡く輝く光源のみであった。



―――〈ああ、わが子の願いを聞き届けたい〉



 ボゴンッ! ボゴンッ!!

 光源が、肥大化。


 ボゴンッ! ボゴンッ!!

 ボゴンッ! ボゴンッ!! ボゴンッ! ボゴンッ!!


 力が激しく収縮を始め、赤黄黒と色を変えていく。

 それがいつしか混じり合い、融合していくにつれて周囲に力が漏れ始める。


 ビシッ!!

 
 溢れ出た光に触れた空間に亀裂が入った。



―――「まずいのだー! 自爆するつもりなのだーーー! 狂った母性が爆発するぞーーー!」


「母性…母の愛は無限だということなのですね。これも愛の形でしょうか」


―――「感心している場合じゃないのだーー! もう本当にもたないのだ−! こうなったら逃げるのだーーー!」


「逃げても何も変わりません!! 前に!! 一歩前に!」


―――「こんなときに何を言っているのだーーー!?」


「ビリ子さん、覚えておいてください。人間は愚かかもしれませんが、前に歩もうとする心だけは誰にも負けません。その先にこそ可能性があるのです。だから歩むのです」


―――「なんかカッコイイこと言ったけど、ただの戦闘狂なのだーーー!」


「怖れることはありません! 私には力がある!! この白き英雄の輝きが!!」



 獣魔人は、すべての力を剣に集める。

 漆黒の剣が白く輝き、こちらも一気に肥大化を開始。

 見る見る間に巨大化した刀身は、巨人が扱うのかと思えるほど大きくなった。


「世界は魔人によって正される。私は、その思想を支持する!!」


 獣魔人が、駆ける。

 彼はきっと純粋な人間なのだろう。だからこそ、こんな危ないものを平気で使ってしまう。

 若者が過激化するように真面目で素直な人間ほど、一度染まると躊躇しないものだ。


 獣魔人が、剣を振り下ろす。



 白き剣が、賢者の石を―――





「弱―――即斬!!!」





 切り裂いた。


 この力は、あらゆるものを破壊する。


 肥大化した救済思想、その力の源となった賢者の石が崩壊。





 空間が―――爆発




 あらゆるものが白に染まり、世界が見えなくなった。







 そこには、何もなかった。

 ホテル・グラスハイランド〈都市で一番高い場所〉と呼ばれた建造物は、完全に消滅していた。

 厳密には一階の地上部くらいまではかろうじて現存しているが、そこから上がすっぽりと抉り取られていたのだ。

 これらの現象は音もなく発生したので、ホテル街に注意を払っていなければ気付かないだろう。

 いや、仮にずっとホテルを見ていたとしても、まるで映像トリックのようにいきなり消えたものを、はたしてどれくらいの人間が認識できるだろう。

 気付けば消えていた。

 これが事実であり、その原因を知る者は当事者以外にはいない。


「…なんとかなりましたね。どうやら被害も最小限にとどめられたようです」


 獣魔人が周囲を見回し、異常がないことを確認。

 そこでようやく抉り取られたホテルの上で安堵する。

 だが、一歩間違えればこの程度では済まなかったことを思えば、ギリギリの戦いであったといえるだろう。

 実際に空間の制御をしていた彼女は、ひどくご立腹だった。


―――「なんとかなった、じゃないのだー! 危なかったのだーーー!」


「結果が伴えばよいのです。私は強者と戦うことができて、あなたは石の回収ができる。自然界の共生関係と同じです」


―――「お前は本当に狂っているのだーー! こんな生活、もう嫌なのだー!」


「何を言っているのです。まだ始まったばかりですよ。それで、石は回収できたのですか? 私の目には消失したように見えましたが…」


―――「石そのものの姿は幻みたいなものなのだー。重要なのはデータなのだー。それはしっかり回収してあるのだぞー! これを回線を使って送って……よし、完了なのだー! あとはあっちで封印作業が行われるはずなのだー。それと獣魔のデータも更新しておいたのだ。あの紐も使えるようになったのだー!」


