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「欠番覇王の異世界スレイブサーガ」

作者  園島義船



□ 第五章 「裏社会抗争」 編 第三幕 『獣と獣』


296話 ー 305話




296話 「サナに迫りしもの」


 サナは岩場の陰でじっと身を潜めている。

 ここは複数の岩が重なっている場所で、その間に比較的大きな隙間が生まれているので、サナならば十分に大の字で寝られるほどのスペースがある。

 外側からならば岩しか見えないため、ここにいれば目で見るタイプの魔獣に発見される心配はないだろう。

 しかし、【彼】に言われたことを思い出す。




―――「サナ、外に出たら油断しちゃいけないよ。もしお兄ちゃんと離れることがあったら常時周囲は警戒すること。隠れている場合は、耳をそばだてるんだ」




「…こくり」


 誰もいない場所ではあるが、すぐ傍であの人が話しているようにはっきり聴こえた。

 不思議だ。他の人間の言葉はぼやけて聴こえるのに、あの人の声だけは自分の中に染み入ってくる。

 それがどんな言葉でも、自分を労わる優しい言葉であっても、あるいは敵を罵る言葉でも心の中に残るのだ。

 自分は頷くことで、それを受け入れる。すると言葉は光となって中に入ってくる。


 自分の中の真っ黒な世界において、その光は貴重だった。


 この空間は非常に安定しており、波風一つ立たないことが多い。外部で何が起きても中身には届かないのだ。

 だから殴られて身体がダメージを受けても、その感触が伝わってこない。まるで映画を見ているかのように他人事に思えてくる。

 でも、ここにはあの人が生み出した白い球体がいくつもあり、それらが互いに触れあいながら振動するたびに音を出す。

 綺麗な音を出したり耳障りな音を出したりと、さまざまな色合いを生み出し、自分の中の世界を彩っていく。


 ドクンドクンッ ドクンドクンッ


 その音、あの人の言葉を聞くと、心臓の鼓動がいつもより大きく、多くなる。

 なぜそうなるのかわからないが、嫌いなものではない。むしろ包まれるようで安心感を抱く。


 サナはアンシュラオンに言われた通り、耳をそばだてて周囲を警戒する。

 ビューー ビューーー

 今はまだ昼の三時過ぎといった時間帯だ。風が吹き荒れ、かすかな日の明かりと砂埃が外から入り込んでくる以外、特に変わったことはない。

 都市から離れた荒野の真っ只中である。人が通りかかる可能性は、ほぼゼロに近い。通りかかっても、まさか岩場に少女が隠れているとは思わないだろう。

 波動円を使えば見つけることもできるだろうが、こうも障害物が多いと見分けるのがなかなか難しいものだ。


 波動円には段階があり、普段使うのは大雑把なレーダーのようなもので、そこに何かあるかどうかを調べるためだけに使われる。

 普通は有機物か無機物かどうかの判断まではしない。仮に対象が動いていれば生物だと判断できるので、それで十分なのだ。

 さらに上の段階にいけば、アンシュラオンが領主城でサナを探したように、相手の細部までスキャンして特定の人物を発見することまでできるが、それを荒野で使う者はまずいないだろう。

 こうしてサナがじっとしていれば、よほどの使い手でない限り、普通の波動円で感知するのは難しいというわけだ。

 つまり、ここは安全である。



 身体が休息を欲していたため、サナはしばらくこの場で休むことにした。

 アーブスラットとの戦闘は非常に高い負荷がかかるものだった。命気足はサナの神経と結びついていたため、動かすだけで視神経を酷く消耗させる。

 相手のプレッシャーも強く、少しでも気を抜けば突破されるおそれもあった。あの槍足の一撃も刹那のタイミングが必要だったため、サナの神経を相当磨耗させたものだ。

 まだ少女。まだ子供。

 アンシュラオンと出会う前は、本当にただの子供だったのだ。高い集中力を長時間維持することは、やはり難しい。


「…こくり…こくり…」


 ついつい眠くなるが、荒野で眠る際は気をつけろとも言われているので、なんとか身体を制御する。


「…ふー」


 岩に寄りかかり、深く息を吐く。身体の回復を早めるために深呼吸をしているのだ。

 これも『練気』の練習法の一つで、暇があったらやるように言われていることだった。

 深呼吸を続けていると、ぼーっとしてくる。

 通常の瞑想は、こうして深い呼吸を続けることによって肉体の活動を一時的に弱め、霊的意識を覚醒させることで外部の力を多く取り入れる。

 練気も呼吸によって外的な力、神の粒子や生命素を多量に取り入れて力にする行為なので、瞑想と原理は似ている。

 まだ体内には命気が残っているので、その効果もあってか少しずつサナの身体が回復していった。

 こうして待っていれば、そのうちアンシュラオンがやってくる。言われた通り、サナはそれをひたすら待っている。


 その健気な様子は、まるで飼い主を待つ子猫だ。


 こんな姿を見たらアンシュラオンは悶え死ぬ。あまりの可愛さにすぐに助けてしまうに違いない。

 だからこそ彼自身がやってこないことに意味があるのだ。



―――ピタピタ



 そんな時である。何かの音が外から聴こえた気がした。


「…? …じー、きょろきょろ」


 不審に思ったので少しだけ顔を外に出して周囲を見回すが、何もいない。見えるのは荒れ果てた岩場の光景だけだ。

 ここは全体を見回せるような少し高い岩場かつ、複数の脱出ルートがある場所を選んだので、今逃げてきた方角もばっちり確認できる。

 追っ手はいない。あの老執事は追ってきていないようだ。おそらく戦罪者が文字通りの命がけで戦ってくれているのだろう。

 アーブスラットはとても広い範囲を捜索できるので、少しでも姿が見えればさらに移動を開始しなくてはいけない。

 だが、今はまったく姿がないので、その心配はないだろう。


 ピタピタ


 それでも音はなくならない。それどころか少しずつ近づいてきているようにさえ思える。

 すっと、サナがポケット倉庫からクロスボウを取り出す。




―――「サナ、たとえ何も見えなくても、何かおかしいと思ったら武器を構えるんだ。すぐに攻撃できる状態にしておくことが重要だ。間違って味方を撃ってもいい。何もしないよりはいいんだ。常に自分の身を守ることを優先するんだよ」




 また隣で彼の言葉が響く。すっと心の中に入ってきて、言いたいことが全部理解できる。

 自分にとってこの声は、まさに【導き】だ。

 これに従っていれば、まず悪いことには遭遇しない。彼の声は自分を守ってくれるものだ。


 その導きに従い、違和感を感じたサナは武器を構える。


 装填しているものは爆発矢ではなく普通の矢だ。あれは五秒という時間が必要なので咄嗟の時は不便である。

 最近は強い相手が多かったので出番は少なかったが、普通の矢でも抹殺級以下の相手には十分な威力がある。

 誤爆の危険もないので、最初に使うにはうってつけだろう。


「………」


 警戒して様子をうかがっていると、音はしなくなった。

 もしかしたら近くに地下水源があって、水が漏れている音だったのかもしれない。

 あるいはそこに魔獣と呼ぶにもおこがましい小型の動物がいるのかもしれない。

 そんなことで神経をすり減らしていれば、並の人間では長くはもたない。緊張の連続に心がもたないのだ。

 されどサナには恐怖という感情自体が存在しない。警戒はしているが緊張はしない。

 淀みも濁りもない目で、素直に周囲をただただ見つめる。淡々と観察を続ける。


 だからだろうか。

 そんな純粋な目だったからこそ、【ソレ】に気付けたのだろう。



―――外の岩場で、キラリと何かが光ったのが見えた。



 ほんの小さな反射の輝き。少しでも他の場所を見ていたら気付かなかったであろう、かすかな光。

 これは黒き少女だからこそ見つけられたものであり、最初から警戒していたからこその発見である。


 その光が―――伸びた。



「…っ」


 サナは咄嗟にクロスボウを放棄して横に飛び退いた。

 バキンッ ドガッ

 直後クロスボウが粉々に砕け散り、背後にあった岩に何かがめり込んだ。

 もしその場にいたら彼女も無事では済まなかっただろう。クロスボウを構えていては回避は不可能だったに違いない。

 このクロスボウを捨てるという選択肢を取ったのも、アンシュラオンの言葉のおかげだ。




―――「サナ、緊急の行動を選択した時、邪魔になるものは全部捨てるんだ。武器だって例外じゃないぞ。特に銃やクロスボウなんて山ほどあるんだ。いくらでも捨ててかまわない。それより身の安全を最優先にするんだ。当然、物だけじゃなくて人間も同じだ。邪魔だったら捨てるんだぞ。一番大切なものは自分の身だ。わかったね?」




 さきほど戦罪者を見捨てたのも、そうした助言によるものだ。

 自分が生き残るためならば何を犠牲にしてもいい。それを徹底させたがゆえの生存である。

 逆に言えば小さなサナには、その選択肢しかないのだ。

 命気足のない彼女は、なんと矮小な存在だろうか。武人としてもまだまだ「萌芽」の段階で、咲き乱れるには何年、何十年の時間が必要だろう。

 アンシュラオンが傍にいない。たったそれだけで無防備になる。この魔獣溢れる荒野においては小動物と同じく最弱の部類である。

 ひとたび外に出れば、すべてが弱肉強食。強さこそが絶対のルールとなる。

 その中で人間の子供が生きていくことは非常に難しい。


 だが、彼女には【知恵】がある。


 モヒカンに簡単に捕まった時のような無抵抗の子供ではない。

 今のサナにはアンシュラオンから教えられた戦いの知識がある。ただ黙ってやられる存在ではないのだ。



「…さわさわ」


 サナが革鎧の内側を探ると、紙の感触がした。

 ここには術符が貼り付けられており、仮にポケット倉庫をなくしてもいつでも使えるようにしてある。

 こういう場合はいちいち取り出している余裕がないので、こちらの緊急のストックを使う。これもグランハムがそうしていたのを見て、それをコピーしたのだ。

 ザッ トトトトッ

 サナは風鎌牙の術符を取り出しながら、狭い岩穴を飛び出る。




―――「サナ、一度見つかったら走り続けて止まらないことが大切だ。そうじゃないと狙い撃ちにされるからね。走りながらクロスボウや術符が起動できるように訓練するんだぞ。ただ、出たところを狙ってくるやつらもいるから注意が必要だ。死角は必ず何かを壁にしながら守って、射線上に集中できるようにするんだ」




 その言葉の通りサナは背後を岩場でカバーしながら、今攻撃が飛んできたあたりとの射線を確保し、走りながら術符を発動。

 風の鎌が生まれ、その場所を攻撃する。


 ズバババッ!! ガリガリガリッ!


 風が向こう側にあった大地と岩を切り裂いていく。まるでサナが勘違いをして、何もない空間に術符を放ったようにさえ見える。

 されど風鎌牙は周囲にも影響を与える術である。その一部がかすかに当たったことを見逃さない。


 ジジジジッ


 スピーカーからノイズが流れるような音を発し、蛍光灯のように明滅する存在が一瞬だけ見えた。

 大きくぎょろっとした目が付いている恐竜のような顔、ちろちろと口から出ている長い舌、がっしりと大地を踏みしめている四足と長くて太い爪、ごつごつした硬そうな皮膚で覆われている身体。