「仕組みがよくわかりませんが…不思議なものですね。私としては武器が増えるのはありがたいですが…」


―――「うう、付き合うビリ子は全然ありがたくないのだー! どうしてこんな目に遭うのだー。本当は人間が跋扈する地上になんていたくなかったのにー」


「あなたが反逆したからでしょう?」


―――「支配からの脱却! それが青春なのだーーー! 魔王に逆らうのは【追放者】の性分みたいなものなのだー!」


「はぁ…なるほど。いろいろと大変なのですね」


―――「それよりビリ子の見立てだと、あれは【枝葉】にすぎないのだー。何の解決にもなっていないのだー!」


「では、やはり…根っこではなかったのですね」


―――「そうなのだー。大本を断ち切らないと、また増えるかもしれないのだー。人間の思想ってのは怖いものなのだぞー」


「力を分け与えた救済者当人を殺さねば終わらない、ということですか」


―――「そうらしいのだー。しかし、どうしてお前みたいな弱いやつを使うのだー? 【あいつ】が出ればすぐに終わるのだー!」


「あの御方にとっては、これも遊びなのです。その駒に選ばれるとは光栄なことです」


―――「お前、変態だなー」


「自覚はしていますよ。さあ、そろそろ会話も終わりにしましょう。誰かに悟られては面倒ですからね。あなたはあなたの役目を果たしてください。そうしないと酷い目に遭いますよ」


―――「屈辱的なのだー! でも、逆らえないのだー! はぁ、本当に災難なのだー。疫病神と怖れられたビリ子だったけど、本当の疫病神はあいつなのだー。もう帰りたいのだー」



 ブツリッ

 文句を言いながらも声は消えていった。

 彼女との会話は、この獣魔となっている自分との間でしか行えないとはいえ、絶対に傍受されないとも限らない。

 要件が済んだ今、さっさと切っておくのが正解だろう。


(ふー、終わった。たった一人の救徒を倒すのに、これほどの手間とリスクを負うとは…これからが大変だ。だが、この力は…すごい。この力があれば、私は…)


 獣魔人が、ごくりと喉を鳴らす。

 さきほど感じた破壊の衝動は、なんと甘美なものであっただろうか。

 それを思い出すだけで達してしまいそうになる。この白い髪の毛も、撫でるだけで恍惚とした気分に浸れる逸品だ。


(素晴らしい。素晴らしい! ああ、そうなのだ。私は俗人の誰もが欲しながらも、簡単には得られないものを得たのだ!! これは至上の幸福なのだ!!)


 獣魔であること、獣魔人であること。

 それだけで通常の人間とは明らかに異なるステージに突入できるだろう。

 その優越感だけでも価値があるが、何よりも理想に近づけることが嬉しかった。


(さて、戻ろう。クロスライルへの対処もしなくてはならないが、何よりも今は姿を隠すのが先決。これを誰にも見られてはならない)


 JBが消えれば、相棒のクロスライルも不審に感じるだろう。

 彼は石を持っていないので狩る対象ではない。無駄な争いは避けたいところであった。



 そう思い、獣魔人がそっと姿を消そうとした瞬間であった。
 







―――ウ・ゴ・ク・ナ







 魂が、震えた。


 一瞬にして大気の流れが止まり、刻が静止する。


 呼吸ができない。


 視線どころか、眼球さえ動かせない。


 もはやその声は、文字では表現できないほど怖ろしく、地の底から凶悪な悪鬼が這いずり出てきたようである。



「動くな。動けば殺す」



 獣魔人の背後には、一人の【少年】がいた。

 いつしか月が雲に隠れて、世界は真っ暗闇になっている。

 こんな世界では闇に埋もれ、どのような宝石も霞んでしまうだろう。

 だがしかし、その少年だけは、はっきりとその姿を映し出す。


 漆黒の中でも明らかに目立つ、白い髪の毛。

 血のように赤く輝く二つの双眸。


 その少年、アンシュラオンがいつの間にか獣魔人の背後にいたのだ。


(うごけ…ない)