 それは全長四メートルもある―――『トカゲ』に似た何か。


 地球でいえば、おそらくは『カメレオン』と呼ばれるものに酷似したものである。

 ジジジジ

 ノイズ音が響くと、一瞬だけ見えたカメレオンが消えていく。再び隠れたのだろう。

 これによって確実に敵がいることが判明した。



 ローダ・リザラヴァン〈土炎変色蜥蜴〉。

 荒野の岩場などに生息する魔獣で、全長三メートルから四メートルほどのカメレオンのような生物である。


 特徴は言わずもがな、『透明化』の能力である。


 光学迷彩のように周囲の地形とまったく同じ色彩を写し取り、透明になったように見えるのだ。

 現在使っているのはこの能力で、角度によってはわずかに色彩が異なって見える。サナはそれを見破ったのだ。さすがの観察眼である。

 ただし、この能力はまだ第一段階。次の段階に至れば完全に気配を消すことも可能となる。


 消費BPが異様に高いので普段は使わないものの、アンシュラオンの波動円すら誤魔化すことができる『完全環境同化』というスキルである。


 これは周辺環境にある物体の触覚や音響データを完全に写し取るもので、波動円による探知を完全に封じることができる。

 音響も真似るので、ソナータイプの探知方法も通用しない。近くにいれば周囲にある物体との違和感で看破も可能だが、距離があれば見分けるのは難しいだろう。

 だが、これらのスキルにも弱点がある。

 今サナにやられたように、ダメージを受けた際は読み取り通信に障害が発生するので、一時的にスキルが停止するというものだ。

 また、自分の足音や行動に伴う音までは消せないため、探知を完全に誤魔化すには動かずにじっとしている必要がある。

 手当たり次第に周囲を攻撃されても効果が薄いスキルなので、けっして万能とはいえない。

 が、それでも厄介であることには変わりはない。特に初見では、情報を知らなければ防ぐことはできないだろう。

 そのスキルの特異性から、この魔獣は第三級の討滅級魔獣に指定されている危険な魔獣だ。


 そしてもっとも重要なことは、彼らの生息域がもっと西部の未開発エリアであるということだ。

 ここは荒野ではあるが、ギリギリ警戒区域には入っていない場所だ。そんな場所に彼らがいることは不自然でしかない。


 であれば、これが―――奥の手。


 ジングラスが保有する魔獣であり、アーブスラットが放った刺客である。

 彼は決闘が始まる前の段階で、リザラヴァンを少し離れた場所に配置してあったのだ。

 サナを確保しても波動円でアンシュラオンに追われては意味がない。捕まえた彼女をこの魔獣の能力で隠すために用意していたものだ。

 あくまで保険。予備の存在。ここで投入する予定はなかった。

 それに頼らねばならないのは不本意だっただろうが、これもまた準備を怠らなかった者だけが手にする幸運でもある。

 本来はリザラヴァンもプライリーラの支配下にあるものなのだが、追跡者の掃除等、主に裏の仕事に使われるので普段からアーブスラットが管理している。

 だからプライリーラは、このことを知らない。

 そもそもこの魔獣は前当主のログラスから支配権を託されているものなので、プライリーラの守備範囲外のものだ。

 彼女はアイドルである。裏の仕事を無理に知る必要はない。


 ピタピタ


 姿を消したリザラヴァンが、サナに迫る。




297話 「〈黒き雷狼〉の目覚め 前編」


「…じー」


 サナの目が、リザラヴァンがいるであろう場所を観察する。

 そこにいるとわかっているからこそ、なんとなくわかるのであって、もし知らなかったら気付かないに違いない。遠くからなら、まず発見は不可能である。

 ジジッジジジッ


「…っ」


 サナの耳がノイズ音を捉える。

 にょろっと何もない空間から舌が飛び出て―――


 どひゅんっ


 サナに向かって飛んできた。

 その速度は実に恐ろしいもので、放たれてから一瞬でこちらに到達する。

 この魔獣も地球のカメレオン同様の構造をしていて、舌には骨があって尖端が丸く膨れており、それを筋肉のバネで打ち出す仕組みになっている。

 魔獣の筋組織は人間とは比べられないほど強い。それが一気に押し出されれば、まさに弾丸と変わらない速度になる。

 サナは回避動作。咄嗟に身を屈める。


 バッゴンッ ビギッ


 舌はサナの頭上を通り過ぎ、岩に激突。ビシビシと亀裂が入った。

 もし当たっていれば、サナの防御力ならば最低でも骨折は免れないだろう。反応できたのは音がしたことと、一瞬でも舌先が見えたからだ。

 リザラヴァンのスキルには効果範囲があり、自身の周囲半径一メートルを超えるとスキルの効果が消えてしまう。

 舌を飛ばす以上、攻撃する際にはどうしてもその部分が範囲から出てしまう。その時に通信障害の音も出てしまうのだ。

 本来は透明化したあとに物陰に潜んで獲物を狙うので、少しくらい見えても問題ないのだが、こうして対面してしまうと対処が可能になるのも弱点だろうか。


 だが、相手が見えないことには変わりはない。それだけでも脅威である。

 トトトトッ ぴょんっ

 サナは足を止めずに走り、危なくなったら逃げ込むために位置を覚えておいた岩にジャンプ。

 賦気によって強化された脚力は、自身の身長よりも高い岩を軽々飛び越える。


 ジジジッ ドヒュンッ パキンッ


 その直後、サナがいた場所に再び舌が飛んできて、岩に亀裂が入った。

 少しでも足を止めていたらやられていた。これもアンシュラオンの教えに従ったから回避できたことである。


 岩に隠れたサナは、足音を聞き逃さないように耳に神経を集中させる。


「…ふっ、ふっ、ふーー」


 呼吸が荒くなる。心臓が激しく鼓動していく。

 恐怖を感じているからではない。あらゆる事態に即座に動けるように身体が環境に順応しているのだ。

 緊張を感じた際、人によっては深呼吸したいところだろうが、こんなところでリラックスしている場合ではない。

 今必要なのは適度な緊張による活性化した心臓である。

 サナの身体に急速に血液が流れていく。心臓のポンプが急稼動を始め、身体中に血液を送り出す。


 ドクンドクンドクンッ


 激しく血が送られ、サナの肉体が強くなっていく。筋肉がしなやかに、強靭になり、握力が増し、視界もさらにクリアになる。


 肉体にとって力とは【血流の強さ】でもある。


 運動すると血圧が上がっていくのも、それだけの能力を発揮するには血の力が必要だからだ。

 だからこそ肉体競技に関わる場合は、むしろ緊張したほうがいい。それは肉体性能を最大限使うための準備なのだ。

 サナの身体も緊迫した現状に対応するために、最大限のポテンシャルを発揮しようとしているのだ。


 ピタピタ ピタピタピタッ


 リザラヴァンが追ってくる音が聴こえる。

 サナはポケット倉庫から銃を取り出すと、近くの岩に向かって一発放った。


 パスンッ ドヒュンッ バキッ


 放たれた銃弾にリザラヴァンが反応し、着弾した付近の岩を破壊した。だが当然、これは囮だ。

 サナは素早くリボルバーを回しながら次弾を装填。続けて岩場を飛び出し、さきほど足音がした場所に銃弾を撃ち込む。


 バスンッ ガンッ


 命中。石がドラム缶に当たったような音が響く。姿は見えなくても音は隠せない。そこが狙い目だ。

 衝撃を受けたリザラヴァンが、一瞬だけ見えた。

 しかし、銃弾は弾かれてしまったようだ。皮膚に軽くこすった跡が残っただけでダメージはない。

 特異なスキルが評価されたとはいえ、さすがは討滅級魔獣である。戦闘力もそれなりにあるようだ。


 ジジジッ ジュワヮッ


 すると、リザラヴァンが『透明化』のスキルを消して姿を見せた。見つかった以上、無駄だと思ったのかもしれない。

 名前に「土」が付いているせいか、よく見ると胡桃のような土色をしており、岩場の大地とあまり見分けがつかない。

 リザラヴァンは『保護色』というスキルも持っているので、透明化せずとも周囲の色を常時真似ているのだ。

 そして、『透明化』を解除したのは攻撃に集中するためである。

 攻撃する際のノイズ音が、逆に相手にタイミングを教えていることを知っているのだ。

 魔獣という生き物は、不思議なことに生まれながらに自分の才能やスキルを本能で知っている。どう戦えば最大限の効果を発揮するか理解しているのだ。

 そこで今は隠れることよりも正面から叩き潰すことを選択した。サナが弱いことを理解したようだ。



 ピタピタ トットッ


 リザラヴァンが歩を進め、サナが敵を見据えながら少しずつ下がる。

 体躯は魔獣のほうが大きいため、じりじりと両者の距離が縮む。


「…ふっ、ふっ、ふっ」

「………」

「…ふっ、ふっ―――っ」


 バシュンッ

 サナが息を吸った瞬間に舌が伸びてきた。

 人間は息を吸ったときに無防備になりやすい。よく対人競技で相手の呼吸を読めといわれるのはそのためだ。

 魔獣は本能でタイミングを計る。この瞬間が一番攻撃を当てやすいと知っているのだ。

 だが、すでに全身の筋肉を稼動状態にしていたサナは、突然の攻撃に対しても反応。

 ザシュッ

 舌が革鎧を掠めながらも回避に成功。

 呼吸をする際に、すでに回避の状態に入っていたのだ。だからギリギリで間に合った。


「…じー」


 サナはけっして相手から目を離さない。同時に周囲の気配を探ってもいる。




―――「サナ、戦いで重要なのは相手をよく見ることだ。攻撃するときには必ず何かしらの予備動作がある。それを見抜くんだ。だが、相手が一人であっても周囲を常に見張るのを忘れるな。まだお前は弱いからな。足場が悪くてバランスを崩しただけでも危険だ。次に移動できる安全な場所を最低でも三つは見つけておくんだぞ。目じゃない。感覚を広げる感じで周囲を探れ。肌で地形を感じ取るんだ」




 正直、子供に教えるには内容が高度すぎる気がしないでもない。こんなことは達人レベルでしかできない芸当だろう。

 それでも意識させるとさせないとでは成長が違ってくる。戦いに関する知識はとても重要だ。知っておいて損はない。

 しかも覇王である陽禅公から戦闘技術を叩き込まれたアンシュラオンの言葉である。

 超一流の武人が自らの体験によって得た『極意』や『奥義』を惜しげもなく教えているのだ。


 それはまさに―――至宝。


 何もない少女に与えられたのは、誰もが羨む白き魔人による戦いの英才教育である。

 そして、サナだからこそ最大限に吸収できる。宝物にすることができる。

 他方、サリータのように教えられても理解できなければまったく意味がない。猫に小判、豚に真珠である。

 アンシュラオンとサナが出会ったのは、まさに運命。

 【宿命の螺旋】において、二人は出会うべくして出会ったのだ。



 すべてを吸収する黒き少女は、至言を迷わず実行。

 できるかできないか、ではない。やるのだ。言われた通りに。生き残るために全力で。

 ブワッ ブワワッ

 サナの感覚が自己の体表だけではなく、ほんの少し、本当にわずかに広がっていく。


 自分の意識が皮膚を離れて、大気に触れている感覚。


 視覚では何も見えないものの、そこには【大気の触感】が存在し、場所によってさまざまな成分の違いがあることまでわかってくる。触れた感覚がすべて微妙に違うのだ。

 それはまだ五十センチから一メートルといった程度の距離でしかないが、周囲の状況がなんとなくだが理解できる。


 左後ろには岩があって、その下には窪みがあるので足を取られたら危険だ。

 真後ろは平らだが、横から小さな石の突起が飛び出ているので、後ずさりするときは注意が必要だ。

 逃げ込むのならば右後ろにあるスペースだろう。そこには盾にできそうな岩がある。飛び越えることも可能だ。


 そんな情報がサナに与えられる。目で見なくても背後がわかる。


 そう、これは―――



―――波動円



 アンシュラオンが日常的にやっている技であり、ガンプドルフのような優れた武人もけっして疎かにしない基本の技だ。

 そして基本だからこそ、もっとも重要な技である。これが使えると使えないとでは生存率がかなり変わってくる。


 今、サナは波動円を展開していた。


 ほんのわずかだが、それでもりっぱな技である。

 波動円は【戦気】を薄く伸ばして放射する技なので、今のサナでは使えないはずである。

 しかし、賦気でもらったアンシュラオンの戦気が微弱に影響を及ぼし、この極限状態でサナに力を与えている。

 自分より強い相手に追い詰められているという情報が、血液内部にある武人の因子に伝達されていく。

 本能は生存するために肉体能力の向上を図る。その結果、いまだ覚醒していない因子にまで食指を動かそうとする。

 「なんだ、まだこっちには先があるじゃないか」と、打開策を求めていた本能が手付かずの因子を発見していくのだ。


 これこそがアンシュラオンの目論見。武人の成長。


 武人という生き物は、死闘を経験すればするほど強くなっていく。サナにとっては、それが今という瞬間なのだ。


 どひゅんっ

 再びリザラヴァンから舌が放たれる。


「…!」


 サナの全身の感覚はさらに伸びており、舌が出る瞬間を捉えた。

 それと同時に反射的に腕が動き、術符を発動。

 前方に透明な【盾】が複数生まれ―――舌を受け止める。


 ドゴンッ バリバリンッ!!


 盾は破壊されるが、それによって舌が大きく減速。余裕をもってよけることができた。

 サナが使ったのは術式シールドを展開する『無限盾』の術符だ。ちょっと懐かしいが、荒野で出会ったブルーハンターのシーバンから奪った術符である。

 これはその時に奪ったものではなく、そちらは実験用に使い、今使ったものは改めてコッペパンで仕入れたものである。

 耐力壁とは違って一定ダメージを完全に肩代わりしてくれるので、なかなか便利な術式である。

 ただ、こうして砕けてしまえば一回限りでなくなるため、金がない者には割高な術式ともいえる。


 トトトッ ザザッ

 サナはその隙に背後に駆け出し、波動円で確認していた岩場に滑り込む。それから岩をぴょんぴょんと跳ねて移動。

 ピタピタ

 リザラヴァンは追ってくる。

 岩場にがっしりと鉤爪を食い込ませつつ、肉球を石に密着させて滑り止めにして機敏に移動してきた。

 このピタピタという音は、その肉球が岩に吸着する際に出る音のようだ。これは音を消すための器官ではなく、岩に張り付くためのものらしい。

 また、命令を受けているせいもあってか執拗に追ってくる。狭い隙間でも身体を強引に捻じ込んで入ってくる。


 タタタタッ

 サナが隠れていた岩場から飛び出し、走る。再び追うリザラヴァン。

 強化されているとはいえ、まだ覚醒しきれていない普通の少女である。追いかけっこになれば、どうしても分が悪くなる。

 こちらから攻撃する手段が限られているのも痛い。すでに銃弾も弾かれている。

 こうした相手には爆発矢を使いたいところだが時間起動なので難しいし、術符だって常に舌で狙われていると発動は大変だ。

 射線を確保した瞬間には舌が襲ってくる。相打ちになれば耐久力の低いサナが圧倒的に不利である。

 仮にサリータがいたとて結果は変わらないだろう。むしろ最初の一撃でノックアウトされる可能性が高い。

 通常ならばブラックハンターでしか討伐できない討滅級魔獣なのだから、こうなるのも当然の結果だ。


 ピタピタ ピタピタッ ドンッ


 逃げていたサナの背が、岩にぶつかる。この先は行き止まりだ。

 ついにリザラヴァンがサナを岩場の隅に追い込んだ。もう逃げ場がない絶体絶命のピンチである。

 ただ、舌の攻撃は出してこない。何度も避けられているので慎重になっているようだ。


 その代わりに舌がベロンと飛び出ると、尖端がぶくっと膨らんだ。


 尖端は獲物を捕らえるために丸い吸盤のようになっているが、実はそこは【穴があいた空洞】になっている。


 その穴から―――炎が噴き出た。


 仕組みとしては、前にサナが倒したヘビーポンプの火炎放射と同じである。

 体内に可燃性の体液を蓄えておき、それを発射時に引火させて噴出するのだ。

 リザラヴァンの攻撃方法は、大きく分けて二つ。

 一つが舌での攻撃。二つ目が炎での攻撃だ。後者は動きが速くて捕まえられない相手を弱らせるために使うことが多い。

 アーブスラットからは対象を生かしたまま捕獲するようにと命令されているが、いかんせんギロードと違って頭の悪い魔獣である。その細かい意図までは理解していない。

 そもそも魔獣に他種族を労わる気持ちなど存在しない。

 とりあえず生きていればよいのであって、身体を焼くくらいは問題ないと思っているのだろう。

 このあたりもアーブスラットが最後まで使いたくなかった理由である。あくまで敵を処理するための魔獣であり、そういった微妙な加減ができないのだ。


 ブオオっと火炎が放射され―――サナを焼く。


 逃げ場がないサナは、大きく広がった炎を受け続けるしかない。

 これだけの炎を受ければ、人間の皮膚など数秒も経たずに焼けただれるに違いない。

 サナにとっては、いや、女性にとっては最悪の魔獣であろう。髪の毛を焼かれただけでもショックは相当なものだ。


 だがしかし―――



 服が燃え、肌が焼―――かれない。



 炎を何秒受けてもサナはそのままの姿勢で黙って立っている。

 いくら感情が乏しいサナとて、もう少しリアクションがあってしかるべきだ。

 仕方がない。


 だって、これは―――【幻】だから。


 ボワワンッ

 次第にサナの姿が薄れていき、最後は煙とともにボワンと消えた。忍者漫画で分身が消えるシーンに似ている。

 そう、これは偽者。

 岩に隠れていた際にサナが『分身』の術符を使って生み出した幻影だ。それを囮にして食いつかせたのだ。


 では、本物の彼女はどこにいるかといえば、背後。


 獲物を攻撃して完全に無防備になっているリザラヴァンの背後に回り、術符を構えていた。


 ドドドドッ ドバーーッ ザクッ!!


 水刃砲の符が炸裂。

 背後からリザラヴァンを切り裂いていく。皮膚を切り裂き、青い血が流れる。

 サナは続けて、二発三発と水刃砲を連続発射。


 ドバーーッ ドバーーッ ザクザクッ


 水刃砲は同じ箇所に当たり、皮膚が大きく抉れる。さすが術符だ。しっかりとダメージが入っている。


 ぎょろり


 しかし、後ろを振り向いたリザラヴァンが本物のサナを視認。不気味な瞳が光る。




298話 「〈黒き雷狼〉の目覚め 中編」


 術は防御無視なのでリザラヴァンにもダメージは入るが、威力は術者の魔力依存であり、サナの力ではさしたるダメージにもならない。

 さらにリザラヴァンのHPは二千を超えている。賦気や『天才』スキルで強化されていても与えたダメージは、この三発でせいぜい四百程度だろう。



 リザラヴァンは、振り向いてサナと対峙。

 ダメージを受けてはいるが、まだまだ戦闘力は健在だ。いくら不意打ちでも、サナには強すぎる魔獣である。

 では、その間に逃げればよかったのでは、と思うかもしれないが、それもまた難しいだろう。

 分身自体、意識して操作しないと自分と同じ行動を取るうえ、ある程度離れると消えてしまうので、また追われることになる。

 体力、スタミナ面でもリザラヴァンのほうが上。すでに疲弊している彼女では長くは逃げられない。

 逃げている間に違う魔獣に遭遇してしまえば、もはや一巻の終わり。その段階で死亡は確定だ。

 戦罪者たちもアーブスラットに特攻している以上、助けはないと思ったほうがいい。

 その前提ならば、とにかく相手を動けなくさせようとしたサナの判断は正しい。


 が、倒せなかったのは痛い。


 せめて足を一つでも吹き飛ばしたかったが、いかんせん低い体勢の爬虫類タイプの魔獣である。そこだけを狙うのは難しかった。

 そこで脊椎に損傷を与えられれば、といった戦術に変更したわけだが、思った以上に相手の体力があったことも誤算であった。

 サナは情報公開を持っていない。相手のHPもわからないし、力量を感じ取るだけの経験もない。

 結果的には、すべてが力不足。彼女の能力不足である。


 ピタピタ


 またもやリザラヴァンが迫る。

 絶対に逃がしてはくれないので、何とかして倒す方法を考えるしかない。


「…じりじり」


 サナはじりじりと下がる。下がるしかない。

 術符の不意打ちで仕留められなかった以上、正面から攻撃してもたいしたダメージは与えられないだろう。

 ここはやはり爆発矢を使うしかない。それだけが唯一の可能性だ。

 ただし、使う瞬間には注意が必要である。相手も必ず反応してくるはずだ。



「…じー…しゅっ」


 サナは相手をよく見ながらタイミングを見計らい、ポケット倉庫からクロスボウを取り出す。

 が、それを構える前に迎撃。


 どひゅん バキャッ


 舌が飛んできてクロスボウを破壊する。

 予想した通り、こちらの動きにカウンターを合わせてきた。

 クロスボウを盾にしたおかげで回避が間に合ったものの、ギリギリの攻防であった。

 強引に撃つこともできたが、一撃で倒せる確信がなければ相打ちで大ダメージを受けてしまう。そうなれば負けは確定となるので仕方のない選択であった。


 リザラヴァンは、やはり強い魔獣だ。


 こうして真正面から対峙すれば透明化は気にせずに済むが、単純に強いので簡単に武器を取り出すこともできない。

 生物にとって肉体能力がいかに重要かがわかる場面である。

 人間と魔獣とでは身体能力に違いがありすぎるので、どうしても不利になってしまうのだ。



「…ふっ、ふー、ふっ」


 しかし、この状況でもサナは敵を怖れない。

 呼吸が激しいのはアンシュラオンに言われた通り、適度な血圧を保とうと努力しているからだ。

 ここまできても戦うことを諦めない。いくら恐怖心を感じないからとはいえ、これは立派な武人としての才能である。


 サナは、ただただアンシュラオンの言葉に従う。


 だからこそ少しずつ実っていく。


 ジワジワ ジュンジュン ギュルギュル


「…ふー、ふー」


 呼吸を繰り返すごとに、サナの周囲に何か膜のようなものが生まれていく。

 彼女の身体に【力】が宿っていく。




―――「サナ、何があっても生き延びるんだぞ。絶対に諦めちゃいけない。そりゃ人生なんてものは面倒だしつまらないことも多いから、『生きていればいいこともある』なんて無責任なことは言わない。だからオレがサナを絶対に幸せにすると約束する。お兄ちゃんがお前にたくさん面白いものを見せてやるからな。そのために絶対に生き延びるんだぞ」




―――生きる



 今まで自分は『生きる』ということを考えたことがない。『生きていた』かもしれないが、自ら『生きる』ことはなかった。

 だから彼の言葉が光となって世界に染み入った時、自分は初めて『生』というものを意識したのだ。


 生きる。呼吸する。心臓が動く。

 生きる。食べる。飲む。

 生きる。歩く。座る。寝る。


 否。

 それは生理現象であって、所詮は機械の生命維持反応にすぎない。それを生きるとはいわない。


 ならば、生きるとは何か。


 最初は彼にそう言われたから、全身全霊を込めて生きようとした。

 だが、生きることが何かを知らねば、どうやっても生きることはできない。だから話を聞いただけでは駄目だった。

 それがこうして追い詰められ、考えるのではなく感じることで自然と発生する。


 ボワッ


 何かが、世界に生まれた。

 彼から与えられた白い球体以外には何もなかった場所に、今まで見たことがないものが出てきた。

 それはゆらゆらと揺れる何か。ほんのり熱くて弱々しいもの。

 焚き火をする際、火種に火花が付着して生まれたような、とてもとても小さな【炎】であった。

 しかしながら、どんなに小さくても炎は炎である。


「はぁはぁ…はっ、はっ、はっ!!」


 身体が熱い。燃えるようだ。

 その小さな揺らめきから、今まで味わったことがない熱量が発生している。こんなに小さいのに、なぜこんなに熱いのか。


 生きる、生きる、生きる。

 生きる、生きる、生きる。

 生きる、生きる、生きる。生きる、生きる、生きる。生きる、生きる、生きる。生きる、生きる、生きる。生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる、生きる。


 危機的状況に生存本能が刺激され、サナの意識が『生きる』ということを肌で感じた。


 その瞬間―――【意思】が生まれる。


 まだ言葉にはできない小さなもの。定義すら難しい弱いものだ。

 しかしながら、そもそも言葉というものは感覚の共有に使われる道具にすぎない。社会生活に必要だから渋々使っているだけのものである。


 物事の本質、真理とは内面の世界にこそある。


 ゆえに、これは立派な意思なのだ。言葉にできずとも意思なのだ。

 アンシュラオンが何度も何度もサナに接したことで、あの白き魔人の強い愛情と意思が何度も何度も染み込んだことで、サナに意思が生まれた。


 意思が―――燃える。


 心の奥底に宿った意思は、今度は身体に表現される。

 世界のシステムは意思ある者に大きな力を与える。サナの炎を感知した無限のエネルギー元素である神の粒子が、磁石のように集まってきて化合燃焼していく。


 ボォオッ ボボボッ



 両者の結合、それこそ―――【戦気】。



 強力な魔獣を前にしたこと。何度も命気や賦気を受けたこと。戦気の雫を受けたこと。生き延びるために必死になること。


 そして、アンシュラオンに愛されたこと。


 愛が、愛が、愛が、愛が燃える!!

 どんなに偏屈で偏狭でも愛は愛だ。愛こそ宇宙最大のエネルギーである。

 それが『意思無き少女』の中に、ついに小さな火種を与えるに至る!!!


 ドクンドクンドクンッ


 サナの心臓が激しく脈動する。身体が熱くなる。

 だが、同時にもう一つ熱くなっている場所がある。

 ピカッピカッピカッ

 首からさげているペンダントが激しく明滅している。青く美しいジュエルが輝いている。

 それは日光による光の反射ではない。サナの変化に呼応するように自らの意思で輝きを発している。



「っ!! っ―――!!」


 何かが違う。何か異変が起きている。

 サナはあまりの変化に戸惑い、自分の胸を手で押さえる。


 どびゅんっ!


 だが、そんな彼女の事情など、この魔獣が考慮するはずもない。

 動かない標的に対して、これ幸いとリザラヴァンが舌を放つ。

 ドンッ シュッ

 しかし、サナは奇妙な感覚に襲われながらもサイドステップで回避。

 あまり余裕はないが、今度は相手が攻撃してからでも回避が十分に間に合った。

 軽く大地を蹴っただけなのに軽々と三メートルは移動していたのだ。今までと脚力が違いすぎる。


 ボボッ ボボボッ


 体表には、うっすら赤い、少し桃色に似た戦気が見える。

 白い肌が火照って桜色になった時の色合いに似ているだろうか。それが彼女の浅黒い肌を優しく包んでいた。

 当然ながらサナの動きが一気に鋭くなったのは、戦気が肉体に力を与えていたからだ。

 戦気があるとないとでは天地ほどの差があるのは、今までの戦いを見ればよくわかる。

 戦気の質や熟練度によって強化の具合は大きく変化するものの、初めて出した戦気であっても三倍近い身体能力の向上が見られていた。


 ビュンビュンビュンッ シュッシュッシュッ


 舌の攻撃。回避。舌の攻撃。回避。舌の攻撃。回避。

 三回連続でかわす。


「…じー」


 じっとリザラヴァンを観察し、舌が動くのを見てから回避を続ける。

 十回ばかり攻撃されたが、そのすべてをよけていた。直線的に放たれる舌の動きは完全に見切ったといえるだろう。


「…? …かちゃ」


 自分の動きの変化に少しばかり首を傾げながらも、サナは攻撃をよけながら蛇双を取り出す。

 一本はアーブスラットとの戦闘で落としてしまったので、片手だけに装備する。

 どひゅんっ シュッ

 再び放たれた舌を避けながら、伸びた舌を切り払った。

 ズバッ ブシュッ

 さすがに武器に使っているだけあって筋組織は硬く、切断には至らない。スジ肉に軽く切れ目が入る程度のものだ。

 だが、リザラヴァンにとっては意外だったのだろう。


「キギュッッ!!」


 意外と細く可愛い声を出してリザラヴァンが怯む。舌を出したまま硬直している。

 まさか矮小な人間の子供相手にダメージを負うとは思わなかったのだ。


 その隙にサナは接近し、大きな目玉に蛇双をぶっ刺した!!


 ブスッ!! ザクザク びちゃっ

 根元まで完全に刺さった蛇双を体重をかけて押し込んでいくと、目玉が切れ、ドロッとした液体がこぼれ落ちる。


「ッ―――!!」


 攻撃を受けたリザラヴァンは、激しくのた打ち回る。

 これだけ目立つ大きな部位だ。やはり弱点だったようである。



「…ごそごそ」


 その間にサナはクロスボウを取り出し、爆発矢を発射。

 矢はドスッとリザラヴァンの足下、地面に突き刺さる。普通に撃っても皮膚に刺さらないので、あえて地面を狙ったのだ。

 しかし、それで終わらない。

 すかさずサナはクロスボウを投げ捨て、もう一本の爆発矢がセットされたクロスボウを取り出し、放った。

 それは地面には突き刺さらず、相手の顔に向かって撃つ。


 まず一本目が―――爆発

 それと同時に、今撃った二本目がリザラヴァンの眼前で―――誘爆。


 ドカドカーーーーンッ!!


 大きな爆発が同時に二回起きた。時間差を利用したダブル同時爆破である。

 大納魔射津は比較的衝撃に強いが、限界以上の強い衝撃を与えると誤爆する可能性があり、それが同じ術式であればさらに誘爆の危険性は高まる。

 サナはそれを利用し、一発目の爆発に合わせて二発目を撃ったのだ。

 狙いは見事成功。

 土煙が晴れて姿を見せたのは、前足と顔の一部がかなり損壊しているリザラヴァンの姿だった。

 木っ端微塵に吹っ飛ばないあたりが、さすが討滅級魔獣である。まだHPは四割近く残っている。


「ギュッ…ギュッ」


 そして戦闘意欲も失っていない。まだやる気だ。

 この魔獣は待ち伏せタイプだが、自ら積極的に狩りをする習性があるので好戦的なのだ。

 それが訓練によって死ぬまで戦うように教えられているので、普通の荒野の魔獣のように簡単に逃げ出したりはしない。

 ただでさえ耐久力が高い魔獣を人間が操るというのは、これほど怖ろしいことなのだ。ジングラスの秘術になるだけのことはある。



 サナはダメージを負ったリザラヴァンにとどめを刺そうと、爆発矢がセットされたクロスボウを取り出した。

 大納魔射津はまだ少しあるが、爆発矢はこれで最後だ。ここで決めなければならない。

 リザラヴァンは動かない。もう一つの目がぎょろぎょろ動き、サナを牽制しているだけだ。

 もしかしたら、もう動けないのかもしれない。ならば、ここが最大のチャンスである。


「…じー」


 じっと見据えてクロスボウを構える。かなり皮膚が削れているので、このまま撃っても肉に刺さるだろう。

 これで終わりだ。

 そう思って放とうとした時である。



―――ピタピタ



「…っ」


 感情表現に乏しくいつも静かなサナであるが、この時ばかりは驚きのあまり目を見開いた。

 彼女だって常に周囲を観察しているわけではない。人間の目は前方に二つしかないのだ。観察できる範囲には限界がある。

 これは油断ではない。どうしようもないことなのだ。



 最大の誤算は、【その個体】が―――『完全環境同化』スキルを使用していた、ということだ。



 どひゅんっ


 サナの背後から舌伸び―――


 ドガッ メキィイイイッ


 左肩に直撃。


「っ…っ……」


 軽々とその小さな身体が浮き上がり、地面に叩きつけられ、ごろごろと転がっていく。

 完全無防備なところに背後から受けたものなので、受身も満足に取れなかった。クロスボウも離れた場所に転がっていく。


 ジジジジッ


 そして、背後から【もう一匹のリザラヴァン】が姿を現した。


 リザラヴァンは【二匹いた】のだ。

 一匹しかいないとは誰も言っていない。この魔獣は「つがい」で動く習性があるので、通常は二匹一組で狩りをする。

 ジングラスもその習性を利用して、常に二匹同時に使っている。今回も同時投入をしていたのだ。

 一匹が見つかった場合、もう一匹は『完全環境同化』スキルを使い、様子をうかがう。これもまた彼らの優れた狩りの本能である。



 ピタピタ

 新手のもう一匹がサナに向かってくる。

 むくり

 敵の射程距離に入る前にサナが立ち上がった。ダメージは受けたが警戒は緩めていない。


「………」


 相変わらず声はない。

 されど、その左肩は右肩と比べて、少しだけ垂れ下がっていた。折れてはいない。脱臼したのだ。

 リザラヴァンの舌攻撃を受けて脱臼程度で済むことは幸いだ。戦気を放出していたことと耐力壁の『物理耐性』の効果が如実に出た結果だろう。

 もし戦気なしの彼女だったならば、左肩が粉々に吹き飛んでいた可能性がある。


「…ふー、ふー、さわさわ」


 肩の脱臼は痛い。外れ方によっては叫ぶこともある。

 だが、呼吸は荒いもののサナはまったく声を出さない。違和感だけは感じるのか、軽く撫でるだけである。

 彼女は、痛みを痛みとして感じていない。それが痛みであることを知らない。だから観察する。


「…じー」


 これが痛み。身体の痛み。脱臼する痛み。

 狐面との戦いでも頭部に強いダメージを受けたが、今はその時よりも少しばかり、はっきりと痛みを痛みとして認識できる。

 これもわずかばかり意思が生まれたからだろうか。


「ギュギュッ!!」


 その様子を見て何かを感じたのか、新手の個体を押しのけて身体が損壊した最初のリザラヴァンがサナに向かってきた。

 失われた前足を岩にこすりつけるように移動している。魔獣にだって痛みはある。かなりつらいはずだ。

 では、なぜそこまでして移動してきたかといえば―――

 ぎょろっぎょろっ!!

 大きな目がぐるんぐるん動いて、サナを睨みつける。




299話 「〈黒き雷狼〉の目覚め 後編」


 傷ついたリザラヴァンがサナに近寄ってくる。

 その目は怒りに満ちていた。



―――【怒り】



 怒りとは原初の感情である。どんな下等な生物でも、恐怖と怒りだけは必ずそなえているものだ。

 リザラヴァンは闘争本能が強い魔獣なので、その怒りがさらに強い。

 たとえ死にそうなダメージを受けても逃げることはない。それを上回る怒りの感情が芽生えるからだ。

 ドビュンッ

 爆発でも無事だった強靭な舌を出し、サナに向かって攻撃を放つ。

 サナは脱臼して動きが鈍っているが、なんとか回避。

 しかし、怒りに満ちたリザラヴァンはここから猛撃に出る。


 ビュ、ビューーーーンッ


 舌の軌道が変化。

 真っ直ぐではなく、横薙ぎの一撃が繰り出される。

 最初は命令通りに吸い付けて捕らえようとしていたため、舌の尖端を執拗に繰り出していたのだが、今度は相手を倒すための攻撃に切り替える。

 所詮は頭の悪い魔獣。ギロードのような理解力もない爬虫類にすぎない。

 傍に主人がいれば諌めることもできるが、今は彼らだけの単独行動なので制止する者がいない。

 これは悪例。命令より本能が勝ってしまった瞬間だ。


 バゴンッ バゴンッ ドコドコドコッ


 突然軌道を変えた舌の動きにサナは対応できない。

 右からくる舌に左に飛ばされるが、鞭のようにしなった舌が即座に左側に回って右側に薙ぐ。それによって右に飛ばされると、また舌がやってくる。

 交互に左右から攻撃がくるので今度はそれに対応しようとすると、再び真っ直ぐの軌道に変化。


 どひゅんっ メキィイイッ


 サナは必死にガード―――するも、腕に激しい衝撃。左腕の橈骨《とうこつ》にヒビが入る。


 もし戦気をまとっていなければ、骨折および破裂貫通した可能性すらある。

 それからも無意識のうちに戦気を集中させて防御していくが、怒り任せの攻撃をすべて防ぐことはできない。


 バゴンッ バゴンッ ドコドコドコッ

 バゴンッ バゴンッ ドコドコドコッ

 バゴンッ バゴンッ ドコドコドコッ


 舌が―――サナをめった打ち。


 一度燃え上がった怒りの炎は簡単には消えない。

 理性ある人間でもそうなのだから、より本能が強い魔獣は殺すまで攻撃をやめないものだ。

 美しい肌が切れ、こすれ、腫れ、傷ついていく。アンシュラオンが見たら悲鳴を上げそうな光景である。


 ただし、致命傷には至っていない。


 反撃しないサナを一方的に攻めているせいか、リザラヴァンの攻撃は単調で防御がしやすい。

 また、サナは大切な頭と胸を中心にガードを固めており、それ以外の部分は捨てている。だからダメージは受けても致命傷にはなっていない。


 どこかで見たことがあると思ったら、これはアーブスラットの防御。


 ついさっき自分が痛めつけた老執事がやったことをコピーしているのだ。

 足を攻撃されるのはつらいところだが、ひとまず生存を目的とするのならば、脳と心臓を守るべきである。

 これも常々アンシュラオンが言っていることだ。殺す時は必ず頭と心臓を撃ち抜けと、口を酸っぱく言い聞かせている。

 まだサナは諦めていない。戦うということを忘れていない。


 このままではアンシュラオンの言うことを聞く単なる人形のままだが、今のサナには小さいながらも【意思】が宿っていた。

 そして、意思があるということは【感情】が生まれるということだ。


 なんと、意思無き少女はついに感情を覚えるに至ったのだ。


 とてもとても小さいながらも偉大なる第一歩である。これはアンシュラオンの目論見すら超えた奇跡であり、大珍事だ。


 では、黒き少女が最初に覚えた感情とは何なのか?

 人はいったい最初にどんな感情を得るのか。これは実に興味深い話題だ。


 その答えは―――



「…はぁはぁ…」


 サナの息遣いが荒くなる。しかし、これは血をめぐらすためにやっている行為ではない。

 身体の内側からメラメラと燃え上がる衝動によって、抑えきれない何かが湧き上がってくることによって発生したものだ。



―――「ふざけるな!!」


―――「お前だけは絶対に許さない!」



 サナの黒い世界の中で誰かが叫ぶ声がする。

 アンシュラオンだけではなく、いろいろな人の声が混じっている。

 彼女の記憶に残っている怒りの〈記録〉はだいぶ前で色褪せているが、大人たちが叫んでいる声だった気がする。

 子供も大人も叫んでいる。なぜ叫んでいるのかはわからない。きっと何かと争っているのだろう。

 そこから記録は一気に進み、より最近かつ鮮明なものになっていく。




―――「オレのものに手を出したら殺すぞ!」


 アンシュラオンが怒っていた。


―――「どうして助けてくれないんですか!!」


 シャイナが怒っていた。


―――「死ね、ホワイト!!」


 ソイドビッグが怒っていた。グランハムが怒っていた。マフィアたちが怒っていた。


 怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り!!!!!!





 人間が最初に抱く感情は―――怒りぃいいいいいいいいい!!!





「…ふーー、ふーーーー!!」


 サナが歯を食いしばる。

 初めてこんなに強く噛み締めたのだろう。歯がギリギリと音を立てて軋んでおり、口からよだれも出ている。

 ブワッ ブワワッ

 それによって、さきほどよりも強い戦気が噴き出す。

 戦気は意念の力なので感情に大きく左右される。より強い感情が力となっているのだ。


 アンシュラオンがなぜ、サナに【劇】を見せているのだろうか。


 情報公開で彼女に意思が無いことを知った彼は、他人の意思を見せることでサナの中に擬似的に感情を植えつけようと考えた。

 サナ個人に感情が存在しないのは事実だ。

 だが、それを発してきた者たちの怒りが彼女の中に蓄積され、それが次第に覚醒のきっかけになることを直感で理解していたのだ。

 特に今回の一連の騒動で人々が発してきた感情の大半が、怒りである。その多くの怒りをサナは吸収してきた。


 バシュッ ドコッ バシュッ ドコッ


 リザラヴァンは横薙ぎの攻撃を続けている。サナもガードを続ける。

 サナの戦気は強くなったが付け焼刃にすぎない。多少防御力がアップした程度で、受ければやはりダメージは避けられない。

 傷の影響もあり、満足によけられず舌の攻撃を受け続ける。


 バシュッ ドコッ バシュッ ドコッ


 耐える、耐える、耐える。

 サリータのように熱血で耐えるわけでもなく、ビッグのように怒り狂って耐えるわけでもない。淡々と受ける。

 バシュンッ ぶしゅっ

 舌が顔付近にかすり、頬に切り傷が生まれる。それでも視線は外さない。

 その目は、静かに冷静にすべてを見つめていた。



 エメラルドの瞳に―――【赤い光】を灯しながら。



 パチッ パチッ

 何かが光っている。


 彼女の瞳の光に呼応して、【ソレ】が少しずつ目を覚ましていく。


 バチンッ! バチンッ!!

 何かが強く弾けるような音がする。すごくすごく、すごく痛そうな音だ。

 リザラヴァンも異変に気がつき、ぎょろりぎょろりと周囲を見回す。

 だが、音の原因になるようなものは存在しない。もう一匹の個体も不思議そうに周囲を見回すが、何も発見できない。

 バチッ! バチバチンッ! バチンッ!!!!

 その音は少しずつ強くなっていく。リザラヴァンはさらに目を動かし、音の元凶を探ろうとしている。


「…ふーーー、ふーーー!!」


 そして、ようやくにして発見。

 その音は、目の前にいる獲物の【胸元】から発せられていた。



 そこにあるのは―――ペンダント。



 アンシュラオンがサナのためだけに用意した、この世でたった一つのオリジナルのスレイブ・ギアスだ。

 これはただのジュエルではない。ただのギアスでもない。

 悪党やらクズやら鬼畜やら外道やら、おおよそ他人からは尊敬されないアンシュラオンであるが、そんな彼が持っている唯一と呼べる愛情がこもった超希少なものである。

 魔人が愛するサナのためにすべてを注いで作ったものだ。それが単なるジュエルのはずがない。

 バチンッ バチンッ!!! ピカピカピカッ!

 音がさらに大きくなっていき、青の中にいくつもの金色の光が入った美しいジュエルが明滅を繰り返す。


 バチンバチンッ バチバチバチバチバチッ!!

 ババババババババババババババッ!!!!!!