 獣魔人の身体は完全に硬直し、身動き一つ取れなかった。

 背後から恐るべき圧力がかけられている。

 いつもの、のらりくらりと楽しんで余裕のあるアンシュラオンの声ではない。


 この時の彼は、珍しく【本当の姿】を見せていた。


 その理由は、彼が発した言葉によって判明する。




「オレの質問に答えろ」




「どうしてお前から―――」









―――【姉ちゃんの匂い】








「―――がするんだ?」









585話 「炎の宣告」


 アンシュラオンが発した言葉。


―――姉


 世間一般でも功罪含めて偉大な名称であるが、こと彼にとってみれば、世界を揺るがしかねない大きな意味を持つ。


「お前はオレの女たちを助けた。だから見逃してやろうと思ったが…そうはいかない事情ができた。くんくん、やっぱりだ。匂う、匂う。間違えるわけがない。姉ちゃんの匂いだ」


 生まれてからずっと嗅いできた匂いである。

 ここ最近毎日嗅いでいたサナの匂いも印象的だが、姉のものは年月もインパクトも圧倒的に上だ。忘れるわけがない。


(気付かれないように配慮はしたが…やはりこの状態がまずかったか)


 もちろん獣魔人にとっては想定外。

 我々が考える通常の匂いという意味では、ほぼ無臭であるし、極力気付かれないようにしていたつもりだ。

 ただやはり獣魔人ともなれば、発せられる波動は段違いだ。

 アンシュラオンも最初は、自分が使った駒たちが発した気配だと誤認していたのだが、もはや見逃すことができないレベルにまで至っていたようだ。


「答えろ。なぜお前から姉ちゃんの匂いがする?」

「………」

「どういう関係だ?」

「………」

「何を命じられた?」

「………」

「何が目的だ?」

「………」

「なるほどな。何か『術式』をかけられたな。姉ちゃんなら造作もないことだろうよ」

「………」


 獣魔人は、答えられない。

 そう、答えないのではない。答えられないのだ。

 獣魔人は駒の一つにすぎない。彼女に関することは、何一つ答える権限を与えられていない。

 このあたりは戦罪者に極めて似ている。


(出会えば、こうなることはわかっていた。だから避けていたのだが…最悪の状況だ)


 背後からかけられる強烈なプレッシャーは、今まで感じたことがないものだ。

 これだけの力を顕現している自分が、眼球一つ動かせない状況にある。

 なにせ後ろにいる少年は【本物】なのだ。


 正真正銘、災厄の魔人に連なる者。


 さきほどまで獣魔人が使っていた思想上では、絶対強者であることを意味する。

 さらに最悪なことに、彼は非常に苛立っている。


「オレが、オレが…! オレが自由に生きて! 自分の意思で楽しんでいるのに、お前たちは邪魔をするのか!!! ふざけるなよ!! オレの獲物は誰にも渡さない!!! 殺す、殺す、殺す!!」


 ゾワワワワワワッ!!

 獣魔人の髪の毛が、発せられた殺意に反応して逆立つ。

 弱い生き物が本能で毛を逆立て、自分を大きく見せようとする行為と同じだ。

 これがすでに実力の差を如実に証明している。

 だが、この瞬間、獣魔人はふと思った。


(なんという…圧力! す、素晴らしい! これが…あの御方たちの本当の力!! 普段はまず見られることがない魔人の力!! それと比べて、今の私はどこにいるのだろうか? どれくらい通用するのだろうか?)


 どうして彼が、こんなことを思ったのかはわからない。

 おそらくJBと賢者の石を圧倒的な力で粉砕し、『調子に乗っていた』のかもしれない。

 血に酔う、といった表現が適切だろうか。血の興奮によって気が大きくなっていたのだ。

 平常時ならば絶対に考えない、ちょっとした好奇心。戦国時代や三国志ならば、主がいない間に城を乗っ取れるのではないかという、ちょっとした野心。

 ラブヘイアという男は純粋だ。

 そこまでの野心はないにしても、憧れの存在を目指して、人であることを捨てようとしているほどの人物だ。

 なればこそ、そう考えるのも致し方がない。それが武人という生き物なのである。


「オレの大事な女たちは、誰にも渡さない!! オレのオレのオレの、オレのものだ!! オレの所有物に手を出すやつは、姉ちゃんだって許さない!!! オレは誰にも支配されない1! 全部オレのものだ!!」


 現在のアンシュラオンは、防衛本能が極めて高まって凶暴な状態にある。

 ずっと姉を怖れて生きてきたのである。彼女が来てしまったらゲームオーバーだ。

 恐怖。愛情。反発。

 姉弟特有の特殊な感情が入り混じり、自分で自分を制御できない精神状態に陥りつつある。


(あの御方の弟君。白い英雄と戦って勝ち目などはない。だが今の私ならば、一太刀くらいは入れられるのではないだろうか? これだけの力だ。自分を測るための良い機会かもしれない。今ならば、この一瞬ならば…いける!)