 ついに―――光が外部に放出。



 その光は―――【雷】



 普通の雷ではない。青い色をしている【青雷】が、サナの体表に絡み付いていく。

 その輝きは異様なほどに明るく、そのせいで太陽が放つ通常の昼間の明かりが偽物にさえ思えてしまう。この光に比べると薄暗く感じてしまうほどだ。


「…はっ、はっ、はっ」




―――「サナ、お兄ちゃんが守るからな。この身、この命をかけて、お前にすべてをやろう」




 契約。白き魔人が黒き少女と交わした絶対の約束。

 それは何があっても遂行されねばならない。他のいかなるものを犠牲にしても成されねばならない。


「ギュッギュッ!!」


 リザラヴァンが舌をべろんと出し、尖端をサナに向ける。

 再び火炎を放出するつもりらしい。ここで舌で直接攻撃しなかったのは彼の本能が危険を告げたからだろう。

 それは誇っていい。さすが魔獣だ。自然の動物の勘は鋭い。


 だがしかし、彼はそうするべきではなかった。


 雑魚は雑魚らしく、今すぐに尻尾を巻いて逃げればよかったのだ。

 ブオオオッと舌先から火炎が放出される。今回のサナは本物なので、くらえば確実に身体が焼けてしまう。


 ばちんっ バババババッ


 だが、サナの体表を覆う青雷が迸り、迫ってきた炎を迎撃。霧散させていく。

 リザラヴァンが炎を噴き続けても青雷はサナを守り続け、炎の熱すらも感じさせない。



―――「ヴヴヴヴヴヴヴヴ」



「っ!?」


 突然聴こえた【唸り声】に、リザラヴァンが攻撃を止める。

 それは明らかに自分よりも格上の魔獣が発する威嚇音に聴こえたからだ。

 しかし、サナは何もしゃべっていない。ただ歯軋りをしているだけだ。

 意思が少し発現したとはいえ、言葉をしゃべるまでには至っていない。


 では、誰の唸り声なのか。


 バチバチッ バチンッ

 青雷が少しずつ形を変化させ、リザラヴァンの二倍はありそうな『生物』の形を生み出す。

 ふさふさの体毛をそなえた、すらりと長く伸びた体躯。鋭く強く輝く双眸。ぎらりと光る牙。強靭な爪。


 それはまるで―――【狼】。


 サナの身体と重なり合って、青い狼が出現した。


 この姿に酷似した魔獣が実在する。

 そう、サナのジュエルの元となった魔獣、サンダーカジュミロン〈帯電せし青き雷狼の凪〉と呼ばれる討滅級に属する狼系魔獣の希少種である。

 出現した狼の姿は、非常にそれによく似ていた。

 しかし当然、生きている魔獣ではない。いくら心臓から生み出したジュエルとはいえ魔獣が蘇るわけがない。

 だからこれはジュエルが生み出した幻と呼ぶべきものだろう。青雷が変化して、そう見えているだけにすぎない。


 そうでありながら、ただの幻でも雷でもない。




「ヴヴヴヴヴッ…バオオオーーーーーーンッ!!!」



「―――っ!?!?!?!!」


 バッチーーーーーーーンッ!!

 その幻影が叫ぶと凄まじい咆哮が響き、リザラヴァンを突き抜ける。

 ゴロンッ バタバタッ バタバタッ びくびくっ

 咆哮を聴いた二匹のリザラヴァンがひっくり返り、手足をばたつかせて痙攣している。


 『サンダー・マインドショックボイス』。サンダーカジュミロンが使う精神感応波である。


 感応振動波によって相手の精神に干渉してズタボロにしつつ、雷の追加効果で肉体にも強いショックダメージを与える凶悪なスキルだ。

 人間がこれを受けたら武人であっても、精神崩壊および感電死は免れない。

 同じ討滅級といっても、ギロードとリザラヴァンに大きな差があるように、サンダーカジュミロンとリザラヴァンの間にも大きな開きがある。

 青雷狼はドラゴンワンドホーゼリアにも匹敵する魔獣なので、リザラヴァン程度ではこのスキルを防ぐことはできない。

 ただしこれは本物の魔獣の攻撃ではなく、青雷が生み出した擬似的な攻撃方法だと思われる。

 サナがジュエルに宿された〈前の宿主の記憶〉をコピーしているのだ。この姿も彼女の仕業だと思われるが原理は不明だ。


 そして、なぜこのような状況になっているのかも不明である。


 サナの怒りの感情にジュエルが反応して、彼女が持っていたスキルが暴走して発動しているのかもしれない。

 あるいはアンシュラオンが力を込めすぎた可能性もある。なにせ「思念液」を丸々全部使い果たすほどに意念を注いだのだ。

 あの男には高い術式の才能がある。まだ術士としては目覚めていないが、才能的にはパミエルキと同格の存在なのだ。

 ジュエルに魔人の力が注がれた結果、このような謎の現象が起こっているのかもしれない。



―――「ヴヴヴヴウヴウヴヴヴヴヴヴヴウヴッ」



 バチンバチンバチンッ!!


 だが、それで終わらない。

 さらに青雷は拡大し続け、サナの身体が浮かび上がるほどの規模になっている。


―――エネルギーが足りない

―――力が足りない

―――相手を滅ぼす力が足りない

―――守る力が足りない


 ジュエルはサナを守るためだけに生まれた存在である。

 その命令を遂行するために、さらなる顕現を欲していた。だが、思念液で補充された力だけでは足りない。

 探す、探す、探す。

 自分の養分になるものを探す。

 リザラヴァンは駄目だ。こんな低俗な魔獣など養分にもならない。土や石などは論外。ここは荒野だ。大気にもエネルギーがない。

 無い、無い、無い。どこだ、どこだ、どこだ。

 雷がバチバチと走りながらエネルギー源を探す。もちろん適したものでないといけない。できるだけ高エネルギーかつ純粋なものがいい。


 そこで―――見つける。


 灯台下暗し。


 そのエネルギー源は、まさに自分の真下にあった。


 現在、サナの真下の地中にはアンシュラオンが放った【モグマウスたち】が待機している。

 彼らはサナの危機に対して飛び出す機会をうかがっていた。思考アルゴリズム通り、彼女がギリギリの状態になるのを待っていた。

 しかし、まさかの異常事態。

 ゲームのAIが予想外の状況に挙動不審になるように、彼らも判断に困っていたのだ。


 そんな時―――ジュエルに目を付けられてしまった。


 ジジジジッ ドドドドドドドオンッ!!

 青雷が迸り、地面を破壊して地中に突入。


 そして、地下四十メートルあたりにいたモグマウスを―――貫いた!!




300話 「グラサナ・カジュミライト〈庇護せし黒き雷狼の閃断〉」


 バチバチバチーーーンッ!! ズバッ!


「チュキッ!?」


 突如頭上から降り注いだ青雷が、モグマウスの一匹に命中!

 雷の刃が串刺しにする。

 チチチチッ ボンッ!!

 この闘人は戦気で出来ているので感電することはないが、より強い力にぶつかったことによって、電子レンジで温めた「ゆで卵」が爆発するように爆散。

 ただ爆散するだけではない。その戦気の塵が青雷に吸い込まれていく。

 それによって青雷が太く大きくなり、同様にサナと融合している雷狼が肥大化。よりくっきりとした形状になっていく。


 それで満足すると思いきや、隣にいた二匹目に襲いかかる!


 ズバズバッ ボンッ! ぎゅるるっ

 再び爆散したモグマウスの塵を吸収して、また雷は大きくなっていく。


「チュキチュッ!!?」

「チュッチュチュッ!!!」


 狭い空間に密集していたモグマウスは、瞬く間に混乱に陥る。

 言葉の内容はわからないが、激しく困惑した状況だけは理解できた。

 ババババババババババッ ズバズバズバズバッ!!

 そんな彼らをあざ笑うように、青雷はそのまま地中を駆け抜け、次々とモグマウスを破壊しては吸収していく。

 そして、そのたびに強大になっていく。



―――【喰って】いる



 この光景は、まさに食事そのものだ。

 より強いものがより弱い者を喰って強くなるように、モグマウスの力を吸収して力に変えているのだ。

 モグマウスは戦気の塊である。もともとは生体磁気なので純粋なエネルギー体と呼べるだろう。

 しかもこの場にあるものの中でもっとも上質で美しく、最高級の栄養と味わいがある極上の食事である。

 しかしながら、これはアンシュラオンの戦気だ。そこらのものとは格が違う。

 モグマウスの一匹一匹は闘人アーシュラには及ばないとはいえ、高出力モードで作った本気の闘人たちである。

 それを元討滅級魔獣のサンダーカジュミロンのジュエル程度が喰らうことができるのか、という疑問が生じる。

 無理だ。天地がひっくり返っても不可能だ。種族の限界を遙かに超えている。



 されど、サナならば―――可能。



 今暴走しているのはジュエルだが、その持ち主はサナ・パムである。

 アンシュラオンの命気や戦気を受けてきた彼女にとって、この戦気は非常に馴染みのあるものであり、自分の身体の一部とも呼べる存在だ。

 彼と一緒に寝ているときも、彼と一緒に手をつないで歩いているときも、一緒にお風呂に入っているときも、ずっとずっとずっと感じ続けてきたものだ。

 これほど肌に馴染むものはないだろう。それを命気にして毎日ごくごく飲んでもいたのだ。

 だからこそ吸収できるし、不純物なしの超高等エネルギーとなりえる。ほぼ100%、エネルギーとして喰らうことができる。

 そう思えば、ここはご馳走の山だ。



「チュキッ! チュキッ!?!(姫、ご乱心、姫、ご乱心!!)」


 モグマウス隊長が、思わず「殿、ご乱心」ならぬ「姫、ご乱心」を叫びながら、パニックに陥った部隊の収拾を図るが、一番混乱しているのは指揮官の彼である。

 なにせ彼らは「サナを守れ」と命令されているのであって、まさかサナから攻撃を受けるとは思っていない。

 思考アルゴリズムに対処方法がないため、サナを守る行動しか取れない。つまりは何があってもサナの周辺から動けないのだ。


 当然、反撃することなどあってはならない。


 仮に彼ら全員の力を使えば青雷狼を止められるとしても、サナにかすり傷一つ付けることは許されない。

 この青雷は、あくまでサナから発せられたものだ。

 サンダーカジュミロンの残影はあるものの、より強い力を欲する彼女の意思によって動いている。

 だから彼らはただただ立ち往生して、慌てふためくことしかできない。


 こうなれば―――蹂躙。


 無抵抗のモグマウスたちに青雷が襲いかかり、次々と蹂躙吸収していく。



「チュキッ!?!(殿、姫ご乱心! 殿、緊急事態でござる! 姫、ごらん―――)」


 モグマウス隊長が必死に造物主に緊急信号を送るが、彼のもとにも青雷は迫っていた。

 むしろ青雷は隊長に惹き付けられるようにやってきた。



―――より強いエネルギーがある

―――これは素晴らしいものだ

―――この世界でもっとも価値あるものだ

―――これがあれば望む力を得られる

―――もっともっと、もっともっと

―――それをよこせ!!!



 隊長の中にある命気に、青雷が激しく反応。

 他のモグマウスを無視して一気に突っ込んできた。


 ザクくううううう!!


 青雷が隊長を串刺しにする。

 しかし、他の個体よりも強い力で生み出されている彼は、まだ死なない。

 もちろん、それで諦めるわけがない。

 青雷は植物のツルのように隊長に絡みつくと―――身体中に細かい雷の針を突き立てる!!

 ブスブスブスッ! ちゅーーー ごくごく

 蚊が人間の身体から血を吸うように、隊長の中に侵入して命気を直接奪う。


「ちゅきっ…チュッゥ………」


 隊長は抵抗できず、他のモグマウスも触れられない。


 そのまま吸われ続け―――干からびる。


 ボンッ

 そして、なすすべなく隊長も飲み込まれた。中身に命気があったことから、さらにサナにとっては最高の養分になる。




「っ―――はぁはぁ! っっっ!!」


 サナがびくんと大きく跳ねた。

 目を見開きガクガクと痙攣し、汗が噴き出し涙が流れ、鼻血まで垂れる。


 明らかにショック症状である。


 アナフィラキシーショックのように、取り入れたものに身体が激しく拒否反応を示したのだ。

 今吸収した命気は、高因子モードで作り上げた正真正銘の『仙神水』である。今までサナが飲んでいたものとは純度が違う。

 それは高濃度のアルコールのようなものだ。

 今までのものも一本数万円の高級酒だったが、これは一本一千万円は下らないエネルギー純度99%の超レア物である。

 本来ならばモグマウス隊長が傷の具合に応じて薄めて与えるものを、直接原液のまま飲み込んでしまった状態である。


 サナはしばらくガクガクと痙攣し、口から泡を吹いて朦朧とする。


 心配する必要はない。

 これは一時の症状であり、結果に到達するための過程にすぎない。


 ゴボゴボッ バチバチッ チカチカッ


 彼女の体内では激しい代謝が行われ、今取り入れたエネルギーを分解吸収している。

 ペンダントの明滅も激しくなり、青いジュエルの中で爆発がいくつも発生している。


 それを数百回続けたあと、時間で言えば三十秒程度だったのだろうが―――



 サナに―――変化が起きた。




 青雷から―――【黒雷】に変化。




 青い輝きの雷はサンダーカジュミロンの象徴だった。

 それゆえに青いジュエルは、まだその原形をとどめていた。なんとかギリギリ討滅級と呼べるランクで収まっていた。


 それが―――進化していく。


 スラウキンが調べた文献にも少しあったが、命気の隠された力である【進化の力】がここで発現する。

 光、闇、火、水、風、雷の六大元素属性における最上位属性には、一般には知られていない力がある。


 水は生命の源。すなわち【羊水の力】なり。


 すべての生物を成長進化させるもの。あらゆる物質の元となるもの。生命の力。命気。

 ただの命気では、このレベルにまで達することはない。

 しかし、サナという存在は【吸収する者】である。魔人の力をぐんぐんと吸い上げ、命気の本来の性質を発現。


 バチバチバチバチッ ジュジュジュジュジュジュッ!!


 大量のモグマウスを喰らった青い雷狼は肥大化していたが、それが一気に収束を始める。

 外に無駄に発散していた力を圧縮して、自分の力にしようと凝縮を始めたのだ。

 青かった雷は漆黒の雷に変質し、狼の形を取っていたものが【全身鎧】のようにサナに吸着されていく。

 それはサナ自身にも影響を及ぼす。

 彼女の美しい長い黒髪が、可愛い顔が、か細い腕が、柔らかいお腹が、しなやかな足が、さらなる漆黒に染まっていく。


 ジュウウウウッ ズズズズズズズッ


 一気に収束した黒雷が強力な力点となり、ブラックホールになったようにサナを中心に周囲のものを引き寄せていく。

 力場がある一点まで凝縮すると、今度は再び力の放出が始まり、サナから黒雷が発生。

 じわじわと周りに広がっていく。



―――世界が黒に染まった



 周囲一帯が真っ黒。

 光さえも通さない完全なる黒だ。

 それは岩場だけではなく空間そのものを呑み込み、残ったモグマウスたちとリザラヴァンを呑み込んでいく。



「ッッ!」


 なぜかこの時、リザラヴァンが感電から復帰した。

 人間ならばショック死する『マインドショックボイス』であったが、同ランク帯となれば一撃死はしないようだ。

 ただ、何を思ったのか、再び舌を出して炎を噴き出そうとしている。

 おそらく電撃によって記憶が混乱しているのだろう。さきほどのことはもう忘れており、断絶された記憶から自分が炎を噴き出そうとしていたことを思い出したのかもしれない。

 どちらにせよ、愚かなことだ。いや、この場合は「哀れ」と言うべきか。

 なぜ身動きが取れない虫ふぜいが、武器を持った人間に勝てると思ったのだろう。


 ボオオオオッ


 火炎がサナに放射される。

 この黒き世界において火炎などいったい何の役に立つのだろう。当然のごとく黒雷に呑まれて消えていく。


「…ぎろり」


 サナの瞳が、エメラルドの中に赤い輝きを残す、【あの目】になる。

 アンシュラオンが、白き魔人が、矮小な存在を見下す時に変化する【魔人の瞳】だ。

 白き魔人の愛する少女に手を出す者が、いったいどうなるのか。


 ぎゅるるるるるっ ポンッ


 黒い雷が凝縮し、一つの小さな点となってリザラヴァンに向かう。

 それは小さな点でありながらも純粋な力の塊。あまりの力の圧縮に周囲が耐えきれず、土が、石が、岩が吸い込まれていく。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴッ


 大地が揺れ、視界が歪み―――



 黒い雷が―――世界を席巻した。



 それは、この黒い空間にあってもさらに黒だとわかる【完全なる漆黒】。黒の中にあっても黒であり続けるもの。


 黒い球体から無数の漆黒の雷が出現し―――リザラヴァンを貫く。


 ザクザクザクザクザクザクッ バチバチバチバチバチバチッ!!


「具ガオアオゴアゴガオゴアオgジョjラgジョア!>!?」


 もはや解読不可能な奇声を発し、リザラヴァンが感電していく。

 どうやら色は黒くても雷属性を宿している『雷』であることがうかがえる。

 おそらくサナが持っている『闇』属性が加わった結果、黒い雷になったと思われた。

 ただし、闇属性と雷属性を持っているからといって、雷気が黒くなることはない。そんな事例は一つもない。


 これはサナだけのもの。


 この世で彼女だけが得ることに成功した最強の雷撃の一つである。



―――破壊、破砕、爆砕、業砕、雷砕、滅砕



 雷がリザラヴァンの身体を貫き、感電させ、身体の表面も内面もすべて焼き尽くし、わずかに存在していた『知性』すら崩壊させる。

 もはや自分が何であったのか、自分の特技が何であったのか、なぜここにいるのか、なぜ存在しているのか。


 すべて―――否定。


 否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定、否定!!!


 ローダ・リザラヴァン〈土炎変色蜥蜴〉など、この世界には存在しなかったのだ。



―――「お前など世界に必要ない。消えろ」



 ボンッ


 脅しでもない事実を宣言された哀れな魔獣が―――掻き消える。


 その存在そのものが黒い世界において不要。だから抹消される。

 それは当然の成り行き。サナ・パムという存在に手を出した者が辿る末路。

 なぜならばこれは、すべての存在に与えられる【罰】であり【災厄】なのだから。


 冷静に分析すれば、この黒い雷にはマインドショックボイスの性質が含まれており、精神攻撃も同時に仕掛けるものだと思われる。

 この一撃を受けたものは、サナの黒い世界との対峙を迫られるのだ。これは実に怖ろしいことである。

 魔人のアンシュラオンだからこそ打ち勝てるのであって、普通の人間や魔獣ならば耐えることはできない。

 この愚かで哀れな魔獣のように、存在を完全否定されて消滅してしまう。

 もうそこには何も残っていない。ただ黒雷で抉り取られた痕跡しかない。


 ブシュンッ ギュルルルル ズズズズッ


 黒き世界が収束し、すべての黒雷がジュエルに吸い込まれていく。

 それに伴って【黒雷狼】が解除され、サナの体表が普通に戻っていく。



「…はっ、はっ、はっ…っ―――!?」


 ここでサナの意識が戻る。

 サナは荒い呼吸を繰り返しながら呆然としている。彼女自身も何が起こったのか理解していない。

 いや、これはまだ誰も理解していないことだ。それも仕方ない。

 アンシュラオンすら知らないこと。パミエルキでさえ知らないこと。誰も知らないこと。

 だが、事実だけは知っている。歴史だけは知っている。



―――グラサナ・カジュミライト〈庇護せし黒き雷狼の閃断〉



 『白き魔水、漆黒の断雷の力、グラサナ・カジュミライト〈庇護せし黒き雷狼の閃断〉』


 これこそサナがペンダントとして身につけている―――【特A級魔石】の名だ。


 彼女を守るためにアンシュラオンが生み出した魔石。原石となった魔獣を遥かに超える力を宿した恐るべき力の結晶である。

 それが危機的な状況によって覚醒し、アンシュラオンが放った力を吸い取って【進化】したのだ。


「…ふらふら」


 バタン

 がくんとサナが大地に崩れ落ちた。力を使い切ったのだろう。

 それでいい。限界を出し切って眠ればいい。

 あとは彼女の兄がすべてを解決してくれるのだから。




301話 「決着、プライリーラ戦 前編」


(なんだ今の感覚は…?)