 自分とて同じ魔人の力を有している存在。

 ならば少しは、と思うのが人情だろうか。

 そして、意を決した。



(私は、私は!!! あなたに近づくために―――)



 初めて見た時から、心に焼きついた。

 一瞬たりとも忘れたことなどはなかった。

 白き輝き。最高の英雄の資質。超常なる力の片鱗。

 だから求めた。ただただ求めた。

 だから、だから、その成長を少しでも認めてほしい。

 かつては指で簡単に止められた剣撃。それを覆す力を見せたい。

 憧れの人に「強くなったな」と思われたい。

 彼の心情を素直に表現すれば、こんな清いものだったに違いない。

 誰にでもある感情であり、誰にも責めることはできない。



 獣魔人が背後を振り返った。



 まだアンシュラオンは、姉のことに気を取られて怒り狂っている。



 これならば十分に間合いに入れる。





 そう思った瞬間―――







―――ブツリッ







 世界が、完全なる闇に包まれた。

 何も見えない。何も感じない。

 テレビが壊れた時のように、ブツリと切れた世界には完全なる暗黒だけが佇む。

 ただし、その状況で唯一、わかったことがあった。




―――自分が【死んだ】




 という事実だけが、直感としてわかってしまったのだ。

 何が起きたのかはわからない。

 すべてが知覚されないまま死んでしまった。

 彼に残されたのは、その事実を認識する刹那の時間だけ。

 ある意味では、これだけでも慈悲だろう。


(ああ、なんて愚かなことを考えたのだろう。なぜ、ただの蟻にしかすぎない私が、天に届くと思ったのだろうか。これが現実なのだ。永遠に届かないのだ)


 どれだけ自分が強くなろうとも蟻は蟻にすぎない。

 自分が巨大な存在になったと錯覚した、小さく愚かしい生物にすぎないのだ。


 なぜならば、すべての存在の頂点に立つのは【彼と彼女の二人】のみ。


 それは最初から決められていることである。それこそ天の理、世の理。

 さきほど己が、JBに対して述べたではないか。傲慢にも偉そうにして。

 だが所詮、自分も彼と同じ存在なのだ。魔人から見れば、すべては平等なのだから。

 同時に、それが嬉しかった。



(永遠に届かない。だからこそ…美しい。やはりあなたは…私の憧れだった)



 そして、ラブヘイアは死んだ。






「ちっ!! 殺しちまった!!」


 殺した側のアンシュラオンも、ほとんど反射的に殺していた。

 防衛本能が過敏になっていたこともあり、警戒態勢は万全だったのだ。

 彼が言っていた「動けば殺す」は事実だった。

 獣魔人の速度は、ほぼ意識と同じレベルであったことは間違いない。

 そうでありながらも【本気のアンシュラオン】から見れば、スローモーションのような動きに見える。

 相手が動いた瞬間、アンシュラオンは考えるよりも早く真後ろにまで迫り、心臓に貫手を突き刺していた。

 それだけで相手が死なないことはわかっていたので、戦気を膨張させて心臓ごと上半身を破壊。

 その次の瞬間には首を撥ね、捕まえて固定し、もう片方の拳によって頭部を完全に破壊していた。


 残されたのは、獣魔人の下半身だけ。


 すべてが刹那の時間で行われたことだ。覇王や姉によって、殺しの技術を徹底的に教え込まれた彼は、これらの動作をほぼ無意識で行っていた。

 その状態に至って、ようやくアンシュラオンも我を取り戻す。


「くそが!! 雑魚のくせに戦意なんて向けやがって!! これで姉ちゃんの情報が得られなくなった!!! この役立たずが!!」


 たとえば捕まえた虫を観察していたら、噛まれてついついカッとして、勢いで握り潰してしまう現象に似ている。

 本気になったアンシュラオンからすれば、獣魔人などこの程度の存在にすぎない。

 だからこそ腹立たしい。こんな雑魚に自分が苛立ったことが。

 しかし、もう殺してしまったのだから仕方がない。

 そこは割りきって冷静に―――などなれない!!