 モグマウスを放ってしばらくは、サナのことが気になって戦闘に集中できず、だらだらと戦いを引き延ばしていた。

 プライリーラたちもアンシュラオンを怖れて、ほとんど攻撃らしい攻撃を仕掛けてこなかったので、ひたすらサナを想って悶えていたところだ。

 頭の中はサナで一杯。

 初めて独りで買い物に出た娘を心配するパパの心境で、見ていられないほどソワソワしていたものである。


 そんな時である。


 モグマウスの信号が―――途絶える。


 信号を発していたのはモグマウス隊長だ。それが途絶えるということは、彼に何かあったことを示している。


(隊長が…消えた? 馬鹿な。あいつ一人で風龍馬と互角以上に渡り合えるはずだぞ。いや、隊長だけじゃないのか? これは…次々と消えていく? 嘘だろ、おい!! 何が起こっているんだ!? まさかこのあたりに別の四大悪獣でもいたのか!? …いやいや、それでもありえない。あいつらならその程度の魔獣は殺せるはずだ)


 隊長一匹でもギロードと互角。モグマウス一個中隊ならばデアンカ・ギースと互角。四百匹なら撃滅級だって殺せる。

 それが消えたとなれば、これは明らかに【緊急事態】である。

 グラビガーロンに匹敵する魔獣が現れたと想定すべきだ。

 姉がパンチ一発で殺したのは彼女が異常なだけで、アンシュラオンでも倒すのに時間がかかるほどの魔獣だ。それならば頷ける。


 が、もう一つの違和感が気になる。


 自分が放った戦気が「吸われた感覚」があるのだ。

 ただ倒されただけならば霧散するだけだが、吸収された場合は特有の感覚が残る。


(どうなっているんだ? オレの力を吸い取るなんて信じられない。正直、今オレが展開している戦気よりも強力な容量を設定していたはずだ。それを『丸呑み』しやがったのか? 魔獣の中にはそういったやつらもいるが…普通ならば破裂するぞ)


 火怨山でも闘人を吸収しようとした魔獣がいたが、許容量オーバーで吸収しきれず爆発して死んだものもいたくらいだ。

 よほどの上位魔獣でないとアンシュラオンの戦気は吸えない。


 問題は、それがこんな荒野にいる、ということだろう。


 ここは未開の大地。何が起きてもおかしくはない。

 やはり離れるべきではなかったのかもしれないと、激しい焦燥感を抱く。


(くそっ! いくら考えても意味はない!! 今必要なのは行動だ!! 待ってろよ、サナ!! お兄ちゃんが今行くからな!!)


 アンシュラオンが急いでサナに向かおうと、プライリーラたちを無視して移動しようとした時である。


 ブオオオ ドガガガッ


 周囲の竜巻が襲いかかってきて、アンシュラオンに接触。

 明らかにこちらの動きを邪魔するように遮ってきた。しかも風の威力も倍増しており、ガリガリと戦気に衝突している。


 これは当然ギロードがやったことなのだが、これまたタイミングが悪すぎる。

 彼女は単に遠距離攻撃の『竜巻招来』というスキルを使用しただけで、接近戦では分が悪いので竜巻を強化してぶつけてきたのだ。

 あくまで戦うという選択肢を選ぶのならば、べつに悪くない判断である。


 しかし、ああ、なんと間が悪いのだろう。


 それをたまたまアンシュラオンが急いでいる時にやってしまったのだ。

 そのまま見逃せば最悪の事態にはならなかったのだろうが、急いでいる時に絡まれるとイラッとするものだ。

 特にこの男の不機嫌な瞬間に立ち会ってしまったら、それはもう確実なる死を意味する。



 もちろん―――激怒。




「…てめぇ!! 空気を読まないにも程があるぞおおおおおおおおおおお!!」



 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!


 アンシュラオンの戦気が激しく噴き上がる。

 赤白い戦気が体表から五メートルほど燃え上がり、その出力で身体が浮き上がる。


 サナの緊急事態なので【最大出力】である。


 大地が揺れ、大気が振動し、少し触れただけで竜巻が消し飛んでいく。

 デアンカ・ギースを殺した時でさえ、ここまでの出力は解放していない。

 このレベルで戦う相手は厄介な能力を持つ最上位撃滅級魔獣か、火怨山の身内三人組との組手(基本はアンシュラオンがフルボッコされる)くらいなものだ。

 文字通り、まさに全力である。



「―――ヒーーンっっっ!?!?!??」


 凄まじい圧力に怯えたギロードが、防護壁にするために周囲に強大な竜巻を発生させる。

 もしここに都市があれば、それだけで大惨事になっていたことだろう。そして、迷うことなく今と同じ選択をしたに違いない。

 今の彼女には、それを判断する余裕もないのだ。ただただ防衛本能のみが働いている。


「ギロード!!? 落ち着け!!! ぐっ、なんて戦気だ!! こんなに離れているのに…痛いぞ!!」


 その竜巻はプライリーラでも苦しいレベルだ。亀裂が入った鎧がギシギシ音を立てている。

 だが、それ以上にアンシュラオンの戦気があまりに強くて、まるで巨大な炎の塊の近くにいるように肌が熱されて痛い。


 アンシュラオンは、そんな竜巻にも気にせず突っ込んで突破。

 強靭な脚力は荒々しい風にもまったく負けず、戦気に触れた竜巻もあっさりと消し飛んでいく。


 一直線にギロードに向かい―――ぶん殴る。



「邪魔だ、馬面ぁああああ!」


 メキメキメキッ ボンッ!!!

 アンシュラオンの小さな身体から放たれた拳が、巨馬の顔面に突き刺さり筋肉を破壊し、骨を圧迫し、へし折る。


 直後、顔の半分が―――消失。


 拳の威力が全身に浸透する前に、その部分が跡形もなく消滅してしまったのだ。

 たとえば豆腐を指で弾いたら、当たった部分だけが吹き飛んでしまうだろう。

 それと同じで相手の耐久値が弱すぎた。あまりの脆さにダメージが伝わらないとは、それはそれでコメントに困る現象だ。

 つまりギロードの防御性能など、本気を出したアンシュラオンにとっては豆腐と同じだということだ。


「ヒューヒューーーっ」


 もはや顔が半分吹っ飛んでしまったので、呼吸すら上手くできない。

 だが、もうすぐそんな心配事もなくなるだろう。

 この男の邪魔をした存在がどうなるのか、答えは一つしかないのだから。


「ただでさえ馬面だったのが、さらに間抜けな馬面になったな。お前と遊んでいる暇はない。すぐに終わらせる」


 その直後にはアンシュラオンは巨馬の下に潜り込んでおり、蹴り上げる。

 ドゴッッ!! ボヒューーーンッ

 今度は消失してしまわないように威力を調整して放った一撃なので、ギロードが大地に叩きつけたスーパーボールのように上空に跳ね上がった。

 アンシュラオンもジャンプして追撃。



「赤覇《せきは》・昇陽連脚《しょうようれんきゃく》!!」


 アンシュラオンが、舞い上がったギロードを下から蹴り上げる!


 ドドドドドオドドドドオドドドドオドドドッ!!


 蹴る、蹴る、蹴る、蹴る、蹴る、蹴る、蹴る、蹴る!!


 凄まじい速度の蹴りが放たれ、両者はさらに上昇を続けていく。

 アンシュラオンの上昇速度と蹴りの威力が高すぎて、ギロードは落下することが許されないのだ。


 それはまさに太陽が昇る光景。


 あらがうことができない自然の力を垣間見る。

 覇王技、赤覇・昇陽連脚。文字通り敵を蹴り上げ、太陽が昇るかの如く上昇させる技である。

 これ自体の攻撃力はさほどではないが、連撃を重視しているので拘束力が相当強い。

 初撃をくらってしまえば、あらがう暇なく一気に上空に蹴り上げられてしまうだろう。かなり難しい技なので、因子レベル5でようやく使える技である。


 この技の恐ろしいところは、それが完全なる【繋ぎ技】であるところだ。


 一度上空に蹴り上げられたら、たいていの生物は無防備になる。


「じゃあな、馬面。なかなか楽しかったぞ。そろそろ―――死ね」


 シュルシュルシュルッ

 アンシュラオンの戦気が縄状に変化。それがいくつも放たれ、無防備のギロードに絡み付いていく。

 戦気の縄はギロードの首、腕、胴体、四足すべてに絡みつき、完全に動きを封じる。


「赤覇《せきは》・落巻頭火《らっかんとうか》!」


 ギュルルルルルルッ!!

 アンシュラオンの両手に渦巻き状の戦気が集まっていく。

 旋回拳や赤覇・竜旋掌のように急速回転するエネルギーを溜める。


 それをギロード越しに地面に向かって―――放つ!!


 ドンッ!!!


「―――ッ!?!」


 巨大な回転する戦気の放出をくらったギロードは、身体中を縛られたまま頭を下にして落下していく。

 放った戦気は、相手を滅するよりも押し出す力を優先したものだ。


 それこそ―――まさに竜巻。


 ギロードが生み出したものよりも遙かに大きく、遙かに強大な力によって回転する渦と化す。

 ボボボボッ

 さらに縄となった戦気が燃え上がり、竜巻は炎に包まれ、身体中を焼いていく。


 覇王技、赤覇・落巻頭火。

 因子レベル5で使える技で、赤覇・昇陽連脚とセットで使うことを想定して生み出されたものである。

 赤覇・昇陽連脚は、格闘ゲームの上空コンボに繋げる技だと思えばいい。それによって相手を無防備にさせることが目的だ。

 本命はこちら、赤覇・落巻頭火。この技の集大成は【落下時】にある。


 真っ赤な戦気に焼かれたホースギロードが、まるで大気圏に突入した隕石のように赤熱しながら落下していく。



 身体は束縛され逃げられず、回転しながら大地に頭から―――激突。




 ドドドドドッ ドッゴーーーーーーーンッ!!!




 落下の衝撃による激しい振動と衝撃波が周囲を襲い、浮き上がっていたプライリーラまで吹き飛ばす。

 戦気を敵の身体に巻きつける戦気術の技量、それだけで相手にダメージを与える戦気の質、相手を逃がさない戦気量とパワー、この三つがそろわねば完成しない大技だ。


 ちなみに技の名前に「赤覇」とか「水覇」、「覇天」などの名称が付いているが、これは開発した覇王の異名や別称から付けられたものである。

 水覇は当然、水属性を得意とした覇王のことで、大量の水系の技を開発した英傑の一人である。

 水自体が他属性よりも形態を自由に変えられるので、多様な技を開発しており、アンシュラオンのような柔軟に戦い方を変える武人は彼の恩恵を受けているといえる。

 一方の赤覇系の技は火属性とパワー系が多く、今使ったコンボ技のように力づくで相手を破壊するタイプの技だ。

 水覇系を得意とするアンシュラオンに対し、赤覇系はパミエルキが好んで使っていたものだ。

 同じ覇系ならば実力の高いほうが強いので、アンシュラオンはあまり赤覇系の技は使わない。

 が、迫力があって決まった時は爽快なので、こうして怒っている時には使いたい衝動に駆られた、というわけだ。




「くっ!! ギロードっ!!!」


 その衝撃の大きさにプライリーラの顔も強張っていた。

 明らかに異常な光景だ。

 あの巨馬を上空高く蹴り上げることも異常だし、そこから落下系の技を繰り出すことも異常。そもそもこんな技があることすら初めて知る。

 技の完成度も高く、あまりの速度に助けることもできなかった。すべての次元が違いすぎる。


 もくもくもくっ


 衝撃によって巻き上げられた土煙が薄くなり、少しずつ視界が開けてきたので、プライリーラは急いで上空から救助に向かう。


「ギロード!! 無事なのか!!」


 上空から地上に近づき、落下地点を捜索。

 自分で無事なのかと言っておきながら顔面は蒼白である。美しい顔が恐怖に染まっている。

 あのような技を受けて無事であるはずがないと、当人が一番よく知っているのだ。


 そして、その予感は的中する。


 ゴロゴロゴロゴロッ ごろんっ


 ギロードを探すプライリーラのところに何かが転がってきた。



 それは―――半壊した頭。



 殴られた衝撃で、もともと半分はなくなっているのだが、落下の衝撃で顔も潰れている。

 だが、それはもうどうでもいいことだ。これが【首】の段階で、もう事は終わっている。



「あぁ…あぁああ……」



 これだけでも衝撃的だが、さらにプライリーラの眼前にそれすら上回る絶望的な光景が広がっていた。


 そこにあったのは―――四肢。


 バラバラになったギロードの姿である。

 この技の恐ろしいところは、ただ相手を落下させて叩き潰すところではない。その衝撃の際に巻きつけた戦気が爆発し、相手にさらにダメージを与えるところである。

 アーブスラットが使ったワイヤーマインと原理は似ているが、威力が違いすぎる。

 本来の戦気を解き放ったアンシュラオンの戦気縄は、それだけでも凶器。触れるだけでも高温。それがさらに爆破すればどうなるか。


 結果は、この通り。


 たかだか風龍馬程度では耐えられず、バラバラに砕け散ってしまうのが当然の理である。




302話 「決着、プライリーラ戦 後編」


「…ぁ…ぁっ…ぎ、ぎろー……ど……すまない…」


 バラバラになったギロードの前で、プライリーラが沈痛な表情を浮かべる。

 家族とも呼べる親友が、一瞬でボロ雑巾のように殺されたのだ。激しいショックを受けるのが当たり前である。

 頭が混乱する。何を考えていいのかもわからない。何が起こったのかもわからない。

 知らない、知らない、知らない。何も知らない。


 こんなものは―――知らない。


 この世にこれほどまでに強い存在がいるとは夢にも思わなかった。

 覇王や剣王、魔王という名前は知っていても、漠然としたイメージしか湧かなかった。

 自分は今まで本当に強い存在というものを認識していなかったのだ。

 今になってそれを痛感する。最悪の形をもって。


「雑魚が。たかが馬の分際でオレにたてつくからだ。だが、これではもう馬肉にもできんな。さっさと消えろ、生ゴミめ」


 ボンッ

 アンシュラオンは、残った頭の部分も戦気を放出して消滅させる。

 プライリーラにとっては大切な家族であっても、彼からすれば単なる魔獣にすぎない。

 魔獣を日常的に殺してきたアンシュラオンにとっては、たとえ聖獣だろうが関係ないのだ。

 そもそも自分のものでない以上、手心を加える理由はない。敵は敵である。



「ギロード!! うううう!! くううっ―――うおおおおお!!」


 それに対して、プライリーラは激怒。

 ここで哀しみよりも怒りが勝るあたり、彼女もやはり武人である。

 武人とは戦うために存在する。家族が目の前で殺されたとて哀しんでいる暇はない。


 生きている限り、すべての力を燃焼させて戦う存在なのだ!!


 憎しみや怒りすら力に変える。それこそ武人の正しい生きざまである。

 プライリーラは折れたランスを剣硬気で固めて突進。鎧のバーニアを使っての音速突撃だ。


「どうした? さっきより攻撃に迫力がないぞ」


 アンシュラオンは突進を寸前で回避してランスの下に潜り込み、蹴り上げる。

 ドゴッ ガンッ


「がふっ!!」


 ランスを押し上げるように蹴ったので、自らの槍で顔面を強打してプライリーラが鼻から出血。

 だが、自ら空中で回転することでダメージを減らし、そのまま上昇して間合いを取ろうとする。


「空中が安全とは限らないぞ。人間は普通、空を飛ぶようにはできていないからな。馬の援護がない君なんて、物の数でもない」


 『暴風の戦乙女』は単体でも空を飛ぶことができるが、真の力が発揮されるのは守護者と一体になった時である。

  すでにギロードは死に、徐々に竜巻も収まりつつある。風の加護の効果も半減しており、明らかに動きが鈍っている。

 アンシュラオンからすれば、弱った蚊のようにノロマだ。


 ババババンッ


 掌を向け、戦弾を発射。四発連射したので、まるで一つの音のように聴こえる。

 アンシュラオンの身体ほどにも膨らんだ巨大な戦弾が、宙に浮いたプライリーラに襲いかかる。

 そのどれもが遠隔操作でホーミングがかけられており、ぐぐぐっと曲がりながらプライリーラを追尾する。



「くうっ…おおおお!!」


 プライリーラはバーニアを大噴射しながら上下左右に振り、なんとか回避。

 その姿は、まさにホーミングミサイルをなんとか回避しようとする戦闘機に似ている。

 しかし、勢いよく風を噴射しながら急激な回避運動を行えば、体勢が崩れるのは必至。

 空中で完全に制御を失ったプライリーラは、今にも墜落しそうにグラグラしている。


(駄目だ! 風の力が弱い! ギロードがいなければ、ここまで私は弱いのか! なんという体たらくだ!!)


 ここでもギロードの支援がないことが痛かった。

 竜巻の効果があれば、その流れも利用して一気に軌道転換ができるのだが、単体ではどうしても直線的な動きになってしまい、行動に限界が生まれる。

 人馬一体は素晴らしい能力だが、半身である馬を失えば、あまりに脆い。

 空中でふらついたプライリーラに向かって、戦弾がさらに発射される。


 ドドドドッ


 再び計四発の戦弾が迫る。


「っ!! よけられん…!」


 回避できないと悟ったプライリーラが反転し、ランスで戦弾を薙ぎ払う。


 ブーーーンッ ズバッ


 がしかし、戦弾を迎撃すると同時に激しい爆発が起き、逃げ場のないプライリーラを襲う。


 威力はかなり手加減してあるとはいえ―――大爆発。


 ドドドドーーーーーーンッ


 激しい戦気に呑み込まれ、プライリーラが吹き飛ばされる。

 低出力モードの戦弾とは明らかにパワーが違う。切り払うことさえできない。

 本来ならば死んでもおかしくない一撃だが、風の防護膜が衝撃を軽減し、かろうじて耐えることができた。


 が、代償は大きい。


 ビシビシビシッ バリンッ!!



 『暴風の戦乙女』が―――割れる。



 戦弾を切り払ったランスにいくつもの亀裂が入り、粉々に砕け散った。

 鎧も衝撃を防いだ前面部分が、ごっそりと剥げ落ちる。

 それによって前は、ほぼ無防備。防御力という意味では、まったく役立たない代物になってしまった。

 背部のバーニアも停止寸前となり、残った足と肩だけでかろうじて制御するが、もはや死に体。

 頼りにしていた武具を失えば、もう風前の灯火である。



「終わりだね、プライリーラ。こっちは忙しいんだ。負けを認めるなら、これで決着でいいよ」

「はぁはぁ!! ギロードは…! 彼女は私の家族だった!! このままで終わるわけにはいかないのだ!! せめて何かを成し得ねばならない!! 私はまだ戦獣乙女なのだ!! 独りでもそうなのだ!!」

「やれやれ、あまっちょろいな、どこのお嬢様もさ。君もイタ嬢と同じだ。遊びでしか物事を考えていない。所詮は人間同士のおままごとだね。でも、これは殺し合いなんだ。本当なら、こんな話し合いなんて必要ないくらい簡単な話だ。強いものが弱いものから奪う。それだけのことさ。そして君は敗者となって、すべてを奪われるんだ」


 アンシュラオンは何事も楽しんでいるが、勝負に対しては常に真剣である。

 火怨山で育った男ゆえに敗者がどうなるかをよく知っているからだ。


 敗者は―――ただ喰われるのみ。


 そこに情緒も感傷も命乞いもない。虫が虫を喰らうように、なんら躊躇いも抵抗もなく相手を喰らう現象だけが存在する。

 そして今、喰われるのは彼女、プライリーラ・ジングラスである。



「じゃあ、これで終わらせてあげよう。じゃじゃ馬のお嬢様には、しっかりと負ける恐怖を教えてあげないとね」


 ドンッ

 掌から放たれたのは、今度も戦弾。

 その色合いは水色で、先ほどよりも巨大だ。十メートルにも膨れ上がった塊がプライリーラに向かう。

 ただし、速度的には前の戦弾のほうが速い。


「甘く見ないでくれよ!! この程度は…!」


 プライリーラは足のバーニアを使い、上昇して回避。

 しかし、アンシュラオンは次の攻撃を仕掛けない。

 なぜならば、これで十分だからだ。目的はもう達したのだ。


 【水気弾】はさらに上昇。


 プライリーラが浮かんでいる場所よりもさらに上空に向かう。


 そして、地表四百メートルに到達すると―――炸裂。


 まるで花火のように周囲に水気を撒き散らしながら爆発。米粒以下の細かい水滴となった水気が、周囲一帯に降り注ぐ。

 覇王技、水覇《すいは》・天惨雨《てんさんう》。

 上空に水気弾を放出し、爆発させて雨状にしてから周囲一帯を攻撃する因子レベル5の広域技である。

 込めた水気の量と質、発生させた範囲によって威力が変わるが、雨状に降り注ぐので回避はほぼ不可能。

 急いで範囲内から脱出するか、アンシュラオンのように戦気の壁を作って防御するしかない。

 もしプライリーラが技の本質を見抜いて急いで逃げていれば、被害は最小限で済んだのだろうが、彼女の無意味で無価値なプライドが破滅に追い込む。



 惨雨が―――プライリーラを襲う。



 ザァァァアア ザザザザザザザッ!!

 ジュウウ ジュウウウウウ


「ひぐうう―――っ!!」


 雨が身体に激突し、衝撃ダメージを与えながら酸の追加ダメージを与えていく。

 すでに風の防護膜は働いていない。一瞬だけ肩の部位が光ってフィールドを発生させたが、雨を数滴受けた段階でたやすく消滅した。

 たかが雨と侮るなかれ。その一撃一撃の速度はまさに高速。

 空から何十万という細かい水の弾丸が落ちてくるようなものだ。一撃一撃も鋭く強いので、装甲の厚い魔獣でさえ簡単に撃ち貫くことができる。

 プライリーラも必死に脱出しようとしているが、あまりに断続的にヒットしていくので到底耐え切れるものではない。


「うううっ!! ああああああ!!」


 戦気を張って防御するも、貫通した雨弾が当たれば強い打撲を受け、ついでに肌を焼いていく。


 十数粒受けただけで意識が朦朧とし、百粒を超えたあたりで宙に浮いてはいられなくなり―――落下。


 ヒューーーン ドゴンッ


 羽を穿たれた蝶のように地面で必死にもがいている姿が、妙に艶かしく、儚い。

 そんな無防備な彼女に対しても雨は降り続け、無慈悲にもダメージを与え続ける。


 ジュウジュウジュウウウウ


「うぁああああああ!!」


 美しい白い肌が、赤くなってただれていく。


「はははは! どうしたの、プライリーラ? お嬢さんがこんな場所で悶えていたら、よからぬ野獣たちに襲われちゃうよ。それとも誘っているのかな? いやらしいお嬢様だね」

「うううっ! こ、これしき…で…」

「違うね。そうじゃないでしょう? 君に出すのが許されているのは、喘ぎ声だけだよ」


 ザザザザッ ジュウウウウッ


「ううっ…うあぁああああああああ!!」

「おお、そうそう。その調子だ」


 アンシュラオンが、地べたに這いつくばるプライリーラを見下ろす。

 ジングラスの戦獣乙女と呼ばれたグラス・ギースのアイドルが蹂躙されている。

 守護者と呼ばれるギロードもあっさりと殺され、もはやなす術なく地に伏せている。


 所詮、この程度のものである。


 グラス・ギースの武人の力量など、所詮は程度が知れている。



「あまりに弱いな。初代グラス・マンサーは強かったのかもしれないが、子孫はまったくの出来損ないだ。それじゃ、ご先祖様が泣いているぞ」

「はぁはぁ…! 私は…都市を守らねば…! こんなところで……負けるわけには…」

「まだ偶像にすがるのか? お前はただの女だ。弱い女だ。それを認識しろ」


 アンシュラオンがプライリーラに近寄り、がしっと鎧の内側に手を入れる。


「なにを…!」

「アイドルを捨てられないのならば、引っぺがしてやるよ。お前が無力な女であることを、とことん教えてやろう」


 ギシギシギシッ バゴンッ!!


 鎧を力づくで―――剥ぎ取る!


 すでに半壊している鎧なのだが、さすがユニーク武具だけのことはある。持ち主から離れることを嫌い、アンシュラオンに対して攻撃を仕掛けてきた。

 風で邪魔をしようとしたり、カマイタチのようなもので切り刻もうとする。

 が、そんなものに意味はない。この魔人にとっては、そよ風にもならない。


「鎧ごときがオレに逆らうな!」


 メィイイッ バギャンッ


「きゃああああああああああ!!!」


 鎧が軋み、剥がれる。

 鎧が抵抗した分だけ力が入り、プライリーラの肩ごと引っ張ったので、彼女の肩が脱臼。

 べつにプライリーラが悪いわけではないがサナも肩を脱臼させられたので、知らないところで意趣返しを行っていたことになる。サナに見せられないのが残念だ。


 アンシュラオンは次々と鎧を剥ぎ取り、着ていたアンダーにも手をかけ―――ビリビリと破り取る。


 そして、ついに剥き出しのプライリーラ(裸)が出現した。



「ほぉ、こうして剥いでみると、女としての価値がよりよくわかるな。やはり美人だ」

「くうう、うううう…! く、屈辱だ…!」


 整った顔立ちはもちろん、真っ白な髪の毛にも劣らない真っ白な肌。

 プロポーションも良く、女性としての魅力に溢れている。やはり女性は裸が一番美しい。


「さて、どうしてくれようかな。特にオレの物ってわけでもないし…こういうことをしたっていいんだよな」


 ぐいっ ぽいっ

 プライリーラの足を掴み、雨弾から守っている戦気壁の外に放りなげる。


 ジュウウ ジュウウッ



「きゃあぁあああああああああ!!」



 もう鎧も服も下着もなく、戦気すら貫通するので、まさに生身で受けるしかない。

 身体中に雨弾を受け、次々と白い肌が焼けていく。


「はははは。どうだ、惨雨の味は? これを作った水覇って覇王は絶対にサディストだよね。こんなにじわじわ痛めつける技ばかり作ってさ。まあ、オレが威力を落としてやっていなかったら、もう完全に蜂の巣になって溶けていたところなんだけどさ。さて、どれだけもつかな。早く屈服しないと女性としても取り返しがつかなくなるぞ」

「こんな…もので……うあああああああ!!」

「ふむ、悪くはないが…性的に興奮はしないな。オレは『リョナ系』は嫌いなんだなぁ…やっぱり」


 アンシュラオンの性的嗜好はあくまで支配的要素であり、加虐行為そのものではない。

 このあたりはマニアックなので理解しづらいが、相手を屈服させることが面白いのであって、女性の肉体的損壊自体に興奮しているわけではない、ということだ。

 現在のプライリーラは雨弾に撃たれて悶えているので、その筋の趣味を持つ人間からしたら最高のシチュエーションなのだろうが、アンシュラオンはまったく興奮はしない。



 では、なぜこんなことをしたのかといえば、【餌】になってもらうためである。



 サナを急いで助けねばならない状況にあるが、モグマウス全部がやられたわけではない。

 残った闘人、およそ百匹程度はいまだ彼女の周囲にいるようだ。

 隊長がやられたため詳しい状況は不明だが、どうやら戦闘状態にはないらしい。というよりは最初から戦闘が発生していないようだ。

 それが逆に謎なのだが、残ったモグマウスが地上に出て、全員でサナをガードしていることは遠隔操作で伝わってくる。


(オレはサナを信じるぞ。自分を信じる。急がば回れだ。まずは敵を確実に仕留めてからだ)


 アンシュラオンは、ここで―――自分とサナを信じた。


 サナは死なない。

 なぜかわからないが非常に確信めいたものを感じている。

 さらに自分自身の力を信じてもいる。他人は信じられないが、自分が今まで培ってきたものを信じている。

 闘人たちは何万回も使ってきたアンシュラオンの得意技でもある。彼らの性能も行動パターンもすべて理解している。

 当たり前だが自分が作ったものは自分を裏切らない。これも今までの人生で学んだことだ。


 そして、サナを信じる。


 世の中に絶対などはない。この地上にいる限り、完璧なものは存在しない。

 だからこそ、どこかで信じるという要素が必要になる。

 自分が生涯をかけて共に歩もうと決めた存在である。それがこの程度のところで死ぬわけがないという強い気持ちがある。

 これは常人には、なかなかわからない感覚かもしれない。

 だが、常に真剣勝負をして、結果を出すことだけを求められてきた者にだけはわかるはずだ。

 ただの願望ではなく、積み上げてきたものを信じる強さ。それがアンシュラオンにはある。



(オレは結論を出したぞ。では、お前はどちらを選ぶ?)


 アンシュラオンが視線を向けた先には―――アーブスラットがいた。


 すでに竜巻はすべて消えており、視界はクリアになっている。

 数キロ先にはアーブスラットがいる。

 戦罪者はすべて倒れており、彼だけが立っているようだ。


 その彼と―――視線が交錯。


 ここでアーブスラットは選択を迫られた。


 サナを捕まえに行くか、プライリーラを助けるかの究極の二択である。




303話 「老執事の選択」


 話は少し遡る。

 まだ竜巻が健在の頃、つまりはギロードとアンシュラオンが戦っている頃だ。

 アーブスラットは戦罪者五人と交戦状態にあった。

 彼らはすでに血を沸騰させており、通常の三倍近い力を出していた。

 通常オーバーロード〈血の沸騰〉を使うと、二倍から十倍の力を発揮するといわれている。

 幅が大きいのは、覚醒限界がどれだけあるか、血や肉体がどれだけ強いか、将来性があるか等々、さまざまな要因が関わってくるからだ。

 一般的には二倍から四倍程度だといわれているので、今の戦罪者の状態は想定されていた通りの結果である。


 ならば―――問題ない。


 アーブスラットはひたすら防御に徹し、身体の回復を待っていた。

 そして、ついにその時がやってくる。


(修復はあらかた終わった。もう問題ない。…それよりリザラヴァンたちが気になる。やつらが正しく命令を遂行するとは思えん。彼女がおとなしく捕まればいいが、下手にあがくと暴走する可能性がある。間違いが起こる前に早めに向かうべきだろう)


 戦罪者の攻撃をギリギリでいなしながらダメージを抑えつつ、頭の中ではそんなことを考えていた。

 もちろんサナやマタゾーとの勝負では、焦りや力の温存によって不覚を取ったので同じミスは犯さない。極めて慎重に対処している。


 そのうえで―――相手にはならない。


 この程度の相手などアーブスラットの敵ではない。

 アーブスラットは『美癌門』を解除。身体が通常の肌色に戻っていく。

 ガン化していた細胞が元に戻ったのだ。こうなれば通常の技も使える。



「おりゃあああ!」


 戦罪者が剣を振り下ろす。

 それに対してアーブスラットは、使い捨ての空間格納術式の「押入れ君」からトンファーを取り出して受け止める。

 ガキィイイン ドカッ

 全体重を乗せた強烈な一撃を真正面から受け止め、蹴りを放って吹っ飛ばす。

 多くの物が入るポケット倉庫は便利だが、大量に入れておくと特定の物を取り出すのに時間がかかることがある。

 一方、ハンベエがそうしていたように、その場に応じた武器を即座に取り出すには押入れ君のほうが便利である。


「あなた方にかまっている暇はありません。そろそろ終わりにさせていただきましょうか」


 アーブスラットがトンファーを構える。

 利き腕の右手はそのままで、左手だけに一本トンファーを持つ、という様相だ。

 彼は無手でも強いが、同時にさまざまな武器も使いこなすタイプである。

 むしろアンシュラオンのように肉体のみで戦う武人のほうが少ない。圧倒的な肉体の強さと戦気量がないと難しい芸当である。

 そして、これが【強敵】を相手にする際の本来のスタイルとなる。


「んだぁ? ジジイが!! てめぇはここで俺らと死ぬんだよ!!」

「それは御免こうむりますな。死ぬのはあなた方だけです」


 アーブスラットの気持ちにも頷ける。美女に迫られるのならばまだしも、こんな連中と無理心中など最悪だ。


「遠慮するなよ!! 俺らが手っ取り早く冥土に送ってやらぁ!! 死ねやぁあああ!」

「ふんっ!!」


 二人同時にかかってきた戦罪者に対し、アーブスラットは前方から向かってきた相手に狙いを定め、一気に加速。

 剣をトンファーで叩き、相手の体勢を崩したところで懐に潜り込み、脇腹に拳を叩き込む。

 ドンッ ブスッ


「ちっ…!! やろう!! 離れろ!!」


 戦罪者は剣を振り回してアーブスラットを後退させる。

 アーブスラットはすでに身を翻し、背後から来た戦罪者と戦っている。


 拳を受けた戦罪者は、その間に殴られた箇所を確認。


(なんか刺された感じがしたな。…隠し武器じゃない。こりゃ…貫手《ぬきて》か?)