「やばいぞ!! 姉ちゃんが近くにいるのか!?! だとしたら…逃げないとやばい!! もう利権なんてどうでもいい! 今すぐ遠くに逃げるんだ!!」


 姉が来る。

 その恐怖心の前に、冷静などという言葉は何の意味も持たない。

 グラス・ギースで得ようとしていた金も惜しいが、姉に見つからない自由な生活が大前提である。

 即座にサナたちを連れて逃げる。それしか道はない。

 あんな化け物にどうやって対応すればいいというのか。無理だ。まずは逃げるしかない。

 だが、相手はあの姉である。そんな簡単にはいかなかった。


 ゾワリッ


 アンシュラオンの髪の毛が逆立った。

 皮肉にも今しがた獣魔人が同じ状態に陥っていたため、誰もがこの意味を察していることだろう。

 これは弱者の「強者に対する反応」である。

 アンシュラオンは動けない。

 彼の瞳には【炎】が映っていた。


 ブワワッ ボオオオオッ


 残された獣魔人の下半身から炎が生まれ、完全に飲み込み溶かす。

 それによってますます盛んになった炎は、一つの形を生み出した。


 炎が女性の裸体へと変わり―――







―――〈あーくん、みーっけ〉







「っ―――!?!?!!!!」




 ゾワゾワゾワゾワゾワッ!!!


 アンシュラオンの髪の毛が完全に重力に逆らい、天に向かって逆立つ。

 そして、ここに至ってすべてを理解した。



(これは―――【撒き餌】だ!!)



 撒き餌。

 獲物をおびき出すために、餌をばら撒くこと。

 今になって思えば、なぜ獣魔人という存在が野放しになっていたのか理解できる。

 魔人の力を扱う人間など、まったくもって異端にして異常。

 その力を狙う者もいれば、怖れる者も出るだろう。それが獣魔人という下位の存在であるにせよ、魔人であることには変わりない。

 近づいた人間の思惑がどうであれ、餌に釣られることになる。

 当然、食いついた獲物がどのような相手なのかを見極めることが重要だ。

 獣魔人を倒すほどの存在が、いったいどれだけいるだろうか?

 仮に倒せるにしても秒殺―――瞬殺できるほどの相手が、どれだけいるだろう?

 いるとすれば、それはもはや人間を遥かに超えた存在だけだ。


(まんまとやられた!! オレの居場所を見つけるための囮だったんだ!! 姉ちゃんに見つかった!!)


 姉にしてやられた。

 彼女の匂いに神経過敏になり、ついつい反応的に対応してしまったことを悔いる。

 いつも他人を出し抜くことに長け、矮小な者たちをあざ笑っていたが、姉を前にすれば自分も同じ状況になる。

 汗が噴き出す。目が泳いで狼狽する。

 アンシュラオンにとって、姉こそが最大の敵。

 もっとも求め愛しながら、もっとも相対する存在なのである。

 彼女と比べたら傀儡士など雑魚の雑魚。世界のすべてが無意味になる。



「くそっ…くそっ!!! ぐううううっ!! ねぇ…ちゃん!!」







「ねぇええええ――――――――――――ちゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ―――――――――んんんんんんんんんんんんんんんんんん!!」








 崩壊したホテル。


 自分の安住の地だと思っていた、かりそめの地を失い、少年は【吠える】。


 忘れてはならない。


 忘れることなどできない。


 姉が、あの姉が、ただ黙って待つことなんてできないことを。


 姉なくして、この【伝記】は成立しないことを。


 これは最強の姉と弟の物語であることを。





前の話へ移動      次の話へ移動




欠番覇王の異世界スレイブサーガ トップページ




※無断使用・転載を禁じています。

※すべての権利は、作者である園島義船とぷるっと企画に属します。