 アーブスラットは貫手をしていた。普通の指を並べるものではなく、親指による一本貫手である。

 拳を握った状態で、親指を人差し指に添えて突き出す形のものだ。これならば指を固定できるし、威力を一点に集中させやすい。

 彼の動きはボクシングの技術を多く取り入れているので、このほうがやりやすいのだろう。


(覚醒している俺に、こんなもんが効くかよ! 姐さんのためにも俺らはこいつを…)


 指が刺さったくらいである。特に技でもないので、身体に穴が一つあいたくらいでは武人は死なない。

 だからそのままアーブスラットを追撃しようとする。

 が、その当人はこちらに一切の視線を向けないで、他の戦罪者に集中している。

 明らかに眼中にない、といった様子だ。


「なめてんじゃねえぞ!! 死ね―――やっ!?」


 それを侮りと捉えた戦罪者が向かおうとするが、さきほど刺された脇腹に違和感。


 何かが体内で急速に膨らんでいく感覚が生まれ―――


「な、なんだぁ…こりゃ…うばばばばばばばばっ」


 ボコボコボコッ バーーーーンッ



 戦罪者が―――破裂。



 まるで風船が破裂したように身体が吹き飛ぶ。破裂した箇所は全身ではないが、脇腹から心臓部分が完全に吹き飛んでいた。


「て…めぇえ……なにしやが…ごふっ……なんだぁ? 頭が…膨れて…うぼっ!?!」


 ボンッ

 文句を言っている次の瞬間には、頭も破裂。

 心臓と脳を破壊された戦罪者は死亡した。



「気をつけろ!! このジジイ、何かやりやがったぞ!!」

「気をつけても防ぐことはできませんぞ」

「ちいいっ!!」


 アーブスラットは持ち前の体術で一気に懐に飛び込み、再び右手の親指で貫手を叩き込む。

 ドンッ ブスッ

 今度は腕にヒット。


 そして死んだ戦罪者と同じく腕が膨れ上がり―――破裂。


「ぐあああ!! くそがっ!! てめぇえも死ねや!!」

「どうぞご遠慮なく、お独りで死んでください」


 ボコボコボコッ バンッ ボンッ


「うべ―――がぼっ」


 その戦罪者も胸と頭が破裂して死亡した。

 覚醒した戦罪者二名を、あっという間に殺害。これが本気を出したアーブスラットの強さであった。



 その名を―――死痕拳《しこんけん》



 アーブスラットのもう一つの『ユニークスキル』である。

 系統としては美癌門と同じで、身体の【細胞を操る能力】である。彼は細胞操作に長けた武人というわけだ。

 ただし美癌門とは違い、不気味な名前通りの凶悪な攻撃型スキルとなっている。

 よくよく見るとアーブスラットの右手から手袋が外され、いつの間にか素手になっている。

 その指先は五本とも黒く変色していた。この部分だけ美癌門と同じガン細胞化しているのだ。

 この変質させた指の部分を相手に打ち込み、その際に自分のガン細胞を相手に侵入させて内部で急速に増殖させる技だ。


 増殖速度は美癌門の数百倍で、打ち込まれてから数秒もたたずに見た目でわかるほどに肥大化し、皮膚や臓器を巻き添えにして爆発する。


 それはまるで世紀末に出てくる必殺拳法のようだ。

 どんなに強い相手でも内部からの攻撃には弱い。頑強な魔獣とて臓器は柔らかいので、これを受けたら大ダメージは避けられないだろう。

 死の痕跡がありありと残る攻撃のため、いつしか死痕拳と呼ばれるようになった【必殺拳】である。


 さらに怖ろしいのは、【ガンが転移】することだ。


 普通の病気でもそうだが、ガンが怖ろしいのは転移する点である。一つのガン細胞を放置していた結果、身体中に転移して死亡するケースは数知れない。

 この死痕拳も一度相手の体内に侵入すれば、心臓と脳を破壊するまで転移を繰り返す性質を持っている。

 腕に当たろうが足に当たろうが、それが身体ならば問題はない。


 対処方法は一つ。侵された箇所、転移した箇所を即座に取り除くことだ。


 腕や足の場合ならば、すぐに切り落とせば間に合う。あるいはその部位を完全に焼いてしまえば増殖はしないだろう。

 しかしながら増殖速度が異様に速いので、この技の性質を知らねば防ぐことは難しい。

 これだけの性能を持つのだから、当然ながらアーブスラットも多大な代償を支払う。

 ガン細胞の増殖は寿命を減らすし、一時的に自分の細胞も失うため短時間での多用は負担も大きい。

 武人は簡単に奥の手は出さない。出すときは相手を確実に殺す時である。

 それゆえに、この場にいる者たちは全員殺す必要がある。



「ジジイの右手に気をつけろ!!」


 戦罪者も戦闘経験豊かな武人である。即座にアーブスラットの手が危ないと見抜く。

 だが、この技は強いがゆえに、一度見せるだけで十分効果がある。

 アーブスラットは右手を上手く見せ球にしつつ、相手が左手への警戒を緩めたのを確認し―――トンファーを一閃。


 バギャンンッ ぐしゃっ


「ぶはあっ!」


 剣気をまとった強烈な一撃が戦罪者の頭を破壊する。

 死痕拳は恐るべき技だが、左手のトンファーの一撃も単純に強い。一発で致命傷に近いダメージを与える。

 さらにそのまま掌を押し当て、発気。

 ドゴンッ バゴンッ!!

 風神掌を叩き込み、心臓をズタズタに切り裂く。


「ちく…しょうっ……」


 戦罪者は血反吐を撒き散らして死亡。こちらも確実に頭と心臓を破壊する。


「くそがっ!! 姐さんは追わせねぇえぞおお!!!」

「来るならこいやぁあああ!」


 残りの二人が立ち塞がる。

 しかし、もう結果は見えている。この二人では老執事を止めることはできない。


 アーブスラットは再び懐に潜り込む―――と見せかけてワイヤーマインを放つ。


 これも絶妙のタイミングだ。右手の死痕拳と左手のトンファーをすべて囮に使って、虚をついてワイヤーを巻きつける。


―――爆発


 パンパンパンパンパンパンッ

 細かな爆発で身体中の筋肉が破損。それでもまだ立っている戦罪者に対して、掌を向けて発気。


 放たれた風気が膨れ上がり、風獅子となって襲いかかった。


 覇王技、獅子覇王波《ししはおうは》。

 因子レベル4で使えるようになる放出技で、風気がライオンのような形状を取って相手に襲いかかる技である。

 ガンプドルフが使った雷王・麒戎剣《きじゅうけん》のように、技の中には動物をかたどるものがある。

 技として使うにはこの形状に変質させないといけないので、多くの者は意識せずに使っているが、初めて見る人間は「なんで動物なの? 無駄じゃない?」と疑問を感じるに違いない。

 それは当然の疑問だが、精神エネルギーである戦気を使う以上、「このほうが強そう」と思えるのは非常に重要なことである。

 人がライオンや虎を見て憧れるのと同じように、それを体現しようとしたものなのだ。そうすることによって威力も上がる。


 風の獅子が戦罪者を―――噛み砕く。


 巨大な牙に首を噛まれ、鉤爪で身体をズタズタに引き裂かれた戦罪者が血を吐き出す。


「ごふっ…姐さん……すんません……盾にもなれねぇ…なんて。…どうかご無事で…」


 ハラハラ

 サナにもらった若癒の術符が、細切れになって落ちる。

 これだけの威力を持つ技を受けた以上、この術符を使ったところで回復は不可能だっただろう。


 戦罪者はそのまま絶命。


 もう一人も余波を受けてふらついている間に、あっけなく殺される。



 こうして―――全滅。



 結果的にアーブスラットは、ほぼ一人で戦罪者たちを倒したことになる。

 その中にはサナの命気足とマタゾーも含まれていたので、凄まじい戦果を挙げたといえるだろう。

 だが、これでも想定外が続いた結果の泥仕合である。

 欧州サッカーのビッグクラブが、アジアのクラブチームに苦戦するようなものだ。

 なんとか面子を保ったが、けっして楽勝ではなかった。最後は奥の手を出さねばならない状況にもなったのだ。


(やれやれ、ここまで苦戦するとは。このレベルの相手ならば、もっと早めに倒せたはず。それもこれもホワイトと、あの少女のせいか。早く彼女を追わねばなるまい。死んでしまったら最悪なことになる)


 もしサナが死ねば、激怒したアンシュラオンに殺される可能性が極めて高い。

 それだけは絶対に避けねばならない。こんなところでジングラスが失墜するわけにはいかないのだ。


 そう思ってサナを追おうとするが―――



―――竜巻が消失



 遠くから見てもあれほど荒れ狂っていたハリケーンが、消え去っていく。



(これは…! まさか守護者に何かあったのか!?)


 ここで守護者がアンシュラオンを倒した、と思わないところが、彼が優れた武人であることを証明している。

 風龍馬では、万に一つも勝ち目がないと知っているからだ。

 ただ、アーブスラットにとって重要なのは守護者ではない。ジングラス当主であるプライリーラのほうだ。


 そして、プライリーラが雨に襲われて大地に墜落。


 さらにアンシュラオンに鎧と服を剥ぎ取られ、全裸にさせられる現場を目撃。

 自分の孫にも等しい女性が、悪党(アンシュラオン)に襲われているのだ。

 ぶっちゃけ、かなりショッキングな映像である。
 

(なっ、リーラ様!! くっ!! どうする!? どうすればいい! 今から助けに行けば救出して逃げることも可能かもしれんが……あるいは少女を確保して交渉材料にするほうが確実か!? くうう!! てこずった代償がこれか!!)


 敗因はいくつもある。そもそも勝ち目がなかったと言われればそうかもしれないが、自分がてこずったことは最大の失態である。

 最初に上手く捕まえておけば、と後悔するが、事態は一刻を争う。

 今すぐに決断しなければならない。



―――プライリーラを助けるか


―――サナを捕まえるか



 まさに究極の選択である。


 可能性があるのはサナを捕らえるほうだ。お互いに人質交換すればいい。

 しかし、プライリーラは雨に晒されて悶えているうえ、アンシュラオンの目的は「処女を奪う」ことでもある。

 しかも相手は外道。裸の女性を痛めつけて下卑た笑いを浮かべている。なんて卑劣な男だ。

 大切な孫娘にも等しい女性を痛めつけられて黙っているほど、アーブスラットは温厚な人間ではない。


「うううっ…うおおおおおおおおおお!!」



 もちろん―――激怒



 赤子のプライリーラが、自分の手を握ってくれたこと。

 子供のプライリーラが、自分に甘えてくれたこと。

 少女のプライリーラが、悩みを打ち明けてくれたこと。

 彼女の師匠として技を教え、共に修練したこと。

 戦獣乙女になった彼女を陰から守ってきたこと。

 大恩あるジングラス。愛するジングラスの人々に誓ったこと。



 プライリーラを―――守る!!



 すべてはここに集約される。自分の人生のすべてはここにだけ存在する。


 迷うことはなかった。


 アーブスラットは、プライリーラを助けることを選択した。




304話 「老執事、燃ゆる 前編」


「リーラ様!!」


 アーブスラットは、一つの選択をした。

 自分が守るべき大切なものを最優先にすると。

 一度決めれば即座に動く。一直線にこちらに向かってきた。


 それを見てアンシュラオンは納得する。


(そうだよな。お前なら絶対にそうすると思ったよ。オレだって逆の立場ならばそうする。もしサナが痛めつけられていたら、そいつを殺してやろうと思うもんな。理屈じゃない。感情なんだ)


 それはとても自然な行動である。おそらく他の大勢の人間がそうだろうし、魔獣だって自分の子供が攻撃されていたら助けるだろう。


 しかしながらアーブスラットの本来の目的からすれば、下策であり失敗である。


 彼がサナを狙うと決めた以上、そこは貫かねばならなかった。

 モグマウスがいるので簡単ではないだろうが、まだそちらのほうが可能性はあっただろう。

 仮に0.1%未満の確率でも、それはりっぱな可能性だ。


 が―――ゼロになった


 アンシュラオンと交戦するのならば、万に一つも勝ち目はない。彼の未来は完全に閉ざされたことになる。


(お前の不運は【プライリーラの姿が見えていた】こと。それだけかな。サナの姿がここから見えていれば、オレは間違いなく向かっていた。しかし、離れていたからこそ【信じる】という選択肢が生まれた。サナは戦いの道に入った。武人の山を登り始めた。これからは、ただ守られるだけの存在じゃないんだ。そのきっかけを与えてくれたお前には感謝しているよ)


 過保護であることはスキル名でも実証されてしまったので、自らを律するには離れるのが一番である。

 可愛い子には旅をさせよ、とは真実なのだろう。

 近くにいたら絶対に守ってしまう。安全は保たれるものの、それではサナが成長しない。

 この時のアンシュラオンはサナの状況を詳しくは知らないが、グラサナ・カジュミライト〈庇護せし黒き雷狼の閃断〉が覚醒したのも、あえて彼女を危険に晒したからだ。

 この用心深く心配性な男が、これほど大胆な決断を下したのだ。どれだけ苦渋のものだったかは想像に難くない。

 他人を信じられない男が、いくら可愛いサナだからといって信じきるのは、本当に難しかったのだろう。

 それでも信じた。だからチャンスが巡ってきたのだ。


 一方、アーブスラットは信じきれなかった。


 プライリーラをただ守ることだけに傾倒していた彼は、大きな流れで大切な決断を下せなかった。


 それは―――もう一人の自分の姿。


 サナに対して過保護なままのアンシュラオンを、自分自身で見ているようなものである。

 だからアーブスラットを憎みきれないのだろう。他人から見た自分の姿だからだ。



(この世界では、つくづくオレは自分の鏡を見せられる。イタ嬢もソブカも執事のじいさんも他人には見えないな。そして、それと区切りをつけてこその成長と成功だ。お前はサナのために役立った。その褒美をやらないとな)


 がしっ ぐいっ

 アンシュラオンが、悶えているプライリーラを持ち上げ―――投げる。


「うあっぁあああああああ!!」


 ヒューーーーーンッ ドンッ

 巨馬すら簡単に吹き飛ばす膂力で投げられたプライリーラは、小石か何かのように軽々と飛んでいく。

 大気を切り裂き、空気の壁に激突しながら、一直線にアーブスラットに向かっていった。


「リーラ様!! ぐっ!」


 アーブスラットも全力でこちらに走ってきていたので、落下する前に見事キャッチ。

 剛速球をわが身をもって受け止めつつ、背後に飛んで衝撃を吸収して主人を守る。

 その姿は、まさに執事。

 彼にとっては主人こそが一番の存在なのだ。だからこれは当然の行動である。


「リーラ様! ああ、なんという御姿に…! 私が参りましたから、もう大丈夫ですぞ!」

「うっ…じ、じい…か? …すまない。ギロードを……彼女を失って…しまった。戦獣乙女とは…名ばかりだな…」

「しっかりなさいませ! それよりも今は御身が大事でございます! 一度退いて態勢を整え―――」

「おっと、褒美はあげたけど簡単に持ち逃げはさせないよ」

「ホワイトっ!!」


 投げた物が到達した瞬間には、投げた当人もそこにいるという現象が起きる。

 以前、火怨山でアンシュラオンがパミエルキにやられたことだが、この短い距離ならば彼も同じことができる。

 姉の場合は何千メートルもある山の上から投げたのに、なぜか先に着いていたので、これと比べるのは失礼だろう。レベルが違いすぎる。


「あんたには妹がいろいろと世話になったようだ。オレは貸し借りはしっかりとケジメをつけるタイプでさ。その借りは返さないといけないよね」

「ホワイト、リーラ様はやらせんぞ!!」

「どっちの意味? 卑猥なほう? というか完全に地が出てるぞ」


 アンシュラオンを睨む目は、執事ではなく激しい怒りを内包した武人であり、無頼者とも呼べる荒々しい気質であった。

 もともと荒野を一人で渡り歩き、武を磨いてきた男だ。素の顔のほうが似合っている。



「リーラ様、今しばしのご辛抱を」


 アーブスラットは、かなりボロボロになった上着をプライリーラにかけて寝かし、自身は武器を持って戦闘モードに入る。


「いいね。やる気じゃないか。そういう相手を求めていたんだ」

「お前が強いことは知っている。だが、こちらとてすべてを出しているわけではないぞ!」

「なら、見せてみなよ。オレを楽しませて―――」

「ぬぅうううおおおおおおおおお!」


 ゴゴゴゴゴゴゴゴッ ボォオオオオオオッ!!

 アーブスラットの戦気が激しく燃え上がる。赤紫だった色合いが、さらに濃くなり、重厚になっていく。

 身体中の細胞が活性化し、一気にアーブスラットの肉体が目覚めていく。

 その戦気の質は、今アンシュラオンがまとっているものと大差ないレベルである。

 シュンッ


 アーブスラットは加速すると、アンシュラオンに体当たり。


 アンシュラオンはガードするも、そのまま抱え込むように押し込んでいく。


「うおおおおおおおお!」


 アーブスラットは大地を抉りながら、アンシュラオンを押していく。

 これはプライリーラから距離を取ろうとしているのだ。

 では、アンシュラオンがそれを見越して、あえて受けているのかといえば、そうではない。


 単純に―――【力負け】している。


 アーブスラットの戦気は強大で、アンシュラオンとほぼ互角であった。そこに体格差が生まれて、この押し込まれる状況が発生しているのだ。


 そして三キロ近く押し込んだあと、アンシュラオンに蹴りを放って吹っ飛ばす。

 バゴンンッ!! ズズズズズッ

 その蹴りも両手でしっかりガードするが、アンシュラオンは後方に流される。こちらの蹴りも相当な威力だ。

 ただ、そのままやられるような男ではない。


「よっこいせ!!」


 アンシュラオンは即座に体勢を立て直し、ダッシュ。

 お返しとばかりにアーブスラットに蹴りを放つ。

 アーブスラットは左手のトンファーで防御。手首を返して武器を操り、衝撃を逃がす。

 アーブスラットの反撃。素早いフットワークからの右ジャブの連打。

 ドドド ドドドッ シュッ

 一瞬で六発のジャブがアンシュラオンに目掛けて放たれる。アンシュラオンも華麗な足捌きと腕によるガードで見事に回避。



 そこから両者の打撃戦が始まった。



 アーブスラットは一気に鋭く踏み込み、閃光のようなジャブを放つ。

 アンシュラオンが首を捻って回避すると、拳圧の威力で後方の大地が大きく抉れる。

 まるで巨人が怒り狂って棍棒を振り回し、大地を破壊したような大きな破壊痕が残る。

 たかだかジャブでこの威力だ。これが高速で放たれるのだから怖ろしいものである。


 アンシュラオンも速度重視の動きでジャブをよけながら、時折掌底を放って応戦。

 アーブスラットは再びトンファーを使って防御し、一旦距離を取る。それ以上は絶対に踏み込まない。

 アンシュラオンの一撃も凄まじい威力で、いなしたはずなのに左腕がもげそうになるほどだ。

 こちらも衝撃で背後の大地が吹き飛ぶという現象が起きている。直撃すれば致命傷であろう。


 鋭くS字を描くような動きのアーブスラットに対し、水のように無限に変化する体術を操るアンシュラオン。

 これはなかなか見応えのある勝負だ。

 アーブスラットは利き腕の右ジャブで速くて強い攻撃を打ち出しながら、本来は武器であるトンファーを盾に見立てて応戦。

 強い相手は簡単に隙を作らない。大きな攻撃を放つ間がないので、こうした戦術を取るのだ。

 無手で真っ向から受け、それでも打ち負けないアンシュラオンも、いつも通りに強い。


 ドドドドッ バンバンッ!! ボンッ

 ドドドドッ バンバンッ!! ボンッ

 ドドドドッ バンバンッ!! ボンッ


 そうしてこの場では、凄まじい戦闘が繰り広げられていた。

 両者を中心にして衝撃波の嵐が吹き荒れ、再び場は誰も入り込めない戦場と化す。



(やるな、じいさん。やはり実力を隠していたか)


 アンシュラオンは久々に楽しい気持ちを味わっていた。身体が喜んでいるのを感じる。

 現在の自分は、本来の力を開放した高因子高出力モードである。戦士因子も8まで覚醒させている。


 つまりは火怨山における普通の戦闘状態である、ということだ。


 むろん技を使ったり戦気の出力強化状態になれば、この数倍以上のパワーを出すことができるわけだが、これだけでも並の相手ならば一発で即死だ。


 その自分相手にアーブスラットは互角に打ち合っている。


 スピード型であるアーブスラットだ。素早さには定評があるし、長年積み重ねてきた技量も相当高い。

 今はパワーもかなりのもので、体格差によってアンシュラオンよりも上の腕力を誇っている。さきほど押し負けたのが、その証拠である。


 これは―――異常。


 いくらアーブスラットが強いからといって、明らかにおかしい現象である。

 だが、アンシュラオンはまったく驚いていない。最初からこれを知っていたかのように冷静に対応している。

 なぜアンシュラオンは、サナを助ける前にアーブスラットをおびき寄せたのか。

 その理由が、ここにある。


(これがアーブスラットのユニークスキル、『寿命戦闘力転化』か。オレとこれだけ殴り合いができるんだ。それだけの価値はあるんだろう。やはり甘く見ないで正解だったよ)


 アーブスラット、最後のユニークスキル『寿命戦闘力転化』。


 細胞操作に長ける彼が最後の最後に頼るのがこれ。

 もう最後。ここで負けたらもう終わり、という時に使うものである


 アーブスラットは要人のため、アンシュラオンは最初に出会った時に情報公開を使っていた。

 そこで見たステータスもそれなりに高かったが、「死」やら「癌」やらとなかなか不穏な文字が並ぶユニークスキルのほうが気になっていたものだ。

 死痕拳と美癌門は想像するしかないが、こちらのスキルは文字通りの意味だと解釈した。


 そして、予想通りの技であったようだ。


 グランハムでさえまったくついてこれなかったアンシュラオンの速度に、この老執事は食らいついてくる。

 『寿命戦闘力転化』は、アル先生が使った『匪封門《ひふうもん》・丹柱穴《たんちゅうけつ》』と同じく身体強化系の技で、細胞の活性化で一時的に【限界を突破】できるスキルだ。

 これによってアーブスラットは、通常の戦闘力を遙かに超えた力を手にしている。だからアンシュラオンと打ち合えるのだ。


 しかし、代償は他の二つよりも激しく重い。


 美癌門や死痕拳よりも激しく細胞が傷んでいき、老化が加速する。こうして打ち合っている間も肌から色艶が失われていき、少しずつシワが増えていくのがわかる。

 このスキルは、細胞操作で長生きするものとは完全に逆系統のものだ。

 使えば使うほど急激に老化するのだから、アーブスラットに余裕があるはずがない。

 これほどの戦いを繰り広げているのにもかかわらず、顔が強張っている。

 実際に戦ってみて、アンシュラオンの底知れない強さをさらに感じているのだ。


(こちらは限界を超えているというのに、まったく普通についてくる。凄まじい戦闘速度だ。これがホワイトの通常戦闘のレベルか…。これが通常ということは、ここからさらに上がるということだ。フルポテンシャルを発揮すれば本物の怪物だ。このままでは勝ち目などはない。一発、一発でいい! 『死痕拳』を当てて逃げる隙を生み出す!)


 技の持続時間は、もってあと数秒。これ以上の消耗は命に関わる。

 自分の命などどうなってもいいが、プライリーラだけは逃がさねばならない。

 残った体力も残りわずか。この一瞬にすべてをかける。


 動きがわずかに鈍ってきたアーブスラットに、アンシュラオンが連打を浴びせる。


 ドガドガドガドガドガドガッ!!!

 ドガドガドガドガドガドガッ!!!

 ドガドガドガドガドガドガッ!!!


 ガンプドルフ戦では途中で終わってしまったので、アンシュラオンからしてもこうして素の状態で殴り合うのは久々だ。

 それが楽しくてしょうがないというように、乱雑に思うままに拳を振るっている。

 アンシュラオンにとっては、これからが勝負。ここから駆け引きや技など、数多くのやり取りが発生する段階だ。

 この状況を楽しむだけの余裕があるということ。

 しかしアーブスラットにとっては、これが限界のさらにまた限界である。


 シュッ ボシュンッ

 トンファーで受け損ね、掠った拳が頬肉を抉り取っていく。


 アンシュラオンは明らかに軽く殴っているはずなのに、防御の戦気で強化した身体を軽々と貫通する。

 これが超一流と呼ばれる魔戯級以上の武人の領域である。

 本来は第六階級の名崙《めいろん》級であるアーブスラットにとっては、二階級以上も上の未知の領域だ。

 一手一手の動きも、一足一足のスピードも、一発一発の重みもまるで違う世界では、この老練な執事もヒヨっこと同義。次第に押されていく。

 だが、けっして引かない。退かない。ギリギリの間合いで耐える。




305話 「老執事、燃ゆる 後編」


(ははは! いいぞ、いいぞ! 予想以上の動きだ。ボクシングと拳法の動きが交じっているのか。これは面白い!)


 アンシュラオンは、アーブスラットの強さを称賛する。ここまで単独で自分と戦える武人はガンプドルフ以来だ。

 寿命が減るという最悪のペナルティはあるものの、少なくともこの状態であればプライリーラを遙かに凌駕している。

 いつも「どんな手を使っても強くなればよい」と豪語しているのだ。アーブスラットのスキルについても全肯定である。

 そして体術のレベルも高い。

 足技無しでは立ち技最強とも呼ばれるボクシングを基礎として、その中に中国拳法の動きが入り交じっている。


(わざわざ道場で足技無しの技術を教えるとは思えないから、これも自己流なんだろうな)


 リングを回るように、相手を中心に円の動きで攻撃をかわす。円の動きは格闘技の真髄でもあるので、実に理に適った動作である。

 真剣勝負の大半が魔獣とだった自分とは正反対に、対人戦闘をとことん追及してきたのだろう。

 無手の戦士が実戦で戦う中で編み出した動きであり、明らかに死線を潜ってきた凄みが滲み出ている。

 アンシュラオンの型の無い動きに翻弄されているが、ギリギリのところで致命傷を避けながらも、反撃の機会をうかがえるだけの技量は見事だ。

 こんなスキルまで使うのだから、精神力も間違いなく上位クラスである。


(このレベルの相手となると面白いな! 剣士のおっさんも魔剣を使わせたらもっと強くなるんだろうし、今度会ったら見せてもらおうかな)


 ガンプドルフも通常のレベルであれだけ強いのに、さらに魔剣の力がある。あれだけもったいぶったのだから、かなり危険な代物なのだろう。

 そして、アーブスラットにも魔剣に匹敵する危険な技がある。


 右手が―――黒に染まる。


 そう、『死痕拳』の準備である。


 アンシュラオンに勝つ、あるいは倒せずとも動きを封じるには、この技しかない。

 いくらこの男とて、内部から攻撃を受ければただでは済まないだろう。心臓を吹き飛ばせば時間は稼げるはずだ。

 そして同時に『美癌門』も使う。もう他の技を使う必要はない。死痕拳一本に絞ったのだ。

 右手だけ黒くなれば違和感が生じるので、全体を黒くして誤魔化す目的もある。

 この変化で相手が警戒する可能性もあるが、これも仕方がない。




 アーブスラットは防御しながら慎重に隙をうかがう。

 問題はいつ、どこに打ち込むかだ。


(この男、異様に肉体が強固だ。腕や足は駄目だ。戦硬気で強化しているから指が刺さらない可能性が高い。となれば、やはり腹か胸しかないが…この怪物に当てるだけでも至難だな。チャンスは一回しかないだろう)


 人間の身体は、よほどの肥満体でなければ骨が邪魔をするので、指が刺さる場所は限られる。

 普通の武人ならば骨ごと砕けばいいが、アンシュラオンはやたら身体が硬い。持って生まれた肉体の質自体が違うのだ。

 こうして打ち合っていても、まるで岩か金属で出来ているのではないかと思えるほど、恐るべき強度を誇っている。

 腹は懐が深いので当てるのは難しい。常人でも腹に手が伸びれば腰を引いてかわすだろう。


 ならば消去法で【胸】しかない。


(一撃だ! 一撃でいい!! ここに全力を尽くす!!)


 一点集中。直接心臓に叩き込むと決める。


 ボオオオオオオオオッ


 アーブスラットが最大出力の戦気を放出。限界の限界の限界を超えて強引に馬力を出す。



「うおおおおおおおおお!!」



 アーブスラットが―――覚悟を決めて突進。



 無謀とも呼べる真正面からの突撃を敢行する。

 当然、それを見逃すアンシュラオンではない。

 右足で下段から上段に変化する剛脚が襲いかかる。上半身を狙ったハイキックだ。


 それをアーブスラットは―――よけない。


 メキャメキャッ ボンッ


 トンファーが完全にへし折れ、直撃を受けた左腕が肩ごと吹っ飛ぶ。

 だが、アーブスラットは止まらない。そのままの速度で…否、さらに加速して突っ込んできた。


(感触が柔らかい。こいつ、自分で捨てたな)


 アンシュラオンは、その感触からアーブスラットがわざと左腕を捨てたことを悟った。

 これは自壊。いや、トカゲの尻尾と同じく『自切』と呼ぶべきだろうか。

 美癌門の部分的操作によって、その部位の細胞だけを制御して、当たった瞬間に切り落としたのだ。


 現在のアーブスラットはユニークスキル、『寿命戦闘力転化』と『死痕拳』、『美癌門』による能力三つ同時発動を行っている。


 これは実に高度な技である。

 並の武人ならば一つずつしか発動できないのだ。ファテロナも技を同時に発動させたが、これこそ達人の領域に達した武人の本領といえる。

 RPGにしてもバフ(ステータス強化)の重ね掛けは非常に有用だ。上級者においては無ければ話にならないほど常識である。

 ただ、当然ながらこれだけのスキルを同時使用する以上、身体にかかる負担も大きい。

 もう二度目はない。

 ここが勝負所。すべてをかける瞬間となる。



 その努力は―――実る。



 自切したことで速度を落とすことなく、アンシュラオンの懐に一気に突入。

 右足の蹴りを放ったアンシュラオンにカウンター気味に右手を伸ばす。

 これも左側に隙を生み出して、あえてそこを攻撃させるテクニックを使っている。隙があれば打ち込みたくなるのが武人の衝動である。

 そこに必殺の一撃を繰り出せば、いくらアンシュラオンでもよけられない。

 そして今度は、五本の指すべてを突き刺すように貫手を使う。どの指でもいい。どれか一つが当たってくれれば、という願いを込めて。



 願いが、意思が力となり、貫手が綺麗に伸びて―――戦気を貫通。



 ズズズズズズズズバッ!!!

 右手にだけは全身全霊の戦気を込めているので、アンシュラオンの戦気を貫通したのだ。


 そのまま―――身体にまで至る。



「ぐおおおおっ!!」


 ジュウウウッ ボボボボボッ

 しかし一方、右手に集中させたために他の部分の戦気量が格段に減ったので、アンシュラオンの戦気に触れただけで身体が焼けていく。

 そこはもう捨てている。右手だけが届けばいい。

 必死に右手を伸ばし―――


 ドスッ!!!


 かろうじて指先一本が胸に突き刺さる。


(届いた…! たとえ指一本でも、この技ならば行動不能にできる!)


 アンシュラオンの胸に、その凶悪な攻撃が当たった。


 ユニークスキルのため、アンシュラオンも死痕拳の詳細情報を知らないはずだ。

 犠牲になった戦罪者のように知らなければ防ぎようがない。これも死痕拳の怖ろしいところである。

 ただし当たったのは指先一本なので、おそらく殺すまでには至らない。せいぜい動けなくするくらいが精一杯だろう。

 この怪物が、これだけの攻撃で死ぬとは到底思えないのだ。これも長年の経験による直感である。


(それでもかまわぬ! リーラ様を助ける時間が稼げるのならば…!!)


 全身全霊、乾坤一擲《けんこんいってき》、すべてを死痕拳にかける。

 自分の生がここで終わってもかまわないという気迫が、その一撃を到達させたのだ。

 アンシュラオンは動かない。さすがの彼も少しは驚いたのかもしれない。

 ただじっとアーブスラットの手を見ている。


 しかし、されど、なぜかどうして、それは不思議なことに―――




―――何も起こらない





 たしかに指は届いているはずなのに、アンシュラオンの胸が黒くもならず、爆発もしない。


「なぜだ…! どうして!! 指は刺さっているのに!!」


 指は確実に胸に刺さっている。その感触がある。

 しかしながら何も起きないのだ。

 驚愕に染まったアーブスラットを見て、アンシュラオンは笑う。


「やっぱりそうか。肌の色が変わったし、何かしらやってくると思ったよ。…褒めてやるよ、アーブスラット。こんな生温い大地で、よくここまで武を磨いたな」


 アンシュラオンからすれば、このあたりはRPGで言うところの「初期村のエリア」に近い。

 そんな中でアーブスラットは、スライムを相手にレベルを85まで上げたようなものだ。その努力と武に対する執念には、素直に称賛の言葉を捧げたい。


「種明かしをしてやろう。手をよく見てみろよ」

「これは…!! 黒く…ない!?」


 アーブスラットの右手が普通の肌色に戻っている。死痕拳が解除されているのだ。

 そのうえ何かがまとわりついている。水色をしたネバッとした液体だ。



 手に―――命気。



 胸に到達したアーブスラットの手を包み込むように【命気】が展開されていた。

 命気が増殖する細胞をすべて分解して抑え込んでいたのだ。


「面白い技を使うな。細胞増殖系の技か? 今使っている身体強化スキルもそっち系ってことか。なるほど、それならばたしかに寿命が縮まるかもな。オレからすれば随分と無茶をしているように見えるが…そうしなければお前のレベルではここまで到達できないか。見事な覚悟だよ」

「まさか…なぜ…!! なぜ知っている!!」

「技を知る必要なんてないさ。お前が何かを狙っているのはすぐにわかったし、ダメージを受けた際にそなえて命気を展開させるのは常識だ。ただ、相性が悪かったな。オレの命気も細胞系に強いんだよ。そうだ。オレはお前にとって【天敵】なんだ」


 アーブスラットが細胞を増殖させるように、アンシュラオンの命気も細胞に特化した技である。


 特に―――ガン細胞には強い。


 実際に医者として多くのガン患者を治してきたのだ。ガンならば一秒以内で治せる。こうして本来の力を出せば一秒も必要ない。

 こんな最悪の組み合わせがあるだろうか。スキルを全否定である。

 いや、アンシュラオンからすればアーブスラットは得意とする相手なので、相性が良すぎるのかもしれない。


「そうか…医者だったな…すっかりと忘れていた…」

「そりゃまあ医者は仮の姿だしな。オレだってよく忘れるさ。ただ、お前は冷静さを失っていたな。余裕がなかった。だからオレの誘いにも気付かなかった」


 アーブスラットはとっくに限界を超えていた。思考力も低下していたはずだ。

 覚悟を決めたのはいいが、そこからの動きは実に単調になってしまった。

 いかに必殺の一撃とて、余裕のあるアンシュラオンが見切れないわけがないのだ。

 実際のところアンシュラオンも、わざと大きな隙ができる蹴りを出して相手の攻撃を誘導したのだ。

 いかにも蹴ってくださいと言わんばかりの動作である。誘いであることがわからないはずがない。だからこちらも左手のガードを甘くして、胸に攻撃を誘導したのである。


 その段階でアンシュラオンの勝ちだ。


 あとは心臓の周囲を徹底的に戦気でガードし、周囲を命気で覆うだけである。

 指は刺さっても心臓までは到達していない。切り離した指の一部も即座に分解している。

 ただし、たまたまアーブスラットの技が細胞系だっただけであって、他の攻撃であっても同じように防いでいたはずだ。


「お前の気持ちもわかるさ。ただでさえプライリーラが危険なのに、さらに格上の相手と戦わないといけないんだしな。普通は余裕なんてないさ。オレだって姉ちゃんと戦ったら生き残るだけで必死だ。守る余裕なんてない。たいしたもんだよ、あんたは」


 プライリーラを守るためにすべてを出し尽くした。

 彼女のやり方の範囲内で策を練り、準備をし、サナを捕縛するというデリケートな作業に従事し、そのうえ負けたプライリーラを助けなければならない。

 どれもこれも後始末ばかり。自分が望んだ戦場で万全の状態で戦えるわけでもない。

 奥の手も多大な代償を支払う自己犠牲のスキルばかり。どれを使っても自分の得にはならない。


「誰かのために自分を捨てる…か。羨ましいよ。オレもそれくらいサナを愛せるようになりたいもんだ。…楽しかったよ。名残惜しいがサナが心配だしな。これで終わりにしよう」


 ぐいっとアーブスラットの右手を引っ張り、逆上がりをするように膝蹴りを顎に叩き込む。


「がふっ」


 アーブスラットの脳が揺れ、視界が一瞬闇に包まれる。


 その間にアンシュラオンが包丁を取り出し、一閃。


 膨大な戦気によって生まれた剣気は、ほぼ完全に白に近い色合いとなり、相手を滅する凶悪な暴力へと変貌する。


 横薙ぎに放たれた一撃が―――切断。


 美癌門で強化した肉体すらまったく意に介さず、右腕と胴体ごとぶった切る。


 ブシャーーーッ ドチャドチャッ


 黒い血液と臓器をぶちまける前に―――とどめ。


「はぁああああ!!」


 ドドドドドドドッ パキパキパキパキッ

 アンシュラオンが前方の大気を叩くたびに、空気中の水分が凍っていく。


 あまりに速い打撃と凍気によって周囲が一気に冷やされ、バラバラになりそうなアーブスラットの身体が―――凍る。


 それでもまだ凍結は止まらない。

 パキパキパキパキッ

 さらに大気が凍っていき、次々と氷が生まれてアーブスラットを包みながら宙に浮いていく。



 そして―――高さ十メートルもある氷の十字架に閉じ込められる。



 その姿は磔《はりつけ》にされた聖人を彷彿させる、まさに自己犠牲の象徴であった。



 覇王技、水覇・凍拳十字氷墓《とうけんじゅうじひょうぼ》。


 凍気をまとった高速の連打で大気を凍結させ、相手を氷の十字架に封じ込める因子レベル6の技である。

 相手の身体に直接打ち込めば打撃ダメージも与えるが、こうして少し離して使っただけでも十分な効果を発揮する。

 名前通り【氷の墓標】とも呼ばれる非常に美しい痕跡を残すので、この技を受けて死にたい、あるいはこれを墓代わりにしてくれと願う者すらいるくらいだ。


 氷墓によって細胞が凍結したアーブスラットは、スキルを完全に封じられる。

 自力で復活はまずありえない状況である。



 これによってアンシュラオンの完全勝利が確定した。





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